はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

アンネ・リスベット

2010年06月24日 | らくがき
                    ↑
 BD-1というドイツ製の自転車。 描いてみたら、欲しくなってきたぞ~。


 さ~て、今夜はサッカーW杯、日本-デンマーク戦ですね!
 深夜3時半からとのことですが、…僕は録画して朝に観ます。


 デンマークでは自転車が流行っているそうですね。
 「デンマーク」と聞いて、僕が連想するのは、アンデルセン。 それからやっぱり、ニールス・ボーア(物理学者)。
 


 〔 アンネ・リスベットはまるでミルクと皿のようです。若くて、元気で、美しい娘です。歯はまっ白にピカピカ光り、目はすみきっています。足は、ダンスをしているように、軽軽としています。気持ちは、それよりももっと軽くて、陽気です。 〕

     (アンデルセン『アンネ・リスベット』 矢崎源九朗訳)


 「アンネ・リスベットはまるでミルクと皿のようです。」 ――― なんて、こんな比喩は(天才でなきゃ)ちょっと思いつかないぞ! 美しい娘を「ミルクと皿」に喩えるなんて! 
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“核力”の正体は?

2010年06月23日 | らくがき
 〔 結婚してからの一年間は、外面的には大した波乱もなく過ぎた。
 その間、私は毎朝、天満橋から京阪電車に乗った。今と違って電車はカーブの多い線路をゆっくり走っていた。沿線のながめは、しかし、今も余り変わらない。もうすっかり見なれた景色を、ぼんやりながめる私の頭に浮かんでくるのは、やはり核力の問題である。 〕

      (湯川秀樹著『旅人』)


 “核力”とは何であろうか。


 “量子力学”は1920年代にその中身がほぼ出来上がった。“量子力学”とは、原子の中の、「原子核」とその周囲をまわる「電子」との関係がどうなっているかを示す力学である。ここでは、「原子核」と「電子」だけを考えればよかった。

 それでは、「原子核」の内部はどうなっているのだろうか? それについては1920年代にはまだ手のつけようがなかった。
 その状況を変えたのが「中性子」(ニュートロン)の発見で、1932年のことである。もともとこの「中性子」は、A・ラザフォードがある講演の中で予言したことがある。彼の弟子であるJ・チャドウィックはずっとそのことを考えてきた。そしてついに見つけたのである!
 「陽子」とほぼ大きさが同じで、電気的に“中性”。 それが「中性子」。
 この「中性子」が新しい世界を切り開いた! (「核分裂」の引き金となるのが、「中性子」である。)
 “核物理学”のはじまりである。つまり「原子核」の内部を、ここから物理学者達は考え始めたのである。

 湯川秀樹がその一人だった。 それを湯川は1932年から、考え始めた。


 イギリスのキャベンディッシュ研究所のフランシス・アストンという男(J・J・トムソンの弟子)が、高い精度で質量分析を可能にした。そういう技術や知識の蓄積から、「原子核」の内部はどうやら整数個の「陽子」(水素の原子核)と「中性子」とによって構成されているようだと判明した。
 たとえば炭素(C)の原子核は、「陽子6個」と「中性子6個」である。

 そこで「謎」がある。
 なぜ、「原子核」内の粒子(陽子や中性子)は、バラバラにならないのだろう?

 それまでに知られているリクツから言えば、当然バラバラにならなければおかしいのである。
 そのリクツとはこうである。

 「陽子」は電気的に“プラス”。
 「中性子」は電気的に“中性”。 
 「中性子」はまあよいとして、核内に、電気的に“プラス”の「陽子」が複数個あるとしたら、“プラス”と“プラス”なのだから、斥力が働いて、両者ははじけ飛ぶはずなのである。 (小学生でも理解できるリクツである。)


 それなのに、実際には「原子核」内の、いくつかある「陽子」(および「中性子」)は原子の中央に集まって収まっている。これは、それまでのリクツからは、説明不能である。  (重力ではあまりにも微弱すぎる。)
 それならば、きっと、「まだ知られていない特別な力」がそこに働いているのだろう。そうとしか考えられない――。
 その未知の「力」を、“核力”と呼んだのである。

 (いま、その力は、“強い力”と呼ばれている。 というのは、同じ核内でもう一つ別の力“弱い力”を1934年にエンリコ・フェルミが見つけたから。)


 “核力”(=“強い力”)とはどのような力だろう…?

 その「謎」に挑み、具体的に「こうである!」と切り込んだ世界最初の論文――それが、湯川秀樹のいわゆる『中間子理論』である。 その英文の論文は1935年に発表された。 
コメント (3)
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原子模型と量子力学の誕生

2010年06月22日 | らくがき
 「電子」の発見者であるイギリス・ケンブリッジのキャベンディッシュ研究所所長J・J・トムソンは、1903年、「プラム・プディング型原子モデル」を提唱した。これは基本的には、グラスゴーの重鎮ケルヴィン卿の唱えたものと同じである。
 「プラム・プディング」と言われてもわかりにくいが、要するに「ぶどうパン型原子モデル」である。パンが「原子」で、その中にぶどう、すなわち「電子」が存在している、というのものである。


 次いで日本の長岡半太郎は1904年、「土星型の原子モデル」を発表した。これはJ・C・マックスウェルの「土星リングの研究」への尊敬心から生まれ出たものらしい。無数の「電子」が、土星をとりまくリング(小さな岩石の欠片)のように周回している、というモデルである。 (土星リングが無数の岩石の欠片であることを、計算によって証明したのがマックスウェルである。)
 けれども長岡のこの原子モデルは、「誰が見てもおかしい」と思われる理論的な‘欠陥’があったのである。


 1911年にマンチェスターにいたアーネスト・ラザフォードが「太陽型の原子モデル」を発表する。原子の中には「原子核」というものがある、という実験的結果による確信が生んだ発想であった。
 長岡半太郎のモデルが空想的だったのと大きく違って、ラザフォードのそれには実験的な根拠があった。(アルファ粒子線を金箔にぶつけると一部が跳ね返ってきた、というもの。その跳ね返り方をラザフォードは研究した。)
 ところが、長岡モデルにあった‘欠陥’は、ラザフォードモデルでも解消されてはいなかったのだ。だから今では教科書に載っているラザフォード原子モデルも、発表当時は大いに疑いの眼でみられていたのである。


 では、その‘欠陥’について話そう。 それほど難しいことではない。

 「原子核」が中央にあって、その外はスカスカの広い空間がある、その外周部を「電子」が周っている、それがラザフォード原子モデルである。電子の電荷は「マイナス」、そして原子核は電荷「プラス」である。 そしてプラスとマイナスは‘引き合う’はずである。
 それならば、なぜ、「原子核」と「電子」はくっつかないでいられるのか?

 これが問題なのだった。「長岡モデル」も「ラザフォードモデル」も、その単純な疑問への答えがないのだった。
 太陽と惑星の場合ならば“遠心力”で説明がつく。ところが極小の世界である「原子核」と「電子」の場合、“遠心力”では話にならないほど弱くて駄目なのだ。 対して、‘引き合う’電気の力は大きい。
 おかしいじゃないか!!



 それを説明するために登場した男が、デンマーク人ニールス・ボーアである。
 ボーアは、ラザフォード原子模型に、「プランク定数」を持ち込んだ。そうすることで強引に、「電子」が「原子核」に落ち込まない理由をつくり上げた。
 これが「量子力学」のはじまりである。


 ニールス・ボーアは最初、J・J・トムソンのいるケンブリッジ・キャベンディッシュ研究所で学ぶために夢を抱いて渡英したが、トムソンはボーアの話し相手になってくれなかった。(ボーアという人は、誰かと話しながらでないと勉強できないという性質があった。) ボーアは落ち込んだが、そこにトムソンの弟子であったラザフォードがマンチェスターから遊びに来て、彼と話してみると気持ちが明るくなった。それでボーアは「マンチェスターに行きたい」と思い、願い出てそれは許可された。
 このマンチェスターで、「量子力学」が生まれたのである。

 ラザフォードにすれば、自分では説明のできなかったことを説明する理屈を考えてくれたわけだから、ボーアを応援しない理由はなかった。それでも、ボーアのその「理論」は、あまりにも突飛で、強引な辻褄合わせのようにもみえた。
 ところがそこ(マンチェスター)には、オックスフォードからラザフォードのところに学びに来ていたヘンリー・G・J・モーズリーがいた。モーズリーは特性X線に興味をもち調べていたが、彼の実験結果とボーアの理論とを照らし合わせてみると、じつにピッタリと合うのである。(→『カギムシと「モーズリーの法則」』)
 ラザフォードとボーアとモーズリー、この三人の理論と実験、そして鋭い直感が、欠陥だらけだがふしぎな魅力に満ちた新理論「量子力学」を、ともかく世界へと送り出したのだ。



 とはいえ、「量子力学」は、まだまだ矛盾だらけの欠陥品に見えた。説明できないことが山ほどあった。しかしだからこそ、これから何かを成し遂げんと野望をもつ若者にとっては、“魅力的な荒野”だったのである。
 ニールス・ボーアは、自身のかわいい息子である「量子力学」を、ドイツに投入した。ドイツは当時“もっとも物理学の進んだ地”であった。そして数学のメッカ・ゲッチンゲン大学があった。ボーアの新しい理論に食いついたのは、ゲッチンゲン大学のマックス・ボルン、それからミュンヘン大学のアーノルト・ゾンマーフェルトである。そしてミュンヘンのゾンマーフェルトの教え子には二人の天才がいた。ハイゼンベルグパウリである。


 おもしろいことに、ラザフォードは彼らが嫌いでしようがなかったらしい。‘彼ら’とは「理論物理学者」のことである。 実験家のラザフォードから見れば、数式を一日中こねくりまわし喋っているだけの「理論物理学者」というものは、‘屁理屈ばかりのくそ野郎ども’だったかもしれない。


 最後にもう一度、「長岡半太郎の原子モデル」に触れておこう。
 このモデルは理論的にはあまり見るところのないものである。なにしろ、根拠がない。
 しかし、ラザフォードが実験的に「原子核」というものを発見する(1909年)よりも前、1904年に、「原子核」といえるもの(土星のこと)を想定していたことは、注目しておいてもよいだろう。
 長岡は1910年に、イギリスのラザフォードの実験室と自宅を訪ねている。その実験室をみて、数々の大発見をなし得たラザフォードの実験道具があまりにも簡素だったことに、たいへん驚いたようだ。
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2010年06月21日 | らくがき
 この暑いのに一人で鍋料理を食す。
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設計図

2010年06月20日 | らくがき
 〔 私は孤独な散歩者だった。生来、無口な私は、研究室に出かけても、一日じゅう、だれとも話もせず、専門の論文だけを読んでいることもまれではなかった。友だちから見れば、とっつきの悪い、不愉快な人間であったろうと思う。 〕


 湯川秀樹『旅人』から。
 湯川は家の中でもしゃべらなかった。家族が子どものときに彼につけたあだ名は「イワンちゃん」。 「言わん。」というのが口癖だったからだという。


 〔 勉強に疲れた私は、よくノートの端に、自分一人だけが住む一室の設計図を書いた。今でも、このころ書いた設計図の一つが、私の手もとに残っている。十畳くらいの広さの部屋に、机とイスと書棚とベッドがある。 … (中略) …  これが私の住んでいた童話の世界である。いや、童話というには、あまりにも花やかな夢に乏しい。ひからびた、そして現実世界に向かっての窓の閉ざされた小世界であった。 〕


 ずっと後の座談会にて、湯川秀樹と朝永振一郎は、同窓だった大学時代を振り返って、“話をした”記憶がお互いに全くないと述べている。湯川は幼少からこのころまで「無口」であったし、朝永は病気がちで気持ちもずっと暗かった。二人とも「量子力学」という薄暗い道を、心細い思いで手探りで進んでいたのである。
 二人は京都大学を卒業したが、ともに、無給の研究員として大学に残っていた。


 そんなとき、仁科芳雄が京都にやってきた…!
 「コペンハーゲン精神」(その正体は不明だが、どうやらいいものらしい。)をもって現われた仁科は、二人の心をあかるく照らしたようだ。


 〔 私の孤独な心、閉ざされた心は、仁科先生によってほぐれ始めたのであった。 〕

 と、湯川秀樹は『旅人』に書いている。
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オランダ戦

2010年06月19日 | らくがき
 オランダ戦、はじまりますね!
 3-3くらいの試合を所望します。
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師と弟子 ウーレンベックとパイス

2010年06月17日 | らくがき
 アブラハム・パイスは1918年オランダ・アムステルダムに生まれた。ユダヤの家系で、彼の祖父の代まではダイヤモンドの研磨工だった。
 パイスはアムステルダム大学へ進み、数学、物理学、化学を勉強した。そんな時(1936年暮)、招待講演を行うために、ユトレヒト大学からウーレンベックがやってきたのである。アブラハム・パイスは、彼の講演に魅了された。

 ジョージ・ウーレンベック
 カウシュミットとともに1925年、「電子のスピン」を発見したあの男である。

 パイスの聴いたそのウーレンベックの講演の内容は、1934年に発表されたエンリコ・フェルミの「ベータ崩壊理論」に関わるものであった。その内容も、ウーレンベックの穏やかな語り口も素晴らしく、アブラハム・パイスは、「こんなことは初めてだ、一言も聞き漏らすまい」と思ったという。
 この時に彼は決心した。理論物理学で身を立てよう、と。

 パイスはユトレヒト大学教授のウーレンベックに手紙を書いた。大学卒業後は、貴方の元で理論物理学を学びたいのです、と。
 数週間の待ち遠しい時間の後、パイスはウーレンベックからの返事をやっと受け取った。
 列車に乗り、ユトレヒトへ行き、ウーレンベックの研究室の扉を叩いて開けた。緊張していたパイスは敷居につまずき、転んだ。 その後で、ウーレンベック教授に、彼は自分の希望を改めて告げた。
 ところが、ウーレンベックの返事は、パイスにとって、予期せぬものだった。ウーレンベック教授はこう言ったのである。

 「もし物理学を好きならば、実験物理学者になることを検討してみてはどうかね?」

 戸惑うパイスに、ウーレンベックは続けた。

 「あるいはもし理論物理学の数学的面が好きなのなら、数学者になってみては?」

 ウーレンベックはさらに、この分野の就職の難しさ、理論物理学の苦労を語った。
 パイスは困った。 彼はこう言う以外になかった。ぼそぼそと。

 「でも理論物理学がとても好きなのです。」

 するとウーレンベック、

 「もし本当にそうなら、それならばぜひとも理論物理学者になりなさい。君の知っている学問の中でも最高の学問だよ。」


 数年後に、パイスはウーレンベックにこの最初の面接での戸惑いを話した。 ウーレンベックは、どうしてその時そういうやり方をしたのかを話してくれた。
 彼は、「わたしが崇拝する師ポール・エーレンフェストを初めて訪れたとき、まさに同じ扱いを受け、同じ経験をしたよ。」、こう言ってにっこり笑ったという。



 (この話を読んで僕は、なんだかいいなあ、と思ったのでした。)



 ポール・エーレンフェストはウィーン(オーストリア)で生まれた。彼は、ルードヴィヒ・ボルツマンの最後の弟子である。エーレンフェストもまた、ボルツマンから、最初の面会のときに、やはり同じ“儀式”でむかえられていたのだという。



 ところで我が日本の長岡半太郎がドイツ・ベルリンに留学したのは1893~1896年であるが、彼はベルリン(先生はヘルムホルツ)の許可を得て、ミュンヘン大学までボルツマンの講義を聞きに出かけている。このとき、長岡半太郎は、ボルツマンの講義があんまり面白いので熱中し途中でやめられなくなってしまった。やがてボルツマンはウィーン大学に移ることになるのだが、長岡はそのボルツマンを追っかけてウィーンまで行ったのである。
 ただし、ウィーン大学のボルツマンの講義は、ミュンヘン大学の講義を初めから繰り返す内容だったので、それでは聴いても意味がないと思いベルリンへ戻ったのであるが。 そしてベルリンへ戻った時、あのレントゲンによる「X線の発見」の大ニュースが待っていたのだった。

 ボルツマンの講義はどうやら、人を魅了する特別な何か、を確かに持っていたようである。
 ウィーンに迎えられたルードヴィヒ・ボルツマンの講義を聞いて「なんて面白いのだろう!!」と感激した人物が他にもいる。ウィーン大学の学生だった、リーゼ・マイトナーである。




 ボルツマン ― エーレンフェスト ― ウーレンベック ― パイス という師弟のライン。

 ずっと後、1963年から、A・パイスとG・ウーレンベックは、ニューヨーク・ロックフェラー研究所で一緒に仕事をしている。
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サッカーW杯南アフリカ大会

2010年06月16日 | らくがき
 ワールドカップはやっぱ楽しいね。
 今、強い強いとうわさのスペインが登場して、スイスと闘っています。前半おわってまだ0-0。 ほうほうあれがシャビであれがイニエスタなのね。

 南アフリカ、と聞くと僕は「ダイヤモンド」と連想してしまうのですが。
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しっかり準備して、当たる。

2010年06月14日 | らくがき
 「しっかり準備して、全力で当たる。」というのが、すばらしい。
 われわれ凡人は、なかなかそれが出来ません。 それが羨ましいので、それで応援したくなるのかもしれないね。



 サッカー日本代表、カメルーン代表とこれから対決。


 「無人探査機はやぶさ」は、昨夜帰還。大気圏に燃え尽きる。


 広瀬章人、羽生善治との対決に勝ち、王位戦七番勝負の挑戦権を得る。

            (これは2年前に描いたもの↓)

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エンリコ・フェルミと“弱い力”

2010年06月12日 | らくがき
 シカゴではフェルミに会いました。イタリー人らしくあまり大きくなく、色のあさ黒いおじさんで、話は奇智にとんだ面白いことを言っては楽しげにあかるく笑う人です。
   (中略)
 … そして言うにはどうも素粒子が増えてこまるから、これからノーベル賞は新粒子を発見したものにはやらないほうがいい、こういう調子で奇智にとんだ話をあとからあとからする人です。彼のいうには現在理論物理学者はあまり皆同じ考え方をしすぎる。この言葉は如何にもフェルミらしいと思いました。皆さんの考えはどうですか。

   (アメリカの朝永振一郎から木庭二郎への手紙 1949年)


 「ベータ崩壊」とは、放射性物質が「ベータ線」を放出して、元素変換する現象である。
 そのベータ線の正体はどうやら‘電子’であった。それはわかったが、判らなかったのはその‘電子’の出所である。いったい‘電子’はどこから出てくるのか?

 私たちは、原子核の周りを「電子」がとりまいていることを学校で習って知っている。これはアーネスト・ラザフォードが提案した原子モデル(ラザフォードの原子模型)がその発想の出発点であるが、しかし、「ベータ線」の‘電子’は、原子核の周囲を囲むその「電子」が外へと放出されるものではない。それは、“イオン化”というおなじみの現象にすぎない。
 「ベータ線」の‘電子’は、それとは別の‘電子’なのだ。

 では、その‘電子’はいったい何処からくるのか? おそらく「原子核」の中からだろう…。それしか考えられない。
 だから学者たちは、「原子核」の内部にもやはり‘電子’はあるのだと思っていた。そう考えるのが自然だろう。それが常識だったのだ。 …1934年までは。



 ところが、エンリコ・フェルミのベータ崩壊理論が、その常識を変えたのだった。

 「原子核」の内部には‘電子’はない。ないところから‘電子’が飛び出してくる、とフェルミ理論はいうのだ!!
 そんな考え、ありなのか? フェルミの魔法のたねは、“弱い力”だった。 彼は、核の内に、電磁気力の10のマイナス13乗ほどの大きさの力――たいへんに“弱い力”を設定した。 そして――
 「ベータ線」の‘電子’は、核内の「中性子」が、その“弱い力”の働きによって、「陽子」と‘電子’と、それから「ニュートリノ」とに“変身”することで生まれるのだ、と。

 “弱い力”という魔法―――が、核の中にはあるのだと。

    「中性子」  →   「陽子」 + ‘電子’(ベータ粒子) + 「ニュートリノ」 

 (こんなブッ飛んだ論文を科学論文雑誌『ネイチャー』が掲載拒否したのは、むしろ当然かもしれない。)




 現在の物理学はこう詠う。 世の中には4つの力があると。

 重力、電磁気力、強い力、弱い力 … この4つである。
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おっぱいバレー定跡

2010年06月10日 | らくがき
 一昨日借りてきたDVDを観ねば!

 『おっぱいバレー』と、『駅馬車』。


 将棋には有名な「駅馬車定跡」というのがあって、これは塚田正夫(当時名人)と升田幸三のある対局(1948年)につけられた名称。 名づけ名人の故加藤治郎氏が、当時評判になっていた映画『駅馬車』から連想して付けたという。

 それなら、「おっぱいバレー定跡」もあっていいのではないか。



棋聖戦(五番勝負)
  羽生善治 1-0 深浦康市

王位戦
  挑戦者決定戦は明日11日。(王位は深浦康市)
  羽生善治 - 広瀬章人
  これは楽しみな一戦。

 
 おっぱいごときで浮かれる元気さが欲しいぜよ~。
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ベータ崩壊の謎

2010年06月09日 | らくがき
 放射性物質は崩壊する。これは自然現象であるが、それが発見されたのは今から100年ほど前のことで、この崩壊の謎のおおまかなところを解明したその中心人物は、ニュージーランド生まれのアーネスト・ラザフォードであった。
 驚いたことに、崩壊した放射性物質は、姿を変えて、他の元素になるのである!
 崩壊の法則には2種類があった。アルファ崩壊ベータ崩壊である。

 1930年代、ベータ崩壊の「法則」に、物理学者達は首をひねっていた。
 1932年に、ラザフォードの弟子ジェームズ・チャドウィックが「中性子」を発見した。それによって、ベータ崩壊のしくみがだいたい判明してきたように見えた。ベータ崩壊というのは、核内の「中性子」が、「陽子」と「電子」(これがベータ線の正体)に変わることによって起こる現象であると。つまり、

  「中性子」 → 「陽子」 + 「電子」(ベータ粒子)

となる。
 ところが、実験からこれを調べてみると、どうも質量保存の法則が成立しないのである。
 ニールス・ボーアも、ヴォルフガング・パウリも、この謎に大いに悩んだのである。質量保存の法則が成立しない…そんなことがあっていいのだろうか!?


 苦し紛れに、パウリは、「まだ発見されていない中性の粒子」があるのではないだろうか、と考えた。しかしパウリ自身もそれほど自信があったわけではなく、誰も賛成しなかったので、それを理論に仕上げることはなかった。
 朝永振一郎『スピンはめぐる』には、パウリがドイツ・ベルリンのリーゼ・マイトナーに宛てた英文で書かれた手紙が紹介されている。その手紙の書き出しは次のように始まっている。
 
 〔 Dear radioactive ladies and gentlemen … 〕

 「Dear radioactive ladies」=親愛なる放射性淑女、とパウリはリーゼ・マイトナーに呼びかけているのであるが(リーゼ・マイトナーは、後に核分裂の発見ドラマの主役になる女性である。)、 この手紙の中で、パウリは、「electrically neutoral particles」と書いている。 直訳すると、「電気的に中性な粒子」である。 これはとりあえず、“パウリの中性子”などと呼ばれることになった。


 そして1933年。
 エンリコ・フェルミとその愉快な仲間たち、ラセッティ、アマルディ、セグレの4人は、アルプスの小さな村でクリスマス休暇を過ごしていた。スキーを楽しんだその日、フェルミは彼らを集めて、自分の書いた論文を披露した。
 それはベータ崩壊を説明する論文だった。

  ニュートリノ!!

 ついに「パウリの中性子」は、新しい名前とフェルミの理論を纏って華々しく世に生まれ出たのであった!
 「ニュートラル」(電気的に中性)な、「イノ」(小さなやつ)という意味で、イタリア人エンリコ・フェルミがその名付け親なのである。
 (しかしこの論文を科学論文雑誌『ネイチャー』は採用しなかった。それで翌1934年イタリアの雑誌に発表された。)


 そうして、ベータ崩壊はこうなった。

  「中性子」 →  「陽子」 + 「電子」(ベータ粒子) + 「ニュートリノ」  



 とはいえ、これはまだ「架空の粒子」にすぎなかった。


 しかし大戦後、アメリカ人フレデリック・ライネスが原子炉の中から「ニュートリノ」を発見した。それは1950年代のことだったが、ライネスがノーベル賞を授与されたのは1995年のことである。ずいぶん時間が経っているが、それだけ「ニュートリノ」という存在に“そんなもの本当に存在しているのか?”という疑問符が、なおもずっとあったということだろうか。 いや実際のところ、「ニュートリノ」はつかまえにくく、実験室で扱えるものではなかったのだ。
 「ニュートリノ」の存在感を確かにしたのは、なんといっても1987年のあの事件だろう。 小柴昌俊が、「カミオカンデ」によって、超新星ニュートリノを捕らえたあの歴史的出来事である。 小柴さんが検出したその‘中性の小さなやつ’は、僕の記憶ではたしか、たったの14個だったと思う。 けれども、それは、絶大なインパクトだった。
  (後日注: 正しくは「11個」です。)



 余談ですが、僕は「ニュートリノ」のネーミングは、きっとニュートン――あのりんごと重力で有名な――からきているのだろうと、数年前までは思っていたのでした。





[追記] 上の文章は「ニュートリノの物語」をわかりやすくするためにいくらか歴史的な事実を“誤魔化して”書いています。その点について、正しいところを以下に説明しておきます。

 パウリがベータ崩壊の謎に悩んで「パウリの中性子」を考えたのは1930年頃のことで、それはチャドウィックによる「中性子」の発見以前のことです。「パウリの中性子」よりも後、1932年にチャドウィックが「中性子」を発見します。
 それで、ベータ崩壊を説明する一つのアイデアとして、もともと「中性子」というのは、「陽子」と「電子」が合体した姿なのではないか、というものが生まれてきました。しかしこれは今の知識では間違っていますが、それが当時の発想の限界でした。
 そこにいきなりエンリコ・フェルミの論文が登場します。
 1934年にイタリアで発表されたフェルミのベータ崩壊の論文です。この論文の画期的なところは(ニュートリノのアイデアも新しかったがそれ以上に凄いことは)、「中性子」が「陽子」に変身する(=崩壊する)、と見抜いた点です。 そんな発想をする人はフェルミの前にはいませんでした。そしてフェルミによって示されたそのアイデアは、正しかったのです。彼は、その論文の中でベータ崩壊を‘弱い力(核力)’というものを設定して説明しました。ニュートリノ、「中性子」の「陽子」への変身、‘弱い力(核力)’という独創的ななアイデアをいっぺんに持ち込み、それが今でも通用するという、まさに天才の仕事です。
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チーズアーモンド

2010年06月08日 | らくがき
 「チーズアーモンド」(三幸製菓)がおいしい。


      …ブログって、何だろう?
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ニュートリノ振動

2010年06月07日 | らくがき
 ‘ニュートリノ’には質量がない、といわれていた。
 ところが、1998年、日本の飛騨神岡の地下につくられた「スーパーカミオカンデ」による実験が、それまでの定説を覆し、「ニュートリノは質量をもつ」となった。すごい発見だった!!
 戸塚洋二率いる「スーパーカミオカンデ」チームが証明したのは、「ニュートリノ振動」と呼ばれる現象がそこにみられるという事実だった。 さて、それでは、「ニュートリノ振動」とは何か?


 ‘ニュートリノ’には3種類がある。そして宇宙を走る‘ニュートリノ’は、その3種類のニュートリノが混ざっている。(←ここが重要なポイント。)
 物質がもし「質量をもたない」ならば、その物質は“光速”で飛ぶ。だから‘ニュートリノ’も(質量をもたないならば)“光速”で飛ぶ。その場合、3種類の‘ニュートリノ’はどれも“光速”なのだから、同じ速度である。

 ところが、仮に、「‘ニュートリノ’に質量がある」としたら事情は変わってくるのである。
 3種類の‘ニュートリノ’に「質量」があったとしたら、その3種類はそれぞれ「別々の質量」になるはずだと理論から予想される。すると3種類の‘ニュートリノ’はそれぞれ違った速度で飛ぶことになるのである。
 そして、その3種類の「混合」である‘ニュートリノ’は、走る速度が違うから、「振動」を起こす。これが「ニュートリノ振動」である。


 ノーベル賞級の大発見である。

 そのリーダーであった戸塚洋二教授は、ある外国の研究者に「おまえはニュートリノサムライだ」と呼ばれたという。残念なことにサムライは、2008年にガンで亡くなってしまった。(→戸塚氏のブログ
 戸塚洋二さんは小柴昌俊(超新星ニュートリノをとらえて2002年ノーベル賞受賞)の弟子である。またその小柴さんは、朝永振一郎の弟子である。


 もともと「ニュートリノ振動」の考えは、1962年に、日本人が発表したものである。その頃はまだ‘ニュートリノ’は2種類しか知られていなかったが。その日本人とは、名古屋大学E研の研究チーム、坂田昌一牧二郎中川昌美である。
 世界の基礎物理学はいま、‘ニュートリノ’を追っている。そして日本もその最先端を走っている。

 ‘ニュートリノ’
 さてその研究が何の役に立つのか?
 じつのところ、まだそれに対しての答えはないのである。なにしろ‘ニュートリノ’は、ほとんどの物質の隙間をすいすいと通り抜けてしまうから。地球さえも、あっさりと。
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ごめんなさい

2010年06月06日 | らくがき
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