はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

ゴッホの絵の‘消えた黒猫’

2008年10月31日 | はなし
 ゴッホの『ドビーニーの庭』は、‘謎’の画です。

 その‘謎’の画は、ひろしま美術館にあります。
 僕は若い時に広島市にいて、この美術館にも2度行っていますから、2度観ているはずなんですが…、あんまり記憶にないんです。いえ、確かに観ているんです。
たぶん、この絵が、「僕が観たほんもののゴッホの絵」の初体験なのですが、とくにゴッホにも(他の画家もそうですが)思い入れがなかったもので…。
 僕もそうですが、ほとんどの人は、美術の教科書でゴッホの絵を初めて見ますよね。教科書で僕がよく憶えているのは、「砂浜のヨット」の絵。(あれ、ゴッホだよね。)

 『ドビーニーの庭』は、2つあります。 ひろしま美術館のものと、それからwikipediaによると、スイス・バーゼル市立美術館にあるそうです。スイスの『ドビーニーの庭』は、『黒猫のいるドビーニーの庭』ともよばれています。その絵の中に、一匹の「黒猫」が描かれているのです。
 対して、広島のものは黒猫がいません。一説に、「ゴッホは黒猫を描いたのだけど、だれかがそれを後に消したのだ」といいます。
 ところが、「そうじゃない。ゴッホはわざと黒猫を描かなかった、それがゴッホの遺言なのだ」という人もいて、それが小林英樹氏で、その説を著書『ゴッホの遺言』に書いています。
 はたしてゴッホは、もうひとつの『ドビーニーの庭』に、「黒猫」を描いたのか、描いていないのか。それが、‘謎’なのです。
 最近の記事では、「黒猫は描かれていたと証明された」とありますが、我田引水的な調査なのではと、どの程度信頼していいのかわかりませんね。心情的には、僕は、小林英樹説「ゴッホは黒猫を描かなかった」に1票を入れたいと思っています。 


 ゴッホが自殺したのは1890年7月27日。場所はオーヴェルというフランス・パリより北にある地で、ゴッホはここで『烏のいる麦畑』などを描きました。このオーヴェルに‘ドビーニーの庭’があります。ドビーニー(1817-1878)という画家がここで絵を描いていたらしい。(ただしゴッホがここにいたときにはすでに故人である。) その‘ドビーニーの庭’をゴッホは描いたのです。

 
 スイスの、『黒猫のいるドビーニーの庭』は、1890年7月に『烏のいる麦畑』と同じ日に描かれたとされる。 その風景の中の「烏」の黒い姿は、黒猫と同じような意味があるのだろうか。どちらも「不安」に満ちたような画である。

 フィンセント(ゴッホ)が弟テオに出した最後の手紙の中で、彼はその画、『(黒猫のいる)ドビーニーの庭』について触れている。

 〔きみは多分ドビーニの庭を描いたこのスケッチを見てくれるだろう。___これはもっとも計画的に描いた画布の一つだ。〕


 〔ドビーニの庭は前景が緑とピンクの草だ。左には緑色と薄紫の茂みがあり、白っぽい葉をつけた木の株がある。真ん中に薔薇の花壇があり、
  (中略)
  … 前景には黒猫が一匹いる。空は淡い緑色である。〕
    ( 『ファン・ゴッホ書簡全集』 )

 小林英樹氏は、この「黒猫」はゴッホ自身を示しているといいます。黒猫は西洋では、忌まわしきもの、です。ゴッホは、自分が、テオの家族にとって邪魔者になっている(経済的に圧迫して苦しめている)という現実を自覚して、その複雑な心情をこの『(黒猫のいる)ドビーニーの庭』や『烏のいる風景』に描いたのだというのです。

 そして、広島の、『ドビーニーの庭』は、その何日か後に描かれたもの。(これがゴッホの最後の作品ではないかという説もある。) なぜゴッホはまた、『ドビーニーの庭』を描いたのか?
 小林氏は言う。 この2枚目の『ドビーニーの庭』から黒猫が消えているということ、これがゴッホのテオへの遺言なのだと。 黒猫は自分である__つまり、黒猫が消える、ということ、これは自分は姿を消すよ、テオ、ヨー(テオの妻)、君達を困らせることはもうないよ、と。
 この2枚目の『ドビーニーの庭』は、黒猫のいる1枚目にくらべると、さわやかな緑色で、空がサッパリしている。それは、ゴッホが、自殺してこの世から姿を消そうと、すでに決めてしまって、清々した気持ちでいたからであると、小林氏はいうのだ。彼によれば、ゴッホという人はもともと自殺願望はもっていなかったようです。
 ゴッホは、子どもが誕生したばかりの弟夫婦の幸福をたださわやかに願い、死を選んだのだという。
 それを広島の『ドビーニーの庭』に表現したというのです。

 真相はわかりません。わかるのは、『ドビーニーの庭』というゴッホの2枚の絵画が、そういう‘謎’をもった面白い絵であるということです。
 僕がこの「小林説」をすきなのは、これを採れば、ゴッホは精神の病から発作的に死んだのではなく、自分はもう描きたいものは描いたと、納得した上で死をえらんでいったのだということになるからです。そこに「悲しみ」はありますが、繊細な人間性を感じさせますし、同時に、「爽やかさ」も含まれています。それがあの絵のタッチとの色の中に、表現されているということです。 2枚目の『ドビーニーの庭』は、たしかに、1枚目のそれとちがって、明るい絵です。
 その絵『ドビーニーの庭』は、ひろしま美術館に行けば、観ることができます。あの絵の前に立って、ここに「消えた猫」がいたのか、猫はどこに行ったのか、などと想像するのはたのしそうです。


  ↑スイスの『ドビーニーの庭』の黒猫


  ↑広島の『ドビーニーの庭』の消えた黒猫


 司馬遼太郎は、ゴッホの描いたのは「悲しみ」であるという。ゴッホ個人の悲しみではなく、人間の中にふかく根ざしている「悲しみ」であると。
 僕にはそこまでわかりませんが、ゴッホの絵は見れば見るほど面白い、それはよくわかります。椅子を描いた作品がありますね。椅子を描いただけなのに、なぜあんなに魅かれるのか…。
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双玉詰将棋その3

2008年10月30日 | つめしょうぎ
 25手詰め。 
 今年6月につくりました。 (答えは1週間後くらいに。)
 ▲2二銀成からバラバラにして…詰むんじゃね? そう思ったあなたはおばかさん。 3三の銀が動くと、3二の敵の「竜」がとたんに動いて、こっちの王様が死んでしまうわよ。 そう、双玉なのよ。 気をつけて!



◇竜王戦
  渡辺明 0-1 羽生善治
 第2局がはじまっています。
 相矢倉。 相矢倉というのは、基本、先手が攻勢、後手が守勢となるのですが、それではおもしろくないので、後手がいろいろ工夫するのです。
 後手渡辺明竜王が先に端を攻めて開戦しました。先手羽生善治名人が▲5七角としたところで、渡辺竜王が手を封じて、一日目が終了です。 渡辺さんの攻めが続けば渡辺優勢、息切れすれば羽生優勢となるところ。 明日の午前中がはやくも勝負どころでしょうか。

◇女流王位戦
  石橋幸緒 2-2 清水市代

 男子プロとはまったくちがった味わいの将棋でたのしいですね。でも石橋さんは2-0から追いつかれてキツイところ。

◇倉敷藤花戦
  清水市代 - 里見香奈
  11月6日開幕。(三番勝負) 
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パブロ・ピカソの猫

2008年10月29日 | はなし
 パブロ・ピカソ『ドラ・マールと猫』の模写。すごい絵だ。 膨大な量のピカソ作品のなかで、なぜこれが108億円なのか? 2006年5月ザザビーズのオークションにおいて9500ドル(当時のレートで108億円)で売れたのがこの絵。
 ドラ・マールについては、以前も書いたが、ピカソの『泣く女』のモデルがこの人。ユーゴスラビア生まれ、アルゼンチン育ちの写真家。1940年からナチス・ドイツ軍がフランス・パリを占拠したときに愛人関係だった。
 
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ゴッホの自画像

2008年10月28日 | はなし
 かれの場合、自家製の(ときには『聖書』から得た)倫理によって自分を拘束しつづけた。それが“絵を描く”というただ一つの営みを自由に開放しておく無意識の方法でもあった。
  (中略)
 自分を倫理という糸でもって巻きあげて拘束してゆくことは、同時に自己を輪郭づけることでもある。絵画的なたとえでいえば、太い茶褐色のクレオン(コンテ)で、間断なく自分自身の顔や姿を輪郭づけているようなもので、ついには線が束になり、まっくろになるが、輪郭の内部だけは白い。
 その白い部分こそ、かれにおける自分であった。それも、絵を描くというだけの自分であった。 (中略) その一点にしか、画家ゴッホはいない。
 そんな人間が、他にいるだろうか。人間の存在は猥雑なほどの多様な場に立っているのに、ゴッホは白い部分にしか存在しない。
 その白い部分がたえず声をあげ、
 _____これが“自分”である。
 と、叫び続けている。
    ( 司馬遼太郎『オランダ紀行』 )

 司馬さんはゴッホが好きだ。この『オランダ紀行』でも、その四分の一をゴッホについて書いている。僕はゴッホについてほとんど知らなかったが、20代のときにこれを読んで、「へえ、ゴッホとはそういう人なのか」と学ばせてもらったのである。司馬さんは『ファン・ゴッホ書簡集』を読んでゴッホが大好きになったという。これは画家ゴッホが、弟テオに宛てた手紙である。「耳切り事件」を起こして精神病院に入ったことで有名なゴッホだが、そのために、精神病とその画をつなげてその作品を分析解剖するという見方をよくされるのだが、それに対して司馬遼太郎はきっぱり「NO」と言う。ゴッホの『書簡集』を読めば、彼の内面がいかに人間的であるかよくわかる、という。 (まだ、僕は読んでいないが。)


 上の絵はゴッホが自分の耳を切ったすぐ後、1889年1月に描いたとされる『包帯をしてパイプをくわえた自画像』とよばれる作品をみて、僕が描いたもの。
 この自画像は面白い。あんな事件を起こして精神病院へ入ったというのに、パイプをくわえてじつに「のんき」な表情である。バックが赤く、背景が描いてない。人物を画くときに、背景を一色で塗り、余計なものは描かない、というのがゴッホの特徴である。そこに、ゴッホの、絵に対しての強い自信が表れている。人物が主題ならば人物だけを描く、それでいいのだ、と。
 そしてこの画は、両目が顔の真ん中に寄っている。
 もう一つ同時に描かれた自画像があって、こっちは二つの目が、逆にはなれている。パイプはくわえておらず、背景(壁の浮世絵ポスター等)が描かれている。ここに描かれたゴッホはまったく自信がないように見える。
   →2つの自画像
 ゴッホの中には、彼の才能の核ともいえる「ゆるぎないもの」があったようである。それを描いたのが「寄り目のパイプのゴッホ」で、背景は赤い。 (この「ゆるぎないもの」というのが、上の司馬さんの説明においては「白い部分」にあたる。)
 ところが現実のゴッホは精神病院にいる、やっかいもの(弟テオの送金で生計をたてていた)である。他者の目からみた、貧相なゴッホである。それが「目のはなれたゴッホ」の画である。
 この二つの画は、同時に描かれたんもので、二枚でワンセットというわけだ。くらべてみると大変おもしろい。 『包帯をしてパイプをくわえた自画像』、僕は大好きである。この画は現在、ロンドンにあるそうだ。


 ゴッホの画は、僕らシロウトでもわかりやすい。というか、インパクトがあって、印象に残る。そこが人気の由縁だろう。
 ゴッホの『ひまわり』は特に有名で、これは何枚かあるが、そのうちの一つは日本の新宿にあって、いつでもだれでも観ることができる。
 この新宿の『ひまわり』は、1987年に安田火災海上が53億円で買ったというニュースでいっそう有名になったその絵である。これは「15本のひまわり」で、1888年にアルルで描かれたもの。安田火災海上はその後日産火災海上と合併し、損保ジャパンとなった。それでこの53億円の15本『ひまわり』は、損保ジャパン東郷青児美術館に常設展示されている。新宿駅西口から歩いて5分、損保ジャパンビル42階である。
 いまここ東郷青児美術館で行われているのは、『ジョットとその遺産展』で、僕はジョットにも興味がでてきたので行ってみようと思っている。ジョットという人は1300年頃に、絵の中にハレー彗星を史上最初に描いて残している人なのだ。もっとも、ハレーはまだ生まれていないので、その彗星に名前はまだなかったが。

 ゴッホは1890年に死んだ。
 日本では、1912年(大正元年)に雑誌『白樺』が「ゴッホ特別号」を出した。そして1921年にはその『白樺』二月号に『ひまわり』が原色版で紹介された。それを観て、衝撃を受け、「わだば、ゴッホになる!」と叫んだのが、青森にいた当時17歳の棟方志功。
 このまえの土曜日(25日)に、TVドラマをやっていましたね。棟方志功を演じていたのは劇団ひとりでしたが、なかなかの好演だったと思います。
 司馬さんといっしょにずっと『街道をゆく』の旅を共にしていたのが須田剋太画伯。雑誌に載せる挿絵はモノクロなのに、須田さんはこの時の旅の絵に色をつけていたという。この『オランダ紀行』は1989年だが、その翌年に須田画伯は亡くなっている。つまり須田さんは、ゴッホが死んで、ちょうど100年後に死んだことになる。20年続けてきた司馬遼太郎・須田剋太の旅は、このオランダの旅がさいごの旅となった。 そして『街道をゆく』のシリーズの挿絵の役目は、その後、安野光雅氏が受け継ぐことになる。

 ゴッホの絵でどれが好きかと問われれば__僕は…なんだろう? 『はね橋』かなあ。この画はオランダの美術館にある。
 
↑ 『ファン・ゴッホ書簡全集』(みすず書房)より
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クレイジーキャッツ

2008年10月26日 | おんがく
 歌・植木等、コーラス・ハナ肇とクレイジーキャッツ
   『アッと驚く為五郎

 これが、僕が初めて買ったシングルレコードです。


 ハナ肇とクレイジーキャッツ
   メンバーは、
   ハナ肇、植木等、谷啓、犬塚弘、安田伸、石橋エータロー、桜井センリ


 僕の父はどういう人かとひと言でいえば、「壊れかけのラジオ大好き!」という人。
 父は、東京に出張がある時に必ず立ち寄る場所がありました。それが、秋葉原です。ですから、僕は、東京になど行った事もない子供時代から「秋葉原」とい地名を知っておりました。父は、「電気部品」が大好きなのです。今でも『ラジオライフ』という雑誌を隅々まで読んでいます。もちろん若い時はラジオは作っていましたし、真空管のテレビなら修理できます。アマチュア無線もできます。東京出張など数年に一度でしたから、ここがチャンスと秋葉原へ行くのです。秋葉原電気街を歩いて、雑誌でしか見たことのない電気部品、雑誌でさえ見たことのないような電気部品を探して、ウキウキわくわくするのです。
 「壊れかけの電化製品」は大好物。 どこが悪いかよっしゃワシが治して進ぜよう。
 そんな人ですから、オーディオ関係もとくいです。僕の父は、直径20センチ以上もあるリール(それだけつまり旧式であるということ)のリール式テープレコーダーを持っていましたし、レコードプレーヤーもありました。星飛雄馬の父一徹がちゃぶ台ひっくりかえしていたあの時代ですよ。(もちろん僕ん家にもまるいちゃぶ台はありました。) 僕は一人でテープレコーダー(これは小型のやつでしたが)で遊んでいて、そのテープを切ってしまったことがあります。だまってそのままこっそり元の位置にそのテレコを返したのですが、その後何事も起こらずふしぎだなあ、と思っていて、もっと後になってそのテープレコーダーをまた使ってみたら、切れたはずのテープがつながっていてビックリでした。さらに後で知りましたが、切れたテープをきれいにつなぐ技術があるんですね。(ただし接合部は完全には元に戻らない)
 レコードプレーヤーは2つありました。そのうちの1つは父が作ったものでした。もちろんレコードも沢山ありました。ただし、ほとんどは演歌でした。彼のオーディオ好きは、7、8割は、(ソフトよりも)ハード面にその興味の比重があったわけです。 「浪曲」が好きでしたから、浪曲師から歌手になった三波春夫が特に好みだったようです。もしもウチにビートルズのアルバムが1つでも置いてあったなら、あるいは僕のそれからの音楽的生活は、今より華やかなものにふくらんだような気がするのですが。
 父母が子供向けに用意したレコードもいっぱいありました。童謡『おさるのかごや』『七つの子』などです。僕はたっぷりそれを聴きましたが、小学生になってさらに段々と成長してきた息子娘に聞かせるには、それらのレコードの歌は幼すぎると、父は思ったかもしれません。(僕はなにも不満に思っていなかったのですが。音楽に鈍感なんですね。) でも父は、何を子供たちに買って聞かせたらよいかまったくわからなかったのだと思います。 

 その父がある日、「好きなレコードを買ってやる。自分らで買ってこい。」と言ったのです。
 僕と妹は、母にお金をもらって、レコードを買いに行きました。僕の田舎には、電気器具などを売っている雑貨屋があって、そこでレコードも売っていました。しかしそういう店ですから、レコードの品数は少なく、選ぶものも限られます。その中から好きなものを選ぶのです。
 妹は、ピンキーとキラーズ恋の季節』を選びました。当時大ヒット中の曲でした。(わ~すれられないの~ あ~のひとがすきよ~♪)
 そして僕は、『アッと驚く為五郎』。


 僕は今日まで、この曲を歌っていたのはハナ肇だと思っていましたが、それはカン違いで、歌っていたのは(『スーダラ節』でもお馴染みの)植木等でしたね。「アッと驚く、タメゴ~ロオ~、なに!」とハナ肇がなんども叫ぶし、ジャケットも「為五郎」であるハナ肇が中心なので、そう思い込んだのでしょうね。このレコード、あるいは田舎の実家にまだあるかもしれません。

 子供時代の懐かしいものや、おもしろいギャグや、そういうものをいちいち採り上げていてはキリがない。ですから、この「僕が初めて買ったレコード」の話も書く予定ではなかったのですが、「クレイジーキャッツ」→「猫」ということに気づいて、急遽採り上げました。僕が初めて買ってもらった本が『びりっかすのこねこ』で、初めて買った漫画単行本がニャンコ先生のでてくる『いなかっぺ大将』、そしてここに「クレイジーキャッツ」…。僕の子供時代に、これほどまで「猫」との関わりがあったとは… ブログをやっていなかったら気づかなかったことです。
 「クレイジーキャッツ」から、子どもの僕は英語の「クレイジー」と「キャット」を知りました。


 ハナ肇(はじめ)は、調べてみると、豊島区長崎の生まれなんですって。これは以前書いたことがあるけど、トキワ荘があって、もっと前(ハナ肇が生まれた大戦前)には「池袋モンパルナス」と呼ばれ、芸術家が集まった地域。
 クレイジーキャッツのメンバーとと僕の父とは、ほぼ同世代になります。


 『アッと驚く為五郎』の「為五郎」は、TVの中のキャラですが、その頃アメリカを中心に世界で流行っていた「ヒッピー」をイメージしたものですね。 戦争いやだ、平和がいいよ、愛だよ、働きたくねえよ、なあみんな…、てな感じ。
 今の僕はこの「為五郎」の格好から、「広島太郎」を連想するのです。
 「広島太郎」というのは、広島市にいた人なら皆知っている昔いた人物で、いまの言葉でいえばホームレスなのですが、身体に色々なもの(腕時計とかぬいぐるみとか紐とか)を身に着けて鮮やかな衣装の目立つ人で、本通りという広島の中心部をよく歩いていましたから、それでたいていの人は知っていました。今はいないので伝説のようになっていますが、伝説ではなく実際にいた人物です。僕が印象に残っているのは、映画館でこれから映画が始まるという時に、からんからんと紐に空き缶をつけて身体にぶら下げたものも鳴らしながら、彼、広島太郎氏が入って来たことです。あの映画は何だったか、思い出せません。
 「広島太郎」のあの格好は、今になって思えば、あれは、シャーマンの特徴を具えていますね。シャーマンって身体に金属をジャラジャラと巻きつけるんですって。ヘビメタの人の金属趣味も同じようなルーツではないでしょうか。卑弥呼やアマノウズメも金属じゃらじゃらさせて踊ったのでは? 広島太郎氏、なにを考えてああいうふうに生きていたのでしょうか。だれか調査して本にしてくれないものか。
 「広島太郎はしんでしまった」ということになっていたらしいのですが、また最近では「それはウソ、ほんとうは生きている」という話もあるそうです。


 クレイジーキャッツのメンバーの谷啓(たにけい)は「ガチョーン」のギャグで有名ですが、彼は大の猫好きでもあるようです。
 ところで、僕が買った初めてのレコードアルバムはといえば、これが、所ジョージなのです。それが何だったか手元にないのではっきりしないのですが、たぶん、『ホング・コングの逆襲』だったと思います。 (実家に帰った時にさがしてみよう。)
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それも無理!

2008年10月25日 | はなし
 こんどは、落語家ですか~!!!

 これだけ自分のこと語っても、まだ足らんちゅうんですか、先生!
 ワシはもう、もう、どうしたらいいか、わかりませーん!!

   (…というか、ぴんからトリオに行ったというに、20歳って。)



◇女流王位戦(五番勝負)
  石橋幸緒 2-1 清水市代

◇順位戦
 21日(火)に行われた順位戦C1クラスの対局、日浦市郎-窪田義行戦は最高に面白い勝負でした。
 僕はこのクラス、、日浦さんと広瀬章人五段の昇級を予想したこともあって、日浦さんを応援していました。日浦七段が優勢だったと思うんですが、窪田六段の指し手が変幻自在で、迫力がありました。 200手(!)の熱戦を制して窪田義行の勝利。 将棋ってやっぱ我慢だなあ。 
 いやあ、楽しかった! 両棋士に拍手です!

 [C1順位戦]  昇級は2名

   安用寺孝功  5勝0敗
   窪田義行   5勝0敗
   広瀬章人   5勝1敗
   日浦市郎   4勝1敗   ←この1敗は痛いなァ。ガンバレ日浦!

朝日オープン
 これもおもしろかった。中継ありがとう、です。
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アは「亜細亜」の亜

2008年10月23日 | おんがく
 ヨウちゃんのお父さんは船乗りです。海に憧れて船乗りになったお父さんが、その息子のヨウちゃんに太平洋の「洋」の字をつけた__そのことは前々回記事「エドガー・アラン・ポー」に書きました。
 そのヨウちゃんには妹がいます。アコちゃんです。
 彼女のことを今回は書こうと思います。 じつは、アコちゃんのことはずっと前に一度このブログ記事に書いたことがあるのですが。(それはあとでまた採り上げます。)


 まず、RCサクセションの話から。(ミヤシロウの次はキヨシローってわけで。)

 前回は、僕の「初めてのコンサート体験」がぴんからトリオであることを発表した。それは、タコに誘われて(海のタコではないぞ)行ったわけで、チケットもタダである。タダだから行ったようなもので。
 では、僕がいちばん初めに自分でチケットを購入して行った音楽コンサートは、なにか? それは、
 RCサクセション、なのだ。
 これ、ずいぶん自慢になる気がするな。(アア、行っといてヨカッタ。) RCサクセションは古いロックバンドで、そうボーカル忌野清志朗、ギター仲井戸麗市の、『雨上がりの夜空に』がヒットして… あ、説明はいらないね。

 当時、ちょうどRCサクセションの出世作『雨上がりの夜空に』がヒットし始めた頃で、でもヒットし始めたとはいえ、ラジオでもほとんどまだ流れていなかった。当時はラジオでも、日本のフォーク(ニューミュージック)と、洋楽(DISCOが流行っていた)が多かったと思う。
 だから僕は、ラジオ(AM)を毎日よく聞いていたが、「RCサクセション」というバンドの曲を一度さえ聞いたことがなかったのだ。『雨上がりの夜空に』もまだ知らない。 なのでファンだったというわけでもないし、誰かに誘われたわけでもなく… それでいて、RCサクセションのコンサートに行こうと思ったのだ。

 その理由をひと言でいえば、カンである。 それ以外に、理由はない。

 キッカケは雑誌で、『週刊プレイボーイ』だったと思う。喫茶店かラーメン屋かなんかの食堂でその雑誌を見たのだが、2ページの見開き写真で、そのバンドのコンサートが話題を呼んでいると紹介されていたのである。その記事には『雨上がりの夜空に』という曲が人気急上昇、ライブはもっと凄い、というようなことが書いてあった。
 「行きたい」 と、瞬間、僕は感じたのだ。
 「よし、行こう」と決めて、僕はチケットの購入方法を調べてみた。この当時、携帯電話などもちろんないし、学生の(固定)電話の所持率は1割にもまったく及ばないものであったから、音楽コンサートチケットは電話予約なども受けていなかった。(場合によってはあったかもしれないが。) なので、チケットは、プレイガイド等に直接買いに行く、それが普通であった。
 その時僕は広島で一人暮らしをしていたのだが、タウン誌で調べるとうまいぐあいにRCサクセションのコンサートが数ヶ月後に広島で開かれるとわかった。そのチケットは「本通り」という場所の音楽店で発売されるということも。
 チケット発売の初日、僕は1時間半ほど前(朝7時半くらいだったと記憶している)、広島本通りのそのチケット売り場に行った。RCサクセションの人気度が僕自身、よくわからなかったのだけれど、行ってみると3、4人の「先客」がまだ開かないシャッターの前に並んでいた。ええ、3人か、4人…そんなものだった。僕はかれらとそこに並び、シャーターが開くのを待った。
 僕は最前列の席のチケットを一枚買った。
 (RCサクセションのチケットが、しかもその最前列の席が、ほんの1時間早く並ぶだけで取れた__というその事実から、まだ彼らの人気が「爆発前」だったというのがわかるだろう。)

 そのチケットを買って、コンサートの日までの間に、RCサクセションの名前をラジオで何度か聞くようになった。『雨上がりの夜空に』がラジオから流れてきた。
 ああ、こんな曲だったか! いい! おもしろい曲だ!
 自分のカンが間違っていなかったと嬉しくなって、僕はそのコンサートが楽しみになってきた。他にはどんな曲があるのだろう。


 さあ、当日です。 場所は広島見真講堂(けんしんこうどう)。

 僕は最前列の自分の席に座っていた。 するとその時、
 「○○○さん!」
と呼ぶ声が。 どういうことだ?
 それは僕の名前だ。僕の名前を(苗字でなく名前を)呼ぶのは、だれ?
 「えっ」と振り向くと、 そこにいたのはアコちゃんだった。 幼馴染のアコちゃん。ヨウちゃんの妹の…、小学生の時にはよく遊んだ。あの頃の田舎の小学生はみんな一緒になって遊んだものだ。

 「やあ…。」
 このブログをまめに読んでいる人は知っているはずだ、10代後半になって僕がほとんどしゃべらなくなっていったということを。反応もにぶい男だった。(でも内心はこの奇遇を驚いていたさ。そりゃそうさ。)
 僕はアコちゃんが高校卒業後広島に出てきていることも知らなかったし、それにこんなところで会うなんて!
 アコちゃんは僕に聞いた。「この席、どうやって取ったの?」
 僕は上に書いたようなことをモゴモゴと説明した。 で、会話はそれで終わり。(←笑)

 さあ、コンサートがはじまった!
 「イエーイ!」という清志郎の声。 いっせいに皆立ち上がり始めた。
 「イエーイ!」 「イエーイ!
 「イエーイ!」 「イエーイ!
 一曲目は『よォーこそ』。 メンバーを紹介する曲だ。 ベースの音がかっこいい!
 「けんしんこうどうに、よォーこそォ!

 「愛し合ってるかァ~い!

 RCサクセションが、清志郎の「愛し合ってるか~い」の叫びと共に、どんどんメディアで採り上げられるようになったのは、その後のことだ。
 広島見真講堂は、今はもうないそうだ。



 アコちゃんのこと。 アコちゃんは、ヨウちゃんの妹で、お父さんは船乗りで、ふだんお父さんは家にいなくて、その家には大きななつめの木がある。 僕とヨウちゃんは友達だし、アコちゃんは僕の妹と友達だし、家は近いし、小学校の時にはずいぶん一緒に遊んだし、中学になっても時々は遊んだように思う。
 でも僕が高校生になったあとは、ヨウちゃんともアコちゃんとも全然話したことがなかった。アコちゃんは2コ下で、家は近所で同じ高校へ通っていたのだけど…なぜか一度も接点がなかったのだった。一年間は毎日同じ時刻の列車に乗っていたんだけれどね。まあ、僕は、「超無愛想な男」になっていたから…。 きれいになって女として意識した、なんてこともない。いや、実際アコちゃんはきれいになっていたけどね。体型がすらっして色白で。 アコちゃんは、えくぼがかわいいんですよ。それは子供のときからだけど。
 そのアコちゃんと、RCサクセションの広島でのコンサートで、出会ったんだから。 そりゃ、ちょっと、「サプライズ!」 です。
 振り返っておもしろいのは、「そのあとに何もない」ということ。僕らしいなあ、と思うのですが。ふつうそういうことがあったら、コンサートの後で話すとか、住所を聞く(電話はもっていない)とかすると思うのだけど、挨拶もせずに帰っている。まあ、コンサートの後に姿が見つからなかったということだと思うけど。記憶に残ってないのでよくわからないが、とにかく、それっきり。


 さて、このアコちゃんのこと、以前も一度ブログに書いている。 (→これ
 印象的な記憶なのだ。
 二人であそんでいて、僕の父が写真現像のための「暗室」として使っていた部屋に入ったら、ボロい木製の扉が開かなくなって、二人で怖くなって泣き叫んだこと。そして、アコちゃんが「○○○さん、泣かないで」と言ってその扉を押したら、それまで開かなかった扉が急に開いたこと。闇の世界から解放されて外の空気を吸って、ホッとして、それからアコちゃんの家に行ったこと。アコちゃんが擦りむいた脚に「赤チン」を塗っていたこと。
 それらのことを僕はよく憶えている。あれはいくつくらいのことだったろう。小学校2、3年生くらいか…。
 あのときのアコちゃんの「○○○さん、泣かないで」の言葉、あれは、「開かないドア」を開けるための、とくべつな魔法の呪文だったのではないか… そんなことを思ってしまう。


 そのRCサクセションライブで会って、それ以来、アコちゃんとは一度も話をしていない。
 ただ、姿は一度見ている。 ずっと後…、アコちゃんのお父さんの葬式のときに。

 僕がある仕事を辞めて2ヶ月の間実家にいた時に、ヨウちゃんとアコちゃんのお父さんが亡くなったという知らせが入った。あの船乗りだったお父さんが亡くなったと。もう船乗りの仕事も定年を迎えてやめて家にいるということだったが…。
 葬式の手伝いにうちの父が行かなければいけないのだが、たまたま別の人の葬式と重なってしまった。そこにさらにたまたま僕がいたので、僕がその葬式の手伝いに行くことになった。
 その日は、雪が一晩で30センチほども降った日の朝で、「こんなに降ったのは20年ぶりぐらいではないか」などと皆が言っていた。僕らの仕事は、葬式を行うのために、雪を除雪して道を開けたり、受付のテントをつくったりといった屋外の準備である。その仕事自体は2時間ほどで終わった。
 慰問客がぽつぽつとやって来ていた。ある女性が雪道をやってきて、アコちゃんを呼んでほしいという。ヨウちゃんもアコちゃんも実家を出て、どこか都会で働いていた。どちらも結婚していないという。その日には、すでにアコちゃんは帰ってきていて家の中にいたようだ。

 アコちゃんが家から出てきた。訪れた女性が「アコちゃーん!」と声をかけると、アコちゃんの顔が崩れ泣き出した。二人は抱き合って、そのまましずかに泣いていた…。
 そのときに僕がどんなことを思ったか、記憶に残っていない。
 (泣かないで、アコちゃん)と僕は心の中で励ました。 …そういうことにしておこう。


 アコちゃんのお父さんは船乗りで、海と外国に憧れていたようで、それで…
 アコちゃんの「ア」は、「亜細亜(アジア)」からとった、「」 なのである。



 僕はその船乗りのお父さんからもっと話を聞けばよかったなあと思います。外国のことや海のことや…
 アコちゃんとも、もっと話をすればよかったなあ、と。 (でもねえ、あの時は、何も話すことなかったんだよ…) 

 RCサクセションライブでのあの偶然はなんだろう…と時々僕はおもうのである。単なる偶然だよ、と言われれば反論もない。ただ、そういう偶然があったおかげで、その瞬間の言葉や映像が刻まれる…そのことに何か意味がありそうな気が僕はしている。

 忌野清志郎のライブ…、行きたいねー。

 寝ころんでたのさ 屋上で  ♪ ♪     ♪



 ここまでは昨日書いた。あとは絵をつけて__という予定でいた。
 今日は昔読んだことのある大原まり子のSF短編『銀河ネットワークで歌をうたったクジラ』を再読。その小説とは関連がなさそうだが(‘歌’と‘爺さん’が思い出さのせたのかもしれない)、その後に、ふいに、アコちゃんとのエピソードを一つ思い出したのである。折角なので付け加えておくことにした。
 こんな話だ。

 アコちゃんは、近所の、墓石づくりのお爺さんと仲良くなった。
 その爺さんの仕事場には墓石の原石である花崗岩(御影石)がごろごろしていて、小屋があって、それがその爺さんの仕事場だった。その小屋は、半分が仕事場、あと半分が小さな畳の部屋、それに簡易な便所がつくってあった。花崗岩を注文に応じて切り、削り、磨く。すると表面はつるつるになる。そして「○○家の墓」というような文字を彫って墨を入れる。その作業を、お爺さんは一人で全部やっていた。
 アコちゃんは、いつのまにかそのお爺さんと仲良くなって、僕の妹もそのうちに一緒にお爺さんの仕事場に行くようになった。つられて僕も行った。
 墓石づくりの作業は屋外でおこなうのだが、僕が面白かったのは、お爺さんの屋内での作業だった。そこには、轟々と燃える火があり、そこで爺さんは、鉄を打っていたのだ。鉄を火に入れ、真っ赤になった鉄(作業の道具)を、カンカンと打ちすえるのだ。僕はそれまで、その爺さんが、小屋の中でそんなことをしているとは知らなかった。僕は黙って、その打たれる鉄の道具をずっと見ていた。
 仕事が終わると、爺さんは畳のある部屋で、酒を飲んだ。その部屋はすごく狭かったがこたつもあった。お爺さんには家族があって住む家は別にあるのだが。
 部屋の中を見上げると、紙が張ってあってなにか書いてある。それを僕が声に出して読もうとするがよめない漢字がある…。 「炭坑節(たんこうぶし)よ。」とアコちゃん。そしてアコちゃんはお爺さんに「バイオリン弾いて。」といった。お爺さんはバイオリンを弾き、アコちゃんは爺さんと、炭坑節を歌いはじめた。僕の妹も。そして、僕も。

 月が~ 出た 出た~
 月が~ 出た~
 あんまり~ えんとつ~が~ たかい~ので~
 さ~ぞ~や~ お月さん 煙たかろ
 さのよいよい ♪

 碁石と碁盤もあった。それを使って僕らは「はさみ将棋」をした。将棋の盤とちがってマス目が多い。 アコちゃんは「はさみ将棋」が強かった。僕はまったく勝てなかった。 こんなはずはない、と思ったが、やっぱりアコちゃんが勝つ。
 駒(碁石)をナナメに並べる__それがアコちゃんとくいの戦法だった。
 ずっとあとで僕なりに研究したが、どうやらその戦法は、「はさみ将棋」における最強の戦法で、これに勝てる方法は存在しない、というのが僕の出した結論だった。 思えば、アコちゃんは、お爺さんにその無敵の「必勝戦法」を伝授され、鍛えられていたのだった。
 「ずるいよ、アコちゃん。 それじゃあ、ぜったい勝てないよ…。」 あとで僕はそう思ったのだった。 
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宮 史郎

2008年10月21日 | おんがく
 今日は、タコ、というあだ名のともだちに登場してもらいます。
 子供時代のある日、タコちゃんが、「コンサートに行かないか」と僕を誘いました。

 タコの家は薬局屋だった。「○○堂」というような名のよくある小さな薬局なのだ。 (タコはよく僕に、「薬局というのは儲かる」と言っていた。)
 そのタコの家のお母さんが、和服を買ってその時にコンサートのチケットを二枚もらった。自分は行けないので、息子のタコに、だれか友達と行ってきたら、と言ったのだ。それでタコは僕を誘ったというわけ。せっかく誘われたのだし、と僕は行くことにした。
 その日、タコの家(薬局)に行くと、お母さんが、これを飲みなさいと栄養ドリンクをくれた。僕は栄養ドリンクを初めて飲んだ。 二人で列車に乗って、街の「市民ホール」へ。

 そのコンサートというのが、ぴんからトリオ

 というわけで、僕が、生まれて最初に行った音楽コンサートというのが、ぴんからトリオコンサートなのである。
   …これは、子供時代の音楽体験として幸福だったのか、どうなのか

 当時、ぴんからトリオの『女のみち』が大ヒット。加藤茶のおまわりさんが「あなたァ~のため~にィ~♪」と歌っていたあの曲である。 「まもォりィ~とおォしたおんなァ~の~みさァ~お~♪」 って、それ、子供が聞く歌か!?
 調べてみるとこの曲はなかなかすごい。 「2年連続オリコン年間シングルチャート第1位」という記録で、これは今も破られていない。そりゃそうだな、2年も同じ曲が第1位なんて今後もちょっと考えられない。
 「ぴんからトリオ」 (「宮史郎とぴんからトリオ」が正式名称のようだ)は、その後一人抜けて、「ぴんから兄弟」になり、さらに「宮史郎」になった。
 この記事を書くにあたって、漫画『編集王』(土田世紀作)を何冊か持っていたような気がして探してみたのだが、なかった。 この漫画の中に、宮史郎をモデルにしたキャラが出ていたが、それがなかなかいい味なのである。 残念だが紹介できない。

 このコンサートへ行ったことは、なんとなくだが、誰にもしゃべる機会がなく、30年以上心に潜めて私はここまで生きてきた(笑)。 話せてすっきりしたぜ。



 ところで、昨日僕は書店で『チャップリン自伝』を少し立ち読みした。
 それに書いてあったのだが、漱石がロンドンへ行った前年の1899年、ロンドンで「口ひげ」が大流行し始めたのだという。
 なるほど、夏目漱石の「口ひげ」は、ロンドンの流行の影響なのか! (日本のあの時代の「口ひげ率」はどれくらいなのだろう? 明治天皇もそうだった。)
 そうだ、チャップリンも「口ひげ」だ。もっとも、漱石が留学した時、チャップリンは11歳なので、ひげはまだないのだが。 その数年後、イギリスで『シャーロックホームズ』が舞台で演じられることになった時に、チャップリンは14歳で役をもらって… というようなことがその本『チャップリン自伝』に書かれていた。

 宮史郎-夏目漱石-チャップリン
    … 「口ひげ」で結んでみた。 (あっ、加藤茶のひげダンスもあった)


 タコちゃんはどうしているだろう。 「口ひげ」はやしているだろうか?



  ↑
 これが前回記事で話したジュール・ベルヌの『二十世紀のパリ』。図書館で借りてきた。
 1863年に、「1960年のパリ」を描いた未来小説。つまり100年後に、機械文明が発展したパリでの未来の生活がどのようになっているかを想像して書いたもの。ちょっと力が入りすぎたところがあって内容が重く、そのせいか、ボツになった。そのまま陽の目をみなかった。
 面白いのは、それが1991年になって出てきたことだ。彼の描いた「1960年のパリ」が、「100年後の未来」から、「過去」へと変わった後に発見されて初めて読まれるという、この不思議さ!
 1989年ヴェルヌのひ孫が引越しのため家財を運ぶ際に、先祖伝来の金庫を運ぶのに困った。その金庫は、ブロンズ製で重さ900キロもあったという。しかも鋼鉄とコンクリートで装甲されていた。 ひ孫氏は、これを破壊して(←どうやって?)、中身を見ないまま袋に詰めこんだ。その2年後になって、それを整理しているときに、この『二十世紀のパリ』の原稿を発見したのだという。
 おもしろいなあ! 
 100年後の未来… あなた、想像できます?



◇竜王戦(七番勝負)
  渡辺 明 0-1 羽生善治

◇女流王位戦(五番勝負)
  石橋幸緒 2-0 清水市代
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エドガー・アラン・ポー

2008年10月19日 | ほん
 西暦1900年__といえば、19世紀末であるが、その年の9月、ロンドン留学を命じられた夏目漱石は、横浜よりドイツ汽船プロセイン号に乗り南洋へ向けて出港。途中、シンガポールから妻鏡子へ手紙を送っている。その手紙の中にこういう文をみつけた。

〔其許(そこもと)は歯を抜きて入歯をなさるべく候。只今の儘にては余り見苦しく候。〕

 鏡子よ、おまえは歯並びがわるい、だから入歯にせよ、と漱石は言っているのである。
 なんというか… 僕には20代の妻に入歯をすすめるこの漱石のセンスがわからない。 … が、おもしろい。

 さらにプロセイン号はインド洋を西へ行き、紅海を通り地中海へ。漱石は。イタリア・ジェノバで汽船を降り、列車でパリへ。
 1900年、パリ万国博覧会が開かれていた。漱石はこれを見学。

〔今日は博覧会を見物致候が大仕掛にて何が何やら一方向さへ分り兼ね候。名高き「エフエル」塔の上に登りて四方を見渡し申し候。是は三百メートルの高さにて人間を箱に入れてこう鋼条にてつるし上げつるし下す仕掛けに候。〕

 つまりエレベーターに乗って漱石は、エッフェル塔に登ったのである。



 以上は前置き。今日のテーマは、まず、フランス・パリ。(あとで、ボルネオ島)
 「パリ」といえば、凱旋門。それから僕はピカソとかモジリアーニとかの画家を思い浮かべるのだが、その次に出てくるイメージは、山口百恵主演のTVドラマ『赤い疑惑』の、「パリのおばさま」(←岸恵子)。 ただし、今はそれらの話がしたいのではない。


 今、将棋竜王戦七番勝負がパリで開幕したのである。 (ということで今回はパリのネタを書こうとオモイマス。)
 先手渡辺明竜王に対し、後手挑戦者羽生善治は、今流行の(といってももう流行りだして4年くらいになるが)「一手損角換り戦法」。 2日制で、時差があるので、決着は月曜日の早朝になりそう。
 


 さて、話はまた漱石へ。漱石のあの「黒猫」___これは黒にちかいトラ縞猫なのだけど___このブログでは、そこから話を色々とつなげて展開してきた。
 「黒猫」というもの、日本ではもともとは「福猫」であったらしい。病気をなおす力があるとされていた。ところが、欧米のキリスト教文明では、白は善、黒は悪、というイメージが強くあって、黒猫は不吉だとされていた。それに加えて作家エドガー・アラン・ポーの『黒猫』が日本に入って来て、これがとても怖くて強烈な話だったので、黒猫のイメージが日本でも不吉のほうへ傾いてきたようだ。
 エドガー・アラン・ポーはアメリカの作家で、19世紀前半の人(1809-1849)。 ポーが『黒猫』を書いて発表したのは1843年。
 日本でその『黒猫』を最初に翻訳したのは饗庭篁村(あえばこうそん)という人で、1887年。おもしろい偶然だが、これを翻訳した時にこの人、根岸に住んでいたらしい。根岸御隠殿という場所で、ここは子規の住んでいた家(=子規庵)のすぐそば(数百メートルの距離)なのである。(ただし、篁村が『黒猫』を翻訳した明治20年、子規はまだ学生で本郷あたりに下宿していたが。)
 そして饗庭篁村はポーの『モルグ街の殺人事件』も翻訳している。

 じつは今回の記事では、『モルグ街の殺人事件』の話をしたいのである。
 が、その前に『黄金虫』のことを書いておく。

 僕が小学校の図書館で、最初に読んだ本がポーの小説『黄金虫』だった。この本は借りたのではなく、図書館で全部読んだ。それはたぶん授業の中の、「読書の時間」か何かで、僕は三年生か四年生だったと思う。図書館で本を借りるということを、僕はまだこの時、したことがなかった。周りの友達らも、そういう人があまりいなかったので、わざわざ行き慣れていない三階の図書館(教室は二階だった)まで行くという習慣がなく、本を読むという面白さもまだ知らなかった。
 『黄金虫』は、「おうごんちゅう」とも「こがねむし」とも読めるが、僕としては、「おうごんちゅう」と読みたい。これは「宝さがし」の話だから。
 今読むと、ポーの『黄金虫』はけっこう(子供には)むつかしい。だから僕が読んだのは子供向けにやさしい文章で翻訳したものだったと思う。『黄金虫』は、カリブ海の島に海賊が埋めた宝をさがしあてる話だが、その宝の場所を示す「暗号」の解読をするという展開になる。その「暗号」は、おそらく英語をカモフラージュしたものであり、英語では最も多く使われる文字が「e」であることからその暗号解読を解いていく、というところをよく憶えていた。英語を習ってもいない小学生が、よくこれを選んで最後まで読んだもんだと、今では思うが、でもたしかに読んだのだ。
 僕が図書館で本を何冊も続けて借りることに熱中するのは、もっと後で、小学5、6年生の頃である。読む本は、SFと、『江戸川乱歩・少年探偵シリーズ』(「江戸川乱歩」のペンネームは「エドガー・アラン・ポー」からとったもの)、それから『シャーロック・ホームズ』のシリーズなど…

〔 シャーロック・ホームズは立ちあがって、パイプに火をつけた。
 「もちろん君は褒めたつもりで、僕をデュパンに比べてくれたのだろうが、僕にいわせればデュパンはずっと人物が落ちる。 … 」 〕 
     (コナン・ドイル 『緋色の研究』)

 シャーロック・ホームズといえば超有名なロンドンの名探偵で、生みの親は作家コナン・ドイル。イギリス作家のドイルがこのホームズのシリーズの最初の作品『緋色の研究』を発表したのは1887年。
 ということは1900年にロンドンへ行った夏目漱石も、この名探偵ホームズのシリーズを読んだだろうか。たぶん、読んだだろう。漱石の興味を惹いたかどうかはともかく。
 このコナン・ドイルがこの推理小説を創作するにあたって手本にしたのが、エドガー・アラン・ポーの小説なのである。というわけで、ポーは推理小説の元祖ということになっている。
 こうしてみると、僕の中でのエドガー・アラン・ポーの影響度は相当なものだとわかる。いや、本好きだった小学生なら、みんなそうかもしれない。


 エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人事件』は、パリを舞台とした推理小説であり、これが史上最初の探偵もの推理小説とされている。パリ・モルグ街で殺人事件が起こった。それを解決したのが、探偵C・オーギュスト・デュパン__もちろんポーの創作上の架空の人物である。ホームズよりも46年早く小説界に登場した「名探偵」、それがデュパンである。

 モルグ街に住むある母娘が誰かともみあって殺されるという事件が起こった。不可解な殺され方で、そのときに「声」を聞いたという住人も、何語なのかわからなかった。
 と、そういう事件を名探偵デュパンが鮮やかに解決するのである。
 実は、僕はこれを数週間前にはじめて読んだのだが。前置きが長くて、短編のわりに読みにくい印象だ。(これに比べるとホームズはすごく読みやすい。)

 ええ~と、推理小説の結末をばらすなんてのは、エチケット違反というもの。ですよね~、それが常識。でも、いまさらこの小説を読む人もいないだろう、なんて勝手に決めて、ええーい、オチをばらしちゃえ! (ていうか、もうばらしちゃっている…のだけれ…ど… )

 「モルグ街の殺人事件」、この事件の犯人は____!!  それは…


 それは、オランウータンなのでした!

 翻訳によっては「猩々(しょうじょう)」となっています。猩々というのは中国に伝えられる伝説の怪物なのですが、日本でこの怪物の名前がこの熱帯産の動物オランウータンにつけられたようです。
 『モルグ街の殺人』に犯人として登場したこの大型のオランウータンは、ある船員がお金儲けのために、ボルネオ島からパリまで連れてきたのだった。それが逃げ出してモルグ街に紛れ込み殺人を犯してしまったのである。
 デュパンは、「オランウータン買います」というような広告を新聞に載せ、すると犯人であるオランウータンの持ち主(船員)がノコノコとデュパンのところにやってきたのであった。


 さて、では、話題は、真犯人君の故郷、「ボルネオ島」へ。
 日本の南、赤道のあたりのある大きな島、それがボルネオ島。ただしボルネオという呼び名は欧州のもので、地元の呼び名は「カリマンタン島」。 国でいうと、この島はマレーシアとインドネシア共和国、それとブルネイになる。
 オランウータンは、「森の人」とも呼ばれ、このボルネオ島とその隣にあるスマトラ島と、この2つの島の熱帯雨林にしか生息していない。森林破壊がすすんできてオランウータンもその個体数が減少しており、ワシントン条約でペットとしての輸出入は禁止になっている。ところが1998年に日本のペットショップで違法に4頭売られていて騒ぎになったことがあるようだ。


 さて、話はまた「次」へとぶ。僕の子供時代の思い出話。

 「ボルネオ島」という名前を、小学生の時に、僕は、近所のともだちのヨウちゃんから聞いた。
 ヨウちゃんとはよく遊んだ。歳がひとつちがうので、あそんだのはおもに幼時から小学生時までだけど。
 ヨウちゃんのお父さんは、「船乗り」なのだった。 僕の田舎は、山に囲まれた盆地で、海はないのだが、でも、だからこそ、ヨウちゃんのお父さんは海に強く憧れて「船乗り」になったのかもしれない。ヨウちゃんのお父さんは、普段はだから、家にはいなかった。いつも船に乗って外国に行っているのだ。2年ぐらいずっと海の上にいて、休みがもらえると帰ってきて半年くらい家にいる。海賊の出てくる小説の船長と同じように、アゴヒゲ(ジョージルーカスのような)を生やしていた。おまけにパイプでタバコを吸っていて…。ベタな人だったなあ…と振り返って今は思うのだけど、そんなふうにヨウちゃんのお父さんは、近所のほかの大人と見かけがちょっと違っていた。「異国の雰囲気」があったのだ。パパって呼びたくなるような。だけどヨウちゃんたち子供は「お父さん」と呼んでいたし、家はふつうに土間があって畳のあるありふれた田舎の小さな家だったし、お母さんもまわりの人と変わらない感じだったけど。パイプにヒゲのお父さんだけが、微妙に「異国」だった。
 ヨウちゃんのお父さんは、子供達のためによく外国の「おみやげ」を買ってきた。それは、日本の店では見たことがないような形をしたチョコレートだったり、モデルガンだったり、かわった植物(食虫植物とかサボテンとか)だったり。たぶんお父さんは、普段は家にいなくて子供にさみしい思いをさせているので、その代わりにとおもしろいものを選んで買って来ていたのだ。俺は海の男で外国に行っているんだぜ、という自慢でもあっただろう。
 ヨウちゃんの「ヨウ」は太平洋の「」なのだ。もちろんお父さんがつけた名前だ。



 そうそう、「ボルネオ島」の話をするんだった。
 ヨウちゃんのお父さんはよくオウムやインコをおみやげに買って帰った。それで僕は、ヨウちゃんの家で、インコがひまわりの種を食べるところをよく見たものだ。田舎にはペットショップなどないので、そういう鮮やかな色の鳥は僕らにはとても珍しく感じた。でも、インコにとってはかわいそうだったかもしれない。というのは、僕らの田舎は冬は雪が積もる寒冷地だったから。当時はどの家もエアコンなどなかったし、インコたちも冬を越せず死んでしまうこともあったようなのだ。
 「このインコは、ボルネオ島のインコなんじゃ。」
とヨウちゃんが言ったので、僕はそれ以来、学校の壁に貼ってある世界地図を見ながら、「ボルネオ島の形」をしっかり意識したのだった。たぬきが服を着ているような形の島だと思った。(この島にオランウータンも住んでいるわけだ。)


 船乗りのお父さんとは関係がないと思うが、それ以上に、ヨウちゃんの家には僕が羨ましく思うものがあった。
 「なつめの木」だ。 なつめの木は秋になると実がなって、それが欲しいだけ食べられるヨウちゃんの家がとても羨ましかったのだ。
 「なつめを食べよう」と、ヨウちゃんはよく僕をさそってくれた。ヨウちゃん家のなつめの木は大きくて、屋根よりも高く、僕らは屋根に登って、その実をとって食べた。


 小学生の時、僕は、仔猫を拾ったことがある。結局、その子を飼うことにはならなかったのであるが…。
 その仔猫に「なつめ」と名前をつけたことを、最近、思い出した。そう、なつめの木のなつめの実からとった「なつめ」である。この「なつめ」は、夏目漱石の「夏目」とは全然関係がない。…なのだけど、偶々に「夏目」と「なつめ」とが、いまここで「猫」を間に置いて僕の中でつながって、それでその仔猫のことを思いだしたわけで…。
 仔猫の「なつめ」のこと、これはまた、別のときに話すとしよう。



 ヨウちゃんはまた、僕が図書館で本を借りたいと思いはじめたキッカケをつくった人でもある。
 小5の夏のある日、ヨウちゃんが、図書館で借りてきた本を僕に見せた。その本には挿絵があり、それを見せつつヨウちゃんはストーリーを説明しはじめたのだった。それがとっても面白そうだったので、僕も読みたくなったのだった。
 その本の題名は、『宇宙船ビーグル号の冒険』(ヴァン・ヴォークト著)。
 「SF」という言葉もその時に知った。「SF」…「えすえふ」…なんだかかっこいいぞ! 「えすえふ」にときめいて、僕は小学校舎三階の図書館へ(勇気をもって)一人で行ったのである。
 「SF小説」の元祖をたどっていくと、19世紀後半のフランス作家ジュール・ヴェルヌにたどり着く。SFの父などと呼ばれる人物でこの人もフランス生まれ。そのヴェルヌがSF小説を書く上で大いに参考としたのが、実はエドガー・アラン・ポーなのであった。なるほど、アイデアとして似ている作品がある。たとえば、ヴェルヌの出世作は『気球に乗って五週間』だが、気球に乗って旅をするという物語はポーがすでに1835年に書いている。それが『ハンス・プファールの無比な冒険』である。ハンスは気球に乗って、ついに月にまで飛んで行く…。
 wikipediaで知ったのだが、ジュール・ヴェルヌが1863年に書いて未発表のままの『二十世紀のパリ』という近未来小説が、1991年になって発見されたそうだ。なんと100年以上も誰にも知られず眠っていた本なのだ。 これ、読んでみたい!


 ___ということでこの稿もぐるっとひと回りして「パリ」へ帰着。 (いや~色々と詰めこんだなあ…)
 「モルグ街」ってのをパリの地図の中でさがしてみても、見つからず。それもそのはず、どうやら架空の「街」らしい。


 竜王戦は一日目終了、羽生名人が封じました。羽生さんの封じ手はきっと△2四同歩、これは間違いないですね。2日目は、日本時間で今日午後4時開始です。
 パリの名探偵デュパンのように、鮮やかに頭脳の切れ味を示すのは、さあどちら? (俺のほうが凄い、とロンドンのホームズ氏は言うのだけれどね。)
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『坂の上の雲』

2008年10月14日 | ほん
 夏目家には、四人の女子の後に二人の男子が生まれ、その次に女児が生まれた。この子は、桃の節句の前の晩に生まれたので、雛子(ひなこ)と名づけられた。
 〔知恵も早く、非常なおしゃまっ子でございました。一年半もたったこの年の秋ごろには、よちよち遊んでいては、自分も見よう見まねで猫の墓にお水を上げにいって、ついでに自分もその水を飲んでしまうという按配でちっとも目が離せません。それがまたなかなかの癇癪持ちの意地悪でございました。〕
   (夏目鏡子述『漱石の思い出』)

 ところが、この雛子は、生まれて一年半ほどで急死してしまう。ある日、御飯を食べているときに、急にキャッと言ってあおむけに倒れた。
 ただ、そのころの子供というのは、よくこういうことはあったらしい。ひきつけなどは日常的なことで、顔に水をかけて息をふきかえさせるというようなことに皆なれっこになっていて、あわてることもしなかった。ところが揺すっても水をかけても雛子には反応がなく、そのまま死んでしまった。

 〔子供の死因はとうとうわからずにしまいました。その時私は解剖でもしみたらとふと思いましたが、それも残酷なような気がしてそのまま黙っておりました。ほどへて何もかもすんだ後でその話をしますと、ほんとうに解剖すればよかった。そうすれば死因もよくわかっただろうに、ちっとも残酷なことなんかないよ。自分はまるでそんなことに気がつかなかったと惜しそうに申しておりました。夏目が亡くなりました時に、私が進んで解剖していただくように申し出ましたのは、その時のことを思い出したからでございます。〕

 〔口に出してこそ何も申しませんでしたが、これは相当にこたえた様子で、ずいぶんと心のうちでは悲しんでもいたようでした。子供に逝かれるというのはいやなもんだなあと、何かの拍子につくづく思いつめたように言っていたこともありました。〕 (『漱石の思い出』)

 その夏目漱石が死んだのは、1916年12月9日である。
 上にあるような夏目家の体験から、鏡子夫人は漱石の遺体の解剖を申し出たという。それで、翌10日、遺体は東大病理学教室にて解剖に附された。

 さらに、
 〔脳と胃とはおすすめにより大学のほうへ寄付いたしました。〕とある。すると今も東大のどこかに「漱石の脳と胃」は保存してあるのだろうか。(たぶん、あるのだろう。)


 じつは僕は若い時に、東大病院であるバイトをしたことがある。雇い主は大学病院ではなく、葬儀屋である。
 1ヶ月のバイトだった。夕方の5時から、翌日の朝7時までだから、拘束時間は長い。なんの仕事をするかというと、病棟のベッドで亡くなった遺体を、1F(半地下)の霊安室へ運ぶのを手伝うのである。それだけである。つまり、だれも亡くならない日は、仕事がない。その間は自由である。寝ていてもよい。仕事が入ると、つまり死人がでると、となりの部屋で同じく待機していた葬儀屋の社員が呼び出しブザーで起こしてくれる。その社員と二人で病室へ行く。その時の実働は長くみても2時間くらいのもので、むつかしいことは何もない。死者のでない日の方がほとんどで、そういう日は、なにもせず、寝て、朝になって、簡単に掃除をして終了である。もちろんそれで1日分のバイト代は出る。バイト後、東大の食堂へ行って朝食を食べたこともあった。
 ほんとうは、死んだ人の遺体を霊安室に運ぶのは病院のしごとなのだが、それを葬儀屋が「やらせてください」と割りこんで手伝うのは、場合によっては、葬儀屋に「ほんらいの仕事」が回ってくる可能性があるからである。亡くなった方の家族の側にいて、「ところで葬儀屋はもうお決まりでしょうか。もしまだお決まりでなかったら…」と話かけるのである。ただしそれは葬儀屋の社員の仕事で、僕は遺体運び要員として雇われたバイトなので、そこまではしないでよい。
 葬儀屋としては、病院で寝て待っているだけで「仕事」がやってくるわけだから、こんな良いポジションはない。だからこの役目を一社が独占するわけにはいかず、葬儀屋同士で取り決めがあって、1ヶ月ごとに順番でまわしているとのこと。それで、その手伝いとして雇われた僕のバイトも、1ヶ月の短期契約なのだった。
 遺体を運ぶといっても、車つきのベッドに載せてエレベーターを使うのだし、カンタンなものだ。ラクなバイトではあったが、これを長期続けるのは、やはり精神的には健康によくない気がする。1ヶ月でよかったと思う。夜、犬が吼える声が聞こえていたが、あれは多分大学病院の実験用の動物だろう。
 1ヶ月の間に、実際に「しごと」は5件くらいだったと思う。(あまりよく憶えていないのだが。) そのうちの2件は、遺族の理解を得て、「解剖」へ回された。そのケースの場合、朝になって、冷房の効いた霊安室から、「解剖室」へと遺体を運ぶ(車で移動)のも我々のしごととなっていた。服を脱がせて、解剖台へ横たわらせるまでがお役目だ。そんなわけで僕は、東大病院の解剖室にも2度入室しているのである。

 待機しているのは、葬儀屋の社員1名(ずっと同じ人ではなかった)とバイト1名(僕)。 社員とは別の6畳ほどの広さの部屋があって、そこで僕は一人で待機。ということで気楽だったが、拘束時間が14時間もあると、いくら自由に寝てもいいといっても、そんなには眠れない。TVもなかった。それで僕は図書館で本を借りてきて読んだ。
 その時に読んだ本が、司馬遼太郎の『坂の上の雲』である。
 長い長い小説である。 だから、ちょうどよかった。 9月だった。


 『坂の上の雲』は、日露戦争を中心に据えて、司馬遼太郎が、「明治時代の人間」というものを描こうと構想した物語である。この物語の主人公として、司馬さんが選んだのが、正岡子規、秋山好古(よしふる)、秋山真之(さねゆき、好古の弟)の三人。かれらは三人とも、伊予松山の出身なのである。
 正岡子規と秋山真之は同い年であり、親友であり、東大予備門へともに通った。ということは、実は、夏目漱石と秋山真之も同級生なのである。ただ、秋山真之は、家の経済的事情から、予備門をやめ海軍への道を進むことになる。 それで、子規が漱石との会話中に、秋山真之の話をしたときに、漱石が真之のことを憶えていないというので、「写生能力の不足じゃな」と漱石をからかった__という場面が『坂の上の雲』に描かれており、僕はそれを切り取って前回記事に入れた。


 日露戦争は1904年2月にはじまった。ロシア軍が「旅順」を占拠したことに反発した日本が、とうとう戦争に踏み切ったのである。(子規が死んで1年半後のこと)
 夏目漱石の家に例の「福猫」が現われるのは、この戦争のさなかであった。
 日本陸軍は「旅順」を奪うのに苦労をした。沢山の犠牲の上に、1905年1月、ついに「旅順」陥落。といってもこれで「勝ち」というわけではない。
 漱石の『吾輩は猫である』の第1回が発表されたはその時期である。これが好評だったので、漱石はどんどん『猫』の続きを書いた。生活が苦しくそれまで借金をしていた夏目家だが、東大の講師の給料のほかに、原稿料が入るようになって徐々にラクになった。つらかった漱石の神経症症状もやわらいでいった。
 その『吾輩は猫である』のその第5話の中では、猫がこんなことを言っている。

〔先達中(せんだってじゅう)から日本は露西亜(ロシア)と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓(びいき)である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思う位である。〕(『吾輩は猫である』)

 「混成猫旅団」というのが、可笑しい。


 日本海軍連合艦隊の司令長官は東郷平八郎である。参謀長は加藤某であるが、その作戦を実質的に担当していたのは、秋山真之であった。正岡子規の友人の、秋山真之である。 
 日本の陸軍は「旅順」を獲った。海軍は、ロシアの太平洋艦隊を壊滅させた。しかし、ロシアには、まだ、バルチック艦隊があった。バルチック艦隊が日本海にやってきて、これに日本海軍が敗れることになれば、日本の陸軍の補給路も分断され、これまでの頑張りもすべて水泡に帰す。さいごの決戦だ。世界の列強もこの海戦を前にさあ始まるぞと注目して待っていた。
 秋山真之は、もてる限りの知恵をしぼって対策を考えていた。敵=バルチック艦隊は、インド洋を渡り、南からやってくる…。 



 司馬遼太郎の少年時に、家には、徳冨蘆花全集と正岡子規全集があったそうだ。司馬さんはそれらを読み、どちらも好きだけれども、しかし、蘆花の小説の「重苦しさ」にはつらくてやりきれないところもあったという。それに対して子規は「あかるい」という。この「あかるさ」に魅かれて、司馬さんは、こつこつと正岡子規の資料を集めていた。そのうちに、子規と秋山真之とが、同郷であり同じ塾に学び、東京では大学予備門へともに通っていたことを知り、彼らを描きたくなったという。日露戦争の勝利も、明治時代の、子規のような、「素朴な人々のあかるさ」に支えられた上での勝利だったということを、描きたかったのではないかと思う。
 僕はこの物語を、あの東大病院の半地下で読みながら、その時には、戦争に関わらない正岡子規がどうしてこの小説に出てくる(しかも主人公として)のか不思議だったが、いまは、わかる気がする。ああいう「あかるさ」が、いいのだ、ということが。戦争が主題ではなく、子規の「あかるさ」が主題なのだと。

 そして今、東大と漱石と『坂の上の雲』と僕とが、ふしぎな形でつながった。司馬さんの描いた正岡子規の「あかるさ」は、子猫を通して、漱石の『猫』の中にも受け継がれたと考えるいうのはちょっと強引すぎるか。(混成猫旅団…)


 「坂の上の雲」というタイトルは、明治時代の、坂をゆっくり登って行く人の前方に、ぽっかりと浮かんだ雲のことのようである。


 この小説のエンディングには、戦争後、秋山真之が、東京根岸の正岡子規の住んでいた家(子規庵)を訪ねるシーンが描かれている。途中、その根岸の「芋坂(いもざか)」とよばれるあたりの茶屋(藤の木茶屋)でひとやすみし、真之は団子を食う。 …
 漱石の『猫』の中にも、僕はいま、「芋坂」を見つけて喜んでいる。
 多々良という男が苦沙弥先生(猫の主人)をたずねてきて話をするのだが、しばらく話して先生は「多々良、散歩をしようか」という。
 多々良「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん、一返行って食って御覧。柔らかくてやすいです。酒も飲ませます」…
 これも第5話中にある。 漱石はこれを書く時に、あるいは子規庵を意識していたかもしれない。いや逆か? 司馬遼太郎が漱石の『猫』を意識して、芋坂の団子屋を書いたのか。
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子規(ほととぎす)

2008年10月11日 | はなし
 ほととぎすを描きながら、こいつ、ボーダーシャツを着ているなあ、などと思う。この鳥は、夏に遠く南から渡ってくるという。 「南」ってどこ? 東南アジアやインドのほう? 寒いより暑いほうが好き、でも暑すぎるのはいやだから夏は日本までやってくるってことか。 托卵する鳥で…つまり、子育てはしないのだ。
 「キョキョキョ」と鋭く切り裂くような鳴き声と、また口の中が赤いのでそれが血のように見え、「血を吐くように啼く」と言われたりしたという。

 正岡子規の本名は正岡常規(つねのり)。 21歳のとき、はじめて血を吐いた。結核だった。 
 それで彼は、自分の俳号に、「子規」とつけた。ほととぎすのことである。さっぱりとした性格の子規は、そうやって自分に迫ってきたその暗い翳をあかるく吹き飛ばしてみせたのだろう。血なんか吐いちゃいない、口の中が赤いだけさと。
 ほととぎすは、古い時代からよく和歌・俳句に詠われた。(信長の「なかぬなら殺してしまへ時鳥」など。) 漢字で、「不如帰」「時鳥」「杜鵑」「子規」などと表記される。 



 正岡子規は日清戦争へ従軍した。が、たいしたこともできないままに戦争は終了し、その帰り、子規はまた喀血した。神戸の病院に入院し、その2ヶ月の入院の後、いったん松山へ行き、2ヶ月間だが、漱石のいる下宿に同じ屋根の下に暮らした。正岡子規が一階、漱石が二階である。
 漱石が学校のしごとから帰ると、子規のもとには俳句の仲間が毎日集まっており、わいわいがやがやとやっていた。漱石も俳句はつくるが、それに加わらず二階に上がり、勉強をしようとするが、一階がうるさくてはかどらずイライラした。夏目金之助…のちの漱石、この男は、若い時、どこへ行ってもこのようである。

 正岡子規は陽気な性格だったようである。文学青年だったが、一人で小説を書くような事より、皆と集ってにぎやかに句会をやっているのが性に合った。仲間の中心にいることが自然で、「大将」なのだった。
 集まった仲間が文学の話のできる男ばかりとは限らない。そういうとき子規は「野球をやろう」と言った。愛媛松山の野球は、正岡子規によってもたらされたという。
 四国4県はどこも高校野球が強い、という印象がある。昔も今もプロ野球の球団はないが、現在、四国アイランドリーグ(来年からは九州の2県も加わって四国・九州アイランドリーグとなる)というものができて、松山には坊ちゃんスタジアムと名づけられた球場がある。
 子規は東京で野球をおぼえ、これに熱中した。キャッチャーをやっていたという。この頃の野球は、グラブなどというものはなく、素手でバシッと球をとっていた。当然、掌は真っ赤になる。


 夏目漱石が東京で就職せずに伊予松山へ行ったのは、東京のある女の追跡からのがれるためだった、といううわさがあった。「ある女」とは、東京で若い漱石が惚れて結婚したいとおもった娘の母親で、その母親が漱石を追跡して調べまわす、という話である。その母親の強気な性格をきらい、逃げるために漱石は伊予松山への教師の仕事を受けたというのである。これはあくまで「うわさ」であり、漱石自身は後にきっぱり否定しているのだが、鏡子夫人は、その後の結婚生活での漱石の神経症発作時の妄想癖を考えると、まったくの「うわさ」だけとも思えないと述べている。また、
〔ここ(松山)にいた一年間は夏目にとってはたいへん不愉快のものであったらしゅうございます。〕
と鏡子夫人は述べている。夏目漱石という人は、若い時、どこへ行っても不満ばかりだ。松山でも、ロンドンでも、東京へ戻ってからも。そういう「生き辛い性質」にできているようだ。よほど過敏な神経をもっていたらしい。
 漱石と中根鏡子が(東京で)見合いをしたのはこの松山時代である。鏡子の父中根重一が漱石をたいへん気に入ったようである。 ただし、二人が結婚生活に入るのは、漱石が松山から転任して熊本へ行った後になる。


 正岡子規は、俳句の世界にあたらしい評価基準を設定し、そうすることで歌や俳句に革命をもたらしたようである。ぼんやりと雰囲気を詠うのではいけない、くっきりと「写生」せよ、というような考え方である。
 『坂の上の雲』(司馬遼太郎著)の中に、こういう場面がある。
〔「写生能力の不足じゃな」
 と、子規は妙なことに結びつけて、漱石をからかった。これ以前から子規はかれの芸術主張のひとつとして写生主義をかかげていたが、漱石はその点にはあまり関心を示しておらず、
「また写生か」
と噴きだした。〕

 後の漱石が、絵を描くようになり、また小説の中でも『吾輩は猫である』の中で猫のスケッチの場面を入れたり、『草枕』の主人公を画かきに設定して「小説に筋などいらない」と言わせてみたりということを考え合わせると、あるいは子規とのつながりが漱石に何かをもたらしたのかもしれない。
 
 
〔夏目が月給をとってくると、時々小遣いをやろうなどといって子規さんに金をやっていたものだそうです。そこでさんざん食い散らかして、いざ東京へかえるという時になって、旅費がないからくれろというので渡しますと、東京へかえる前に奈良見物をしてお費(つか)いになったということです。〕 (夏目鏡子述『漱石の思い出』)

 この奈良見物のときに(1895年10月)、子規は、みんな知っているあの有名な句を詠んだ。これである。

   柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺


 1897年、子規は『ホトトギス』を創刊した。これは俳句雑誌であるが、子規の本業は別にあり、新聞記者であった。しかし、徐々に子規の身体はよわっていった。

 1900年、漱石のロンドン留学が決まった。日本を横浜から船で発つ漱石に、子規は、

   秋の雨荷物ぬらすな風引くな

と送別の句を送った。二人は東京とロンドンとで手紙のやりとりとをし、漱石は『ホトトギス』に、文学評論などの文章を書いて寄せている。
 その漱石のロンドン滞在中に、正岡子規は34歳で亡くなった。正確には1902年9月19日午前1時で、その夜は十七夜であった。その十七夜月の明かりが庭の糸瓜(へちま)の葉のいくつかを光らせていた。(9月19日を「糸瓜忌」という。) 子規にかわいがられた同郷の後輩である高浜虚子は、その傍らにて

   子規逝くや十七日の月明(げつめい)に

と詠った。 その高浜虚子が、雑誌『ホトトギス』を受け継いだ。


 1904年、夏目漱石の千駄木の家に、「子猫」があらわれた。
 高浜虚子は、神経症になやむ漱石に、小説を書いてはどうかとすすめた。言われるままに書いてみたらすらすらと書けた。その小説に、はじめ漱石は『猫伝』というタイトルを考えていたが、虚子は、それよりも『吾輩は猫である』がいいと言い、それでそう決まった。 『吾輩は猫である』は、翌05年『ホトトギス』正月号に載った。これがたいへんに好評で、もっと書け、とせっつかれた。それで漱石は「こんなものでよいならいくらでも書ける」と気分良く続きを書いた。さらには翌1906年には『坊ちゃん』『草枕』を書く。

〔これから翌年にかけて『猫』の続きを書き、『幻影の盾』だとか、『一夜』だとか、その翌年にも『猫』の続きのほかに、『坊ちゃん』や『草枕』などを書きまして、ほとんど毎月どこかの雑誌に何か発表しないことはなかったくらいでしたが、書いているのを見ているといかにも楽しそうで、夜なんぞもいちばんおそくて十二時、一時ごろで、たいがいは学校から帰ってきて、夕食前後十時ごろまでに苦もなく書いてしまうありさまでした。〕
   (夏目鏡子述『漱石の思い出』)
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欲しいなら値切るぞなもし。

2008年10月08日 | まんが
 ニャンコ先生は、語尾に「○○○ぞなもし。」とつける。 松山弁である。
 四国松山(愛媛県)出身の猫なのだ。年齢はわからない。(いくつだろう?)


 ニャンコ先生とは、もちろん、みんな知っている『いなかっぺ大将』のキャラクターの、あの茶色のしま猫のお方である。 『いなかっぺ大将』は、天童よしみの歌う主題歌のTVアニメが有名だが、僕は川崎のぼる(『巨人の星』が有名です)の描いた原作の漫画版を読んでいて、それが大好きだった。
 この漫画の主人公の風大左ェ門(かぜだいざえもん)は青森に住む田舎のこどもで、柔道が強い。井の中の蛙(かわず)ではいかんと、柔道修行の為に東京へでてきた。そして内弟子生活がはじまったが、大左ェ門は、まず柔道の「受け身」に悩んだ。どうしたらうまく「受け身」ができるのか…。
 その時、目の前で、猫が見事に、くるくると回って地面に立つところを見た。
 「これだ!」
 猫に「受け身」を教わろう! 彼は「猫飯」を用意して、猫をおびき寄せる。「猫飯」のいい香りにつられてやって来た猫。猫をつかまえようと飛びかかる大左ェ門。 「なにするんだ!」と(猫語で)わめく猫。じつはこうこうこういうわけで、柔道の「受け身」を練習しているのだが、どうやったらそんなにうまく「受け身」ができるのか教えてほしい、とこれまた猫語で頼む大左ェ門。もともと青森の田舎でいろんな動物達と暮らしていた大左ェ門は、猫語も話せるのだ。
 だが、マンガでは「ニャーゴ、ニャーゴ、フンギー」などと擬音のみ。
 ここで、作者川崎のぼるが登場して、「このまま猫語では読者がさっぱりわからないでしょうから、ここからは人間語になおして書きます」と説明が入る。この「川崎のぼる」の自画像があまりに汚いひどい顔だったのが、こどもの僕にはオオウケで爆笑だった。
 その「猫」というのがニャンコ先生だった。そのニャンコ先生の猫語は、「松山弁」だった。僕はそれを読んで、「猫語にも方言がある」というのが、とてもおかしかった。
 こういう出会いがあって、ニャンコ先生は、風大左ェ門の柔道の師匠になった。二人で練習にはげんで会得した「受け身」技には、「キャット空中3回転」と名をつけて呼んだ。
 

 僕はこどもの時、のどの炎症をよく起こした。扁桃腺の炎症とか喉頭炎とかそのときどきで理由は違っていたが、地元には専門の耳鼻咽喉科がなかったので、鉄道で片道1時間ほどかけて、「街」の耳鼻科に通うことになった。小学校を午後から早引けして、一人でディーゼルカーに乗ってゴトゴト揺られて通うのだが、けっこうその時間が僕は好きだった。自然と駅の名前もすべておぼえた。その体験をきっかけに、もしも僕が「鉄ちゃん」(鉄道マニアのこと)になったとしてもそれは自然の成り行きといえた。(実際はそうはならなかったが。) 
 治療は、看護婦さんに鼻やのどを洗ってもらい、それから医者の先生に診てもらい薬をつけてもらう。(手術をしたこともある。) 待合室で順番を待つ時間は、そこに置いてある漫画雑誌などを読むのだが、看護婦さんの趣味で婦人雑誌か少女漫画しかないので、僕はそれを読んでいた。『アタックNO.1』(浦野千賀子作)の絵の大きな瞳にくらくらした。
 治療が終わって帰るまでに、列車の出発の時刻まで1時間くらいあいていた。その時間がとてもうれしかった。なにしろ「街」には、田舎町にはない店があって、街を見て歩くだけでとても楽しかったのだ。商店街にはなんと、屋根(アーケード)がある。お茶の専門店の前を通るといい香りがする。パンの専門店もあるし、スポーツ用品店や文房具店の品数も豊富だし、ずっと歩いて奥に行けば映画館もあった。こどもには理解できない謎の店もある。2階のある大きな本屋もあるし、小さな本屋もある。
 ある日、小さな本屋のほうで、『いなかっぺ大将』を見つけた。全部で3冊あった。そのうちの一部は、すでに雑誌で読んでいたが、僕はその漫画を全部読みたくなった。「買おうか…」と迷った。しかし、3冊全部買うには、お金が足らない。いや、なんとかそれだけのお金は足りたのだが、それを使ってしまうと帰れなくなる。列車の切符代なのだ。しかも、タイミング悪く、その日は、治療の終了日なのであった。(このあたり、神様のなんともにくい演出である。) もう、いつこの「街」に来る機会に恵まれるかわからない。電車賃をなんとかならないかとか、いろいろ考えてみた。犯罪(キセル、万引き)をおかすわけにはいかないし、お金を借りるアテはないし、やっぱり2冊だけ買ってかえるしかないなあ…。しかし、そうすると、後で残りの1冊を僕は読みたくなって、それはきっとたまらない気分だろう。自分はそれを我慢できるだろうか。いやきっと、我慢できないだろう、そう思った。じゃあどうする? うーんどうする… と、いくら悩んでもしかし答えはでない。 やがて列車の時刻がせまってきた。
 あれこれ悩んで、僕は、決断した。 「これしかない。」と。
 値切ろう、と思ったのである。
 本屋のおじさんにわけを話した。 これ(『いなかっぺ大将』)を3冊とも欲しいのだが、自分はお金をこれだけしか持っていない。どうしても欲しいのだ。帰りの切符代がいくらいくら必要なので、残りのお金はこれしかない。僕は○○まで帰らなければならない。今度いつ来れるかわからない。だから、このお金で3冊、売ってくれませんか、どうしても欲しいのです、と。
 本屋のおやじは、しばらく(10分くらいか)考えていた。僕はじっと待っていた。やがて、ついに、その値段で『いなかっぺ大将』全3巻を売ってくれた。
 僕は、やりとげたのだ。
 
 僕は、「値切る」という交渉がニガテだ。それは生まれつきの性格のようで、心のどこかに(なぜだか)お金のことをぐだぐだ言うのは男らしくなくて恥ずかしい、というのがある。この感覚をどうして持っているのか、自分でもわからないのだが、これは親ゆずりではないようなのだ。 だいたい僕は、欲しい「モノ」というものが、少ない。これはどうも、僕の欠点ではないか、生命力が弱いからではないか、と日頃から思っている。(ブツヨクが少ない、とみれば美徳でもあるのだが。)
 つまるところ、押しの弱い性質なのだ。
 そんな僕が、「どうしても欲しい」と、顔見知りでもない本屋のおやじに、やったこともない値切り交渉をして手に入れたのが、『いなかっぺ大将』全3巻というわけである。
 あの本屋は古本屋ではない。本というものは、「定価」が決まっていて、値切るものではない。それを、値切った。どうしても欲しかったから。あれは、うん、よくがんばったなあ、と振り返って思うのである。

 その3冊の漫画本、それが、僕が自分のこずかいで買った、はじめての漫画単行本である。


 僕にとって、「猫」というイメージは、「生命力」を意味しているのかもしれない。「猫」を思い出すというのは、どこかに置き忘れてきそうになっている「生命力」の大切な一部を、逃がしてはいけないよ、取り戻せよ、ということではないのか。


 ニャンコ先生と大ちゃん(風大左ェ門)は、同じ田舎者同士ということもあってか、大の仲よしになった。笑うことも、くやしがることも、ほとんど一心同体だ。
 それにしても、川崎のぼる氏のマンガの描き方は個性的だ。いろんなものが「ぷくぷく」している。ニャンコ先生も、小学生のはずの大左ェ門も、中年メタボ体型なのが面白い。
 TVアニメ版『いなかっぺ大将』は、その最終回にぶったまげた。青森の幼馴染のハナちゃん、東京のキクちゃん、その二人と同時に結婚してしまうのである!
 漫画版は、といえば、こっちは連載終盤になって思い出したように柔道に打ちこみ、海辺の強化合宿を行い、「波返し」だったかそういう名の必殺技を編み出したりしている。知らない人が多いと思うが。
 西一(にしはじめ)も忘られぬキャラクターだ。こっちは関西弁。あるお笑い芸人が「どう見ても大左ェ門より西一のほうがモテるでしょ!」と言っていたが、そうかもしれないなあ、と僕もその時には思った。あの体型にふんどしじゃあねえ。(マンガだけど。) けれど大ちゃんとニャンコ先生の、明るいパワーには、やっぱり西一も吹き飛んでしまうのだ。


 「ぞなもし。」は、彼、ニャンコ先生の故郷である四国松山(愛媛県)の田舎言葉である。
 僕には松山市出身の友人がいたが、彼にむかし、「松山では‘ぞなもし’と言うんか?」と笑いながら聞いたことがある。すると友人「言わんわ! あれは昔の言葉や。漱石のせいや!」と過剰に反応して言った。(松山弁は、関西弁に似ていた印象がある。)
 ご存知のように、夏目漱石『坊ちゃん』は松山を舞台にした小説で、その中で「ぞなもし。」を登場人物が使うのだ。それで「ぞなもし。」は、全国的に知られる言葉となった。『いなかっぺ大将』を描いた川崎のぼるも、漱石ファンだったのだろうか。
 『坊ちゃん』は、東京へ住んでいる若者が、教師として松山へ赴任して、いろいろあって、そしてまた東京へ帰るまでの物語である。 (つまり『いなかっぺ大将』とは逆パターン。)
 夏目漱石は東京の東大予備門で、伊予(愛媛)松山出身の正岡子規と同窓になった(1889年)。二人は共通の趣味である「寄席」を通じて親しくなったそうである。そういう縁があって、漱石は愛媛の松山へ教師として赴任した(1895年)。 その時の体験をベースに、ずっと後に漱石は小説『坊ちゃん』を書いたのだ(1906年)。 もちろん、『坊ちゃん』の内容は基本的にフィクションであるが。


 「しかし今どきの女子(おなご)は、昔と違うて油断ができんけれ、お気をおつけたがええぞなもし」
   (夏目漱石 『坊ちゃん』)


 「~ぞなもし。」という愛媛人に会ったこともないが、「~だす。」という青森人にも会ったことないなあ。
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これが、光速の寄せだ! File2

2008年10月06日 | しょうぎ
     図B 133手目▲6一飛まで

 今、谷川浩司と森内俊之の対局(A級順位戦)が行われている最中です。17、18世名人対決ですね。 千日手模様から、やっと開戦されたところ。


 上の図は、1990年12月…つまり、一昨日書いた羽生・谷川竜王戦が行われた頃に指された谷川浩司と真部一男の対局で、A級順位戦である。

 いま、真部八段(当時)が、▲6一飛と打ち下ろしたところ。
 ここで谷川浩司はどう指したか? (あなたならどう指しますか?)
 フツウは△5二銀と指す。 4一の金をただで取らすわけにはいかない。それも王手で。 たいていの人はそう考えるし、僕もそう指すだろう。プロ棋士の考えも同じで、谷川はそう指すものとして検討していたらしい。 △5二銀に▲8一飛成と桂馬を取れば、そこで反撃すればよい、と。

 ところが、「光速の谷川浩司」の発想はまったくちがっていた。
 では、谷川は図Bで、どう指したのか?


   図A 123手目▲2一飛まで

 この将棋をもう少し前から、見てみよう。
 図Aは、玉頭戦のもみあいの後、先手真部八段が、▲2一飛と飛車を打って王手したところ。この手に対し、2三に合い駒するのは、先手よしになる。それで谷川は△3三玉。真部▲5五角。先手調子がよさそうだ。ただ、攻めが止まると、谷川の方が持駒が多いので、反撃がくる。(プロ的には、たぶん、後手優勢だろうと思われます。) 
 谷川は、△2六歩▲同玉△2五歩▲同飛成として、△5六馬と活用した。この馬を使わないと勝てない。入玉の可能性をつくりつつ、「さっさと飛車をとれ」と迫った手でもある。
 そして真部、▲4四角△同玉と飛車を取り、▲6一飛と打ったのが問題の図Bである。



 では解答。
 図Bで谷川浩司が指した手は、△4六馬
 △4六馬▲4一飛成△4三桂。(図C)


 図C 136手目△4三桂まで

 △4六馬は驚きの手だった。先手の真部さんは攻める駒が不足していて駒がほしい。そういうところで、まさかあっさり大事な守りの「金」をとらせてくれるとは、真部さんも思わなかった。
 △4六馬と、じわっと寄る…。 ▲4一飛成には△4三桂。
 これでなんと、先手玉はもう逃れようがなかった。次の2四歩がきびしい。「これで後手の勝ち」というのである!!
 検討のプロ棋士も(もちろん私達も)、だれも考えない発想で、谷川浩司は勝ちを決めたのだった。

 どうやっても、後手の勝ち…。
 負けを悟って真部一男は、3四竜と突撃して散った。

 ▲3四竜△同玉▲2五金△3三玉▲2四銀△同馬▲同金△同玉
 まで144手で後手(谷川浩司)の勝ち。


   投了図 △2四同玉まで

 きれいな投了図ですね。


 これは1990年度のA級順位戦で、この時、真部一男八段はA級棋士だったのです。 (谷川さんは、名人戦で中原誠に敗れたあと。)
 調べてみると、真部一男は、その2年前にB1で好成績を挙げA級に。ところがA級ではあまり勝てず降級。そこでまたがんばってA級に。その期に、この対戦というわけ。そしてこの期の真部さんは1勝8敗でまた降級。これがA級最後の期となりました。
 その真部一男八段は、去年亡くなり、死後に九段が贈呈されました。僕は‘真部の「4二角」’の記事を書きましたが、これはずいぶんと読まれたようです。『将棋世界』にあった記事を、自分なりにまとめてみただけの文章ですが。なによりびっくりしたのは、真部さんの死への反響の多さでした。その上にあの、「伝説の4二角」ですからね。
 真部一男は、かっこよくて、しかも「色気」があった。あの「色気」はなんだったのか? 将棋界のことを知り始めた高校時代、NHK杯に真部さんが出たときに、翌日だったか、同級生の僕の棋友が、「真部って…かっこいいよなあ」とため息まじりにつぶやいたことを思い出します。
 そのように、オーラ全開の若い時、真部さんは大いに期待される星でしたが、こうして振り返ってみると、その期待に添うほど活躍したとはいえません。けれどもやはり、記憶にのこる名棋士だったんですねえ。

 こんなふうに好調な谷川浩司(三冠)だったんですが、この後南芳一、高橋道雄に黒星を喫し2位となり、この年度は名人挑戦者にはなれませんでした。挑戦したのは米長邦雄です。


◇A級順位戦 谷川-森内戦は、いまも続いています。午後11時をすぎて、終盤に入りました。
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11歳ですか!?

2008年10月05日 | はなし
いやあ~、そんなに若いっすかあ?
調教師は、無理ッス。 自分のことだけでセイイッパイ。 (生まれかわっても、ムリ。)


ブログってなんすかねえー。
毎日なに読んだとか買ったとか食ったとか報告して。それ読む人がいて。
ぐだぐだむかしばなし書いて。それ読む人がいて。
なんすかねー?
この人なんでこんなにがんばって毎日書いているんだ? ってひと、いるねー。
おまえだろっていわれそうだけど。
このブログは、2年前に比べると3倍ぐらいにアクセスが増えているんだけど、以前は200以上のアクセス数がカウントされると、「なんでこんなに沢山!?」って驚いたのだけど、今は「あ、200しかないのか…」だからねえ。自分のくだらない話を5人でも聞いている人がいるとしても、それはすごいことなのにね。「気持ち」ってのは、ごちゃごちゃになって、傲慢になったり、感謝したりで。
むかしの人がよく書いた、ふつうの「日記」とは違うね。ブログは、やっぱり見ている人がいるから、「整理して書こう」と、自然とそうなる。その感覚がいいのかなあ。
でも、目が悪くなるから、ほんとは控えたほうがいい。僕は今はあまりひとのブログは読んでいないけど、自分の書いた文章を直すときに、なんどもじーっと画面を見たりして、どうも目が…。もともと僕の眼は、光によわいと思う。だからTVもニガテなのよー。
あー どうでもいいねー、これ。
とにかく、金にもならない、目もわるくなる、それでも書いている自分を、「なんなのだ?」ってね。
でも、書くのはたしかに、おもしろいのさ。

TBSラジオ番組『宮川賢(みやかわまさる)のバツラジ』が終わってしまった。一番好きな番組だったのよん。宮川賢は、劇団ビタミン大使ABCを主宰している演劇人なのだけど、舞台、そのうちいつか観に行こう。

なんて報告しているわたし(保健委員)。 それを読んでいるあなた。
ふしぎねー。

では、おやすみなさい。
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これが、光速の寄せだ!

2008年10月04日 | しょうぎ
 かっこいい谷川将棋の話をしよう。

 19歳で羽生善治が初のタイトル「竜王」を獲得したのが1989年。(島朗竜王から4-3で奪取)
 翌90年、その挑戦者として谷川浩司が登場し、夢の谷川・羽生対決が実現した。谷川は28歳、羽生は20歳。
 谷川浩司の2連勝でむかえた第3局、谷川得意の「先手番角換り腰掛銀」を後手番羽生が受けて立った。谷川の攻めに、羽生の反撃__そして、上の図の局面に。

 当時のNHK衛星放送は、ほかに用意している番組が少なかったためか、将棋の中継にたっぷりと時間をとってくれていた。
 羽生△6六飛。(谷川の▲6七歩に対し、△6六歩▲同歩△同飛となったところ)

 この局面で、解説の小林健二(現九段)は、女流の林葉直子を聞き手として、こう言っていた。
 「ここは谷川さん、当然▲6七歩とします。それに対し羽生さんは、飛車を引くのは意味がないので、当然△5六飛と飛車を銀と指し違えて攻めるのでしょう。問題はその後です。羽生さんはどう攻めるのか…。」
 その解説に、僕は、なるほどなるほどと納得して聞いていた。(△6六飛に▲同金は、△同馬で先手負ける)

 ところが、谷川浩司はたっぷり時間を使って長考している。
 小林さんは、▲6七歩△5六飛▲同銀その後を考えているのでしょうと言っていたが、谷川浩司に長考があまりに長いので、解説することもなくなって、
 「▲6七歩以外の手はちょっと考えられませんね。あえて考えてみるとすれば▲5五銀ですが、これは、だめですね。▲5五銀には、△6八金、8八玉、7九角、9八玉、9七歩、同桂… こうなってしまいますから。」

 谷川は、まだ長考している。いったい何を考えているのか…。

 やがて谷川は動いた。いつもの、よわよわしい手つき(谷川さんは駒を叩きつけるような指し方はしない)で、▲5五銀。 えっ?
 ▲5五銀!!
 だれもが、おどろいた!! 僕も。小林健二、林葉直子も。

 小林「えっ!? ▲6七歩じゃない? ▲5五銀? ええとこれは…」
 林葉「でも…これは…、さっきの解説どうりに… なりますよね?」
 小林「ええ。ええ、なります。変化の余地はないです。羽生さんが△6八金とすれば必然です…。
 林葉「谷川さんは、では、どうして…」
 小林「なぜでしょう? … 」

 羽生は、しばらく考えて、小林の解説のとおりに、△6八金と指した。そして局面は解説どおりに進む…
 △6八金、▲8八玉、△7九角、▲9八玉、△9七歩、▲同桂…
 その途中で、小林さんは「あっ、そうか、こうやって受けようというのか!」と言って、▲8九銀という手を示した。その通りだった。△9七歩、▲同桂、△5五銀に、▲8九銀と谷川は受けた。

 だが、しかし、谷川の玉はあぶなっかしい。こんなキケンな局面にもっていく必要があったのか? あの時、▲6七歩とすれば、こんなキケンな状態は避けられたはずなのに…。
 観ていた僕はそう思った。いったいどうなるのか。谷川浩司はなにを考えてこう指したのか。
 僕は、羽生と谷川の次の指し手を見まもった。どきどきした。 どんな結末が待っているのか。

 羽生△6七飛成。(金と交換するねらい)
 谷川▲同金。
 羽生△同金。
 谷川▲6一飛。

 谷川浩司の▲6一飛が盤上に打ち下ろされた。
 「そうか!」 TV解説の小林さんは、それですべて理解したようだった。
 ▲6一飛。
 これで、すでにこの将棋は、谷川浩司の一手勝ちなのだった。
 そして羽生には、もう逃れる手段はないのだった。

 羽生△8八銀。この手は先手玉の「詰めろ」になっている。これは解きようがない。
 だが___。

 谷川▲3一飛成。 ズバッと飛車をきった。
 以下△同玉。▲5三角、△2二玉、▲3四桂まで、先手勝ち。

 後手羽生善治の玉は「詰み」なのだった。4九の香がしっかり働いている。
 あの△6六飛の局面(上図)で、谷川はここまですべて読みきっていたのだった。 (あの局面で、受けを手抜きして「攻め」を考えているなんて!) いや、もっと前…▲9四竜としたときから、この寄せを描いていたのかもしれない。
 


 この期の竜王戦は、4-1のスコアで、谷川浩司が羽生善治を破って、「竜王位」に就いた。 谷川の「光速の寄せ」が、あざやかに炸裂したシリーズだった。 
 最終局後のインタビューで羽生はいった。「全局を通じて、終盤で読み負けていました」と。


   投了図(▲3四桂まで)
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