ヨウちゃんのお父さんは船乗りです。海に憧れて船乗りになったお父さんが、その息子のヨウちゃんに太平洋の「洋」の字をつけた__そのことは前々回記事「
エドガー・アラン・ポー」に書きました。
そのヨウちゃんには妹がいます。アコちゃんです。
彼女のことを今回は書こうと思います。 じつは、アコちゃんのことはずっと前に一度このブログ記事に書いたことがあるのですが。(それはあとでまた採り上げます。)
まず、RCサクセションの話から。(ミヤシロウの次はキヨシローってわけで。)
前回は、僕の「初めてのコンサート体験」がぴんからトリオであることを発表した。それは、タコに誘われて(海のタコではないぞ)行ったわけで、チケットもタダである。タダだから行ったようなもので。
では、僕がいちばん初めに自分でチケットを購入して行った音楽コンサートは、なにか? それは、
RCサクセション、なのだ。
これ、ずいぶん自慢になる気がするな。(アア、行っといてヨカッタ。) RCサクセションは古いロックバンドで、そうボーカル
忌野清志朗、ギター仲井戸麗市の、『
雨上がりの夜空に』がヒットして… あ、説明はいらないね。
当時、ちょうどRCサクセションの出世作『雨上がりの夜空に』がヒットし始めた頃で、でもヒットし始めたとはいえ、ラジオでもほとんどまだ流れていなかった。当時はラジオでも、日本のフォーク(ニューミュージック)と、洋楽(DISCOが流行っていた)が多かったと思う。
だから僕は、ラジオ(AM)を毎日よく聞いていたが、「RCサクセション」というバンドの曲を一度さえ聞いたことがなかったのだ。『雨上がりの夜空に』もまだ知らない。 なのでファンだったというわけでもないし、誰かに誘われたわけでもなく… それでいて、RCサクセションのコンサートに行こうと思ったのだ。
その理由をひと言でいえば、カンである。 それ以外に、理由はない。
キッカケは雑誌で、『週刊プレイボーイ』だったと思う。喫茶店かラーメン屋かなんかの食堂でその雑誌を見たのだが、2ページの見開き写真で、そのバンドのコンサートが話題を呼んでいると紹介されていたのである。その記事には『雨上がりの夜空に』という曲が人気急上昇、ライブはもっと凄い、というようなことが書いてあった。
「行きたい」 と、瞬間、僕は感じたのだ。
「よし、行こう」と決めて、僕はチケットの購入方法を調べてみた。この当時、携帯電話などもちろんないし、学生の(固定)電話の所持率は1割にもまったく及ばないものであったから、音楽コンサートチケットは電話予約なども受けていなかった。(場合によってはあったかもしれないが。) なので、チケットは、プレイガイド等に直接買いに行く、それが普通であった。
その時僕は広島で一人暮らしをしていたのだが、タウン誌で調べるとうまいぐあいにRCサクセションのコンサートが数ヶ月後に広島で開かれるとわかった。そのチケットは「本通り」という場所の音楽店で発売されるということも。
チケット発売の初日、僕は1時間半ほど前(朝7時半くらいだったと記憶している)、広島本通りのそのチケット売り場に行った。RCサクセションの人気度が僕自身、よくわからなかったのだけれど、行ってみると3、4人の「先客」がまだ開かないシャッターの前に並んでいた。ええ、3人か、4人…そんなものだった。僕はかれらとそこに並び、シャーターが開くのを待った。
僕は最前列の席のチケットを一枚買った。
(RCサクセションのチケットが、しかもその最前列の席が、ほんの1時間早く並ぶだけで取れた__というその事実から、まだ彼らの人気が「爆発前」だったというのがわかるだろう。)
そのチケットを買って、コンサートの日までの間に、RCサクセションの名前をラジオで何度か聞くようになった。『雨上がりの夜空に』がラジオから流れてきた。
ああ、こんな曲だったか! いい! おもしろい曲だ!
自分のカンが間違っていなかったと嬉しくなって、僕はそのコンサートが楽しみになってきた。他にはどんな曲があるのだろう。
さあ、当日です。 場所は広島見真講堂(けんしんこうどう)。
僕は最前列の自分の席に座っていた。 するとその時、
「○○○さん!」
と呼ぶ声が。 どういうことだ?
それは僕の名前だ。僕の名前を(苗字でなく名前を)呼ぶのは、だれ?
「えっ」と振り向くと、 そこにいたのは
アコちゃんだった。 幼馴染のアコちゃん。ヨウちゃんの妹の…、小学生の時にはよく遊んだ。あの頃の田舎の小学生はみんな一緒になって遊んだものだ。
「やあ…。」
このブログをまめに読んでいる人は知っているはずだ、10代後半になって僕がほとんどしゃべらなくなっていったということを。反応もにぶい男だった。(でも内心はこの奇遇を驚いていたさ。そりゃそうさ。)
僕はアコちゃんが高校卒業後広島に出てきていることも知らなかったし、それにこんなところで会うなんて!
アコちゃんは僕に聞いた。「この席、どうやって取ったの?」
僕は上に書いたようなことをモゴモゴと説明した。 で、会話はそれで終わり。(←笑)
さあ、コンサートがはじまった!
「
イエーイ!」という清志郎の声。 いっせいに皆立ち上がり始めた。
「
イエーイ!」 「
イエーイ!」
「
イエーイ!」 「
イエーイ!」
一曲目は『
よォーこそ』。 メンバーを紹介する曲だ。 ベースの音がかっこいい!
「
けんしんこうどうに、よォーこそォ!」
「
愛し合ってるかァ~い!」
RCサクセションが、清志郎の「愛し合ってるか~い」の叫びと共に、どんどんメディアで採り上げられるようになったのは、その後のことだ。
広島見真講堂は、今はもうないそうだ。
アコちゃんのこと。 アコちゃんは、ヨウちゃんの妹で、お父さんは船乗りで、ふだんお父さんは家にいなくて、その家には大きななつめの木がある。 僕とヨウちゃんは友達だし、アコちゃんは僕の妹と友達だし、家は近いし、小学校の時にはずいぶん一緒に遊んだし、中学になっても時々は遊んだように思う。
でも僕が高校生になったあとは、ヨウちゃんともアコちゃんとも全然話したことがなかった。アコちゃんは2コ下で、家は近所で同じ高校へ通っていたのだけど…なぜか一度も接点がなかったのだった。一年間は毎日同じ時刻の列車に乗っていたんだけれどね。まあ、僕は、「超無愛想な男」になっていたから…。 きれいになって女として意識した、なんてこともない。いや、実際アコちゃんはきれいになっていたけどね。体型がすらっして色白で。 アコちゃんは、えくぼがかわいいんですよ。それは子供のときからだけど。
そのアコちゃんと、RCサクセションの広島でのコンサートで、出会ったんだから。 そりゃ、ちょっと、「サプライズ!」 です。
振り返っておもしろいのは、「そのあとに何もない」ということ。僕らしいなあ、と思うのですが。ふつうそういうことがあったら、コンサートの後で話すとか、住所を聞く(電話はもっていない)とかすると思うのだけど、挨拶もせずに帰っている。まあ、コンサートの後に姿が見つからなかったということだと思うけど。記憶に残ってないのでよくわからないが、とにかく、それっきり。
さて、このアコちゃんのこと、以前も一度ブログに書いている。 (→
これ)
印象的な記憶なのだ。
二人であそんでいて、僕の父が写真現像のための「暗室」として使っていた部屋に入ったら、ボロい木製の扉が開かなくなって、二人で怖くなって泣き叫んだこと。そして、アコちゃんが「○○○さん、泣かないで」と言ってその扉を押したら、それまで開かなかった扉が急に開いたこと。闇の世界から解放されて外の空気を吸って、ホッとして、それからアコちゃんの家に行ったこと。アコちゃんが擦りむいた脚に「赤チン」を塗っていたこと。
それらのことを僕はよく憶えている。あれはいくつくらいのことだったろう。小学校2、3年生くらいか…。
あのときのアコちゃんの「○○○さん、泣かないで」の言葉、あれは、「開かないドア」を開けるための、とくべつな魔法の呪文だったのではないか… そんなことを思ってしまう。
そのRCサクセションライブで会って、それ以来、アコちゃんとは一度も話をしていない。
ただ、姿は一度見ている。 ずっと後…、アコちゃんのお父さんの葬式のときに。
僕がある仕事を辞めて2ヶ月の間実家にいた時に、ヨウちゃんとアコちゃんのお父さんが亡くなったという知らせが入った。あの船乗りだったお父さんが亡くなったと。もう船乗りの仕事も定年を迎えてやめて家にいるということだったが…。
葬式の手伝いにうちの父が行かなければいけないのだが、たまたま別の人の葬式と重なってしまった。そこにさらにたまたま僕がいたので、僕がその葬式の手伝いに行くことになった。
その日は、雪が一晩で30センチほども降った日の朝で、「こんなに降ったのは20年ぶりぐらいではないか」などと皆が言っていた。僕らの仕事は、葬式を行うのために、雪を除雪して道を開けたり、受付のテントをつくったりといった屋外の準備である。その仕事自体は2時間ほどで終わった。
慰問客がぽつぽつとやって来ていた。ある女性が雪道をやってきて、アコちゃんを呼んでほしいという。ヨウちゃんもアコちゃんも実家を出て、どこか都会で働いていた。どちらも結婚していないという。その日には、すでにアコちゃんは帰ってきていて家の中にいたようだ。
アコちゃんが家から出てきた。訪れた女性が「アコちゃーん!」と声をかけると、アコちゃんの顔が崩れ泣き出した。二人は抱き合って、そのまましずかに泣いていた…。
そのときに僕がどんなことを思ったか、記憶に残っていない。
(泣かないで、アコちゃん)と僕は心の中で励ました。 …そういうことにしておこう。
アコちゃんのお父さんは船乗りで、海と外国に憧れていたようで、それで…
アコちゃんの「ア」は、「
亜細亜(アジア)」からとった、「
亜」 なのである。
僕はその船乗りのお父さんからもっと話を聞けばよかったなあと思います。外国のことや海のことや…
アコちゃんとも、もっと話をすればよかったなあ、と。 (でもねえ、あの時は、何も話すことなかったんだよ…)
RCサクセションライブでのあの偶然はなんだろう…と時々僕はおもうのである。単なる偶然だよ、と言われれば反論もない。ただ、そういう偶然があったおかげで、その瞬間の言葉や映像が刻まれる…そのことに何か意味がありそうな気が僕はしている。
忌野清志郎のライブ…、行きたいねー。
寝ころんでたのさ 屋上で ♪ ♪ ♪
ここまでは昨日書いた。あとは絵をつけて__という予定でいた。
今日は昔読んだことのある大原まり子のSF短編『銀河ネットワークで歌をうたったクジラ』を再読。その小説とは関連がなさそうだが(‘歌’と‘爺さん’が思い出さのせたのかもしれない)、その後に、ふいに、アコちゃんとのエピソードを一つ思い出したのである。折角なので付け加えておくことにした。
こんな話だ。
アコちゃんは、近所の、墓石づくりのお爺さんと仲良くなった。
その爺さんの仕事場には墓石の原石である花崗岩(御影石)がごろごろしていて、小屋があって、それがその爺さんの仕事場だった。その小屋は、半分が仕事場、あと半分が小さな畳の部屋、それに簡易な便所がつくってあった。花崗岩を注文に応じて切り、削り、磨く。すると表面はつるつるになる。そして「○○家の墓」というような文字を彫って墨を入れる。その作業を、お爺さんは一人で全部やっていた。
アコちゃんは、いつのまにかそのお爺さんと仲良くなって、僕の妹もそのうちに一緒にお爺さんの仕事場に行くようになった。つられて僕も行った。
墓石づくりの作業は屋外でおこなうのだが、僕が面白かったのは、お爺さんの屋内での作業だった。そこには、轟々と燃える火があり、そこで爺さんは、鉄を打っていたのだ。鉄を火に入れ、真っ赤になった鉄(作業の道具)を、カンカンと打ちすえるのだ。僕はそれまで、その爺さんが、小屋の中でそんなことをしているとは知らなかった。僕は黙って、その打たれる鉄の道具をずっと見ていた。
仕事が終わると、爺さんは畳のある部屋で、酒を飲んだ。その部屋はすごく狭かったがこたつもあった。お爺さんには家族があって住む家は別にあるのだが。
部屋の中を見上げると、紙が張ってあってなにか書いてある。それを僕が声に出して読もうとするがよめない漢字がある…。 「炭坑節(たんこうぶし)よ。」とアコちゃん。そしてアコちゃんはお爺さんに「バイオリン弾いて。」といった。お爺さんはバイオリンを弾き、アコちゃんは爺さんと、炭坑節を歌いはじめた。僕の妹も。そして、僕も。
月が~ 出た 出た~
月が~ 出た~
あんまり~ えんとつ~が~ たかい~ので~
さ~ぞ~や~ お月さん 煙たかろ
さのよいよい ♪
碁石と碁盤もあった。それを使って僕らは「はさみ将棋」をした。将棋の盤とちがってマス目が多い。 アコちゃんは「はさみ将棋」が強かった。僕はまったく勝てなかった。 こんなはずはない、と思ったが、やっぱりアコちゃんが勝つ。
駒(碁石)をナナメに並べる__それがアコちゃんとくいの戦法だった。
ずっとあとで僕なりに研究したが、どうやらその戦法は、「はさみ将棋」における最強の戦法で、これに勝てる方法は存在しない、というのが僕の出した結論だった。 思えば、アコちゃんは、お爺さんにその無敵の「必勝戦法」を伝授され、鍛えられていたのだった。
「ずるいよ、アコちゃん。 それじゃあ、ぜったい勝てないよ…。」 あとで僕はそう思ったのだった。