名人戦が始まりました! 森内俊之名人に、羽生善治が挑戦します。
昨年は、森内さんと挑戦者の郷田さんの「扇子の音と鼻血事件」で開幕しましたが、あれから1年になるんですね。この1年はほんとうに、おもしろい将棋が多かったと思います。
森内さんは昨年名人位を通算5期保持となったので、「18世名人」の称号を得る権利を得ました。これを永世名人といいます。羽生さんはあと1期で永世名人になれるのですが、これまでは森内さんがそれをはねかえしてきました。
永世名人というのは、江戸時代初頭から続いた「名人」の位を受け継ぐもので、江戸時代家元制度の最後の名人(11世)が伊藤宗印という人。その伊藤宗印さんが、明治26年、西暦でいうと1893年に亡くなった。そのときに、どういうわけか、名人にふさわしいとおもわれていた人が、突然死んだり、犯罪を犯したりということがあって、じゃあだれが名人に? ということになった。「小野五平氏がいるじゃないか」ということで、ああ、そうだそうだ、小野五平氏でいいじゃないか、あれは立派な人だし、となった。
ところが、「ちょっとまったぁ!」と言った男がいる。
それが、関根金次郎である。
「俺のほうが強いじゃないか。」と、関根は小野に「果たし状」を送った。実力で決めようじゃないか、勝負だ、というわけである。
もし、このとき、この「果し合い」が実現していたら、関根が勝ったという可能性がかなり高い。当時実力的にNO.1は関根金次郎という評判であったし、本人もそう思っていた。ただし、年齢を考えるとそれも当然で、この時、関根32歳、小野五平68歳であった。
「名人」というのは、将棋所の「顔」である。将棋の実力だけでなく人望も求められる。その面では、関根は、若すぎて損をしたかもしれない。一方の小野の後ろ盾には、年齢相応に有力な政財界の大物が多くいた。小野五平を押す人々から「小野氏はもう高齢だから…」と言い含められ、関根金次郎はしぶしぶ小野五平の名人就位を認めた。つまり、「(小野名人の)先は長くない、(彼が死んだら)その次は関根さん、あんただよ」というような意味である。(なんの保証もないが。)
そういうことがあって、12世名人には小野五平がなった。これが1900年のこと。
ところが、68歳の小野翁の寿命は意外に長かった。
1912年、明治時代が終わり、大正時代になった。小野五平12世名人は80歳になっても元気で、また、関根金次郎は44歳八段となっていた。当時の「八段」というのは、「名人と等しい格」という意味があった。実力NO.1は変わらず関根である。
ところが、大阪の坂田三吉がめきめき力をつけ、七段にまで登っている。関根の実力第1位の座をおびやかす存在となってきたのだ。坂田には大阪のファンが多くついている。坂田は大阪朝日新聞の嘱託にもなっており、実力で坂田のほうが強いとなれば、将来の関根の「13世名人」の地位もゆらいでくる。
そんな状況の将棋界で、1913年(大正2年)、関根金次郎・坂田三吉の五番勝負が企画された。これは両者にとって重要な勝負であった。関根がここで坂田を一方的に下せば、次の「名人」の地位は磐石になるだろうし、逆に、坂田のほうが強いという印象を世間にあたえれば、「坂田に名人を」という声が吹き荒れるだろう。もしそうなれば、関根は、なんのためにここまで待ったのか、ということになる。
一方の坂田三吉も、大阪の大きな期待を背負って、覚悟をきめてやってきた。「明日~は、東京に~出て行くから~は~♪」である。
「坂田はもし負けたら、生きて大阪には帰らぬ覚悟だそうだ」と、東京の棋士の間で風評が飛んだ。
この五番勝負、死闘になるだろう。
第1局、場所は東京の築地。持時間は(なんと!)無制限。いくら考えてもよいのだから、勝負は夜を徹して行われることになるだろう。おそらく、1日では終わらない。
上手八段関根金次郎△3四歩。下手七段坂田三吉▲7六歩。 …
小野五平名人の観戦する前で、その五番勝負の第1局が始まった。第1局は「香落ち」で、関根八段が左香を落とす。
12手目▲7八飛。坂田は飛車を振った。相振飛車になった。
そして53手目関根△8四歩。(これが上の図)
上手の関根八段の陣形は現代なら「ダイヤモンド美濃」とよばれる形。金銀四枚で守り、「さあ、攻めて来い!」という受けの構えである。
下手の坂田は、5七金が、ちょっと妙な形である。だが、何とか攻める形をつくりたい。坂田はここで、▲6六歩と突いた。△同歩なら、▲同飛で一歩を持ち駒にできる。
が、関根は素直に△同歩としなかった。△8五歩!
これがねらいの一手だった。▲同桂なら、△8四歩で坂田の桂が死ぬ。坂田は▲同銀と取った。関根△7三桂。坂田▲9四銀。…
こうして、坂田の銀が立ち往生してしまう…。
「銀が泣いている…」と、坂田三吉。
これが有名な坂田三吉の「泣き銀の局」である。 続きは明日。
森内-羽生戦は、先手森内の「右四間」になりました。プロではあまり見ない戦型ですね。
昨年は、森内さんと挑戦者の郷田さんの「扇子の音と鼻血事件」で開幕しましたが、あれから1年になるんですね。この1年はほんとうに、おもしろい将棋が多かったと思います。
森内さんは昨年名人位を通算5期保持となったので、「18世名人」の称号を得る権利を得ました。これを永世名人といいます。羽生さんはあと1期で永世名人になれるのですが、これまでは森内さんがそれをはねかえしてきました。
永世名人というのは、江戸時代初頭から続いた「名人」の位を受け継ぐもので、江戸時代家元制度の最後の名人(11世)が伊藤宗印という人。その伊藤宗印さんが、明治26年、西暦でいうと1893年に亡くなった。そのときに、どういうわけか、名人にふさわしいとおもわれていた人が、突然死んだり、犯罪を犯したりということがあって、じゃあだれが名人に? ということになった。「小野五平氏がいるじゃないか」ということで、ああ、そうだそうだ、小野五平氏でいいじゃないか、あれは立派な人だし、となった。
ところが、「ちょっとまったぁ!」と言った男がいる。
それが、関根金次郎である。
「俺のほうが強いじゃないか。」と、関根は小野に「果たし状」を送った。実力で決めようじゃないか、勝負だ、というわけである。
もし、このとき、この「果し合い」が実現していたら、関根が勝ったという可能性がかなり高い。当時実力的にNO.1は関根金次郎という評判であったし、本人もそう思っていた。ただし、年齢を考えるとそれも当然で、この時、関根32歳、小野五平68歳であった。
「名人」というのは、将棋所の「顔」である。将棋の実力だけでなく人望も求められる。その面では、関根は、若すぎて損をしたかもしれない。一方の小野の後ろ盾には、年齢相応に有力な政財界の大物が多くいた。小野五平を押す人々から「小野氏はもう高齢だから…」と言い含められ、関根金次郎はしぶしぶ小野五平の名人就位を認めた。つまり、「(小野名人の)先は長くない、(彼が死んだら)その次は関根さん、あんただよ」というような意味である。(なんの保証もないが。)
そういうことがあって、12世名人には小野五平がなった。これが1900年のこと。
ところが、68歳の小野翁の寿命は意外に長かった。
1912年、明治時代が終わり、大正時代になった。小野五平12世名人は80歳になっても元気で、また、関根金次郎は44歳八段となっていた。当時の「八段」というのは、「名人と等しい格」という意味があった。実力NO.1は変わらず関根である。
ところが、大阪の坂田三吉がめきめき力をつけ、七段にまで登っている。関根の実力第1位の座をおびやかす存在となってきたのだ。坂田には大阪のファンが多くついている。坂田は大阪朝日新聞の嘱託にもなっており、実力で坂田のほうが強いとなれば、将来の関根の「13世名人」の地位もゆらいでくる。
そんな状況の将棋界で、1913年(大正2年)、関根金次郎・坂田三吉の五番勝負が企画された。これは両者にとって重要な勝負であった。関根がここで坂田を一方的に下せば、次の「名人」の地位は磐石になるだろうし、逆に、坂田のほうが強いという印象を世間にあたえれば、「坂田に名人を」という声が吹き荒れるだろう。もしそうなれば、関根は、なんのためにここまで待ったのか、ということになる。
一方の坂田三吉も、大阪の大きな期待を背負って、覚悟をきめてやってきた。「明日~は、東京に~出て行くから~は~♪」である。
「坂田はもし負けたら、生きて大阪には帰らぬ覚悟だそうだ」と、東京の棋士の間で風評が飛んだ。
この五番勝負、死闘になるだろう。
第1局、場所は東京の築地。持時間は(なんと!)無制限。いくら考えてもよいのだから、勝負は夜を徹して行われることになるだろう。おそらく、1日では終わらない。
上手八段関根金次郎△3四歩。下手七段坂田三吉▲7六歩。 …
小野五平名人の観戦する前で、その五番勝負の第1局が始まった。第1局は「香落ち」で、関根八段が左香を落とす。
12手目▲7八飛。坂田は飛車を振った。相振飛車になった。
そして53手目関根△8四歩。(これが上の図)
上手の関根八段の陣形は現代なら「ダイヤモンド美濃」とよばれる形。金銀四枚で守り、「さあ、攻めて来い!」という受けの構えである。
下手の坂田は、5七金が、ちょっと妙な形である。だが、何とか攻める形をつくりたい。坂田はここで、▲6六歩と突いた。△同歩なら、▲同飛で一歩を持ち駒にできる。
が、関根は素直に△同歩としなかった。△8五歩!
これがねらいの一手だった。▲同桂なら、△8四歩で坂田の桂が死ぬ。坂田は▲同銀と取った。関根△7三桂。坂田▲9四銀。…
こうして、坂田の銀が立ち往生してしまう…。
「銀が泣いている…」と、坂田三吉。
これが有名な坂田三吉の「泣き銀の局」である。 続きは明日。
森内-羽生戦は、先手森内の「右四間」になりました。プロではあまり見ない戦型ですね。
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