はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

終盤探検隊 part80 第十代徳川将軍家治

2016年01月21日 | つめしょうぎ
 徳川家治時代(1760~86年)の詰将棋作家の一人、桑原君仲の詰将棋集『将棋玉図』から第九十一番。
 「あぶりだし曲詰め」である。


   [天道尼]
「法力ではありませぬ。それは私は生まれついて持っている摩訶不思議な力なのです。私自身、時にはそれを不思議に思うことがあるのです。私が何かしたり、どこかへ行こうとしたりするのは、すべて私自身にも気づかぬ、或る目的のためなのです。私は外道皇帝を滅ぼすためにこの世に送り込まれた者です。(中略) いずれにせよ、いま私が歩いて行く方向に、必ず黄金城があるのです」
「いったい、どんな力が働いて、天道尼さまをそのように動かすのでしょうか」
「因果の力です」
「因果……」
                           (半村良『妖星伝』(四)黄道の巻より)



 徳川家治時代の代表的詰将棋作家を挙げると、八代大橋宗桂、九代大橋宗桂、徳川家治、そして桑原君仲。
 この四名の中での詰将棋の格は、九代大橋宗桂は別格の最上級レベル、その次が桑原君仲と言ってよいだろう。他の二人、八代大橋宗桂、徳川家治の詰将棋は、今はその作品集の中の半分以上が余詰めや手順前後などの欠陥があると判明している。
 九代大橋宗桂と桑原君仲の詰将棋作品はそのような欠陥品が少ない。現代ではコンピュータソフトの詰将棋解図能力が人間の能力を凌駕したので、ソフトを使えば作った作品のチェックは簡単であるが、それなしにこれほどの完成度、これは相当の情熱と能力が必要である。

 桑原君仲(くわばらくんちゅう、と読むのだろうか)は、おそらく1740年頃の生まれだろうと言われている。1759年にあの伊藤看寿との「飛香落ち」の対局の棋譜が残っているのがその根拠である。(その将棋は詰将棋の後で紹介する)
 しかし桑原君仲の2つの詰将棋集『将棋玉図』、『将棋極妙』は1840年頃の発行である。彼が100年生きたとは考えにくいので、桑原の死後に出されたと考えるのが妥当であろう。

 桑原君仲は「あぶりだし曲詰め」を得意としていた。「曲詰め」の中でも、詰め上がりの図が、何らかの文字や模様、意味のある形になっている――そういう詰将棋を「あぶりだし曲詰め」という。 


将棋極妙 第100番
 『将棋極妙』のおおとりを飾る第百番は、桑原君仲の代表作ともいえる傑作「あぶりだし曲詰め」である。
 詰め手順はここでは省略するが、詰め上がると――

将棋極妙 第100番 詰め上がり図
 こうなる。この「×」の形を、「引き違い」と呼ぶ。


問題図
 では今回の主題、『将棋玉図』第九十一番の解答を鑑賞しよう。
 この詰将棋は説明なしに、正解手順だけを示しておく。

▲1三香 △2一玉 ▲1二香成 △同玉 ▲1三桂成 △同玉 ▲2四銀上 △1四玉
▲1五歩 △2五玉


▲3七桂 △3六玉 ▲4八桂 △4六玉 ▲5七銀 △同玉


▲6六龍 △同玉 ▲5六馬 △7五玉 ▲8六金 △8四玉 ▲9三角


△7三玉 ▲8三馬 △同 玉 ▲8四銀 △7二玉 ▲6二歩成


△6二同金 ▲同香成 △同玉 ▲7三金 △6一玉 ▲7一角成


△7一同 玉 ▲6三桂不成△6一玉 ▲5一香成


△5一同金 ▲同桂成 △同玉 ▲6二金打 まで43手詰。


詰上がり図

 「大菱(おおびし)」が、あぶりだしで現れた。


 棋譜鑑賞1  桑原君仲-伊藤看寿(飛香落ち) 一七五九年

 桑原君仲の将棋の棋譜はいくつか残されているが、そのうち詰将棋の大天才伊藤看寿との将棋を鑑賞しよう。
 桑原君仲は、大橋本家の九代大橋宗桂(印寿)の門人だったそうだ。

 本譜は「飛香落ち」の将棋である。
 上手の伊藤看寿は42歳で当時の最強棋士だった。兄の七世名人三代宗看はすでに54歳だったので次期名人に決まっていた看寿が最強だったと思われる。看寿はこの翌年に死んでしまうのだが。(死因は不明)

 その最強棋士伊藤看寿に、民間強豪棋士桑原君仲がどういう闘い方をしたか、それが見どころである。

 
 「飛香落ち」だが、この将棋、下手の桑原君仲が特に1筋を攻める構想をとっていないため、「飛車落ち」のような感じで進んでいる。が、このまま上手がおとなしくしていると、十分に組み上がった後、1五歩から1八飛とし、1四歩から飛車先の歩を切って、その歩を使って仕掛けられる。このあたりが「飛香落ち」と「飛車落ち」の違いで、だから上手としては“紛れ”を求めて、早めに戦いを起こす。
 それがこの場面である。

 上手の看寿が、7筋で一歩を手にした後、8四銀から9五歩と、先攻してきた。
 9五同歩に、9六歩。以下、6九玉、6二金、6五歩、7三桂、6六銀、4二角、6七金右に、9七歩成から本格的に戦闘状態になった。

 この桑原の6九玉~6五歩~6六銀という指したところは、むつかしいところである。
 この将棋を下手が安全に指すには、2九飛~4八玉とするところと思われる。これなら下手が勝ちやすい。
 ただし、「右玉戦法」はまだ江戸時代にはなく、これが通常の戦法になるのは昭和時代、戦後のことである。だからこの時代には、まだ、“形”として「右玉」は頭の中にないのである。

 上手看寿の9七歩成に、同桂、9五香、8六歩、9七香成、同香、8五桂打で次の図。


 そうして、こうなった。
 8五同歩、同桂に、桑原君仲は7五香(王手)で切り返す。7四歩に、8八角、7五歩、同歩、9七桂成、同角、9六歩、7九角、7五銀。


 そこで桑原は6四桂と、また“犠打”を放つ。
 同銀、同歩、同角、7五歩、8四香、7六桂、4二角、6四歩、同歩、7四歩、7七歩、同金、8九香成、5七角、6一玉、2四歩、同歩、9八飛、9四香、2八飛、9七歩成、2五歩、8八成香、2四歩、2二歩(次の図)


 下手が力を発揮し、好勝負を展開している。
 下手がやや駒得で、優勢。もともと優勢なのだが、それをさらに拡大した。(ソフト「激指13」の評価値は[ +1455 ])
 しかし「飛香落ち」の手合いの実力差を考えると、ここから先が勝負どころなのである。(下手がトッププロ級の力をもっていればすんなり勝てるが、そうではないので…)
 桑原君仲はここで6四桂。好手。
 これを同角なら6五銀から9三角成がある。(「激指」も6四桂を最善手として推している)
 看寿は6三歩。以下、7三歩成、同金、7四歩、同金、7五銀(次の図)


 この7五銀はもう100手目になる。大熱戦である。下手が優勢をまだキープしている。
 6四金、同銀、同角、9三角成、8七と、6六金左、7八成香、5八玉、4五桂(次の図)


 109手目。ここが“問題”の図である。
 ソフト「激指」の評価値は[ +1514 ]と出ている。はっきり下手優勢である。
 ところが、ここからの指し手の選択が難しいのだ。
 調べてみると、ここから先の先手の指し手の「正解」は一つではなく何通りかある。しかし下手が負ける手順も、同様に何通りもあるのだ。

 桑原君仲は4五同桂、同歩、5五歩と指した。常識的な対応と思える。が、その順で勝つのは難しいと、調べてみてわかった。それでもまだ「下手良し」なのだが、もう下手は勝ちにくくなっているようだ。

 わかりやすい下手の「正解手」は、ここで「6五歩」である。

参考図1
 この「6五歩」に、3七桂成なら、6四歩、2八成桂、6三歩成(参考図2)と指す。

参考図2
 これは下手勝勢。飛車を渡すが、示されてみれば、たしかに下手が勝ちなのである。

 したがって「6五歩」には8六角(または9七角成)が予想されるが、その変化は、4五歩、7七と、5七金、6八銀、4八玉、5七銀成、同玉、3三桂、4八玉、5二玉、4四歩、同銀、7一馬が予想される一例で、次の参考図3。

参考図3
 ここまでくれば、これはなんとか下手の力でも勝てそうだとはっきりする。


 実戦は桑原は4五同桂と取った。これも「正解手」の一つで、悪くない。
 看寿は、同歩。で、この図。

 ここで5五歩として、形勢はもつれた。

 では、どう指すのが良かったのか。
 「正解」はいくつかある。
 たとえば6五金や、7五金がある。(この手は6六玉からの上部脱出の意味も含んでいる)
 また、ここで6五歩もあり、以下、9七角成、4八玉、3五桂、同歩、4六歩(同銀なら3六桂で王手飛車取り)、5七金で先手良し(「激指」評価値は[ +465 ])だが、少し下手にとってきびしいか。

 ここでは「7五桂」を紹介しておこう。
 この手は6三桂成が第一の狙いで、上手は5二玉とそれを防ぐ。そこで6五金とする(参考図4)

参考図4
 ここで上手3七銀なら、6三桂成、同玉、6四金で下手勝ち。
 よって、この図以下は、3一角が想定されるが、以下9四馬。これで上手から(3七銀など)攻めの手段はまだまだあるので手が広く勝負の行方はわからないが、先手優位は維持できていたようだ。(「激指」評価値は[ +1467 ])

 本譜の進行は、5五歩、7七と、5七金、3七銀、2七飛、2五桂、8三馬、5二玉、6九歩(次の図)


 こうなってみると、(厳密な形勢ははっきりとはわからないが)もう下手が勝ちにくい図になっている。「激指」の評価値は[ +215 ]である。実力差を考えればもう“逆転”と言ってよい。

 桑原の6九歩(120手目)の前の手8三馬(118手目)が甘い手だったかもしれない。その手で7五桂ならまだ先手勝てたか。
 7五桂、5二玉、6五金、4一玉、2五飛、6八成香、4九玉、6七と(参考図5)が予想されるが――

参考図5
 ここで6四金と角を取り、その手が、5三桂以下の“詰めろ”になっている。6四同歩と取っても、5三桂、5二玉、6三銀、5三玉、7一馬から“詰み”。
 よってこう進めば下手勝ちだ。


 この図は実戦で、下手の6九歩に、同成香、6七金寄、8六角(124手目)と進んだ図。
 桑原は6七金寄から上部脱出を計る。しかし8六角で上手看寿はそれを許さず、というところ。

 6四歩、同歩、5七玉、4六歩、5六銀、6五桂、同銀、同歩、7四馬、6三銀、6五馬、6四歩、8三馬、7四歩(次の図)


 どうやら、もう下手は勝てないようだ。5六金上、3八銀不成、4六玉、2七銀不成…、飛車を取られた。
 それでも、まだ桑原君仲はあきらめず、4五桂以下、頑張った。上手玉を攻めつつ、“入玉”に望みをつないだ。
 しかし―――

投了図
 161手目、8五飛。あの8三の馬を取られてしまっては、入玉しても捕まってしまう。
 桑原君仲はここで投了した。

 この将棋、桑原君仲の強さもよく表われた好局だった。
 そして同時に、それほどの強豪でも、「トップ棋士にアマ棋士が飛車落ちで勝つことの難しさ」がよくわかる将棋でもあった。下手がどんなに優勢を拡大しても、「勝ちきる」ためには、通常のレベル以上の“何か”が必要なのである。
 “何か”というのは、“粘る相手を突き放つ力”であり、“勝負どころで正確に読み切る力”ということになるだろう。
 前回の「part78」で10代の九代大橋宗桂(印寿)が「飛車落ち」下手であっさり完勝する将棋をいくつか紹介したが、少年時代の九代大橋宗桂がトップ棋士になるために必要なその“何か”をすでにしっかり備えていたことが、本局と比較するとよくわかるだろう。
 「飛車落ち」で下手がトッププロにあっさり勝つというのは、“才能がある”ということの証明なのである。

 以下家治時代の御城将棋(お好み)から、「飛車落ち」の棋譜を2局鑑賞する。
 いずれも上手はこの時代の最強棋士九代大橋宗桂である。


 棋譜鑑賞2  松下隠岐守-九代大橋宗桂(飛車落ち) 一七六七年 御城将棋

 1760年に、徳川家の第十代将軍に、徳川家治が就任した。
 将棋の好きな家治は、御城将棋に、家元同士の対局以外に、家元(将棋御三家)の棋士と、将棋の強い近習との対局を求めた。これを「お好み」と称し、徳川家治の時代にずっと実行された。
 1760年に伊藤看寿が、翌61年に三代伊藤宗看(七世名人)が没して、宗看・看寿の時代が終わった。
 その後、最強者は実質、九代大橋宗桂(印寿)である。(ただし九代宗桂は1760年頃はまだ四段くらいの段位だった)
 そのトップ棋士に対して、アマ棋士がどう戦ったか、ということに注目して、この「飛車落ち」戦を見てみよう。


 上手の「飛車落ち」に対して、下手の作戦は「三間飛車」。 この作戦は江戸時代にはよく見られた作戦で、1760年の御城将棋で17歳の九代大橋宗桂(印寿)が名人三代伊藤宗看に対して採った作戦もこれだった。(「part78」で紹介)
 その下手の「三間飛車」に対して、今度は上手側として九代宗桂はどう対応したのであろうか。
 九代宗桂の作戦は図のような、「銀冠」作戦であった。
 

 そうして、この図になった。まだこの時は一般には振り飛車での「美濃囲い」が有効であるとは知られていなかった。(御城将棋ですでに1765年に五代伊藤宗印が採用していたが→「part67」)
 下手は4八銀を5七銀上と上がったのだが、これは6六歩からの手を狙っているのだろうか。下手の駒組みが窮屈な感じだ。
 この図では、下手は3六歩(3七銀と引く余地をつくる)のような手が考えられたところだが、松下隠岐守は2八玉と指した。失着。


 すかさず、上手から4五歩と突かれ、3三角成、同桂となって、これで4六銀の行き場がない!
 ただし、2二角と打って、4四角、5五歩、4六歩、1一角成となって、下手は銀をまる損したわけではない。
 「激指」の評価値は、[ -46 ]。 もともと「飛車落ち」なので下手が有利だったが、そのアドバンテージがなくなった。こうなるともう下手は勝てない――というのが普通だが―― 
 1一角成の後、5五角、6六歩、4七歩成、同金、4五桂、5五馬、同歩、6八銀、6九角、5八角(次の図)


 下手陣はバラバラになりそうだが…
 8七角成、7九飛、4六歩、同金、5七銀、同銀、同桂成、3六角、5四銀、3八金(次の図)


 このように、中盤を下手の松下隠岐守が頑張って上手の攻めを耐え、「互角」の形勢を維持するのである。
 受けのために5八に打った角が3六に出て、これが敵玉を間接ににらんでいて、上手の指し手も難しい。
 ここで印寿(九代宗桂)は8六馬。


 下手松下は、6五歩。急所の一手。この下手は強い。
 上手、これを同銀(次の図)
 この6五同銀は相手にチャンスを与えた上手の失着だった。(宗桂は受けきる自信があったのだろう)
 下手は5五金から食いついていく。 5五金、5四歩、6四歩、同金(次の図)


 ここがチャンスだった。 「8八香」なら、下手が優勢になっていた。

参考図6
 「8八香」(図)に、7五馬なら、同飛、同金、4一角、5三金、6四銀のように攻めて、下手が勝てそう。
 「8八香」、5五金、8六香、4八金(参考図7)のような順も予想される順だ。

参考図7
 これは正確に対応すれば下手が勝つが、“実力差”を加味すると、さあどうだろうか。
 「激指」は、4八同金、同成桂、7七桂を、推奨している。

 松下は「8八香」に気づかず、6五金と指した。以下、同金、5四金、6三銀、3二角成と進む。形勢不明。
 さらに4六歩、4八歩、6七歩に、5三歩、同馬、7七桂、5五金(次の図)。


 なんと強い“素人”だろう。最強棋士印寿(九代宗桂)に対し、序盤で失敗したにもかかわらず、それでもまだ「互角」の中盤を展開している。
 ただ、トップレベルの棋士を相手に、ここから「勝ちきる」ことが越え難き峠なのである。

 松下隠岐守はここで6五歩と指した。そしてこの手が“敗者”になった。
 6五歩の意味は、次に6四銀と打つ意味だが、6八歩成~7九とから飛車を取る手のほうが早かった。 6五歩、6八歩成、6四銀、同銀、同歩、7九と、4一馬、6三銀…
 以下、上手が勝った。

 この図では、3三馬、5六金、4四銀というような手なら、まだ“形勢互角”だった。しかしそう指したとしても、下手がそこから勝つのは(実力差を考えると)もう大変かもしれない。やはり“勝ちきる力”が素人には不足しているのである。
 ただ、この松下隠岐守の善戦はおおいに称賛されてよい。
 

 棋譜鑑賞3  加藤玄蕃-九代大橋宗桂(飛車落ち) 一七七七年 御城将棋

 1777年の御城将棋の「お好み」。これも「飛車落ち」で、上手は九代大橋宗桂である。
 
 注目してほしいのは、序盤である。
 「飛車落ち」で、初手より、3四歩、7六歩、4四歩に、そこで4六歩と突き、3二金に、6手目にすぐに4五歩と仕掛ける手がある。
 現代は駒落ち将棋自体が少ないのでこの仕掛けもほとんど見かけないが、これも下手の作戦としては“ある手”なのである。
 この指し方は、「飛車落ち」か「飛香落ち」で、江戸時代には、時に見られた作戦で、これを最初に指した棋譜はおそらく、1724年の御城将棋「八代大橋宗桂-三代大橋宗与(飛香落ち)戦」と思われる。


 4五歩(6手目)と下手が仕掛けて、以下、同歩、2二角成、同金(同銀もある)で、「角交換将棋」になる。
 2二同金に、4三角と打つのが良く見られる手だが、この「加藤-九代宗桂戦」では、下手加藤玄蕃が図のように6五角と指している。
 以下、4二銀、8三角成、3三桂、6五馬、5二金、4四歩と進む(次の図)


 4四歩と打った手が加藤玄蕃の意欲的な手だ。対する上手の手は3五角。
 ただで歩を取らせるのはいやだと、6六馬。
 作戦としては下手、わるくない。下手は「馬」ができて、上手に「生角」を打たせた。
 以下、5四歩、3六歩、4六角、1八飛、5三銀、4八銀、3二金、5八金右(次の図)


 この5八金右では5六歩とする構想のほうがよかったかもしれない。
 というのは、ここで上手宗桂に5五角とされ、好位置の「馬」と「生角」との交換になってしまったからだ。
 5五角、同馬、同歩に、6五角と加藤は着手。
 九代宗桂は4二金右(次の図)


 ここで8三角成としても、7四角で「馬」はまた消されてしまう。といってもそれで下手が悪いわけではない。もともと「飛車落ち」なので、ここはまだ「下手良し」の形勢である。8三角成、7四角、同馬、同歩の後、6六歩としておいて、次に8三角と打てばやはり「馬」はまたつくれる。その作戦もあったところ。
 しかし加藤玄蕃が指した手は、過激だった。3二角成と攻めていったのである!
 この攻めも、実は“ある手”なのだが、相手は最強棋士である。この細い攻めで勝ちきれるかどうか。
 3二同金に、4三金と打ち込む。4二金に、7七桂、5四銀、4二金、同玉、3五歩、同歩と進む(次の図) 
 この手順中、7七桂では、代えてすぐ3五歩と指し、同歩に、3八飛なら、わずかに下手ペースである。つまり7七桂は“緩手”だったようだ。それだけでなく、この7七桂が後で負担になってくるのである。


 本譜は、ほぼ「互角」に近い形勢になっている。ここから正しく指せば、あるいはまだ下手有望かもしれないが、素人にとって“正しく”というのが困難な要求である。下手からの明解な攻めはなく、ここから下手が勝つのは難しい。(「激指」評価値は[ +35 ])
 それと、ながれが持久戦になると、下手は7七桂が、7四歩~7五歩という上手からの攻めがいつでもあるので弱点になっており、そのために駒組がむずかしい。

 加藤は3四金と指した。さあ、この手はどうだろうか。
 九代宗桂は、6一角。以下、3五金、3四歩、3六金、5三金、3七銀、4四金、2六銀、8三角(次の図)


 2九角成を防ぐのが難しい…。4七歩はあるが、「歩切れ」になっては下手楽しみがなくなるとみて、加藤玄蕃は3七桂とした。勝負手。
 当然、上手は2九角成。上手がやや有利になった。
 以下、6八玉、7四歩、3五歩、4三銀、4八飛、7五歩、3四歩、同銀、3五歩、4三銀、4五桂、7六歩、3三桂成、同玉、8八銀、7七歩成、同銀、7六歩、同銀、6四桂、7七歩、5六桂(次の図)


 上手の宗桂の攻めが加速した。もともと九代宗桂は攻めの得意な棋風である。
 5六桂打と打って、以下、飛車を取って――


 上手九代大橋宗桂の勝ち。

 負けはしたが、この将棋も、下手の加藤玄蕃はなかなかの指し手だったと思う。3二角成と攻めていった手などは勇者の一手である。
 ただ、やはり九代宗桂のような名人レベルの指し手を相手に、「勝ちきる」にはむずかしい指し方を選んだとも思える。


 以上見てきたように、トップ棋士に対して、「優勢な将棋を勝ちきる」ということの難しさが、「飛車落ち」「飛香落ち」のこうした棋譜からよくわかったと思う。


 【研究 対飛車落ち(飛香落ち)下手6手目4五歩作戦】  


 初手から、3四歩、7六歩、4四歩、4六歩、3二金、4五歩と6手目に仕掛けてこの図。
 今、「加藤-九代宗桂戦」で見てきた指し方だが、これを始めたのは九代大橋宗桂(印寿)の父親の八代大橋宗桂である。(八代大橋宗桂の幼名は伊藤宗寿で伊藤看寿の4歳上の兄でもある)
 江戸時代に見られるこの指し方の将棋の棋譜を集めてみると、4つあった。

  〔棋譜A〕 1724年御城将棋 「八代大橋宗桂-三代大橋宗与(飛香落ち)戦」 八代宗桂勝ち
  〔棋譜B〕 1727年御城将棋 「八代大橋宗桂-四代大橋宗与(飛車落ち)戦」 四代宗与勝ち
  〔棋譜C〕 1777年御城将棋 「加藤玄蕃-九代大橋宗桂(飛車落ち)戦」   九代宗桂勝ち
  〔棋譜D〕 1823年     「堂島栄造-大橋柳雪(飛車落ち)戦」     堂島勝ち

 八代大橋宗桂がこれを最初に指したのは1724年で、相手は六世名人の三代大橋宗与で77歳。八代宗桂はこれが御城将棋初出勤だったが、11歳である。この年齢差は記録的である。
 
 そしてこの戦法をソフトを使って調べてみると、相当に有力な作戦であるとわかった。その研究を以下に示しておく。

 4五歩(図)の仕掛けに、上手は同歩と応じる。上手が5手目に3二金としたのは、この仕掛けを警戒した意味があったのだが、「それでも仕掛ける」というのがこの作戦だ。
 4五同歩に、2二角成。
 これを上手は、「同金」と、「同銀」とがある。 


 2二角成に、「同金」として、そこでこの図のように4三角と打つのが、主流の(といっても元々少ない指し方だが)指し方になる。
 2二角成に、「同銀」の場合は、下手は6五角と打って、以下、3一銀、8三角成と進む。これは〔棋譜B〕および〔棋譜D〕の進行で、興味のある方はそれを調べてみてほしい。
 2二角成に、「同金」に、6五角と打ったのが、上で棋譜鑑賞した「加藤-九代宗桂戦」で、これが〔棋譜C〕。

 ここでは4三角(図)を紹介するが、こう進んだのは〔棋譜A〕の「八代宗桂-三代宗与戦」。

 三代宗与は、そこで“4六歩”。

 以下、その将棋は、4八飛、5五角、6六歩、6四歩、3四角成、7二銀、5六馬と進み、以下、下手が快勝している。11歳の子供が(といっても大橋家を背負う八代目当主なのだが)、時の名人に「飛香落とされ」で、しかもだれもかつて指したことのない指し方で快勝したのだから、これは順調な、大橋家としても誇らしい八代宗桂の船出であった。

東大将棋流3三角
 ソフト「東大将棋6」に対してこの戦法で戦うと、4三角(前の図)に、4六歩、4八飛、“3三角”(この図)としてくる。(〔棋譜A〕で三代宗与が指した5五角とだいたい同じ意味の手である)
 この戦法を使うなら、この“3三角”に対する応手も知っておく必要がある。
 「6六歩」(次の図)が、この図での正解手である。(八代宗桂もそう指した)


 この手を知っていれば、問題ない。
 6六同角なら、6八飛、9九角成、6一角成、同玉、6三飛成となって、一気に下手が勝ちになる。なので上手は6六同角とできないのだ。
 それなら、3三角を打たせた分だけ、下手は作戦が立てやすくなっている。
 下手が優位を拡大している。6六歩の図での「激指13」の評価値は[ +1077 ]と出ている。

定跡手4七角
 4三角に、4六歩、4八飛、そこで“4七角”(図)という手もある。
 これは江戸時代の定跡書『将棋独稽古』(福島順喜著)に載っている手である。
 これは以下、3八銀、2五角成、4六飛と進む。
 そこから先は手が広いが、一例を示すと、5二金(『将棋独稽古』は4二歩とし、以下6五角成、7二銀、7五歩の進行を示している)、6五角成、3五馬、4七飛、4六歩、4八飛、4五馬、6八玉(次の図)


 「激指」の評価値は、[ +1114 ]。
 「飛車落ち」の初形の評価値が[ +682 ]なので、これも下手有望な変化であると「激指」も認めるところといえる。
 この「対飛車落ち6手目4五歩」が有力な作戦であることがわかってきたことと思う。

激指流3五歩
 「激指13」は、駒落ちの上手での戦いが相当に強いが、その「激指13」は、“4六歩”とは指さない。
 下手10手目4三角には、「激指13」は“3五歩”(図)と指してくる。
 これはつまり、下手の次の3四角成(歩を取る)がいやだということだろう。
 この図での評価値は[ +746 ]である。

 我々(終盤探検隊)は、ここからどう指すのが良いかを調べた。
 「3四角成」が良いのではないかと思う。上手(激指)は3四の歩を取られる手を嫌って3五歩と指したのだが、それでもあくまで歩(3五または4五の歩)を取りに行くのだ。
 以下、想定される進行は――
 3四角成、3三桂、3五馬、6二玉、6八玉(この手で先に4八銀だと5五角と打たれて下手困る)、3二金、4八銀、4二銀、5八金右(次の図)


 馬をつくった時、その馬をどの位置で使うか、そこが下手迷うところだが、我々の研究はこの「3五」の位置に馬を置いておく方針である。ここが好位置と判断した。
 以下、進めて、次の図のようになるのが一例である。


 こうなれば下手が作戦成功と思う。 「激指」評価値は[ +1058 ]。 
 次に2五歩~2四歩や、3六歩~3七桂とすれば、下手の優位は着実に拡大する。
 これは下手が勝ちやすい形だ。

 だから、このように下手が十分になる前に、上手からどこかで戦いを挑んでくることが想定される。下手はその時に負けないような備えができているかどうかである。
 上手から考えられる手段は、4三銀と置いた状態で、4四角と打ってくる手である。
 下手が3六馬と角交換を避け、そこで上手は6五歩と攻めてくる。それをどう受けるかを考えておく必要がある。
 また、4四角に、同馬と交換するのもあるだろう。

 
 研究発表はここまでとする。

 以上のように、八代大橋宗桂が最初に指した、「飛車落ち(飛香落ち)」でのこの「6手目4五歩」からの角交換戦法は、かなり優秀な戦法と思われる。
 優秀なのに、これが主流戦法にならなかったのは何故だろうか。
 おそらく、変化が多いから、下手が誤魔化されて結局勝ちにくいと思われているからだろう。
 角や歩を手駒にしていることもあって、上手にも、下手にも、手の選択肢が多い。“下手に選択肢が多い”というのは、下手が間違える可能性が大きくなるということでもあるのだ。いくらソフトの評価値が大きくなっても、いくつも間違えていたのではなんにもならない。
 (その点、たしかに「右四間定跡」なら、御手本(実戦例や定跡書)があるし、相手の序盤の指し手を限定しやすいところがある)
 しかし、幸い、現代はソフトというトレーニングパートナーがある。これを相手に、この戦法の「経験値」を増やすことができる。下手の「経験値」が上がれば、この「6手目4五歩」戦法は、相当有力な戦法になると思うのである。


 本レポートの後半で我々が示しかったことをまとめると、
  (1)「飛車落ち」の下手の戦い方は、「右四間」だけではないこと。どの戦法を採用しても、それなりに下手が有望な将棋になる。
  (2)「飛車落ち」で、下手が強い上手に勝つためには、「中盤・終盤を勝ちきる力」が必要だということ。
 この2点である。

 「中盤・終盤を勝ちきる力」が必要というのはわかりきったことではあるが、これこそが「将棋の強さ」の核心なのである。ここが最も重要な点。
 それがあれば、どの作戦を採っても、下手が勝てる。
 しかしそうした“力”が足らない場合、それでも、その不足分を“序盤研究”で補えば、下手にもチャンスはできる。研究し、自分の得意型をつくり、その型の経験値を上げれば、“力”の不足をカバーして勝つことができるだろう。
 「飛車落ち」「飛香落ち」は、そういう手合いである。

 強者を相手にした「飛車落ち」(または「飛香落ち」)は、下手の才能努力とが、このように結果に素直に反映されるおもしろい手合いといえる。

 現代に「飛車落ち」の“真剣勝負”があれば、それも面白いと思うのだが、現代ではその舞台設定は難しいであろう。仮にその舞台設定を誰かが用意したとしても、世間は“指導将棋”にしか見てくれないからである。真剣な「駒落ち将棋」の楽しみ方を、世間が忘れてしまったようである。


 予定外に長く続いた「第十代徳川将軍家治」のシリーズも、次が〆となる。
 徳川家治作の「将軍詰め」を鑑賞しよう。 
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終盤探検隊 part79 第十代徳川将軍家治

2016年01月14日 | しょうぎ
 この図は、1797年御城将棋「六代伊藤宗看-九代大橋宗桂(右香落ち)戦」の31手目の局面。上手の九代宗桂の8六歩の仕掛けがかっこよい。
 徳川家治時代の将棋最強者は九代大橋宗桂である。
 今回は、九代大橋宗桂の将棋の棋譜を鑑賞する。

 
   [黄金無尽蔵]
「道はついたぞ。とうとう黄金城に辿りついたのだ」
「で、どのようであった」
「何もかも黄金ずくめだ。十二の門に囲まれ、中央に高い塔がそびえ立っていた。門から塔へは黄金の道、塔も門も、塔と塔をつなぐ垣もすべて黄金でできている。これで鬼道は天下を握ったも同じだ」
「行こう。黄金城へ」
 鬼道衆は勇み立った。
「待て」
 信三郎がはやる仲間をおしとどめた。
「行くには行けるが、黄金城はこの世にはない。渡るべき橋をまず守らねば、行ったきりになりそうだ」
そういうと立ちあがった。
「黄金城はこの世の外にある。そこにかけられた橋は、あの妖怪長者の心だった。妖怪長者がいまのままの狂気でいる限り、橋を使ってどんどん黄金を運び出すことができよう。とにかく妖怪長者を、こちらでおさえておくことが肝要だ。(以下略)」
                           (半村良『妖星伝』(四)黄道の巻より)



棋譜鑑賞1  九代大橋宗桂-三代伊藤宗看(飛車落ち) 一七六〇年 御城将棋

 「飛車落ち」というと、将棋の地方イベントなどで、プロの棋士とアマ強豪などで組まれたりする、そういう手合いで、プロ棋士に「飛車落ち」で勝てる人は“強い!”と称賛してよい。ただし、プロの卵なら当然勝たなければいけない、そういう手合いである。
 七世名人である三代伊藤宗看に対して、数え17歳の印寿(九代大橋宗桂)が挑んだ御城将棋での「飛車落ち」の対局。すでに印寿は伊藤看寿、四代大橋宗与に対して「飛車落ち」で過去の御城将棋で勝利しており、名人宗看に勝てば「飛車落ち」は卒業である。
 なお、宗看と看寿は、九代宗桂にとって、血筋的には叔父にあたる。ただしこの1760年という年の8月に、看寿はこの世を去ってしまっていた。この宗看(55歳)も翌年に亡くなる運命にある。


 「飛車落ち」というと、いまは下手は「右四間飛車戦法」での定跡しかなじみがないが、振り飛車が主戦法である江戸時代では、「下手三間飛車」が本来は正攻法であったはず。ただし、「定跡」と呼ぶような定型はなさそうだ。上手の対応がいろいろあって、変化多様なのだ。
 この図は、今上手の名人三代宗看が4五歩と突いたところ。大胆な一着だ。


 上手に飛車がないのでこれは「相振り飛車」ではないのだが、それを連想させるような駒組みになっている。
 「飛車落ち」という手合いの将棋は、どのように組んでも、常識的に組めば、仕掛けたところではだいたい下手優勢である。そこから、上手が「いかにして下手を間違わせるか」という勝負になる。
 だから9五歩と下手印寿(九代宗桂)が仕掛けたこの図は当然下手が優勢。
 しかももうこの5年前に御城将棋デビューし、八段伊藤看寿を相手に「飛香落ち」で堂々とした勝ち方を見せている九代宗桂である。(その時印寿は数え12、現代でいえば小学5年生)
 さらに研鑽を重ねて17歳になった印寿と、たとえ相手が名人三代宗看とはいえ、「飛車落ち」では、すでに“手合い違い”であって、おそらくは「香落ち」くらいの手合いが妥当なところ。その力関係からすれば、こう仕掛けたこの図では、もう下手九代宗桂必勝と言ってよい。
 ただ、その九代宗桂の“勝ち方”を見てほしい。
 ここから、9五同歩、9三歩、同桂、9二歩、同香、9五香、4六歩、同歩、5五銀と進む(次の図)


 おとなしく受けているだけでは上手に勝つ可能性はない。5五銀(図)と名人は指し、次に4五歩や6六銀などを見せて下手をおどす。
 ここから、九代宗桂は8四歩と攻める。以下、同歩、同銀、8三歩、7三歩、同金、同銀成、同銀。
 さらに、9四歩、4七歩、同金直、4五歩(次の図)


 ここから9三歩成、8四歩と進んだ。
 そこで、4五歩、3五角、6五歩のような指し方がふつうかもしれない。

 しかしここからの九代宗桂の勝ちの“決め方”に宗桂の輝き(個性と才能)が見られるのである。

 九代宗桂は、そこで5六桂と打ち、3五角に、3六金(次の図)


 3六金(図)と出て、4六歩に、4八歩と宗桂は受けた。
 宗看は5六銀。対して宗桂は3五金と角を取る。
 これを同歩では5六歩で攻めの手がかりがなくなるので、上手宗看は4七銀打と打ちこむ。同歩、同歩成、同金、同銀成、同玉、5五桂、5八玉、6七金、4九玉、4七桂成(次の図)


 上手の駒が迫ってきた。しかし次の手が、宗桂が用意していた手だった。


 3六角。王手で4七の成桂をはずすことができる。
 おそらく5六桂~3六金とした時から、この下手はこの手を決め手にしようと考えていたのである。
 いや、もっと先まで読み切っていたのだろう。

 図以下、6一玉、7二銀、5一玉、4七角、3五歩、7九角(次の図)


 遊んでいた角をここで受けに使う。
 上手は4五桂で攻めをつなぐ。
 そこで4四桂。この4四桂があるので、あの上手玉は捕まえられる。
 ここで七世名人宗看は5七金としたが、5七桂成だと、同角、同金、5二桂成、同玉、2五角、4三歩に、4四桂で詰まされてしまう。そこで名人は、桂馬を渡さないように5七金としたが――
 5七金、同角、同桂成、4一金(次の図)


 この場合は4一金から上手玉に“詰み”があるのだ。以下、6二玉に、6三銀打、同金、6一銀成、同角、2五角(次の図)


 もう一度、この角を使う。
 7一玉、7二歩、同玉、8三金、8一玉、9二と、7一玉、7二歩まで、118手で、名人三代宗看が投了した。

 同じ“勝つ”にしても、才能を見せつける勝ち方である。
 この下手大橋印寿は将来「八世名人九代大橋宗桂」となるのだが、才能のきらめきはもう名人にふさわしいものを示していた。


棋譜鑑賞2  九代大橋宗桂-四代大橋宗与(飛車落ち) 一七五八年 御城将棋

 これは上の対局の2年前の、やはり御城将棋の「飛車落ち」戦。印寿(九代宗桂)は数え15歳(現代でいえば中学生)
 四代大橋宗与は大橋分家の四代目で、八段(=最高段)。


 下手が「三間飛車」に作戦を決めた時、上手はどう対応するのがよいのか。どうやっても飛車のない上手が優勢になる作戦などないのだが、“上手が勝ちやすいかたち”というのはあるかもしれない。
 この将棋は、下手の九代宗桂がいったんは7六飛と浮き飛車に構えたのだが、図のように二枚の銀と角とを使って7筋にちからを集め、下手の飛車先を圧迫してきた。
 ということで、下手宗桂は7八飛と飛車を引いた、という状況。こうなると上の将棋と別の将棋になる。
 九代大橋宗桂はどういう将棋にしたか。


 右に玉を囲った後、宗桂は5六銀として、7七桂(図)と跳ねた。
 以下、5五歩、6七銀、5二金、5八飛と進む(次の図)


 中飛車へ。これが九代宗桂の構想だった。次に5六歩、同歩、同銀となると下手も伸び伸びした陣形になる。
 
 上手の四代大橋宗与は5四金としたが、ここは4一玉、5六歩、同歩、同銀、5四歩(参考図)のように指すところだったかもしれない。
参考図
 これは、次は上手は3二玉として、あとは下手からの攻めを待つような展開になる。下手は5六銀型で好形だが、すぐに下手からの攻めがあるわけでもない。

 本譜、四代宗与は、攻めの主導権をとって闘う方針だったか。
 宗与は5四金としたので、5六歩、同歩、同飛、4五金、2六飛と進んだ(次の図)


 まさか八段の宗与がこの2六飛をうっかりしたなんてことはないだろう。
 しかし2三飛成が実現しては、下手が勝勢になる。
 だから上手は、2五桂、同飛、2四歩、2六飛、3五金、5六飛、5五歩、5八飛、4五歩と指した。
 次に4六歩、同歩、4五歩のような4筋の攻めがねらいだ。


 しかし8六桂(図)があった。“桂得”になった下手は、銀を取ればさらに駒得が拡大する。
 8五銀、6五歩、8六銀、同歩、5三銀、7五歩と進む。“銀得”となった下手が勝勢である。


 7五歩! この落ち着きっぷり! まるで“上手”のようである。
 次に7四歩を見せて、上手に“攻めてこい”という態度である。飛車のいる5筋から攻めるのではなく、7五歩というのが、“何か”を感じさせる。
 上手の宗与は、4六歩、同歩、5四桂(次の図)


 放っておくと4六桂が王手飛車取りになる。
 2八玉、2五歩、7四歩。
 序盤に7筋を上手に支配されたのだが、それを逆手にとるような7五歩~7四歩である。
 2六歩、同歩、4六桂、7八飛、4四銀、7三歩成、2七歩、同玉、7五角、5七歩、2五歩、同歩、8六角、4七歩(次の図)


 上手は攻めが足らない。2六歩、2八玉、4五銀、4六歩、同金、4七歩、5七金、同金、7五角、4八銀、5六金、同金、同歩、8五桂(次の図)


 8五桂(図)で飛車角の利きがいっぺんに通り、下手の勝ちがはっきりした。
 7七歩、同角、5七歩成に、3三角成、4二金打、4三桂、同金右、6二金、4一銀、5二銀、同金、3二銀と、詰むまで指して、上手四代大橋宗与は投了した。
 
 この将棋は序盤の九代宗桂の7七桂から5八飛という構想がうまかった。


 八段、名人クラスが相手でも、この下手にとって、「飛車落ち」では敵ではない、そう感じられる内容の棋譜をこのように若き日の九代宗桂は御城将棋に残している。どれも、むしろ“下手が上手を圧倒する”ような内容である。

  1755年 ○九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛香落ち)        
  1756年 ○九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち)
  1757年 ○九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち)
  1758年 ○九代大橋宗桂-四代大橋宗与(飛車落ち)  
  1759年 ○九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち)
  1760年 ○九代大橋宗桂-名人三代伊藤宗看(飛車落ち)

 これが九代大橋宗桂(印寿)の12歳でデビューして以来の1760年までの御城将棋での対局であるが、全勝である。いま見てきたように内容も素晴らしいものである。
 気になるのは、この印寿(九代大橋宗桂)の“昇進の遅さ”である。これほどの実力を持ちながら、まだ「飛車落ち」というのが不思議でならない。
 なお、1757年「九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち)戦」は、本シリーズ「part62」ですでにその終盤を紹介している。14歳印寿(九代宗桂)の、有吉道夫も絶賛の見事な寄せで勝った将棋である。この時の下手の作戦は、現代を生きる我々にもなじみのある「右四間飛車」である。
 他に、看寿とは1756年、1759年にも「飛車落ち」戦を戦いこれもしっかり勝っている。


 「飛車落ち」を卒業すれば次は「角落ち」である。もはやこの九代宗桂の実力はトップクラスに肉薄するほどであったと思われる。
 ところが1760年に伊藤看寿(次期名人予定者)が死に、翌年には名人の三代宗看が死んでしまった。(九代宗桂と、三代宗看、看寿との「平手」または「香落ち」の将棋が見られなかったのはまことに残念なことである)


棋譜鑑賞3  九代大橋宗桂-四代大橋宗与(角落ち) 一七六一年 御城将棋

 1761年、トップ棋士として残ったのは、四代大橋宗与(八段)と八代大橋宗桂(七段、九代宗桂の父)の二人。その四代宗与は献上の図式(詰将棋)が作れず、名人にはなれない。宗与は53歳。
 異例の「名人位の空位」の時代に突入した。
 この時、あるいは実力NO.1は、すでに18歳の印寿(九代大橋宗桂)だった可能性もある。


 九代大橋宗桂と四代大橋宗与との「角落ち」戦はこのような将棋になった。
 これは現代ではあまり知られていない下手の作戦。つまりこれは「角落ち」戦での「二歩突っ切り戦法」(「二枚落ち」で見られる序盤で4筋と3筋の歩を突いていく作戦)である。これは前例があり、1738年御城将棋「伊藤看寿-四代大橋宗与(角落ち)戦」で看寿が披露した作戦である。つまり上手番として四代大橋宗与は対戦経験のある戦法だった。とはいえ、定跡ができるほどの棋譜の蓄積はない。

 ここから、上手四代宗与は8二飛。次に8四飛として、7五歩、同歩、8六歩のような攻めが狙いだろう。


 しかし、8二飛に、下手印寿(九代宗桂)は、機先を制して“6五歩”。 同桂なら6六歩だ。
 上手5三銀としたが、3五歩、2三銀、5五銀と、下手の印寿が先攻する。
 以下、8六歩、同歩、同飛、8七歩、8四飛、5四銀、同歩、4四歩、5三銀、4五金、7五歩、6六角、4五銀、同桂、4二銀、5三銀、5四飛、5六飛(次の図)


 下手は飛車交換を迫る。そうなった時に、下手陣の「左美濃囲い」がたのもしい。
 5五歩、同飛、5三銀、5四飛、同銀、5一飛、2二玉、5四飛成、4四歩、5三桂成、4九飛、8八玉、5八歩、4三歩(次の図)


 4三歩で、下手優勢。
 5九歩成、7九金に、6九金、同金、同と、4二歩成、7九銀、7七玉以下、下手九代大橋宗桂が順当に勝ち。「角落ち」の下手のリード差をそのまま維持してゴールインしたような将棋だった。
 もはや「角落ち」では、八段、名人といえど、この大橋印寿(九代宗桂)には、上手が歯が立たないのは明らかであった。

 ところで、後年、1768年御城将棋「大橋宗順-九代大橋宗桂(右香落ち)戦」(本シリーズ「part74」で解説)で、九代大橋宗桂が相居飛車戦で「左美濃囲い」を使って快勝した。その将棋以降、「左美濃囲い」が江戸時代の終わりまでずっと大流行するのだが、そのアイデアのルーツはこの「角落ち」の下手の「左美濃」にあったのかもしれない。

 この対戦相手の四代大橋宗与も、2年後の1763年に他界した。これで八段以上の将棋指しがいなくなった。


棋譜鑑賞4  九代大橋宗桂-八代大橋宗桂(角落ち) 一七六三年 御城将棋

 大橋印寿(後の九代大橋宗桂)は1763年の御城将棋で、「角落ち」の手合いで父八代大橋宗桂(当時七段)と対戦することとなった。
 印寿は20歳になっていた。父八代大橋宗桂(幼名は伊藤宗寿)は50歳。


 その対局で、印寿が新戦法を披露した。「角落ち」における「下手三間飛車銀冠美濃」作戦である。
 本シリーズで、我々はこの戦法の開拓者を大橋分家の宗順として紹介している。1765年の御城将棋で大橋宗順がこの戦法を指していることを根拠にそう述べていたが、誤りだった。それよりも2年前のこの対局で、下手の九代宗桂がこの作戦をすでに採用していた。
 この図は、いま下手印寿が“2七銀”と指したところ。これが新戦術であった。(おそらくこれが史上初の「銀冠美濃」である)
 
大橋宗銀-伊藤印達(角落ち) 1710年
 予備知識として「角落ち」の「下手三間飛車戦法」の歴史について解説しておく。
 この図のように、上手が4三玉と“三段玉”で戦うという指し方が、まず、創造的なアイデアである。(ふつうは3二玉としそうだし、実際ずっと昔は3二玉が主流だった)
 「上手三段玉作戦」、これを最初にやった棋譜は、どうやらこの図、1710年「大橋宗銀-伊藤印達(角落ち)戦」のようである。伊藤印達が指している。(この将棋も初めは3二玉型で、そこから4三玉とした)


 ただその将棋は(玉頭ではなく)7筋での戦いが中心であったし、印達もこの「三段玉」の指し方はこの1度しかやっていない。(将棋は下手宗銀勝ち)

四代大橋宗与-二代伊藤宗印(角落ち) 1722年 御城将棋
 天才少年伊藤印達は1712年に15歳で夭折したのだが、その父であり伊藤家2代目の宗印(=五世名人、三代宗看や看寿の父でもある)が1722年の御城将棋で、その「角落ち上手三段玉戦法」を採用した。それがこの図である。息子のアイデアを父が発展させたのである。
 8一飛で地下鉄飛車にして、2一飛とまわって、2五歩。 下手の玉頭を襲う。
 これが優秀な作戦だった。
 2五同歩、同桂、同桂、同飛、2七歩、8三金、4五歩、同歩、3七桂、2一飛、4五桂、4四銀(次の図)


 この将棋は下手の四代大橋宗与(当時15歳)が勝つのだが、この図での形勢はかなり接近している。四代大橋宗与はここから1五歩として勝ったが、しかしそれは下手に力量があったからで、この図では最初にもらった「角落ち」の下手の優位がほとんどなくなっている。
 「戦法」としては、この上手の作戦はかなり優秀なのである。

 そのためと思われるのだが、この将棋の後、御城将棋での「角落ち」の将棋は、下手が「三間飛車」を採らず、その結果下手の「矢倉」や「相掛かり風の浮き飛車」などが発展・流行をする。

 そのしばらくずっと指されなかった「角落ち下手三間飛車」を、20歳の若者九代大橋宗桂が、1763年、久しぶりに登場させたというわけである。「銀冠美濃」というアイデアをプラスして。(まだ振り飛車の美濃囲いはほとんど見られない時代に「銀冠美濃」を思いついたのが画期的)


 「九代宗桂-八代宗桂戦」に戻る。八代大橋宗桂がいま地下鉄飛車で2一飛と指したところ。
 こうなった時、下手の分厚い「銀冠美濃」が心強いとわかるだろう。 
 この将棋は、以下7五歩、同歩、同飛に、上手が8六歩、同角、8八歩と切り返し、さらに7七桂、8九歩成、3五歩と進んでいる。
 実戦はそう進んだが、7五歩、同歩、同飛に、7四歩でどうなるのかを確認しておきたい。

参考図2
 7五歩、同歩、同飛、7四歩なら、7八飛、5二玉、7六銀、4三銀、7五歩、8三金、7四歩、同金右、7五歩、8四金、8六歩となって、この図。
 さらに8六同歩、同角、8一飛、8八飛、8五歩、5九角、4二玉、7七桂、3二玉、4八角(次の図)

参考図3
 ここまで、上手には有効手があまりない。下手にスキがないので待つしかないのである。
 その間下手は、7七桂~4八角で、十分な体勢をつくった。次は6五歩から攻めていく。

 このように下手に十分に組ませると、上手に勝ち目が少なくなる。
 ――という判断でおそらく上手の八代宗桂は7四歩と打たず、8六歩から“勝負”にいったのであろう。


 で、こうなった。下手印寿は3五歩とここから攻めた。「銀冠」なので、玉頭戦歓迎である。
 8三金、3四歩、同玉、3六銀、9九と、3五飛(次の図) 


 4三玉、3四歩、3二歩、3三歩成、同歩、7五桂、3四歩と進む。
 これで下手の飛車は行きどころがないのだが、3四同飛、同玉、6三桂成となって、下手勝勢である。
 以下、4三玉に、4五歩から攻めて、下手が勝ち。


 時代は、九代大橋宗桂の時代になった。(または“徳川家治時代”である)
 しかし、三代伊藤宗看、伊藤看寿、四代大橋宗与がそろって他界してしまったことは、彼にとって不幸だった。その“強さ”を示す基準がなくなってしまったからである。

 この時代、九代大橋宗桂は「最強者」でありながら、昇段が遅い。1770年代後半になってもまだ宗桂は五~六段であった。(九代大橋宗桂の昇段が遅かったので、彼とよい勝負をしていた大橋宗順も昇段が遅く、その後世の評価も成績の割に不当に低いように思われる)


 棋譜鑑賞5  大橋宗英-九代大橋宗桂(右香落ち) 一七八三年 御城将棋

 大橋分家宗順の息子、大橋宗英が1778年、御城将棋でデビューした。
 宗英は、翌1779年には当時の最強棋士九代宗桂と「角落ち」で初対決し、当然のように勝っている。
 新たな“才能”の台頭である。
 九代大橋宗桂と大橋宗英の次の対決は、1783年御城将棋、手合いは「右香落ち」。宗桂40歳、宗英28歳。両者にとって、重要な勝負であっただろう。

△8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △6二銀 ▲9六歩 △5四歩 ▲9五歩 △3四歩


▲2二角成 △同銀 ▲8八銀 △3三銀 ▲7七銀 △4二玉 ▲9四歩
 「右香落ち」の将棋。ここまでは“フツウの序盤”だが――
 ここで2二角成と宗英は角交換。「右香落ち」では過去にもこういう角換わりは見られた。伊藤宗看(三代)、看寿、四代大橋宗与の時代に流行った指し方だが。


△9四同歩 ▲同香 △3二玉 ▲9八飛 △8六歩 ▲同歩 △9六歩
 7七銀とした後、下手の宗英は16手目に早くも仕掛けた。9四歩。
 それにしてもこの大橋宗英という人は、「居玉」で仕掛けるのが多い人だ。この人を「近代将棋の祖」などとWikipediaにも書かれているのだが、これはいったい誰が言い出したのだろう、その表現は間違っている気がする。
 「近代将棋」というのは、誰でもが真似をしたくなるような将棋の方向に進化を進めていくことだと思うが、この二人の天才、九代宗桂と宗英の将棋は、才能あるものでなければ真似のできないレベルにあると感じる。

 宗英のここでの「9四歩」の仕掛けは、十分に成立しているようだ。


▲5八金右 △8七角 ▲9九飛 △8四飛 ▲9一香成 △7一金
 図は上手宗桂が「9六歩」と歩を打ったところ。
 この「9六歩」は勇気のいる一着で、九代宗桂の個性を表現している。この手がこの将棋の序盤を形づくることになった。
 上手に歩がたくさんあれば何でもない手だが、これで上手は歩切れになる。この9六歩をうまく下手に取られてしまったら、それでまっすぐ敗北になる可能性もある。居玉で仕掛けてきた若者に、「将棋をつくるのは私だ」というように攻めの主導権を手繰り寄せるような、強い意志の籠った「9六歩」である。

 「9六歩」を、これを同飛なら上手は7四角から馬をつくる。
 なので下手宗英は5八金右とした。これで次に9六飛をねらうが、宗桂は8七角。
 二人の天才が技を繰り出して早くも最初の勝負どころである。 

 下手は9九飛。以下、8四飛、9一香成、7一金(次の図)


▲7八角
 さて、下手に手番が来た。どう指すか。(宗英は7八角と指した)

参考図
 ここまでの上手の宗桂の(9六歩以下の)指し方はちょっと無理があるようで、ここは7九金(図)と指せば下手が良さそうだ。8八金からあの角を取りに行くのだ。
 後の変化を読み切るのがむつかしいが、9四飛、9八歩、7四飛、8一成香、同金、8五角、8四飛、8八金のような変化が予測される(次の参考図)

参考図
 角をタダ取りされてはたまらないので、上手は8五飛と指し、同歩、8六香、同銀、7六角成のような展開が予想される。
 これは下手の飛車も愚形だし、まだ勝負はこれからだが、厳密には下手が良いだろう。(「激指」の評価は[ +648 下手有利 ])


△7八同角成 ▲同金 △9四飛 ▲8一成香 △同金 ▲8八銀 △7一金
▲8三角 △9五飛 ▲5六角成 △2五飛
 宗英は7八角と指した。あの角を消して9六飛と指したいということだ。
 このあたり、宗英は9六の歩を取りきろうと、そこにこだわって指している。実際9六飛がすんなり実現すれば、上手は歩切れだし、それでもうほとんど下手勝ちが確定する。


▲4六歩 △2七飛成 ▲9六飛 △5五歩 ▲4七馬 △1四角 ▲2八歩
 宗英はあるいはこの2五飛を軽視していたかもしれない。2五飛に対する受けがむつかしいのである。(8三角~5六角成の手で、4八玉としていればこの筋は防げた)
 これに対し、3八銀と受ける手があるようだ。以下、2八角と打たれる手があるが、4六歩、1九角成、3六歩とする。以下、5五飛には、4七馬(参考図)

参考図(3八銀の変化)
 下手駒損になるが、歩切れの上手の攻めの継続も難しく、形勢互角。

 本譜の進行は、2五飛に、4六歩、2七飛成、9六飛、5五歩、4七馬、1四角、2八歩(次の図)


△4七角成 ▲同金 △7四角 ▲6九角
 こうなってみると、下手苦しい。2八歩に代えて8三馬は、8二歩と打たれ、6五馬、6四歩となって、結局2八歩と打つしかなくなる。(9二馬は9一香があってダメ)


△9六角 ▲2七歩 △7四角 ▲4八玉 △4四歩 ▲9四飛 △6五角
▲7七桂 △7六角 ▲9一飛成 △8一歩 ▲7二歩 △同金 ▲5八角 △3五歩
 9六角、2七歩、7四角、4八玉…
 こうして、序盤は上手九代宗桂が制した。9六歩と打って下手の飛車を封じた作戦が結果的には成功した形になった。
 以下進んで、次の図となった。


▲3六歩 △同歩 ▲8一龍 △7一金 ▲8四龍 △5二金
 下手は駒損をしているわけでもないし、竜もつくっているのだが、5八の角が働きのない駒になっている分だけ、下手が不利―――だったが―――

 図はいま、上手九代宗桂が3五歩と指したところ。ここで3五歩と位を取るのは、これを考える棋士は他にあまりいないであろう。これも九代大橋宗桂の“個性”の一手といえる。(客観的にはあまり良い手とはいえないと思われる)

 これを見て、下手宗英が3六歩と突いた。チャンスが来たぞ、と思ったかもしれない。ここが新たな“争点”になった。
 3六歩は好手と思われる。3六同歩に、宗英はタイミングを見て3六金として4七角と使う手を考えている。

 そうして、この二人の天才の“強さ”と“個性”がぶつかり、火花を散らしているような戦いが玉頭で展開される。
 九代宗桂も宗英も、陣形を整えるより、戦うことを好むタイプで、宗桂も下手の3六歩を誘ったのかもしれない。

 図から、3六同歩、8一竜、7一金、8四龍、5二金と進んだ(次の図)


▲4五歩 △8三歩 ▲7五龍 △9八角成 ▲5五龍 △4三馬 ▲3四歩 △同馬
▲3五歩 △4三馬 ▲3六金 △5三銀 ▲3八銀 △4五歩 ▲3七桂 △4四銀左
▲9五龍 △5六歩
 5二金と上手が指したのは、下手の3四歩、同銀、4四龍のような狙いに対応したものと思われる。
 ここで下手の宗英はチャンスみたか、4五歩と戦線を拡大。(“不利な時には戦線拡大”という勝負術の教えもある)
 しかしここは8七銀がよかったのではないか。それが我々終盤探検隊の研究だ。
 8七銀、4三角、3五桂、3四角、3六金と指す。以下、5六歩、同歩、同角なら、5四龍、5三香、5六竜、同香、5七歩となる(参考図)
参考図8七銀の変化
 ここで次に下手からの6五角が厳しい手になるので、上手はこの図で5三銀(6五角に5四歩を用意)が最善とみるが、そこで2三桂成とし、同玉、4一角、3二飛、4七角で、次の参考図。

参考図
 この図の、ソフト「激指13」の評価値は[ -196 互角 ]である。
 厳密には上手良しかもしれないが、勝負形になっていると思われる。


▲5六同歩 △5五歩 ▲9一龍 △6二金上 ▲4二歩 △同銀 ▲4六歩 △5六歩
▲4七角 △7六馬 ▲4五桂 △7五馬 ▲6六桂 △3七歩
 実戦はこの図となった。上手は馬をつくって、上部が厚くなっている。やはり5八角が下手の負担になっていて、上手優勢。(「激指」は[-682])


▲3七同玉 △5七歩成 ▲6五角
 3七歩で下手困った。これを同銀では、5五香とされ、そこで5八歩と受けるようでは5筋を歩で攻める手もなくなり、6九飛と打たれて、もう勝ち目はない。
 宗英は3七歩を同玉で最後の勝負に出る。5七歩成に、6五角(次の図)


△6五同馬 ▲同桂 △5九角 ▲2八玉 △4八と ▲4一角 △2二玉
▲2三角成 △同玉 ▲2一龍 △2二歩 ▲1五桂 △1四玉 ▲2二龍 △3八と
 これはしかし形作りの手かもしれない。6五同馬、同桂、5九角以下、下手玉は寄り。

投了図
 まで123手、上手九代大橋宗桂の勝ち。

 九代大橋宗桂と大橋宗英の初の「香落ち」の勝負は、12歳年上の九代宗桂がこういった将棋でものにした。

 やがて1789年、九代大橋宗桂は八世名人に。46歳。 


 棋譜鑑賞6  六代伊藤宗看-九代大橋宗桂(右香落ち) 一七九七年 御城将棋

 そしてまた新たな“才能”が、今度は伊藤家から現れた。六代伊藤宗看(前名は松田印嘉)である。
 九代大橋宗桂と六代伊藤宗看との年齢の開きは24歳。
 この六代宗看が登場した1784年からの15年間は、大橋分家の宗英を加え、「三強時代」となった。
 
 この1797年という年は九代宗桂は八世名人になって9年目で、54歳。この2年後に他界する運命である。

六代伊藤宗看-九代大橋宗桂 1797年 御城将棋

 これも「右香落ち」の将棋で、下手の六代宗看の「9七角型相掛かり」。
 こうした端角の相掛かりは、「平手」でも時々アマチュアでは指す人がいるが、この場合は「右香落ち」なので9七角型でも安定しており、十分考えられる作戦である。が、六代宗看以前にこれを指した人はいないかもしれない。六代宗看オリジナルの得意戦法のようだ。

 今、3六飛と、下手の宗看が“タテ歩取り”をみせたところ。(この手は上手が7四歩と突いたのを見て、こう指した)
 これに対して、ふつうは4四歩、3四飛、4三金のような対応であろう。
 ところが“才能”のあふれる九代宗桂の指し手は違った。7五歩。(3四飛なら7六歩と攻めるのだろう)
 以下、同角、7二飛、9七角、7四飛、8八銀、7三銀、7六歩、6四銀、7七銀、7三桂、6六歩、5五銀、5八金右、8六歩(次の図)


 前の図から、上手の九代宗桂は、攻めの手ばかりを指して、なんと8六歩から開戦した!
 ふつうなら4二玉~3一玉くらいまで囲った後に攻めそうなものだが、宗桂は下手が6七金と備える前に攻めるのがチャンスとみているのだろう。
 下手六代宗看はこれを同歩と取ったが、同角だとどうなるのだろう?
 それは8五桂、9五角、4二玉、8六銀、9七桂成(参考図)のように進むのではないか。

参考図
 9七桂成を同香や同桂は、9四歩と突き、7五歩、6四飛、7三角成、6六飛、同飛、同銀というような展開になる(形勢は互角)
 9七桂成を同銀には、6六銀、6七歩、9四歩、8六角、8五歩、5三角成、同金、6六歩。これも形勢互角。

参考図
 実戦では下手の宗看は8六同歩としたのだが、それには6四歩という手が有効手だったかもしれない。以下、6七金には、6五歩と攻めて、この参考図である。
 これは下手がたいへんのようだ。この場合も6四歩~6五歩の前に4二玉などと一手ゆるむと、4二玉、6七金、6四歩に、3四飛で、上手の攻めは不能になる。
 この図になると上手の攻めが成功しているようなので、6七金の手で下手は他の手を考えるしかないかもしれない。
 とにかく、下手8六歩に、6四歩~6五歩はたいへん有力だったという話。
 九代宗桂のつくった攻めの陣形と8六歩の一手が、天才的な素晴らしい構想だったようである。


 8六同歩に、九代宗桂が指した手は図の3五歩。
 この3五歩に、同飛は、6六銀がある。以下、同銀、同角、7五銀、同飛、同飛、6四銀(参考図)

参考図
 これは上手良し。

 よって、実戦は3五歩に2六飛。以下、3四飛と宗桂は“ひねり飛車”に。
 下手の宗看は上手の6六銀攻めに備えて8八角。
 すぐに宗桂は、3六歩と攻めた。


 善悪はともかく、名人九代大橋宗桂の攻めの煌めきが感じ取れる将棋である。
 ところで、この3四飛型の陣形と美濃囲いとはあまり良い組み合わせとは言えない。後で飛車がいなくなり、下手が桂馬を手にした時、3四桂と打たれる筋があるからで、美濃囲いはこの桂馬に弱い。実際に終盤でこの手が出てくる。
 そういうこともあってか、ソフト「激指」は、ここでは“下手持ち”の形勢のようだ。

 さて、図の3六歩に、六代宗看はこれを“同飛”と取り、以下、同飛、同歩と飛車交換になった。宗看はこの変化に自信があったのだろうが、これを“同歩”だとどうなるのだろうか?

参考図
 3六歩に“同歩”だと、以下、4四角、2八飛、3六飛が想定される。そこで「3七歩」は、2六飛、同飛、同角となりそうだが、これは互角の変化。
 「激指」のお奨めの手は、図の「3七銀」。 これで下手有利と「激指」は見ている。
 しかしこの3七銀は怖いところがある。3七同飛成、同桂、8七歩(この手で3六歩は3八歩で下手良し)、9七角、6六銀、同銀、同角という攻めだ。そこで7七桂と角成を防いで“下手良し”と「激指」は言うのだが…

 まあこれは実戦に現われなかった変化。しかし当然、宗看も宗桂もこの順を読んだはず。


 3六歩、同飛、同歩の後、4九飛、2八飛、1五角と進んで、この図。
 さあ、どちらが読み勝っているのか。

 5九金寄、4八角成、同金、6七銀で、次の図。


 “6七銀”と上手の名人宗桂は打ちこんできた。
 宗看はこれを“同玉”と取る手は考えなかっただろうか。どうやら“同玉”の変化は我々の研究では、下手良しである。
 6七同玉、5九飛成、7八玉、6六銀、同銀、6八金、8七玉、8九竜、5六角(参考図)

参考図
 こうなれば下手が良い。以下、6九龍には7八銀、3九龍には3八金。

 六代宗看の指した手は、九代宗桂の“6七銀”に、6九玉。 以下、3九飛成に、3七角(次の図)


 “これで受けきれる”と、下手宗看は自信があり、それでこの順を選んだのだろう。
 実際、宗看が勝つのであるが、ここで上手「5四歩」ならまだ形勢不明だった。
 その変化の研究は後でやることとして、ここで九代宗桂は2八竜と指した。これが“敗着”となった。以後、上手に勝ちはなかったようだ。
 2八竜、同角に、宗桂は、7八飛。
 この順に勝負を賭けたのだが、下手は5八金直と受け、上手6六銀(次の図)


 以下、7三角成、4二玉、3四桂(やはりこの桂が出た)、3三玉、6六銀、8八飛成、2二銀、3四玉、3五飛(次の図)

投了図
 64手で、下手六代伊藤宗看の勝ち。

 短手数で、上手の九代大橋宗桂の負けた将棋だが、宗桂の攻めの才気と棋風が現れた面白い将棋だったと思う。

参考図
 2八竜以下は負けと悟った上手の宗桂名人の形作りだったかもしれないが、その手で「5四歩」ならまだ難しい、というのは上でも述べた。この変化が大変面白いので、その内容を紹介しておこう。

 この「5四歩」は銀にひもをつけた手である。
 この5四歩に代えて、上手には3七飛成という手もある。これは角を取って、その角を8七角と打てば勝ち、という意味だが、3七竜には、“同金”と取られると、下手の2八の飛車の横利きが通るので、この手は成立しないのだ。
 というわけで、それなら2八竜、同角に、2七飛と打ち、3八金に、2八飛成、同金、そこで8七角と打てば、これは“上手勝ち”。上手にはこの狙いがある。
 ところが、今の手順は、2七飛に、下手3八金が悪い手で、代えて5五角、2九飛成、7三角成なら、これは下手が勝ち。
 この時に、しかし、5四歩と銀にひもがついていれば、2七飛、5五角、同歩となるので、今度は上手良し。
 「5四歩」の意味はそういう意味で、つまりこの図で下手が何もしなければ、2八竜、同角、2七飛で、上手良しになるのである。

 だから図で下手は何か良い手を指さねばならないが、どうやら4九金寄りが最善。今度同じように2八竜、同角、2七飛、3八金上、2八飛成、同金、8七角なら、5九玉と逃げられるので、下手良し。

 ということで、5四歩、4九金寄に、2八竜、同角、4二玉が上手の最善手順となるようだ(次の参考図)

参考図
 下手の4九金寄を見て、次の上手のねらいは6六銀である。
 ところがすぐにそれを指すのは、7三角成が王手になり、以下4二玉、5八金寄という変化になるが、これは下手有望。
 よって7三角成が王手になるのをあらかじめ避けておき、次に6六銀をねらうのである。

 下手は手を渡されて、また指し手が難しい。(ということは上手のチャンスはかなりあったはず) 7二飛は、6六銀で、これは上手が良い。

 最善手は5八金上(5八金寄でも同じになる)。 同銀成に、同玉。

 そこで2六飛が有力。(8七金もあって、これも有力)
 以下、3八金に、2七金と打つ。
 これに対し、3七角は、同金、同桂、2九飛成、3九飛、2七角で、下手悪い。
 よって、5五角とする。以下、同歩、4八金で、次の参考図。

参考図
 この図の「激指」の評価は、[ -56 互角 ]。
 つまり、「5四歩」なら、このようなコクのある形勢不明の熱戦がまだ続いたということだ。

 1797年の御城将棋のこの対局が、残された九代大橋宗桂の棋譜としては最後のもの――すなわち、「絶局」――となった。


 六代伊藤宗看の対九代大橋宗桂戦の成績は、「角落とされ」で1勝、「香落とされ」で2勝2持将棋。
 ずっと後(28年後)に六代伊藤宗看は名人(十世)になったが、九代大橋宗桂との対戦のこの好成績が決め手になったかもしれない。といっても「平手」での将棋は一局もないので、どちらが強かったということまでは言えない。

 九代大橋宗桂は、見てきたように、古い世代の三代伊藤宗看、伊藤看寿、四代大橋宗与、八代大橋宗桂、そしてて新世代の大橋宗英、六代伊藤宗看と、御城将棋で対戦した棋譜を残している。
 伝説の三代宗看、看寿と対局し、江戸後期の宗英、六代宗看とも対局――考えてみれば、そんな棋士は他に一人もいない。
 現代を生きる私たちには、九代大橋宗桂は「横歩取り3三角戦法」の創始者である、として紹介されるのが最もわかりやすい紹介になるかもしれない。「銀冠美濃」の創案者でもある。


 ところで、1782年に徳川家治とこの九代大橋宗桂が対局した棋譜が一つ残っている。その棋譜はすでに本シリーズ「part62」で見てきた、宗桂が“接待”してわざと負けたのではないか、という棋譜だが、この棋譜(横歩取り4五角戦法の棋譜)には、それとは別の“疑惑”があるようだ。
 もしかするとその棋譜は、1780年に行われた「徳川家治-五代伊藤宗印戦」の可能性がある。
 これが1782年「徳川家治-九代大橋宗桂戦」であると知られているのは、かつて『将棋世界』誌でそのように紹介されていたからだが、元々は『俊樹玉手』という手合い集に載っているものらしい。
 その一方で、まったく同じ棋譜が1780年「徳川家治-五代伊藤宗印戦」として、『御差将棋』という書に載っている。
 どちらかが間違っているはずだが…。 『俊樹玉手』も『御差将棋』も、徳川家治将軍の将棋手合い集である。
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終盤探検隊 part78 第十代徳川将軍家治

2016年01月10日 | つめしょうぎ
 九代大橋宗桂作『将棋舞玉』第三十番。29手詰の傑作である。


   [月影黄金城]
 青円はじっと見据えて日円のいう気配を探った。
「淫らな気配を感じます」
「そうだろう」
 日円は鋭い目で山をみつめた。
「胎動のようなものを感じてならん」
   (中略)
 理屈ではなかった。何か二人の理解を超えるものが、直接体にそう思わせているのである。
「燃える燃える」
 日円はたのしそうであった。すでに老境に達したその体には、若い日に燃えさかった血の感覚が蘇ることは、ここちよいことなのであろう。
「黄金城が近いのでしょう」
 青円の声はうわずっていた。
「この手でその扉をあけてやるぞ」
 大声で叫んだ。
                     (半村良『妖星伝』(四)黄道の巻より)



 本シリーズは徳川家治が将軍だった時代(1760~1786年)を中心に、将棋を調べている。

 詰将棋に関していえば、三代伊藤宗看、伊藤看寿の兄弟の時代(1728~1761年)が“黄金期”で、久留島喜内も江戸時代の代表的詰将棋作家だが、この人もこの時代の人物である。
 その宗看・看寿時代の詰将棋が作品として完成度が高いので、次の時代以降は“衰退期”などと呼ばれることもある。宗看・看寿のレベルが基準レベルになってしまい、どの詰将棋も物足らなく感じられてしまうのだろう。

 「家治時代」の詰将棋作家といえば、まず徳川家治、そして、八代大橋宗桂、九代大橋宗桂、桑原君仲である。

 今回は、九代大橋宗桂(印寿)の『将棋舞玉』第三十番、および、その父である八代大橋宗桂の『将棋大綱』から第七番、この2つを選んでこれを鑑賞することにした。

八代大橋宗桂 『将棋大綱』 第七番


 九代大橋宗桂作 『将棋舞玉』 第三十番
 
 九代大橋宗桂(1744年~1799年)は1789年に名人(八世)となったが、名人として必要な八段に昇ったのは1785年、献上図式はその翌年1786年である。それが『将棋舞玉』である。 

 ≪注意≫ 以下、解答を眺めていくので、自力で解きたい方は読んではいけない。

問題図
▲5一桂成 △同玉 ▲4二銀成 △同玉 ▲3三と △5一玉 ▲4二と

 この作品、問題図から“気品”を感じるが、いかがだろうか。

 この詰将棋の主役は、盤上の5九角と、持駒の二枚の香車である。
 5九角をいかに使うか、それがこの作品のテーマとなる。

 まず5一桂成、同玉と桂馬を捨てる。
 そこで9五角とする手があるが――

失敗図(3手目9五角)
 それは8四歩(図)で防がれて失敗。玉方の5七の角が8四に利いている。
 ここで持駒の「香香歩」でなんとかなりそうな気もする(たとえば4二銀成、同玉、4四香とか、5三香とか)が、詰まない。

 そういうわけで9五角はここでは駄目なのだが、この攻めが基本になる。

 左から攻めるのはダメだったので、それならと右から攻める手を今度は試行する。
 4二銀成(3手目)、同玉、3三と、5一玉、4二とで、次の図。 

7手
△4二同玉 ▲4六香

 盤上の攻め方の桂、銀、と金が邪魔駒だったわけだ。
 さあそれで、4二と、同玉となった時、4六香(9手目)が正解手で、“ねらいの一手”である。

9手
△4六同角成
 
 この4六香に代えて、1五角で詰めば世話がないが、これもまた敵の5七角の利きがあって、2四歩で止められてしまう。

 そこで、4六香である。この瞬間、5七角の後ろ右(こっちから見て右)への利きが止まっているので、たとえば4五歩合などでは1五角から詰むし、4六香を同竜も同じ。(この4六香に代えて4七香は4五歩で不詰。つまり4六香は限定打)

 ということで、4六香には同角成。
 これでこれであの「5七角」が、「4六」に移動した。“移動させた”のだが、それにどういう意味があったのか。

10手
▲3三歩成 △5一玉 ▲5五香

 ここで3三歩成、5一玉、9五角としても、今度は7三歩で止められてしまうから、「4六香、同角成」は意味のない捨て駒にも思える。

 しかしこの図で、3三歩成、5一玉の後の、13手目を見れば、なるほどと、その意味がわかる。

13手
△5五同龍 ▲9五角

 13手目の5五香。この作品の主眼である。
 9手目の4六香と、この5五香を決め手にするために、この詰将棋はつくられている。

 「4六」に角を呼んで、そして5五香と打てば、この瞬間に5五竜のタテへの利きと、4六馬の後ろへの利きが同時に止まっている。
 “焦点の香打ち”である。
 玉方はこれを竜で取っても馬で取ってもどっちかの利きはストップする。

 5五同馬は、5三竜で簡単に詰み。
 よって、取るなら5五同竜。

 それが正解手順になるのだが、しかし図の5五香に、合駒もある。それはどうなるのだろう。
 以下、それを考える。
 合駒するなら、「5四」か「5二」。

 しかし「5四歩合」は、5三竜以下簡単。

変化図1(14手目5四金)
 よって5四合なら「5四金合」だが、それには9五角(図)。
 以下、6二歩に、同角成、同玉、6三飛成、5一玉、5四香、同竜、4二金まで詰み。

 「5二」に合駒する場合を次に検証しよう。

変化図2(14手目5二歩)
 まず「5二歩合」には、やはりここでも9五角。5五香のおかげでこの角が働く。
 この図の9五角に、6二歩合は、同角成、同玉、6三飛成から、これも簡単な詰み。

変化図3(14手目5二金)
 「5二金合」と「5二銀合」がちょっとたいへん。

 まず「5二金合」(図)から。
 やはりこれにも9五角で、6二歩に、同角成(次の図)

変化図4
 6二同玉、5二香成、同竜、6三金(次の図)
変化図5
 5一玉、5二金、同玉、4二飛以下、29手駒余り詰。

変化図6(14手目5二銀)
 「5二銀合」にも、9五角で問題ない。最短の詰め方は、以下、6二歩に、同角成、同玉、6三歩、5一玉、8一竜(香車を取る)、6一歩、6二歩成、同玉、6三香、同銀、7一竜(次の図)


変化図7
 14手目「5二銀合」は27手詰になる。


15手
△9五同龍 ▲5三飛成

 正解手順の14手目5五同竜にも、やはり9五角。4六の馬の利きが止まっているからこれが有効になる。6二歩なら、同角成、同玉、6三銀成、5一玉、5二歩以下。
 9五角には、同竜が正解手順になる。

17手
△6一玉 ▲6二歩 △7二玉 ▲6三龍

 以下、5三飛成から収束。

21手
△7一玉 ▲6一歩成 △8二玉 ▲8三銀成 △9一玉 ▲9二成銀 △同玉 ▲9三龍

 あとはむつかしいところはないが、4六馬の利きが今は生きているので注意しながら詰ます。

詰上がり図
 まで29手詰。

 この詰将棋は、主眼である9手目4六香と13手目5五香のところ以外は、無駄にゴタゴタした変化がないところがとても良い。そのことが「5五香」という“焦点の遠打ち”を、より鮮やかに印象付ける効果をもたらしている。

 なお、7手目に5五香とし、同竜に、4二と、同玉、4六香と、“手順”を入れ替えるとどうなるか。
失敗図1
 これを同角成だと、3三歩成、5一玉、9五角で、正解手順と同じになって詰む。
 しかし図の4六香を「同竜」で詰まない。そこで1五角なら4一玉で、他に3三歩成も、8六角も、やはり4一玉で、4六竜が後ろに利いているので詰まないのである。
 よってこの順は成立しない。(正解手順9手目4六香に「同竜」の場合には、1五角に4一玉なら、香車をもう一枚持っているので、そこで4三香があって仕留めることができるのである。うまく出来ている)

 また、5手目から「3三と、5一玉、4二と、同玉、4六香」のところを先に「4六香」に代えると――
失敗図2
 5一玉で詰まない。この“手順前後”も成立しない。良く練られている。


 図式『将棋舞玉』が献上されたのは、1786年。この年は徳川家治十代将軍が没した年である。
 前年に、九代大橋宗桂は「八段」に昇っており、この数年前から宗桂の名人襲位は準備されていたのであろう。この時代まで、図式献上は名人になるための必要条件であった。
 
 『将棋舞玉』は他にも、傑作がたくさんある。たとえば8番。 → 動画『将棋舞玉』第8番を北浜健介が解説


八代大橋宗桂作 『将棋大綱』 第七番

将棋大綱7番
 この詰将棋は玉方の「8一桂」が「四段桂跳ね」をするところが注目である。これは八代宗桂(宗寿)の兄三代宗看も弟看寿もやっていない新技であった。
 
 八代大橋宗桂(宗寿)は、九代大橋宗桂(印寿)の実父である。
 元々伊藤家の生まれで、五世名人二代伊藤宗印(鶴田幻庵)の三男である。兄に三代宗看(二男、七世名人になった)がおり、弟に看寿(五男)という天才兄弟にはさまれた環境で生まれてきている。
 数え11歳の時に、大橋家に養子に行き、大橋家の家督を継ぎ、「八代目」となったのである。
 兄の三代宗看は23歳の若さで名人になったが、その時は八代宗桂は15歳、ライバルになりようもなかったが、その七世名人の宗看のその“次の名人”を決める闘いは熾烈だった。八代宗桂(大橋家)と看寿(伊藤家)と四代大橋宗与(大橋分家)の三つ巴の“次期名人候補争奪戦”である。実弟でもある看寿は宗桂の4つ年下、分家の四代宗与は5つ年上。

将棋大綱7番 問題図
▲7三桂成 △同桂
 攻め方の基本的ねらいは8五金、同玉、7七桂、同と、8九竜、8七香合、8六歩、7四玉、8五角という詰め手順。ところが――そううまくはいかない。(というか、それでは詰将棋にならない)

失敗図
 8五金、同玉、7七桂に、7四玉(図)で詰まない。ここで7三桂成や7五歩もあるが届かない。
 この失敗図で、6五桂がいなかったら――ということで、初手7三桂成が正解である。


▲6五金寄 △同桂
 7三桂成、同桂で、この図。これで桂馬が1回跳ねた。
 ここで8五金はどうか。同玉、7七桂に、8四玉で――

失敗図
 王手で8九竜と角が取れるが、9三玉があって不詰。
 6二角の利きが7三桂で止まっているので8四玉とされ、9三へと逃げる道ができてしまっている。

  
▲8五金 △同玉 ▲7七桂
 ということで、3手目は6五金寄とし、同桂となってこの図。
 これであの桂馬が2回跳躍した。
 ここでねらいの8五金の筋を決行する。同玉に、7七桂。


△同桂不成 ▲8九龍
 これなら7四玉には6五金の1手詰だし、8四へは逃げられない。
 7七同桂不成(8手目)で3回目の桂馬の跳躍。そして8九竜で、同桂成となって、「玉方桂四段跳ね」が実現した。史上初の快挙である。

 ただし、実は問題があって、図の7七桂に同桂成の手があって、それには8九飛、8七香合となるが、以下9五角成、同歩、9四角から、本手順とまったく同じ手順で詰む。これは作者が意図したはずの正解手順と同じ33手詰。つまり変化同手数である。これは「7七桂不成、成、どちらも正解」ということになり、そうなるとせっかくの快挙の「玉方桂四段跳ね」がぼやけてしまう。残念なところである。


△8九同桂成 ▲9五角成
 ここはしかし“人情”で、7七桂不成~8九同桂成としてほしいところ。
 8九同桂成の後は、後半になる。どう攻めていくか。
 9五角成が正解である。


△9五同歩 ▲9四角 △8四玉 ▲8三角成 △8五玉 ▲8六歩 △同と ▲9四馬
 9五同歩と取らせて、開いた9四の空間に9四角と打つ。
 以下は「見てもらえばわかる」という内容。


△7四玉 ▲7五歩 △7三玉 ▲8三と △6二玉 ▲8四馬 △6一玉
 ただし、本譜は9五角成として、後で8六歩と歩を打っているが、そこのところ先に8六歩と打つ“手順前後”も成立する。(これを修正するのは困難と思われる)


▲5二銀成 △同玉 ▲4四桂 △5三玉 ▲6二馬 △同玉 ▲5二金
 最後には馬を消して収束。

詰め上がり図
33手詰。

 このようにこの八代大橋宗桂『将棋大綱』7番は、八代宗桂の代表作であり、労作といえるが、欠陥もあるとわかった。
 とはいえ、「玉方桂四段跳ね」は、江戸時代ではこれが唯一の作品。これがあったからこのアイデアを完全作で実現させようという人も出てくるわけである。
 今では、「玉方桂四段跳ね」の詰将棋作品は完成品がいくつか出来ている。 (調査した方がおられるようだ→こちら

 1760年に看寿が死んだ。兄三代宗看(七世名人)が1761年に、その2年後に四代大橋宗与もこの世を去った。
 八代宗桂一人、生き残った。 四代大橋宗与の死後、八代宗桂は「八段」(名人資格をもつ段位)となり、図式『将棋大綱』を献上したが、しかし、名人になることはなかった。名人位は「空位」のままだった。
 『将棋大綱』を鑑賞すると、たしかに、宗看、看寿の図式とくらべると、素人目にもゆるい印象はする。宗看、看寿の詰将棋作品のような、“迫力”が足らない感じだ。
 八代宗桂は1774年に没した。

 そして才能豊かな、息子、印寿が大橋家九代目を継承したのである。
 図式『将棋舞玉』の献上も済ませた九代大橋宗桂は、1789年に名人位を襲う。1728年に三代伊藤宗看が七世名人になって以来、61年ぶりの新名人の誕生であった。
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終盤探検隊 part77 第十代徳川将軍家治

2016年01月06日 | しょうぎ
 1784年、伊藤家の六代目を継ぐ、松田印嘉(=六代宗看)が御城将棋に17歳でデビューした。大橋分家の宗英(29歳)との「右香落ち」だ。
 そこで六代宗看が採った作戦は、あの徳川家治創始の「家治流一間飛車」である。


   [怪異黒夜神]
「あれは何だ……」
 鬼道衆が口々に叫んだ。その漆黒のものは雲に似て雲にあらず、闇そのもののようであった。
「闇が像を結んでいる」
日天ですら唖然としていた。
「オンバさまではないか」
  (中略)
 オンバさま。巨眼の持ち主である。いま虚空にかたまり、そのオンバさまの像を結んだ不思議な闇は、巨眼の部分だけにぶい眼光を発して地表に近づいていた。
「退け。あの闇に触れれば凍え死ぬぞ」
  (中略)
「あれは黒夜神だ。この世のものではない」
 気温が極端に下がりはじめていた。  
                     (半村良『妖星伝』(三)神道の巻より)



 徳川家治第十代将軍は、1760年に将軍になり、1786年に没した。
 この家治時代に、将棋の技術は“近代化”が進んだ。振り飛車の「美濃囲い」の優秀さが発見され、「銀冠美濃」が登場した。「相掛かり」、「横歩取り」の研究が進み、「中住まい玉」が発明された。相居飛車戦で主流だった「雁木囲い」に代えて「左美濃囲い」「矢倉」が主役になっていった。この時代にそれらの“近代革命”が進んだのである。
 徳川家治が親しくしたのは伊藤家の五代目の宗印(鳥飼忠七)であったが、その宗印も50の年を越え、6代目として養子をとった。それが印嘉(=六代宗看)である。
 すでに大橋分家からは次世代のホープ宗英が現れており、この大橋宗英と六代伊藤宗看の登場は、家治時代の終わりを意味するものでもあった。


 棋譜鑑賞1 大橋宗英-五代伊藤宗印 一七八二年

 大橋分家の新星、宗英。27歳。
 伊藤家の五代目当主、宗印。55歳。
 両者のこれまでの対戦は「角落ち」と「香落ち」の手合いで一局ずつ、どちらも若い宗英が勝利している。

 この1782年という年は「天明の大飢饉」の始まった年で、東北地方など冷害で作物が実らず、それが何年も続いた。一説に、原因はアイスランドの火山の大爆発でその灰が世界を覆い、そのために地球の表面全体が気温低下してしまったのだという。


 「右香落ち」の手合いで、下手の大橋宗英が「中飛車」。しかも5六飛型だ。


 7五歩、9五歩と突き、ひねり飛車のような指し方。
 さっそく9四歩と攻めた。


 五代宗印は7二金と、金を受けに使う。
 ここで宗英、2六飛。3二金に、9四香、9二歩(次の図)


 そしてもう一度9筋へ飛車を戻し、6六角からあくまで9筋突破を計る。


 どうやら、9筋突破は実現しそう。それにしても、双方の玉は「居玉」のままだ。
 図から、9三香成、同歩、同角成、同金、同飛成、4二玉、7七桂、4五歩、6三竜、6二香、8三竜、4六歩(次の図)


 ここから、5八金右、8六歩、7三歩と進んだ。


 宗英は中盤での“歩の垂らし”が得意である。序盤は破天荒、中盤は地味に指す。
 上手宗印は4七歩成、同金、4六歩、4八金、5三銀と指した。
 そこで宗英、5七金打。

 5三銀では代えて、8七歩成、同竜、3一玉、8一竜、6六歩、同歩、同角と指してどうか(参考図)
参考図1
 この順は上手、有力だったかもしれない。


 宗英は、5七金打(図)としっかり受けた。
 (6七香成があるので)ここは下手何か受けないといけないところだが、6八金のような手ではなく、しっかり金を打って受けるのがこの場合好手になった。5七金と打つことで、上手5六角の狙いも消し、また上手6六歩、同歩、同角の狙いも受けている。

 ここから上手に良い手の組み合わせが見つからない。たとえば6四香は、7二歩成、8七歩成、同竜、7二飛、8三竜、6二飛となりそうだが、その後、また上手の手が難しい…。

 五代宗印は、8七歩成、同竜に、7七角成と、角を切って攻めた来た。
 以下、同竜、4七桂、4九玉(次の図)


 宗英(後の九世名人)は、こういう“受け”に自信を持っているのだろう。先の7三歩のような手は、相手の攻めを待っているような印象を受ける。


 以下進んでこの図のようになった。5九桂と受けて、宗印は“指し切り”である。
 下手大橋宗英の勝ち。
 上手は、5二の飛車が攻めに参加できていないのがまずかった。(下手の4三歩が4二飛と飛車を使う手を封じている)

 大橋宗英と五代伊藤宗印の対局はこの将棋が最後になった。
 伊藤家からは、六代伊藤宗看が登場する。


 棋譜鑑賞2 六代伊藤宗看-大橋宗英(右香落ち) 一七八四年 御城将棋

初手より △8四歩 ▲9六歩 △8五歩 ▲9七角 △6二銀 ▲9五歩 △3四歩
▲9八飛 △4二玉 ▲7八銀 △5二金右 ▲4八玉 △3二玉 ▲3八玉 △7四歩
▲5六歩 △8四飛 ▲7九角 △7五歩 ▲9六飛


△7三銀 ▲6六歩 △6四銀 ▲6七銀 △5四歩 ▲5八金左 △7三桂
▲2八玉 △5五歩 ▲3八銀 △5六歩 ▲同 銀 △8六歩 ▲同 歩 △8八歩

 徳川家治将軍が編み出した(と思われる)「右香落ち一間飛車」である。この戦法は徳川家治、五代伊藤宗印、伊藤寿三の将棋研究チームが生みだし育ててきた戦法である。(本「報告part72」でその棋譜をいくつか調べてきた)
 この戦法はつまり家治と伊藤家の戦法なのであるが、それが伊藤家の次世代の新人宗看によって、御城将棋に初登場となったわけである。御城将棋だから家治将軍もこれを見物していたのであるが、きっと喜んだことだろう。

 9六飛の後、5七角と構えるのがこの戦法の形。
 上手の大橋宗英は、7三銀~6四銀と構え、7三桂の後、5五歩と攻めてきた。開戦だ。下手が“5七角”とする暇を与えず、攻めかかった。
 5筋で一歩を手にして、宗英は、8六歩、同歩、8八歩と攻める(次の図)


▲8八同角 △5五銀 ▲同銀 △同角
 
 8八同角とさせ、それから5五銀で銀交換。


▲7九角 △8七銀 ▲9七飛 △8六飛 ▲8八歩

 次に上手から8七銀がある。どうこれを受けるのか。
 六代宗看は7九角と受け、8七銀、9七飛、8六飛、8八歩と進んだ。

参考図2
 ここは9七角(参考図)という受けもあった。8七銀で下手が困るように見えるが、8七銀に、8五歩いう返し技がある。同飛なら8六飛。よって8七銀、8五歩、9六銀成、8四歩9七銀成、同桂のような展開が予想される。これは銀と角との交換になるが、いい勝負。


△7八銀不成 ▲8七銀 △同飛成

 本譜はこうなった。8八歩に同銀不成なら8七歩、同銀成なら、8七歩、同成銀、9六飛のつもりだ。
 宗英は7八銀不成と指した。それには8七銀が宗看の用意の受け。


▲8七同飛 △同銀不成 ▲同歩 △6九飛 ▲4六角

 これを宗英は同飛成と飛車で取り、同飛に、同銀成、同歩と進む。
 この上手宗英の8七同飛成では、7九銀成と角を取り、8六銀に、8九成銀と駒得するのもあったようだ。宗英は飛車交換の順を選んだ。また下手宗看の8七同飛は最善で、代えて同歩、7九銀成は、はっきり上手良しになる。
 本譜の順は形勢は互角だが、手番を握っている上手が感じとしてはうまくいっている。


△4六同角 ▲同歩 △5七歩 ▲5九金引 △8九飛成 ▲5三歩

 4六角で、角も交換。
 8九飛成となり、上手は桂得。
 手番は下手の宗看に。どう攻めるか。単純に7二飛~7三飛成では下手は勝てない。
 ここからの20手くらいが勝負の明暗を形づくるであろう。


△5三同金 ▲8二飛 △4二銀

 宗看は5三歩と叩き、同金に、8二飛と打った。(7二だと8三角と打たれるような筋が気になるのだろう)
 対して宗英は4二銀と受けた。


▲7一角 △6四角

 ここが下手宗看の“チャンス”だったかもしれない。5四歩、同金、5二角があった。
参考図3
 対して3一金なら、6三角成で、以下6七桂、5一銀、4一銀、5四馬、5九桂成、4二銀成、同銀、4四銀(参考図4)

参考図4
 これは先手が勝ちになっているようだ。(3三金打の受けには5三金)

 ただし、5二角(参考図3)に、同金、同飛成、4一銀、5四龍、9九龍の変化が、形勢不明。


▲5五銀 △5八歩成 ▲同金直 △5五角 ▲5三角成 △6六角 ▲5九歩 △5二歩

 本譜は下手六代宗看は7一角と打ち、上手の宗英が6四角と受けた。(6四角では5八歩成~5二歩の受けも有力。しかし宗英としてはせっかくつくった5七歩の拠点を消す順は指したくないところだろう)
 
 ここで下手に、5三角成、同角、5四歩という攻めがある。これを受けるのはけっこう難しく、5四歩に3五角だと、5三銀と打たれ、以下3三銀打、4二銀成、同銀、5三銀で、千日手濃厚だ。
 では、上手の宗英はこの5三角成~5四歩に、どう応じる予定だったか。
 おそらく、5四歩に、6四角とするのではないか。 以下、5三銀には、7一銀と打つ(参考図)
 
参考図5
 7一銀に8一飛成なら、5三銀、7一竜、5四銀で上手良し。
 7一銀に9二飛成は、5六角がある。
 (6四角が3五角になっていれば7一銀には4二銀成、同金、2二金があるので下手良し)
 よってこの参考図5になれば、下手は4二飛成、同金、同銀成、同角、5二金と勝負するしかないかもしれない。それはしかし、2四角、5三歩成、8八飛で、上手が勝っていそうだ。

 ということで、6四角と宗英が受けたところで、すでに上手がわずかに有利なのかもしれない。(ソフトは「互角」の評価)
 実戦の六代宗看の手は、5五銀。宗英はこれを同角と素直に取った。


▲6三馬 △5七桂 ▲同金 △同角成 ▲5八金打 △6六馬 ▲6四桂 △5一銀打
▲7三馬 △6七歩

 受けに使った角が、6六角で今度は攻めに働いてきた。そのかわりに5八歩成で歩を成り捨て、5二歩と受けに歩を使った。

 これは想像でしかないが、下手の六代宗看は、ここで5二同馬が当初の予定だったのではないか。これでいけると読んで、5五銀以下の攻めを選んだ。ところが、この図になってもう一度ここから先をよく読み進めてみると、同馬では勝てそうもない――と思った。だから予定を変更して6三馬と指したのではないかと思うのだ。
 実際、5二馬以下の変化も形勢はまだはっきりしない。5二馬、同金、同飛成、4一銀、6三竜(角取り)、7七角成、7三龍、5七歩、同金、9九馬 (参考図)

参考図6
 たとえばこんな図になる。この参考図6の「激指」の評価値は[ -250 互角 ] 。


▲3六歩 △6九龍 ▲5四桂 △6八歩成 ▲4二桂成 △同 銀 ▲5二桂成 △5八と
▲4一成桂 △3九銀 ▲3七玉 △2五桂

 まとめて言えば、この将棋は勝負どころで、上手大橋宗英が読み勝ったのだ。
 六代宗看は7三馬で桂馬を入手し、それを使った攻めに賭けたが、上手の攻めのほうが一歩か二歩、速かった。
 図の“6七歩”が決め手になった。
 対して下手は5四桂としたいが、6八歩成、同金、5九竜が速い。
 なので3六歩と宗看は指したが、それには6九龍。宗英は“勝ち”を逃さない。以下、寄せきった。

 参考までに、宗看の指した3六歩に代えて「1六歩」の場合は宗英が指した6九龍以下の攻めでは紛れる。
 1六歩には、6八歩成、同金、4八金と攻めるのがよい。以下、同金、同馬、4九金なら、そこで5九竜、同金、3九銀、1七玉、3八馬で“上手勝ち”である。

投了図
まで93手で上手大橋宗英の勝ち

 17歳の伊藤家の六代宗看(まだ六代目を正式に継いではいなかったが)が御城将棋に初登場し、29歳の大橋分家の六代目を継ぐ予定の大橋宗英と香落ち下手で戦った一局は、こんな将棋だった。
 伊藤家と大橋分家の宿命の対決を、この二人が受け継いだのである。

 その御城将棋の一局は1784年11月17日だったが、翌1785年に、この二人は3度戦っている。
 さらに1786年の御城将棋で戦い、1788年の御城将棋でまた対戦。

 この6度の対戦で、大橋宗英4勝、六代宗看2勝となっている。手合いはすべて宗英の「香落ち」で、「左香」のときもあれば「右香」のときもある。(これは下手が選択できると聞いたことがあるが実際にそうだったかは知らない)


六代伊藤宗看-大橋宗英 1788年 御城将棋
 これは1788年の御城将棋だが、1786年に徳川家治はすでに没している。“家治時代”は終了したのである。
 宗英と六代宗看――この二人の将棋は、いつも序盤から面白い熱戦になる。
 「右香落ち」であるが、下手の宗看が「9七角型相掛かり」という前例のない作戦を採ってきた。そして今、3四飛と“横歩取り”。


 2~3筋で得た歩を使って、9筋を攻める下手の宗看。
 図以下は、9三同桂、9六飛、7五歩、9四飛、9二歩、9六飛、5一金、8八角、5二飛、9四歩…
 下手は9筋を突破し、上手は5筋から攻めようとする――という戦いになり、この将棋は9筋から飛車を成りこんだ下手の六代宗看が勝利。
 この将棋、上で鑑賞した1782年「大橋宗英-五代伊藤宗印戦」によく似た展開だ。その将棋は宗英が下手で「中飛車」から一歩を手に持って、9筋を集中突破したのであった。浮き飛車で一歩を手にして9四歩、同歩、9三歩と攻めるこの作戦は優秀なのかもしれない。(現代では「右香落ち」が指されないので使うところがないが)


六代伊藤宗看-大橋宗英 1795年 御城将棋
 大橋分家から宗英、伊藤家からは六代宗看(松田印嘉)が登場し、この時代は大橋本家の九代大橋宗桂を加えて、この三人の実力が抜けていて、他を寄せ付けなかった。年齢は宗桂、宗英、宗看の順で、ちょうど12ずつ年の開きがある。
 1789年、九代大橋宗桂が「名人」になった。八世名人。28年ぶりの名人の誕生である。
 その八世名人九代大橋宗桂の時代は10年続いた。その10年間が、次期名人を決めるための大橋宗英と六代伊藤宗看との“決戦”の期間であった。

 この図は1795年の御城将棋。「左香落ち」戦である。
 振り飛車の上手宗英が居玉のまま“4五歩”と開戦し、早くも風雲の局面になっている。(こういう“4五歩”という振り飛車の将棋は、もともと伊藤家の五代宗印がよくやっていた指し方だ)
 大橋宗英の将棋は、序盤はこういう華々しい戦いを仕掛けてくることが多い。しかも居玉で。


 進んで、このようになった。「相掛かり」が発展した時代なので、振り飛車なのだが相掛かり的な要素(7八金など)が見られる。


 さらに進んで、こうなった。
 ここでは形勢は「互角」だったが、次の下手(六代宗看)の手がまずかった。
 宗看はここで3六歩と指した。この手は次に3七桂という手を指す意味だろうが、5八角と打たれ、3六角成から馬をつくられて、宗英が以後、局面をリードすることとなった。そしてその優位を手離さず丁寧に指し、そのまま宗英が勝ちきった。優勢になったら逃さない、それが宗英の強さである。
 この図ではともかく、8八玉としておくところであった。


六代伊藤宗看-大橋宗英 1798年 御城将棋
 六代伊藤宗看は1794年、1795年と、大橋宗英に「香落ち」で連敗している。
 なぜかこの1798年の対局は「平手」である。
 六代宗看は、名人九代大橋宗桂との対戦成績は悪くなかったが、この宗英に対しては分が悪い。このへんで一番返して評判を上げておきたいところだ。
 この平手の将棋は、先手の六代宗看が5七銀と右銀をくり出す「飛車先保留型相掛かり」の戦法を採用した。
 それを見て、後手大橋宗英は8八角成(図)。 「相掛かり」で角交換将棋にする作戦は、この頃にちょっと流行りはじめたようだ。


 先手の宗看は6五歩と位を取った。これも大胆な手だが、後手宗英の採った作戦は類例のないものだった、2二飛(図)とまわったのである。
 それにしてもこの宗英という人は、居玉で決戦することが好きな人だ。
 このように宗英の序盤は大胆だが、終盤になると地味な手を重ねることが多い。その丁寧な指し方、読みこそが大橋宗英の“力”だろう。


 8三金がユニークな手だ。これは8四歩、同金、8二角のような手が心配になるが、それは――

参考図7
 6九角があるのだ。5八金なら、7八角成と角を切って、交換した金を9二に打つ。

 8三金の罠を見破った宗看は、誘いには乗らず、7六銀。
 そこで宗英が仕掛けた。1五歩、同歩、1八歩、同香、9九角(次の図)


 8筋で得た「一歩」があるのでこの攻めが可能になった。これは先手飛車を逃げるしかないが、これで後手がよいというわけでもない。勝負はこれからだ。
 6八飛、2六歩、6四歩、同歩、8四歩、8二金、2六歩、同飛、2八歩、同角成、3七銀、同馬、同桂、2九飛成、3八角、2六竜、8三歩成、同金、4六歩、8七歩、同金、7四歩(次の図)


 ここまで、宗看の指し手もうまい。
 そして、ここが問題の局面となった。ここで宗看は6七飛と指した。これは後手からの3七竜を受けた意味だが、8六歩、同金、2八竜、4五桂、2九銀と進んで、後手良しになった。2九銀には2七飛が宗看の用意した受けだったのだろうが、これは良くなかった。
 この図では、7二角と打つか、または4五桂が有力で、むしろ先手有望な局面だったと思われる。

 大橋宗英がこの将棋も制し、“次期名人”の評判は揺るぎないものになった。

 そして、翌1799年、九代大橋宗桂が56歳で没したことを受け、大橋宗英九世名人が誕生した。
 大橋分家からは久々の、二人目の名人であった。


 大橋宗英の名人時代もやはり前名人九代大橋宗桂とおなじく10年続いた。
 この10年間に、「六代伊藤宗看-大橋宗英戦」は御城将棋で3度実行された。いずれも「香落ち」戦だが、宗看が1勝、そしてあとの2番は持将棋(引き分け)という結果である。この成績があったので、後にこの六代伊藤宗看が次の十世名人を襲うのだが、しかしそれはずっと先の1825年のことである。(宗英死去の後、また「名人位の空位」が15年間続いた)


棋譜鑑賞3 六代伊藤宗看-大橋宗英 一八〇四年 御城将棋



 六代宗看が宗英名人に勝利した将棋を最後に鑑賞しよう。「左香落ち」で、3五歩の後、上手の大橋宗英が「三間飛車」に振った。
 そして図のように“4五歩”。
 「三間飛車」のこの形で“4五歩”というのは、前例がないように思う。凄い手である。
 下手の宗看の早い1八飛がこの手を呼んだのだと思うが。


 「早石田」の乱戦に似ているが、4筋の歩を突いているところが違う。
 図の6五角に、3二銀、8三角成、2六飛、3九金、9四角(次の図)


 このあたりからは下手が少し良いのではと思われる。盤上の生角と馬の差で。
 8四馬、7六角、7八金、4六歩、同歩、5四角、1七飛、3三桂、5六歩、4六飛、5七馬(次の図)


 4四飛に、そこで1六飛または6八玉なら下手良し。
 4四飛、4五歩、同飛、3七桂、2五桂(次の図)


 飛車を取り合う。宗看は激しく攻め合う順を選んだ。
 4五桂、1七桂成、7二歩、同銀、3五馬、4五角(次の図)


 上手は4五角と桂馬を食いちぎる。これを同馬は、7五飛と打たれて、下手いっぺんに負け。
 だが、5五飛という手があった。これで下手が駒得になる。
 5五飛、4四歩、同馬、5二金左、4五馬、3七歩、4七銀、2七桂(次の図)


 玉の安全度は上手が勝る。下手は駒得(桂馬と角との交換)、それが心のよりどころだ。
 4九金、2八成桂、2九歩、3九桂成、5八金、1九成桂、2七馬、4六歩、同銀、3八歩成、6八玉、4七歩(次の図)


 強い人にこういう攻めをされると、指し続けるのは精神的にもしんどいものだ。
 しかしここで7七玉と逃げて、4八歩成、5七金となったところでは、上手の攻めも息切れ気味か。だが上手にはまだ飛車があるし、下手から上手陣への攻めはまだ手がかりがない。
 (ソフト「激指」の評価は「互角」)
 下手宗看は4六銀を、3五~4四と使った。


 上手は6四香から6六香で取った金を4三金打と打って受けた。
 このあたりが勝負どころで、しかし選択肢が一手一手に多いので、調べきれない。
 4三金打以下は、同銀成、同銀、8五飛、8三歩、2二角と進む。
 その時、6七香成と香車を成り捨てておくべきだったかもしれない。
 宗英(上手)は5八ととし、以下、6六角成、6九飛、7九金打(次の図)


 7九金打(図)に、4九飛成として、次に上手からは6九とがある。
 下手(宗看)は4四歩と攻めた。以下5四銀、5五歩、4五銀、4三歩成、同金と、まだ手つかずの上手陣の形を乱し、7六馬。
 なるほどの構想だが、これは相手の銀を呼びこみ、良い手ではなかったようだ。4四歩では代えて、3五飛として3一飛成を狙うのが最善か。以下、6九と、3一飛成の展開は、「互角」。
 実戦の7六馬に、金を逃げず、宗英は4六飛成(2六の馬取り)。 2五馬に、3四銀、5八馬と進んだ。
 だがこの上手3四銀は銀をバックさせてつまらなかった。以後、この銀が攻めにも受けにもあまり利いていない駒になっている。

参考図8
 後手を引くが4四金(図)のほうがよかった。金銀を攻めに使うのだ。
 これでわずかながらも上手有利になりそうなところだったが…


 ここで7六龍と切り、同玉に、9四角。 宗英はこれをねらっていた。


 しかし冷静に見ると、角で飛車をとっても、下手の玉は捕まえにくい。上手の攻め駒が足らないのだ。(この局面の「激指」評価は[ +136 互角 ])
 このままだと、上手から8四歩で、これなら歩で飛車が取れる。それを許すわけにはいかないので、下手宗看は5七馬。
 こうなってみると、上手に次に良い手がないようだ。飛車を取って5九飛と打っても、6六馬で攻めの続きがない。(この時に上手4五銀4四金の形ならこの攻めが有効になっていた)
 図で、7四銀なら銀で飛車が取れる。しかし8六歩、8五銀、同歩では、やはり攻め駒不足。

 というわけで上手宗英は7四歩と指した。これで7三桂と跳ねて桂馬で飛車を取ろうというのだ。

投了図
 しかし8六歩(図)が好手で最善手。(この手以外では勝ちがない)
 この手を見て、大橋宗英名人は投了した。
 ここで投了というのは、おもしろい。印象に残る投了図である。
 7三桂なら、桂馬で飛車が取れる。しかし7三桂に、8七玉、8五桂、同歩で、勝ち目がない、という判断だろう。下手玉が8六歩の一手で格段に安全になった。

 途中の解説で、「4四歩は良い手ではなかったようだ」と書いたが、結果から見れば、4四歩以下の攻めが“勝着”なのかもしれない。この手順が、宗英名人を間違わせたのだから。


 これを勝って、六代伊藤宗看の1800年以降の対大橋宗英の成績は「1勝2持将棋」(いずれも宗英名人の香落ち) 

 ちなみに、宗英、六代宗看、そして九代大橋宗桂の、この“三強”の対戦は「持将棋」の将棋が多い。

六代伊藤宗看-大橋宗英 1802年 御城将棋 指了図

六代伊藤宗看-大橋宗英 1806年 御城将棋 指了図

 この二つの図が、「六代宗看-宗英戦」の持将棋となった将棋の指了図である。どちらも相居飛車の将棋で、「右香落ち」である。
 
 「相居飛車」の将棋は性質上持将棋になる可能性が高く、「右香落ち」の相居飛車だとそれがさらに高くなる。
 それと、現代のルールは「点数制」もあるので、相入玉なのだけど決着がついて持将棋は成立しなかったというケースもあるわけで、そうでなければもう少し多いはず。実際に「点数制」をやめて「互いに玉が捕まらなくなったら持将棋引き分け」というルールなら、迷うことなく入玉をめざす指し方も増えてくるのだろう。
 「右香落ち」は大正時代に廃止されたようだが、それはこの“持将棋問題”のせいかもしれない。

 とはいえ、六代宗看の将棋は全体の1割以上は持将棋に終わっており、これほど多いのは特別である。
 とくにこの“三強”の対戦は、それぞれ10局くらいの対局しかないのに、そのうちの各2局が持将棋なのである。


 六代伊藤宗看は、1825年に名人位を襲い、十世名人となった。(大橋宗英九世名人の死後15年が過ぎて後のこと)
 名人になったのは58歳のとき。58歳は当時としては長命で、そうでなければ名人にはなっていなかった。
 このように本人は長寿であるのに、三人の息子たちは宗看よりも早く死んだ。三人の息子、看理、看佐、金五郎はいずれも将棋の棋譜をいくつか残しているが、特に次男看佐の将棋は目を見張るような才能を感じさせる。(あの大橋柳雪との対戦の棋譜も3つあるがいずれも勝っている) 
 六代伊藤宗看は76歳まで生きた。江戸時代最後の名人である。
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終盤探検隊 part76 第十代徳川将軍家治

2016年01月02日 | しょうぎ
 1779年の「大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち)戦」の序盤。いったいなぜこのような奇妙な戦形になったのであろうか。
 実はこれ、五代伊藤宗印の得意する三間飛車に、24歳の大橋分家の新鋭宗英が、「鳥刺し」と後に呼ばれるようになる角道を開けない作戦に出て、こうなったのである。
 この将棋が、「鳥刺し1号局」と言われている。
 これを「鳥刺し」と呼ぶのは、鳥飼忠七(五代宗印の前名)を倒す(=刺す)そのために、宗英(とその仲間たち)が生み出した作戦だからであろうか。


   [外道皇帝]
 お宝さま。外道皇帝のことである。数えてことし三歳の童児だ。
  (中略)
 お宝さま。
 その童児は三歳になってなお、それ以外の呼び方をされていない。ただし、田沼邸の外においては、鬼道衆が畏敬の念をこめて別の、そしてそれが唯一無二の呼び方をする。
 外道皇帝、である。
 外道皇帝はいま、離れの床の間を背に、仏像のような穏和な、そして謎めいた表情で端坐している。誕生以来、泣くことも言葉を発することもまだしていない。白絹に鬼道の象徴である満天星(どうだん)の紋章を染めた衣服をまとい、すでに測り知れぬ知性をあたりに漲(みなぎ)らせているのである。   
                     (半村良『妖星伝』(三)神道の巻より)



 この『妖星伝』は“外道皇帝”と呼ばれる異質な子供が誕生するという設定なのだが、この子供が生まれるのは徳川家継第九代将軍の治める宝暦時代で、西暦の年号でいえば1750年代である。
 ちょうど大橋宗英(前名中村七之助)が生まれたのがこの時代で、1756年である。
 大橋分家の六代目を背負う予定の宗英が倒すべき相手は、当時(1760年以後の徳川家治時代)の最強者九代大橋宗桂(大橋本家)と、伊藤家の五代目当主の宗印(前名鳥飼忠七)の二人であった。
 九代大橋宗桂は宗英の12歳年上、そして宗印は28歳年上であった。

 今回は次の2局の棋譜鑑賞がメインである。いずれも「鳥刺し」戦法の将棋。

  [1]大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち) 1779年
  [2]四宮金吾-天野宗歩 1836年

 ただし、1779年「宗英-五代宗印戦」の前の将棋や状況を知っておくほうがより楽しめるので、まずそこから紹介していく。 


大橋宗英-五代伊藤宗印(角落ち) 1778年 御城将棋
 大橋宗英――後の九世名人――の御城将棋のデビュー戦は1778年、五代伊藤宗印との「角落とされ」戦である。宗英23歳、宗印51歳。
 「角落ち」の戦い方はいろいろある。今ではあまり知られていないが「角落ち」での「二歩突っ切り戦法」もこの当時は人気戦法の一つだった。下手の「矢倉」も有力戦法だ。
 しかし下手が「三間飛車」に構えるのが、「角落ち」でも“本定跡”とも呼ばれているように、古くから指されている指し方である。ただこの戦法は、上手が3三桂型にし、8一飛~2一飛と飛車を2筋に回って正面から攻めてくる手段があり、これで下手が不利になるケースが多かった。それを「銀冠美濃」に組むことでその上手からの正面攻撃に備える将棋が現れ、これがたいへんに優秀な指し方だとわかってきたのがこの頃の状況である。
 その「角落ち下手三間飛車銀冠美濃囲い作戦」を最初にやったのが、大橋分家の大橋宗順で、宗順の1965年御城将棋デビュー戦の対局であった。(将棋史上で「銀冠美濃」が登場した最初の棋譜はたぶんそれ)
 〔後日注; これは誤りと判った。「角落ち下手三間飛車銀冠美濃囲い作戦」の史上最初の棋譜は1763年の御城将棋「九代大橋宗桂-四代大橋宗与戦」のようである。宗順よりも2年前に九代大橋宗桂が「銀冠美濃」の作戦を見せている〕
 大橋宗順は宗英の実父である。

 その父宗順と同じ「三間飛車銀冠」戦法で、宗英もデビュー戦を闘い、勝った。

 この図は、しかし、形勢はかなり接近していて、下手が勝つためには最善手で対応する必要のある場面になっている。「角落ち」での初形の「激指」評価値はだいたい[+650]くらいだが、ここでは[+200]くらいになっている。下手宗英の踏ん張りどころだ。
 7九飛成と上手に飛車成りを許し、7八金と受けたところ。
 以下、4九龍、4八金寄、5九竜、4九金打、6九龍、6八金、7九龍、7八飛(次の図)


 ここで8九竜ならまだ難しい形勢が続いたようだ。
 実戦では、五代宗印は、7八同竜、同金、4六歩、同金、7六飛と、“両取り”を掛けたが、以下、5四歩、4四銀、4五歩、4六飛、4四歩、5四玉、5二飛…。
 下手優勢になり、宗英が勝ちきった。新人の宗英にとって重大な勝利だった。(負けていれば次もまた「角落ち」ということになる)

大岡兵部少輔-大橋宗英(右香落ち) 1778年 御城将棋
 将棋の大好きな十代将軍徳川家治は、予定された家元同士の将棋の見物だけでは物足らなかったようで、「お好み」と呼ばれる、近習と家元の誰かの将棋を見たいと所望した。
 五代伊藤宗印との対局と同じ日に指された「お好み」の将棋。宗英の「右香落ち」の手合いである。
 当時流行しはじめたばかりの「相掛かり」である。しかしこれは8筋、5筋、2筋と上手がえらく大胆に指しており、ちょっと“頑張りすぎ”にも見える。実際にはそうでもないみたいだが。こういう大胆な序盤が宗英の持ち味かもしれない。


 その将棋はさらにこのようになった。上手(宗英)は両桂を跳ね、“全軍躍動”という感じ。
 ただし、形勢は互角。
 図から、6六角、5五銀と進んだ。
 そこで9三角成なら、「互角」の形勢は続いたが、大岡は5五同角、同銀、7七銀と指し、下手が不利になった。そして、そのまま上手が押し切った。
 上手の攻撃的な構えがもたらす見えないプレッシャーに、下手の心が押しつぶされ、自らころんでしまった印象だ。

五代伊藤宗印―九代大橋宗桂 1778年 御城将棋
 大橋宗英が御城将棋で初出勤したその日のメインイベントは、「五代伊藤宗印―九代大橋宗桂戦」であった。伊藤家と大橋本家のトップ同士による「平手」戦である。
 「横歩取り」である。この形での3四飛を指したのは、残された江戸時代の棋譜では1775年の「伊藤寿三-徳川家治戦」。 家治、寿三、五代宗印の三人は将棋の研究グループのような関係であったから、この三人の間ではこの「3四飛」はよく指されていたはずだが、しかしそれ以外の公の場では、この図は初めて出現する図だったかもしれない。
 いやもしかするとすでにこれは民間では指されていたかもしれず、それはわからない。


 五代宗印の3四飛(横歩取り)に、3三角。
 史上初の「3三角戦法」である。宗印の「横歩取り」を宗桂が予期してこの3三角を準備していたのか、あるいはその場で思いついた手なのか、興味があるところだが。
 

 このようになった。今、後手九代宗桂が6五角と打ち、先手宗印が9六角と返したところ。
 現代の「横歩3三角戦法」ではあまり見ない展開だが、それは先手後手双方の玉が「居玉」だからである。「居玉」なので6五角のような手が生じる。
 「中住まい玉」が発見され指されはじめるのは、1790年以後のことになる。

 図から4七角成、6三角成とお互いに「馬」をつくり、それを自陣に引いて、また様子をうかがいながら駒組みという中盤に。


 まだ「居玉」である。
 図は、先手宗印の5五銀に、後手の宗桂が、2四歩、同歩、2五歩としたところ。
 ここで先手は3五歩、同飛、4六銀と応じ、以下、7七歩成、同金直、2六歩、3五銀と、飛車を取り合い、一気に局面が激しくなる。


 先手五代宗印が頑張り、やや有利と思われる局面になった。今、5八銀と打って受けたところ。勝負どころである。
 ここで後手6五馬などでは後手は勝てない。6五銀に、6六銀、6四馬、3四歩は、先手優勢。
 ここでは7七歩が“勝負手”ではなかったかと思われる。7七歩に同玉なら6五桂が打てるし、7七歩に7九金は、7六桂、7七玉、5八馬で後手良し。だから7七歩には、4七銀、7八歩成、同金と進むことになりそうだが、そこで先手の指し方が難しいのではないか。

 実戦では、九代宗桂は、7六桂と指した。
 7六桂、7七玉、5八馬、同金、8九龍、3三竜、7五金、3一竜、4一銀、6六歩(次の図)


 6六歩は後手からの6五桂の1手詰を受けた手。九代宗桂はここから、8八桂成、同金、7九龍と迫る。しかし、6七玉、6四桂に、6八金とされ、逃げ道(5八)をつくられてみると、後手の攻めは届かない。
 以下、先手の五代伊藤宗印の勝利。

 名局である。
 五代伊藤宗印と九代大橋宗桂の対局はこの将棋のように熱戦になることが多いのだが、いつも勝利は九代宗桂が手にしていた。だが、ここでは五代宗印が勝ったのである。

 徳川家治も、そして、大橋宗英もこの将棋を見ていたわけである。
 五代伊藤宗印は、大橋本家の九代宗桂、大橋分家の宗順との対戦成績の結果はよくないが、目の前でこのような将棋で勝ったところを見た宗英は、宗印の力を侮ってはならぬと、心を引き締めたことであろう。


 この4カ月後、「大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち)」の対戦が組まれるのである。

 五代伊藤宗印と「左香落ち」なら、宗印は得意の振り飛車にしてくるだろう。(振り飛車での「美濃囲い」を流行らせた元祖が五代宗印である)
 その重要な決戦で、大橋宗英が選んだ作戦は「鳥刺し」であった。

 今回我々(終盤探検隊)は、気づいたのであった。
 五代伊藤宗印の元の名は鳥飼忠七。その鳥飼を倒す――つまり「刺す」――そのために大橋宗英が生み出した戦法―――だから「鳥刺し」なのではないか。

大津五郎左衛門-大橋宗英(左香落ち) 1778年
 大橋宗英の、残された棋譜を見ると、ちょうどこの時期の棋譜がたくさん残っている。これらはおそらく大橋分家の門人たちとの稽古将棋であろう。
 この図を見てほしい。これは前回報告(part75)で紹介した「五代宗印流」である。それを宗英が指している。宗英は「打倒伊藤宗印」を意識してこれを研究していたのではないか。
 大橋分家にとって、伊藤家は、ずっと目の上のタンコブのような、「倒すべき敵」であったのだ。大橋分家を継ぐということは、そうした重い歴史も背負うことにもなる。

井出主税-大橋宗英(左香落ち) 1778年
 「鳥刺し」である。宗英ではなく、井出主税が「鳥刺し」を指している。だから宗英よりも井出が先に「鳥刺し」を指しているじゃないかという人がいてもよいのだが、つまり宗英と井出主税は、共同研究チームだったのだと思われる。「鳥刺し」を発案したのは井出主税かもしれないが、彼らはさらにそれを研究し、公(おおやけ)の場でそれを大橋宗英が発表したのである。
 それが五代伊藤宗印との対局である。

井出主税-大橋宗英(左香落ち) 1779年
 角道を開けなければ、たしかに振り飛車からの(宗印の得意としていた)4五歩の仕掛けも空を切らせることができるかもしれない。

井出主税-大橋宗英(左香落ち) 1779年
 何より、まだ誰も知らないこの作戦を採れば、伊藤家の研究、あるいは家治将軍と伊藤宗印、寿三との共同研究――そのすべてを無意味なものにすることができるのだ。


 そして、決戦の日は来た。安永八年(1779年)二月十八日。


棋譜鑑賞  [1]大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち) 一七七九年

△3四歩 ▲2六歩 △3五歩

大橋宗英-五代伊藤宗印(左香落ち) 1779年
△3四歩 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩 △3三角 ▲5六歩

 上手(左香落ち)の五代伊藤宗印は、得意の「三間飛車」。
 しかし下手の大橋宗英は2六歩~2五歩のオープニング。7六歩を指さない。


△3二飛 ▲6八銀

 5六歩(図)。これが「鳥刺し」。
 上手が3五歩を突いたので、これを目標に左の銀を進出させる。


△3六歩 ▲同歩 △1五角 ▲5八玉 △3六飛

 ここで上手の五代宗印は、3六歩、同歩、1五角。 この手段があった。目標とされている3五歩と交換してしまえば、下手の作戦は空を切る(という上手の考え)。


▲1六歩 △3三角 ▲5七銀 △3四飛 ▲4八銀上

 なにより、このタイミングで1五角とすれば、下手は“5八玉”とするしかない。


△8四飛 ▲7八金 △9四歩 ▲4六銀 △2二銀 ▲5七銀上 △9五歩
▲5五歩 △6二玉 ▲5六銀

 だが、下手には新たにターゲット(目標物)ができた。敵の飛車および角である。


△7二玉 ▲7六歩 △3二金 ▲6六角 △9四飛 ▲1五歩 △6二銀 ▲4五銀左

 角道を閉じたまま、そして“5八玉”のまま、二枚の銀を進出させる。
 ふつうはまず7八玉としてそれから銀の進出を――と考えるところと思うが、それよりも銀の進出を優先させたところが、この大橋宗英の“鋭さ”なのかもしれない。
 この将棋、もう少し進んで、「気づいて見れば上手指しにくい」という将棋になっていたのである。

 7二玉に、ここで7六歩。30手目に角道を開けた。


△8二玉 ▲3八飛 △4四歩 ▲3四銀 △5一角 ▲4三銀成

 「上手の三間飛車」から始まったとは思えないような形の将棋になっていて、この図を見るととても面白そうに思える図だが、しかし形勢はもう「下手良し」と思われる。上手はもう、どうにも指しようがないのだ。
 図は、下手宗英が4五銀と出たところ。次に上手8二玉、3八飛となって、上手は困った。
 そこで「4四歩」としたのだが、これで一気に形勢は「下手優勢」に傾く。
 しかしでは、どう指せばよかったのかとなると、これが難しいのである。
参考図1
 4四歩と突かなければ、上手陣は本譜よりはましかもしれない。
 たとえば4四歩に代えて、7四飛とする。そこから仮に7五歩、6四飛、3四銀なら、4二角(参考図1)で、上手もなんとか勝負になるかもしれない。ここで4三銀成は、同金、3二飛成、3一銀、2一竜、3三金が予想される。(途中、2一竜に代えて4三竜は、この場合は6六飛、同歩、7六角が王手竜取り) この変化の「激指」の評価は[+164 互角]である。
 しかし、3四銀とすぐに行かず、3六飛~3八金~3七桂のように、下手にゆっくりと陣形の整備をされてから仕掛けられるのが上手としては嫌だ。上手は逆に、もう指す手がないのだ。つまり上手は下手からの攻めを待つだけの将棋になっていて、「作戦負け」なのである。

 だから、上手の宗印の「4四歩」は、そういうことを総合して、不利になるとわかっているが、それでも敵陣がまだ「十分」とはいえない陣形のうちに“勝負”に行った手なのだと、そう見る。


△3三金 ▲5四歩 △4三金 ▲3二飛成
 
 4三銀成。同金には、3二飛成で飛車を敵陣に成って先手優勢になる。
 宗印は3三金と頑張ったが――
 そこで5四歩とこの歩を突けば、角と銀(4六)とがいっぺんに働いてくる。
 先手玉は“5八玉”のまま決戦になっている。
 「相掛かり」(横歩取り)の「中住まい玉」は、まだ誕生していないということは、上でも述べた。およそ10年後に登場するのだが、これは上手の振り飛車で始まった将棋だが、偶然に「中住まい玉」になっている。


△4五歩 ▲5七銀 △5二銀 ▲2二龍 △3三角 ▲2一龍 △6六角

 竜をつくらせたが、上手も3三角から角を捌いた。角を交換することで、上手には2八角のような手段ができた。


▲6六同歩 △4六歩 ▲同銀 △5四飛 ▲5五歩 △4四飛 ▲5六角

 そして5四飛から今度は飛車を攻めに使う。


△4一歩 ▲3二龍 △7一銀 ▲3五銀 △4二金 ▲3一龍 △6四飛
▲7五銀 △2八角

 駒割りは、下手の「桂得」。下手優勢だが、丁寧に指す必要がある。玉の守備は上手が堅い。
 図の5六角は、8三の地点をねらっている。それもあるが、この5六角は、第一の目的は、相手から5六に何か駒を打たれる筋を消した、受けである。

 次に宗英は上手の飛車を封じようとする。6四飛に、7五銀。
 この将棋、よく見れば下手の宗英は、派手な手は何も指していない。


▲6四銀 △同歩 ▲1七香 △7二銀 ▲4六銀 △1九角成 ▲3三歩 △4三銀 ▲3四桂

 ここで上手は飛車を取らせて2八角と勝負に行った。
 この手で9四飛だと、8六桂、9三飛、3八金(参考図)とされ――
参考図2
 これでは上手の楽しみの“2八角”が指せなくなり、上手は指す手がなくなる。

 飛車を取る6四銀。同歩に、1七香。シブい。この一手に、「序盤は派手だが、勝負所では丁寧」という宗英の特徴が見える。これが宗英の強さなのだ。
 4六銀と銀を引き付けて、それから3三歩。宗英の将棋はこういう「と金つくり」の手が決め手になる場合が多いように思う。


△5二金寄 ▲4一龍 △2九馬 ▲4二桂成 △4四桂 ▲2三角成 △5六銀
▲4八金 △4二金 ▲同龍 △3四桂 ▲5七銀 △4六歩 ▲同歩 △3六桂

 地味な手で、着実に攻めていく優位の下手の宗英。
 劣勢の上手は桂馬を使って攻める。


▲3七金 △5七銀成 ▲同玉 △4八銀 ▲6八玉 △3七銀成 ▲1一飛 △5二金打 ▲4一龍 △4八桂成 ▲6一龍

 この図を見ると、上手の攻めもずいぶん迫っており、勝負になっているようにも思える。
 しかし実際は宗英はもうだいたい読み切っていただろう。3六桂に3七金と逃げるのが良い。以下の攻めに、6八玉と左辺に逃げる。3七の金を囮にして取らせ、逆方向へ玉を逃げて見れば、下手玉はかなり安全になっている。


△6一同銀 ▲同飛成 △5六馬 ▲7二金 △9三玉 ▲8二銀

 宗英は、1一飛と打って、二枚飛車から6一竜で、この将棋を仕上げた。

投了図
まで110手で下手大橋宗英の勝ち

 これが「鳥刺し1号局」の将棋である。大橋宗英の完勝であった。
 この将棋、五代宗印の振り飛車に対する「鳥刺し」という新戦法が、ぴたりとはまったようである。“5八玉”となったのは想定内だったのかどうかは不明であるが、二枚の銀を進出させて序盤を支配した構想がうまかった。「鳥刺し」大成功という結果となった。
 上手の宗印は、序盤のどこかで、何か工夫して別の動きをする必要があったようである。


八代大橋宗桂-三代伊藤宗看 1735年 御城将棋
 なにをもって「鳥刺し」とするのかその定義がはっきりとしていないが、「対振り飛車角道開けず」の指し方を「鳥刺し」というのなら、それはもっと前から指されている将棋がある。
 たとえば1735年のこの御城将棋の一局。下手番の八代大橋宗桂が指している。

伊藤看寿-四代大橋宗与 1745年
 これは1745年の有名な伊藤看寿の「魚釣りの歩」の将棋だが、その序盤はこのように上手が「角道開けず」である。
 この時代、「右香落ち」で振り飛車(下手)から2二角成からの角交換振り飛車が流行したことがあって(それを流行らせたのはこの将棋の看寿の相手四代大橋宗与)、それを嫌がって上手が角道を開けることを保留しているのである。

 しかし「鳥刺し」の定義が、「対振り飛車で、角道を開けず引き角にして左銀を攻めに使う」であれば、たしかにその1号局は今見てきた1779年「宗英-五代宗印戦」だろう。実際には宗英の角は「引き角」にはならなかったが、序盤の含みとして「引き角」の予定だった。
 (ただし、棋譜としては、井出主税と宗英との1778年の稽古将棋が最も古い「鳥刺し」の棋譜になる)


 棋譜鑑賞  [2]四宮金吾-天野宗歩(左香落ち) 一八三六年

 これは上の[1]大橋宗英-五代伊藤宗印戦とよく似た序盤の将棋で、この1836年「四宮金吾-天野宗歩戦」を元に、“鳥刺しは四宮金吾という棋客が考案した”としている書もいくつもあり、その話がわりと広まっているが、それは誤りである。
 升田幸三著『王手』にも四宮金吾の創案した戦法として升田はこれを面白く語っている(升田の師匠の木見金次郎が「鳥刺し」でやっと阪田三吉に勝てたという話など)が、一般にはそのように伝えられてきていたようである。

 本当は、上に述べた通り、「大橋宗英の研究グループが生み出した」が正しいと思われる。


 さて、ではこの将棋「四宮-天野戦」を見ていこう。天野宗歩が四宮の「鳥刺し」に対してどう指したかに注目したい。

四宮金吾-天野宗歩 1836年
 「宗英-五代宗印戦」と同じ出だし。3六同歩に、1五角、5八玉、3六飛、1五歩までまったく同じ。

 天野宗歩はこの対局時、年齢は数えで21。 江戸本郷の生まれ。 
 四宮金吾の年齢についてはよくわからないが、四国の出身らしい。


 1五歩に、天野宗歩は“4二角”と指した。ここで前例の「宗英-五代宗印戦」とわかれた。(前例は3三角だった)


 そうしてこうなった。上手宗歩の駒組み(3二銀型)が五代宗印の指し方と違う。たしかに、この方が軽くて良さそうだ。
 宗歩が4二に角を引いたのは3三桂と跳ねる手をできれば指したいからだろう。しかしすぐに3三桂とすると、角が使えなくなる可能性があるし、跳ねた桂馬を狙われて負担になるかもしれない。4二角と引いたのは、下手に二枚の銀で目標にされることをあらかじめ避けている意味かもしれない。おそらく天野宗歩は二枚の銀に振り飛車側が押さえ込まれた「宗英-五代宗印戦」の棋譜を知っていたのではないか。


 下手四宮金吾は「引き角」に。これが「鳥刺し戦法」。このままだと3五銀~2四歩で下手が良くなる。
 上手の「アイデア」が必要となるのがここからである。
 
 天野宗歩は8四飛。3五銀からの圧力を先に避けた手で、それでも3五銀なら3三銀と受けるつもりだったと思われる。(こうした順を考えての序盤の“4二角”だったのか)
 それでも下手3五銀はある手だったが、四宮はそう指さず、5七銀上。
 以下、5四歩、6六銀、4四歩、5五歩(次の図)


 5七銀上~6六銀は、上手の8四の飛車をいじめようという手で、「鳥刺し」のこれが基本思想ともいえる。
 それにどう対応するか、というのが腕のみせどころ。
 “実力十三段”などと呼ばれた天才天野宗歩は、5四歩~4四歩と構えた。こうすると上手の飛車がますます狭くなるが…

 四宮金吾は5五歩(図)
 この5五歩で7六歩のような手はないのだろうか。5二金左なら、7五銀、同角、同歩、7六銀、8六歩、同飛、8八歩。これはこれで下手悪くないようだ。(宗歩が7六歩にはどう対応したのか知りたいが、知りようがない)
 ともかく、四宮は5五歩(図)と指した。このあたり、変化が広い。

 宗歩は、4五歩と返す。同銀に、5五歩。これで飛車の横利きがまた通った。
 以下、7六歩、4三銀、5八金右、5二金左、7五歩、5四銀(次の図)


 ここでは上手ペースになっている。それまではむしろ下手が手広く主導権を持っていたが、下手の7六歩~7五歩が意味不明だ。これが疑問の構想だったと思われる。(どうやら上手からの端攻めを警戒したようだ)
 とはいえ、形勢はまだ「互角」。(「激指」評価値は[+53])

 5四同銀、同飛、3八飛、3三歩、3六飛、5三角、6五銀(次の図)


 こうしてみると、下手の7五歩の構想はこういう3六飛のような浮き飛車の構想だったのかもしれない。しかしお互いに浮き飛車なら、しっかり「美濃囲い」に囲っている振り飛車側に利があるように思える。
 
 3四飛、3五歩、8四飛、5四歩、4二角、2四歩、同歩、3四歩(次の図)


 四宮金吾は、上手の飛車の横利きを5四歩で止め、2四歩、同歩として、3四歩(図)。
 これでもう、上手は下手の飛車先(3筋)の攻めを止めるのは難しい。しかし放っておけば、3三歩成には同角で、一時的には受かっている。
 
 上手天野宗歩は9五歩と、端から攻めた。同歩なら、9七歩(同香に9八歩?)と攻めるのだろう。
 上手9五歩以下、3三歩成、同角、2二歩、9六歩、2一歩成、4四角(次の図)


 ここからの数手が勝負の重要な分かれ目になった場面。

 3一飛成という手が見える。ところが四宮はこの手を指さなかった。なにか嫌な筋があったのだろうか。
 ここで下手は3四飛、4三歩、4五銀(参考図)と指すのが最有力な手順かもしれない。
参考図3
 下手はこの場合、上手の角を攻めに使わせないというのが急所のようだ。

 「3一飛成」も、「3四飛」も、ソフトの評価はほぼ「互角」である。

 四宮金吾の指し手は「7六銀」。 これで十分と四宮は見ていたのかもしれない。
 以下、宗歩は3三歩。(ソフト「激指」の評価はここでもまだ「互角」)
 
 次の1四歩がどうだったか。1四歩はあまりにも遅い攻めに思える。
 実際、この手では、下手4五銀で、下手が有利になっていた可能性が高いようだ。
 (だから宗歩の指した3三歩では、代えて5六歩の攻め合いが最善かもしれない)

 実戦は下手1四歩に、上手5六歩(次の図)


 四宮金吾が1四歩の攻めで間に合うと判断したのは、上手からの5六歩の攻めは受けきれると思っていたからだろう。
 5六歩には、6六桂または6六銀と受けるのが普通に思える。
 実際そう指すところと思われるのだが、四宮金吾は5六飛と指した。
 どうやら四宮は、これで下手からの5筋の攻めに期待をかけていたようだ。9九角成には5三歩成で勝てるとみたか。


 実戦の進行は、前の図面から、9七歩成、同香、9六歩、同香、同香、9七歩、6四香、5五銀、4五銀となって、この図。
 少し上手が良いようだ。
 ここから4四銀、5六銀と飛車を取り合う。そして、5三歩成、5七歩、6八金寄、9八飛、7七玉、7四歩(次の図)


 形勢にそれほどの差はないが、ここは上手の勝ち将棋になっているようだ。
 “どう決めるか”だが、ふつうは9七香成か、あるいは6七香成、同金、5八歩成のような攻めだろう。

 天野宗歩は7四歩。独特の決め方で、才気を感じる。
 この“7四歩”の場面は、「激指」の評価値もほぼ「互角」――というか[-116]だから下手に勝ちがある可能性もある。
 それでも、宗歩のこの手には、「これで勝ちです」と、自信をみなぎらせて指したような雰囲気がある。実際、勝つのである。

 7四同歩には――5三金、同銀不成、7五歩、同銀、7六歩(参考図)

参考図4
 7六同玉に、6八飛成、同金、6五金、7七玉、7五金のように攻めるのだろう。まだこれはしかし難しいところがある。(以下9五飛があり「激指」評価値は[-107])

 実戦の進行は、上手7四歩に、5四角と四宮が工夫。そこで宗歩の“7三銀”がすごい手だ。


 ここで7三銀はちょっと思いつかない。良い手ではないと思われるが、これはたぶん、下手の6三とを誘っている手なのである。
 対する下手四宮の指した6三とが“敗着”。 代えて落ち着いて9六歩(香を取る)ならまだ形勢ははっきりしない。

 6三と、7五歩、7三と、同桂、7五銀、(次の図)


 上手が危険に見えるが、ここでは6七香成、同金、5四飛があって、角が抜けるのでここははっきり上手が勝ちになっている。(6三ととしなければ角は浮いていないのでタダでは取られなかった)
 6七香成、同金、5四飛、7四桂、7二玉、5五銀打、6七銀成、同玉、5八角、5六玉、6五金、4六玉、4五歩、3五玉、6九角成(次の図)


 5四銀、3四金、2六玉、2八飛成まで、115手で上手天野宗歩の勝ち。


 「鳥刺し戦法」は、今回調べた2局を見れば、どちらも作戦としては成功していると思う。
 ただしそれは上手が「三間飛車」から3六歩以下、飛先歩交換して浮き飛車に構えたからで、別の指し方ならまた別の将棋になるだろう。
 少なくとも、上手が「3五歩」を早々に突いた場合には、「鳥刺し」はかなり優秀な指し方と言えるのではないか。

 「鳥刺し」の名称のもう一つの解釈として、「鳥のように動き回る振り飛車の飛車を刺す」という解釈も、この調査報告を記しながら思いついた。
 升田幸三『王手』には、四宮金吾が、ある剣術家と漁師の戦いのエピソードからヒントを得て(ちょっと無理がある)、「鳥刺し」を思いついたという話を師匠の木見金次郎の結婚の仲人をした人物から聞いた話として載っている。


 五代伊藤宗印と大橋宗英との対戦は、その3年後1782年の御城将棋(宗印の「右香落ち」)で3度目の対戦をする。
 そしてその「闘い」は、五代伊藤宗印から伊藤家の六代目を継ぐことになる六代伊藤宗看(松田印嘉)にバトンを渡されて続けられていったのである。1784年、大橋宗英より12歳若い六代伊藤宗看が17歳で御城将棋に登場する。

 大橋宗英は1799年、八世名人の九代大橋宗桂が死亡したのを受けて、九世名人を襲う。
 大橋分家からは76年ぶり二人目の名人であった。
 伊藤家と、その伊藤家の得意な詰将棋に屈辱の思いを積まされてきた大橋分家から出た新名人宗英はきっぱりと宣言したのであった。
 「献上図式の慣習は廃止する」 (「図式」とは詰将棋のことである)
 図式の廃止はおそらく、大橋分家の1つの目標、悲願であったと思われる。


 今回は徳川家治の棋譜は全く紹介していないが、家治が伊藤家の者と将棋に熱中した時期と、大橋宗英の練習将棋の棋譜がたくさん残っている時期とがちょうど重なっていて、その時期に戦った「大橋宗英-五代伊藤宗印戦」が歴史に残る「鳥刺し」1号局ということで、興味深かったのでこれを採り上げた。
 徳川家治は1786年に亡くなり、これによって田沼意次時代も終わった。1782年からは「天明の大飢饉」の時代である。

 大橋宗英は「近代将棋の祖」というように、よく紹介されているが、実際に「近代将棋の祖」と呼ばれるにふさわしい人物は、あえて一人挙げるとすれば、五代伊藤宗印がそれにふさわしいと思う。
 実際には、「近代化」は、多くの棋客によって、集団で実行されてきた結果である。
 大橋宗英の前に、五代宗印、九代大橋宗桂、大橋宗順、伊藤寿三、徳川家治らによって、「将棋戦術の近代化」は先に始まり進められていて、宗英はその大波の上に乗っかっていったのである。
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