はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

終盤探検隊 part75 第十代徳川将軍家治

2015年12月30日 | しょうぎ
 これは五代伊藤宗印が編み出した戦法。現代の、1990年代に現われた「立石流」の源流となるような戦い方である。
 五代伊藤宗印は鳥飼忠七という民間棋客(江戸の菓子屋の落とし子だったと言われている)だったが、1763年にまだ20代の将棋家元伊藤家の四代目得寿(三代目宗看の息子)が突然に死んでしまったので、伊藤家に養子に迎えられ、五代目を継いだ。

   [鳴動黄金城]
「こ……これは……これは皇帝詰めの手順に違いない」
「何だと……」
「黄金城の扉を開く鍵の一つが徳川に伝わる皇帝詰だ。徳川はそれを将軍詰と呼んだが、何を意味するのかは悟らずにいた」
   (中略)
「十五手目に香打ちがある。持駒は外界のものだ」
「ええい。今そんな将棋のことなど聞く暇はない。どうすれば黄金城の扉が開くのだ。言わぬか」
 また日天が平田屋の首をきつくしめた。
「詰めるのだ。……玉を。雪隠詰め……」
「ばかな」    
                     (『妖星伝』(五)天道の巻より)



 棋譜鑑賞  徳川家治-五代伊藤宗印 一七七七年

 「左香落ち」の将棋。オープニングに注目。

△3四歩 ▲7六歩 △3三角


▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩 △3二飛 ▲6八玉 △6二玉

 「左香落ち」での“3手目3三角”、この手は五代伊藤宗印が始めた。
 これを同角成なら同桂で、その後はおそらく四間飛車になるのだろうと思われる。同角成と応じた将棋は見られない。
 2六歩には、3五歩。

 この“3手目3三角”の最初の棋譜は、1770年の御城将棋「九代大橋宗桂-五代伊藤宗印戦」だ。

九代大橋宗桂-五代伊藤宗印 1770年 御城将棋
 その将棋はこういう展開になって、4五歩から下手の九代宗桂が仕掛けた。(結果は宗桂勝ち)
 左香落ち“3手目3三角”は、五代宗印の研究していた“秘技”だったのだろう。
 その後、その戦法をさらに進化させていたのだ。 


▲7八玉 △7二玉 ▲4八銀 △4四歩 ▲1六歩 △4二飛 ▲5六歩 △3二銀
▲2六飛 △9四歩 ▲9六歩 △4五歩

 「三間飛車」に。 まだ角道は止めず、6二玉。
 ここで3三角成なら、今度は同飛だろうか。
参考図1
 以下2四歩、同歩、同飛、2三歩、2六飛なら、3六歩、5五角、3五飛、4六角、8五飛(参考図)が予想される手順の一例。
 途中、2六飛に代えて、2八飛なら、3六歩、4八銀、5五角、7七角、3七歩成のような変化となる。
 いずれも形勢は不明。

 実戦は下手が角を換えず穏やかに進める。上手の五代宗印は、7二玉の後、4四歩として、それから4二飛と「四間」に振り戻す。
 そして―――


▲5五歩 △4四飛

 “4五歩”。 これが五代伊藤宗印が編み出した作戦。
 「立石流」に似ている。というか、3二銀に代えて3二金なら「立石流」そのものである。江戸時代から、こういう指し方はあったのである。
 この五代宗印以前には、先代の宗印――二代宗印(鶴田幻庵)――が1699年に一度指した棋譜が残っていて、似た形で「4五歩」を突いている。(その将棋は後でまた触れる)

 “4五歩”に、家治将軍は5五歩と角交換を拒否し、すると宗印は4四飛。


▲5八金右 △4三銀 ▲5七銀 △5二金左 ▲6八銀上 △8二玉 ▲7七銀 △7二銀 ▲7九角

 こう進むのなら、「香落ち」の上手としては“上々”という感触だろう。
 (この二人の将棋以外では)前例のない形。居飛車側がどう指すかが問題だ。
 家治将軍は、7七銀から7九角と、「引き角」に。


△2四歩 ▲同歩 △同飛 ▲同飛 △同角 ▲2二飛 △2七飛
▲1七桂 △3六歩 ▲同歩 △3三桂 ▲2五歩

 ここでは上手にいろいろな手があって、たとえば5四歩も有力だし、3四飛もある。
 実戦は、2四歩と、ここから上手が仕掛けた。ここで戦いになれば、「左香落ち」であることが上手にとって損にならない戦いになりそうだ。
 2四歩、同歩、同飛、同飛、同角――飛車交換になった。


△5七角成 ▲同角 △2九飛成 ▲5四歩 △1九龍 ▲5三歩成 △同金
▲1三角成 △5二銀 ▲5五角 △1七龍 ▲3三角成

 角が詰んでしまった。5七角成と切る。


△1八龍 ▲6五桂 △5四金 ▲5三歩 △同銀 ▲同桂成 △同金 ▲5四歩 △5二金引
▲4四馬 △5七歩 ▲同馬 △6五桂 ▲3五馬上 △4二香 ▲5三歩成

 3三角成で桂馬を取った。この場面で、下手の「銀香」と上手の「角」との交換になっている。それを考えると上手有望な気がするが、下手のほうが飛車の位置が良いので、ここは「互角」のようだ。
 ここで上手宗印は1八竜。良い手に見えるが、ここは1六竜が最善手かもしれない。1八竜に対する6五桂が的確な厳しい攻めだった。
 1六竜に2四馬なら1三銀があるし、6八馬なら3六竜が3三馬取りで調子が良い。よって1六竜には3五馬が予想されるが、それには3一香がある。以下、5四歩、同金、4二馬、1一竜(参考図)

参考図2
 かなり上手が“ひねった手”をくり出しているような手順だが、こういう感じで上手が頑張って「互角」というような、そういう形勢の将棋になっている。
 家治将軍が、上手からの2四歩の仕掛けの後、うまく指したようだ。


△4四香 ▲5二と △5七歩 ▲6八金寄 △7七桂成 ▲同玉 △5五角
▲6六歩 △6五銀

 下手優勢になった。

6五銀
▲6一と △6六角 ▲8六玉 △7四桂 ▲9七玉 △8八銀 ▲9八玉 △8九銀不成
▲同玉 △6八龍

 ここで6七金打と受けて、下手の優勢は維持できていた。
 ところが将軍は6一ととしたので、これで逆転し一気に後手勝勢に。ポカの少ない家治将軍だが、これは何か錯覚があったか。


▲7一銀 △9三玉 ▲8二銀打 △8四玉 ▲7五金

 しかしここではまた、将軍に、“チャンスボール”が来た。(宗印が寄せを間違えたようだ。8九銀不成では9九銀成とし、9七玉に6八竜なら、下手にチャンスはなかった) 


△7五同角 ▲6八金 △6六角 ▲7七桂 △7六銀

 7五金、同角と、王手で金の犠打で角を下がらせれば、6八の竜が取れる。この手段があった。


▲8五金 △同銀 ▲7二飛成

 7六銀は“詰めろ”になっている。
 しかしここで6七金打が正解手で、これで下手良しだった。(その場合の「激指」評価値は[+1483])
 こういう“平凡な手”で勝てるときに、着実にその手を指す――それが実は難しいのである。

 家治将軍は、8五金、同銀と、銀を下がらせて、それから7二飛成。この手はどうだろうか。

7二竜
△8八金 ▲同玉 △7六桂 ▲7九玉 △6八桂成 ▲同玉 △7七角成
▲5七玉 △6六馬 ▲5八玉 △6七金

 7二飛成は“詰めろ”になっている。詰将棋の得意な徳川家治らしい手である。
 7二飛成にたとえば7六桂なら、8三竜、同玉、7二銀(同玉なら8一銀不成以下)、8四玉、8三飛、7五玉、8五飛成、6四玉、6五竜、5三玉、6三竜以下の詰みとなる。
 面白いアイデアだったが、しかし金を一枚渡した罪で、8八金、同玉、7六桂…、以下、先手玉が先に詰んでしまったのである。銀を8五に下がらせても先手玉の“詰めろ”は消えていなかったのだ。
 この先手玉の詰みは難しくない。難しくはないが、自玉の詰み正確にを読むのは、敵玉の詰みを読むよりも大変なもの。

投了図
まで115手で上手五代伊藤宗印の勝ち


三代大橋宗与-二代伊藤宗印 1699年
 この“立石流風の4五歩”作戦は、これより前には“先代の宗印”すなわち二代伊藤宗印(五世名人、前名鶴田幻庵)が一度指したことがあった。1699年のことである。この二代宗印は振り飛車ではこういう軽い仕掛けをよくやった。
 「宗印」の名前を受け継いだ五代宗印(=鳥飼忠七)がこれに磨きをかけて自分の得意戦法に仕上げたのであった。(1699年のその将棋は「四間飛車」でこの形になった。五代宗印流は三間飛車から始まる)

 この後は、5六歩、4六歩、同歩、同飛、4七銀、4四飛、6六角、7四飛、7七銀、3三桂、1四歩、同歩、4四歩、3四角(次の図)と進んだ。


 こういう面白そうな将棋になっている。 しかし勝利は三代大橋宗与に。

 この宗与は大橋分家の三代目で、年下の伊藤家のこの養子に「平手」ではほとんど勝てず、それで伊藤宗印が次の名人(五世)になるのだが、推定で約20歳ほど年下の宗印が1923年に死んでしまったので、その後を継いで六世名人を襲位した。この時に三代宗与が献上した詰将棋本は評判が悪く(余詰めやアイデアの盗用がみられる)、そのために名人としての評判にキズをつける結果となった。
 大橋分家にとっては、「詰将棋」と伊藤家とは、憎き敵なのである。


徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1775年
 同じ展開から、上手五代伊藤宗印の「4五歩」に、下手の徳川家治は2四歩、同歩、1五歩(図)と返した。「左香落ち」であることを下手が生かそうとする攻めだ。


 以下、この図のようになった。これはどっちがよいのか?
 ここから、5八成桂、同金、4七歩成、4四歩、同飛、5二角成と進む(次の図)


 ここで5八となら、上手良し。
 ところが宗印は5二同金と取ったので、7一銀以下の攻めで下手優勢に。そのまま下手の家治が勝ちきった。


徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1776年
 実際にこのように上手から堂々と「4五歩」とされると、下手はどう指すのが正解なのであろうか。(答えがはっきりしないから指す価値があり面白いのであるが)
 5五歩と家治は応じる。それには宗印流は4四飛だ。
 以下、5八金右、3四飛、6八銀(次の図)


 4四角、5六飛、4三銀、5七銀右、3三桂(次の図)


 ソフト「激指」はここではほぼ「互角」の評価。しかしこれは「左香落ち」で初形で[-250]だったのが「互角」なので、厳密にはすでに上手が“うまくやった序盤”ということになる。
 このままだと上手の陣形はさらによくなり、下手の陣形は一応これが完成形でこれ以上は良くなる手がない――とすれば、ここで“戦い”にするのが正しい。
 家治将軍は、1四歩、同歩、1六飛から、1四飛で、飛車交換で“戦い”に持ち込んだ。


 以下進んで、この図になった。いま、下手の3九歩に、2九にいた竜を2八に引いたところ。
 ここで下手が“正解手”を指せば、下手が有利の分かれだった。
 “正解手”とは、2九歩である。
 攻め将棋の将軍は、ここで9三桂と攻め込んだ。しかし5七と、8一桂成、同玉、9三歩成、同歩、同香成、同香、同角成、6八と――
 上手が押し切って、勝った。


徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1777年
 振り飛車の「4五歩」に、下手の家治将軍は、2四歩(図)
 以下、同歩、3三角成、同桂、2四飛、2三歩、2六飛、3六歩、7七角、4六歩、同歩、同飛、4七歩、7六飛、8八銀、9五歩、同歩、9七歩(次の図)


 3六歩、7四飛、3五歩、5五角、3七桂、3六歩、同飛、7七角成、同銀、2七角、9六飛、5四角成(次の図)
 「四間飛車」からの“横歩取り”だ。


 形勢は「激指」によれば、下手良しだという。評価値は[+800]くらい。


 さらに約20手ほど進み、この図になった。ここが重要な場面だった。
 ここで“失着”を下手が指したので、形勢はもつれた。
 ここは3三成香が正着だった。3二歩なら、4三銀がある。
 家治は4一成香としたので、3二歩と打たれ、飛車が使えなくなってしまったのが痛い。

 それでも次の下手の5五銀が好手で、形勢は不明。将軍はこの手に期待していたのだろう。
 5五銀、8四香、5四銀、同馬、7六歩、8五銀、9七飛、7六銀で、次の図。


 ここで7六同銀、同馬、7七金なら下手良しではないか。以下、5四馬に、5五歩、4三馬、3四銀(参考図)

参考図3
 この銀を取れば3二飛成が絶好だ。こうなれば下手良さそう。ただし図以下、3四同馬、3二飛成、5二馬に、3四角(4三角は2一銀で難しくなる)で、下手有利とはいえ、まだ互角に近い形勢。そこで2一銀には、5二龍、同金、8九玉で、下手良し。
 
 これはこれで大変だが、この順を選ばず3四角と攻め合った本譜は上手優勢になった。


 ところが上手も失着を指したので、、またこの図では下手にチャンスが訪れている。
 ここで“正着”は、2九金。
 2九金に3六飛成なら、7五銀と敵玉を包囲すれば下手勝ち。6九馬も3八金で下手良し。
 (ただし、4八飛成、同金、6九馬、5一馬、7四玉、3四飛、4四歩、3八金打で、これは形勢不明)

 家治将軍は「勝ちだ」と思ったのだろう、7五金と指した。“玉は包むように寄せよ”だが…


 しかし5七桂不成(図)。 下手玉に“詰み”があった。
 徳川家治の“とん死負け”となった。


 以上、「五代宗印流三間飛車」の将棋を紹介した。
 徳川家治は、この“五代宗印流”の三間飛車に対し、“4六歩”とする将棋もよく宗印を相手に指している。
 その場合の“五代宗印流”は次のような指し方になる。

徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1777年
 今、下手の家治将軍が1四歩から仕掛けたところ。
 対して上手の五代宗印は、3六歩(図)。同歩に――


 4五歩。これが「五代宗印流三間飛車」である。これはよく見るふつうの指し方であるが、宗印は相手の4六歩型にはこういう指し方をしていた。

徳川家治-五代伊藤宗印(左香落ち) 1775年
 「四間飛車」の場合は、下手が早めに3六歩を突くと、立石流風の構えには上手はできない。
 その場合の“五代宗印流”は、この図のように「4五歩」である。

 この「四間飛車4五歩」の指し方は、もっと古くからある。やはり伊藤家の先代(二代)宗印が得意にしていたし、伊藤看寿も何局か指した棋譜を残している。
 角交換を歓迎する、という指し方である。(昭和時代は相手が棒銀で来たときには、振り飛車から4五歩として角交換を求めるという指し方はわりとよく見られた作戦。しかしこれほど早く4五歩と振り飛車から角道を開ける作戦は少ない)


 その五代宗印の「四間飛車4五歩」に対しては、家治は角交換をせず、5七銀~2六飛として、そこから3五歩、同歩、5五歩と、図のように仕掛ける。
 徳川家治、五代伊藤宗印、伊藤寿三の研究チームは、この仕掛けを熱心に研究していたようだ。
 この将棋は図以下、5五同角、同角、同歩、2四歩、同歩、2二角(香落ちだとこの手は無効)、4四角、2四飛、2二角、同飛成、5六歩、6六銀、3六歩と進む。

伊藤寿三-徳川家治 1776年
 振り飛車が「向かい飛車」で来たときには、「引き角」にする。初代大橋宗桂の時代から指されてきた指し方である。
 「向かい飛車」側から2四歩と仕掛けられるのが嫌で、だから「引き角」にするのが江戸時代では常識だったようだ。また、振り飛車が三間や四間に振っていても、居飛車側が「引き角」の作戦を採れば、今度は居飛車側から2四歩があるので、やはり「向かい飛車」に構え直すことになる。
 というわけで、「引き角vs向かい飛車」という戦型は、避けられない戦型でもあったのである。
 だから当然、家治、五代宗印、寿三のグループもこれを研究した。

 図から、3二飛、3四歩、同銀、3六歩と進んだ。
 3六歩が伊藤寿三のアイデアで、これがなかなか面白い手だった。こうしておいて次に3五銀と行こうというのである。(後の棋譜では家治が五代宗印を相手にこの寿三流を採用している)


 こうなってみると、これは居飛車が有利の分かれになっている。


 このように将軍・伊藤家の熱心な将棋研究グループがあり、もう一つ別に大橋宗英の研究グループがあった。
 メンバーは、大橋宗英、井出主税、大津五郎左衛門、毛塚源助など。
 宗英は父である大橋分家の五代目当主宗順の後を継ぐ予定の若者。1778年に23歳で御城将棋デビューをした。その相手は五代大橋宗印で、宗印の「角落ち」だった。宗英が勝利した。

 大橋分家にとって、伊藤家は、「絶対に倒すべき宿敵」であった。
 大橋分家には、詰将棋と伊藤家(二代宗印、三代宗看、看寿ら)に痛めつけられてきた歴史がある。

 “次の五代伊藤宗印との戦い”に備えて、宗英グループも研究を重ねていたことだろう。
 1779年の2月、また五代宗印との対局が決まった。今度は「香落ち」だ。
 「左香落ち」なら、宗印は振り飛車で来る。だから五代宗印の振り飛車への対策を研究しただろう。

大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち) 1779年
 その“決戦”で、大橋宗英が用意した作戦は、いままでに見たことのないものだった。
 「鳥刺し」である。

 ここで我々は初めて気づいたのだが、この戦法を「鳥刺し」と呼ぶようになったのは、これは鳥飼忠七(五代伊藤宗印の前名)を倒す(=刺す)ために、編み出された戦法だったからではないのか。


 次回 part76ではこの将棋の1779年「大橋宗英-五代伊藤宗印戦」の棋譜鑑賞をする。
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終盤探検隊 part74 第十代徳川将軍家治

2015年12月26日 | しょうぎ
 江戸時代の「相居飛車」で、もっとも流行った戦型が「左美濃」の戦型である。
 これは(後手番ならば)3三角という角の位置で、図のように「高美濃」にして囲いは完成である。
 この「左美濃」作戦は、1768年の御城将棋で登場し、以後、大人気戦法となった。

 
   [妖怪長者]
「それは紛れもない黄金だった。当然儂は出どころを尋ねた。元助ずれが持っていてよいものではないからな。どこからか盗んだのだと思っていたのだ。しかし、元助は夢を見たのだといい張った」
「夢を……」
「そうだ。黄金をもらった夢を見たそうなのだ。そして儂の声で目が覚めたら、本当に夢で見た通りの黄金を握っていたというではないか」
 代官は遠くの山の頂を見ながらいった。    
                     (『妖星伝』(四)黄道の巻より)



参考図
 「相居飛車」の「左美濃」は、“7八銀”の手から出発する。(矢倉なら7八金だが、それだともう「左美濃」にはならない)
 江戸時代の後半期にこの「左美濃」は大活躍をするのだが、それはこの参考図から6七金とする「高美濃」の形。これによって上部が厚くなる。
 この参考図の平美濃の形は面白い陣形で、ここから6七銀とすれば「雁木」になるし、6七金のあと、6八角~7七銀~7八金で、「矢倉」に変身することも可能だ。
 そう考えると万能な、素晴らしい構えなのだが、7、8筋を攻められたときに7八銀型ではまずい場合もある。
 具体的には、後手から「6四銀7二飛型」で、7五歩とする袖飛車棒銀に来られたときの対策を考えておく必要がある。その時にもっともよい対応は7七銀型の矢倉なのだ。江戸時代前半期のの棋士達はだいたい「雁木」が好きだったが、6四銀から袖飛車を見せられると、しかたなく「矢倉」にしていたという事情がある。
 「囲い」というのは、相手の攻めとの問題もあるわけで、自分の好みだけの問題ではないのである。相手が玉の囲いを後回しにしてまで「6四銀7四歩7二飛」と袖飛車で攻めてきたら7七角型はつくりにくいが、しかし相手が玉の囲いに手をかけるのなら、こちらも余裕ができるわけで、好きな囲いを選択できる。
 つまり、相手が自陣の「左美濃」や「矢倉」の囲いをつくるのに手をかけている間は、こちらも好きな囲いが組めるわけで、この参考図の7七角7八銀型で問題はないわけである。

伊藤印達-三代大橋宗与 1709年 
 相居飛車戦で「左美濃」が最初に登場したのは、1709年。「雁木vs左美濃」。
 後手の三代大橋宗与が最初にやった。「腰掛銀」との組み合わせで使った。
 (この場合は8四飛型だが、これを6二飛型にして右四間にすればこれは現代でも見られる型である)

[後日追記]この将棋よりも先に1695年三代大橋宗与—二代伊藤宗印戦で「雁木vs左美濃」が先に出現している。これは平手戦で、後手番の二代伊藤宗印が左美濃に構えている。これが「史上初の左美濃」ということに訂正させていただく。ただしこの場合の左美濃(平型)は、相手の袖飛車の攻めに対応して成り行きでそうなったという感じ。
三代大橋宗与と二代伊藤宗印は次期名人の座を争っていた。


伊藤看寿-八代大橋宗桂 1736年 御城将棋
 次に1739年の御城将棋で出現。伊藤看寿の「左美濃」。今度は「左美濃vs矢倉」だ。
 この2つの例は、いずれも“平美濃”だった。

大橋宗順-九代大橋宗桂 1768年 御城将棋
 そして1768年の御城将棋で、九代大橋宗桂が見せた“高美濃型”の「左美濃」作戦。
 この将棋が「左美濃戦法」の出発点となった。
 大橋分家の宗順と、大橋本家の期待の若者印寿(九代宗桂)の対戦。宗順36歳、九代宗桂25歳。(御城将棋のキャリアとしては年下の宗桂が10年先輩で、この対局は「右香落ち」である)

 今、囲いを完了させた上手が5五歩と攻めを開始したところ。以下、同歩に、4五歩、6七金、5五角、3七銀、4四銀と進む。
 これを見ても、「矢倉」は完成させるのに手間がかかることがわかるだろう。


 5二飛と中飛車にして、上手の九代宗桂は中央にねらいを定める。図の4四銀型がこの「左美濃戦法」の一つの理想形である。


 8二角と引いた手に対し、1六歩、2二玉と進み、そこで下手は5六歩と打ったが、上手は5五歩とすぐに歩を合わされて、同歩、同銀で、銀を進出させてきた。ここで5六歩と打っても取られてしまうだけなので、1五歩、5六歩、5八歩となり、上手の銀に中央で威張られる形になってしまった。
 この図で、下手は3五歩とすべきではなかったか。3五歩、同歩、同角に4四金なら、6八角と引いて、5六歩に、3六銀から銀を使って決戦だ。


 中央に銀を居座られて、6筋から攻められ、そのまま攻めつぶされてしまった。
 「左美濃戦法」がデビュー戦を大勝利で飾った。

大井中務少輔-大橋宗順 1768年 御城将棋
 将軍徳川家治は御城将棋に「お好み」というものを持ち込んだ。御城将棋の対局は、当初は実際に江戸城で初めから終局まで指されていたが、その日の定刻までに終了しない対局も出てきて問題になり、やがて、御城将棋の日よりも前に実際の対局を行って、当日(毎年11月17日)は儀式的に並べるだけになっていた。家治将軍は、その残りの時間で、○○と○○とで対局してみよと、人物を指名して別の対局を新たに要求したのである。それを「お好み」と称した。
 この対局「大井中務少輔-大橋宗順戦」は、そうした「お好み」の一局である。上の九代大橋宗桂と戦った大橋宗順が同日にまた指している。
 面白いことに、いま、九代宗桂の「左美濃」に完敗した宗順が、すぐに「左美濃」戦法を採用している。
 2四歩、同歩、同角に、宗順はこれを同角とせず、2三歩と打った。3三角成に、同玉。この玉は2二に入城するのだが、これで後手は「手得」になる。ただし、これは相手(この場合は下手)に、角交換をせず6八角と引く(飛車先の歩を切ったことでよしとする)という選択権を与えることになるのであるが。


 その将棋は、こういう図になった。下手は「矢倉」を完成させ、馬をつくった。そして上手宗順は玉方の桂馬を使って攻めてきた。
 図で下手は5八歩だが、上手はいったん5三飛とした後、3五歩~3六歩と、3筋から攻めた。
 そして、50手ほど進んで、次のような図になった。


 この相居飛車の「左美濃」の将棋は、相入玉の持将棋になることが実は多かった。とくに本局のような「右香落ち」だと、下手が上部に「馬」をつくるともう、下手がその気になれば入玉は難しくない――というケースが多い。
 ただし、この将棋は宗順が敵玉を逃がさず捕まえ、勝利した。

大橋宗順-五代伊藤宗印 1769年 御城将棋
 翌年の御城将棋では、五代伊藤宗印が宗順を相手に、「左美濃」を採用。
 「腰掛銀型右四間vs左美濃」というこれまた新しい型に。(最近の棋王戦挑戦者決定戦「佐藤天彦-佐藤康光戦」がこの戦型になった)

指了図
 大橋分家vs伊藤家という因縁の熱い対決は、138手で、持将棋に。
 「相居飛車」の将棋が増えるにつれ、持将棋になる将棋もこの頃から増えていった。

曲淵甲斐守-九代大橋宗桂 1776年 御城将棋
 1776年の御城将棋の「お好み」。
 下手は7八銀型、上手は3二銀型である。「左美濃」が人気戦術になってきていることが感じられるだろう。
 上手の九代宗桂は、8六での角交換はしなかった。7五で歩交換をして、7六歩に、8四角と引いた。この角は「矢倉引き角」なら本来は4手で移動できる位置なのだが、こうやれば3手で移動できる。(これを最初にやったのは1757年三代宗看)
 一方の下手(曲淵氏)は、3六歩から3八飛と袖飛車にし、3五歩。3筋で歩交換。
 相手がそう来るなら、上手は3三銀として「矢倉」に変化させる。


 このような戦いになった。上手は「矢倉」だが、ほとんど囲いはできていない。しかし攻めの準備は十分だ。
 家元(将棋御三家)の貫録を九代宗桂が見せ、勝利している。

 こうしてこの時代のこの戦型の将棋を並べて眺めるだけで、「左美濃」の出現によって、「相居飛車」の将棋がバラエティに富んだものになってきていることが感じ取れたのではないかと思う。
 この戦型は、角交換になるかどうかもわからないし、どんな戦型になるか、やってみなければ予測のつかないような、そういった面白さがある。「相矢倉」への移行もその一バリエーションなのである。


 以下、この型の、次の3つの棋譜を鑑賞する。

  1 徳川家治-五代伊藤宗印 1777年
  2 徳川家治-五代伊藤宗印 1779年
  3 大橋柳雪-深野孫兵衛 1817年


 棋譜鑑賞1  徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 一七七七年

 徳川家治は1775年より、伊藤家の五代目当主の宗印(前名鳥飼忠七)、寿三(看寿の息子)を江戸城に呼び、将棋を指している。
 家治将軍には「将棋であいつを倒したい」というようなライバルとなるような敵はいなかったであろうから、これは「研究将棋」のような、そういう色合いのものだったであろう。つまり将軍と伊藤家の将棋研究会である。
 
 家治将軍は「おもしろい」と思ったら素直にそれを取り入れ、研究する。
 1768年に御城将棋に現われた新戦術「左美濃」も、当然研究対象となる。

△8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩 ▲7八銀 △4四歩
▲2六歩 △3二銀 ▲2五歩 △3三角


▲4八銀 △5二金右 ▲5六歩 △5四歩 ▲3六歩 △4三金 ▲5八金右 △4二玉
▲3七桂 △3一玉 ▲6八角

 宗印上手の「右香落ち」であるが、この将棋は下手家治が「平手」のような意識で駒組みを進めていく。「右香落ち」の将棋は、下手が飛車を振らなければ、だいたいは「相居飛車」戦になる。
 9一に香車がないことを除いて「同型」に進んでいる。先手は「7八銀型」であり、後手は「3二銀型」。これが、新戦略「左美濃」の特徴である。下手も上手も、それを意識しつつの序盤の駒組み。


△2二玉 ▲7七銀 △6二銀 ▲1六歩 △1四歩 ▲2四歩

 上手は4四歩から4三金と形を明らかにしてきた。
 それを見て下手は、6八角。これでいつでも2四歩と角交換ができるし、それが下手の権利になっている。
 ここで上手が4二角として、それに対して下手が7七銀から矢倉をめざし、上手も3三銀から同様に指せば、「相矢倉」となる。その形はこの二人はすでに何度か指している。(前回の報告part73参照のこと)
 この戦型は、どちらにも選択肢が序盤に多く、それが面白くて流行ったのだろう。

 下手の徳川家治は、7七銀と8筋を受けておいて、2四歩と行った。


△2四同歩 ▲同角 △同角 ▲同飛 △2三歩 ▲2六飛 △5三銀
▲6八玉 △6四銀 ▲5七銀

 上手も、3三角型左美濃のままで戦うのが基本戦術。2四歩から角交換に来るならどうぞ来ればという態度である。この戦型の半分以上はこうして角交換将棋になる。


△7四歩 ▲6六銀右 △7三桂 ▲7八玉 △6五桂 ▲8八銀 △8六歩
▲同歩 △同飛 ▲8七歩 △8二飛 ▲1五歩 △同歩 ▲1四歩

 角を持ち合って、「矢倉」の側はこのように“浮き飛車”(2六飛)で構えることが多い。
 下手は角と歩を手に持って桂馬を跳ねているので、いつでも1五歩からの攻めはできるが、上手がもう「高美濃囲い」を完成させて十分なのに対し、「矢倉」の完成はまだ手間がかかる。そのバランスが問題である。
 そこが「左美濃」側の付け目で、「左美濃」は組むのに手数がかからない魅力があり、組み終わった以上はもう戦いを始めたい。

 上手宗印7四歩。次に7五歩からの攻めがある。
 下手家治は、それを受けて、6六銀右。
 「あとは攻めるだけ」の上手は7三桂。7八玉に、6五桂。
 もう下手は「矢倉」と完成させるひまはない。家治将軍も1五歩から攻めていった。
 江戸時代、「雁木」「左美濃」が人気だったのは、このように、結局「矢倉」にすると、それを組み終わる前に相手が攻めてきて戦いになることが多いからだろう。やっぱりみんな、先に攻めたいのだ。


△5五歩 ▲3五歩 △同歩 ▲5五歩 △3六歩 ▲同飛 △2七角

 図の1四歩を同香なら、2五角がある。これだけで手になっているが、問題は、上手も角を手に持っていることである。それをいつ、どう使ってくるか。


▲2六飛 △3八角成 ▲2五桂 △3七馬 ▲5六飛 △5七歩 ▲6八金寄 △4七馬
▲2六飛 △1四香 ▲3三歩 △同桂 ▲1三角 △1二玉 ▲3三桂成

 ここから、変化が多く、我々(終盤探検隊)も調査しきれない。
 3六歩、同飛とさせて、2七角(図)と五代宗印は打ってきた。ここからが中盤の難所で、失敗するといっきに敗勢になることもよくある。家治は2六飛と指したが、3五飛または4六飛という選択もあった。


△3三同金 ▲4六角成 △同馬 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △8七歩
▲同銀 △9五桂 ▲9六銀 △8八歩 ▲9五銀 △8九歩成 ▲2五桂 △9九と
▲1三歩 △2二玉 ▲3三桂成 △同銀 ▲6五銀 △同銀 ▲4三角
 
 3三歩、同桂、同桂成となったが、この瞬間、1三の角が浮いている。だからここで1三玉と角を取れる。その場合、家治はどう指す予定だったのか。1三玉に、たとえば4三成桂、同銀、3五桂、3四銀、3三金、2五角、3六歩、3二金(参考図)

参考図1
 どうやらこれは上手良し。下手は右銀が攻めに参加していないので、攻めが細い。攻めが止まると、不利になる。1三玉なら、下手不利だったようだ。

 実戦は、どういう読み、どういう思いだったかはわからないが、上手宗印は3三同金とし、以下4六角成、同馬、同飛で、再び角交換。 
 手番を得て、上手は8六歩から、攻めた。歩はたっぷりと持っている。


△8九角 ▲7七玉 △7三桂

 進んで、こういう図になった。さて、形勢判断は?
 ソフト「激指」によれば、図の4三角では、2五桂と打てば、先手が良いらしい。
 しかし4三角は6五の銀取りで、だからこれを打ちたい気持ちはよくわかる。4三角もよい手なのだが、ここでは後手に、優位に立つ“好手”があるのだ。

参考図2
 7五桂と打つ手である。同歩に、8九角、7七玉、7六香、同飛、8八銀、同玉、9八角成、7七玉、7六馬、7八玉となり、後手優勢。

 しかし五代宗印には7五桂は見えていなかったようだ。8九角と指し、7七玉に、7三桂(次の図)


▲5七金 △3二銀 
 この7三桂もセンスのある手である。6五銀取りを受けつつ、これは8五桂打以下の“詰めろ”になっているのだ。
 その“詰めろ”を見破った家治は、5七金。逃げ道を開けた。


▲3四桂 

 そこで3二銀打と宗印は受けた。手の流れとしては感触が良いが、どうもここは3二金が正解だったようである。(銀を手に持って攻めにつかうべきところだった)

参考図3
 3二金なら、後手が良かった。
 以下予想される手順は、1二歩成、3一玉、6一角成、5六歩、4三桂、同金、同馬、7六銀、6八玉、5七歩成、同玉、4五桂(次の参考図)

参考図4
 4五同飛に、6七角成からこの先手玉は詰んでいるようだ。
 とはいえ、この詰みを読み切るのは相当大変だし、だから五代宗印が3二銀打と受けたのもよく判る。(伊藤家は伝統的に詰将棋を得意とする家風だったが、この五代宗印はそれが苦手だったかもしれない)

 3二銀打には、家治将軍の次の手が勝利の“決め手”になった。


△3四同銀 ▲同角成 △5六桂 ▲4四馬 △3三銀 ▲同馬 △同玉
▲2五桂 △3四玉 ▲4五銀

 3四桂が、“決め手”である。
 本譜はこれを同銀と取ったが、3一玉なら、下手はどう攻略するのか。
 おそらく将軍は、4四飛と指したのではないだろうか。
 3一玉、4四飛、4三銀、同飛成、7六銀、6八玉、5六桂、5八玉(参考図)となって…

参考図5
 これで下手が勝ちとなる。

投了図
まで112手で下手徳川家治の勝ち

 複雑な終盤を、家治将軍が制した一局。


 このように、伊藤家の五代宗印、寿三と、徳川家治将軍は、1775年から1800年までの間、よく将棋を指している。将軍の熱中ぶりがうかがわれる。
 そしてその一方で、この時期の別のグループの盛んな将棋研究の棋譜も残されている。

井出主税-大橋宗英 1777年
 大橋宗英のグループである。
 大橋宗英は大橋分家の当主(五代目)宗順の息子で、庶子だったが、将棋が強いというので呼び寄せられたようである。
 この宗英の指したおそらく稽古将棋であろう棋譜が、後に多く人の目に触れられるようになったのだが(宗英の死後に分家の門弟たちが手合集を出した)、その棋譜は1777年~1780年のものが多い。
 その中に、「相居飛車左美濃」の戦型の棋譜が多くある。かれら宗英のグループもまた、この形に強い興味をもっていたのである。
 この図は、先手番の井出主税が4五歩と仕掛けた図だが、「相左美濃」の戦型である。しかも先手井出の陣形がおもしろい新工夫である。角道を止めず「平美濃」のまま、さらに5七の銀を6八に引いて金銀四枚で固め、そして4五歩で決戦だ。
 大橋宗英はこの1777年、数えで22歳。まだ御城将棋には出勤していない。大橋分家にとっては、伊藤家というのは、「絶対に負けられない相手」であった。五代伊藤宗印や大橋本家の九代大橋宗桂と戦うために、この分家の若武者が爪を研いでいたのである。


 棋譜鑑賞2  徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 一七七九年


 これは1779年の棋譜。今度は下手の家治は7八金型である。これなら「左美濃」の選択肢はない。しかし8筋が堅くその安心感がある。


 上手はやはり「3三角型左美濃」で、2四歩から角交換へ。(もちろん2四歩からの角交換をしないという指し方もあるのだが)
 交換した後、やはり家治は2六飛と浮き飛車にし、3七桂と跳ねた。


 この将棋は角交換の後に、上手も「矢倉」に組んできた。(左美濃のまま3三桂と跳ねる指し方もよくみられた指し方)
 いま、6五歩、同歩、7三桂と、上手が攻めの姿勢を見せてきた。戦いだ。
 家治はここで8四角と打った。6三飛に、6六銀右、6五桂、6八銀、4八角、2七飛、3九角成、2五桂と進む。


 ここで4二銀と引けば、次に8三飛から角を捕獲される手があり、下手が困っていたところ。
 宗印はそう指さず、2四銀と指した。以下、6四歩、同銀、5一角成、3八馬、2六飛、8六歩、同歩、8五歩。8五同歩なら、8六歩のねらい。
 家治は5二馬とし、宗印7三飛。


 そこで6五銀と家治は桂馬を取った。危険だが、積極的な、この将軍らしい手である。
 6五同銀に、7七桂が将軍の狙いだが、上手から6六歩がある。金取りを放置して下手は6五桂。以下、7二飛、6三馬、6七歩成、同銀(次の図)


 下手が自らの陣形を崩しながら、攻めている。だいたいこういう攻めは無理気味で、上手がうまくやれば、勝ちになる将棋である。
 実はこの瞬間がポイントだった。飛車取りなので、7一飛というように逃げるのが普通であるし、実戦でも上手はそう指した。すると5三桂成が入り、次にまたこの対応を上手は考えるところとなる。
 つまりここで下手側は指したい手が2つある。7二馬と、5三桂成である。“両取り逃げるべからず”と同様の理屈で、これを上手が放置すれば、その両方を指すことはできないのであるから、ここは放置して攻めるのが最善手となるのである。攻めの手がない場合はしかたないが、ここではある。
 8六歩。これが正解手なのだ。以下、7二馬なら、6六歩(参考図)

参考図6
 8六歩で一歩を得て、6六歩と使う。6六同銀には、4八馬が、飛銀両取りだ。働きの鈍かった馬を使えれば、上手の攻めは切れることはない。


 実戦では、宗印は7一飛と逃げ、家治は5三桂成。以下、8六歩、4三成桂、同金、5二銀で、この図である。
 ソフトで調べても、ここは形勢がよく判らない。
 実戦は、宗印が4二金と指し、以下、4六桂、4五銀、6二馬、8一飛、4四馬となって、これは下手優勢になった。
 はじめ我々は、宗印の指した4二金がまずく4二金打と指すべきで…と考えていたが、4二金打としても、4三銀成、同金、5三金とからまれると、また次の手がわからない。おそらく宗印はこの変化よりも4二金のほうが良いと思ってそう指したのだ。しかし4六桂に対する4五銀では、上手に勝ちは出ないようだ。だから4六桂に、3一飛という受けは考えられるが、それも形勢不明である。
 図からの最善手順は、8七銀、7九玉、4二金、4六桂、3一飛、6二馬、4五金のような手かもしれない。
 つまりこの局面は、上手に「勝ち」があるかもしれないが、まったくないかもしれない、という不明の局面なのだった。
 数手前に、上手が“8六歩の決め手”を逃しただけで、これほどの混戦になるのである。


 さて、実戦の将棋は、6二馬~4四馬と進み、今、上手宗印が3三桂と受けたところ。
 下手優勢になっている。さて、3三桂に対する最善手はなんだろうか。
 答えは、4五馬である。これは同桂があるので考えから除外しそうだが、4五同桂なら、3四桂以下後手玉は3手詰である。
 ところが将軍は間違えた。3四桂と指し、同銀、同馬…(次の図)


 ここで2五桂(参考図)なら、また“逆転”していたのだ。

参考図7
 この図からは4三銀成などで、まだ勝負はこれからの将棋だが、しかし上手に分のある形勢のようだ。
 まったく…将棋は逆転のゲームである。勝ちきるのは、たいへんだ。


 実戦は、上手はその手(2五桂)を逃したので、下手の家治将軍の勝ちになった。
 前の図から、8七金、7九玉、7八金、同銀、8七歩成に、3三桂成、同金、同馬、同銀、3二金(図)。
 以下、3二同玉、4三銀、2二玉、3二金、1二玉、2三飛成、同玉、3三金、同玉、3四金、2二玉、2三銀まで、122手で徳川家治の勝ち。

 この将棋は、上手の五代伊藤宗印に“切れ”が足らなかった印象である。
 五代伊藤宗印ももうこの年には52歳になっていた。江戸時代の平均寿命は40歳くらいであり、伊藤家も“六代目”のことを考えておかねばならなかった。
 5年後に、松田印嘉という17歳の男子が、養子として伊藤家に入ることになる。これが後の六代伊藤宗看であり、ずっと後1825年に江戸期最後の名人(十世)となった。

 しかしこの五代宗印よりも4つ年下の徳川家治が先に没することになる。没年は1786年、享年50。
 五代宗印は1793年まで生きて、61歳で没している。


 相居飛車戦での「左美濃」は、以後、江戸時代が終わるまでずっと流行戦型だった。
 その一つとして、次の1817年の棋譜を紹介する。

 棋譜鑑賞3  大橋柳雪-深野孫兵衛 一八一七年

 大橋柳雪は江戸期の将棋指しとしては有名人である。
 ここでは「大橋柳雪」としているが、しかしまだこの時は中村英節という名前で、23歳だった。
 元は中村喜多次郎という名で、大橋分家の養子となり、英節となり、将来の大橋分家の当主(八代目)を期待されていた。二代目宗英をさらに襲名するのだが、その後に自ら申し出て大橋分家を廃嫡となり、下野する。
 名を柳雪と変えて、「大橋柳雪は強い」と評判になったのは、実はその後のことである。


 先手柳雪が「矢倉」、後手の深野孫兵衛が「左美濃」。
 今、先手から2四歩、同歩、同角。ふつうはこれで角交換だが、深野が2三歩と打ったのがこの図。
 ここで3三角成、同玉で、「手得」する意味の2三歩だが、先手の柳雪は6八角と角を引いた。こういうパターンもあるのである。


 それで、こうなった。この後手の陣形は「左美濃戦法」の理想形といえるだろう。
 ここから、7九玉、4二角、8八玉、7四歩と進む。後手の狙いは、7五か、6四角だろう。
 その機先を制して、先手から4六歩と仕掛けた。


 以下、6四角、3七銀、4六歩、同角、5五歩、6五歩、7三角、4八銀、4五歩、3七角、5二飛(次の図)


 6四歩、同角、4七銀、7三角、6六銀、5六歩、6四歩、同角、5六銀、8六歩、同歩、8七歩、同金、3七角成、同桂、8五歩、6四歩、同歩、6三角、8六歩、7七金、4六角、3八飛(次の図)


 ここで5六飛、同金、4七銀という攻めが見える。それは後手としても細い攻めなので、その前に後手深野は、6五歩、5七銀、6六歩、同銀として、6筋の歩を切って攻めに使えるようにした。
 実はこの図では、もう一つ、5六飛、同金、8七銀という攻めがあって、これも有力。当然これも先手柳雪は受けを考えていてこの局面に誘ったと思われるのだが、実際にどう受けるつもりだったかは不明である。その変化の研究も面白そうだが、ここではやめておこう。
 実戦の進行のその終盤がまた、超絶に面白いのだ。
 6五歩、5七銀、6六歩、同銀、5六飛、同金、4七銀(次の図)


 4七銀(図)に、4六金、3八銀成、4五桂、6八飛と進んだ(次の図)


 6八飛に代えて5八飛だと7八金とされ後手続かない。4八飛、7八金、4六飛成は、6四角が王手飛車だ。
 (深野は、5六飛と攻める前に、6筋の歩を切ったが、その手を指さないで6四に歩があるままにしておけば、この王手飛車はなかった。その変化なら4八飛~4六飛成で、ソフト「激指」は[-425 後手有利]となるのだが…)
 6八飛と打てば、7八金はない。(6六飛成があるから)
 だから柳雪は7八飛と受ける。そこで深野、6七歩(次の図)


 これが後手が飛車切りの前に6筋の歩を切った意味。これが深野のやりたかった攻めだろう。
 柳雪はどう受けたか。
 なんと、6八飛成、同歩成。あっさりと交換し、8二飛と打った。これ、自玉は受かるのか!?


 以下、5八飛、5九歩(図)と進む。
 後手の5八飛で、代えて4八飛だと4一角成、同玉、1五角で先手勝ち。
 だから5八飛だが、5九歩が、おそらくは柳雪の“用意の受け”。
 これを同となら、7八金で、以下6九と、7七玉は、先手優勢。
 したがって、5九歩は、同飛成。
 そこで柳雪の指し手は8六飛成。


 これが柳雪の将棋だ。(実はこの8六飛成では、4一角成、同玉、2二金で先手に勝ちがあるようだが、柳雪はこの“受け”を軸にこの終盤を組み立てているのだろう)
 柳雪の将棋によって、「受けの妙技とはこういうものだ」と、江戸の人々は、将棋は攻めだけでなく、“受け”もおもしろいのだと知った。

 ここで後手の深野孫兵衛は4二歩と受けた。(この手に代えて7九竜の変化を後で検討する)
 以下、8一竜。


 4二歩が“敗着”になったようだ。
 8六歩としても、今度は同金と取られる。7九竜は、8七玉、8九竜、8八歩で、やはり先手良し。
 想像だが、ここで後手深野は相当長考したのではないか。そして考えたあげく、指した手は1四歩。
 以下、2四桂、同歩、2三歩(次の図)


 後手深野孫兵衛、投了。 先手中村英節(大橋柳雪)の勝ち。
 凄みのある勝ち方である。

参考図8
 先手8六飛成の時に、(4二歩に代えて)後手7九竜(図)の変化が気になるので、これを検討する。この変化がきわどいのだ。
 我々終盤探検隊が検討し、その結果、7九竜に対しては柳雪がこう指したであろうと予想した手順は次の手順である。

 7九竜には、9八玉と逃げる。そして、7八とに、2四歩である。

参考図9
 ここで8八歩なら、2三歩成、8九歩成、4一角成、同銀、2二金、4二玉、8二竜以下、後手玉詰み。
 2四歩は2三歩でだめ。
 よって、後手はここで5二歩と受ける。
 以下、8一竜、8五歩、同竜、2四歩、7四角成(次の図)

参考図10
 こういう手順が柳雪の読み筋だったのではないだろうかと、予想する。
 7四角成で、後手がここで8八歩のような手で来たときに、上部へ逃げやすくしている。また、このままなら5六馬で受けきる手がある。
 ここで後手の有効手が見当たらない。ここから、7七と、同銀、7八金、2三歩、同銀、1五桂は先手良しである。

 柳雪が現れて、“受け”の技術が進化したと言われている。


【その後の左美濃戦法】

 相居飛車の「左美濃」の戦型は、おそらくは明治時代も実際にはよく指されていたのではと思われるのだが、明治時代は残された棋譜の全体数自体が少なく、とくに「平手」の棋譜が希少なので、この型の将棋の棋譜も数えるほどしか残っていない。
 大正時代以後になると、「相掛かり」の時代になるので、この「左美濃戦法」は影がうすい。しかし消えたわけではなく、「7八銀」からの矢倉模様の指し方は、戦前まではあった。

土居市太郎-木村義雄 1940年 名人戦1
 たとえば「土居市太郎vs木村義雄」の第2期名人戦の第1局はこんな序盤。


 そうして、こんな図に。 「左美濃のダイアモンド」である。


 戦後、相居飛車戦では「7八銀」という手が指されなくなっているので、「左美濃」の出現は少ないが、それでも、時々「左美濃」は今でも出現するのである。
 最近の「左美濃」が出現した対局は次の通り。いずれも後手番の対局者が「左美濃」を使っている。

  10月13日   堀口一史座 - ○千田翔太  順位戦C1組
  10月22日   畠山 鎮 - ○三浦弘行  順位戦B1組
  10月27日   森内俊之 - ○阿部光瑠  叡王戦 
  12月21日  ○佐藤天彦 -  佐藤康光  棋王戦挑戦者決定戦第1局


[追記]
 再調査により、発見。
大橋宗銀-伊藤印達(右香落ち) 1710年
 数えで17歳の大橋家六代目(養子)の宗銀と、伊藤家二代目の宗印(鶴田幻庵)の13歳の長男印達との「五十七番勝負」の第52局目が、「矢倉vs左美濃」の将棋だった。
 図のように、上手の伊藤印達が“高美濃”の「左美濃」の陣形。
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終盤探検隊 part73 第十代徳川将軍家治

2015年12月23日 | しょうぎ
 これは「総矢倉四手角」と呼ばれる型で、昭和の時代、この型は「千日手になる」ということで回避されてきた戦型。将棋の戦法としては有力で、しかし有力だからこそ、先手も後手も同じ型で対抗することになり、その結果、千日手指し直しでは、どうにもならない。
 この図面は1776年の「徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち)戦」。


    [月の光と世の乱れ]
 老僧の目にはじめて表情らしい光が動いた。
「なる程。一揆の火を鬼道衆が煽り立てるか。いかにも鬼道好みの所業だな」
「我らが黄金城を求めて動くのは、世がそれを求めはじめたため……鬼道は本来黄金など欲しませぬ。求めるのは、月の光と世の乱れのみ」
「世を乱してもらいたい。それで呼んだ」
 老僧はそういって力のない咳をした。 
                        (『妖星伝』(一)鬼道の巻より)


 今回鑑賞する棋譜は次の3つ。
  〔1〕大橋宗順-九代大橋宗桂  1774年 御城将棋
  〔2〕徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1775年
  〔3〕徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1776年

 いずれも「相矢倉」の将棋である。
 
 これらの棋譜を鑑賞する前に、そのための予備知識として、「相矢倉の誕生の前後」について解説をしておきたい。


【 解説 相矢倉の誕生の前後 】

小原大介-奥田佐平次 1626年
 残された将棋の棋譜で、歴史上最初の「相矢倉」はこの棋譜かもしれない。390年ほど前の棋譜。
 しかしこれはさっそく角交換になり、戦法の性質としては、「角換わり」か「相掛かり」に近い感じ。8六での角交換の後、先手は8八銀~7七銀として、以下8八玉として「矢倉」に組む。後手も同じ。だから「相矢倉」には違いない。

伊藤看寿-八代大橋宗桂 1744年
 上の棋譜から120年後の対局の棋譜。御城将棋で、五世名人の二代宗印(鶴田幻庵)の三男(八代宗桂)と五男(看寿)の対局。(三男宗寿は数え10歳の時に大橋家に養子に迎えられ、大橋本家八代目当主宗桂となった)
 この将棋が史上最初の「角換わり」の棋譜でもあるのだが、これも「相矢倉」になった。
 それまでも、強引に2二角成(8八角成)と交換する角交換将棋はすでによくあったし、上のような引き角からの角交換もあったわけだが、先手が7七角として後手が角を換えてくる、つまり先後お互いが手損をしないようなやりかたの“洗練された手順”での「角換わり」は、この対局が最初になる。
 この図から、6六銀右に、後手の宗桂が4六歩、同歩、4七角と仕掛けて戦いが始まった。勝利したのも八代宗桂。

 七世名人三代伊藤宗看(看寿の兄で二男)が1761年に没し、八代大橋宗桂の息子九代宗桂が次の八世名人に襲位する1789年までの「名人位空位の28年間」を、我々は「家治時代」として、この時代を将棋の戦法の“近代化”のはじまった時代として見ている。
 その時代の始まる1761年(徳川家治は1760年に十代将軍になった)までの江戸時代の棋譜で「相矢倉」と見られる棋譜は上の2つしかない。少なくとも我々(終盤探検隊)が調査した限りにおいては。

 [追記] これは誤りと判明した。 「相矢倉は」1709~1711年の「大橋宗銀vs伊藤印達57番勝負」中で4番出現している。この57番勝負の第11番(1709年11月10日)が「本格的相矢倉」の歴史的第1号局ということになるようだ。
大橋宗銀vs伊藤印達 1709年
 しかもこれは先後ともに「引き角」である。(江戸期から昭和初期まで、「矢倉」は先手なら7七角、後手なら3三角から組むのが主流で、7七銀から7九角の「引き角」の矢倉はたいへん希少である)

 
八代大橋宗桂-三代伊藤宗看(右香落ち) 1757年
 江戸時代の前半期は「振り飛車」が八割以上の世界だったので、「相居飛車」の将棋の棋譜がそもそも少ないということもあるのだが、「相居飛車」の主流は「雁木囲い」で、したがって「矢倉囲い」は初めから存在はしていたけれど、「雁木vs矢倉」のような戦型で現れていた。
 1757年のこの将棋もそういう「雁木vs矢倉」の組み合わせの将棋で、この時まで、「矢倉vs矢倉」の組み合わせの対決は、上記の2局しか棋譜としては残っていないのだ。この「八代大橋宗桂-三代伊藤宗看戦」も御城将棋の対局で、これまた「兄弟対決」である。

 「右香落ち」の将棋で、上手の名人(三代宗看)が「矢倉」である。
 図は、いまその上手の宗看が4四銀右としたところ。
 なぜ「雁木」にくらべて「矢倉」が少なかったかと理由を考えると、おそらく“矢倉は角が使いにくい”からだろう。この図でいえば、3三銀と銀を上がると、2二では角は使えないので3一角と引き角にする。しかしそうすると“5三銀”という右銀の位置取りと引き角の利きがダブってしまう。そんな具合で、「雁木」にくらべて、けっこう駒組みがめんどくさいのである。
 それでその5三銀を今上手が4四銀右としたのである。これなら「引き角」の利きの通りは良いし、銀もしっかり前線で働く。
 これが七世名人宗看の工夫であった。宗看はこの後さらに工夫を見せる。7五歩と突き、同歩、同角、7六歩、8四角。角を8四に運んだのである。これが画期的な新構想であった。


 その後はこういう戦形になった。
 下手(八代宗桂)の角の位置は「三手角」と呼ばれる角で、これはすでに前例がいくつかあった。(初登場は1709年「伊藤印達-大橋宗銀戦」で、宗銀が雁木で三手角をやった) しかし前例の三手角はすべて3七角(後手なら7三角)で、まだこの角を2六で活用した例は生まれてなかった。〔後日注; 三手角は1637年「初代伊藤宗看-松本紹尊戦」ですでに現れ、松本が指している〕
 上手の3大宗看が初めてそれ(8四角)をやったのである。(引き角での「矢倉」の場合、この角の実現には通常は4手かかるので「四手角」と呼ばれる) 8四に角を置き、6二飛と右四間にして、6四歩。これが三代宗看の開発した新構想であった。この後、6五歩、同歩、7三桂と攻めていくのだ。
 ただしこの将棋は八代宗桂が勝っている。この時、八代大橋宗桂は七段。弟伊藤看寿は八段で次期名人にほぼ内定していたが、この対局では兄宗桂が意地と力を見せ兄でもある名人宗看を寄り切った。

 この2年後、看寿が突然に死に、さらにその2年後に名人の宗看も…
 「宗看・看寿の時代」が突然に終わったのである。

大橋宗順-九代大橋宗桂(右香落ち) 1768年
 伊藤家は五代目当主に鳥飼忠七を養子に入れ、「宗印」とした。伊藤家のライバル大橋分家の当主も新しく代わって大橋宗順という名である。宗順も養子で、それまで「初代宗桂の血」を受け継いできた大橋分家だったが、その意味でも新時代に突入したのであった。
 これは、その大橋宗順と大橋本家から出た久々の天才児印寿(後の名人九代大橋宗桂)が対戦した1968年の御城将棋。
 上手の九代大橋宗桂が新戦術を見せた。「左美濃」である。(1709年に三代大橋宗与が、そして1736年に伊藤看寿がそれぞれ一度づつ左美濃を使ったことがあるが、流行はしなかった。またこの時はいずれも高美濃ではなかった)
 江戸時代の相居飛車戦での「左美濃」は単に矢倉の一変種というものではない。この「左美濃戦法」は、角を3三角のままで戦うというのが基本戦術なのだ。ここから角を4二に引いて矢倉に変化することもできるがそれはあくまでオプション機能なのだ。
 図は上手が5五歩と開戦したところ。同歩に、4五歩とする意味。これは「雁木」でよく見られる仕掛け。
 だからこの「左美濃」は「雁木」と同じような性質を持ち、そして「雁木」よりも堅い囲いなのである。
 だが、これによって、囲いは「雁木」から「矢倉」へと一歩近づいたのであった。
 この「矢倉vs左美濃」の戦型は、この後、江戸期の相居飛車の将棋で、最も人気の戦型になっていく。その始まりがこの対局であった。(結果は九代大橋宗桂勝ち)

大橋宗順-九代大橋宗桂 1774年
 そして、1774年の御城将棋で、ついに “それ” が出現したのであった。
 「相矢倉」――「矢倉vs矢倉」の戦いである。この将棋が“本格的相矢倉第1号”ということになるかと思う。
 この図は、いま、先手の宗順が6五歩と突き、その手に反発して後手宗桂が6四歩と指したところ。
 6五歩と宗順が指した意味は、次に6六銀右と指して、5七での角と銀の渋滞状況(これが矢倉引き角特有の現象)を解消しようというのである。上の宗看が見せた4四銀は“歩越し”の銀だったが、それをさらに工夫した構想で、6六銀右から4六角とすれば、「矢倉」の理想形の一つの形である。
 その意味を理解し、それを許さないということで、後手は6四歩とすぐに反応したのだ。
 この将棋は、後で棋譜鑑賞をする。(歴史的相矢倉1号局なので)


 なお、江戸時代を通じて、このような「矢倉」またはそれに準ずる相居飛車系の将棋では、「引き角」は少数派で、先手なら7七角、後手なら3三角、という型が大勢を占める。矢倉にする場合もそこから「矢倉」へと組み替えていくのである。
 そこで、我々は、「江戸時代の相引き角矢倉はどれくらいあったのだろうか」と興味を持ち、それを調べてみた。

八代伊藤宗印-十一代大橋宗桂(右香落ち) 1843年 
 するとわずかに1局だけ見つかった。1843年の「右香落ち」のこの将棋で、この先手番の八代伊藤宗印の当時の名前は上野房次郎である。関根金次郎十三世名人の師匠にあたる。
 さがせば他にもまだ見つかるかもしれないが、それくらい「相引き角」の矢倉は江戸時代には少ないということである。

 先手7七角(後手3三角)が江戸時代の相居飛車戦では主流なので、飛車先からの角交換になる場合も半分あり、また上で述べたように「左美濃」のままで戦う場合も多かったので、したがって現代に私たちがイメージするような「本格的相矢倉」になったケースは少数である。
 つまり江戸時代は、今私たちが「無理矢理矢倉」とか「ウソ矢倉」と呼んでいるその組み立てが主流だったのである。
 組むのがめんどくさくて角の使い方が難しいこと、わざわざ角道を銀で止めて引き角をするのが本筋ではなさそうに見えること、組んでいる途中で戦いが始まることも多いこと――そういった理由で矢倉は少数派だったが、やがて「雁木」や「左美濃」よりも、勝ちやすいのではないか、ということに気づいていったのか、江戸時代も終わりごろになると、「相矢倉」も増えていくのである。
 本格的に「相矢倉」が指されるようになったのは、1947年の木村義雄vs塚田正夫の名人戦七番勝負以後のことである。

 
〔1〕大橋宗順-九代大橋宗桂  一七七四年 御城将棋

 上の解説でもふれた「本格的相矢倉1号局」を次に鑑賞したい。

 大橋宗順は前名を中村宗順といい、大橋分家四代目の宗与が1964年に56歳で死去したのを受けて、養子に入って五代目を継いだ。翌年の御城将棋に初出勤し、角落ち下手での三間飛車の「銀冠美濃」を披露した。史上初の「銀冠美濃」の出現であった。
 九代大橋宗桂はこの年に父八代宗桂が亡くなったので、大橋本家の「九代目」になった。10歳の時から御城将棋に出仕して光る才能を発揮してきている。
 宗順42歳、九代宗桂31歳。


 その将棋は、まずこのような序盤であった。ここで後手九代大橋宗桂は4二角。次に3三銀として、「相矢倉」に。史上初の「相矢倉」戦である。
 先手の陣形を見ると、これは確かに矢倉は角を使うのがたいへんだ。


 これが上の解説でも示した図。宗順は6五歩とし、6六銀右型の陣形をつくろうとしたが、そうはさせないと、6四歩から後手宗桂が反発。以下、同歩、同角、4六歩、4二角、6六銀、7四歩、5七角、6二飛、4八角、6五歩、5七銀…
 本格的な戦いにはまだならず、また駒組みへ。
 そして次の図。


 先手も後手も(同型ではないが)「総矢倉四手角」である。双方がつくったこの金銀四枚の囲いは「総矢倉」と呼ばれている。
 「矢倉四手角」の作戦は1957年に三代宗看が編み出した戦法であることは上ですでに紹介した。それがここで「総矢倉四手角」に進化したのである。
 いま、先手宗順が4五歩と仕掛けた。これを同歩だと先手の攻めが決まるが、取らないでおくとお互いに次に指す手が難しい。それがこの型の特徴である。
 実戦の進行は、4五歩に、6二角、4八飛、6四銀、2四歩、同歩、4四歩、同銀、4五歩、5三銀、2八飛、1四歩、1六歩、8三飛…
 複雑な手順が続く。単純には攻められないのだ。
 先手は2九飛として、後手の9四歩に、そこで1五歩、同歩、1四歩と端を攻めた。
 後手の九代宗桂は4七歩。


 ここで宗順は1五角と出た。以下、1四香、2四角、2三歩、4六角、1八歩、1五歩、同香、2五飛(次の図)


 以下、1九歩成、1五飛。面白い順を経て、1筋の香車の交換になった。
 これは先手が良いだろう。
 その後は、1三歩、2五桂、3五歩、1三桂成、同桂、1四歩、1二歩、1三歩成、同歩、3五歩。
 苦しい後手は、なんとか局面を複雑にしたいところ。6六香と攻め合うのは、3四歩とされるともう1三の地点がもたない。
 後手宗桂は1四香と打ち、2五飛に、3三桂、2七飛、4五桂。
 さらに、3四歩、3五歩、3八香と進んだ(次の図)


 これは後手、適当な受けがない。
 8六歩、同歩、5七桂成、同金、8七歩、9八玉、4五銀と指した。
 そこで先手は3五香。おそらく宗順は、ここで勝ちを確信したことだろう。


 進んで、この図のようになった。
 後手は、働いていなかった6二の角をついに働かせ、馬となって敵陣に迫っている。
 しかし宗順は落ち着いて対処した。ここはもう形勢は大差で先手が良い。
 宗順は4六金と指し、5七馬に、3六金。
 宗桂は6八馬と飛車を取り、同銀に、6六香。以下、3四歩、6八香成、3三歩成、同飛、4四角(次の図)

投了図
 九代宗桂が投了。先手大橋宗順の勝ち。
 投了図は後手玉が“必至”。仮に4三銀と(3四桂以下の詰みを)受けても、3三角成、同玉、4五桂以下詰む。

 この将棋は、「総矢倉四手角」の陣形が現れた、という点にまず注目しておきたい。「本格的相矢倉1号局」はそういう戦型だった。


 この当時おそらく実力最強者であった九代大橋宗桂に「相矢倉」という史上初の、未知の将棋の戦いになり、その勝負を大橋分家五代目当主の宗順が制した。このように宗順は強い。にもかかわらず昇段も遅いし、後世の評価もなぜか高くない。
 宗順の息子(庶子だったらしい)は後に九世名人となるが、その大橋宗英はこの時19歳で、御城将棋への登場は4年後である。


 この将棋、後手の九代宗桂は決定的な敗着となるような手を指していないのに、いつのまにか大差で先手有利に展開していた印象だ。いったい宗桂の指し手の何が問題だったのか。

参考図2
 我々終盤探検隊が行き着いたのは、後手宗桂が6二角と引いて角を受けに使った手である。結局、6二角はあまり受けには働いていなかった。(働かないように先手宗順がうまく指したということだろう。端を攻めた判断がよかった)
 だから図のように、6二角とした手に代えて、7三桂が良かったのではないか。


〔2〕徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 一七七五年

 この将棋が、上で紹介した「本格相矢倉1号局」の翌年の将棋だということに留意して本棋譜を味わってほしい。つまり「相矢倉」はまだ生まれたばかりであり、「残された棋譜」としては、これが2号局になる。

△8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩 ▲8八銀 △6二銀 ▲2六歩


△4四歩 ▲2五歩 △3三角 ▲4八銀 △3二銀 ▲5六歩 △5四歩
▲5八金右 △5二金右 ▲3六歩 △4三金

 こういうオープニングで始まった。これは現代なら「角換わり」になる流れ。しかし上手の五代宗印は4四歩と角道を止めた。
 上で解説してきたように、先手は7七角、後手は3三角である。この形からこの将棋は「相矢倉」になった。


▲7八金 △4二角 ▲6八角

 五代宗印は「左美濃」。 そして4二角。
 (「左美濃」は1768年に九代宗桂が披露した新戦術である)
 下手の徳川家治は6八角。


△3三銀 ▲7七銀 △3二金 ▲6六歩 △4一玉 ▲6九玉 △3一玉
▲6七金右 △2二玉 ▲7九玉 

 選択肢としては、ここで上手から8六歩という手もあった。しかし宗印はそれを見送り、3三銀。これで「矢倉」になった。
 下手家治もそれに追随する。7七銀。「相矢倉」だ。

 このように、先手7七角型や後手3三角型は、いつでも「飛車先からの角交換」になる可能性があり、(江戸時代の)実戦の半分はそう進む。そういうわけで「本格的矢倉」(角交換をしない相矢倉を仮にそう呼ぶことにする)にはならないケースが、実戦はかなりある。先手後手(下手上手)の双方の「角交換はやめましょう」という合意があってはじめて「本格的相矢倉」が成立するのだ。

7九玉
△1四歩 ▲1六歩 △7四歩 ▲8八玉 △5三銀

 想像だが、この対局は、将軍徳川家治の「双方が本格的に矢倉を組み上げたらどうなるのか」という好奇心がまずあって、それを知っていた五代伊藤宗印がそれに合わせたということではないかと思う。そうでなければ、そう簡単には「きれいな同型相矢倉」にはならない。
 実戦の勝負というのは、相手に勝つことをめざすのであるから、勝負の色が濃くなればなるほど、相手の思惑(研究、得意形)をはずそうとする。その結果、妙な形になったり、囲いの途中で思わぬところから戦いになるということが多いのである。

 その意味でも、この二人の将棋は、あまりにきれいで、「研究将棋」のような香りがする。
 その研究心が、つまりは「近代化」を進めているのかもしれない。
 この将軍が指してきた将棋の型は、突出して“近代的”である。未来の将棋を先取りしている。
 

▲3七桂 △6四歩

 前年に誕生したばかりとは思えないほどの“きれいな相矢倉”である。
 上手は5三銀とした。この銀には、現代の視点で言えば、三つの狙いがあって、一つ目は6四銀と攻めに使う、二つ目は4五歩として次に4四銀右とする、そして三つ目が本譜の順だ。


▲5七銀 △5一角 ▲4六歩 △9四歩 ▲9六歩 △8四角
 上手宗印が5三銀右とした意図は、5一角から8四角と、いわゆる「四手角」の構想であった。
 この「四手角」は、上で述べた通り、1757年に三代伊藤宗看が初めてやった形。(その時は7五歩からの歩交換というルートからの“三手角”だったが)
 そしてもちろん、この二人は前年の御城将棋「大橋宗順-九代大橋宗桂戦」を意識している。
 矢倉3三角型からは、実は理屈上は「三手」で8四まで角を運べるのだが、この場合4二でいったん止まっているので「四手」になっている。(またこれが「引き角」なら、理屈上も最短で「四手」かかる)


▲4八飛 △7三桂 ▲4五歩 △6五歩 ▲4九飛
 
 この形、4八飛と右四間に構えるのがよいか、2筋に飛車を置いて2四歩からの攻めを狙うのがよいのか、むつかしい選択だ。
 家治将軍は4八飛と回り、4五歩と仕掛けた。
 上手五代宗印も6五歩。戦いが始まった。

4九飛
△6四銀 ▲4六銀 △4五歩 ▲同桂 △4二銀 ▲4四歩 △同金
▲3五歩 △6六歩 ▲同銀 △6五銀

 本来なら、下手は上手に「右香」がないことをねらいにするような指し方をすべきところである。それをしないで、まるで「平手」戦のように戦っているのは、家治祖軍の好奇心が「相矢倉でがっぷり組み合ったらどういう戦いになるのだろうか」というところに純粋に向かっているからであろう。

 ここで上手の五代宗印は6四銀としたが、もし下手も(上手と同様に)2六角という形だったらこの手はなかったところだが、この場合は成立しているようだ。
 そうして考えると、下手の6八角が攻めにも受けにも働いておらず、すでに上手が「駒組み勝ち」なのかもしれない。
 だから上手の6四銀は、さすが伊藤家五代目、というような機敏な一着である。

 局面はいきなり激しくなってきた。家治将軍も4六銀と出たからである。
 4六銀は危険な手だが、攻めの棋風の将軍らしい手といえる。この将軍の棋風は、直線的に攻め合う棋風なので短手数の将棋が多い。それに6八角を働かせるためには、危険でも4六銀のような手で勝負するしかないのかもしれない。
 代えて4四歩、同銀、2四歩というのもあったようだが、ここはすでに下手苦しめの局面だ。
 4五桂に上手は4二銀としたが、やや疑問手。
 4四歩、同金、3五歩は、これまたこの将軍らしい、きびきびした手。


▲7七銀 △6六歩 ▲5七金 △7五歩 ▲6六銀

 6五銀(図)を同銀なら、6六歩で、後手の、矢倉の教科書に書いてあるような攻めが決まり、後手優勢になる。では、どう受けるのか。
 本来ならもう下手に適当な受けがないところだが、この場合は7七角という手が好手になっていた。7七角が間接的に敵玉を睨みつつ浮いている4四金の当たりになっていて、その攻め味を含んでいるため、この手が有効となる。今のところ、この角は6八のままでは働いていないのだ。
 7七角以下、6六銀、同金に、6二飛なら、7五金(参考図)

参考図
 これは下手優勢である。(6六同金に、6二飛ではなく4三歩なら形勢互角)
 上手の4四金が浮いているからで、だから前に戻って、下手の4五桂に4二銀と引くのではなく、4四銀が正しい応手だったということになる。 

 実戦は、7七銀と引いた。以下、6六歩、5七金と進み、そこで五代宗印は7五歩としたが、この手は疑問手。(6二飛として、下手3四歩なら、そこで7五歩という手順が正着になる。それで上手が良かった)


△7六歩 ▲7五歩 △6七歩 ▲同金寄 △6二飛 ▲6五銀 △同桂 ▲5三銀

 上手の7五歩に、家治将軍の6六銀が好手。以下7六歩に、7五歩。
 潰されそうだった下手陣がこらえて、形勢不明に。

5三銀
△5三同銀 ▲同桂成 △7七銀

 5三銀とこれを指したくて将軍6五の銀を取ったのだろうが、この手5三銀が“指しすぎ”の悪い手で、ここからはっきり上手優勢に傾く。
 この手では代えて6六歩とすべきところで、これならまだ互角に戦えていた。

 宗印は5三銀を同銀と取って、同桂成に、7七銀(次の図)


▲7七同桂 △同桂成 ▲同角 △同歩成 ▲同金寄 △7六歩 ▲6二成桂 △7七歩成
▲同金 △7六歩 ▲同金 △6七角

 いかにも「相矢倉戦」らしい戦いである。
 ここでの手順中、上手の7七同桂成に「同金」は、同歩成、同角のとき、7六桂と打たれて、9八玉に、6六銀で、先手悪い。
 それで将軍は同角と取ったが、それも本譜の攻めで、やはり上手が優勢である。


▲2四桂 △7八金 ▲9八玉 △2四歩 ▲同歩 △4九角成 ▲2三銀 △同金
▲同歩成 △同玉 ▲2四歩 △同玉 ▲2五歩 △3三玉 ▲5三飛

 上手の攻めが筋に入っている。
 将軍は2四桂から攻めたが―-


△4三歩 ▲2四銀 △3二玉 ▲5一飛成 △8八飛 ▲9七玉 △7五角

 五代宗印は8八飛~7五角(次の図)


▲8六金打 △8七飛成 ▲同玉 △8六歩 ▲7八玉 △6七銀 ▲8九玉 △7八金
▲9八玉 △8七歩成 ▲同玉 △7六銀不成 ▲7八玉 △6七馬

 以下、これを寄せるのは難しくない。


まで125手で上手の勝ち

 良くも悪くも、家治将軍は攻め将棋である。この将棋は、それが裏目に出て、5三銀と攻めて行った手が、“敗着”となった。
 しかし、5三銀のその一手以外は、好手が多かったと思う。

 ただし、序盤の駒組みで、もう差がついていたようである。6四銀と上手が指したところは後手有利。下手の6八角が使いづらく、対照的に上手の「四手角」の8四角はしっかり利いている。
 それなら、下手側も「四手角」にしてみたら―――それが次の対局である。


 〔3〕徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 一七七六年

徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1775年
 上の〔1〕の将棋とは、上手(五代宗印)の組み方が違う。〔1〕は3二銀型から「左美濃」だったが、今回は3二金型である。これなら「左美濃」にはならない。


 そしてやっぱり「相矢倉」へ。(こういうつもりなら「左美濃」だろうが「3二金型」だろうが同じことだ)


 今度は「同型」に進む。(といってもスタートが「右香落ち」なのでまったくの「同型」にはなりようがないが)
 上手も5一角から8四角。下手も5九角から2六角をめざす。


 下手も上手も「総矢倉四手角」。さあ、仕掛けはあるのか。
 これは駒落ち(右香落ち)なので、上手が先攻するケースになる。6五歩。
 下手も4五歩。問題はこの後どう指すかだ。
 五代宗印は6六歩、同銀、6二飛と指した。
 そこで先手の手番だが、やはりどう指すか難しい(つまり決定的な正解手はないのだ)
 家治は4五桂と指した。宗印は3五歩と応じた。


 この3五歩がほぼ敗着の一手となった。
 この手では、ふつうに4二銀としておけば、何も問題はなく、依然として「何を指せばよいか難しい将棋」がなおも続いたところだった。
 4二銀だと、2四歩、同歩、4四角、同金、5三銀のような下手からの攻めがあり(家治将軍の好きそうな手だ)があり、それを嫌ったのかもしれない。しかしそれは、5三同銀、同桂成、8二飛(参考図)となって――

参考図
 上手が互角以上に戦えそうだ。この図では次に上手からは6四角や、6五歩、5七銀、3九角のような攻めがあるので、下手が忙しい。よって図からは、4五歩、同金、2四飛、2三銀(2三歩は3四飛が気になる変化)、2五飛、3三桂、2九飛、4七角、2八飛、2七歩、4八飛、3六角成のような展開が予想されるが、上手が良さそう。

 実戦の上手3五歩に、3三桂成、同金寄、3五歩と進んでみると、下手が優位に立っていた。桂馬がさばけてもう攻めに悩むことはない。
 宗印も反撃する。6五桂。
 家治はこれを放置して、4五歩。これを同銀なら、3四歩が飛車取りにもなっている。
 なので上手宗印も7七桂成、同金上に、6五歩、5七銀、6六銀と攻め合う。


 以下、4四歩に、5七銀成。
 5七銀成で上手は負けを早めた。上手は6二の飛車を間接的に角に狙われているので、それをさばく意味で、6七銀成とする方がよい。同金に、6六歩、同銀、同飛、同角で勝負だ。
 (こういうところ、五打宗印が自分が負けるように指している気がしないでもない)
 実戦の進行は、図より、4四歩、5七銀成、3四歩、6七成銀、3三歩成、同金、4三歩成(飛車取りにもなっている)、7七成銀、同桂、8六桂(次の図)


 徳川家治の将棋の棋譜は、こういう直線的な将棋が多い。お互いがあっというまに裸に近い玉になった。
 図の8六桂を同歩と取って、同歩に、そこで後手玉に“詰み”はないかとおそらく将軍はそれを考えた。
 ――そして答えをみつけた。(詰ます手順は何通りかあるようだ)

 3一銀と打つ。これを同玉なら、4二銀、同飛、同と、同玉、3四桂から詰む。
 よって3一銀に宗印は1二玉と逃げた。


 そこで家治、2四桂。(この2四桂は必要なかったかもしれない…詰み筋を複雑にした)
 2四同歩に、1三銀、同玉、2二銀打、1二玉、1一銀成、1三玉、2二金(次の図)


 将軍は詰将棋が得意でこういう勝ちは逃した棋譜がなさそうだが、これも読み切って指していたのだろうか。本譜は五代宗印は図の1二金に同飛と応じたが、そうでなく、図で2三玉なら、そこからその玉を詰めるのは相当大変。長手数になるし、合駒なども考えなければならない。3三と、同桂、2二金、3四玉、3五金、4三玉、4四金、5二玉、5三金…以下、最後には7七桂も有効にはたらかせるような30手以上の手数の詰め手順になるようだ。(詰まさなければ下手負け)

 実戦の手順は、図から、1二同飛、同成銀、同玉、2二銀成、同玉、3三と、同玉、3四香(次の図)


 3四同玉に、4四飛、3三玉、3八飛、2二玉、4二飛成――で、五代宗印が投了。徳川家治の勝ち。
 それにしてもこの将軍はミスの少ないしっかりした将棋である。本局はノーミスで勝ちきった。


 これらの棋譜を調べてわかったことは、「総矢倉四手角」の攻めは強い、ということである。なのでその強力な攻めに対抗するために、相手も同じく「総矢倉四手角」にするのが有力な手段となる。
 そういうわけで、「相総矢倉四手角」になるケースが出てくる。
 しかしそうなった場合、仕掛けはあるのか。 ――それが問題なのである。


【相総矢倉四手角は26年周期で現れる】

 ここからは昭和・平成時代の「相総矢倉四手角」についてのレポートになる。

 「相総矢倉四手角」の将棋は、26年周期で3度、プロの重要な対局の将棋に登場している。
 昭和時代の矢倉の解説書に、この戦型の解説がよくされていて、「千日手になりやすい」と結論されていた。それが結論なので、プロの将棋にはほとんど現れることなく(この型にならないように指している)、いまでは解説書に載ることもなくなっている。

 今までにプロ将棋で現れたこの「相総矢倉四手角」の型の将棋を見てみよう。

大山康晴-升田幸三 1950年 名人2
 木村義雄が名人に復位した翌年の1950年に名人戦挑戦者決定三番勝負第2局でそれが現れた。「大山康晴-升田幸三戦」。(第1局は相入玉の熱戦を大山が制して1勝)

 上で鑑賞した「徳川家治-五代伊藤宗印戦」の場合と、組み方が違う。行き着く先は同じなのだが、図のように後手の6四角に、先手4六角からこの戦型はつくられていく。
 ここで4六角とすると「相総矢倉四手角」の将棋になって、それは「千日手」になるので、だから4六角とせず、3七銀とか3七桂とするのだと、昭和の1970年代の棋書には書かれている。「総矢倉四手角戦法」は有力なのだが、それを先手側が指すことがほとんどないのは、そうした事情がある。
 ここから、7三角、3七角、5三銀、5七銀、6四歩、4六歩というように駒組みを進めていく。


 そうして、「相総矢倉四手角」になった。
 先手大山の陣形が気になるところだが、これは6八金が5七を補強している。
 ここから先手も後手も「仕掛け」を模索しつつ、様子見の手順が続く。つまり、よい仕掛けがはっきり見つからないのである。
 ここから、8八玉、9三角、7八金、6三飛、4七飛、8四角、4九飛、9三角(次の図)


 ここで先手の大山康晴が、攻めを決断した。4四歩、同銀左(これを左で取るのが定跡手)、2四歩、同歩、2五歩(次の図)


 ここで後手の升田幸三は3五歩と受けた。これで受け潰せるということだったと思われるが、後の定跡書では、ここは2五同歩と取って、先手の攻めが続かないとなっていたと思う。
 2五同歩、同桂に、4五歩としておけば、次に2四歩から後手は桂得となる。この桂馬の攻めが空を切るように、4四歩は“同銀左”と取るわけである。
 大山は2五同歩、同桂、4五歩に、4六歩、同歩、同銀と攻めるつもりだったのかもしれないが、これは後手に分がある将棋。
 ただ、この場合は、2五同歩には、9六歩という手がある(参考図)

参考図
 これは升田幸三が思いつきそうな手で、あるいは升田はこれが見えて、変化したのか。
 この場合の9六歩は確かに有力手で、しかし、これで後手がわるいわけではない。

 実戦では升田が3五歩と指し、以下、同歩、4八歩、同飛、6六歩、同銀左、6五歩、7七銀、3六歩、4五桂、4二銀、6四歩、同飛、3四歩、5五歩、3三歩成、同桂、同桂成、同銀上、4五歩、5三銀、3五桂と進んだ(次の図)


 攻めの大山、受けの升田という構図になっている。
 図以下、4二金引、4四歩、同銀左、2四歩、3七歩成に、4四飛と、大山は飛車を切った。
 4四同銀、4三歩、5二金、4一銀。
 そこで升田は、3三玉。入玉をめざす。
 以下、5二銀不成、2四玉、4二歩成で次の図。


 ここが“勝負の分かれ目”だったかもしれない。
 升田幸三はここで2五桂と打った。対して大山康晴は3二と。これが好判断で、以下1七桂成に、2六金と打った。
 大山はもう大駒が一つもないが、後手も受けに適した駒がない。手数はかかったが、結局勝利(つまりは名人挑戦権)は大山の手に。大山康晴が名人戦2度目の登場を決めた。
 升田幸三は自分の良さがまったくでない将棋で、無念だったであろう。とはいえ、勝負的にはギリギリの攻防だった。

 この将棋以降、「相総矢倉四手角」の仕掛けが調べられ、どうやらうまい仕掛けはなく、「千日手やむなし」という結論にプロ棋士間ではなったのだと思われる。

参考図
 2五桂に代えて、2六歩(図)なら、どうなっていたかわからない。
 これを同角なら、2七と。以下、6三銀成、同飛、2三桂成、同金、4四角、3九飛が予想手順の一例で、形勢不明。

米長邦雄-中原誠 1976年 名人2
 さて、26年後、1976年の名人戦で「相総矢倉四手角」が出現した。後手6四角に、4六角と先手が応じるとこうなると上でも説明した。先手番の米長邦雄がこれを注文したのである。
 そして図の、「6八銀左」が米長新手である。これが指したかったのだ。
 以下の手順は、6六歩、同銀、9五歩、7七銀、2二玉、1五歩、同歩、4四歩、同銀左、1三歩(次の図)


 6八銀左と引くことで、結果、6筋と4筋とで「二歩」を手にすることができる。歩を手にするのは後手も同じなのだが、その時に端の歩の形が影響するかもしれない。先手番の米長は9筋の端歩を手抜いている。
 1五歩、同歩、1三歩が、米長がやりたかった攻めだ。その時にあと「一歩」があるので、2四歩、同歩、2五歩の継ぎ歩の攻めができる。
 1三歩に、後手中原誠名人は、同香。米長挑戦者は予定通り、2四歩、同歩、2五歩。
 そこで後手がどうするか。
 中原名人は、6五歩、5七銀として、4六歩と歩を垂らした。これは次に4七歩成~5七とだ。
 先手米長に手番が渡った。4四角、同銀、2三銀という攻めがある。だがこれは3三玉とされ、ちょっと足らない。
 米長邦雄は4五歩と打った。 


 振り返ってみれば、この4五歩が“勝着”である。これで米長が優位に立ち、そしてこの将棋をものにした。
 対して後手3三銀なら、今度は5三角成~2三銀で先手が勝てる、2三銀、3一玉、3二銀成の後、2三歩成が3三の銀に当たるしくみだ。
 また図で3七とには、4四歩、2八と、2三銀で、先手良し。
 そして、どうやらここに来て、予定の5七とでは自信なしというのが中原名人の結論になったようだ。(ただし、ソフト「激指」で調べると5七と以下の結論ははっきりしない)

 名人の指した手は、3五銀。同歩なら、5七とで勝負、ということだ。
 そして挑戦者米長は――


 3五同角。
 3五同歩に、2三銀と打って、以下先手が優勢を拡大していった。
 鮮やかな手で、米長邦雄は、名人戦初勝利を決めたのであった。

 この「相総矢倉四手角」の戦型は、この名人戦の第4局でも現れた。その将棋も先手の米長が指せていたと思われるが、後手番の中原が得意の「入玉」作戦で勝利。

 以後、なぜかこの戦型はずっと出現していない。(「千日手」を打開できたのに、指されなかった理由はなんだろう?)
 だが、26年後、またタイトル戦で登場する。

阿部隆-羽生善治 2002年 竜王1
 前年度に藤井猛から竜王位を奪った羽生善治に挑戦してきたのが、阿部隆。
 その2002年の竜王戦七番勝負の第1局は、千日手になった。(戦型は阿部の「ゴキゲン中飛車」)
 その指し直し局は「相矢倉」。 後手羽生竜王の6四角に、阿部隆が4六角。
 こうなると、“あの戦型”になる。「相総矢倉四手角」だ。
 阿部挑戦者が、その先にどういう手を準備していたのか、それはわからない。

 新手を出したのは、後手番の羽生善治だった。図の「2二銀」が羽生新手。


 以下、このような「同型」になり、ここから「2八飛、8二飛、2九飛、8一飛」の手順をくり返し、「千日手」が成立した。
 七番勝負は4-3で、羽生竜王の防衛となった。羽生善治が、大事な一局を勝つ瞬間、ぶるぶると手が震えるようになったのは、この七番勝負の最終局からではないかと思う。

 ここで仕掛けはほんとうにないのだろうか。「激指」は1五歩から仕掛けろというのだが…。(ソフトの中盤の評価値はあまり参考にはならないけれど)


 もし、「相総矢倉四手角」は26年周期で現れる、の説が正しければ、これが次に出現するのは2028年ということになる。



[追記]
 再調査により、1709~1711年に行われた「宗銀印達五十七番勝負」の中に、「相矢倉」の棋譜があったことが判明した。 しかも、4つも。
大橋宗銀-伊藤印達 1709年
 この図はその第11番の将棋から。
 この五十七番勝負が始まったのは1709年の10月。この時、宗銀は数え16歳、印達は12歳。
 史上初の「本格的相矢倉」の棋譜は、この二人の若者によって、すでにこの時代に生まれていた。


塚田正夫-木村義雄 1947年 名人3
 また「相総矢倉四手角」は、1947年「木村義雄-塚田正夫」の名人戦第3局で出現している。
 これが江戸時代の「徳川家治-五代伊藤宗印」以来の「相総矢倉四手角」ということになるのでは、と思う。
 この将棋も千日手模様だった。先手の塚田は図のように4四歩、同銀としたが、そこからまた仕掛けが見つからず、4七飛(図)。以下、8一飛、4九飛、6一飛、4八飛…。この“4八飛”は“誘いのスキ”かもしれない。これを見て後手木村名人は8六歩、同歩、8五歩と仕掛けていった。仕掛けは成功し木村がやや有利と見られた中盤だったが、塚田玉が入玉に成功し、結果は162手「持将棋」となった。

 4日後に同じ旅館で指し直し局(正式には第4局)が行われ、「角換わり相腰掛銀」の「同型」の将棋に。先手番で木村義雄名人の仕掛けが有名な「木村定跡」となっている。木村名人が良かったが、塚田が頑張り、逆転勝ち。ここまで0-2と押されていた塚田正夫挑戦者はこの勝利がこの名人戦七番勝負での初勝利。そして名人位奪取へ――。
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終盤探検隊 part72 第十代徳川将軍家治

2015年12月19日 | しょうぎ
 「右香落ち」でこのような戦法がある。この後5七角とし、9三の地点をにらむ作戦である。
 これはおそらく十代将軍徳川家治が創始した戦法である。


   [泥食い]
 その翌日。神田小川町の田沼意次の屋敷で、平田屋藤八がその稲穂ような植物を盆にのせて披露していた。
「平田屋、これはなんだ」
 意次が首をひねっている。
「ご存知ありませんか」
「さて。珍奇な香木のたぐいか」
「いいえ」
  (中略)
「田沼様も、そのものの名はご承知のはず。いわば金のなる木でございます」
「これが金のなる木か」
  (中略)
 平田屋はあたりの気配をうかがうようにしてから、
「お耳を」
 といって膝を進め、意次の耳元でささいた。
「……どろくい」
 じっと指にはさんだ植物の枝をみつめた。
「こ、これがどろくいか」
「いかにも泥食いでございます」
                       (『妖星伝』(二)外道の巻より)



 徳川家治の創始したと思われるこの戦法、とりあえず「 家治流一間飛車 」と名付けよう。
 今回のレポートは、家治将軍のこの戦法の棋譜をいくつか調べた結果である。

【 棋譜鑑賞 徳川家治-五代伊藤宗印 一七八〇年 】

初手より △8四歩 ▲9六歩 △8五歩 ▲9七角 △4二玉 ▲9八飛(次の図)

徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1780年

△6二銀 ▲9五歩 △3二玉 ▲7八銀 △3四歩 ▲4八玉 △5二金右
▲3八玉 △1四歩 ▲1六歩 △7四歩 ▲5六歩 △8四飛 ▲7九角

 この戦法は、8四歩、9六歩、8五歩、9七角というオープニングで始まる。そして4二玉と上手が5三の角成を受けて、そこで9八飛(図)。
 これが「家治流」である。「右香落ち」ならではの戦法。これが現代ではほとんど知られていないのは、「右香落ち」の対局がプロの将棋指しの間での取り決めで、大正時代に廃止されたから。


△7五歩 ▲9六飛 △7三桂 ▲2八玉 △5四歩 ▲3八銀

 9筋の歩を伸ばし、上手が8四飛としたタイミングで、9七の角を7九に引く。これがこの戦法の骨子なる手。この後9六飛とし、それから5七角とするのが作戦である。

 ところで、ここで上手から8六歩と来るとどうするのか。それは別の実戦譜があるので、後で紹介する。 


△5三銀 ▲5七角 △7四飛 ▲5八金左 △5五歩

 家治は3八銀と「美濃囲い」に玉を囲った。この戦法は「美濃囲い」との相性がとても良い。
 実はこの戦法、家治将軍も、指した当初は「美濃囲い」ではなく、「3八玉4八銀型の囲い」で指していた。それを途中から「美濃囲い」にモデルチェンジしている。
 1780年というこの時代は、まだ振り飛車における「美濃囲い」の有効性が一般には知られていなかった時期であるが、この「振り飛車美濃囲い」を流行らせた元祖というべき男が、この上手の五代伊藤宗印(鳥飼忠七)なのである。この徳川将軍は、この時期にこの五代宗印を相手に、毎月のようによく将棋を指している。だいたい宗印が「香落ち」で指すのだが、「左香落ち」のときには、振り飛車になる。その時に、宗印はよく「振り飛車美濃囲い」を用いていたから、将軍も、「自分も美濃で指してみよう」と考えたのは自然な事であっただろう。

5五歩
▲5五同歩 △同角 ▲4六歩 △7六歩 ▲9三角成

 「5七角」とここに角を据えるのが、この戦法の肝である。
 上手は右香がないので、9三の歩が宙ぶらりんだ。この「9三」をにらんでおけば、上手からは7六歩とできない。そしてもし上手が4四歩などと角道を止めると、逆に下手から7六歩という狙いもできるわけだ。
 ずいぶんと優秀な戦法に見えるだろう。これを真似して指す人も歴史上は少数ながらいたようだ。家治が最初にこれを指したのは1775年(その時の相手も五代宗印だった)であり、それ以前に指した人はいない。

 この戦型の特徴は「7七歩、6七歩型」であることで、これが他の振り飛車にない盤上の景色をつくっている。ただ、このままだと7八の銀が使えないので、どこかで6六歩~6七銀とする場合が多いのだが、しかし上手の駒組みももうだいたい完了したので、この辺りで攻めてくる。

 上手から、5五歩だ。
 下手の家治は、同歩と応じ、同角に4六歩。4六歩は次に4七金と高美濃にするということだと思うが、宗印は、なんと、7六歩。


△8六歩 ▲同飛 △8八歩 ▲8三飛成 △5四飛 ▲5六歩 △4六角 ▲5七金

 上手が7六歩としたので、9三角成とすることができた。
 さらに宗印は、8六歩~8八歩と攻める。
 下手はその手に乗って、8三飛成と竜もつくった。
 形勢は見た目通り下手が良い。しかし勝負はこれからだ。


△2四角 ▲7三龍 △8九歩成 ▲6六馬 △5五歩 ▲同歩 △6四飛
▲1五歩 △9九と ▲1四歩

 上手の角成を防ぐ5七金は良い手かどうかはともかく、伸び伸びと指す家治将軍らしい手だ。


△6六飛 ▲同金 △7九角成 ▲7一龍 △7八馬 ▲1三歩成 △同桂
▲1二歩 △同香 

 進んでみると、いつの間にか、上手が駒得になっている。ただし下手は1四歩と端歩を進めた。
 5七金と上がった手を生かすなら、どこかで4六歩と受けておくところだと思うが、攻めの棋風の家治将軍は、上手玉をどう寄せるかを主に考えているのだろう。
 宗印は6六飛と飛車と馬とを刺し違えてきた。これには同金しかなく、下手陣はうすくなり、7九角成と角を成られた。
 形勢はほぼ互角。しかしその後の上手7八馬は、まずかったようだ。(いったん何か受けておくところだった)


▲1四歩 △2五桂 ▲1三歩成 △1八歩

 ここは明解な“決め手”が下手にあった。1一飛と打つ手である。
 下手はこれを逃し、1四歩。2五桂に、1三歩成。
 上手は、1八歩。

1八歩
▲2三と △同玉 ▲4一龍 △1六桂 ▲3九玉 △5七角 ▲4八金 △6八馬

 なんと、形勢は逆転。
 2三と、同玉、4一竜。これが将軍のねらっていた寄せだっただろうが、1六桂があった。


▲5七金 △同馬 ▲4八金 △2八銀 ▲4九玉 △4五香

 上手がほぼ勝ちの場面。
 下手の将軍は、5七金、同馬、4八金と受けた。
 対して五代宗印は2八銀、4九玉に、4五香と指した。(2八銀は失着。5九銀ならわかりやすく上手勝ち)


▲4六歩 △同香▲3三飛

 この4五香の手は、下手に4五桂を打たせないような意味もあって、この手自体は良い手である。
 まだここは上手優勢だが、その前の2八銀が無駄に銀を使ってしまった悪手で、形勢は近づいてきた。

 家治は4六歩。これが逆転をねらう一手で、同香なら家治が勝ちになる。(この手で4七歩は3九銀成、同玉、2八金、4九玉、3八金以下、詰まされる)
 そして宗印は同香と取ったのである。敗着となった。(正着は6八馬。これに5八金としても、3九金以下下手玉は詰む)


△2四玉 ▲3四飛成 △同玉 ▲3一龍 △3三歩 ▲2六桂 △2四玉
▲3五角 △同玉 ▲3三龍

 3三飛から上手玉に“詰み”があることをしっかり将軍は読み切っていた。(4五桂が打てるので詰むのである)
 難解な詰みではないが、きっちり読むのはけっこう大変である。
 実戦は図の下手3三飛に、2四玉と逃げたが、同玉は、3一竜から詰む。3二に合駒(飛か金)は4五桂、2三玉、3二竜以下。3一竜に2三玉はどうやって詰むのか。腕試しに考えてみてはいかが。

投了図
まで94手で下手の勝ち

 最後の五代宗印の“失着”はやはりわざとだと思われるが、4六歩で逆転できると呼んでいた将軍の確かな実力も見えた終盤の着地であった。この将棋が仮に五代宗印の“接待”だとしても、このようにきれいに逆転勝ちしてくれるのなら、接待するのも気持ちが良いであろう。


 まだ将軍の実戦例があるので、それをいくつか見ていく。

徳川家治-五代伊藤宗印 1780年
 これは6六歩~6七銀を、玉の囲いよりも優先させたケース。
 6六歩を突くと、6四歩~6五歩の仕掛けが上手からできる。

 図の6五歩の仕掛けに、3八銀、6四銀、6五歩、同桂、6六角、5五歩と進んだ。
 そこで下手の将軍は7六歩。以下、同歩、同銀、7五歩。(7六同銀に代えて9三角成は7七歩成で下手不利)


 8五銀、7一飛、9四歩と進む。
 7五歩に6七銀と引くのも普通の手だが、この将軍はそういうタイプではない。8五銀が飛車当たりで先手が取れるという状況なら、そっちを選ぶ。
 9四歩では遅いようにも思える。しかしおそらく家治将軍は上手の次の手5六歩を待っていたのだ。
 上手5六歩に、2二角成、同銀、5六飛、7八角(次の図)


 ここで凡人はまず6七歩を考えるだろう。しかしセンスの良いこの家治将軍には、攻めの構想が見えていた。
 まず8二角と打つ。上手は6一飛だが、そこで5二飛成(次の図)


 飛車を切って、5二同金に、7二金と打ったのだ。そして6三飛に、7四銀(次の図)


 ソフト「激指」もこの攻めは思いつかなかったようだ。
 飛車を切って、飛車を取りに行くのだからあまり効率は良くないのだが、この場合は遊びそうな8五銀が使えたこと、そして後手陣がうすいことでこの攻めが効果的になる。
 こうした時に、「美濃囲い」の優秀さが際立つ。
 ただし、「激指」的にもここはまだ「互角」だが、将軍はここからリードを広げ勝ちきった。

 図以下は、4五角成、6三銀成、同馬、6六歩、6九飛、6五歩、5三銀、7三角成、同馬、同金、8九飛成
7一飛、5一歩、6四桂(次の図)


 以下、徳川家治の勝ち。将軍の快勝譜となった。


徳川家治-五代伊藤宗印 1780年
 これは7九角と下手が9七にいた角を引いた瞬間に8六歩としてきたケース。これで下手が悪くなるのなら、この戦法は成立しない。
 8六歩には3つの対応がある。
  (1)同歩、同飛、8八飛  ←本譜の順
  (2)同歩、同飛、8七歩、8四飛、9六飛(または5七角)
  (3)8八飛、8七歩成、同銀
 どれも有力。下手は互角以上に戦えるようだ。
 (2)の同歩、同飛、8七歩に5六飛は、9四歩で下手良し。


 本譜は、8八飛(図)とぶつけた。以下、同飛成、同角、7五歩、8二飛、7三桂。
 そこで下手の家治は、8四歩から「と金づくり」。上手宗印は7六歩。
 8三歩成、6五桂、7二と、5三銀、7三と、4二銀上、7二飛成(次の図)


 ソフトの評価もまだ「互角」。
 ここで上手は7七歩成としたが、ここでは5七桂成(同金なら6八飛)もあった。
 なお、「激指」のお奨めはなんと6四歩。(歩切れの下手に歩を渡さないという意味か)
 宗印は7七歩成と指し、同桂、7一歩、8二竜、7七桂成、同角、同角成、同銀、1五歩、7五桂、6四角(次の図)と進行。


 7七での駒の交換は下手が得をしたようで、「激指」評価は「下手有利」に。しかしそれは下手がこの後ずっと最善を指せばの話である。
 この図では8四竜(桂馬を取らせない)か、または5二竜、同金、6三とと指すべきだったようだ。
 実戦は8三竜だったので、7五角で桂馬を取られ、以下、6三と、1六歩、5二と、同金、1八歩でまた「互角」に。
 そこで上手は、1七桂(次の図)と来た。


 ここは上手も何を指すか難しい局面だった。五代宗印は1七桂と放りこんできたが、良い手ではなかったようだ。
 1七桂には、同歩と取って、下手が良かったらしい。同歩成、同桂で、そこで1六歩には、1二歩、同香、1三歩、同香、2五桂がある。この場合は(2八でなく)3八玉型なのが下手の得になっている。
 ところが将軍はこれを取らず、6六銀とした。
 以下、同角、同歩、2九桂成、同玉、2五桂と進んでみると、下手の受けが難しい形になっていた。桂馬がなくなって見た目以上にうすくなっているのだ。
 2五桂に、家治は2八銀とし、7九飛、5九金引、9九飛成、8二竜、6二銀、6四桂、5一金、5二金、5七桂(次の図)


 この図での「激指」の評価値は[-426]。
 実戦は、この図から8九歩、4九桂成、同金、9八竜以下、上手の宗印が勝利した。

 ここで4二金とすれば、まだ下手にもチャンスがあったかもしれない。
 その手順は、4二金、同銀、6二竜、5三銀、4二竜、同銀、4一銀というものだが、これを同玉なら2二金で先手勝ちになるが、3三玉と逃げられてわずかに届かないようだ。 

投了図
 これが実際の投了図。上手五代伊藤宗印の勝ち。
 宗印の1七桂の攻めの対応が勝負を分けた。


伊藤寿三-徳川家治 1779年
 この棋譜は上手が徳川家治で、下手が伊藤寿三なのだが、つまり下手の寿三が「家治流一間飛車」を用いた将棋。
 ふと思ったのだが、もしかしたら、この戦法、真の創始者は伊藤寿三ということも可能性としてはあるのではないか。寿三が最初に思いついて使い、それを見て家治将軍が「これは面白い」と採用し、五代宗印との将棋で何度も使った――ということもあるかもしれない。
 残された棋譜の上では徳川家治が1775年に指したものが一番古い。ただし、もともと、これらの棋譜は将軍の残した棋譜集に載せられたものなので、寿三が別のところで指していたとしてもわからないわけである。
 しかしそれを言えば、ほとんどの戦法は、「名もなき誰か」によって編み出されたものだろう。

 とりあえずここでは創始者は徳川家治ということで、「家治流」としよう。

 図は、下手の5七角に、家治将軍が6四銀と受けたところ。
 ここで6六角と寿三は指したが、これが好判断だったようだ。以下、同角、同歩、4二銀と進んだが、6六角には4四歩と角交換を拒否するのがあるいは最善手だったかもしれない。


 上手の家治は角交換して4二銀とし、下手の寿三は9四歩(図)とした。
 この手では代えて、7一角なら下手が良かったのではないか。

参考図1
 9三角成と馬をつくられて上手がたいへんという気がする(だから上手は角交換を避ける4四歩が最善かもしれないと考える)

 実戦の9四歩以下は、同歩、同飛、同香と飛車も交換。さらに、9八飛、9一飛と飛車を打ち合う。
 どうもこの飛車交換はやや上手が得をしたようだ。下手の9筋の香車が9三で成るよりも、上手が飛車を打って8六歩という攻めのほうが響きが強かった。香車があることが逆に負担になるケースだ。
 とはいえ、下手も頑張って、「互角」の形勢のまま進んだ。


 図は、今、寿三が2二銀と打ちこんだところ。
 これは78手目の場面。「激指」の評価値は[+77 互角]で、5一歩を最善手として挙げている。
 上手の家治の指手は3六桂。(「激指」の次善手)
 同歩、5五角、3七角、2二角、7三角成、6四銀、7四馬、5五角、4六桂(次の図)


 これはどちらが読み勝っているのだろうか。
 ここで家治は5七金。対して寿三は、5三歩、同銀、6五馬。4四角に、4五桂(次の図)


 下手の手のながれが調子よいように思える。が、だいたい歩や桂馬で攻めている時は調子よく見えるもの。(5四歩のほうが良かった可能性もある)
 下手が4五桂と打ったこのあたりが勝負どころだったようだ。家治は6四銀と逃げたが、失着。
 4八銀と指すところだった。以下、5三桂成、同角、5四銀、5一歩、8二飛成、4二桂(参考図)

参考図2
 これなら形勢不明。

 実戦の6四銀以下は、5三歩、5一金、8二竜、4二銀、5四馬(次の図)


 5四馬は、次に6三馬がねらい。この手が良かった。
 これだと後手から4七金がありそうに思える。ところがこの場合、それは同銀と取り、4九竜には、4四馬がある。同歩に、4三金(参考図)

参考図3
 これは同玉なら5四角の1手詰。3一玉も、2二角、同玉、3四桂、3一玉、4二竜、同金直、2二銀、4一玉、4二桂成以下詰み。

 実戦の進行は、6七金(ほかに手がない)、6三馬、6六角、4一馬(次の図)


 4一同金に、5二歩成。この手が“詰めろ”で、また下手玉は詰まないので、下手の勝ちになった。
 本局は全体的に、派手さはないながらも伊藤寿三の指し手が冴えていた。


徳川家治-五代伊藤宗印 1780年
 ここで6六歩と将軍は突いた。以下、5五歩、同歩、同角、6七銀、7六歩、同歩、6五歩、7七桂という戦いになった。
 この図で6六歩に代えて、上の例で寿三が指したように“6六角”として角交換になるとどうなるのだろう。

参考図4
 “6六角”に、同角、同歩。その時に上手からは2四角という手がある。7九角成がねらいだ。それを防ぐ4六角の合わせはあるけれど、それには3三角とかわされると、良いのかどうか。
 だから2四角には8三角と打ち、8四飛、7二角成、6二銀、9四歩(次の参考図)

参考図5
 ここまでの手順で、6二銀のところ6二金は、7一馬で、次に9三馬があり、下手が指せそう。
 この9四歩に7九角成なら、9三歩成で飛車が取れるので下手優勢。
 だから9四歩には同飛とし、同馬、同歩、同飛、7九角成、6七銀、8九馬と進みそう。
 これはこれからの将棋。上手は先に桂馬を得し、下手は二丁飛車で攻めることができる。
 つまり6六角からの角交換もある手だが、下手も上手も互角に戦える。

7七桂
 実戦はこうなったわけだが、上手五代宗印の7六歩と突き捨ててからの6五歩は、厳密には指し過ぎかもしれない。それを的確にとがめるような図の家治将軍の7七桂が好手だった。
 ここで上手は2二角または5四銀のような手がふつうだが、五代宗印は積極的に5六歩、同銀、6六角と攻めてきた。
 しかしこれもやりすぎだったようで、6六同角、同歩の角交換の後、6五桂、同桂、同銀と桂交換し、6一飛、5四歩(次の図)となってみると、すっかり振り飛車ペースだ。


 ここは下手優勢だが、下手の家治はこのリードを広げ、この将棋を勝ちきる。
 リードされるのは仕方ないが、「不利な将棋をいかに頑張るか」も将棋の重要なテーマである。上手の立場に立ってこの将棋を点検してみると、どうやらこの局面がポイントだったように思われる。
 宗印は4二銀と銀を引いたが、ここは4四銀と上へ出るべきところではなかったか。意味としては、下手に5五角と打たせない、ということ。
 以下、9四歩なら、7八角(参考図)

参考図6
 6八歩、4五角成、9三歩成、1五歩、8二と、5一飛、5三桂、5五馬(次の参考図)

参考図7
 やはり下手が少し良い形勢のようだが、下手も間違えやすい将棋になっていると思う。
 (「激指」の評価値は[+453])


 実戦はこうなった。どうも家治将軍は、振り飛車で左の金を前進させるのがお好きのようである。
 宗印は馬をつくって粘ろうという指し方だが、図の6三歩に8二飛と逃げた手が、敗着と言ってよいほどの手になった。6三歩には同金とするほうが粘りがあった。
 8二飛で、宗印は飛車と角とを交換して勝負という意味だったが、9三歩成、8三飛、同と、9五歩に、下手家治は飛車取りを放置して、8二飛(次の図)


 攻めの得意な家治将軍は、こうなると冴えてくる。飛車を取らせてもと金をつくって攻めていけば勝てると見ている。
 6三金、6四歩、1六歩、1八歩、9六歩、6三歩成と進み、その局面での「激指」の評価値は[+1757]になっている。
 以下、徳川家治が順調に勝ちきった。

 この図をこうしてみると、やはり「美濃囲い」の優秀さがわかる。「美濃囲い」が一般に流行するのは、この10年後くらいからのことである。五代宗印や家治将軍はそれを先取りして指していたのである。
 そして「美濃囲い」はこの戦法と相性がよかった。

 
 この徳川家治の「対右香落ち一間飛車」は、優秀な戦法だと思う。
 その後江戸時代の間に、時々この戦法を使う人がいて、棋譜がいくつか残っている。

相川治三吉-平岩米吉 1886年
 明治時代、“本所小僧”(小僧=天才少年)と呼ばれていたという相川治三吉(あいかわじさきち)がこの戦法を使った棋譜を残している。
 相川はまだ10代のうちに亡くなったらしく、大正時代になってまた天才少年が本所に現われ、「相川の生まれ変わりだ」と評判になったのが木村義雄。


 「右香落ち」の対局は大正年間に「廃止」ということに決まったらしい。廃止の理由はよく知らないが、廃止されたのはおそらく1914年(大正3年)である。

 土居市太郎-関根金次郎 1914年
 これが最後の「右香落ち」の公式戦対局か?
 土居市太郎は関根金次郎十三世名人の一番弟子。脚がわるかったが将棋で強くなって阪田三吉も倒した(=日本一強くなった)というエピソードがあり、その話を本で読んだ升田幸三少年が「よしわしも日本一の将棋指しになろう」と決めて家を出た、そのきっかけになった人である。そう、物差しの裏に、香車がどうのこうの、とメッセージを残して。
 駒落ちで上手が「初手5四歩」というのは、実はよく見られる手で、「右香落ち」では天野宗歩がこれをよくやっている。「左香落ち」の場合は今で言う「ゴキゲン中飛車」のような将棋が上手のねらいになるが、「右香落ち」の場合は、右銀を5三(6四や4四)に素早く進出させる「飛車先歩保留型相掛かり」の思想がベースになる。(この指し方は前々回の本報告part70で解説した。)
 「右香落ち」の駒落ち将棋が廃止されてしまって、せっかくこの戦法(家治流)を勉強したのに使う場がないのは、残念なことである。
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終盤探検隊 part71 第十代徳川将軍家治

2015年12月15日 | しょうぎ
 先手は5六歩、後手は5四歩、「5筋の歩を突き合う相掛かり」は、1772年に誕生し、それに興味を持った徳川将軍はこれを研究するようによく指した。
 この「5七銀5三銀の型」の「相掛かり」は、大正時代から昭和初期にかけて、主流となっていった戦型である。


   [暗黒の穴]
 いや、球と見えたのは誤りで、それは暗黒の穴であった。
「あれはいかなるものです」
 青円は日円に尋ねたが、日円もその無気味な天体の正体をすぐに判じることはできなかった。
 それは空谷(くうこく)であった。   
                     (『妖星伝』(七)魔道の巻より)


 
棋譜鑑賞 伊藤寿三-徳川家治戦 一七七七年 御城将棋


 伊藤寿三と徳川将軍との一局だが、これは日付が11月17日になっている。ということは御城将棋である。(御城将棋は毎年この日に行われることに決まっていた)
 伊藤寿三はあの詰将棋の天才看寿の息子。

 これは「平手」戦で、前回および前々回鑑賞してきた棋譜と同じ「同型」の「相掛かり」戦になった。

 「3五歩、同歩、3三歩」と先手の伊藤寿三が仕掛け、後手の徳川家治(第十代徳川将軍)の同桂に、寿三が4六銀と出たところ。五代伊藤宗印の開発した仕掛け。
 ここ(4六銀)までは前例通りに進行したが、そこで将軍は新工夫を見せた。(前例は4四銀)
 7五歩。 同歩に、5五歩(次の図)


 後手の飛車の横利きがすばらしい。これで3四の桂頭を守っている。
 これはとてもグッドな指し方に見えるが、これは先手寿三の7五同歩が素直すぎたのである。7五同歩で、3五銀なら、先手が良かった。

 寿三は5五歩も同歩と素直に取り、6五桂、6八銀、5六歩と進んだ。
 そこで先手どうするかだが、寿三は3四歩と打ち、同飛と指せて、それから4五桂と桂を跳ねた。


 これは5三の銀取りにもなっているから、後手は同桂と応じ、同銀。この銀が飛車取りになっている、という先手の攻めだった。これは先手の攻めも成功しているようで、形勢は互角。
 ところが、この図の4五桂には、4四銀と応じると、この先手の攻めを後手はとがめられていたようだ。すなわち、4四銀、3三桂成、同角、4五桂なら、1五角と出て、2五飛に、5七歩成(参考図)

参考図
 以下1五飛、5八と、同玉となりそうだが、これなら後手ペースの将棋。


 上の4五桂から、同桂、同銀、5七歩成(図)と進んだ。
 将軍は飛車を逃げず5七歩成としたのだが、単に8四飛だと5六銀や5六飛で「歩」を払われてしまうのがくやしかったか。しかし「激指」で調べると、それは(互角に近いが)後手わるくない。
 むしろこの5七歩成が悪手で、3四銀と飛車を先手が取れば、先手良しだった。この3四銀は取れる飛車を取るあたりまえの手で、寿三はなぜか3四銀としなかった。(やはり“接待”なのだろうか)

 5七同銀、同桂成、同金、8四飛、3四歩、4二銀、5六飛、6五桂、5八金、5七歩、4八金、4四歩、3三桂(次の図)


 今、先手が3三桂と打ちこんだ。
 将軍はこれに3一玉としたが、ここは同銀が正解だったようだ。同銀、同歩成、同角とし、5四歩に、6四桂(参考図)

参考図
 これは先手が1六飛と逃げて(後手の1五角を封じる意味もある)、まだ形勢ははっきりしないが、後手はこれを選ぶべきところだった。

 というのは、本譜の順は、先手有利になるチャンスが生じたからである。
 3三桂に、実戦は3一玉、5四歩、4五歩、5三歩成、5八銀、6八玉、5三銀と進んで、次の図となる。


 この図で、先手の伊藤寿三は4一銀と“割打ち”を打った。

参考図
 しかしここは4四桂と打つのが正解だった。これには7七歩というような返し技も見えるが、それには同桂と応じ、4四飛には、6五桂で、これは先手好調子。
 よって4四桂には、4二金右、3二桂成、同玉、4一桂成(次の参考図)

参考図
 以下8八角成、同玉、4一玉に、3三銀と打って攻めていけば、先手良しだ。(まだ勝負のアヤは残っているが)


 ところが寿三の指した手は4一銀。こう打ちたくなるところであるが…
 以下、4二金右、3二銀成、同玉、2一桂成、8八角成と進む(次の図)


 寿三の指した4一銀から金をはがす手と、参考図で4四桂から金をはがす手とでは、先手の駒台の上の持駒が違う。この場合、桂を残すより、銀を駒台の上に残す方が価値が高かったのである。“少しの違い”だが、その“少しの違い”で、勝ちと負けの明暗が分かれるのが将棋というゲーム。銀があれば4一桂成~3三銀で良しだったが…、ということである。

 図の8八角成以下は、同玉、7七歩、同桂、同桂成、同金、6五桂となり、寿三はそこで3三金。家治、2一玉(次の図)


 ここはすでに理論上は先手負けだが、7六角と打てば後手が間違えたかもしれない。たとえば5四銀打なら、6五角で、先手勝ちになる。(7六角には、6八銀、6五角、5四桂が正解手)
 寿三は5三飛成としたが、7七桂成、同玉、7六銀、同玉、9四角(次の図)


 以下、徳川家治将軍は先手玉を即詰みに打ち取った。(あとの指し手は省略)


 この将棋は先手は2六飛型、後手は8四飛型の「相浮き飛車」である。
 「相掛かり」の魅力はこの“浮き飛車”にあるといえるかもしれないが、やがてこの“浮き飛車”先手2六飛型は、後手の「引き飛車6四銀戦法」に敗北する。
 その結果――― 


【5筋の歩突き合い型相掛かりの発展Ⅱ 相引き飛車】

4六銀図
 「5筋突き合い型相掛かり」は、浮き飛車から「相引き飛車」へと流行が移った。1933年(昭和8年)頃のことである。
 「先手浮き飛車」が「後手引き飛車6四銀戦法」に敗れたからであった。(それについては前回part70に書いた)

 それなら、先手で「引き飛車4六銀戦法」にすればいいではないか――とうことで、「相引き飛車」に流行が移行したのである。
 “4九金のまま4六銀”というのが特徴である。

 さて、先手の「4六銀」に、後手はどう応じるのが良いか。
 考えられる手は、(1)6四銀、(2)5二金、(3)4四銀、(4)4四歩、(5)8八角成
 このうち(1)(2)は先手が良くなるのではないかと思う。
 (3)(4)(5)はどれも一局だが、最有力は(4)4四歩で、よく指された。

土居市太郎-木村義雄 1935年
 この型の流行は1935年頃から10年間である。この図の最初の出現は1933年の「土居市太郎-花田長太郎戦」と思われる。
 
 さてこの図だが、後手の3一銀、6一金が立ち遅れている。そこがつけ目で、だから3五歩と行きたいところ。
 しかし3五歩には、4五歩、同銀、4二飛という受けがあった。以下、3七桂、8八角成、同銀、3三桂、4六歩、4五桂、同桂、同飛、同歩、5七桂で、後手優勢ということが発見された。

 この受けと反撃があるので、この図で5五歩が定跡となった。5五同歩なら、今度は3五歩で、今の変化で後手からの角交換ができないので先手良しになる。
 よって、先手5五歩に、後手は4二銀上とし、以下、3五歩、4三銀、3四歩、同銀、2四歩、同歩、同飛、2三金、2八飛、2四歩、5四歩、同銀(次の図)


 ここで5五銀から4六の攻めの銀をさばいて先手良し――というのが当初の感覚だったようだ。
 5五銀、同銀、同角、6四銀、8八角、3二玉(次の図)


 先手の持駒は「銀歩三」。よってこれを「銀歩三定跡」と呼ぶこととなった。
 つまり定跡になって名前が付けられるほどよく指されたのだが、ところが実際の勝率は後手が良かった。これはやってみて初めてわかったことで、この図になると先手どうもいけないようだとやがて認識が変わってきた。
 この「土居市太郎-木村義雄戦」も後手の木村が勝利している。

 そこで、銀を5五でぶつけるところで、代えて5八飛でどうか。
 ――など、どこかで先手が工夫をする必要に迫られるようになった。その結論までは出ていないが、4六銀がはっきり先手良しにならないなら、一旦5八金とするのはどうだろうか。


6四銀図
 4六銀と出る手を保留して5八金と先手が指せば、それならと、後手から6四銀とやってくる手がある。今度は先手が受け身になる。
 やはりここで先手には、(1)6六歩、(2)6六銀、(3)2二角成という手段がある。
 このうち(1)6六歩と(2)6六銀とを紹介しよう。

神田辰之助-花田長太郎 1935年
 (1)6六歩の場合。後手は7五歩と仕掛ける。
 これに対して、6五歩、同銀、2五飛という手も何局か指されていたが、冷静に7四銀が良い手とわかり、やがてこの手段は消えた。
 後手の7五歩に対して、6七金、7六歩、同金と応じるのが最も多い対応である。以下、7五歩に、7七金(次の図)


 一瞬妙ちきりんな形になるが、次に6七金寄とし、6八銀上で形は落ち突く。後手も一気には攻められないのでさらなるアイデアが必要な中盤となる。それは先手も同じだが。 


 この「神田辰之助-花田長太郎戦」はこのようになった。
 この戦型は、先手はどこかで6五歩とし角を使いたい――というような将棋になる。
 後手の“7五歩”の位がどれくらい利いているか。先手は持駒の「二歩」を生かす攻めをしたい。

 図は、後手花田の5五歩に対し、先手の神田が3五歩として、本格的に戦闘が始まったところ。同歩なら、1五歩、同歩、4五桂というような攻めだろうか。
 花田は図の3五歩に2四角と応じ、以下2八飛、3五歩、2二歩、同金、2五歩、1三角、2六飛、3六歩、同飛、3四歩という、トッププロらしい深みのある応酬となっている。この花田長太郎の受けにはただただ感心させられる。


 ここで先手は切り札の“6五歩”。
 ここは少し、後手が良い。花田のここ数手の対応が天才的だった。このままだと後手から3五銀や4六角で銀を手にして7六銀と打つ手が厳しい。
 この将棋は“名局”で、ここからも見ごたえのある内容だが、解説はここまでとしよう。
 この後、やや劣勢な神田辰之助が激しく攻め、その迫力に押されたか、花田が対応をどこかで誤ったらしく、神田の逆転勝ちの結果となっている。
 

銀対抗図
 後手6四銀には、(2)6六銀もある。
 先手番なのに受け身になるのは面白くない気もするが、しかし後手もこれで攻める手はなく、ではここからどうするかとなると悩ましい。たとえば後手が4四歩とすれば、先手からの5五歩仕掛けなどが先手の権利になり、6六銀が攻めの銀に転じる。
 この図からたとえば先手が左銀を6八~5七~4六と進出させれば、「二枚銀」である。

平野信助-石井秀吉 1935年
 そして後手も「二枚銀」で対抗するとこうなる。こういう相二枚銀の戦型は、実は大正時代に実戦例が多く、昭和初期はこの型を回避する傾向がみられる。理由はよくわからない。
 さて、この図で先手はどう指すか。7九角から3五歩を狙うのもあるようだ。
 実戦は、3七桂と指した。後手も7三桂とし、2六飛、8四飛と「同型」で追随し――


 そこで先手平野信助(丸田祐三の師)は、3五歩と仕掛けた。3五同歩に、5五歩、7五歩、5四歩、7六歩、4五桂、5七歩、6八金右、8五桂と進んでいる。
 ソフト「激指」で調べるとこの仕掛けのあたりは「互角」。互角ならお互いやる価値はあるわけで、この「二枚銀」で浮き飛車にしてからのこの戦い方は面白いと思う。なぜこの型が流行しなかったのか不思議だ。
 次に紹介する「花田式」があったからかもしれない。

萩原淳-花田長太郎 1936年
 「銀対抗型」に関しては、攻める側(この図では後手)が優位を展開した。
 花田長太郎が編み出したこの「6二金型下段飛車」が猛威をふるったからである。
 花田のこういう将棋をリアルタイムで見て、升田幸三(この当時18歳四段)は花田将棋に憧れたのであろう。
 この後、後手から7五歩、同歩、6五銀という攻めが強力。これによって「銀対抗」は消えていったようだ。
 後に加藤治郎はこの後手の陣形を「花田式」と呼んでいるが、花田長太郎の創始したこの形は戦後の「角換わり腰掛銀」にも生かされることとなった。


基本図
 さて、この「基本図」は、先手が5八金、それに対し、後手が5二金としたところ。
 つまり先手も4六銀を見送り、後手も6四銀を指さなかった場合である。
 ここで4六銀ももちろんあるが、以下4四歩、3五歩、4三金、3四歩、同金、3五歩、3三金の展開は、先ほど見てきた後手6四銀から7五歩の攻めとだいたい同じような将棋となる。この「銀と歩の対抗型」はかなり指されているが、はっきりした結論がでるまでには至っていない。だからもちろん、この図での4六銀はある。
 ここからは4六銀以外の手を見ていきたい。
 しかし4六銀以外の手となると、ここでは「6六歩」と、それ以外には「4六歩」しかなさそうだ。

4六歩図
 「4六歩」と突いた場面。ここからどう進むのであろうか。
 ここで後手6四銀はもちろんあるが、それ以外の手となると、やはり〔A〕4四歩か〔B〕6四歩くらい。

 まず〔A〕4四歩の場合。後手が角道を止めるとどうなるか、という問題。

花田長太郎-木村義雄 1936年
 5三銀型で相手の攻めを受けて勝つのが木村義雄の将棋だった。「木村不敗の陣」という「香落ち」での陣形があるが、実は「平手」では、相掛かり5三銀型もまた「木村不敗の陣」だったのである。
 受け将棋の人は、4四歩と角道を止めるような手を平気で指す。
 しかし花田長太郎は相掛かり先手番で6六歩という手を指した棋譜がほとんどない。「攻めの花田」と呼ばれた男である。(ただし後手が6四銀と攻めてきた時は別)
 1935年から1937年にかけて、「実力制第1期名人」を決める八段総当たりのリーグ戦が行われた。それぞれの相手と先後一局ずつ(つまり二局)を指す。しかもその一局一局が持ち時間各13時間の二日制というのだから大掛かりな勝負である。
 名人候補の二人が激突し、その初戦がこの戦型になったのだった。
 この将棋、「相引き飛車」で始まった将棋だが、後手の木村が「4四歩」としたのを見て、先手の花田は浮き飛車にしたのである。花田長太郎は、この形で3五歩、同歩、4五歩と仕掛けて攻め切れる、と考えたのであった。この型の攻めも“花田流”と呼ばれた。
 ただしこの攻め方に関しては、土居市太郎も指しており、厳密にどちらが先にやったかはっきりしない。(おそらく土居ではないか)

 3五歩、同歩、4五歩、3四銀、4六銀、4三金右、5五歩(次の図)


 「攻めの花田」と「受けの木村」の戦い――第1ラウンドは、花田長太郎の勝ち。
 この注目の一戦で木村に攻め勝った印象が強烈で、それで“花田流”と呼ばれるようになった。
 
 この花田の勝ち方を見て、なるほど、こう攻めればよいのかと、他の将棋指しも思ったのだったが――

大山康晴-細田清英 1936年
 ところが上の名人戦の「花田-木村戦」(8月5日)の数週間後8月23日に行われたラジオ対局で、大山康晴という大阪の奨励会3級13歳の子(これが大山の公式戦のデビュー戦で、東西天才少年対決というような企画だった)が見せた手が、話題を呼んだ。
 それが図の7七桂。これは先手と後手の攻めの構図が逆になっているが、上の花田が指したのと同じ攻め7五歩を後手細田少年がやってきたのだが、対して大山少年は7七桂と指したのだった。
 この手はどうやら関西で指されていたらしい。関東ではしかしまったく初めて見る手だったようだ。
 しかも、(攻める側は)対策がわからない、ということで話題になったのだった。そして良い対策はついに出てこなかった。
 花田流(土居流)の浮き飛車からの攻撃は、この桂跳ねに敗れたのだった…。

内藤国雄-中原誠 1983年 王座戦
 時は流れて1983年。王座戦がついにタイトル戦になったその最初の年は前年の王座優勝者内藤国雄に中原誠が挑戦する三番勝負、その第3局。 内藤43歳、中原36歳。
 この前年1982年の王位戦で内藤国雄は中原誠に4-2で勝ち、タイトルを久々に手にすることになるのだが、その七番勝負の第1局、第5局が、この戦型であった。その時に内藤がこの戦型で2勝を上げたのである。
 戦後、5筋を突かないで4筋を突く(そして4七銀~5六銀とする腰掛け銀型)相掛かりが主流になった。それに対して、後手の中原王位が、5四歩と突いて5三銀と構える“旧型”の「相掛かり」を採用したのだった。
 そしてこの形になった。
 注目点は2点ある。先手の右銀が「4七銀」であることが第1。そして後手の中原の「右玉」作戦。
 まず「4七銀型」なので、3五歩に3三桂とされた時、3六銀という銀の攻めの応援が利くということ。その時に4一玉型なら、先手良し。
 ところがこの場合、後手は6二玉と「右玉」にしている。この内藤の攻撃を最初から想定していたので、後手中原はじっと玉を居玉で様子をうかがい、攻めてきそうだとわかると6二玉。これで仮に角交換をしても先手のねらい筋7一角は消しているし、玉が戦場から遠ざかっているのは大きい。
 中原は、内藤が3五歩と攻めてきたタイミングで3三桂。“例の手”だ。
 これがお互いの新工夫であった。
 「右玉」という戦い方は、戦後になって発展した。戦前にはほとんど見られないし、江戸時代にもなかったように思われる。しかし大正時代の棋譜で「右玉」を確認したので、発想としてはすでにあったらしい。

 この将棋は3三桂以下、5五歩、同歩、同角、3五歩、5六銀、3四銀、5四歩、同銀、4四角、5三金、同角成と進んだ。
 結果は後手中原誠が勝利し、初代の「王座位」を手に入れた。

 さて、図から3六銀ではまずいのだろうか。
 3六銀には、3五歩、同銀、1三角が、後手用意の受け。以下、2四歩、同歩、同銀、2五歩(次の参考図)
 参考図
 2五同桂、2四角、3三桂成、同金は、先手の攻めを後手が受けとめた形。
 こうした攻めの時に、後手玉が4一玉型ならまだ無理が利く可能性もあるが、6二玉型なので後手玉が遠く全然ダメ。 ということでこの戦型は、この形が後手の決定版となっている。


6四歩図
 では次に、先手の「4六歩」に対し、後手が4四歩を突かずに待ったらどうなるのか。
 ということで〔B〕6四歩としたのがこの図である。
 あくまで角道を止めず何か指すとすれば、ここは4五歩と突くか、または4七金~3七桂ということになる。
 ここで4五歩もよく指された。

神前光三-小堀清一 1936年
 一例はこんな感じになる。後手も6五歩と位を取り、先手が2六飛と飛車を浮いた時に、後手の小堀清一が7五歩と仕掛けたところ。
 先手は次に3七桂として、それから3五歩と仕掛ける予定だった。4七金が上ずって見えるが、これを指さないで2六飛だと角交換から3八角と打たれてしまうのだ。
 この形、4五歩と位を取っても、むしろ先手の陣形が弱体化するだけで面白くないと、指してみるとわかってきた。

阪田三吉-花田長太郎 1939年
 阪田三吉は例の「南禅寺の決戦」の後、名人挑戦者決定戦のリーグ戦に参加した。そこでの「阪田三吉-花田長太郎戦」。阪田69歳、花田42歳。
 阪田がこの戦型で工夫を見せた。2二角成から3七角。
 以下、7三角に、4六銀、3三銀、8八銀と進行。これは先手手損なので良い作戦とは思えないが、それでも今までに見たことのない新鮮な感覚がある。すこし苦しめの将棋をひっくり返すのが得意の阪田だから、一手損くらいは問題ない。


 その将棋は、進んでこうなった。
 ここは3四歩、同銀、4七金(角交換に備える手。次に3五歩がねらい)とすれば先手ペースだったようだ。
 実戦は、6六歩。これは同歩に、同銀として、中央の位を押さえていく作戦だ。作戦自体は悪くないが、こういう金銀が前進する将棋は勝ちづらい。計画のわずかなほころびが命取りになるからだ。


 なんという大模様。
 しかし将棋は花田の勝ち。実戦進行は、図より、7八金、8六歩、同歩、8五歩、7七玉、8六歩、8八歩、9七歩成以下。


6六歩図
 最後に、6六歩と突く持久戦タイプを紹介する。
 これに対して後手が攻め(6四銀など)を考えるのは今まで見てきた型の先後逆のケースとなる。
 これから見ていくのは、先手が6六歩、そして後手も4四歩から完全に持久戦に移行する場合である。

神田辰之助-木村義雄 1935年
 まず、先手の神田辰之助が6六歩。神田辰之助は関西の人気棋士で、激しい言動が多かったらしい。1942年に第3期の名人挑戦者になったが、0-4で木村義雄名人に敗れている。
 「神田事件」(1934年)というのがある。これは神田辰之助が七、八段を相手に好成績をおさめているのに神田の八段昇進を将棋連盟が却下したことをきっかけとして、花田長太郎、金子金五郎など大物八段までが連盟を脱退して新グループをつくる――というような事件だが、これは第一期実力制名人戦を主催する毎日新聞社に対してのやっかみから、これを何とか潰してやろうという朝日新聞社の思惑があって、棋士達はそれに踊らされたというのが真相だ、という見方がある。
 神田辰之助は八段になり、名人戦への参加も認められることで、この問題は一件落着となった。
 

 後手の木村義雄も4四歩とし、以下このように「相雁木」になった。
 この「5七銀5三銀型相掛かり」から角道を止めると、「雁木囲い」に移行するのは自然なことである。だからこの頃、「相掛かり相雁木」はよく出現した。


 先手の神田辰之助は3八飛から仕掛け、後手木村義雄はその手に乗って「銀矢倉」に組み替えた。
 先手も6八銀と5七の金を引き、「銀矢倉」に。


 そして金を攻めに使い、おもしろい“攻めの理想形”に。
 先手有利で局面は進み、そのまま先手の神田が押し切った。

 「相掛かり相雁木」は1935年頃から約10年間、よく現れた。
 しかし5年や10年で結論が出るほど、単純なものではないだろう。この形を現代棋士が本気できわめていくとどうなるか、見てみたいものだ。「相掛かり相雁木」も見られる日が、あるいはこの先来るかもしれない。(「横歩取り」だって「ゴキゲン中飛車」だって、まさかこれほど多く指されることになるとは30年前には想像もできなかったわけだし)
 今だったら、銀矢倉に変身した雁木を、さらに穴熊にという発想はきっと出てくるだろう。

塚田正夫-木村義雄 1941年
 今度の例は「相雁木」ではない例。後手の木村義雄は「矢倉」に組んで待った。3三角と上がって、4五歩の仕掛けには同歩と取る用意をした。
 その3三角を見て、先手塚田正夫(花田長太郎の弟子、当時27歳)はここで6六歩と突いた。これで持久戦に。以下、6七銀で一旦雁木模様だが、さらに銀を動かす。


 5七の銀を6八~7七として、「銀矢倉」に。「金矢倉vs銀矢倉」の戦いである。こういう戦型も当時はよく見られた。もちろん「相金矢倉」もある。
 さてこの図は、先手は7九玉型なのでこのままでは角が使えない。というか、玉が入城できにではないか。というわけで、塚田はいったん6九玉と戻り、7九角~6八角とし、それからまた玉を7九へ。
 しかし後手だって、3三に上がった角を2二に戻って組み換えたので、“お互いに二手損”だからつり合いはとれている。


 後手から仕掛けた。7五歩。
 以下、同歩、6五歩、7六銀、7四歩、6五歩、7五歩、6七銀、7四銀、4五歩(次の図)


 この将棋は、後手木村名人が先手塚田の銀矢倉を攻め潰して勝ち。どうもこの図ではもう先手が少し悪いようだ。
 この棋譜から感じることは、「金矢倉」よりも「銀矢倉」のほうが手数がかかる。だから同じように組んでいくと「金矢倉」が先に攻めることになる。「銀矢倉」にするなら同じように進めてはいけないのかもしれない。

 「5筋の歩突き合い相掛かり」の持久戦はこういう将棋になる。「矢倉戦」との違いは、飛車先の歩がお互い駒台上に乗っていることで、その分攻めも厳しい。


 「5筋の歩突き合い型相掛かり」は、1920年代から1945年まで流行の主流になった戦型である。終戦後、「5筋の歩を突かない相掛かり」がそれにとって代わった。ただし、「矢倉」や「振り飛車」が代わって時代の主流になり、「相掛かり」そのものが少なくなっていった。しかし大正時代から昭和初期にかけては、将棋と言えば「相掛かり」、というほどの王道だったのである。
 その「5筋の歩突き合い型相掛かり」は、1772年「五代伊藤宗印-八代大橋宗桂戦」で誕生し、1775年から1780年までの間、徳川家治が五代伊藤宗印、伊藤寿三を相手に研究した形である。
 その戦型が花開いたのがその時期だったというわけである。徳川家治の熱中した研究から150年後に花が咲いたということになる。


【 5筋の歩を突かない相掛かり=すでに大正時代に流行っていたらしい 】

 「5筋の歩を突かない相掛かり」は、現代の主流で、これは大戦後になって流行を始めた。流行りはじめた頃(1947年頃)、この指し方の先駆者である小堀清一の名を冠して「小堀流」と呼ばれていた。
 しかし今回、よく調べてみると、この「5筋の歩を突かない相掛かり」、もっと前に何人か指している人がいて、もともとあった指し方だったのだとわかった。
 「5筋の歩を突き合う相掛かり」は、「5七銀5三銀型」の新研究などから1924年頃から爆発的に人気戦法となっていたようだが、“その前”には、さまざまな形の「相掛かり」が試され、現れているのである。

花田長太郎-村越為吉 1921年
 その例がこの将棋だ。これは大正10年の将棋だが、先手の花田長太郎のこの指し方は、現代で「中原流急戦」と呼ばれる指し方で(ただし「中原流」は玉が5八だが)、5筋の歩を突いていない。5筋の歩を突かないでおくと、飛車を横に活用がしやすいのでこの方が手広い。
 そして後手の陣形。これも「5筋の歩を突いていない」し、「腰掛銀」である。現代とまったく変わらない指し方である。
 この後手番の村越為吉という人は、この「5筋の歩を突かない」ということにこだわって指していたように思われ、何局かこういう将棋を指した棋譜が確認できた。

 つまり、大正期には「相掛かり」も、あらゆる形が試され、指されていた。
 その中から、「5七銀5三銀型」が何かのきっかけで人気となり、流行りはじめ、それが新聞棋戦の誕生と重なって、主流になっていったのだと思われる。
 その結果、相対的に「5筋の歩を突かない相掛かり」は日陰の存在になったが、それでもその戦型はずっと可能性を持っていて、いつかは花開く運命にあっただろう。たまたま「5筋を突く相掛かり」がその時代の人々の心をつかみ先に流行ったということなのだ。


【 これは未来の横歩取りか 】

郷田真隆-先崎学 1994年
 「5筋の歩を突き合う相掛かり」は、稀にだが、現代でも現れる。
 この図の局面は、「初めて見る」という人も多いと思うが、「棋譜でーたべーす」の中にも1990年以降で30局くらい確認できた。つまり1年に1局くらい出現する将棋ということになる。

 この局面がどうやって現れるかと言えば、この「郷田真隆-先崎学戦」の場合は、7六歩、3四歩、2六歩、5四歩という「ゴキゲン中飛車」の出だしで、そこで5六歩と突く。この先手郷田が指した5六歩がポイントとなる手で、後手の5五歩の位取りを拒否する手。それを見て8四歩と後手(先崎)が居飛車の方針を選択し、以下図の局面になる。
 他に、7六歩、8四歩、5六歩、5四歩、2六歩、3四歩というようなルートでこの局面になる場合もある。

 元々は古い将棋の型で、1935年~36年によく現れている。
 この型で「横歩取り」になった初めての将棋は1941年「小泉謙吉-木村義雄戦」で、初めての「相横歩取り」は1986年「勝浦修-東和夫戦」だと思う。


 現代の将棋は「横歩取り」の知識と経験の厚みが増している。そうしたことをふまえて、この局面でどう指すかを考えた時、「横歩を取ってどうなる?」とまず思うところだろう。そうした将棋もあるし、「相横歩取り」になった将棋もあって、じつはこの「郷田真隆-先崎学戦」がそうである。

 ここから7七銀、5六飛、5八歩、3三桂、3八金、4二銀、2四飛、2三歩、2八飛、5五飛、3四角、5三角、2四歩… という展開になっている。
 この将棋は郷田勝ち。この対局は王位戦リーグの一戦だったが、郷田真隆はこの年挑戦者となり、羽生善治王位を相手に七番勝負を闘った。

 この型が“未来の横歩取り”になるかもしれない。
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終盤探検隊 part70 第十代徳川将軍家治

2015年12月11日 | しょうぎ

   [巡礼黄金丸]
「鬼道衆が集まって造った船だ。黄金城の陋にこもって造られた船だ。これは黄金丸(おうごんまる)という名の船なのだ」
 霊船黄金丸は母星から遠ざかって行く。
「どこに行くのでしょうか」
「知れたことよ。虚空の巡礼の旅だ。そのおわりがどこになるのか、儂らの知ったことではない」
 暗く冷たい行手にも、星々の光があった。 
                     (『妖星伝』(七)魔道の巻より)



(1)棋譜鑑賞 徳川家治-五代伊藤宗印戦 1776年10月


 江戸期の「相掛かり」戦は、このようなお互いが角道を開けた状況から始まる。(この形は現代なら8~9割は「横歩取り」になる形)

大橋柳川-宮城佐市 1805年
 「初手2六歩から、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金」と進む型の「相掛かり」は、我々(終盤探検隊)が確認できた江戸時代の棋譜は3例のみで、この「大橋柳川-宮城佐市戦」(1805年)が一番古い。
 この傾向は明治・大正・昭和初期まで同じだったが、1933年(昭和8年)頃から、「2六歩~2五歩、8四歩~8五歩」という角道をすぐには開けないタイプのオープニングが流行の主役なっていく。――それは何故か、ということを後で述べる予定である。
 

 「大橋-宮城戦」の将棋はこのような形に進んでいる。この先手の型――「4八銀3七桂型」――で3五歩と攻めるのが、定跡となるほどよく指された。前回紹介した江戸時代の定跡書に載っている型だが、この場合は、後手が先手の3五歩の仕掛けにくる前に、8八角成と角交換し、後手2二銀に、そこで先手が3五歩、同歩、1四歩、同歩、1三歩と攻めていったところだ。
 先手は「中原囲い」だが、この陣形は、金銀四枚を守りにつかう、という戦術になる。現代の将棋もそういう傾向がよく見られるが、それは江戸時代にもあったのである。


 「徳川家治-五代伊藤宗印戦」に戻るが、今の「大橋-宮城戦」の陣形との違いは、「先手5七銀・後手5三銀」になっていることだ。家治将軍の研究グループはこの型を研究したようだが、この型はその後江戸期にはそう多くは指されていない。(なんらかの結論が早々に下されたのかもしれない。)
 しかしこの「先手5七銀・後手5三銀」の相掛かり、大正期頃から、大いに流行りはじめ、やがて昭和時代になると主役になっていくのである。
 
 さて、上手の宗印がここで7五歩と仕掛けた。
 同歩に、7七歩という、宗印の編み出した仕掛けで、この仕掛けは100年以上、相掛かり定跡の中に生き続けることになる。(定跡は「4八銀3七桂型」であったが)
 この将棋は、「右香落ち」なので、「同型」の将棋の場合は、上手が先攻することになる。

 上手の7七歩は、この場合は同桂と取る一手。以下、6四銀、6六銀、5五歩、3五歩、同歩、7四歩、同飛、7六歩(次の図)


 ここまで、前回のこの両者による対局と全く同じ。この7四歩~7六歩という手が、徳川家治の編み出した手。
 7六同飛、6八銀、4二銀、4五桂、7四飛、7六歩(次の図)


 7四飛と上手宗印が飛車を引く。この手で前回の将棋と離れた。(前回、宗印は3三桂と指した)
 7四飛に、下手家治、7六歩で、この図である。

 上手はまた同飛と取り、そこで下手5五歩。上手、同角。この角は同銀と取れない(取ると2六飛と飛車を取られる)
 以下、4六歩、4四角、5四歩、8六歩(次の図)


 この五代宗印という人の将棋は、アイデアにあふれている、という感じである。ここで8六歩と攻めてきた。同歩に、(同飛とするのもあるがそう指さず)宗印は、8七歩。同金と取らせて、7四飛と引く。
 面白い攻め方だ、下手からは5三歩成という攻めがある。そうなると上手に「桂」が手に入る。「桂」があると9五桂が厳しい、ということだ。
 下手家治は7五歩。以下、8四飛、8五歩、同桂、同桂、同飛、8六歩、8二飛、5六桂(次の図)


 8五で交換した桂馬を、まず家治が5六桂と両取りに打った。
 そして、宗印は予定の9五桂。
 以下、4四桂、同歩、5三歩成、同銀引、同桂成、同銀、7七金、7六歩、7八金、8六飛、9六銀、3四桂、2八飛7七桂、7九玉、8七歩(次の図)


 迫力ある闘いだ。
 下手は4四桂で角を取ったが、8七歩(図)。 これで下手の角も取られることになった。
 7七角、同歩成、同銀上、6六飛、同銀、7七歩、8一飛、5一歩、7七銀、7六歩、同銀、7七歩、同金、8八角、6八玉、7九銀(次の図)


 五代宗印の気迫を感じる攻めである。この将棋は宗印の“本気”を感じるがどうだろうか。
 しかしこの図で7八玉なら、下手が良かったようだ。(実戦の指手は5七玉)

参考図
 7八玉に、以下、9九角成、8七金、同桂成、同玉、5五馬、8六玉(次の図)

参考図
 こうなると、上手の攻め駒が足らず、下手が少し良い形勢。
 しかし“攻めの棋風”の将軍は、5七玉と逃げて、攻めの手番が欲しかったようだ。

 実戦の進行は、5七玉、7七角成、6五桂、7六馬、5三桂不成、同金、8四角、4二銀、6二銀、5二金、5三歩(次の図)


 6二金、同角成、7五馬、6六歩、5三馬、同馬、同銀、5二歩、5六銀(次の図)


 五代宗印は「5六銀」と打ち捨てて、同玉に、9二角と、“王手飛車”を掛け敵の攻めの主軸の飛車を取った。
 しかしどうもこの手が感触がわるい。
 ということで他に良い手がないか――と、ソフト「激指」に問うと、“4二玉”という答えが返ってきた(参考図)

参考図
 こういう手がノータイムで(つまり感覚で)指せるようになりたいものだ。この手が最善手とは気づきにくい。
 5一竜なら、3三玉とし、2一竜に、3九角(王手飛車)、4八飛、6四桂でたしかにこれは上手勝てそうだ。
 5一歩成でも同じ要領。
 だから4二玉には、下手2九飛が最善かもしれない。この2九飛は単に王手飛車を避けただけではなく、次に7九飛(銀取り)があるのだ。その2九飛には――

参考図
 7六角(図)という手がぴったりした手。これは次に4五桂、同歩、4六銀の寄せがある。6七金打と受けることになるかもしれないが、それには、やはり4五桂で、以下5六玉には、5五銀、同玉、5四銀、5六玉、5五金、4七玉、4六金として、下手の玉を下段に落として上手勝てる。


 実戦は9二角で“王手飛車取り”だが、家治将軍のほうにも6五角(図)という返し技があった。
 以下、8一角、5一歩成、同玉、3二角成、9二角(次の図)


 形勢不明である。
 実戦は6五歩、5五歩と進んだ。
 下手の6五歩では他の手(7四歩や6五銀)もあったかもしれない。
 そして上手の5五歩に、玉をどう逃げるか、それが勝負を分けた。


 この将棋は、「玉をどう逃げるか」が要所のポイントになって、形勢が揺れ動いている。「相掛かり」の将棋は玉が薄いのでそういうセンスが問われることも多い。
 ここで6六玉は5六飛と打たれてはっきり下手負け。
 結論から言えば、下手家治は、ここで5五同玉、または6七玉と指すべきだった。それで形勢不明の将棋。
 5五同玉は指しにくいが、仮に5四歩、6六玉となると、今度は6六が良い逃げ場所になり下手良し。(5六飛打ちがないから)
 だから5五同玉に上手は5四歩とせず、6四金というような手で勝負に来るだろう。すると6四金に、6六玉、6五金、同馬、同角、同玉で、形勢不明である。とはいえ、裸玉でこれは選びにくいところではある。
 6七玉には6九飛と打たれ、6八銀、同銀成、同金、7五桂以下攻められるが、これも形勢は不明。

 実戦では4七玉と逃げた。


 4七玉に、4九飛、3八玉、1九飛成、2三飛成、1八竜、2八歩、2六桂打で、この図である。
 仕留められてしまった。図以下、4七玉、5六金、3七玉、3六香、4八玉、2八竜、5九玉、5八竜、同玉、4六桂(次の図)

投了図
 4六桂まで、151手の「相掛かり」の熱闘譜であった。


 このような「5筋の歩を突き合う相掛かり」は家治時代の1772年の御城将棋(「五代伊藤宗印-九代大橋宗桂戦」)が誕生局となるが、それがその後どうなったかを見ておきたい。

【5筋歩突き合い相掛かりの発展】

大橋柳川-宮城佐市 1805年
 江戸時代はこの型の相掛かりがよく指されたようだ。実戦例は多くは残っていないのだが、1810年頃発行された複数のの定跡本にこの型の研究が書いてある。
 この図は今先手が3五歩、同歩、1四歩、同歩、1三歩と攻めたところ。その前に後手から角交換をしている。
 “相浮き飛車”であることにも留意しておいてもらいたい。

 我々の調査したところによれば、江戸時代の「相掛かり」戦法で主に流行したのは次の4種類のタイプである。
 (一)ひねり飛車タイプ  先手なら7七桂、後手なら3三桂と跳んで、飛車の横利きを生かして戦う
 (二)5筋の歩を先後お互いに突きあい「中原囲い」で3七桂と跳び、3五歩から仕掛ける、定跡として研究されたタイプ
 (三)角交換タイプ  相掛かりの戦型は角がお互いにらみ合ったままなので、どちらかが望めば角交換になる。
 (四)後手引き飛車6四銀型

 上の将棋は(二)である。 (一)、(二)はだいたい相浮き飛車。
 (三)について補足すれば、江戸時代は「角交換型の相居飛車」といえば、このタイプと「矢倉模様からの角交換」が多かった。
 現代のような「先後お互いに手損しないような洗練した手順からの角換わり」もあるにはあったが、それは先手後手双方の“合意”が必要だったということもあり、実現することが少なかった。

 また、同じ「5筋の歩突き合い相掛かり」でも、上で紹介した「徳川家治-五代伊藤宗印戦」の(五)5七銀・5三銀型のタイプは、家治時代以後、江戸時代には流行らなかったようで実戦例がほとんどない。

 しかしそれが大正時代以降、大隆盛をきわめることになる。その話をこれから記したい。
 
阪田三吉-藤内源三郎 1907年
 1907年はまだ明治時代。阪田三吉は37歳、これはちょうどプロ棋士になる決断をしたころの将棋である。
 江戸期の定跡本にある形である。ただし定跡の仕掛けは3五歩からなので、これは阪田三吉が5五歩と工夫をしたところ。5五同歩に、3五歩、同歩、そこで4五桂、4四歩、3三歩という展開になっている。 

川井房郷-蓑太七郎 1908年
 日本将棋連盟が毎年発行する『将棋年鑑』には、「棋士系統図」が載っているが、それを見ると「佐瀬勇次-米長邦雄の系統の祖」は、この将棋の先手番川井房郷(かわいふささと)という人物になる。
 この将棋が江戸時代1816年発行の大橋宗英著『平手相懸定跡集』に書いてある形そのままである。3五歩、同歩、3三歩と先手が仕掛け、これを後手が同金と応じたところ。定跡では3三同金が最善手となっているようで、それ以外の応手については触れられていない。
 ここから先手はどう攻めを続けていくのか見ておこう。
 3三同角成が定跡の手である。以下、同角、2三飛成、3二銀に――


 3三竜。 以下3三同銀、2二歩と攻める(次の図)
 こういう攻めを初見でふつうに指せる人がほんとうに才能のある人なのだろう。しかし凡人でも知っていれば、指せる。


 この2二歩を同銀ならもちろん6六角だ。
 ここで後手の蓑太七郎という人物は、8六歩、同歩、4四銀とした。8六歩、同歩は『平手相懸定跡集』には書かれていない手で、その定跡本には単に4四銀が解説されている。
 4四銀以下は、2一歩成、2九飛、6六角、8二飛となるが、そこで8六桂と打って7四桂を狙うのが『平手相懸定跡集』に書かれている順で、だからそれ(8六桂)を打たせないという意味で「8六歩、同歩」とこの将棋では後手が工夫をしたのである。
 形勢は「互角」というしかない。

 『平手相懸定跡集』の定跡の内容はこれらの将棋をみても、よく知られていたようだとわかる。どうやらこの本は明治期に再発行されたようだ。

 この型の結論が当時どうなっていたのかわからないが、「相掛かり」の流行形はここから少しずつ変化をしていく。
 桂馬(と飛角歩)だけで攻めるのは心細い攻めになるので、当然「銀」を攻めに参加させようと考えるのは自然な発想だ。つまり「5七銀」とし、さらには「4六銀」とするのはどうかと。

徳川家治-五代伊藤宗印(右香落ち) 1776年
 その形こそ、昔、徳川家治、五代伊藤宗印、伊藤寿三のグループが研究した形であった。この図は、前回part69で鑑賞した将棋の32手目4六銀の図である。
 5七銀(4六銀)型は江戸期には発展しなかったが、ここにきて進化が始まったのであった。1924年頃のことである。

木村義雄-宮松関三郎 1924年 
 1924年といえば、大正13年。木村義雄は19歳で、六段。さらに2年後は最高段の「八段」になる。加藤一二三や谷川浩司並のスピード出世をしたのが木村義雄である。
 やがて「相掛かり」における浮き飛車での攻めの理想形が発見された。この図の先手の陣形「4六銀3七桂型」から3五歩と仕掛けるのである。
 後手がこれと同じように7三桂としても、どうやら先手の攻めが成功する。
 それなら、ここで7五歩で、後手から先行してどうか。この将棋もそうなった。

 後手番としては、先手に理想形を許して攻めさせてはいけない。
 ということで、後手番がいろいろ工夫することとなった。

山本樟郎-金子金五郎 1927年 浮き飛車6四銀
 この将棋は後手が6一金型である。つまり5二金の一手を省略しているわけで、これなら、先手が3七桂と桂馬を攻めに使う用意が整う前に、後手から攻めることができる。
 この形で7五歩と後手から先に仕掛けてどうか。

金易二郎-花田長太郎 1928年 引き飛車6四銀
 さらに後手の手は洗練されていく。
 「8二飛」と引き飛車に構え、「6四銀」と出る。この形に辿りついたのである。
 引き飛車と6一金はバランスが良いし、二段目の飛車は受けにも利くし、5二飛と中央の攻めに参加させることもできる。
 そして、先手は4六銀と3七桂とを指して理想形をつくるのにあと「2手」が必要だが、後手はもう次に7五歩から仕掛けることができる。
 ここで先手は4六銀と指すのがほとんどで、他に1六歩が指されている。
 (4六銀と上がる手に代えて3七桂は指されていない。3七桂には、3五歩、同歩、3六歩、同飛、8八角成、同銀、2八角の攻めが先手は嫌なようだ。この後手の3五歩からの攻めは、後手8四飛型のときには先手から6六角があるのでうまくいかない攻めだった)

 4六銀に、後手はやはり7五歩と仕掛ける。同歩、同銀で、次の図。


 さて、この図からの数手、十数手が当時の棋士達にとっての最大の“問題”であった。
 ここで2五飛は、最初は相手が8六歩と攻め合いに来たので、7五飛以下、先手が勝利。
 しかしその後、後手は反省し2五飛に6四銀と銀を引かれてみると、2五飛はこの位置では働かず、結局飛車の位置を直すことになり、面白くないということがわかり、この手はやがて消えた。
 3五歩と攻めたいが、8六歩で後手が良い。

 よってここから先手は2二角成と角を交換し、同銀に、8八銀とする。
 以下、3三銀、1六歩、6四銀、1五歩、4四銀。
 「金易二郎-花田長太郎戦」はこう進んだが、先手の1六歩~1五歩のところでは3七桂や、または3五歩の攻めもあるにはあるが、いろいろ試された結果は思わしくなかったようだ。


 ここからいろいろやってみた結果、どうも先手に有効な筋が発見できなかった。後手のバランスがとてもよく、圧倒的な勝率を誇ったこの後手の「二枚銀」なのであった。

 こうして、「5筋を突きあう相掛かり」において、“先手浮き飛車”は後手の「8二飛6一金型」での「6四銀戦法」に敗れ去ったのであった。

 先手は戦術の大転換を迫られることになった。

 後手の6四銀に対して6六銀や6六歩という手も指された。これは角道が止まるが…。
 これらは守勢になる手なので、先手が攻め好きの人ならば不満のある進行になる。とはいえ、では実際に後手が攻めるとなるとそれもまた難しく、形勢ははっきりしない。「互角」なら、指す価値はお互いないでもない。だが先手番なのに守勢というのでは、やはり気に入らないところだ。
 しかし6六銀や6六歩とするなら―――“引き飛車”のほうが良いかもしれない…。
 
 そうした道を辿って―――では、“浮き飛車”を捨てて“引き飛車”にしたらどうか―――というところに次の流行は向かった。
 先手が「4九金型」で“引き飛車”にし、「4六銀戦法」で戦えばいいのではないか。つまり後手のやっていた戦法をそのまま拝借するのである。これなら、先手が攻勢になる。

 ということで、“浮き飛車から引き飛車へ”と流行が移ったのである。
 その節目は1933年(昭和8年)のようだ。

参考図
 しかし問題があった。この図である。
 当時の「相掛かり」は図のような角道オープンタイプで始まっていた。それで先手が“引き飛車”を指すとなると、この参考図をむかえることになる。13手目、今までは2六飛としていたところを、“2八飛”とした。
 ここでの“2八飛”は先手大丈夫なのだろうか。
 具体的には、ここで7六飛と横歩を取られるとどうなるのか。当時横歩を取ることは実際はかなり稀だったので、そんな心配はまず取りこし苦労なのであるが、そういう憂いは消せるなら消しておきたい。(この当時の棋士達は江戸時代に蓄積されたはずの「横歩取り」の知識がすっかり失われていたようだ。だから基礎知識のないそういう将棋はできるなら避けたかったのだろう)

木村義雄-金易二郎 1930年
 1930年に木村義雄が尊敬する兄弟子の金易二郎を相手に“横歩を取った”将棋がある。
 後手の2三歩に対して、3四飛(図)と取った将棋である。木村は、もし負けると“そらみろ”とばかりに批判されるであろう「横歩取り」に踏み切るのに、たいへん勇気を必要としたようである。当時の常識は、「横歩三年のわずらい」という格言に支配されており、つまり「取ってはいけない」となっていたからだ。
 しかし、木村義雄(当時25歳)はこれを取って、その将棋を勝った。
 これによって、「横歩は取ってはいけない」という常識の壁を打ち崩したのであった。

 そうなると、上の図での7六飛(後手の横歩取り)もあるかもしれない――。そういう心配も、相手がそう来る可能性は少ないながらも、しなければいけなかったわけだ。

金子金五郎-木村義雄 1933年 2六歩
 しかし、その“憂い”には、かんたんな解決方法があった。
 初手2六歩から「相掛かり」にすればよいのである。
 金子金五郎はこの初手2六歩をもっと前に(1929年頃から)一人指し始めていたが、だからその指し方には当時の棋士達も(自分ではまだ指したことがなかったとしても)すでに見慣れていた。


 指して見れば、これなら横歩を取られる心配もないし、なにも最初に角道を開ける必要もなかったと皆気づいたのであった。
 ここに、歴史上初めて、「初手2六歩」から始まる将棋が流行した時代が訪れた。
 「先手相掛かり引き飛車」(=2八飛)を指すため―――というのがその理由だったのである。


 この1933年のこの将棋(木村金子十番勝負の一局)はこうなった。
 先手が「引き飛車」で4六銀とし、後手はこれをこの将棋のように4四歩と受けるか、または4四銀と受けるのが、よくみられる型である。(8八角成もある) 

 「相掛かり」も、“相引き飛車の時代”へと移行したのであった。


高橋道雄-羽生善治 2012年
 ところで、余談になるが、先ほど出て来たこの局面(横歩取らずの2八飛)は、過去も現代も指されることはたいへん少ないが、今後指されていく可能性を秘めている局面である。
 数年前、A級棋士だった高橋道雄がよく指していた作戦である。
 この作戦は、後手に「横歩取り」にするか、「相掛かり」にするか、その選択の権利を渡している。したがって後手が8二飛や2三歩とここで指せば「相掛かり」となる。その場合、先手はすでに2八飛としているから“引き飛車”である。もし今「相掛かり」で流行している「引き飛車棒銀」を指したいなら、それは都合が良い。
 そして後手が7六飛と「後手横歩取り」を選択してくれば、高橋流は7七角である。高橋としては、これを誘っているのだ。


 「高橋道雄-羽生善治戦」(A級順位戦)は、羽生が7六飛と横歩を取って、こうなった。
 図で後手が2五同桂なら、同飛。これは通常の後手番「横歩取らせ3三角戦法」よりも、先手番なのでその分一手が違う。一手多く指せている。その「一手」で何かが変わるかどうか、それがこの型のもつ“可能性”である。
 (そしてもし、先手が2八の飛車をどこかで2六飛とすれば、通常の後手番の「3三角戦法」と同じに戻すこともできるのだ)
 この将棋は終盤が超絶面白い将棋となっている。


 さて、以上述べてきたように、「先手の浮き飛車作戦」を駆逐したのは「後手引き飛車6四銀戦法」であった。
 ところで、この「(後手)引き飛車6四銀」という戦い方は突然に新しく生まれたものではないことも指摘しておかねばならない。相居飛車で6四銀――この戦法は古くから指されているが、「相掛かり」では、角がにらみ合っていていつでも角交換できる状況である。それが「相掛かり」登場以前との違いである。
 この「相掛かり」での「引き飛車6四銀」は、1800年頃から棋譜として登場している。(はじまりはやはり「右香落ち」からだった)

高島弥三郎-水野桂伝 1802年
 我々(終盤探検隊)の調査では、「平手」戦での「相掛かり引き飛車6四銀」の最古の棋譜はこれだ。
 この図を見てちょっと気になるところは後手の飛車先の歩である。飛車先の歩交換をまだしておらず、その分の手を銀の進出にまわしているのである。8五歩と歩を伸ばし、8六歩から歩交換をするより「2手」早く6四銀を実現している。それによって先手は、いつでも後手からの5五歩や6五銀などを警戒するために緊張を強いられることになる。
 ――とすれば、飛車先の歩を「8三」で保留したままにすれば、さらに「1手」をかせぐことができるではないか。
 そうした発想から、次の局面が現れる。 

土居・花田-大崎・金 1925年 
 これはつまり、「飛車先保留型相掛かり」なのである。
 このあと後手は6二銀~5三銀~6四銀とする。それによって、いつでも「攻めるぞ」という姿勢を見せておいて、あとで飛車先の歩を必要ならば突くし、相手に隙があれば5二飛とまわって中央で戦うというつもりである。
 この戦法が3二金を早く決め、角道を止めず、そして5四歩と突いているのは、この戦法はベースは「相掛かり」だからなのだ。飛車先の歩突きは「後回し」にしているだけなので、先手の動きを見て後で突くつもり、なのである。(振り飛車の中飛車とは根っこの違うものなのである)
 実際、ここで図のように5四歩と突かれて、先手は悩むのである。5六歩としないと中央が支配され右銀の使い方が難しくなる。かといって、5六歩と突くのは5五に“争点”を作ってしまう。それに5六歩は8八角成、同銀、5七角、5三角という「力戦」も覚悟せねばならない。
 この将棋は結局、次の図のようになった。


 先手は飛車先歩交換に「3手」を使った。その「3手」を使って後手は6四銀を実現させた。
 ここから後手は8四歩~8五歩もあるし、5五歩もある――というわけ。
 
 「できる限り他の手を省いてまず6四銀を実現し、それによって攻めの主導権をとる相掛かり」である。

天野宗歩-八代伊藤宗印 1856年 御城将棋
 このアイデアは、江戸時代にすでに実施されていた。「天野宗歩-八代伊藤宗印戦」。
 先手がもし5筋での勢力争いに負けないようにするなら、先手も2筋の歩交換を後回しにする必要がある。2筋の歩交換か、右銀の中央進出か、どっちをとるかという選択だ。大抵は2筋歩交換を取る。(2六歩と一手でも指しているとこの手を無駄にしたくない) そうなると先手は中央をどうケアしていくか、それがこの戦型での先手の課題になる。(妥協して5筋の位を相手にどうぞと取らせる指し方もある)
 八代伊藤宗印は前名を上野房次郎といい、明治時代、1879年に十一世名人を襲位した。
 この将棋は1856年の御城将棋で、先手八代宗印は30歳、後手天野宗歩は40歳。
 このように先手が5六歩と位取りを拒否し、さらに2四歩から歩交換をするというのは“強気”な指し方なのである。だから後手はそれならと、5二飛をまわって中央突破(あるいは制圧)を計ることになる。
 というわけでもはや「相掛かり」ではなく「原始中飛車」なのだが、5二飛とまわるのなら、8四歩~8五歩という手は無駄手になっていたところだ。
 このようにこの後手の戦型は、今はほとんど見られない型なのだが、理にかなった洗練された戦法でもあるのだ。無駄な手が一切なく、狙いも明確である。そしてこれは現代矢倉の「飛車先保留」を100年以上先取りした思想でもあるのである。

遠見の角
 そして、この将棋が、天野宗歩の超有名な“遠見の角”(=1八角)の将棋なのであった。

 またこの「6四銀作戦」は、大正時代に次期名人の座を争った関根金次郎と阪田三吉の将棋でも採用されていることも指摘しておきたい。

木村義雄-花村長太郎 1937年 名人誕生の一局
 第1期の実力制名人位を決める第1期名人戦は1935年から始まったが、その決着がついたのは1937年の暮れ。「木村義雄-花田長太郎戦」だ。
 この将棋もこの型の将棋である。(これは千日手指し直し局だった)
 先手は2筋の歩交換をし、後手の5四歩に5六歩を突いている。ずいぶん先手も危険に思える。

 
 後手は5二飛と中飛車に。攻め潰そう、という姿勢だ。
 しかしここで先手の木村義雄は、ギリギリ後手の圧迫を食い止める。
 ここで4六歩(敵の4五桂を跳ばさせない)とし、これを同銀と取った花田の手が疑問手とされている手で、5六飛、5五銀、2六飛、5六歩、5八歩となって、後手の攻めが止まり、以下先手ペースとなった。花田は先手の5六飛を軽視していたらしい。
 4六歩には、4四歩(次に4五歩のねらい)でどうだったか。先手も対応が難しかったのではないか。
 着実に有利を拡大し、木村義雄が勝って、実力制第1期の名人位を獲得した。

神田辰之助-花田長太郎 1935年
 この「飛車先保留型相掛かり」作戦が有力なら、それを先手でやろうという発想も自然と湧いてくる。(ただしこの作戦は後手番で用いるほうが多い)
 そして、それなら「初手5六歩でどうだ」という将棋も現れる。これは現代の「先手中飛車」の初手5六歩とはまったく意味が違う5六歩である。


 先手が飛車先歩交換を後回しにして5七銀から4六銀(6六銀)と銀を出る作戦に対して、それならと、後手もそれに同じく8四歩を後回しにして5三銀とする作戦もある。これなら銀には銀で、中央の勢力は負けない。
 ここからどういう方針で行くか、けっこう悩ましい。
 ここから6六銀と出て、後手は6四銀、そして先手が二枚目の銀を6八~5七~4六と出動させれば、後手も同じように二枚目の銀を4四まで進出させてくるかもしれない。そうなると「相二枚銀」の戦型になる。
 また、ここで6六歩と角道を止めれば、雁木か矢倉に組んで持久戦になりそうだ。(後手の急戦もある)
 この「神田辰之助-花田長太郎戦」は図から2六歩、3二金、7八金、8四歩、2五歩以下、飛車先の歩交換に。


 そして20手ほど進んで、こうなった。
 先手の神田は1六歩~1五歩と端歩を突き、すると後手の花田は8八角成と動き、そして5五歩からの先手の歩交換で、この図である。結局、「後手一手損の角換わり」になったのだが、現代の「角換わり」とはずいぶんと条件の違う「角換わり」になっている。
 さまざまな形が現れる可能性があるのが、この「飛車先保留型相掛かり」の特徴である。(飛車先保留をする時点でもはや「相掛かり」と言ってよいのかどうか疑問だが、根底にある作戦のベースは「相掛かり」なのである)

 「初手2六歩」が流行しはじめた一方で、その真逆を行くような、「2六歩を保留する相掛かり」もよく指されていたというのはまことに面白い現象である。 

【相掛かり引き飛車棒銀の話】

 今回のテーマからずれるが「引き飛車棒銀」についても少し触れておく。

羽生善治-佐藤康光 1994年 竜王4
 さて、現代は「相掛かり」といえば、「引き飛車棒銀」が主役になっている。
 採用する人の少なかったこの戦法が注目され始めたのは、タイトル戦で時々採用され始めたからだろう。
 これをよく宮坂幸雄が指していた戦法と紹介されることが多いのだが、宮坂氏がこれを使い始めたのは1989年から数年間で、その前に昭和の時代、この戦法はずっと“清野流”と呼ばれていたのだ。これは「せいのりゅう」と読む。

清野静男-米長邦雄 1969年
 清野静男(せいのしずお)の“清野流”である。
 しかし清野静男が創始した戦法ではなく、これはもっと古くからあっていつの時代にも(数は少ないながらも)指されてきた。

初代伊藤宗看-松本紹尊 1637年
 ちょっと古いどころではない。実は「相掛かり」の最も古い棋譜は、「引き飛車棒銀」である。1637年だから約380年前の昔の棋譜である。三世名人で伊藤家の始祖でもある初代伊藤宗看が指している。
 ただし、この棋譜は一つの謎(疑惑)がついていて、全く中身の同じ棋譜が別にある。それは1743年の「伊藤看寿-伊藤看恕戦」である。看恕は「かんじょ」と読むのだが、看寿の兄である。この人は伊藤家に生まれ七段まで昇ったにもかかわらず、御城将棋には一度も出仕していない謎の人である。
 初代伊藤宗看と松本紹尊との対局は30番行われた。この「宗看紹尊30番勝負」の中身は、ほとんど振り飛車戦か二枚の銀が中央に出ていく雁木模様の将棋なのだが、ただ一局、この「相掛かり」の将棋だけが異質である。
 同じ棋譜が偶然指されたと考えるのは無理があるから、どちらかが間違っているわけだが、一般にはこれは1637年「初代伊藤宗看-松本紹尊」になっていたはずだ。『日本将棋大系』にもそれで解説されている。
 だが、内容的には、この「相掛かり」の棋譜は「宗看-紹尊戦」としてはあまりに異質の棋譜なので、1743年「看寿-看恕戦」が本当なのではないかという人もいるのである。
 (「棋譜でーたべーす」には今この棋譜が「宗看-紹尊戦」としては載っていないのだが、やはりこっちが間違いだと最近では考えられているのかもしれない。そうだとすると最古の「相掛かり」棋譜は別の棋譜になるが、それでもこの棋譜は1743年になるので270年ほどの昔からあったことになる)


 さて、次回はこの話のつづき、「5筋歩突き合い相掛かり相引き飛車」の戦いの発展を見ていきたいと考えている。
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終盤探検隊 part69 第十代徳川将軍家治

2015年12月05日 | しょうぎ
 我々終盤探検隊は新発見をした。
 「将棋史上、最初に“かに囲い”を指した人物は、徳川家治だった」という事実である。
 それは1776年の棋譜に現れている。


   [ナーマ・ナ・ナンダァ]
「お主らは死んでいるのだな」
 日円は念を押した。
「はい、田沼の屋敷で死にました」
   (中略)
「やれやれ」
 日円は青円を見て笑った。
「どこまでいっても知る能わず(ナーマ・ナ・ナンダァ)、か。生きていては何も知ることはできないらしい」
 青円が頷いてみせる。
「霊となったわたくしどもにも、知ることのできない事柄がたくさんあります」
 久恵がいう。
「そうか。大日同様に何もかも判っていると思っていた」
「ただ、旅立ちの時を待っているのです」
「いま儂もそう聞いた。どこへ旅立つのかな」
「宇宙へ」
「星々のきらめく虚空(そら)へか。いったい何をしに」
「告げに」
「何を」
「知る能わず」
 しかし日円はそれで満足したようであった。 
                       (『妖星伝』(四)黄道の巻より)



「かに囲い」
 こういう、「相掛かり」戦でよく使う囲いを「かに囲い」という。いつからこの名称がついたのか(昭和なのか、それとも江戸時代からあるのか)知りたいところだが、残念ながらそれは判らない。
 しかし今回、徳川家治時代を中心に将棋の古い棋譜を調べてわかったことからいくつかの発見をしてきたが、ここでさらに、この「かに囲い」は、徳川家治が最初に指した囲いだと判明したのである。少なくとも、我々の調べた棋譜の上では、そうなっている。

 徳川家治将軍は、1775年から1780年までの間に、伊藤家の五代宗印や寿三を江戸城に呼び、将棋を指して、その棋譜を記録し、残している。


 今回の鑑賞する棋譜は次の3つ
 〔1〕徳川家治-五代伊藤宗印戦(右香落ち) 1776年2月
 〔2〕五代伊藤宗印-八代大橋宗桂戦 1772年 御城将棋
 〔3〕徳川家治-五代伊藤宗印戦(右香落ち) 1776年8月

 さらに〔4〕江戸時代の定跡書の中の相掛かり戦法 について


【 〔1〕徳川家治-五代伊藤宗印戦(右香落ち) 一七七六年 】


 「右香落ち」の一戦。上手五代伊藤宗印、8四歩。「右香落ち」の将棋は基本、上手は居飛車で闘う。
 江戸時代は振り飛車が主流なので、下手はどこかへ飛車を振る場合が多かったが、だんだんと下手が居飛車を選択して「相居飛車」が増えてきた。「平手」の将棋は先手、後手の両者が「相居飛車で闘おう」という合意がないと「相居飛車」にはならないが、「右香落ち」の場合は下手の意志があれば「相居飛車」が実現する。そういう意味では対局前から下手の作戦が立てやすいということもあり、「平手」戦よりも「右香落ち」での「相居飛車」のほうが先に発展・進化した。


 この対局は1776年の対局。五代宗印は49歳、十代将軍徳川家治は40歳。
 上手の宗印8四飛と飛車を引いた。横歩(7六)を取らなかった。「右香落ち」の将棋では7六飛の「横歩取り」の棋譜はないようだ。9一の香車がないことで、横歩取りはおもしろくない変化があるのだろう。(具体的に何が上手にとって嫌なのか、少し考えてみたが、わからなかった)


 上手は7三桂と跳ねた。「右香落ち」でこの型の前例はまだないのだが、これに類似した形での「平手」の将棋がある。それが後で次に紹介する〔2〕五代伊藤宗印-八代大橋宗桂戦(1772年御城将棋)の将棋で、ここで下手が3七桂とすると上手と下手が同型(上手が右香がないことを除いて)になるが、その形で攻めたのがその御城将棋での「五代宗印-八代宗桂戦」なのだ。先攻したのは、その時先手だった五代宗印だ。
 この対局の下手の徳川家治も、当然その将棋を知っている。(将軍が見学するのが御城将棋なのだから)
 この場合、「右香落ち」なので上手が先攻することになる。下手3七桂なら、上手は7五歩と攻めてきただろう。
 ということもあってか、将軍家治は、3七桂の「同型」を避けた。4六銀と、銀を出た。
 対して、五代宗印、4四銀。下手の狙う3五歩や5五歩と受けた手。
 将軍は、6八銀。 


 と進んで、ここで「かに囲い」が出現したのだ。史上初の「かに囲い」が。
 上手が4四銀と指したので、お互いの角のにらみ合いがなくなり、6八銀が指しやすくなった。これを見て上手も、4二銀と、「かに囲い」。
 そこで下手は3七桂としたが、上手は7五歩。


 上手から仕掛けてきた。7五同歩に、5五歩、同歩、6五桂。
 下手も攻める。3五歩。以下、5六歩、3四歩、5五銀(次の図)


 5五同銀は5七歩成~7七歩で下手悪い。したがって5五同角と取る。以下、同角、同銀。
 5七歩成、同銀、同桂成、同金、3五角(次の図)


 ここから、5六飛、5七桂成、同金、6五銀、5三歩、同銀、3三桂(次の図)と進んだ。


 下手も間違った対応はしていないように思える。が、ここから10数手ばかり進んでみると、上手良しになった。
 だとするとこの図の3三桂では、代えて4六飛と指すべきだったかもしれない。
 3三桂以下は、同桂、同歩成、同金、4五桂、5六銀、3三桂不成、4二玉、5六金、3九飛、5九歩、5八歩(次の図)


 5八同玉、3八飛成、4八金、5七歩(次の図)


 ここまで、下手も上手も失着と思える手は指していない。
 だが、図から下手家治の5七同金引に、そこで上手の五代宗印が間違えた。
 宗印は4五桂と指したが、これが優位をフイにした失着。

参考図1
 この手では、5七同角成とすべきところで、同玉に、6五桂(参考図)――それで上手が優位を保っていた。

 ところが実戦は上手4五桂だったので、3八金と竜を取られ、5七桂成に、4九玉(次の図)


 形勢逆転して、しかも一気に下手勝勢になっている。
 たとえばここで2六角とする手には、4一飛、3三玉、3一飛成、3二歩、4五桂、2四玉、4六角(参考図)となって――

参考図2
 1四玉に、5七角とされて下手勝ち。

 実戦では宗印は3三玉(桂馬を入手して次に3七桂からの“詰み”を狙う)としたが―― 

投了図
 将軍は4五桂から、見事後手玉を詰め上げた。

 やはりこれも、五代宗印が“ゆるめた”のかもしれない。
 それはわからないことだが、しかし将軍の強さもはっきり感じられる将棋である。途中まで宗印が完璧に攻めたので上手有利にはなったが、下手の指し手もゆるみがなく、ほぼ完璧な指し手を続けている。だから上手の一手のミスで逆転したのである。
 この将軍の将棋は、うっかりミスやゆるい手が少ないことに感心させられる。


【 〔2〕五代伊藤宗印-八代大橋宗桂戦 一七七二年 御城将棋 】

 上の将棋より4年ほど前の御城将棋の一局。
 先手伊藤家の五代目当主宗印(鳥飼忠七)、45歳。後手番は、大橋家八代目の当主の宗桂、59歳。両家のトップがここに激突。(といってもこの時期に最も強かったのは八代宗桂の息子印寿=九代宗桂であったが)
 この八代宗桂は血筋的にはあの伊藤家の三代宗看・看寿の兄弟で、父は二代宗印(鶴田幻庵)である。10歳の時大橋本家に養子として入り、「宗桂」の名をもらった。伊藤家のこの天才兄弟の中で、いちばん長生きした。


 同型の「相掛かり」である。つまり上の1776年の「徳川家治-五代宗印戦」は、この将棋を原型としているのである。
 ここから、先手の宗印は、3五歩と攻める。同歩に、3三歩(次の図)


 八代宗桂はこれを同桂。(同角は4五桂がある)
 3四に打つ歩があれば3四歩だが、その「歩」はない。この形、1筋の端歩の突きあいがあれば、攻める前に1五歩、同歩として、いつでも歩が補充できるので、それだとまた全く違う将棋になるのだろう。
 先手は4六銀と出る。後手は4四銀。
 そして先手宗印は、6六角、8三飛という手の交換をしてから、5五歩。6六角には7五歩が手筋だが、この場合は先手に「一歩」を渡せない(3四歩がある)ので、後手宗桂は8三飛。


 ここから、5五同歩、同銀、同銀、5三歩、6二金、5五角、5七歩、4八金、4五桂と進んだ。
 先手宗印は、5五同角とすぐに取らずに、5三歩と手裏剣の歩を飛ばした。後手宗桂はこれを6二金とかわしたが、この手では6六銀と角を取る手もあった。それは5二歩成、同玉、6六歩となった後、たとえば後手3六銀に、先手は7二銀から後手の飛車を召し上げる手があり、そういう筋を見越しての5五歩仕掛け前の「6六角、8三飛」の交換である。コクのある闘いだ。
 後手宗桂も同じく5七歩。宗印も同様に4八金と逃げた。ソフト「激指」で調べると、これを同金と取る手があって、これは後手からの4五桂が怖いのだが、同桂と応じて、5五角で角を取られてしまうが、しかしこれははっきり先手優勢になっているようだ。
 まあ、ともかく先手は4八金とかわした。これによって、いつでも、後手玉には5二銀、先手玉には5八銀の打ち込みがある状況となった。 


 おそらく狙っていただろう、八代宗桂は4五桂。
 ここはきわどい勝負で、どっちがよいのか、わからない。(「激指」はこの手で先手良しに評価が傾いたが、その先に「激指」の“勘違い”が含まれていたようで、よく調べると簡単には先手良しの目は出てこない)
 2二角成、5八銀、6八玉、2二銀、4五桂、6五桂、2九飛(次の図)


 先手陣の5九角の一手詰めを2九飛で受けた。形勢不明。
 後手に「攻めの決め手」があれば、勝ちになるが――
 ここで、八代宗桂は5六角と打った。(「激指」もここは5六角を盤上この一手と見ている。形勢評価値は「+79」)
 そこで宗印、7七桂。好手。力の籠った両者の応酬である。
 これは御城将棋。徳川家治将軍もこの将棋、わくわくしながら観戦していたであろう。


 ここまでみてもこれは「名局」の香りがする。ところがこの将棋、あと80手ほど続くのである。
 8六歩、同歩、4七銀成、同金、同角成(詰めろ飛車取り)、6五桂(次の図)


 先手五代宗印の指した6五桂は、7七の脱出口を開けながら後手玉に迫る手。
 これを同馬では後手勝てないようだ。なので後手八代宗桂は2九馬と飛車を取る。その前に5八歩成とする手はあったが、単に飛車を取ったのは、4八飛(王手桂取り)を打つ手を見ていたから。後でその手が出てくる。
 さて、先手の手番。ここは攻めのセンスが問われるところで、選択肢が多い。たとえば5二銀、あるいは3三歩や、4二歩がある。どれが最善かはわからない。
 五代宗印は、5二歩成と指し、同金に、6一角、8二飛、5三銀と攻めていった。 


 まだ、「激指」の評価もどちらにも傾かない。すばらしい勝負である。

 ここで4八飛と後手の八代宗桂は打った。これは先ほど述べた手で、7七玉に、4五飛成と桂馬を抜いて戦う意味である。ところがこの手で一気に「激指」の評価値は、「+1232」と、先手優勢へ傾いた。どうも4八飛~4五飛成は悪かったようである。
 では、後手はそこでどう指せばよかったのか。

参考図3
 どうやら5一金が正着のようだ。
 以下は一例だが、5二銀打、3一玉、5一銀不成、6五馬、4二金、2一玉、3二金、同飛

参考図4
 ここで先手に良い手があれば、という場面だが、どうもそれはないようで、ここは後手優勢のようだ。
 3三歩には、8二飛とかわし、以下3二金、1二玉、2二金、同飛、3四桂と進むと、後手は持駒に金が一枚増えたので、4八飛、7七玉に、7六馬から、先手玉に“詰み”が生じている。
 また、図で7七玉には、8九飛と“詰めろ”で打つ手があり、やはり先手勝てない。

 しかし、本譜の「4八飛~4五飛成」よりも「5一金」が優るというのも感覚的にはわかりにくい。八代宗桂が「5一金」を逃したとしても、しかたのないことか。 


 実戦は、4八飛、7七玉、4五飛成以下は、5二角成、3一玉、4二金、2一玉、3二金、同玉、3四歩、同竜、2五桂、2四歩、4二成銀、2三玉、4一馬、3二桂と進んだ。


 後手玉は追い込まれた。今、4一馬と王手して、後手は3二桂と受けた。
 ここで決め手がある。
 3三金と打てば明解に決まっている。
 同銀は3二馬。同竜は同桂成、同玉、3二馬、3四玉、3七桂。1四玉なら、1六銀で。

 ところが、宗印はこれを逃してしまう。3二桂合に、同銀成、同飛、2一銀、3一銀と進む(次の図)


 こう進んでみると、もう後手玉を寄せ切るのはかなり難しくなっていた。
 「激指」の形勢判断はまだ先手優勢となっているが、もうここは後手玉を上部脱出を完全に阻止することが難しいのだった。
 1五桂と打ち、1四玉に、2六桂なら3四の飛車は取れる。けれども入玉されてしまいそうだ。(この1五桂を「激指」は最善手と見ている。上部に玉を逃がしてもそれでも後手玉はつかまえられるという判断のようだ)
 4六桂はどうか。2五竜なら、3七桂と打って、これは何とかなりそうだ。しかし、4六桂に、4二金という手があって、形勢不明。
 また、1五桂、1四玉、1六金、3六金。この後はよくわからない。

 状況を整理すると、「先手が優勢だったが、ここは後手玉への寄せが見えずわからなくなってきた」ということ、そしてここは「いろいろな手がある」ということである。

 五代宗印は3二銀不成、同銀に、そこで3三金と打ちこんだ。(数手前にこの3三金を指していれば決まっていたのだったが…)
 以下、同銀左、1五桂、1四玉、3二馬、2五玉、2七飛、3六玉、2九飛、3八銀(次の図)


 この3八銀はちょうど100手目。
 以下戦いは続き―――

指了図
 先手五代宗印の133手目6五玉で、「持将棋」となっている。

 「相掛かり」という当時の新戦術、そして初めて現れた「先後同型」からの仕掛け、緊張感に満ちた中盤の攻防、そして終盤の泥仕合。将棋の面白さが満載の棋譜であった。
 
 この将棋の上手番八代大橋宗桂はこの2年後、他界した。大橋本家の九代目は息子の印寿が継いだ。(印寿=九代大橋宗桂)


【 〔3〕徳川家治-五代伊藤宗印戦(右香落ち) 一七七六年 】

 〔1〕の対局から半年後のこの両者による対局で、また「相掛かり同型」の将棋になった。
 

 「右香落ち」なので、上手が先攻する将棋になりやすい。
 それと理論的に見れば、この戦いを下手が選ぶのは、あまり得ではない。上手は9一の香車(右香)がないのだが、それがあまり損にならない将棋になるからだ。
 前回の対戦(〔1〕の将棋)では、下手の徳川家治が3七桂を省略して、その一手を4六銀に使って攻勢を見せた。
 今回は3七桂と跳ねて「同型」で待った。7五歩から先に上手の五代宗印に攻められるのは承知の上である。好奇心にあふれ、素直でおおらかな棋風の将軍であるから、この「同型相掛かり」を指すとどうなるのか、そこに興味があったのだろう。
 上の「〔2〕五代宗印-八代宗桂戦」と同じく、宗印は、7五歩、同歩に、7七歩と攻めてきた。


 7七同桂、6四銀、6六銀、5五歩、7五歩、同歩、7四歩、同歩、7六歩。
 〔2〕の将棋では宗印は、5五歩と5筋を攻める前に、4四角という手を指していたが、今回はすぐに5五歩。
 これに対して3五歩が、徳川家治のアイデアである。上手宗印は、同歩。上手は「歩」がほしかったところだ。(7六に打つため)
 そこで家治、7四歩。同飛に、7六歩で、次の図。


 7六同飛、6八銀、4二銀、4五桂、3三桂と進む。


 また、先手後手ともに「かに囲い」になっている。
 4五桂と下手は跳ね出したが、それを逆用するつもりか、3三桂と上手から桂交換を求めた。良い手かどうかはともかく、五代宗印の将棋は面白く、気持ちが良い。それは家治将軍の将棋にもあてはまる。
 この3三桂では他に7四飛や、3六歩が有力な手。

 3三桂に、同桂成、同角、5五歩、1五角、2七飛、3六歩、3八歩、7四飛、7六歩、8四桂(次の図)


 上手から3三桂としたことによって、上手の角が3三に自動的に移動し、それで1五角の手が指せた。
 そしてここで8四桂と、持駒の桂馬を使う。なるほどと感心するような手の組み立てだが、この手(8四桂)には、8六桂という返し技があった。家治はそう指した。宗印がこれをうっかりしたということはないだろうが、さて、読み勝っているのはどっちだ。
 以下、7六飛、5四歩、8五歩、2五飛、3三角、8五桂と進む(次の図)


 ここから、上手の宗印は、5七歩、同金、5六歩、同金とし、先手の金を吊り上げておいて、7八飛成と飛車を切った。同玉に、7六桂で、次の図。


 金を5六まで吊り上げたことによって、角を入手したときに上手から3四角の狙いができている。
 ここまで、上手の宗印の攻めがやたらかっこよく映るが、実際はどうなのか。うまくやっているのか、それとも、無理攻めなのか。(「激指」は「+73 互角」)
 ここで7七角(7九角)と角を逃げるのもあったが、家治は7一飛、5一歩、7三桂成を選ぶ。攻めの棋風である。
 それなら、8八桂成、同玉、3四角で、“狙いの角打ち”が実現。


 それに対して、将軍は4五桂(図)。 2五角なら3三桂成以下、攻めきろうということだ。
 しかし3四角と打ったところでは、すでに形勢は少し上手が良いようである。
 それにしても、きびきびとした良い将棋である。
 4五桂に、6六角、同金と角を取って、それから2五角と、宗印は指した。(単に2五角が正着。本譜は6六角、同金で下手の金の位置が変わったので5八飛の両取りがなくなって下手が得した)
 家治は5三歩成。以下、同銀引、同桂成、同銀、4五桂に、4八飛(次の図)


 なんと、4八飛が敗着。
 4八飛に、5九銀打と受けられ、3八飛成に、5三桂成。こうなってみると、上手陣は受けがむつかしい状況で、もう上手に勝ちがなかった。
 4八飛では、5八飛と打って、6九銀に、5四飛成と、竜を受けに使う。これなら「互角」だったようだ。

 実戦の指し手は、4八飛、5九銀打、3八飛成、5三桂成、8五桂、5二成桂、3一玉、5八歩、7七歩、7九歩、2二玉、5一竜(次の図)


 以下の指し手は省略。下手徳川家治の勝ち。

 この将棋は途中まで、見ごたえのあるの内容の濃い将棋だった。最後は突然に下手優勢になった。
 もしこの将棋を上手が“手心”を加えてあえてゆるめたとしたら、上手3四角に下手が4五桂と指した次の手、6六角だろう。敗着はその数手後の4八飛。
 下手の将軍が、“相手を間違わせた”とすれば、4五桂が逆転の一手ということになる。



【 〔4〕江戸時代の定跡書の中の相掛かり戦法 】

 江戸時代の定跡書の中で、平手戦の相掛かりに触れているものをチェックしてみた。
 参考にしたのは次の3つの定跡書。
   福島順喜『将棋絹篩』 1804年発行 「しょうぎきぬぶるい」と読むようだ
   大橋宗英『将棋歩式』 1810年発行
   大橋宗英『平手相懸定跡集』 1816年
 この中で、特に大橋宗英『平手相懸定跡集』が「相掛かり」には詳しい。

定跡図1
 3つの定跡本は、だいたいこの図を主として解説している。「相掛かり30手基本図」である。
 上で鑑賞した棋譜はいずれも「先手5七銀・後手5三銀」の型だった。どうやらその型はその後あまり流行らず、このような4八銀のままで戦うのが江戸時代は主流になっていったようである。(5七銀5三銀型は昭和初期に大流行した)

 この図、「同型」にみえるが、よく見ると金の位置が違う。先手玉は「中原囲い=5九金型」で、後手は「5二金型」だ。ということはたぶん、先手の攻め(3五歩)に対応するために後手は「5二金型」のほうが受けやすいとなったのだろう。
 ここで3五歩と仕掛けるのがメインテーマなのだが、それで攻め切れないとなれば他の手を指さなければならない。大橋宗英『平手相懸定跡集』では、2二角成と交換するのはどうか。あるいは1六歩だとどうなるか。1六歩は、相手が1四歩なら端攻めができるが、1六歩に、相手から7五歩と先攻されるとどうなるか。その時に相手は「5二金型」で攻めることになるが…、というような気になる細かな部分の定跡研究が書かれている。
 また、後手が7三桂を跳ねないで、その一手を使って8八角成とし、同銀に、2二銀とする研究も書いてある。
 こうしたかゆいところまで触れた優れた定跡本を残していたので、宗英は、近代将棋の祖というような位置づけで紹介されることが多いのだろう。
 ただしこの大橋分家から出た九世名人大橋宗英の著とされる『平手相懸定跡集』、宗英が没した1809年の7年後に発行されている。どうやら門人の藤田桂立という人物がほんとうの執筆者らしい。

定跡図2
 3五歩と仕掛け、同歩に、3三歩。
 この仕掛けは、上で見てきたように1761年に五代伊藤宗印が初めてやった仕掛けだ。(その時は5七銀・5三銀型だった)
 以下、福島順喜『将棋絹篩』に記されている定跡を追っていく。この本にはこの3五歩、同歩に、2四歩、同歩、同飛、2三歩、3四飛の仕掛けも書いてある。(ただしそれは「相中原玉」になっている)
 また、大橋宗英『平手相懸定跡集』には、先手の3五歩に、同歩としないで、後手が7五歩としてきた場合はどうなるかということも書かれている。その結論は、先手良しだ。

 さて「3五歩~3三歩」としたが、五代伊藤宗印のときは、後手5三銀型だった。なので3三歩を同角や同金はなら、4五桂が両取りになる。だから3三歩には同桂しかなかった。
 しかしこの場合は、同金も、同角も、「ある手」である。『平手相懸定跡集』では、3三同金に、同角成、同角、2三飛成以下の変化が研究されているが、3三同桂は解説されていない。(ということは宗英あるいは宗英の一派は3三同金が最善とみていたということになる)

 さて、今回メイン定跡として選んだ福島順喜『将棋絹篩』の手順は、3三歩に同桂と取り、以下、6六角、8一飛、5五歩と進めている。

定跡図3
 6六角としていったん後手の飛車を引かせ、それから5五歩。
 これは「五代宗印-八代宗桂戦」でも宗印が指した手段である。この手が得かどうかはわからないが、後で7七桂と跳ねる手や、7五歩という手が有効になる可能性はある。
 6六角に後手は8一飛としたが、この手では8二飛も有力ではないか。理由はあとで示す。

 先手の5五歩に、後手は4四歩とする。そして5四歩の取り込みに、4三金右(次の図)

定跡図4
 後手が中原玉(5一金型)ではなく、5二金型で構えていたのは、この4四歩~4三金右がやりたかったからだった。

 ここで『将棋絹篩』の定跡手順は、2四歩から攻めていく。
 2四歩、同歩、同飛、2三歩、4四飛、3六歩、4五桂(次の図)

定跡図5
 以下、4五同桂、同飛と進んで、そこでこの書に示された定跡手順は終わり。
 福島順喜の見解はこれにて先手良しのようだが、それはどうだろう。実際のところ、形勢は「互角」か。

 この攻め手順、後手が「8二飛型」だったら、「後手良し」になると思う。その場合、この図で4四金と飛車を取り、同角に、4五桂とする。その時に6二銀に飛車のひもがついているという意味だ。そこで5三歩成はあるが、同銀、同角成、3七歩成はわずかながら後手有利と思われる。 

 だからこの2四歩からの仕掛けはなさそうだが、「8二飛」なら後手良しかというと、そう単純ではない。他に7五歩などがあるからだ。7五歩、8四飛、3四歩、同金、5五角、4二銀、8六飛、8五歩、7六飛が一例である。(これはソフトを使った我々の研究手順)
 ほかに6八銀とか7七桂などの手もあり、どれも“一局”である。


 江戸時代は、このように「5筋の歩を突きあう相掛かり」が、特に1800年頃に流行した。しかし江戸時代の将棋は半分以上は「駒落ち」ということもあるので、そちらの研究もせねばならず、定跡を深めるのは大変だっただろう。
 この「5筋の歩を突きあう相掛かり」は、大正時代、昭和初期に大流行した。

木村義雄-花田長太郎 1924年
 上で紹介した「江戸時代の相掛かり定跡」の30手基本形の駒組みである。木村名人(十四世)が「中原囲い」を指した貴重な棋譜だが、この時代の人はたぶん大橋宗英『平手相懸定跡集』の内容を知っていたのである。木村義雄が19歳、兄弟子の花田長太郎が27歳の時の将棋。1924年はまだ大正期(13年)である。

 この図はしかし1筋の端歩の突きあいが入っている。(だから手数は30手ではなく32手だ)
 そうなると全く違う話になる。1筋の端攻めがあるのとないのとでは別の将棋なのだ。
 やはり先手の木村は1五歩、同歩、1三歩、同香、2五桂と攻めていった。(結果は花田勝ち)

 『平手相懸定跡集』では、1六歩については解説されているのだが、1六歩に1四歩と突きあった場合については解説がない。(1四歩に9四歩や8八角成は解説されている) それはつまり、1六歩1四歩型だと、後手がわるいと考えていたからだろう。だから書き記す必要もないと。
 花田長太郎はその「定説」にチャレンジしてあえて「1四歩」としたのかもしれない。実際、木村義雄は攻め切れなかった。

 その後、この「5筋の歩を突きあう相掛かり」はますます流行をしていくのだが、3七桂型ではなく、「先手5七銀・後手5三銀」と構えた型から、先手は4六銀、後手は6四銀と、「銀」を出ていく形が花形の戦型となっていった。


塚田正夫-升田幸三 1948年
 そして大戦後。
 これは新名人になった塚田正夫と、若手のおもしろい男升田幸三を戦わせてみよう、ということで実施された「塚田・升田五番勝負」の第4局。

 「相掛かり」も“新型”となった。4六歩と突いて、4七銀から5六銀と「腰掛銀」に構えるこの当時小堀流と呼ばれた型(小堀清一が以前からよく指していた型なので)の「相掛かり」。
 これは有名な将棋で、それは加藤治郎が、映画『駅馬車』のようなスリルのある面白い将棋だったというので、これに「駅馬車定跡」と名付けたため。

 以後、現代にいたるまで、「相掛かり」といえばこのように「4六歩」と突いていくのが基本になった。
 相掛かりで角道を止めないままだと先手は7九銀(後手は3一銀)を動かしにくい。その瞬間に8八角成と角交換され、8八同金と悪形になってしまうからだ。
 したがって、「相掛かり」での「かに囲い」は、案外多くは見られない。 

内藤国雄-中原誠 1975年
 1974年度のNHK杯決勝戦。
 これが「4筋歩突きvs5筋歩突き」という「新旧対抗」と呼ばれる「相掛かり」。
 そしてこの将棋は後手の中原誠が4四歩と角道を止めたので、先手は6八銀とし、「かに囲い」が出現した。
 将棋はこの後、中原は「雁木」に構え、さらに6二玉と「右玉」にする。(中原が勝ち優勝した)

 この対局の199年前に、この「かに囲い」を最初に指したのが、徳川第十代将軍家治なのである。
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終盤探検隊 part68 第十代徳川将軍家治

2015年12月02日 | しょうぎ
 この局面が初めて現れたのは1761年。
 そしてこれは1775年の将棋。「伊藤寿三-徳川家治戦」。
 ここで3四飛と“よこふ”を取ったらどうなるのか。いや、取らずに2六飛ならどうなるのか。
 徳川家治将軍と伊藤寿三は、この「最新型」を研究していた…。


   [補陀落星人]
 光之助は優しく説きはじめた。
「星が小さいと思うのは間違いだ。ここから見て小さくても、近寄ればとほうもなく大きいのだ」
「でもどうやって星に近寄るの。莫迦莫迦しい」
 お幾はまだ笑い残していった。
「船があるのだ。虚空を飛ぶ船が」
 栗山は驚かなかった。
「その船に乗っていたのだな」
「乗っていた。補陀落(ポータラカ)からここまで、俺はその船で来た。お主らには信じられまいが事実だ」
「いや……」
 栗山はかぶりを振り、同意を求めるように俊策を見た。俊策も頷く。
「どうやら信じなくてはいけないようだ」
 光之介は礼をいうように軽く頭を下げる。
「ひょっとすると、お主らはまだこの世界がどこまでも平らにひろがっていると思っているかも知れんが、ここは丸いのだ。月と同じ形をしている」
「我々はその上に乗っているのか」
 栗山が目を丸くした。                      (『妖星伝』(一)鬼道の巻より)


【棋譜鑑賞 伊藤寿三-徳川家治戦 一七七五年】

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △3二金 ▲7八金 △8五歩
▲2四歩 △同歩 ▲同飛


△8六歩 ▲同歩 △同飛
 ここで8六歩が現代の眼で見るとすぐみえるだろう。
 しかし江戸時代、ここでの“8六歩”を発見するまでに時間がかかった。
 1730年代にこの型の「横歩取り」の棋譜がいくつか残っているのだが、それはこの図で「2三歩」と打つ場合である。「2三歩」に3四飛なら先手横歩取り。しかし「2三歩」に2八飛として、以下、後手が8六歩、同歩、同飛、8七歩、7六飛と、後手が逆に横歩取りする棋譜も残っている。どちらにしても現代の横歩取りとは型が違う。
 “8六歩”を指さないからだ。8六歩、同歩、同飛だと何が待っているかわからず、怖かったのだろう。
 
 ここでの“8六歩”を最初に指したのは、1761年「鳥飼忠七-中島大蔵戦」の中島大蔵という人物である。(この人は強豪だったようだ。また鳥飼忠七はこの数年後に伊藤家の養子になった五代伊藤宗印である)


▲2六飛
 今度は先手が悩む場面になった。3四飛と横歩を取るか。それとも飛車を2六や2八に引くか。
 記録上、この場面で最初に「3四飛」を指したのは、本局の対局者である伊藤寿三である。この半年前の「伊藤寿三-徳川家治戦」の対局で、それに対して後手の家治将軍は8八角成~4五角と「4五角戦法」を指した。史上初の「3四飛」新手と、やはり史上初の「4五角」である。(その棋譜はpart62で紹介している)

 飛車と角をまず使いやすくするのが、将棋の基本である。であるならば、角道を明け、飛車先を伸ばして歩交換をしたこの図というのは、最も理にかなった作戦と思われる。が、振り飛車が中心だった江戸時代には「飛車先の歩を突く」ということが少なかった。そして突いたとしても、相手が飛車を振れば、「相居飛車」にはならない。そういうことでこの「相掛かり系」の将棋は発展が遅かった。
 その「相掛かり」「横歩取り」は、徳川家治の時代1760年~1790年頃に急に発展していくのだが、それに大きくかかわっているのが徳川将軍自身と、この伊藤寿三、そして同じく伊藤家の五代伊藤宗印である。徳川家治将軍は、この二人を相手にたくさん将棋を指した。それは「家治将棋研究会」というようなものであっただろう。

 この図について、家治将軍はおおいに興味を持っていたのだろう。
 実際に3四歩と横歩を取ったら、どうなるのか。また、取らないで2六飛なら、その後はどうなるのか。


△2三歩 ▲8七歩 △8四飛 ▲4八銀 △6二銀 ▲6九玉 △4一玉
▲5六歩 △3五歩
 この将棋では、先手伊藤寿三は「2六飛」を選択した。
 これは「相掛かり」になる。(ちなみに、江戸時代は初手2六歩の将棋はほとんどない)


▲5五歩 △3三桂
 後手家治将軍は3五歩と突いた。これは2四飛や3四飛の「ひねり飛車」をねらう作戦だ。この「ひねり飛車」の構想が最初に現れた将棋は、上でも触れた1761年「五代宗印-中島戦」が最初と思われる。
 寿三は5五歩。 


▲7五歩 △4二銀 ▲7七桂
 将軍は3三桂と跳ねた。徳川家治の将棋はのびのびしている。「一番指したい手を指す」という感じで、気持ちが良い。好奇心のままに、直球勝負である。


△5四歩
 先手寿三も7五歩から7七桂。「相ひねり飛車」模様だ。


▲5四同歩 △同飛 ▲8六飛 △8四歩 ▲7四歩
 将軍は、5四歩。センスの良い手だ。
 そして、さあ、早くも闘いだ。 先手は8六飛をまわった。


△5六歩
 ここで将軍は「5六歩」。これが好手で、どうやら先手はもう、分が悪い。
 先手は序盤で5六歩~5五歩と5筋に「2手」の手間をかけたが、その分だけ他の手が遅れた。その5筋を上手5四歩から逆用されて、こうなってみると先手の手の遅れ(6八銀としていない)のために、先手は受け身になる、


▲6八銀 △4五桂 ▲8四飛 △7一金 ▲5八歩 △2四飛 ▲3九金
 ここでは5五歩と打つところだったかもしれない。(同飛なら、4五桂と跳ねてきた後に2筋に回れないという意味)
 6八銀、4五桂、5八歩で、5筋は受けとめたが、後手2四飛とまわって、3九金に――


△3六歩 ▲同歩 △5五角 ▲2八歩 △同角成
 3六歩、同歩、5五角が冴えた順。2八歩に、同角成。


 もう、どうしようもない。以下、家治将軍の快勝。

 以下の指し手は、次の通り。
▲6五桂 △3九馬 ▲同銀 △2九飛成 ▲1一角成 △3九龍 ▲5九香 △5七歩成
▲同歩 △5八歩 ▲7三歩成 △5九歩成 ▲同銀 △5七桂成 ▲8六角 △7五銀
▲6二と △8六銀 ▲5二と △同玉 ▲5四飛 △5三香 ▲同桂成 △同銀
▲5七飛 △6五桂 ▲4一銀 △同玉 ▲5三飛成 △5七桂打 ▲同龍 △同桂不成
▲6八玉 △6九飛 ▲5七玉 △5九飛成 ▲5八歩 △4八龍左 ▲4六玉 △3七角
▲3五玉 △2四銀 ▲4五玉 △4七龍 まで92手で後手の勝ち

 この将棋は、序盤先手の7七桂(29手目)が悪かった。その手で6八銀なら「互角」の序盤が続いた。(先手5六歩~5五歩がわるかったというわけではない)
 その先手の7七桂をとがめた家治将軍の感覚が光る一局。


【三代宗看・看寿の時代】

 1760年以降、「相掛かり」(横歩取り含む)が発展したと述べたが、その“先触れ”として出現している伊藤看寿の将棋を以下に2局紹介しようと思う。
 看寿――その時代の主役は次の四人だ。
   三代伊藤宗看 七世名人 1705-1761年
   四代大橋宗与(大橋分家) 1709-1764年
   八代大橋宗桂(伊藤宗寿) 1714-1774年
   伊藤看寿  1718-1759年
 時期はバラバラだが、この四人が「八段」以上になった。(八段は名人資格を持つ段位)


【伊藤看寿-八代大橋宗桂(右香落ち) 一七四六年 御城将棋】

 もしかすると、これが「御城将棋最初の相掛かり」ではないか、という棋譜。

 看寿のこの対局の相手の八代大橋宗桂は、伊藤家で生まれ10歳のときに大橋家の養子に行き大橋家8代目当主になった男。伊藤時代は宗寿の名前で、看寿の兄である。この対局時は、兄の宗桂が33歳、弟の看寿は29歳。
 当時の名人は彼らの兄の伊藤宗看だったが、“次期名人”の候補者として、二人はライバルであった。お互いに“家”の未来を背負っていた。

伊藤看寿-八代大橋宗桂(右香落ち) 1746年 御城将棋
 「右香落ち」の将棋である。「右香落ち」は、上手が飛車を振ることはまずない。ということで、下手が飛車を振ることが一般的だったが、この時期から「相居飛車」の将棋も徐々にみられるようになっていた。下手が「居飛車」を選択すれば、ほぼ確実に「相居飛車」の将棋になる。「平手」戦よりも「相居飛車」戦になる確率が大きいのだ。
 そういうこともあって、「相掛かり」の発展に「右香落ち」が大いに関わっているのである。

 初手より、3四歩、9六歩、8四歩、9五歩、8五歩。
 上手は居飛車で指す――だから上手は飛車先の歩を伸ばす。これはふつう。
 下手看寿の指し方が異様である。それでも、ここで9七角か7八金ならまだわかるが――


 なんと、7六歩。
 看寿の作る詰将棋は「華麗で繊細」とよく言われ、そして看寿の指し将棋の手は「豪胆」と言われる。それはこういうところだろう。
 以下は、8六歩、同歩、同飛、7八金、4四歩、2六歩…
 ここで2六歩と飛車先の歩を突いたのである。


 看寿は飛車先の歩を伸ばし、浮き飛車にして飛車を5六へ。状況は下手一歩損である。
 飛成を防ぐ上手の5四歩に、7五歩。飛交換を誘う。大胆不敵な将棋である。お互いに伊藤家と大橋家とを背負っているそういう相手との勝負なのに、まるであそびで指す将棋のようだ。
 上手の八代宗桂は、飛交換に応じた。5六同飛、同歩。そして、5七飛。
 5八金、5六飛成に、6六飛(次の図) 


 こういう手を看寿は用意していた。
 この場面をソフト「激指」で調べると、ここで5五竜や4五竜なら上手が良いようだ。
 八代宗桂は、6六同竜。同角に、8六飛。


 以下進んで、このようになった。ソフト的にはここで7四歩として「+412 先手有利」という。
 看寿の指し手は8二歩成。同金に、7一飛、6二玉、8二竜、同角、2一飛成と進む。(8二歩成に同角だったら、看寿は次にどう指す予定だったのだろうか)


 そしてこうなった。今、6五桂と下手が桂馬を打ったところ。これを上手宗桂は6一桂と受けた。
 これによって形勢は下手良しに傾いた。この場面、桂馬を上手が手に持っているのといないのとで、下手陣への脅威がまったく違うのだ。具体的には上手から5六桂がある。

参考図
 だからその手に代えて、ここは5三桂(図)が最善手だったと「激指」は示している。以下、7四歩、6五桂、同歩、5六桂、7九玉は、「互角」。 5三桂に同桂成は、同玉で、以下5一竜、4四玉、5六桂、3三玉は、上手が良い。 


 本譜は、上手6一桂の後、この図のようになった。
 今、下手看寿が5二歩と指したところ。看寿はここから細やかな寄せを見せる。5二同玉に、3三歩、同金、5一金、6二玉、4一竜。なるほど、こう寄せるのか。
 以下、4八馬、4二竜、7一玉、8三歩まで、上手八代宗桂投了。

 序盤の破天荒な指し方と、最後の繊細な寄せ方のコントラストが印象に残る一局だった。
 そしてたしかにこれは「相掛かり」であった。変則であるが。


【伊藤看寿-四代大橋宗与(右香落ち) 一七四八年】

 四代大橋宗与は先代三代大橋宗与(六世名人)の実子。数え8歳の時から御城将棋に出仕している。
 名人の三代宗看(七世)の次の強者として存在していた。つまり伊藤家の次期名人候補看寿が、乗り越えるべき目標であった。
 例の「魚釣りの歩」で有名な対局もこの相手との対戦であった。その将棋も「右香落ち」だったが、その時は下手看寿が飛車を振ったのであった。

伊藤看寿-四代大橋宗与(右香落ち) 1748年
 看寿30歳、四代宗与39歳。
 この“8四飛”は、宗与の得意戦法だったかもしれない。四代宗与は1733年にも八代宗桂を相手にこの手を指して、しかも勝っている。また父の三代宗与もこれを指している。ということはこれは当時の「大橋分家秘伝の戦法」なのかもしれない。
 そして下手の看寿は、あるいは宗与しか指さない特殊戦法への備えをしてきたのかもしれない。

 伊藤看寿はここで“2六歩”。

 この右香落ちの8四飛戦法に対して、過去の対応は下手振り飛車だったが、看寿は飛車先を突いた。
 8四飛戦法自体が特殊な指し方の上に、“2六歩”も前例のない指し方だった。
 それまでも「右香落ち」戦での「相居飛車」の指し方もあったが、6六歩を止めて雁木の陣形にするか、あるいは角交換して矢倉に組むというような指し方であった。
 “2六歩”が「相掛かり」の時代の先取りの一手である。(ちなみに、「右香落ち」で初手8四歩に2手目2六歩という指し方は、1772年に大橋宗英が初めて指している)
 
 今の視点から見れば、下手の指し方は自然である。
 しかし平手戦でも「相掛かり」そのものが少ない時代だから、上手も2六歩と突かれることはあまり想定していなかっただろう。


 以下、7四飛、2五歩で、この図。
 ここで3二金などなら、“一局の将棋”だったが、なんと四代宗与は過激に7六飛!
 以下、2四歩、同歩、同飛、1四歩、8四飛(次の図)


 これはしかし、上手の指し方が大胆すぎる。早くも、下手優勢だろう。
 もともとこの四代宗与という人は新しい指し方をよく試みる人で、「右香落ち」での「下手角交換振り飛車」などを指している。
 7二銀、8二飛成、7四歩、8五竜、7五飛、8二竜、7三桂、8六角、5五飛、5八玉と進んだ。 


 注目してもらいたいのは、下手の看寿の指したこの“5八玉”だ。
 これがおそらくは歴史上初の「中住まい玉」である。看寿が最初に指したのだ。
 といっても、序盤から戦いになる前に5八玉とする「中住まい」とは違うから微妙だが、それでも5五飛に対する応手は、金上がりも銀上がりもあるし、4八玉も6八玉もある。それらの選択肢の中で「これがいい」と看寿は“5八玉”を選んだわけで、この先鋭な感覚はさすがである。
 後でもう一度このことに触れるが、次に「中住まい玉」が現れるのは1790年のことで、これより40年以上この玉は出現していない。

 図で上手宗与は8八歩。以下、7七桂、3四歩、9三竜、4二銀、7五歩、5四飛、8四竜、8九歩成(次の図)


 ここから7四歩、8八と、7五竜、7八と… 上手が先に銀を取って駒得になった。序盤で8四飛とまわられた時にはもう上手は負けというような局面にも思えたが、さすがの八段である。


 前の図から約20手進んでこうなった。上手は9九角成と香車を取り、その成角を4四馬と引きつけた。
 今、上手が8一香と竜取りに打ち(竜の侵入を防いだ)、下手が9六竜とそれをかわしたところ。
 上手の「駒得」はさらに大きくなっている。後手の「桂」と、先手の「銀香」の交換である。
 ところが形勢は下手が良い。こういうところは対局者になって上手を持ってみたら苦しさがわかるかもしれないが、傍目ではわかりにくいものだ。両対局者は、少し下手が指しやすいことがわかっていただろう。
 上手は歩切れである。そして受けのために得した銀と香を自陣に打っており、これを攻めに使えればよいが、どうもそれは難しそうだ。
 こうなってみると、下手の「中住まい玉」のバランスの良さが引き立っている。

 図から、3三桂、4六桂、5五飛、7七角(次の図)


 上手の打った6四銀や8一香に比べ、この4六桂は3四桂とすぐ攻めに使える。
 7七角以下、2五飛、4四角、同歩、7二成桂、同銀、3四桂、5二角、4五桂、2五歩、同桂、3五銀(次の図)


 2三飛、2四歩、1三飛、9一竜、7一金、6三角成以下、看寿が勝った。

 この将棋は序盤看寿の“2六歩”で優勢を築き、さらに“5八玉”の新感覚の陣形とともに、実は看寿の「丁寧さ」が勝因だと思われる。優勢になった看寿は決して攻めを焦らず、丁寧に丁寧に指している。「元祖空中戦」ともいうような飛車角の派手な動きが目立ったが、終わって全体を眺めてみると、看寿の丁寧さが見どころの一局と感じた。
 看寿の将棋は、派手に見えるが、実はやはり、詰将棋作品と同様に、“繊細”なのではないだろうか。そういう印象をこの2局の看寿の「勝ち方」から受けた。


伊藤看寿-四代大橋宗与(角落ち)1738年 御城将棋
 これは今見てきた将棋の10年前、看寿が21歳の時の「角落ち」での両者の対局の図。
 角落ちには、下手がこういう、3五歩と突いて3六飛と構える「二枚落ち」での「二歩突っ切り戦法」のような指し方もあって、この頃に流行したようだ。これを好んでよく指していたのが若き日の看寿である。
 作戦としては、この戦法は力の強い上手に対しては、ちょっと勝ちづらいかと思われる。


【家治将軍の時代=将棋近代化の時代】

 そして次の時代。登場人物は変わり、新しい物語が展開されていく。

  徳川家治  1760年に徳川家第十代将軍になる  家治将棋研究会メンバー
  八代大橋宗桂 1774年没
  五代伊藤宗印 1764年御城将棋初出勤(37歳)  家治将棋研究会メンバー
  大橋宗順(大橋分家) 1765年御城将棋初出勤(33歳)
  九代大橋宗桂(印寿、八代宗桂の息子) 1955年御城将棋初出勤(12歳) 
  伊藤寿三(看寿の息子)  家治将棋研究会メンバー
  大橋宗英(宗順の息子) 1778年御城将棋初出勤(23歳)
  松田印嘉(後の六代伊藤宗看) 1784年御城将棋初出勤(17歳)


 この「家治時代」の「相掛かり」の進化をざっと並べてみよう。   

五代伊藤宗印-中島大蔵 1761年
 これが新時代の幕開けの一局。
 後手中島大蔵が“8六歩”。 まだだれも(記録上は)指していない新手であった。
 以下、同歩、同飛に、先手鳥飼忠七(後の五代伊藤宗印)は2六飛。そして「相掛かり」戦に。


 その将棋は、先手は7五歩、後手は3五歩と突いて、「ひねり飛車」模様に。これが史上最初の「ひねり飛車」作戦。ただしこの将棋は図のように後手が7四歩とし、以下先手2四歩、同歩、同飛、2三歩、3四飛という戦いになったので、「ひねり飛車」は“構想”段階で終わった。勝負は後手の中島大蔵の勝ち。

中島大蔵-八代大橋宗桂 1763年
 「相掛かり」はまだ流行前。この将棋は先手7六歩から始まって、後手八代大橋宗桂が8四飛と受けたところ。
 これはお互いにこの将棋は飛車先交換ができないままに進むので、今の考えからすると「相掛かり」と言ってよいのかどうか判断にこまるかもしれない。しかし江戸時代の基準で言えば、相居飛車で先手2六歩、後手8四歩と突きあえば「相掛かり」である。つまり矢倉であっても、飛車先歩不換であっても2六歩と突けば「掛かり」なのである。(たぶん)

 この将棋は後手の八代宗桂、8三銀と「浮き飛車棒銀」を見せる。


 そして、5四飛。 


 さらに進んで、ここで「中原囲い」が出現。これはもう戦いが始まっている途中で離れ駒をなくすために5九金寄と指したのであるが。
 それなら、戦いが本格的に始まる前に5九金寄としてはどうか、という発想につながっていったのだろう。
 後手の金も5一金型になっているところにも注目してほしい。
 勝負の結果は八代大橋宗桂の勝ち。八代宗桂はこの時50歳。この年に「八段」(当時の最高段位)になっている。その当時現役ただ一人の八段に対して「平手」で指しているのだから、この中島大蔵という人物の力も相当だったのだろう。

桑原君仲-川崎八十八 1770年
 現代では、「相掛かり」といえば、(横歩取りの戦型と区別するために)初手2六歩と突くもの、というのが常識だが、江戸時代はそうではない。江戸時代、「初手2六歩」で始まる対局はほとんどない。
 我々の調べでは、わずかに4局だけ確認できた。
 その中で一番古い棋譜がこの将棋である。先手桑原君仲が史上初の「初手2六歩」と指した。
 桑原君仲(くわはらくんちゅう)は詰将棋で有名な人物で「大引き」の曲詰(詰め上がると大きな「×」の字になる)などを残している。将棋は九代大橋宗桂の弟子だったという。

宗順-九代大橋宗桂(印寿) 1771年 御城将棋
 御城将棋でついに「相掛かり」が登場した。1771年。
 上で見た1746年の「伊藤看寿-八代大橋宗桂戦」も「相掛かり」ではあったが「右香落ち」だし、変則的な手順だった。
 この将棋は、先手も飛車先の歩を切っていたのだが、後手が2四飛とまわり、2五歩、5四飛となったのである。
 ここから先手は3三角成、同桂、8二角と動き、後手も3六歩、同飛、2八角と角を打ちあう展開になっている。
 先手の大橋分家の五代目当主宗順がこの将棋は勝利している。この宗順は、よくこの九代大橋宗桂に勝っており、それなのに後世ではあまり「強い」とは評価されていない。なぜなのかわからない。

伊藤寿三-徳川家治 1775年
 そして、伊藤寿三(看寿の息子)の3四飛。「横歩取り」の新手。
 現代も大流行している「横歩取り」の出発点になる将棋は、1775年の4月10日、江戸城で指されたこの将棋だった。


 対する後手の「横歩取り4五角」。
 
 徳川家治第十代将軍は、この1775年から1780年にかけて、熱心に将棋を指しており、その棋譜を残している。相手はほとんどは、この伊藤寿三と、五代伊藤宗印である。
 彼らは実力はトップレベルではなかったが、素直に将棋と向き合っていたと感じられる。

九代大橋宗桂-五代伊藤宗印 1778年 御城将棋
 1778年の御城将棋で、ついに「横歩取り3三角戦法」が現れた。九代大橋宗桂の新戦法であった。


 この将棋は後手が6五角と打ち、先手が9六角とそれに応じてこの図のようになった。
 このような手が出現するのも、玉が互いに「居玉」だからである。「中住まい玉」がまだ発見されていない。(看寿が一度指していたが)

 この将棋は先手の五代伊藤宗印が勝ち。

伊藤寿三-毛塚源助 1790年
 「中住まい玉」が現れた。1790年。
 毛塚源助という人物が指した。この人は大橋宗英との香落ち下手での棋譜もいくつか残っている。この毛塚源助、基本的には振り飛車党なのだが、これは「横歩取り3三角戦法」から角交換した変化だ。

細田右仙-大橋柳川 1790年
 同じ1790年。「相掛かり」の「相中住まい玉」である。

相中原囲い 川崎八十八-桑原君仲 1784年
 そしてこれは、「相中原玉」。
 (「中原玉」は1992年に十六世名人中原誠が復活させた囲い。昭和時代には全く指されていなかったので皆この囲いを知らなかった。そのままだったら“廃れた古い囲い”のままだった。)


【参考として】

 
 実は大戦後も、この図での後手“8六歩”の手は、すっかり忘れ去られていた。
 なので「横歩取り」といえば、後手がここで“2三歩”と歩を打って、それに「3四飛」と先手が指す場合――それを意味していた。1950年頃のことだ。
 
 ここで“8六歩”がある、とこの当時の棋士――升田幸三や大山康晴や塚田正夫ら――が気づいたのは、佐瀬勇次の指す将棋を見たからだった。

升田幸三-松田茂役 1952年
 上の図から、8六歩、同歩、同飛、3四飛、8二飛(図)と指すのが、「横歩取り佐瀬流」だった。
 この戦法の価値は、8二飛ではなく、その前の「8六歩、同歩、同飛」の手の発見であった。
 「どうやらこの手もあるようだ」と、彼らは知ったのである。
 1952年にA級順位戦でもこれが何局か現れたのであった。

 江戸時代には指され研究もされていた戦型が、いったんはすっかり忘れ去られ、そしてまた突然によみがえったのであった。
 「3三角戦法」や「4五角戦法」の再登場には、もう少し時間が必要だった。
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