はんどろやノート

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京須新手4四桂は是か非か

2012年11月28日 | 横歩取りスタディ
 今回の記事は『続・横歩取りは生きている』をネタ本として書いています。これはアマチュア愛棋家の沢田多喜男氏の労作です。青森の将棋天国社より1989年発行。
 この本によって、僕は上図の「4四桂」が京須行男(きょうすゆきお)八段の指した手だと知りました。

 この、上図の「4四桂」。
初手より▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5五歩 ▲2四歩 △同歩
▲同飛 △3二金 ▲3四飛 △5二飛 ▲2四飛 △5六歩 ▲同歩 △8八角成 ▲同銀 △3三角
▲2一飛成 △8八角成 ▲7七角 △8九馬 ▲1一角成  △4四桂(上図)

「後手5五歩位取りvs先手横歩取り」の形で、先手が横歩を取った後飛車を3四から2四へと戻した瞬間をねらって後手が「5六歩」と決戦して“超急戦”となり、24手目に「4四桂」としたのが京須行男の“新手”。

 この手で「5七桂」とするのが従来からの手で、これには5八金左、5六飛、6八桂が最善で、以下第6期名人戦第7局で現れた塚田正夫の新手5五馬(35手目)が決定版となって、「先手良し」が確定している。(前々回記事前回記事、参照)
 「5七桂」は市川一郎が1935年に最初に指した手で、以下はどうでもいい余談ですが、市川一郎は、千葉県市川市に引っ越して、住所を「市川市市川1の1」として喜んでいたというエピソードあり。

 “京須新手4四桂”が最初に指されたのは1947年ということなので、つまりそれは「5七桂」を塚田正夫が打ち破って名人になった対局と同じ年。
 ちなみにプロ棋戦でこの「4四桂」が現れたのは次の4対局。

 (カ)1947年 五十嵐豊一vs京須行男戦  五十嵐勝ち 
 (キ)1954年 熊谷達人vs京須行男戦  熊谷勝ち
 (ク)1962年 有吉道夫vs内藤国雄戦  有吉勝ち
 (ケ)1970年 山田道美vs内藤国雄戦  山田勝ち

 このうち、(カ)と(ク)は、僕の手元に棋譜がありませんが、いまここで判る範囲でこれらの内容を以下に紹介します。



(カ)1947年 五十嵐豊一vs京須行男

 24手目「4四桂」が“京須新手”。この手の狙いは、先手の馬の利きを遮断すると同時に、6七馬、5六桂、5七銀などの手を組み合わせて、一気に先手玉を捕えようという手。
 先手の五十嵐豊一(関根金次郎門下)は、対して、5五桂。
 以下、6二玉、3五香、5一金と進んだ。(下図)

 これは後手優勢なのだそうだ。
 しかしこの後逆転して、五十嵐さんが勝った。

 また、この京須さんの5一金のところで、「5四銀で後手面白い」というのが、升田幸三の当時の著書には書いてあるという。



(キ)1954年 熊谷達人vs京須行男

 “京須新手”に、前局の五十嵐の手は5五桂だったが、熊谷は「2四歩」という攻め合いを選んだ。

△3八歩 ▲同 銀 △6七馬 ▲6八香 △5七馬 ▲5八金左 △同 馬
▲同 金 △5七歩 ▲同 金 △5六桂
 『続・横歩取りは生きている』には、「これも後手有利の分かれになったが、逆転して熊谷六段が勝った」とある。とすると、ここでは後手有利か。

▲5五歩 △6八桂成 ▲同 玉 △2二歩 ▲5四桂
 このあたりが勝敗を分けた?

△4一金 ▲2三歩成 △同 金 ▲2四歩 △3三金 ▲4五桂 △3二金引
▲2三歩成 △同 金 ▲2四歩 △3四金 ▲1二馬 △3三歩
 図で、5三銀(または香)ではどうだっただろうか。

▲3四馬 △同歩 ▲3三桂不成 △3二銀打 ▲4一桂成 △同玉 ▲1一龍 △3三角
▲2一金 △同銀 ▲同龍 △3二金 ▲1二角 △5五角 ▲5三歩 △同飛
▲3二龍 △同玉 ▲2三銀 まで73手で先手熊谷の勝ち
 図の3三歩の局面では、これはもう先手の勝ちになっていそうだ。
投了図


 このように、“京須新手4四桂”は2連敗。
 しかし内容的には悪くない。ということで、プロの間でも、「4四桂で後手良さそう」というムードだったようです。
 ただ、この戦型「5五歩位取り横歩取らせ」自体がだんだんと指す棋士がいなくなってきていました。その時期は、矢倉、ひねり飛車、振り飛車等の新しい戦術の波が押し寄せてきていたからです。そもそも「先手にだけ飛車先の歩交換を許すなんて、ダメだよ」ということかと思われます。昔ほど「5五歩の位」の価値が高く認められなくなってきていました。


 京須行男八段は1960年、46歳で亡くなりました。孫の森内俊之(現名人)がこの世に生を受けるのはその10年後、1970年のこと。(→『京須八段の駒』)

 その“京須新手”を受け継いだのが、内藤国雄です。(内藤さんはこの型でも“横歩を取らせる側”に立つんですね。面白い。)



(ク)1962年 有吉道夫vs内藤国雄
 この棋譜は残念ながらありません。『続・横歩取りは生きている』には、「内藤六段が△4四桂と打ち、▲5五桂△6二玉▲3五香△5一金と京須・五十嵐戦と同一手順に進行これまた逆転、先手有吉七段の勝ちになった」とあります。

 “京須新手”、嗚呼、3連敗です。


 しかし、プロの中でも、アマトップ棋士の中でも、“4四桂で後手有利”が定説になりつつありました。
 とはいえ、「横歩取り派」としては簡単に納得できない。やっぱり「横歩取り派」としては、自信を持って‘横歩’を取りたいですからね。「スカッとさわやか」に取りたい。
 なにか“4四桂で後手有利”説を覆す手はないものか。そう考えた人は少なからずいたらしいのです。しかしなかなか見つからない。
 このあたりの事情は『続・横歩取りは生きている』に詳しい。実は「“4四桂で後手有利”説を覆す手」は存在していて、それを見つけていたアマ棋士が何人かすでにいたのでした。
 この本の著者沢田氏によれば、1965年の大学将棋のリーグ戦の棋譜の中に「その手」があって、記録上はそれが「第一号棋譜」なのだそうです。明治大学将棋部の学生が最初に「その手」を指しました。(後にご本人からの自己申告で判明したのだとか。)

 プロの将棋で、「その手」が初めて現れたのは、1970年です。
 では、それを見ていきましょう。



(ケ)1970年4月13日 山田道美vs内藤国雄
 (ちなみにこの対局の数ケ月前の棋聖戦中原誠-内藤国雄戦で「横歩取り空中戦法」が誕生しました。)

 内藤国雄は24手目「4四桂」。 “京須新手”です。
 さあ、注目は山田道美の「次の一手」です。



 「2三桂」。 これが“京須新手4四桂”を破る「必殺の一手」でした。
ここから、▲2三桂 △4二銀打 ▲3五香 △3三歩 ▲同香不成 △同銀 ▲3一桂成 △2二金
▲同馬 △同銀 ▲4二金  と進みます。

△4二同玉 ▲3二成桂 △5三玉 ▲6一龍 △3二飛 ▲7一龍 △5六桂

▲4五銀 △5四香 ▲5一龍 △5二歩 ▲6五金 △6二桂 ▲5五歩

△7七角 ▲6八銀 △5五角成 ▲同金 △同香 ▲5六銀 △同香 
▲5七歩 △2八歩 ▲同銀 △7八銀 ▲同金 △同馬 ▲6九銀 △5七香不成
▲同銀 △7七馬 ▲6八銀上 △9九馬 ▲4一角 △4二金 ▲3二角成 △同金
▲3四飛 まで73手で先手山田の勝ち
投了図


 「ついに出たか、2三桂!!」
 『続・横歩取りは生きている』の著者沢田氏は、山田道美がどういう経緯で「2三桂」を指したのか(自分の研究か、それとも誰かから聞いたのか)、それをぜひ確認したいと考えていました。ところが―――。


 山田道美(やまだみちよし)八段はこの対局で「2三桂」を指した後、その2か月後、1970年6月18日、突然に病気で他界したのです。36歳の若さ、A級在位のままでの急死で、九段が追贈されました。

 6月6日の大山康晴名人との棋聖戦挑戦者決定戦が、山田道美九段最後の対局となりました。
大山-山田戦
 先手大山名人の三間飛車に、後手山田道美は棒銀戦法。山田、7五歩と仕掛ける。以下6五歩、7七角成、同飛、9八角、6一角で図の局面。
 ここから6二飛、5二角成、同金、8八金と進む。9七香と上がって、9八角と打つ手を大山は誘ったか。この将棋は138手、大山勝ち。(大山康晴名人が振り飛車を多用するようになるのは1963年からのようです。) この後、挑戦者になった大山は内藤国雄から棋聖位を奪取。「五冠王」(当時のタイトル戦は5つ)に返り咲く。


 1970年―――羽生善治、森内俊之が生まれたのが山田九段の亡くなったこの年でした。



 以上、「後手5五歩位取りvs先手横歩取り超急戦」の将棋で、24手目「4四桂」には「2三桂」があって先手良し、が現在の結論



・「後手5五歩位取りvs先手横歩取り超急戦」の関連記事
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫
  『京須新手4四桂は是か非か
  『森vs谷川  1988王位戦の横歩取り
  『平野流(真部流)
  『2012.12.2記事補足(加藤‐真部戦の解説)
  『森内新手、5八金右
  『谷川vs森 ふたたびの横歩取り 1989王位戦
 

・その他の“戦後”の「横歩取り」記事(一部)
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)
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