はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

東京優駿

2010年05月30日 | らくがき
 TVで「ダービー」、観てました。
 優勝馬はエイシンフラッッシュ。

 友人が東京競馬場(東京都府中市)に行くというので、馬券を少し買ってもらうことにしたのですが、見事にハズレでした。‘3連単’で買ったのですが、この3連単は当たらんわ。
 それにしても競馬の人気はすごいものがありますね。僕は自分がギャンブルに興奮する性質ではないので、これほど大勢の人の気持ちをあつめる「競馬」というものが、とても不思議に思えます。しかし画面を観ていても、馬の身体は美しいなあ、とは感じます。
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『スピンはめぐる』

2010年05月26日 | らくがき
 スピンはめぐっているらしい。  
        …ん? 「スピンがめぐる」? んんん?


 電子はくるくると自転しているらしいのです。それを「スピン」といいます。(ボーアが命名したらしい。)
 僕は長い間、いったいだれが、何を根拠に、そんなことを言い出したのか知りたいと思っていました。 そしたら、この本(↓)に書いてありました。朝永振一郎『スピンはめぐる』。 


↑写真は、パウリとボーア。何を見ているんだろうね? コマ?


 「スピン」の発見者はオランダのカウシュミットとウーレンベック。1925年のこと。こんな凄い事を発見してノーベル賞をもらっていない…なぜだろうね。
 「発見者」とはいっても、彼らはしかし、それ(電子のスピン)を見たわけじゃないのです。そんな小さいものは見えはしません。
 彼らは、ある理由から(分光学の説明不能のちいさな謎を説明するために)、きっとそうじゃないか、スピンしているんじゃないか、と想像したのです。(理論物理学者とは、そいういうことをする人達のことなのです。)

 「スピン」には、‘右巻き’と‘左巻き’があるという。 ほんとかね?信じてええんね?

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里美香奈じゃないよ

2010年05月25日 | らくがき
 「里美香奈」で僕のこのブログにやってくる人がけっこういるんです。
 まちがっていますよ、あなた。 「里見香奈」ですよ~!!!
 僕が彼女について初めにブログ記事を書いたとき、「里美」とまちがっちゃったんですね。しばらくして気づいたけど、「ありゃりゃー。でもそれもおもしろい。」と、そのままなんですが、同じ間違いをする人が沢山いるんですねえ。

 
 「タヒチ(島)」を「タチヒ」で調べている人もやぱりいるんだよなあ。

 けれど、自分が「上戸杉」と書いていたと(数年後に)気づいたときにはびっくりした。「上戸彩」さんのことです。
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パイスとディラックのすてきな昼食

2010年05月24日 | らくがき
 アブラハム・パイスの著書から。

〔 私はお昼にはいつもサンドウィッチを食べていた。食欲旺盛だったので、三切れを食していた。これが次のディラックとの会話につながる。私の返事と彼の次の質問との間に、ぜひ三十秒ほど間をおいていただきたい。

 ディラック  いつも昼にサンドウィッチを食べているの?
 パイス  はい。

 デ  いつも昼にサンドウィッチを三切れ食べているの?
 パ  はい。

 デ  いつも昼に同じ種類のサンドウィッチを三切れ食べているの?
 パ  いいえ、その日の気分によります。

 デ  何か決まった順序で食べているの?
 パ  いいえ。                       〕


 アブラハム・パイスは、オランダ・アムステルダム生まれの物理学者。ユダヤ人であり、アンネ・フランクと同じように戦争中は“隠れ家”で過ごした。アンネと違って、彼は生き延びた。戦争が終わってパイスはアメリカに渡り、オッペンハイマーが所長を務めアインシュタインもいるプリンストン研究所で働いた。 そこには時々、イギリスからポール・ディラックもやってきていた。

 さて、上の会話から数年後のことである。 プリンストンにて、再びアブラハム・パイスはディラックと昼食を共にし始めた。その頃パイスの食欲はいささか落ちて、サンドウィッチは二切れになっていた。二人が再び昼食を一緒に食べ始めた初日、ディラックはパイスの皿を見てこう言ったのである。
 「君は今じゃ、昼には二切れしか食べていないんだ。」
 ポール・ディラックの顔は、勝ち誇ったようだった。

 この話にはまだ続きがある。さらに数年後、一人の青年がイギリスのケンブリッジ(ディラックはここに住んでいた)からプリンストン研究所にやってきて、メッセージをもってパイスを訪れた。彼のもってきたメッセージは、こういうものだった。
 「ディラック教授がくれぐれもよろしくとのことで、あなたが今でも昼にはサンドウィッチを食べているのか知りたがっています。」


 さて、僕はこの文を書きつつ、こう思っていた。
 「“食欲旺盛で三切れ”って…。 このサンドウィッチ、どんな大きさなのか? ああ、知りたい…!」
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雨、そしてオークス

2010年05月23日 | らくがき
 僕は競馬中継を見るというのは少ないのですが、今日はなんとなく見ていまして。
 そうしたらアパパネ、サンテミリオンという2頭の馬が同着1位。それで確定。 「なに、こういうこともあるのか、」と思っていたら、GⅠレースでは、史上初の出来事とのこと。
 「オークス」というのは3歳のメス馬のレース。 そして、来週は「ダービー」です。


 全国的に、雨、のようです。
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振一郎、ライプチヒで涙ぐむ 1939

2010年05月22日 | らくがき
 五月十八日  昨日仕事はまた行きづまった。もうどうでもなれという気がする。朝バルコンから下を見ていると、今日は耶蘇昇天の祭日で、下の中庭に少女がきれいに着かざって遊んでいる。それを見、木々の芽を見、そこにさえずっている鳥を見ていると涙が出てくるのである。なんとセンチメンタルなことだろう。
          (朝永振一郎『滞独日記』)
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半月探査隊

2010年05月21日 | つめしょうぎ
 今夜は半月(上弦の月)が奇麗です。

 …ということで、上図は、半年前につくった詰将棋。 「半月探査隊」と名付けてみました。
 (解答は10日後頃に。)


 LPSA「日めくり詰め将棋カレンダー2011」の詰将棋募集〆切が今月末ですが、2つ出来たので、今年も送ってみようと思っています。



 ところで、金星探査機「あかつき」が打ち上げられましたね。
 ウ~ン、金星まで行くのか~。
 「あかつき」は、金星をまわる気象衛星なんですね。金星に辿り着くまで半年かかるようです。ガンバッテ~!!

 それから、今回のJAXAのロケット打ち上げには、空いたスペースに相乗りで他のいくつかの人工衛星等も。
 その中で「小型ソーラーセイルIKAROS」には注目したい。これは太陽光を“帆”に受けてゆっくりと宇宙を飛んでいく――。 今回は実験機なので、目的地はなく、「あかつき」と同じ金星方向に飛ぶことになるのだそうです。ソーラーで。アイデア自体は古くから(100年前から)あったのですが、“軽くて丈夫な帆の素材”がいままで造れなかったんですって。
 ギリシャ神話の「イカロス」は、翼が溶けてしまったわけだけど、代表の川口教授「飛びすぎて落ちるのなら本望です。」とおっしゃる。 なるほど~。
  日本は、ロシアや中国と違って、有人探査船を宇宙に送る計画はありませんが、無人探査機というのは、有人に較べるとものすごく低コストですみますから、ばんばんとアイデアを出して、次々と衛星や無人探査機打ち上げる――これ、実用的でベストなやり方かもしれませんね。

 (「宇宙から眺めた地球はものすごく奇麗でした~」とかそういう感想は、もうええワ。)
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京都の山羊 1930

2010年05月20日 | らくがき
 京都大学の物理学教室の二階の窓から、湯川秀樹は、山羊を見ていた。山羊は時々奇妙な声で鳴いた。


 〔 毎日毎日、無限大のエネルギーという、手におえない悪魔を相手にしている私には、山羊の鳴声までが悪魔のあざけりのように聞こえる。
 一日じゅう、自分で考え出したアイデアを、自分でつぶすことをくりかえす。夕方、鴨川を渡って家路をたどるころには、私の気持ちは絶望的であった。平生は、私をなぐさめてくれる京の山々までが、夕陽の中に物悲しげにかすんでいる。 〕
          (湯川秀樹『旅人』)


 そしてとうとう、湯川はこの問題に取り組むことをやめた。


 このとき、同室には朝永振一郎がいた。
 湯川秀樹は、考え始めると周囲にかまわず、ひとりごとを言い、部屋を歩き回った。そんなとき朝永振一郎は、たまらず、図書館に避難するしかなかった。
 湯川と朝永は同じ「量子力学」を専攻したのだが、京都大学にはこの新しい学問「量子力学」の先生がおらず、したがって彼らは独力でそれを身につけなければならなかった。  
 朝永振一郎は、大学時代をふりかえって、「楽しいこと、生きがいに感じたことなど、一つもなかった」(『わが師わが友』)と書いている。
 ドイツ語で書かれた新しい論文を読む。それは学生用のテキストではないから、その論文を理解するために、他のドイツ語や英語で書かれている古い論文も孫引きして読まねばならない。わからないことばかり…、途方に暮れてしまうが、それでもそれを読むしか外に道はないのだ…。
 朝永振一郎は、とぼとぼと歩いていた。湯川秀樹が“悪魔”と闘い、のたうちまわっていたその傍らで。

 (そして数年後、湯川秀樹は『中間子論』で飛躍を遂げる。)


 この「量子力学」の欠陥として表れた“無限大のエネルギーの悪魔”に、最初に取り組んだ男は、アメリカの理論物理学者ロバート・オッペンハイマーである。その解決法としての「リノマライゼーション(くりこみ)」とは彼の研究グループがつけた命名だという。
 多くのすぐれた物理学者の知恵の結晶であるこの量子電磁力学(QED)は、この“悪魔”のために、すべてが無駄になってしまうのか。しかし、捨ててしまうには、あまりにも惜しい。
 だれか、だれか、この“無限大の悪魔”を退治してくれ!! 量子電磁力学(QED)を救ってくれ!!

 
 オッペンハイマーが、そして湯川秀樹が1930年頃、挑戦して勝てなかった“無限大の悪魔”。

 10数年後、ついにそれを退治したのは、朝永振一郎であった。 『くりこみ理論』である。
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たすからないとおもっても三浦弘行

2010年05月19日 | らくがき
 名人戦第4局進行中。 苦吟する挑戦者・三浦弘行八段。
 群馬県在住。36歳。西村一義門下。
 三浦八段は、対局中の動きがあり、なかなかそれが面白い。1日目からこれ(↑)だもの。


 加藤一二三(立会人)の豪華特別ふろく付き。うわさの加藤一二三だ。対局者以上に目立ってしまう。
 前夜祭にて、戦型予想を質問された加藤さん、こう答えた。

 「どうも、加藤です。 本題の前にまず、わたくしの猫の件について―」
             場内、爆笑。    

 以下、加藤さんが言うには、自分がタイトル戦で4連敗したときは、まったく勝てた場面がなかったが、三浦さんの3連敗は、それとは違ってどの対局も内容的に惜しかったところがある。だから三浦さんも十分巻き返す可能性がある、という話だった。


 三浦さんが持ってきた扇子に書いてある文字は、大山康晴十五世名人の『助からないと思っても助かっている』だ。たぶん、この第4局は、ファンも関係者も大方が三浦弘行を応援しているだろう。
 さあどんな二日目、どんな将棋になるだろうか。 持将棋引き分けなんてことも…?
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ハヤシもあるでYo!

2010年05月15日 | らくがき
 「将棋界」というちいさな世界の枠の中でもおもしろい話題が次々と出てきますナ。(タイとかギリシャのことも気になりますが。アイスランドの火山はどうなった?)

林葉直子が将棋復帰! (1回だけ?)

 ハヤシバナオコさんは、脱いでヘア出したり、推理小説書いたり、唐辛子めっちゃ食べたり、不倫したり、サイイババに会いに行ったり、カレー屋やったり、占い師やったり、「将棋盤」の枠の外に才能を撒き散らかしてきた人、そんなふうに僕は感じている。 そうするしかなかったのだろうけど、「将棋」だけにその才気をうまく閉じ込めておくことができていたら(なにしろ「女流王将」10連覇の人だし)…さて、どうなっていただろうか。

 どんな将棋を指すのかな? その対局は7月に行われる(LPSA日レスインビテーションカップ)らしい。


◇加藤一二三の猫裁判

 加藤一二三さんの話 「天寿をまっとうさせてやりたいと猫を大事にしてきたのに、理解に苦しむ判決だ。判決が出たからといってわたしの信念や行動は変わらない。控訴に向けて弁護士と話し合いたい。」 (共同通信記事より)

 そりゃ負けてもくじけない加藤一二三だもの。
 加藤さんは三鷹在住だったか。井の頭公園の近くかな?



 だがそんなこんなと関係なく、我が日常は淡々と過ぎてゆく…。
 ああ、旨いもん食いてえ。
 ところが「旨いもん」が何か、それがワカラナイ。
 たいへん困った。     
         
        (↑牧野光則か!
 
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風邪をひいたみたいです

2010年05月13日 | らくがき
…なんていうへんな報告。
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そうかもしれないし

2010年05月12日 | らくがき
 「そうかもしれないしそうじゃないかもしれない。」 by湯川秀樹
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クライン-仁科の公式

2010年05月11日 | らくがき
 ディラックは散歩の大変な愛好者でした。ある日曜日、仁科と私は非常に古い有名なカシの木を見るために、ディラックをコペンハーゲンの郊外にある森へさそい出しました。ぶらぶらしながら、われわれはいろいろなことについて語り合いました。ディラックは当時、生物を特徴づける性質についてある考えをもっていましたが、それについて話してくれたのです。それは、生物はみな分子構造において左右どちらか一方の側にいるらしいという事実にもとづいていました。ディラックの考えによれば、完全な鏡像をもった生物は存在しないということでした。仁科も私も同様にディラックの考えに対して懐疑的でしたが、彼はそれを面白いと思ったようです。

         (オスカー・クラインが仁科芳雄追悼のために寄稿した文章から)


 このオスカー・クライン(スウェーデンの物理学者)の回想は1928年デンマーク・コペンハーゲン(ボーア研究所)での出来事。 この散歩のすぐ後に、仁科芳雄とクラインは二人で、ディラック方程式を基に「クライン-仁科の公式」と呼ばれる電子の散乱についての新しい公式をつくりあげるのである。
 仁科芳雄は、この年日本に帰る。イギリス(ケンブリッジ・キャベンディッシュ研究所)に1年、ドイツ(ゲッチンゲン)に半年、そしてコペンハーゲンで5年半という長い留学生活であった。仁科は、日本の物理学界に「コペンハーゲン精神」をもたらした、とされている。 「コペンハーゲン精神」とは、ニールス・ボーアが…( 略 )。


 上の、ポール・ディラック(イギリスの物理学者、1929年には訪日)の生物の非対称性の意見はおもしろい。ディラックは、自分の編み出した方程式から「電子の負のエネルギー」が出てくるのに首をひねった。「これはなんだろう…?」 考えた末、「プラスの電荷を持った電子」が存在するのではないか、と思った。つまりディラックは、この場合、人間の「眼」や「常識」よりも、「方程式」の対称性を信じたのである。 (一方で生物の非対称性を信じていたというのに。)

 彼は無口な男だったという。ディラックはその自分の意見に自信をもっていたわけではないが、自然は彼に味方をした。 「プラスの電荷を持った電子」、陽電子(ポジトロン)は1932年、宇宙線の中から発見されたのである。
 発見者はアメリカのアンダーソンだったが、「なぜ自分たちが発見しなかったのか!?」とみんなくやしがった。
 一度発見されてみれば、それは地上でも見つかるありふれたものだったのだ。 現在では医療などにも使われている。(PET検査の「P」はポジトロンのことである。)

 アイザック・アシモフが陽電子(ポジトロン)脳ロボット・シリーズを書き始めるのは1940年である。「自然」の不思議さは、小説よりも、どうやら先を歩いているようだ。
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くりこみ(Renormalization)

2010年05月09日 | らくがき
 1948年3月30日の火曜日、第2回シェルターアイランド会議が開かれた。 (中略) …の中にニールス・ボーアがいた。今回の呼び物はジュリアン・シュウインガーによる異例の5時間講演だった。 …(中略) …その場にいた物理学者の一部は、シュウインガーの駆使するきらびやかな数学的技術の列にアンビバレントな反応を示した。彼らは、彼の講演を、名演奏の極地だが、音楽よりは技術的な誇示、美しいが冷たい独唱と評した。 …(中略) …とはいえ、居合わせた人は誰もが、自分は歴史的な場面にいるのだと感じた。新しい世代の物理学者がついに支配権を握った。ニールス・ボーアの眼前で、一人の若者――シュウインガーはまだ30歳になったかならないか――が場の理論の正当性を立証し、量子電磁力学の「くりこみ」に成功したのだった。

 オッペンハイマーは、シュウインガーの講演に歓喜はしたが、プリンストンに帰って一通の親書をみつけていっそう喜んだ。それは、朝永振一郎という若い理論家が、数年前にこの理論をほとんどリノーマライズ(くりこみ)していたこと、だが、彼は大戦のためにその仕事を西洋に知らせることを阻まれていたことを、オッペンハイマーに知らせる手紙だった。…(中略)…この日本人は、シュウインガーの推論と本質的に同じものを1943年に完成させていた。
     (『セカンドクリエイション』早川書房より)


 この日の講演は、ようするに、物理学者たちによる「量子力学完成の祝祭典」だったのである。
 だがこのシュウインガーの濃密な5時間の講演の後、さらに“思いがけないこと”が起こったのだ。 リチャード・ファインマンが壇上に立ち発表を行った。それは、なんと、シュウインガーと同じテーマのものだった。彼もまた独自に「くりこみ」に成功したというのである。ただ、このときは皆、シュウインガーの計算の内容を理解するのに疲れ果て、興奮もしていたので、ファインマンの計算方法はきっと間違っているのだと感じてしまった。彼は、のちに「ファインマン図」と呼ばれる図を書いて説明したが…、その方法はあまりにも独創的だったのでインチキくさく思われたのだった。それに、同時に二人が、長年抱えてきた量子力学の難問題を別の2種類の方法で解くなんて…。

 が、後にフリーマン・ダイソンが、この三人――シュウインガー、ファインマン、朝永――の方法はみかけは違っていても、数学的には等価だということを証明したのである。
 ということで1965年のノーベル賞をこの三人は分かち合うことになる。

 これにて一件落着。ニールス・ボーアがイギリス・マンチェスターでラザフォード・原子モデルをもとに生み出した量子力学は、長らく悩まされてきた欠陥(「無限大の問題」)を修復し、40年をかけてついに完成したのである。



 さて、おもししろいのは、名前である。
 「シュウインガーSchwinger」とは、「振動するもの」という意味をもつ。
 そして、「朝永振一郎」。 「振」の一字が入っている。
 彼らの思考は、別々の場所(アメリカと日本)で、お互いを知らず、しかし“共振”していたのである。

 1949年、朝永振一郎は、ロバート・オッペンハイマーに招かれ、アメリカ・プリンストン研究所(アインシュタインもここにいた)へ行くことになる。 朝永は、貨物船に乗船して海を渡ったそうである。(湯川秀樹は軍用飛行機)
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まだちょっと、

2010年05月08日 | らくがき
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