はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

林葉の振飛車 part6

2013年07月31日 | しょうぎ
 今日のメニュー。
  (1)中井広恵-林葉直子 1988年 レディースオープン決勝2
  (2)中倉彰子-藤森奈津子 1997年
  (3)中井広恵-藤田綾 2001年
  (4)林葉直子-中井広恵 1983年 女流王将3
  (5)林葉直子-飯野健二 1984年


 (1)「中井広恵-林葉直子戦」は、林葉さんが「後手番早石田」を採用した将棋です。
 今日はこれをもとに、「後手番早石田」について、簡単にですが勉強したいと思います。

大山康晴-升田幸三 1971年 名人戦3
 まず「後手番早石田」といえば、重要な対局がこれ。1971年「大山康晴-升田幸三」の名人戦第3局。総手数200手超の名局です。大山升田時代の輝きの頂点といえる将棋ですが、これが升田幸三の「後手番石田流」の将棋なのですね。
 この1971年の名人戦は最終局まで、つまり7番闘ったわけですが、そのうちの5局が升田幸三の「早石田」。アマチュア好みとされていた「早石田」をトッププロが採用して、それが好勝負だったので将棋ファンは湧いたのですが(僕はリアルタイムでは知りません。羽生さん森内さんもまだ0歳ですね。)、それで「升田式石田流」と呼ばれて有名になりました。
 ところで、升田が「早石田」を採用したその5局の内、先手番で4局、後手番で1局です。
 そう、つまり升田さんは後手番ではこの「早石田」をこの一局だけでしか使っていないのです。
 どういうことか。「後手番での早石田」はリスクが高い、と升田さんもおそらくは見ていたからなのです。

伊藤印達-大橋宗銀 1709年
 「先手番の早石田」の棋譜は、過去を辿れば300年前のこの「印達-宗銀戦」にまでさかのぼる。これは才能に恵まれた10代の少年二人による激闘譜「宗銀・印達57番勝負」の中の一局。先手伊藤印達の「早石田」に、後手の大橋宗銀も飛車を振って「相振飛車」に。(印達の勝ち。)
 この二人の少年は、この闘いに命を削ったのか、ともに20歳ぐらいで寿命が尽きた。
 なお、「早石田」を指したこの伊藤印達は、詰め将棋で有名な伊藤宗看、伊藤看寿兄弟の長兄である。

 「早石田」はもともとプロではほとんど指されなかった。それを升田幸三が名人戦で指してから、それなりに時々だがプロも指すようにはなった。しかしやはり、多くはなかったし、これが「後手番の早石田」となるともっと少なかった。その傾向は江戸時代から同じで、プロ的には、「後手番の早石田はどうも苦しい」と見られているのである。
 それでも、1971年の升田以来、時々は指す人がいた。(アマチュアではたくさんいたはず。)
 しかし今、「後手番早石田」はプロではまず、採用されない。それが証拠に、所司和晴さんの石田流の定跡本にも「先手石田流」しか解説されていないし、最近の本では菅井竜也著『菅井ノート』でも同じである。プロ的には「後手番早石田」は使えないと確定しているようだ。

 前回の記事で触れている「3・4・3戦法」というのがある。これは「後手番早石田」はダメなので、そのかわりにいったん「四間」に飛車を途中下車させて、あとで「石田流」に囲うという工夫である。一手余分にかかるが、安全に「石田流」に組める。
 また、「2手目3二飛」というびっくりするような作戦も生まれ、それがタイトル戦にも出現している。
深浦康市-羽生善治 2008年 王位戦2
 これは「後手番早石田は危険なので指せない」という前提がまずあって、それでなんとかして後手番で「石田流」を指したいが、なんとかならないか、というところから生まれた苦心のアイデアで、羽生さんが採用しているように、どうやらこの手が成立していうようなのだ。
 「2手目3二飛」作戦は、アマチュア棋士(奨励会三段までいった)の今泉健司さんの発案で、今泉さんはこれで升田幸三賞を受賞された。


 それにしても、いったいいつ、「後手番早石田は後手不利」が確定したのだろうか。
 一般プロ棋士(女流棋士を含まない)では、「7六歩、3四歩、2六歩、3五歩、2五歩、3二飛」というオープニングは、どうやら1992年「沼春雄-瀬戸博晴戦」を最後に、それ以降は見られないようだ。
 ということは、およそ1990年頃に、「後手番早石田は後手が苦しい」という共通認識がプロ間ではっきり確定したように思われるのである。


(1)中井広恵-林葉直子 1988年 レディースオープン決勝第2局

中井広恵-林葉直子 1988年 
 1988年レディースオープン決勝三番勝負その第2局、後手番林葉直子の「早石田」である。
 この対局は1988年。つまり、上の「後手番早石田は後手が苦しい」という認識が確定する前であろうと思われる時期の対局である。それでも、たぶんこの当時も「後手早石田は無理なのではないか」と、およそそのように考えられていたのだろうと思う。
 しかし林葉の6手目「3二飛」に、中井広恵は「4八銀」と指した。こう指すと、実は、「後手番早石田は成立」してしまうのである。何ら問題もなく。(先に述べた名人戦「大山-升田戦」もやはり大山が4八銀と指している。)
 そして1980年代は、居飛車が飛車先を2五歩と突くことを後回しにすることが流行った時代で、そうなると「後手番早石田」は余裕で可能となるのである。
 では、後手の「早石田」をきっちりとがめるには、先手はどう指すのが正しい手順なのか。
 答えは、「6八玉」。

中倉彰子-藤森奈津子 1997年
 実は男子プロが指さなくなった後も、女流棋士には、「後手番早石田」を平然と使っている棋士がいるのである。藤森奈津子さんと藤田綾さんだ。
 この図は「中倉彰子-藤森奈津子戦」だが、6手目「3二飛」の後、「6八玉、6二玉」となって、そこで、「2二角成、同銀、6五角」。
 先手中倉さんの指したこの手順、これが「後手早石田をとがめる手順」である。まず「6八玉」とするのがポイントで、ここですぐに2二角成~6五角だと、3四角があって、これは後手が指しやすいとされる。
 この「中倉彰子-藤森奈津子戦」の続きは後でみていくこととする。


 「中井-林葉戦」は、図のように、いま、先手の中井広恵が4一角と打ち込んだところ。
 これはその前に後手の林葉直子が6四歩としたから生じた打ち込みだが、林葉はなんとこれをうっかりしたという。
 以下、4二金、8五角成となって、馬をつくった先手が有利に。


 とはいっても、馬をつくった段階ではまだ“微差”である。
 この“微差”を勝ちに結び付けられるかどうか。ここからが「力の勝負」だ。


 4三歩成、同歩、4六金、2五角成、1七桂、2四馬、2五歩、同桂、同桂、5四歩。


 5四歩で中井の銀が死んでいる。こうなってみると、これはすでに「互角」の形勢。
 1三桂成、同香。
 林葉の1三の銀は、ここにいてもずっと使えそうもない駒。これを取らせて、かわりに中井の5五の銀をつかまえたのだから、振り飛車としては成功だ。
 しかし、1三桂成を、「同馬」と取るべきだった。なぜなら―― 


 飛車を切る手(馬と交換)があったからだ。これで先手の攻めがつながり、先手優勢に。
 (1三同馬ならこの飛車切りがなく、互角の形勢だった。こういうところをきっちりと読み切って正確に指すのが一流プロなのだろう。)


 6一飛、5二金となって、ここで林葉は6五歩。不利ながらも、最後の決戦に出る。


 しかし中井広恵はきっちりと読み切っていた。6七玉と逃げる。
 4七飛成、5七歩、5六銀、7七玉、4五竜、7三馬。


 7三同玉、8五桂、6四玉、5四金、同竜、同と、同玉、5六歩、2二角、5五銀、同角、同歩、同玉、7三角、4五玉、4六飛、まで先手の勝ち。
 
 中井は2-0で林葉を降し、レディースオープン優勝。この年の2月に「女流名人位」を清水市代に譲り渡して無冠になった中井広恵は、この棋戦で優勝した数か月後、清水を3―2で破り、「女流名人」を奪還しました。
 (なお、林葉直子は「女流王将」を連覇中。)



(2)中倉彰子-藤森奈津子 1997年

中倉彰子-藤森奈津子 1997年
 さて、「中倉-藤森戦」の続きを見てみよう。
 藤森奈津子(ふじもりなつこ)さんは、この「後手早石田」をよく指している。むろん「後手早石田は後手不利になる」という定説は知っての上で、研究してのぞんでいるはずである。藤森さんはとにかく、三間飛車が好きなのだ。
 なお、藤森奈津子さんの息子さんもプロ棋士で、藤森哲也という。26歳、塚田泰明門下。哲也さんは母に教わって将棋を覚えたという。居飛車党で、昨年は新人王戦の決勝三番勝負に進み、準優勝となった。

 図から、4二金、8三角成、3六歩、同歩、5五角、7七桂、3六飛、3七歩、7六飛、7八銀、7四飛、とすすむ。

 この6五角の筋は、「先手早石田」の場合もあるはずだが、それは「後手早石田」の場合とどう違うか。「後手早石田」の場合は先手の飛車先が「2五歩」と伸びているのが大きいのである。
小林健二-屋敷伸之 1997年
 「先手早石田」をめざした先手に対し、こういうタイミングで後手が「4二玉」と上がる戦術がある。これは先手の「7八飛」に、そこで8八角成~4五角とするねらいである。研究すればこれも先手がやれそうなのだが、プロの実戦は圧倒的に「6六歩」が多い。 この「小林-屋敷戦」は、小林さんが「7八飛」と指して、4五角をやってこいという将棋になったが、これはNHK杯の早指し将棋だから思い切ってこう指したという面があるようだ。それでも、やはり後手の飛車先が伸びていないということもあって、これも先手が良いのだと思う。
 この図で「6六歩」を突けるのも、後手の飛車先の歩が伸びていないからである。
 また、図では、他に「2六歩」や、「6八飛」も考えられるところである。

 これが「後手早石田」の場合は事情が変わって、先手の居飛車の飛車先が「2五歩」と伸びている。このために、7手目「6八玉」に、「4四歩」と角道をそこで止める手が指せない。その瞬間、2四歩で飛車先が突破されてしまうから。 
 このあたりが「先手早石田」と「後手早石田」との違いである。


 後手7四飛では、7四歩もあるが、それは8四馬と王手をするなど先手に手段が多い。
 中倉彰子さんは蛸島彰子さんの名前をもらって“彰子”と名付けられたそうである。20代の時、たった一人で“女流棋士”の看板を掲げていた蛸島彰子さんからすれば、そういう女の子が成長して女流プロ棋士として入ってきたことに、きっと大きな感動を覚えたことと思う。
 その中倉彰子さんは居飛車党。
 
 2四歩、同歩、7四馬、同歩、8五飛、8二角打。


 8二角打としたのは、後手は次に3六歩からの攻めを狙っている。
 2四飛、2三歩、7四飛、3六歩、4八銀、7二金、7三歩。


 7三同角引、6五桂、6四角、7三歩、同桂、同桂成、同金、同飛成、同角引、7四桂。


 となって、以下先手の勝ち。
 なお、先手は7八銀型となっていますが、7八金と上がる方がより手堅いようです。(8八銀と7七の地点を補強できるから。)

 この将棋は先手が快勝していますが、しかし藤森奈津子さんの将棋で同じように進んで後手が勝っている棋譜もあり、アマチュアの私達のレベルでは「後手番早石田」もふつうに“あり”と思います。
 実際、僕もよく「後手番早石田」を相手にして指して、“互角”にやっていますし。(それは、僕が弱いだけ…か。) 指している人はいっぱいいます、ということです。


 また、次のような手を研究して指してくる人もいます。

参考図
 先手の6八玉に、後手「5二玉」。
 「横歩取り」の「中住まい玉」のような感覚で、「さあ、乱戦の将棋にしましょう」というような意味の手です。とりあえず4三の地点を玉で守って、先手からの「6五角」に備え、次に3六歩から攻めてくるつもりです。



 女流棋士では他に藤田綾さんがよく「後手番早石田」を指されているようです。

(3)中井広恵-藤田綾 2001年

中井広恵-藤田綾 2001年
 ところがなぜか藤田さんが「後手番早石田」を指したとき、先手は「2五歩~6八玉」とはしていないんですよね。なぜか。まあ、たまたま拾えた数局の棋譜の範囲で、ですが。
 図のこの将棋は、先手の中井広恵が(6八玉ではなく)4八銀と指しているので、後手の藤田の「早石田」は乱戦とはならずそのまま実現した。


 しかもこれは、ビッグネーム中井広恵を相手に、明らかに藤田が優勢だ。銀桂交換の駒得が確定。
 この対局は2001年だから、今から12年前。藤田綾さんは、14歳だ。
 調べてみると藤田さんは11歳小学6年生でプロデビュー、これは女流最年少記録だそうだ。(なお、中井広恵さんも同じ11歳小学6年生でプロデビューしている。)
 プロで「早石田」のオープニングが現在のようによく指されるようになったのは2005年に鈴木大介が指すようになったその後のことだ。(ただし「先手早石田」に限る。)
 だからそれ以前からこのように、先手でも後手でも石田流を指していた藤田さん、藤森さんの“三間飛車愛”は相当なものだといえる。


 しかし中井さんは強かった。逆転で先手の勝ち。


 藤田綾さんの「後手番早石田」に対して、7手目「6八玉」の棋譜は1局も見つからないのですが、ということはつまり、藤田さんに対しては、先手は後手に「後手番早石田」をすんなりと許しているということです。
 それはつまり、先手も、上の「中倉-藤森戦」のような乱戦を警戒して避けているのだと思います。この変化は“後手不利”とは言われていても、そう簡単ではないのです。相手は研究してきているわけですし、研究にハマって負けるのはつまらないものですからね。
 だいたいアレですよ、居飛車党というのは「石田流」だけにかまっているわけにもいかないんですよ。「横歩取り」も「角換わり」も研究しないといけないので。「おまえの趣味につき合えきれんわ!」という感覚もあると思います。


 「後手番早石田」については以上で終わりです。



(4)林葉直子-中井広恵 1983年 女流王将第3局

林葉直子-中井広恵 1983年 女流王将2
 高校一年生になったばかりの女流王将林葉直子に、中学二年生の中井広恵が挑戦者となった三番勝負。テレビや新聞、一般雑誌も取材に来た。女流のタイトル戦がこれほど一般に注目を浴びることは初めてのことだった。
 もしも中井広恵が勝ってタイトル奪取ならば、この1年前に林葉のつくった「女流棋士史上最年少タイトルホルダー」の記録(14歳)を、中井が更新することになる。中井広恵はまだ13歳だった。
 三番勝負の第1局は中井の勝ち。第2局は林葉の勝ち。1-1。
 そしてこの将棋は第3局。先手林葉の四間飛車に、後手中井の6四銀急戦。
 図から、7七角、同角成、同飛、7六歩、6七飛、8八角、5五角、同角成、同歩、5六角、5四歩、6七角成、同金、8六飛、5五角。


 8九飛成、1一角成、2二銀、1二馬、5五桂、5七金、5六歩、5八金、6九飛、7九歩と進む。
 後手が優勢のようだ。


 こういう歩は悩ましい。特にアマチュアの将棋では、より悩ましく感じる。取って大丈夫なのかどうか、その見極めに慎重になって、無駄に時間を消費してしまうこともよくある。
 7九歩は、同飛成として、それでよかった。ところが、中井広恵は、5七歩成、同金として、それから7九同飛成と指した。中井とすれば、単に7九同飛成は、4六角というような手が見えて、それを消す意味もあっただろう。


 今度は6九歩。同竜なら5八銀と先手で受ける手が林葉に生じ、はっきり先手良しになる。もしも先の「5七歩成、同金」の交換がなかったらこの5八銀は打てなかったのだ。(こういうところまで前もって読むのが“強い人”なんだなあ…) 6九歩は取れない。
 これで、形勢不明となった。
 5六歩、同金、6九竜と中井はそれを解決した。
 林葉は5五金。桂馬を取る。(この桂馬を取ったことが後で後手玉の寄せに利いてくる。)
 以下、4九竜、同銀、同竜。(4九竜を指すのに、中井は20分考えた。)


 残り時間は、林葉15分、中井13分。(最初の持ち時間は各2時間)
 さて、これはどちらが勝っているのか。いよいよ「女流王将」のゆくえが決まる。
 実は、「ここで最善手を指せば、先手勝ち」なのでした。その“最善手”とは?


 林葉直子は2分使って1六歩。決断が良い。
 しかしこの手は“最善手”ではなかった。ということでこの局面は後手中井広恵の勝ちになっており、中井が3八銀と指せば勝っていた。
 (1六歩の代わりの“最善手”は後で示します。)
 中井は、4八竜と王手をかけた。林葉は3八香。
 以下、3九銀、1七玉、3八竜。林葉に香車を一枚使わせた分だけ、「3八銀」と詰めろをかけるよりさらに優っているように見える。中井は4八竜に3分使った。


 林葉、残り12分の内の1分を使い、2四桂。
 これを後手が同歩なら2三角、4二玉、5三銀、同金、7二飛以下の詰み。
 だから中井は4二玉と逃げたが、林葉はまた1分使って、5三銀。これも取ると詰むから(5三同金、同歩成、同玉、7一角以下)、中井は5一玉と逃げる。
 これで後手玉には詰みはない。
 それは林葉にも判っていた。しかしすでに林葉の勝ち将棋になっており、林葉直子はそれを読み切っていたのである。
 ノータイムで、7一飛。これには「合い駒」をするしかないが… 


 6一金と中井広恵は「合い駒」したが、ここ、6一香合は、6二角、同金、同銀不成、同玉、7二金以下の詰みなのだ。「金合い」ならこの詰み筋がない。
 しかし金を打たせることによって、先手の玉の“詰めろ”が消えているのだ!!
 だから先手は、ここで後手玉をすぐに詰める必要はない。林葉、8一飛成。これで先手の勝ちである。(後手玉は7三角以下の詰めろになっている。7三角、6二香、同角成、同金寄、同銀不成、同玉、7四桂以下。)
 中井はさらに時間を使って手段を探したが、林葉の指し手には迷いがなかった。以下をノータイムで指し、勝ちきった。
 8一飛成、7二香、2二馬、2八銀不成、2六玉、2四歩、6二銀打、同金寄、同銀不成、同玉、5三歩成、同玉、6五桂、まで林葉直子の勝ち。

 ということで、女流王将を林葉直子は防衛した。これが初防衛だった。
 しかし、“あそこ”で、中井が「3八銀」ならば勝ちだったのである。本譜の寄せとどう違うかといえば、「3八銀」ならば、たとえ後手が「金」を手離しても、先手玉の“詰めろ”は消えていないということなのである。本譜と同じように2四桂から攻めても、「金」を使っても大丈夫なので、今度は後手の勝ちになるのだ。中井広恵は、そこまできっちりとは読み切れていなかった。ほんの少し、読みの甘さがあったのである。


 さて、先ほどの「1六歩」の代わりの林葉の“最善手”ですが、正解は「2四桂」でした。

 2四桂で詰むわけではないのです。2四桂を同歩は、先ほども書いたように2三角以下詰むのですが、4二玉と交わされると詰まない。しかし、2四桂、4二玉、5三銀、5一玉に、5二銀成、同金として、“銀を金に換えて”、そこで「3九金」と受けて自玉を安全にしておけば、それで先手が勝ちという、そういう局面なのでした。
 それが“最善手”なのですが、「1六歩」と決断して、あそこからほとんど時間を使わずに勝ちきった林葉直子もすごいもんだなあと感心するのです。結局彼女は時間を10分残しています。
 つまり林葉さんは、5五金と桂馬を取ったときに、この筋をある程度のところまで読んでいたのでしょうね。



(5)林葉直子-飯野健二 1984年

林葉直子-飯野健二 1984年
 新人王戦。林葉直子高校二年生の時の対局。
 飯野健二さんはこの時30歳。ということは新人王戦の当時の参加資格のギリギリ上限である。飯野さんが結婚したのはこの頃だろうか。2年後に娘さんの愛さんが生まれている。
 さて、図は後手飯野健二の1三角に、先手林葉直子が6九飛としたところ。
 この後、後手は2四角~4四銀~4二角として角を使う。この構想は、かつて1960年代に山田道美が著書で発表した作戦である。


 先手の林葉が、7五歩、同歩、7九飛と動き、後手が8四飛と対応したところ。
 林葉さんは振り飛車党だけど、自分から動きたい、そういう棋風だとよくわかる。
 図から、7五銀、同角、4四角、同歩、7五飛、6六角、7六飛、9九角成、9五角、9四飛、7三角成と進む。


 同銀、同飛成となって、角銀交換のやや駒損だが、先手は飛車を成ってまずまずか。
 しかし林葉さんの攻めはどこか“素人っぽさ”がたしかにある。


 飯野さんの受けがなかなか巧妙だった。
 そしてここで飯野健二はどう受けたか。
 「8四飛(!)」と指したのである。同飛なら、6二金というわけだ。


 林葉は7二竜とかわしたが、飯野は7四飛!
 こういう受けを、10手前20手前から考えて用意しているのがプロの芸。(たまたまその場面になって見つかったという場合もあるが。)
 以下、同竜、6二金、6四歩、5六馬、4一銀、2二玉、7一竜、5三金、6三歩成、4三金、5二と、3五桂。


 4二と、同金引、3六銀、1五歩、7二飛、1六歩、5二銀成、3二金、3一竜、同金、4二成銀、1七歩成。


 図以下、1七同香、同香成、同玉、1一香、1六歩、3九角、同金、1六香、同玉、1一香、まで後手の勝ちとなった。


 飯野健二さんは2年前に引退されました。飯野さんは1980年代に、当時ほとんど指すプロ棋士がいなかった「横歩取り4五角戦法」や「相横歩取り」を指して、意欲的な新手を見せて、“横歩取りマニア”を湧かせた棋士なのです。
 最近、娘さんの飯野愛さんが女流棋士としてデビューされました。いつか棋戦の決勝戦などで飯野愛さんが「横歩取り4五角」など指して優勝なんてことがあると面白いのだが、と夢想したりする。それと今日気づいたのは、飯野愛さんの誕生日、これは「将棋の日」ではないか。(筆者の妹も同じなのだが。)
 8月17日にはマイナビ・オープンの対局がありますが、塚田・高群夫妻の娘さんとともに、飯野愛さんの対局は、ちょっと興味が出てきました。




 今回も、てんこ盛り、でしたね。はい、今日はこれで終わりです。

 ところで、「はやいしだ」と「はやしば」って、ちょっと似てるなって、書きながら気づきました。それと、「はやしば」って打とうとすると、よく、「ひしゃば」ってなるんですよ。さすが“飛車使い”の林葉さんっすね。




 『“初手9六歩”の世界
 『林葉の振飛車 part1
 『林葉の振飛車 part2
 『林葉の振飛車 part3
 『林葉の振飛車 part4
 『林葉の振飛車 part5
 『林葉の振飛車 part6
 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 『内藤大山定跡Ⅴ 「筋違い角戦法」の研究
 『鏡花水月 ひろべえの闘い


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 『森安秀光の早石田 “3四飛”
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“ほんとうの立石流”の話

2013年07月28日 | しょうぎ
 今日は“立石流”について書きたいと思います。
 立石流とは、アマチュアの強豪の“立石さん”が発案したという力戦四間飛車のことで、90年代から将棋道場などでもよく見られるようになった戦法です。アマチュア将棋では今でもよく指されます。
 僕が調べたところ、この戦法がアマの一部の人達のあいだで流行ったのが1991年で、プロが「ちょっとやってみた」のが1992年と思われます。


田尻隆司-横山公望 1991年6月
 これは『将棋年鑑』の平成4年版に掲載されていた棋譜で、アマチュア竜王戦の準決勝。
 『将棋年鑑』の解説には、この将棋の序盤を、〔珍型だが、これが最近よく見られる“立石流”。〕と書いてあります。
 これを読んで僕はちょっと驚いたのです。3五歩~4二飛として、4四歩を突かない――「この形が“立石流”の本来の姿だったのか!」、と。
 僕は、3五歩~4二飛として、玉を安定させた後、そこで3二飛~3四飛とする作戦があることを知っています。2002年に発行された『島ノート』(島朗著)の中で「3・4・3戦法」として紹介されていたからです。
 それに似た出だしですが、これはそうではなかった。 


 玉を美濃囲いに囲ったあとは、4四歩~4五歩~4四飛。
 これが“立石流”。 かっこいいですよね!
 この後、3四飛として、3六歩をねらいます。


 ここではくわしくやりませんが、この仕掛けのあたりで千日手もにらんだ長々としたやりとりが展開されています。アマチュアのトップの将棋は仕掛けから中盤にかけての迫力のある応酬が見ごたえがあります。プロと違って持ち時間が少ないという条件で「仕掛け」をつくらなければならないし、「負けたくない」という気持ちがこの「仕掛け」のあたりの中盤にガツンガツンとぶつかり合うのです。


 後手の横山さんが攻勢です。ここで7七同馬と切って――


 8五金。これではっきり後手良しに。
 横山公望さんの勝ち。

 横山さんは次の決勝戦でも勝って(立石流ではありません)、アマ竜王戦優勝です。


 今はもうありませんが、横山さんは横浜駅近くのビルで「ハマ公望」という将棋道場を開かれていました。禁煙にして清潔感を売りにしていた将棋道場で、僕は2度だけ、訪れたことがあります。2000年頃だったと思います。
 最初に僕が行った時、席主の横山さんは作務衣姿でした。驚いたのは、僕が料金を払って自分の名を告げようとした時、まず苗字を言ったときに、横山さんが反射的に僕の下の名を続けて口にされたのです。僕はびっくりして、どうして知っているのかと聞くと、『将棋世界』の「棋友ニュース」を眺めるのが自分の趣味なのだとおっしゃいました。つまりそこに僕の名前が出ていて、それを憶えていらっしゃったのです。(もちろんそれ以前に面識はありません。) 僕は平凡な棋力で強いわけでもなく、道場では「二段」で指していましたが、一時期、数か月の間にふしぎなほどに連続して優勝できたことがありまして、それがその時期なのです。優勝といっても小さな地方大会のB級(二段以下)のカテゴリーだったり、道場の10人くらいのトーナメント戦だったりなのですが。そういう成績の内容を、主催者が『将棋世界』誌に知らせて、それが「棋友ニュース」に掲載されていたのですが、それを横山公望さんは熱心に眺めておられたんですね。
 「ハマ公望」は、僕の印象では子供が適度にいて(ここ大事、多すぎるとかなわん)、活気のある道場だったという印象です。
 それにしても、あの頃行った将棋道場も、その半分以上、7~8割は廃業していますね。


 話がそれました。今日のテーマ、“立石流”に戻りましょう。
 プロでこの“立石流”が登場したのはいつか。はっきりしませんが、僕の調べでは、次の将棋ではないかと思います。

劔持松二-加瀬純一 1992年1月
 加瀬純一さんはこの1992年に“立石流”を何局か指しています。
 図のように、4四歩と角道を止める「ふつうの振り飛車」から、タイミングを見て、まず、4五歩。
 そうそう、これが私たちが良く知っている立石流です。


 3五歩と突き、7七角成と角交換、そして3三桂。3二金として、そこで4四飛。
 この手順は、わりと私たちがよく見るタイプの“立石流”の組み立てです。
 この図から、先手の劔持さんは4六歩と反発しました。
 4六歩、3六歩、同歩、4六歩、3五角。


 ここから戦いとなり――

投了図
 勝利したのは、“立石流”。



 以下に紹介する立石氏の将棋は、「棋譜でーたべーす」から拾ってきたものです。

 
Pさん-立石さん 1992年2月
 本家“立石さん”の立石流。
 初手から、「7六歩、3四歩、2六歩、3五歩、2五歩、4二飛」。
 驚きませんか? 1992年のこの段階で、この指し方。立石氏はこの当時から、「角道を止めない振り飛車」を指向していたのです。


 ここで立石氏、8八角成と角交換します。いつでもこれができるようにと、「4三歩型」で構えているわけなのですね。


 そして、飛車を浮く。


 先手P氏は「棒金」作戦。手持ちの角を、6八角と打って次に3五金を狙います。
 それを防ぐべく、後手も6二角と角を打って受ける。


 飛車交換となり、終盤へ。

投了図
 立石さんの勝ち。



神崎健二-豊川孝弘 2004年
 後手のこの出だしはプロでは21世紀になって指されるようになった。これがおそらくプロ1号局。2004年の順位戦の一局。「元気モリモリ」の豊川さん。

 後手の豊川孝弘さんは、この場合は“立石流”を指すつもりではなく、上でも述べた「3・4・3戦法」がねらいだ。島朗さんが名付けたものだが、戦法自体はアマチュアの発案によるもの。これもまた“立石さん”発かもしれない。
 これは簡単に言えば、飛車を4二で途中下車させて、あとで3二飛と三間飛車(石田流)にするというもの。いきなり3二飛とするのは、2二角成~6五角があって、これがどうも後手としては具合がわるいということで、こうやって後手番石田流をやろうという工夫。
 

 7二まで玉を移動したら、これでもう2二角成~6五角の攻めは大丈夫なので、そこで3二飛。
 まず「3五歩」と突く → 次に「4二飛」 → 玉を移動して「3二飛」、というわけで「3・4・3」。


 先手神崎健二の「棒金」に、豊川も同じく「金」をくり出してきた。
 神崎は4六銀。次に7九角とすれば、確実に3五の地点は先手が制圧できる。

投了図
 将棋は先手の勝ち。


Qさん-立石さん 2000年
 この将棋は、“立石さん”の「3・4・3戦法」。 
 後手のこの構えは、つまり3二飛からの三間飛車もあるし、4四歩~4五歩の立石流もあり、そしてさらに8八角成の「角交換四間飛車」もある。もちろん4四歩という「ノーマル四間飛車」もある。そう考えると、万能な、きわめて優れた構えとも思えてきます。
 ところで、最近戸辺誠さんが著書に記した『4→3戦法』(冒頭の写真)は、「3・4・3戦法」と同じく三間飛車を指向する作戦ですが、その場合、「3五歩」は後回しにしたほうが良いだろう、という考えのもと、初めは3四歩型のままですすめていく。いわば「改良型3・4・3戦法」です。


 3二飛から3四飛。得意の「石田流」に。


 3六歩で開戦。3六同歩に、6二角と打って、2八飛に、3六飛と捌いていく。
 次に2六飛があるので、もう決戦は避けらそうもない。
 4八銀、5六飛、6七銀、3六飛、2四歩、同歩、同飛、3八飛成…

投了図
 振り飛車の勝ち。



Rさん-立石さん 1990年
 1990年の“立石さん”の将棋。この将棋は3五歩をまだ突いていない。


 玉を囲って、それから3五歩を突き、8八角成。
 その後、3二飛なら、「4→3戦法」だが――


 角交換した後、4四歩~4五歩。“立石流”だ。
 まあ要するに“ほんとうの立石流”など存在せず、ただいろいろな手順があるのである。


 自陣角。6五角と2五角の両ねらい。

投了図
 “立石流”の快勝。



立石さん-Sさん 1990年
 「7六歩、3四歩、6八飛」。この3手目6八飛のオープニングを1990年にすでに指していたことに注意。
 この3手目6八飛がプロ棋士の間で“普通の手”として指されるようになったのはここ数年のこと。藤井猛が「角交換四間飛車」を指すようになってから。
 いったんこの3手目6八飛を受け入れてみると、後手が振り飛車をやって「相振り飛車」となったとき、6六歩を突いていない方が作戦的に良いのではないかということで、むしろ最近はこの3手目6八飛を本筋として考えている人が今、多くなってきている。特にアマチュアでは。(プロでは四間飛車そのものが減少してきているらしい。)


 後手が5五歩と角道を止めたので、これは角交換をしない立石流になった。
 元々は、角交換してそれから6六歩~6五歩だったのかもしれない。それが、相手が角道を止めるなら、それはそれで振り飛車も伸び伸び駒組みができるということで、どちらでもいけるのである。まったく、自由自在な面白さがある。


 7~9筋から攻める。
 図の8三歩に、同飛、8四歩、7七桂成、8三歩成、6七成桂、7二歩成、1五歩、7三と引、1六歩、6三と、1七歩成、という攻め合いになった。

投了図
 “立石流”の勝ち。


窪田義行-先崎学 1995年
 3手目6八飛のプロ公式戦1号局と思われるのがこの対局。

 窪田義行さんが指した。

 でもすぐに6六歩としたので「ふつうの振り飛車」に。



井上慶太-長沼洋 1992年
 4手目4二飛のプロ公式戦1号局はこれだと思われます。

 長沼洋さんが指した。

 石田流に。つまりこれは戸辺流の「4→3戦法」の1号局。(戸辺さんはこの時5歳小学1年生だったわけだが。)



Tさん-立石さん 1989年
 1989年の“立石さん”の将棋。
 初手より「7六歩、3四歩、2六歩、8八角成」。
 立石氏は角交換して、「4二飛」。つまりこれはプロでも今、よく指されている「角交換四間飛車」である。
 アマチュアの棋士は、もともと一手損など気にせず角交換する人は昔からいた。とくに多かったのが角交換して、その角をすぐに筋違い角(この図でいえば△6五角)に打つ「筋違い角」の作戦である。そしてこれと振り飛車を組み合わせる作戦はよく見られた。
 だが、その角を手持ちにしたまま「4二飛」というのは昔はほとんどなかったのではないだろうか。なんとなく、振り飛車の角交換は模様が取りにくくてつまらない、という先入観を皆が共有していたと思う。
 そういう意味で、“立石さん”は、自由だったのである。


 銀冠に組んで、仕掛ける。

投了図
 “立石さん”の勝ち。



 『“ほんとうの立石流”の話』と題して、“立石流”の初期の将棋を調べてみましたが、つまるところ、立石さんは「角交換振飛車」を指したくて、そこからはじまったのではないだろうかと感じました。
 そのうちに、(後手番の場合)4二飛として、相手が角交換して来れば一手得だし、すぐに角交換する必要もないということで、いろいろ試行されていった。そういう過程から“立石流”が生まれてきたのだと思います。



 昔のプロ棋士の「角交換四間飛車」では、こういうのもあります。
芹沢博文-佐藤大五郎 1971年 
 後手番佐藤大五郎さんの「角交換四間飛車」ですね。順位戦(B1)の対局。
 ただし、この場合は、「初手から7六歩、3四歩、2二角成」と、先手(居飛車)からいきなりの角交換をするという将棋なので、現代のように「振り飛車自ら角交換して振り飛車にする」というのとは、少々意味が変わりますけれども。
 この将棋を勝って佐藤大五郎はこの年度を7勝4敗で3位。次の年度はついに昇級してA級棋士に。35歳の時でした。佐藤さんは、河口俊彦の本によれば、このクラスの人達に嫌われていて、まあつまり“いじめ”のような状態で、あいつだけには負けるな、昇級させるな、というような雰囲気だったそうです。そういう中を勝って昇級するのだから、この人もたいした棋士ですな。
 そうそう、佐藤大五郎といえば、“宇宙流”という戦法もあるようで。いつか調べてみましょう。



 早石田の別の記事
  『林葉の振飛車 part6
  『森安秀光の早石田 “3四飛”』 
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林葉の振飛車 part5

2013年07月25日 | しょうぎ
 写真は第2期倉敷藤花戦の第1局の終局時のもの。1994年の秋の対局です。
 この対局の話は最後に。


 今日のメニュー。
  (1)中井広恵-林葉直子 1992年 女流王位1
  (2)中井広恵-林葉直子 1992年 女流王位3
  (3)関浩-林葉直子 1991年
  (4)藤井猛-畠山成幸 1998年
  (5)関浩-林葉直子 1991年
  (6)林葉直子-清水市代 1993年 女流王位 挑決
  (7)林葉直子-清水市代 1994年 倉敷藤花1


   テンコ盛りですな。 (テンコって何?)

 
中井広恵-林葉直子 1990年
 さて、これは『林葉の振飛車part1』ですでに紹介した将棋ですが、居飛車の「天守閣左美濃」に対してのこの林葉の作戦について考えたい。
 まずこの1990年の将棋は林葉直子が快勝しています。1990という年は、「藤井システム」の藤井猛はまだ奨励会員という時代です。 


(1)中井広恵-林葉直子 1992年 女流王位戦五番勝負 第1局

 「女流名人」と「女流王将」の2つのタイトルを立て続けに失った林葉直子。しかしすぐに次の「女流王位」の挑戦権をつかみます。その挑戦者決定戦の対戦相手は強敵清水市代でしたが、清水の「居飛車穴熊」を「振飛車」で見事に撃破して得た挑戦権でした。(→『林葉の振り飛車part3』で紹介しました。)

 
 後手の林葉直子は「5三銀型の向かい飛車」、そして先手の女流王位中井広恵は「天守閣玉の左美濃」。林葉は中井のこの「左美濃」の作戦をある程度想定して、狙い撃ちしたのかもしれない。
 6四銀と出る。林葉が次に7四銀~8二飛という正面攻撃を狙っているのは、ここまでくるともう明らかですから、中井もそれに備えます。
 7七桂、7四銀、7九角、4五歩、5七角、5二金、2六飛、4三金、8八玉、8五歩。


 8五同歩、8二飛、7九玉、9三桂、5五歩、8五桂、同桂、同飛。


 後手林葉の作戦成功。局面をリードしました。


 8七銀成に、中井は8四歩、同飛、7七銀という受けを用意していた。
 以下、5七桂、8六歩、7七成銀、同金、7四飛、7六歩、6五銀、6六桂、8四飛。


 中井、3三飛成と飛車を切る(角と交換)。 苦戦の先手の勝負手。
 3三同桂、5三角、7五角成、6六銀、同馬、5四飛、6五銀。
 5三角に林葉は6二金と受けたが、7二玉のほうが良かったようだ。これなら、7五角成、8一飛、6五馬、4九角成で後手良し。


 本譜はすでに後手が厳しくなっている。林葉は飛車を取らせる代わりに、先手の馬を盤上から消した。
 7四桂、5四銀、6六桂、同歩、3五角、8三桂。
 そして3五角。
 

 林葉期待の「3五角」だったが、中井広恵の「8三桂」がより厳しかった。


 中井広恵の逆転勝ち。



林葉直子-中井広恵 1992年 女流王位
 そして第2戦。林葉直子は「相掛り」で、「中原囲い」を採用しました。
 中原誠名人がこの「中原囲い」と呼ばれるようになった囲い(実は江戸時代からある古い囲い)を使い始めたのは、この女流王将戦第2局の1カ月前。(中原と林葉が、さて、この時すでに“そういう関係”にあったのかなかったのか、筆者は知らず。)
 中井広恵が勝って2勝目。



(2)中井広恵-林葉直子 1992年 女流王位戦五番勝負 第3局

 
 第1局と同じ展開に。
 「左美濃」の先手中井広恵は、3五歩、同歩、3八飛と仕掛けます。先に攻めれば林葉流の8二飛振り戻し作戦も空振りに終わるだろうということか。
 それでも林葉直子は、8二飛~8五歩~7四銀。


 3四歩、4二角、8四歩、6五歩、5九角、8四飛、8六歩、6二銀、7七銀、8二飛、3六飛、8五歩、同歩、8六歩、7八玉、8五銀、8八歩、9五歩、同歩、同香。
 中盤の攻防。中井も技を駆使して対応したが、林葉の攻めが優って振り飛車が優勢に。


 林葉優勢――のはずだった。
 ところがここで、9五歩、同歩、同香と攻めたのが指し過ぎだったらしい。代わりに7四歩~7五歩の攻めを狙えば、先手は困っていたようだ。
 9五香、同香と捨てて、9六銀と攻めていくのが林葉の狙いだったのだが、香車をただで一枚渡して、その上に9一香成とされ、ちょっと攻めの代償が大きすぎた。「王飛接近」の後手は、近くに敵の攻め味をつくってはいけなかった。


 後手は竜をつくり、馬もつくった。しかし5七玉となってみると、先手玉はまだまだ捕まらない。
 中井、8三歩。


 後手は「8三歩」を、結局は放置できないので竜で取ったが、すると「7五桂」がくる。
 林葉はこれを、同馬。
 中井には飛車を成る手もある。完全にもう、先手が良い。


 中井は3五歩と「敵の打ちたいところに打て」で、先手玉の一手詰を消す。
 これで後手はこの先手玉に迫る手段がむつかしい。


 中井広恵の勝ち。

 こうして3-0で中井広恵が「女流王位」を防衛しました。3連覇です。



(3)関浩-林葉直子 1991年

 女流王位戦では結果は出せませんでしたが、しかし、林葉直子の「対天守閣玉左美濃、7四銀作戦」は戦術的にはいずれも成功しているようです。
 もう一局、「中井-林葉、女流王位戦」の一年前に林葉さんがこの作戦を採った棋譜がありますので、次にそれを見てみましょう。
 「関浩-林葉直子戦」です。


 これは銀河戦(非公式戦)の、男性棋士との対局です。
 この将棋は序盤で先手が「8六歩」とした手に、後手の林葉がすぐに「8四歩」と指しています。こうなるとどうも「8七玉は危険」と見て、先手の関さんは、7七角~8八銀としました。次に8七銀から「銀冠」に構えることができます。
 それでも林葉は正面からの攻めを始めます。「9四歩、同歩、同香」。
 対して関は、おとなしく「9六歩」とし、そこで林葉が「8二飛」と飛車の“振り戻し”をしたところ。 


 林葉は角を4二~7五~3九と展開して、敵陣に成りこみます。
 一方、先手の関は「香得」となりました。


 林葉の「8八歩」に、関は「8四香」。
 これは痛い。


 以下、林葉さんも頑張りましたが、先手関浩の勝ち。

 この将棋は、関さんが8七玉と上がっていないので、林葉さんの攻めに対処しやすかったようです。

 しかし「天守閣玉(8七玉)」に対しては、“林葉流7四銀型正面攻撃”は有力な戦法と思われます。対中井広恵戦では3局ともに作戦成功となっています。ただ、成功といっても、振り飛車の玉がうすいので、その後もうまくやらないと、逆転されやすいようですね。



(4)藤井猛-畠山成幸 1998年

 さて、1998年ですが、この“林葉流”を、あの藤井猛が使った棋譜があります。
 1998年の藤井猛といえば、4―0で谷川浩司を吹っ飛ばして、「藤井竜王」が誕生した年。
 この「藤井猛-畠山成幸戦」は、その竜王戦の少し前の対局で、新人王戦の準決勝です。藤井さんはこの新人王戦をその前回、前々回と2年連続で優勝していたので、「藤井、3年連続なるか」ということで、これも大いに注目されていた勝負なのでした。
 その将棋はどうなったでしょうか。


 素人的に見た“感じ”としては、「すでに先手作戦成功」に見えます。 


 ところが、「3三桂」と後手に備えられて、藤井さんは2五歩とはいかず、「6八飛」とまた四間飛車に戻したのでした。手損ですが…。
 うーん、2五歩、同歩、1七桂という攻めは成立しなかったのでしょうか?
 桂馬の交換になって2筋の攻めが収められると、桂馬を持ち合っていることが後手に有利になるのかもしれませんね。
 それと、後手の右四間にして5四銀という形が、すぐに6五歩と仕掛けられると、通常の居飛車の攻め(7~8筋)よりも先手の玉に近いところで戦いが起こるので、それで先手がダメということもありそうです。
 ともかく、藤井さんは2五歩から仕掛けたら負け、と読んだのですね。


 ということで、この将棋は3六銀~2八飛作戦は不発です。
 しかし、この図では先手のみ「銀冠」に組めているので、作戦失敗ということでもない。
 ただ、先手からの仕掛けがなくて千日手模様になりそうな局面。それを打開する意味で、藤井は7七桂。角は9七から使うつもりです。 


 しかし結論的には、藤井の先の「7七桂」は不利を招いた疑問手とのことです。
 この図では、後手畠山成幸優勢。
 ところがここで畠山、間違えます。9九竜。これが疑問とされた手。(6三銀なら後手の優勢は揺るがない。)
 9九竜、5三と、5九竜、4三と、6八竜、4四と、4九馬、4八金打、8九飛。


 ここで「3五歩」とすれば先手にも勝機があった。
 ところが、藤井猛は5四と。
 5四と、3八馬、同銀、2九金、1八玉、1五歩。  
 

 畠山成幸の勝ち。

 ということで藤井猛の新人王戦3連覇はならず。
 畠山成幸が決勝に進み、その決勝三番勝負を2―1で制した三浦弘行が、1998年新人王戦を優勝しています。


 さて、林葉さんのこの「7四銀型(先手なら3六銀型)」の対天守閣美濃用正面攻撃作戦、僕の探した限りでは、林葉さん以外の採用は、藤井猛のこの一局しか見つかりません。



(5)関浩-林葉直子 1991年

 もう一つ、別の内容ですが、「関-林葉戦」があるので、それを紹介します。


 王座戦の予選。林葉直子の中飛車。ノーマル中飛車です。
 林葉の6五歩。 7七銀に、9二玉。 そして3七角に、4四銀。
 以下、6八金上、5五歩、同歩、同銀、5六歩、4四銀。


 これで林葉、指しやすい、という。 次の△5六飛が防げない。
 6五歩からのこの一連の手順を見て、才能あるなあ、と思うのです。6五歩~9二玉で指せるなんて、僕などには全然思い浮かばない指し方。


 林葉は5一角と引いた。この手があまり良くなかったらしい。ここは後手から4五歩と打って局面を落ち着かせれば十分だった。しかし林葉さんは3三桂~4五桂が指したかったようだ。苦しめな関が、紛れを求めて8五歩と攻めたが、後手はこれを「同歩」と取って、それでまだ後手が優勢だった。
 ところが林葉は、8筋を放置して、5七歩。8四歩と先手が取り込めば、8四同角で調子が良い、ということだろう。5七歩、これが林葉の狙いだったが、これは関を逆に助けた。
 5七同金、3三桂、5五歩。


 5五歩が好手。6四飛に、5六金と立って、これで逆に先手良しになった。一歩が手に入り、金が自然に前進できた。


 林葉はいったん攻めをあきらめ、5二金から自陣の整備をしようとしたが、関の2三歩がまた好手。これで林葉を焦らせる。


 ここはもう後手勝てないようだ。林葉は4五桂と跳ねたが、7三角成~4五飛となって、“二枚換え”。 次に8四桂があり、先手勝勢。
 関の逆転勝ちとなった。

 女流プロが、いつ男子プロに勝利してもおかしくはないのだがなあ…、と言われていたのがこの時代。(女流プロの公式戦初勝利は1993年12月中井広恵の対局。林葉はしかし、1991年6月に非公式戦の銀河戦で男性棋士に勝利している。)



(6)林葉直子-清水市代 1993年 女流王位戦 挑戦者決定戦

林葉直子-清水市代 1993年 女王位 挑決
 1993年女流王位戦の挑戦者決定戦。ちなみに、この時期の女流王位戦は紅白の2リーグ制で、紅組は林葉直子と斎田晴子、白組は清水市代と高群佐知子の“4戦全勝者同士の最終局決戦”の結果、この組み合わせの挑決戦となった。「女流王位」は中井広恵である。
 さて、この序盤。なんとなく“現代的”と21世紀の今、感じさせる林葉の序盤である。
 ここで6六歩と突いて、それから8八飛と「向かい飛車」に。


 積極的に動く。しかしこの4五銀は良くなかったらしい。清水の次の手、2四角があったから。
 5七角成を防ぐために林葉は6七金。
 うわずったその金を見て、8六歩と清水は行く。8六同飛、同飛、同角、6九飛、8一飛以下、戦いに。
 これは居飛車に分のある戦いとのことだが、居飛車の穴熊も未完成の状態なので、振り飛車にとって、「これはこれであり」なのかもしれない。


 5八金。こう受けるしかないようで。


 振り飛車も我慢強く対応して、こうなった。
 林葉から、6七金右と、金銀交換を迫る。銀が入れば、8七銀がある。
 7五角、7六金、同竜、7七銀。


 7七銀。竜が逃げるなら、9六竜だが、すると7六歩と打てば、後手の角は死んでいる。
 このあたり、林葉がうまくやったようだ。
 5七歩成、7六銀、4八金、7五銀、3九金…
 局面は一気に激しくなってきた。


 形勢苦しめの清水市代が、勝負、勝負と来ている。


 4八同玉、7五角、5九玉、5七歩成、6八金上、6五桂、4四角。


 4四角は後手玉の「詰めろ」になっている。それを防ぐ3三歩に、先手は6六銀として、これは先手の「勝ち」も近い。
 ところが次の後手清水の4二歩が粘り強い手。
 対して先手の、3二成香、同香、5八歩はふつうの応手に見えるが…


 4三銀、と清水にこの銀を打たれてみると、先手忙しい。いや、忙しいどころか、どうやら「逆転」しているらしい。(先手はどうするのがよかったのか。)

投了図
 192手の熱戦を勝って、清水市代が挑戦者に決定。
 林葉さんにとっても“勝てた将棋”だったのですが。


 その「女流王位戦」の五番勝負は3-0で清水が奪取。中井広恵の女流王位戦の連覇を3で止めました。

 この1993年度の清水市代の女流棋戦での年間成績は26勝3敗、勝率.897です。
 清水さんはこの時24歳。女流棋士の有望な若手は10代で活躍しタイトルを獲ることもよくありますが、だいたいは20代でのび悩む。しかし清水市代さんは、ここからむしろ強さを増していったのでした。そこが、“清水市代”の価値。
 男子プロでもそうですが、20代、30代でさらに伸びる棋士こそが本当に強い棋士になる、と言えそうです。



(7)林葉直子-清水市代 1994年 倉敷藤花戦 第1局

 林葉さんが日本将棋連盟に休暇届を提出してイギリスへ突然に旅立ってしまったのが1994年の春。 
 あまりに突然だったので、対局を「無断欠勤」のような形となり、大騒ぎとなりました。林葉さんはこの時、初代「倉敷藤花位」のタイトルホルダーでもあったこともあり、連盟としても、はいそうですかと簡単に休暇を認めるわけにもいかないのです。
 そうして、何か月かの対局禁止のペナルティの後、林葉さんはこの倉敷藤花戦で対局復帰。
 第2期倉敷藤花戦の挑戦者は清水市代さんでした。
 
 その対局は林葉直子さんが先手となり、“初手6六歩”を指しました。
 結果は清水市代の勝ち。(この内容は別記事part6でお伝えできればと考えています。)


 
 林葉直子さんの振り飛車の将棋を1991年~1992年を中心に『林葉の振飛車』と題してシリーズで書いてきました。
 これを書きつつ、いろいろ調べてみると、この1991年~1992年という年は、将棋の進歩に関して、大変に面白い年であるということを発見するに至りました。
 たとえば、「ゴキゲン中飛車」のオープニングが始まったのが、1991年ですし、この年に藤井猛がプロ棋士になっています。アマ棋界で「立石流」が流行ったのもこの頃ではないかと(憶測ですが)思われます。そして1992年には、「中原囲い」が出現します。
 『林葉の振飛車』シリーズは、あと1回か2回、書く予定でいます。



 『“初手9六歩”の世界
 『林葉の振飛車 part1
 『林葉の振飛車 part2
 『林葉の振飛車 part3
 『林葉の振飛車 part4
 『林葉の振飛車 part5
 『林葉の振飛車 part6
 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 『内藤大山定跡Ⅴ 「筋違い角戦法」の研究
 『鏡花水月 ひろべえの闘い
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林葉の振飛車 part4

2013年07月22日 | しょうぎ
 本日のメニュー。
  (1)林葉直子-清水市代 1992年 女流王将1
  (2)清水市代-林葉直子 1992年 女流王将3
  (3)林葉直子-高群佐知子 1995年

 1992年の女流王将戦三番勝負を中心に。

 林葉直子さんは10期連続で「女流王将位」を保持していました。「女流3強」とされていましたが、将棋の内容の安定感からいえば、中井広恵、清水市代のほうが優れていましたから、林葉直子のこの「10連覇」はまったく奇跡的におもわれました。何か、林葉直子は“強運”を持っている、と。
 そうして次の挑戦者として林葉と対峙したのが、清水市代さんでした。(この時の清水は無冠で、中井広恵が「二冠」でした。)



【林葉直子-清水市代 1992年 女流王将戦第1局】


 先手は振り飛車党の林葉直子なので、後手の清水市代はそのつもりで準備します。
 そこで林葉、「3六歩」。
 これは袖飛車にしようという意図です。


 と、見せかけてこうくる。
 これは「玉のキャスリング」。(キャスリングはチェス用語で「入城」というような意味。)


 オリジナルのアイデアはこれ、1988年「森安秀光-真部一男戦」。「四間飛車」が得意戦法だった森安秀光さんのアイデアで、当時話題になった。森安さんはタイトルを獲ったこともある関西の個性派の棋士で、1993年に突然に亡くなった。
 この3七玉は、こうやって玉を1九へ運び、「穴熊」にするねらい。
 袖飛車にする意味はあるのか。たとえば7八飛などと振って、それをまた3八の袖飛車にするより、一手得している。3八に飛車がいるだけで、後手の駒組みにプレッシャーになっている。


 いま、林葉が2六銀と出たところ。これは後手に2五歩と突かれ、すると3七銀とバックするしかないのだが、これで後手からの2五桂の筋が消え、2四の空間がスキとなっている。
 そこで清水は2三銀。
 対して林葉は、7八飛。 この手順の組み立てが巧みだった。


 清水の9四歩では、3二金としたいところ。しかしそれは、7四歩、同歩、9五角で後手がまずい。
 9四歩に、林葉は、7四歩、同歩を入れて、6五歩。角交換を迫る。
 ここでの「開戦」は、振り飛車としては理想的なタイミング。


 上の図からこの図までの間に、何か林葉にもっと良い手段があったのではと思わせた。仕掛けは良かったが、その後をやりそこなったようだ。
 この図では、林葉が6五桂と跳んだ手に、清水が6九竜と、その桂馬を取るぞ、として林葉の攻めを急がせたところ。
 林葉は、7一角、5二飛、6一角と攻めたが、どうもすでに清水ペースに変わっている。


 飛車角の交換になり、清水が6四角と打って、2六歩と攻める手が厳しい手となった。こうなると仕掛けの前に突かせた「2五歩」が、清水側に有利に働いている。
 清水市代の勝ち。


 女流王将戦は三番勝負。これで清水市代があと1勝すれば、林葉直子が10年保持してきた「女流王将」のタイトルはついに清水の手に渡るという状況です。
 カド番に追い込まれた林葉。



 その第2局は、清水の先手で「相掛り」に。 林葉が、清水の得意戦法である「相掛り」で戦うという選択をしたのでした。
林葉直子-清水市代 1992年 女王将2
 そしてこの将棋、林葉の見事な攻めが炸裂して快勝。



 これで、スコアは1-1となりました。
 たびたび“奇跡の勝利”と呼ばれてきた林葉直子の「女流王将戦」。
 今回もそういう“雰囲気”が出てきました。



【清水市代-林葉直子 1992年 女流王将戦第3局】

 さあ、最終局の第3局。


 林葉直子の(後の呼び名で言うところの)「ゴキゲン中飛車」です。
 しかしこれは通常の「ゴキゲン中飛車オープニング」と少し違います。清水が5手目に2五歩と突かず、「4八銀」としているからです。この「4八銀」そのものはありふれた手でしたが、次の林葉の「5二飛」がこの時点では前例のない手で、つまり“林葉新手”なのです。
 今ではこう指す人もいるのですが、それでも少ない。というのは、「5二飛」には、先手に“5六歩”と突く権利が生じています。だから後手は大体この場合6手目は“5五歩”と突く、林葉以前の例はすべてそうなっていましたし、いまでもほとんどは“5五歩”です。(もちろん田村康介開発の角交換中飛車がありますから、たとえ“5六歩”と先手に突かれてもそれで後手がどうというわけでもありません。)
 この将棋は、先手の清水市代が“5六歩”とせず、6八玉としたので、林葉はそこで5五歩。通常の「5五歩位取りの後手中飛車」となりました。(「ゴキゲン中飛車」のことです。)林葉直子がこれを後手番で用いるのはこれが最初でした。


 清水から開戦。5六歩。同歩ならもちろん2二角成で「オワ」。


 2三角と打って、馬をつくる。


 林葉の自陣角。次に4五桂とするための土台。


 攻める林葉。しかしこれは、攻めが止まったら、そこですぐ“試合終了”となりそうな…。清水がそうやって林葉を焦らせている。
 清水は、2三桂と打つ。 


 7七銀成、同金、3三金、7五金、4四飛、1一桂成、3四角、1五飛、7四歩。


 そして、林葉の7四歩。
 これは林葉直子の“勝負手”だっただろう。7六金などと先手がひるめば、7三桂で後手の攻めに厚みが加わる。9一馬には8二銀がある。
 清水は、7四同金。歩を取る手があった。
 林葉はこれを見落としていた。同飛なら7六香があるのでこの金は取れないのだった。(1五の先手の飛車の利きに注意せよ。)
 これはマズい。ということで林葉、もう一度やり直しということで、7三歩。
 しかし清水市代は甘くなかった。林葉のミスに乗じて、息の根を止めにかかった。
 8三金。 同玉に、8六香。


 これが痛い。先ほどのミスで「歩切れ」になってしまっている。
 林葉は銀で受けたが…


 清水の勝ち。投了図以下は、6二玉、4二竜、同金、6一金、5二玉、5一金まで。


 ついに、“驚異の10連覇”などと呼ばれた林葉直子の「女流王将」の城は、こうして陥落したのでした。
 結果的に、第1局の将棋をうまく勝ちに結び付けられなかったことが、たいへんに悔やまれます。

 けれども、翌年もまた、林葉さんはこの「女流王将」の挑戦者として登場するのでした。



【林葉直子-高群佐知子 1995年】

 前回高群佐知子さんの将棋について書いたので、「林葉vs高群」の将棋を見てみましょう。振り飛車ではないんですが。


 初手から、7六歩、8四歩、5六歩、3四歩、5五歩で始まった将棋。1992年からの林葉さんは振り飛車党からオールラウンダーに変わったので、いろいろな戦型を指しました。この出だしは振り飛車党なら中飛車にするところですが、この将棋は4八銀~5七銀と右銀をくり出します。昔よく指された形。


 林葉は「右四間」に。居飛車系の将棋であっても、だいたい林葉さんは飛車を横に振って使うんですね。林葉直子の将棋を表す駒は「飛車」でしょう。
 そして後手の高群佐知子は「右玉」。 この頃から高群さんは「右玉」を指すようになったようです。4三銀とか、6三銀のような位置の銀が好きなんですね、高群さんは。だから彼女の特徴を表す駒は「銀」でしょうか。
 高群佐知子は林葉直子の3つ下。


 6四銀とガツンとぶつけて戦いに。
 6五桂、6三銀成、同金、4五歩、同歩、3三角成、同桂、2六角、4四銀、4五桂、4八歩、同飛、4七歩、同飛、5六角。 


 ここで林葉、6四歩。同金なら5三銀があります。
 高群は、4五桂。


 戦いながら囲いのリフォームしていくのが高群流。
 次に後手の5六桂のねらいがある。 林葉、5六歩。
 以下、5七桂左成、同銀、同桂成、同金、6五桂、5五歩、5七桂成。


 先手には十分の持ち駒があるので、この瞬間に寄せてしまえば勝てる。逆に、寄せがなければきびしい。
 6五桂、4二玉、3四桂、3三玉、2二銀、2四玉、3六金。


 3六金が詰めろで、3四銀としても3五角、同銀右、同金、同銀、3四金、同玉、3五歩、2四玉、2五銀以下詰み。
 なので高群は2二金。
 林葉は3五金、1三玉に、1五歩。以下、6七銀、8八玉、3四銀、1四歩、1二玉、3四金…


 林葉直子の勝ち。


 この1995年をもって、林葉直子さんは日本将棋連盟を退会しました。




 『“初手9六歩”の世界
 『林葉の振飛車 part1
 『林葉の振飛車 part2
 『林葉の振飛車 part3
 『林葉の振飛車 part4
 『林葉の振飛車 part5
 『林葉の振飛車 part6
 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 『内藤大山定跡Ⅴ 「筋違い角戦法」の研究
 『鏡花水月 ひろべえの闘い

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高群佐知子の4七銀型中飛車

2013年07月19日 | しょうぎ
 左が若き日の塚田泰明で、右が同じく若き日の中村修。『将棋世界』最新号のこの二人の対談のページから。
 そういえば塚田泰明さんはタイトル戦に出ることが決まった時、故塚田正夫元名人の夫人から申し出があって、塚田元名人の使っていた和服を提供してもらったというエピソードがありました。苗字がたまたま同じだというだけで、親戚関係でもないし、また、師匠の筋でも縁はないのですが。塚田泰明の師匠は大内延介。

 塚田さんはなんといっても、このまえの「電王戦」の将棋。“奇跡の引き分け(持将棋)”でしたが、僕の中でのクライマックスは塚田さんが何度も何度も「指さし確認!」で駒の数を数えているシーン。一人で観戦していましたが、思わず声を出して笑いころげました。プロの対局のあんな面白いシーンがリアルタイムで観れるなんて! 想像もしなかったことが目の前で映像として流れていて、まったく“夢のような”出来事でした。
 解説の聞き手役の安食総子さんの、「盤面を広く使っていますねえ。」という名セリフとともに、あの日の対局は、今後も忘れられないであろう濃密な記憶となりました。


 今日はその塚田泰明さんの妻でもあり、女流棋士でもある高群佐知子さんの中飛車の将棋を鑑賞しようと思います。失礼ながら、僕は塚田泰明さんと結婚して高群さんは女流プロを引退したとばかり思い込んでいたのですが(どうやら福崎夫妻と混同してしまっていたようです)、そして高群さんの将棋もまったくどういうものか知らなかったのですが、このところ女流棋士の将棋をよく並べていますので、高群佐知子の将棋にも注目するようになりました。特徴があって面白いんですよ、これが。


 高群佐知子(たかむれさちこ)、1971年生まれ、滝誠一郎門下。

 
中井広恵-高群佐知子 1991年
 まずは「居飛車党」だった時の将棋から。
 20歳の高群佐知子さんはレディースオープントーナメント戦で準優勝。これはその棋戦の対局。
 高群さんは居飛車党だが、矢倉は指さず、当時の得意戦法は「雁木(がんぎ)」だった。一般(男子)プロでこの「雁木」を使う人はいなかった。「雁木」は、女流ではこの高群佐知子と、あとは林葉直子が時々使っていた。林葉さんの「雁木」は袖飛車にして右桂を跳ねて敵を一気に攻め倒す将棋だったが、高群さんはちょっと違う味を持っているようだ。 
 「右四間」に構えていま、後手が4五歩と角道を開けたところ。これは「攻めますよ」という合図にも見えるが、高群さんの場合はそうやって相手の攻めを誘っているのかもしれない。
 先手の中井広恵、4六歩。これで戦いが始まった。
 

 後手高群の飛車の位置を見ていただきたい。これは6三からまわってきたものである。
 「雁木」という形は、囲いとしては美しいが、あまり頑丈ではない。そういう実感があって一般プロ棋士はこれを用いないのだが、高群さんは闘いながら形を整えていくという独特のセンスを持っているようで、囲いのリニューアルが得意なのだ。高群佐知子でなければできない、という感じの不思議な指しまわしをする。
 ここから後手の高群は、角を5三→3五→4六と先手の手に乗ってさばいていくのである。


 高群の勝ち。
 まずは高群さんの相居飛車、「雁木」の将棋を見ていただいた。



清水市代-高群佐知子 1993年
 これは少しばかり変則的な出だし。ここで先手が2五歩とし、後手が3三角となれば、3三同角成、同金となって、これは「阪田流向かい飛車」の出だしである。しかしそう進むとは限らず、先手がすぐに角交換しない場合もある。(現代なら8八角成から「後手一手損角換わり」の可能性も大。)
 2五歩に、後手の高群がどう指す予定だったかはわからない。僕の想像だが、「阪田流」を指すつもりではなかった気がする。
 清水は、「7八金」と指した。
 その手に対し、高群佐知子、「5四歩」。 さらに「2五歩」には、「5二飛」。


 なんと、居飛車党の高群が飛車を5二に振ったのである。
 実はこの局面、実戦例がほとんどない形で、ここでの「5二飛」は高群佐知子の“新手”なのである。
 よく見ると、この局面、「ゴキゲン中飛車」のオープニングに、先手7八金、後手3二金の交換を加えた局面となっている。
 なぜ居飛車党の高群佐知子がこの手をここで指したのか…、不思議な人だ。


 しばらく進んでこうなった。高群、2三歩を打たず、5三飛と飛車を浮いている。
 なんとも面白い将棋を指す。
 図から、3七桂、4三飛、5四歩、3五歩、2六飛、3六歩、同飛、3三飛と進む。


 高群、飛車をぶつける。清水は5六飛とかわす。
 以下、5二歩、5五銀、3四飛、6四銀、8八角成、同金、4二銀、3五歩、2四飛、2五歩と進み、清水は高群の飛車を抑え込み――


 清水市代が勝った。
 序盤から清水ペースの形勢だったようだが、高群佐知子のちょっと変わったセンスが現れていたと思う。



 「中飛車党」の蛸島彰子さんが“初手5六歩”を指し始めたのは1999年ですが、高群佐知子さん、じつは、その蛸島さんよりも早く“初手5六歩”を指しているのです。
 つまり、“初手5六歩”を指した順番でいえば、女流棋士では、林葉直子(1991年)→高群佐知子(1997年)→蛸島彰子(1999年)、というわけ。

高群佐知子-山田久美 1997年 
 1997年。この頃から高群さんは、徐々に「中飛車」を指し始めているようだ。
 ただ、“初手5六歩”は、(20世紀中は)この一局だけかもしれない。


 注目点は、まず、「角道を止めていない」ということ。従来の中飛車は角道を止めていたが、高群はまったく角交換をおそれておらず、むしろそれを待っているかのよう。
 この将棋が指されたのは近藤正和はプロデビュー1年未満の時で、つまり「ゴキゲン中飛車」の愛称も生まれていない時期。この時期に、角道を止めずお互いの角がにらみあったまま駒組みをすすめる――こういうセンスを持っていた振り飛車党の棋士はほとんどいなかった。(1991年頃から武市三郎さんが似た感じで指している。) “初手5六歩”も、近藤正和より早い。
 もう一つの注目点は、「4七銀、3七桂、3八玉」という玉形である。
 少し前の記事『世紀末 田村康介の闘い』の中で、「この玉形では勝ちにくいようだ」と田村が判断したらしいと僕は書いた。たしかにそうなのだが、ところが高群佐知子はこの玉形を上手に使いこなすのである。

 ここで3三角成。高群から角を換えた。


 高群さんは、1996年頃から、相居飛車の時に、「右玉戦法」をよく使っていてそれを得意戦法としていた。
 そういえば元々、「中飛車」と「右玉戦法」とは形がよく似ている。高群さんの中飛車はそういうところから始まったのかもしれない。
 さて、将棋は戦いに突入した。後手の山田久美が、8六飛~7六飛と“横歩”を取った。


 先手高群、7三角~5五角成と馬をつくる。6四角には、5六馬。
 こういうところが、「右玉戦法」でこういう形をよく経験している高群佐知子の感覚の良さが出ている。高群は、この先手の囲いの「弱点」をよくわかっている。ガンガン攻めていくにはちょっと薄すぎるのだ。だから無理に攻めたりせず、闘いながら自陣を厚くしていく。「雁木」の時もそうだが、ちょっと薄い玉を補強しながら戦うのが“高群流”。
 戦いになることを恐れない。うすい玉を恐れない。戦いながら囲っていく中盤が好き、という感じ。


 山田、5七角。
 5五馬、6八角成、5六馬、5五歩、同馬、5七桂成、同金、同馬、4八銀、6七馬、5四桂…
 高群は、これで二枚の「桂馬」を手にした。それを使って2度の「5四桂」から後手陣の金をはがしてゆく。
 こうなると飛車で攻めている高群が有利。


 高群佐知子の勝ち。

 こうして、高群佐知子の“初手5六歩”からの中飛車は成功となりました。
 やっと「ゴキゲン中飛車」が注目されはじめたこの時期に、高群さんがどれくらい中飛車を指していたのかは、確認できる棋譜が少ないのでよくわかりません。
 まだ、この時期は相居飛車からの「右玉」のほうが主流だったのではと思います。



高群佐知子-山田久美 1999年
 1999年の将棋。この図を見ても、高群中飛車が独特であるとわかります。
 5五歩と突かない、角交換もしないけれども6六歩も突かない、8六歩からの後手飛車先歩交換は許容。早く2八玉と囲うということもせず、5九飛。この「おっとり」した感じ。


 でもって、8七歩も打たない。“横歩”を取られることも心配しない。
 できるならこの「一歩」を1筋や2筋の攻めに使いたいと考えているのだ。しかし、攻めるのはまだ早い。2九飛~5七銀が高群調。


 戦いながら、金銀を右に集めていく。
 振り飛車党の中飛車ならなんとか中央突破とか考えるところだが、元々が居飛車党で「右玉」の使い手、桂馬を跳ねて1~3筋を攻めた。


 まあ、この将棋は先手負けなんですけどね。後手山田の「銀冠左美濃」が強力すぎました。



高群佐知子-林まゆみ 2002年
 さて、高群流中飛車の本格的始動はこの頃からか。2002年。もう完全に「中飛車党」です。
 初手は“5六歩”。


 4七銀型が好きなんです。
 こんな形で、攻めていく。4五歩。  (でも、大丈夫?)
 角交換から、お互いに「8二角」、「8八角」と角を敵陣に打ちあう。


 4七成香、同金、5四飛、同馬、6一飛、5一香、6一桂、5八銀…
 林まゆみ、5四飛!
 先手の玉がうすいので、林は「今がチャンス!」と思ったのだろう。5四飛と飛車を切って、5一香から5八銀が期待の攻めだったが、やはりこれは乱暴すぎた。 


 次の3四桂を防ぐ手段が後手にはない。高群勝ち。



高群佐知子-山田久美 2002年
 “初手5六歩”から先手中飛車に。「4七銀、3七桂」が高群好み。


 こうやって陣形をいつのまにか厚くしている。そして玉頭から攻める。


 激烈な玉頭戦に勝利。



 20代の高群佐知子さんはタイトル挑戦の経験がありません。棋戦優勝もありません。
 しかし「あと一歩」のところまで進んだことは何度かあります。
 林葉、清水、中井の「女流3強」時代に、斎田晴子と並んで4、5番手の位置につけていたのが高群佐知子。
 その高群さん、30代になって「中飛車党」となり、「中飛車」という新しい得意手をもって勝ち続け、またタイトル挑戦のチャンスが巡ってきます。


高群佐知子-千葉涼子 2004年
 2004年。倉敷藤花挑戦者決定トーナメント準決勝。
 相手は強敵千葉涼子。千葉はまだこの時はタイトルを獲ったことはなかったが、タイトル挑戦はすでに何度か経験していた。
 一方、タイトル戦の番勝負をまだ経験したことのない高群佐知子――タイトル戦は棋士にとって“憧れの舞台”だろう。
 高群、“初手5六歩”。 (この将棋は「千日手指し直し局」らしい。)


 角交換。“田村流”だ。


 これは“近藤流”。


 角交換中飛車で、この図のように、「7八銀、6八金」型をつくるのが近藤正和考案の工夫。
 後手の千葉は、「玉頭位取り」。


 そして、やっぱり“さっちゃん流”は4七銀、木村美濃なのね~。
 いま、高群の「7一飛」に、「9三角打」と千葉が角を重ねて打ったところ。
 この「9三角打」は良い手に見える。ところがこれが失着かもしれない、という局後の結論。
 高群は「9三角打と打たれても大丈夫」という読みで7一飛と打ったのだ。


 「9三角打」と打てば、ここで3九銀と急いで攻めることになる。次に先手に8四香という手があるので、行くしかないのだ。
 3九銀から清算して――


 5五桂。先手が危なそうだが…、先手高群はどう受けたか。
 5五桂に、3八銀。 続く4七金に4九銀とかわし――
 7九飛打ちには――


 7五角。
 これが「詰めろ逃れの詰めろ」。
 千葉は6四歩としたが、2一銀、2三銀、5六角、3一金、3四銀。
 「詰めろ」で迫る。


 かっこよく高群佐知子が決めた。
 以下、2一玉に、2二金。ここで千葉涼子が投了。2二同玉以下は3手詰。

 さあ、勝った。次だ。 
 次に勝てば、タイトル戦出場だ!

 

高群佐知子-清水市代 2004年
 高群佐知子、倉敷藤花挑戦者決定戦、決勝戦に登場。
 決勝の相手は清水市代。
 ここでも先手番になった高群さんが“初手5六歩”からの先手中飛車に。

 7七銀。先手から銀をぶつけて銀交換。


 今、5七角成と、1三の角を後手が成ったところ。この手で8七飛成とするのは、8八飛で先手ペース。それで清水は角を成った。
 ここからの高群の指し方が彼女らしく、そして、素晴らしい。
 3五歩、同馬、4六銀、2四馬、3五歩、同歩、3六歩、同歩、3五銀、1三馬、3四歩、2二銀、3六銀。


 これぞ高群佐知子の将棋! 戦いで得た二枚の銀で、うすい木村美濃をリフォーム。立派な“高群城”を築きあげた。これは、振り飛車優勢なのでは?


 たしかに、先手の高群が優勢。これに勝ったらタイトル戦初出場だ。対局中、胸が高鳴ったのではないだろうか。
 ここで高群、4五桂。当然こう打ちたくなるが、清水に4四歩、5三桂成、同金と対応されてみると、イマイチだった。
 ここでは3四歩がよかったようだ。


 この図から、3四同銀、4四銀、5二玉、5三銀成、同玉、5五歩、6三玉、5四歩、5二歩、3三角成、3七歩。


 3七同銀、3五歩、4七銀、4五銀、5一馬、6二銀、6一馬、8七飛成。
 図の3七歩を同銀と高群さんは取ったのだが、僕は「同金」と取りたい気がしたがどうだろうか。
 (2五桂があるが、同銀と取って、5五桂が打てる。しかし3七同金は8七飛成がいやか。)


 さすがに清水市代はしぶとい指し方をする。ここで7二金と攻めたいが、それは5一金と打たれて困る。


 そこで高群は8八金。ここに金を打つのでは、形勢はあやしくなった。
 8八金、8五竜、7七桂、5五竜、5八飛。


 高群は5八飛と飛車をぶつける。(これ以外の手段があったのか、なかったのか。『将棋年鑑』の解説はそこに触れていないのでわからない。)
 清水はこれに同竜と応じた。


 清水市代の攻め。


 4六桂は詰めろ。高群の負け。

 悔しい悔しい逆転負け。この将棋に勝っていれば、生涯の自慢の一局となっただろうに。



 さて、21世紀の高群佐知子さんは、「中飛車党」。
 でも中飛車も定跡研究が進んで、さすがに高群さんも4七銀型(後手なら6三銀型)はやめたかな、と思ったのですが――

井道千尋-高群佐知子 2007年
 こんなの、見つけました。 お好きなんですねえ、6三銀型が。


 

 こちらのブログで高群佐知子さんの現在のお姿が拝見できます。→『森信雄の日々あれこれ日記
 (羽生、森内、佐藤、郷田と揃っていて超豪華なメンバーでの滝誠一郎引退慰労会)


 そして塚田夫妻の娘さん恵梨花さんの写真はこちらに→『第7期マイナビ女子オープンチャレンジマッチ
 ほう、女流プロ棋士をめざしていらっしゃるんですね。 ていうか、高群さんにそっくり!



 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 『蛸ちゃん流中飛車
 『蛸ちゃん流中飛車Ⅱ
 『林葉の振飛車 part2
 『“初手9六歩”の世界
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林葉の振飛車 part3

2013年07月16日 | しょうぎ
 本日のメニュー。
  (1)林葉直子-斎田晴子 1991年
  (2)中井広恵-林葉直子 1992年 女流名人3
  (3)林葉直子-中井広恵 1992年 女流名人4
  (4)中井広恵-林葉直子 1992年 女流名人5
  (5)清水市代-林葉直子 1992年 女流王位 挑決     



林葉直子-斎田晴子 1991年
 初手から7六歩、3四歩、5八飛というオープニング。「7六歩、3四歩」という出だしは「6六歩を突かない中飛車」しか指したくないという新しい中飛車党にとってたいへん困る出だし。(だからいま、“初手5六歩”、あるいは“7六歩、3四歩、7五歩の石田流”が流行している。)
 それを敢えて、「5八飛」として、さあ、来なさい、としたのがこの対局。別に林葉直子は中飛車しか指さない棋士でもないのですが。(それに6六歩をつかない振り飛車という考え自体、この当時はほとんどありません。)
 当然、斎田は行きます。それで悪いわけがないから。
 8八角成、同銀、4五角、5六歩。


 一歩損して馬をつくらせるのだから、当然先手がわるくなる。
 けれどもこの1991年春、林葉直子は、清水市代に勝って女流名人に復位して、好調15連勝の斎田挑戦者を女流王将戦で返り討ちにしたばかり。何をやっても勝てそうな勢いは持っていた。
 2七角成、3八金、2六馬、7五歩、2二銀、7七銀、3三銀、5五歩、4二玉、6六銀、6二銀、4六歩。


 で、こんな図に。後手はここから8四歩~8五歩。
 それを林葉は8八飛と受けて、5六に角を打つ。


 7四歩、同歩と歩を突き捨てて(飛車の横利きを遮断した)、2七金。馬を圧迫しようと。林葉さんはこういう「タテの攻め」が得意な人。
 7五歩、同銀、2四飛、2六歩、同馬、同飛、3八銀。 


 歩切れの先手は飛車成りを防げない。林葉は3八銀と受けた。
 “感じ”としては、もう先手勝てそうもない。
 ところが案外、そうでもなかった。


 林葉は、なんと斎田の“竜”を捕獲してしまった。
 図から、2八同竜、同飛、3九角、2六飛。


 こんな手を林葉は用意していた。この2六飛は「詰めろ」なのだ! 後手が2八角成なら、2三角成~4一馬~2一飛成で詰み!
 実戦は、2四歩、1六銀、7五香、2五歩、同歩、同銀、1五銀、4九玉。


 勝ち負けを超越して、こんな面白いやりとりを見れたらもう満足だ、ていう感じ。
 2六銀、3九玉、2七金、8八飛、2八歩、4八玉、2九歩成、5七玉…
 林葉玉は必死で逃げましたが…

投了図
 やっぱり捕まってしまいました、とさ。

 この対局は「女流王位リーグ紅組」のプレーオフで、この対局に勝った斎田晴子は挑戦者決定戦に進みましたが、その対局には敗れ、この年、女流王位中井広恵に挑戦したのは、植村真理さんでした。



中井広恵-林葉直子 1992年 女名人3
 さて、1991年度の女流名人戦(五番勝負)。 年が明け1992年に始まり、林葉直子と挑戦者中井広恵との闘いでしたが、第1、第2局は中井が連勝しました。そのうちの第2局は、林葉直子の“初手5六歩”からの中飛車で、その将棋は前回の『林葉の振飛車part2』でお伝えしました。
 そして第3局。後手林葉の「向かい飛車」で始まった将棋は図のように。
 ここで林葉が6四飛とした手が好手で、振り飛車良し。


 5九飛、5一歩、4六銀、5四飛、5五銀、同角、同飛、同飛、3四角から先手中井は勝負に行ったが、林葉はその後もうまく対応した。


 この単純な桂打ちを先手は受けにくい。6九金とふつうは引くが、6六歩が調子が良い。同歩なら6八歩。
 中井は5五角と攻防の角を打つが、6八桂成、同銀、6九銀で――


 林葉が寄せ形に持っていった。
 図から、6九同銀、同竜、7九金、7八銀、同金、8九竜、8八銀、6九角、7九銀打、5六桂、7七玉、5八金以下、いつもながら林葉の寄せは無駄がない。

 林葉直子が1勝目を挙げた。これで1-2。



林葉直子-中井広恵 1992年 女名人4
 第4局。先手林葉の四間飛車穴熊。 
 ここで林葉、3七桂。
 これは俗に「穴熊のパンツを脱ぐ」などとジョークで言われる手。
 この場合、後手の2五歩2四角という形が良いかたちなので、これで安定されると振り飛車がどうも指しづらい。ということで「3七桂」はこういう場合、非常手段として用いられる形のようだ。
 その後の構想が、「林葉スペシャル」だった。


 1六歩~1七銀、そして――


 2八飛!
 しかもこの場合、これが効いたのだ。
 2筋からの攻めを見せられて、ゆっくりとはしていられなくなった後手は、3五歩、同歩、同角から、1七角成! 目標となりそうな角を捌いた。
 林葉は、角をもらって、その角を「馬」に変えた。林葉、やや優勢。


 ここで中井、5五歩。これは飛車を横に活用できるようにした手。
 そうはさせないと林葉、6四歩。
 しかしどうも、この手はあまりいい手ではなかったようだ。9二馬のほうがよかったかも。
 中井の1筋の端攻めがあった。1五歩、同歩、1六歩、同歩、1七歩、2九玉、1八銀、3八玉、1九銀不成。
 林葉は1七歩に2九玉と逃げたが、ここは強く「同玉」がよかったようだ。


 飛車を取られる形となった。これはたいへん。


 ここはもう、中井が優勢。
 6三香に、先手林葉、3三馬。
 以下、4四歩、2五桂、6七香成、3四桂、同銀、同馬。 さあ、これでどっちが勝ち?


 ここで中井は4三金寄とした。しかしこれが敗着となった。4三金打とすべきで、それで中井広恵の勝ちだった。
 それに対する林葉の「対応」が鋭かった。
 2二銀、同玉、2三銀、同金、4三馬。
 中井は2九銀から林葉玉を追ったが…


 4三の馬がしっかり受けに利いていて、先手の勝ちになっているのだ。

 熱戦を林葉直子が制し、スコアは2-2。タイトルのゆくえは最終局に。



中井広恵-林葉直子 1992年 女名人5
 その最終、第5局。勝った方が「女流二冠」という勝負。
 林葉の四間飛車。そしてやはり穴熊。
 この図の前の後手の手、7二金寄が失着。すかさず中井に8六角とされた。
 今、振り飛車の穴熊はこの後手の林葉のようにおとなしくふつうに穴熊に組んでいては勝てない、とされている。だから今の振り飛車穴熊は早めに6、7筋に攻め味をつくるようになってきている。そうしないと勝てないとわかってきたのだ。
 この当時はまだ、そういうことがはっきりしていなかった。
 もうここは振り飛車、なかなか勝てない形になってしまっているのだ。その後も後手の手損などのミスもあって、先手の中井が十分の形となり、そして、攻め――


 そのまま中井広恵の勝ち。

 中井広恵、女流名人に返り咲いた。


 このシリーズ、林葉直子は“初手5六歩”の変則中飛車もあったが、すべて振り飛車で戦った。スコアは2-3だから、好勝負だったといえるが、しかし林葉直子の感触としては全体的に振り飛車が息苦しい感じだったかもしれない。
 実際、この時期は、将棋界全体の傾向として振り飛車が苦戦しており、その結果、振り飛車を指す棋士が減少傾向にあったのでした。猛威を振るっていたのが居飛車の「左美濃」でした。その上に「居飛車穴熊」という“奥の手”もあったわけです。これはかなわん、ということで、振り飛車をやめる棋士が増えていたのです。(「藤井システム」の藤井猛はこの前年1991年にプロデビュー。)
 女流棋士はもともと振り飛車党が多いのですが、そういう人を相手とする場合、林葉直子は居飛車で指す。それはまったく問題なし。ですが、この当時の林葉直子にとっての強敵は、中井広恵であり、清水市代でした。二人とも純粋居飛車党。そうなると番勝負でも林葉さんがいつも「振り飛車」ということになるのですが、この強い相手に対し「振り飛車」で何番も戦うことがしんどい、そういう感触だったのではないでしょうか。

 この女流名人戦五番勝負に敗れた後、林葉直子は、なんでも指しこなすオールラウンダーに変身していきます。「相掛り」をよく指すようになったのがこの1992年です。



清水市代-林葉直子 1992年
 といっても、振り飛車を見限ったわけではない。
 この対局は女流王位戦の挑戦者決定戦。後手林葉の「向かい飛車」。
 いま、先手の清水が3五歩と突き捨てて、3八飛としたところ。次に3五飛~3四歩を狙っているので、林葉はそれを消して2四飛。落ち着いています。


 先手の金銀四枚の穴熊が堅いので、感じとしては、攻めの糸口さえつかめば、というところ。
 清水市代が8六角から、6五歩~3一馬と角を敵陣で成りこんだ。
 そこで林葉直子の「4四角」が素晴らしい応手。これで清水は攻める手段がおもったほどにはなく、困ったのである。後手からは2七歩成の確実な攻めがあるから、先手も攻めないといけないのに。
 だから3一角と成る前に、3五飛と飛車角交換しておくべきだった、と清水は悔やんだが、もうおそい。
 好調時の林葉直子は渋い手も指すのである。というか、相手の気持ちがよく読めている。


 6四歩がまたまた好手。先手のねらい筋を丁寧に消す。


 林葉は飛車を成りこみ、香車を取って、6六香。
 6五銀、同桂、6六飛、同角、6八香、4八角成、3三馬、3七馬、8六桂、5七桂不成。


 先手の堅い穴熊を見れば、まだまだ先手もやれそうにも見える。
 しかし林葉の、図の5七桂不成が的確な寄せ。


 なんとか勝負形にと、清水市代は局面を「泥沼化」させていく。さあ、飛車を取れば後手玉は7一飛で詰む。
 4八同馬、同馬、7九成桂、5九馬、7八成桂、9三角、4二金。


 林葉は、4二金で、逃げ道を開ける。先手には飛車しかないのだから、相手の手を読みやすい。


 林葉直子の勝ち。完勝と言ってよい内容だった。

 
 こうして林葉直子さんは王位戦の挑戦者となりましたが、その五番勝負は0-3で中井広恵に敗れています。
 いや、その前に10連覇を続けてきた「女流王将」の座を清水市代に奪われています。(1-2)
 ということで、1992年、林葉直子は「無冠」となりました。
 この時代の“振り飛車のもがき苦しむさま”が、林葉さんの将棋に現れているようでもあります。 



 『“初手9六歩”の世界
 『林葉の振飛車 part1
 『林葉の振飛車 part2
 『林葉の振飛車 part3
 『林葉の振飛車 part4
 『林葉の振飛車 part5
 『林葉の振飛車 part6
 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 『内藤大山定跡Ⅴ 「筋違い角戦法」の研究
 『鏡花水月 ひろべえの闘い

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蛸ちゃん流中飛車Ⅱ

2013年07月13日 | しょうぎ
 今日は、2000年と2001年の蛸島彰子の中飛車の将棋を鑑賞します。


【2000年】

 まず、快進撃だった、倉敷藤花戦。

蛸島彰子-石橋幸緒 2000年
 蛸島さんは1999年から“初手5六歩”を愛用しています。


 先手番の時は“田村康介流”の角交換。2二角成!
 (このあたりのことは前回記事『世紀末 田村康介の闘い』参照)


 先手は4七角と打って、9筋に味をつけて7五歩と指し、対して後手は飛車を捌いてきた。
 5七金、4七飛成、同銀、4五角、7四飛、8九角成、7三飛成、8八馬、5三歩、同銀、9一飛…
 飛車を切って4五角が後手石橋の狙いだった。後手は駒得となったが、先手は二枚飛車で攻める。


 銀を放り込む。石橋は、7三銀打と防戦。
 以下、4二銀成、同玉、4三歩。


 この「4三歩」という攻めが蛸島さんは得意なんですな。これが出るとだいたい蛸島優勢。前の図で5三銀と放り込む数手前に、「4四歩」と歩を合わせた手があるのですが、それがここで生きているわけです。

投了図
 蛸島彰子の勝ち。蛸島中飛車、まずは石橋幸緒を撃破。


蛸島彰子-中井広恵 2000年
 倉敷藤花戦、挑戦者決定トーナメントの準決勝。中井広恵と当たりました。
 この将棋ももちろん“初手5六歩”から始まり、“2二角成”と振り飛車からの角交換。迷いなし。
 先手が馬をつくって、後手の中井が5六角と角を合わせ、それに5八馬と蛸島が馬を引いたところ。
 ここからお互いに自陣を引き締めつつ、攻めをうかがう。


 いよいよ本格的に決戦。
 後手の中井は角が負担になっている。だから4七角成と切ったが…


 蛸島の「4三歩」。
 同玉に、8三飛成、5三歩、6四銀、4五飛、6三竜、3二玉、4三歩。


 またも、「4三歩」。
 中井は4一金とかわしたが、5三銀成、2二玉、6二竜、3二金打に、6三角。
 この6三角が、飛金両取り。


 蛸島彰子の快勝。


 石橋、中井と破って、ついに倉敷藤花、決勝へ。
 これに勝利すれば、54歳の蛸島彰子が久々のタイトル戦への出場となる。


矢内理絵子-蛸島彰子 2000年
 倉敷藤花挑戦者決定戦、蛸島彰子の相手は矢内理絵子。
 蛸島は後手番「ゴキゲン中飛車」での秘策を用意していた!



 それがこの6五金! どうよ! このやる気満々な感じ。 


 金と銀との交換になった。
 蛸島は飛車を浮いて玉頭に展開。矢内は「厚み」で勝負。


 蛸島は7六銀と打って、「玉頭」に張り付く!


 勝負は先手が勝ちになった。矢内理絵子は8四銀から後手玉を即詰みに打ち取った。


 残念!! 蛸島彰子、タイトル戦出場ならず。
 もし出たら1983年度の女流名人戦以来のことだった。
 しかし蛸島さん、この翌年2001年もまた倉敷藤花戦の挑戦者決定戦に昇ってくるのである。


 ところで、蛸島さんがここで用いた中飛車の「棒金」戦法は蛸島さんのオリジナルだろうか。

村中秀史-島本亮 2005年
 これは、2005~2006年頃に若手で研究された中飛車の金上がり。当時の村山慈明さんの本に最新の手として載っている。島本亮さんが最初に指したようだが、2005年だから、これは蛸島さんよりずっと後。(金上がりの意味は違う。)

達正光-小倉久史 1992年
 調べてみると、わかりました。蛸ちゃん流中飛車「棒金」のオリジナルは、1992年の「達正光-小倉久史戦」。小倉さんのアイデアでした。
 しかし上の島本さんの「金上がり」もいつのまにか消えて行ったみたいですし、こういう金がグイグイ出ていく手というのは“昭和”という感じですね。木村・升田・大山・丸田の時代の手というイメージです。
 小倉久史の金は1992年だから「平成」ですけれども。



 さて次は「斎田晴子-蛸島彰子戦」

斎田晴子-蛸島彰子 2000年
 3手目7七角は、プロでもたまにだが今では現れる。しかしこの時には一般(男子)プロ棋士でこれを指した人はまだいなかった。アマチュア界で流行っていた手だ。女流では1994年に横山澄恵さんが最初に指した。女流の将棋が面白いのは、こういう、男子プロには現れない手、現れにくい型がよく出現するということもある。


 なんと蛸島も、3三角。
 このオープニングは実はアマの将棋ではすでに出ている。蛸島さんはそれを知っていたのだろう。ほんと、勉強家だと思う。
 この7七角、3三角というのは、お互いに振り飛車党で、「相振り飛車」も指しますよ、という者同士が、お互いに「先に角道を止めるのはイヤ」ということで、こうなる。
 「藤井システム」のおかげで振り飛車党がプロ・アマ両方で増え、その結果、この2000年頃から段々と「相振り飛車」が増えてきたと思う。
 ただしこの二人だけは昔から「私は振り飛車を譲りませんよ」という頑固なタイプ。
 斎田さんの得意戦法は「四間飛車」。蛸島さんは「中飛車」。


 おお、同形の「相中飛車」に。
 意地でも角道は止めません、ということで斎田晴子はここで8六歩としたが、これはスキをつくって失敗だった。すかさず蛸島は角交換。


 これで馬をつくって後手優勢に。


 しかし先手斎田も頑張った。端攻めから開戦し、桂馬を入手して、図の7六桂。
 これがなかなかの手だった。盛り返してきた。


 そしてこの6五角が良い手に見える。ところがそうでもなかった。ここは9九香として先手が良かった。
 5三馬、9八香、8六桂。


 8六桂が斎田の見落としていた手で、これで斎田が苦しい。
 斎田晴子、これを同飛車(!)と取る。
 以下、8六同馬、8四桂、8一玉、9三桂成、8四歩、8二桂成、同玉、8三歩、7二玉、4三角成…


 こうなった。後手危ないように見えるが、しかし冷静に見れば、先手の持ち駒は「銀歩」しかなく、ここでは完全に後手が良い。


 蛸島玉は4三まで逃げて、そして蛸島、攻める。4筋の歩が利くので、この攻めは、先手受け切れない。
 5六銀、同歩、4一竜から斎田は反撃したが…


 3四玉で後手玉は安全。蛸島彰子の勝ち。


 斎田晴子はこの半年後、「四間飛車」でついに「女流名人」のタイトルをつかむ。
 そして彼女は、2002年、その「ミス四間飛車」の看板を下ろして、「中飛車党」に転身するのである。
 こうしてみると、斎田さんの中飛車への転向はずいぶんと早い。(久保利明は2006年です。) なにがきっかけだったんでしょうか。



 次は対高群佐知子(たかむれさちこ)戦。

 蛸島彰子-高群佐知子 2000年
 やっぱり“初手5八飛”も指す。 (『蛸ちゃん流中飛車』参照)

 
 やっぱり、“田村流”。 タコジマ定食。 


 筋違いの自陣角。


 後手の飛車を封じ込め、馬をつくって、先手いい感じにみえる。
 しかし――7七とから――


 6八角。これがあった。
 しかしもちろんプロだからこれくらいは前から読んでいる。飛車を取らせて戦うつもりである。


 いま、7五から馬を4八に引いたところ。7五にいると「7四香」を喰らうから。
 しかし高群佐知子、それでもやはり「7四香」。先手は歩が使えない。
 なので蛸島、7五桂。


 高群は、6六桂。強引に馬筋を止める。
 同歩、7五香となって、以下、高群の攻めがひたひたと迫ってきた。


 蛸島に攻めのターンが来た。3五桂。4三の地点を攻めるのがタコジマ攻め。
 3五同金、同馬、7九竜、6一角、5一飛、6二馬。


 6二馬は攻めをあせった。
 6一飛、同馬、6七成香と高群が「角金桂」を持った時、先手玉に詰みが生じているからだ。
 蛸島は3五桂――
 
投了図
 3九竜から高群佐知子、先手玉をきれいに即詰に。


 高群佐知子さんも今はもう立派な「中飛車党」になっておられます。それまでは居飛車党なのですが。
 実は蛸島さんに続いて2002年から、女流二人目の“初手5六歩”の中飛車の使い手になったのが高群さんなのです。塚田泰明の嫁さんです。




 この写真は、『将棋世界』に載っていた田丸昇撮影のもの。蛸島さんが30歳くらいのときだと思います。




【2001年】

蛸島彰子-矢内理絵子 2001年
 この将棋も、“初手5六歩”の棋譜。
 ゴキゲン系の中飛車で、飛車を飛び出した時、図のように角を打たれることはよくあること。それを承知で飛び出しているわけだけど、居飛車の方もこれで有利になると思っている。さあ、どうなるか。
 5五飛、2七角成、2五飛、5四馬、2四歩。


 2四同歩なら、同飛で先手が良くなる。(2三角と3四飛~5四飛の狙いがある)
 2二銀、2三歩成、同銀、2四歩、1四銀、2三角、3二玉、1四角成。


 こうなって、以下、先手はと金を竜をつくって敵陣を荒らす。
 部分的には先手良しだが、将棋はそう簡単ではない。
 5六歩と垂らされると、相当に先手も危ない。


 攻め手の足らない先手蛸島は8八の銀を7七~6六と活用。好判断だった。
 以下激しく攻め合って――


 いま、後手矢内の2五竜の王手に、先手蛸島が「3五飛」(!)と合い駒をしたところ。なぜ、飛車合いなのか?
 「角金」の持ち駒で後手玉は仕留められるからである。3五同歩と後手が飛車を取れば、その瞬間、7二角から後手玉を詰めて蛸島の勝ちとなる。
 矢内はそれを読んで、3三桂。5六玉に、3五竜。
 これは王手ではない。ここで蛸島に手番が渡った。後手玉を詰めれば蛸島の勝ち!
 7二角、8四玉、8三角成、8五玉、8六歩、7六玉、7七金、7五玉。


 なんと「打ち歩禁」の形。これが“4五玉”の位置だったら、7六歩、6五玉、6六金で詰みだったのに。
 これを読んでの矢内の「3三桂」だったのだ。さすがの矢内理絵子である。(3三桂を同成銀ならどうなるのだろうか。よくわからない。)
 蛸島はここで3五銀と竜を取る。矢内は5七金。 

投了図
 そして即詰に。

 熱戦でした。これだけの将棋が指せたなら、「将棋を指した!」という充実感があるでしょうね。うらやましい。



 さて次は2001年の倉敷藤花戦挑戦者決定戦の一局。
 中飛車の蛸島彰子、2年連続で挑決戦に登場です。対戦相手は中井広恵。

蛸島彰子-中井広恵 2001年
 これまた、“初手5六歩”で始まった蛸島彰子の中飛車の将棋。
 5四飛~3四飛と、横歩を取った。元気だなあ。
 4四歩、5四歩、同銀、4四角、同角、同飛、4三金、4六飛、5五角とすすむ。


 55歳の蛸島さんが2年連続での「挑決戦」、このことを見ても、「中飛車」の勢いがわかるというもの。この時期、“初手5六歩”からの中飛車党は、女流では蛸島彰子ただ一人でしたが。
 図から、7七桂、4六角、同歩、4四歩、3八玉、3二玉以下、いったん局面は落ち着いて、駒組みへ。
 しかし後手に飛車を持たれているので、先手は駒組みがむつかしい。

 
 このように二枚の角と端攻めで、蛸島はなんとか攻めをつくった。


 が、こうなってみると、先手は勝てない将棋。
 馬が質駒となり、次に7七歩から攻められると先手陣は弱い。飛車打ちもある。かといってそれを受ける方法もない。
 この将棋は中井の完勝。またも蛸島、タイトル戦出場の夢、かなわず。

 なお、この後中井広恵さんは絶好調モードに入り、「倉敷藤花」、「女流名人」、「女流王将」と半年の間に次々とタイトルを手中におさめ、女流三冠となっています。
  



 さて、“蛸ちゃん流中飛車”、いかがだったでしょうか。今回紹介した将棋はうまくいった将棋ばかりではなかったですが、それでも蛸島さんの生き生きした中飛車の躍動感は感じ取れたのではないでしょうか。


 この時にはまだ蛸島彰子一人だった女流の“初手5六歩中飛車党”は、2002年には高群佐知子、斎田晴子が加わり、その後も2003年上川香織(松尾香織)、2004年石橋幸緒と年々増員していったのでありました。
 現在は10人を超えています。(→『“初手5六歩”の系譜』)


 
 『蛸ちゃん流中飛車
 『世紀末 田村康介の闘い
 『林葉の振飛車 part2
 『高群佐知子の4七銀型中飛車
 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 
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世紀末 田村康介の闘い

2013年07月10日 | しょうぎ

 田村康介(たむらこうすけ)、大内延介門下、1976年生まれ。

 初手から、「7六歩、3四歩、2六歩、5四歩、2五歩、5二飛」。
 「ゴキゲン中飛車」のこのオープニングが初めて指されたのは、意外かもしれないが、1991年のことである。わずか20数年の歴史である。それ以前には、どうやら1例もないように思われる。

郷田真隆-田村康介 1996年
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5二飛(図) ▲7八金
  6手目の「5二飛」のところで、「5五歩」とするのが昔からの指し方で、これは200年の歴史がある。それを変えて、「5二飛」とした。
 最初にその新手「5二飛」を指したのは、富沢キックでおなじみの富沢幹雄(青野九段の発言によると、富沢さんは“あらゆる戦法で新手を指している人”なのだそうだ)、それにすぐ続いたのが木下浩一である。(木下さんの師匠は、1950年代、「ツノ銀中飛車」で一世を風靡した松田茂役。)
 ここが、「ゴキゲン中飛車」の一つの出発点という見かたができる。
 (1991年は、林葉直子の初手5六歩、蛸島彰子の初手5八飛の年でもある。)

 さてこの「ゴキゲン中飛車オープニング」、以前の旧式の「6手目5五歩」との違いは、“この一瞬、先手から「角交換」をするチャンスが生じている”というところかと思われる。次にたとえば4八銀、5五歩という2手が交換された後では、角交換はできなくなる。
 だからこの図で、つまり7手目に「2二角成」としてしまえ、というのが、「6手目5二飛をとがめてやろう」というプロらしい意識もあって、一つの有力な指し方としてすぐに試行された。あとで「丸山ワクチン」などと呼ばれるようになった戦術である。後に名人にもなった丸山忠久が1997年以後よくこれを用いていたために、シャレでこう呼ばれるようになったのだが、最初に指した棋士は、西川親子棋士の父のほう、西川慶二である。それは1992年のこと。
 つまりこの6手のオープニングは、「角交換」の要素を最初から含んでいるのである。


△8八角成
 1996年の「郷田真隆-田村康介戦」を見ていく。これはNHK杯の1回戦の対局だが、ふりかえってみると、将棋史の上で、重要な内容を含んでいる将棋であった。
 まず、この図での7手目「7八金」が郷田真隆の新手である。この手は、次に2四歩からの歩交換をしてその持ち歩を使って局面をリードしたい、という意図を持った手である。
 そして、その次の一手が“田村流”。


▲8八同銀 △2二銀 ▲4八銀 △3三銀 ▲4六歩 △6二玉 ▲6八玉 △7二玉
▲4七銀 △6二銀 ▲5八金 △7四歩 ▲9六歩 △9四歩 ▲8六歩 △6四歩
▲8七銀 △6三銀 ▲3六歩 △6二金 ▲3七桂 △5一飛 ▲6六歩 △3二金
▲1六歩 △7三桂 ▲2九飛 △4四銀
 
 これは1996年6月の対局。「羽生七冠王」が存在し、さらにあと1勝で「清水女流四冠王」が誕生しようとしている、将棋界にとって特殊な時期であった。
 のちに将棋戦術の超巨大台風となる「ゴキゲン中飛車旋風」の中心点近藤正和その人はまだ奨励会員三段である。

 
 ここで田村康介は「8八角成」と角交換!

 先手から角交換はどうかと考えられていた時代に、田村は、「振り飛車からの角交換」を選択したのである。
 1996年のこの時点で、「振り飛車は角交換するのがイケてる」と気づいている人間は、この時はまず、いなかった。だからこの将棋を見た人も、「田村康介は変わった将棋を指すやつだ」くらいの感想だっただろう。
 まだ「ゴキゲン中飛車」も、「丸山ワクチン」も、そういう名前さえ存在していないその時期に、田村康介は「21世紀の振り飛車」をただ一人、理解していたようでもある。
 いや、もしかすると田村も、そこまで深く考えて「8八角成」をここで選択したのではないかもしれない。角交換して、2二銀とすれば、先手からの2四歩は拒否できる。同歩、同飛となれば、3五角があるから。
 だから田村康介の「8八角成」は、このときに偶然見つけた“未来の欠片”だったかもしれない。


▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △3五歩 ▲同歩 △5五銀
 後手は「5五歩」を突きたくなる。けれども、「角交換した場合、それは突かないほうが良い」と田村はすでに知っていた。「振り飛車側から角交換して5四歩型で指す」ということを、1996年、近藤正和のプロデビュー前から、すでに理解していたのだ。これが“田村流”。
 田村のこの思想は、一般の棋士の5年以上先を進んでいたのだろう。だからだれもこの時には、その正しさを知ることも、考えることもなかった。
 (注目されたのは“郷田新手7八金”のほうだった。これは居飛車側をもって指す多くの棋士が真似た。)


▲3四歩 △3六歩 ▲同銀 △4六銀 ▲4五桂 △5五角
 この図のように、「5五銀」と進むことができるのが、5五歩保留の効果。


▲3三歩成 △同桂 ▲同桂成 △同角 ▲3四飛 △4二桂
 田村の5五角は攻防の手。郷田は3三歩成から攻める。


▲3三飛成 △同金 ▲4五桂 △3四金 ▲4四歩 △同歩 ▲4三歩
 このままでは後手は角が使えないから、4二桂と打つ。
 郷田は3三飛成。飛車を切る。


△2一飛 ▲2五歩 △4五金 ▲同銀 △2五飛 ▲4二歩成 △4五歩
▲5一角 △2九飛成 ▲4四角 △6九飛

 先手はと金をつくり、後手は2一飛から飛車を敵陣に成りこんだ。


▲7七玉 △7一銀 ▲8五桂
 後手は二枚飛車と、「銀桂」の持ち駒。攻め駒は足りているようだが…しかし銀を一枚受けに投入。


△8五同桂 ▲同歩 △5五銀 ▲6二角上成 △同銀 ▲8二金 △同玉
▲6二角成 △6六銀 ▲8六玉 △7五角 ▲同歩 △同銀 ▲9七玉 △8六金
▲同銀 △同銀 ▲同玉 △8九飛成 ▲8七銀 △7五銀 ▲9七玉 △8七龍 
▲同金 △9九龍 ▲9八金


 郷田の8五桂が好手。放っておけば後手玉は寄り。8五同桂と取れば、同歩と取っておいて、8六に逃げる場所が確保されて、同時に7三に空間ができて先手は攻めやすくなる。(しかし8五桂に8一桂ならどうするのだろう?)
 田村は5五銀から攻め合い。

投了図
まで101手で郷田の勝ち
 9八金で受け切って勝ち、というのが投了図。

 郷田は強かった。さすがタイトル経験者である。
 しかし、仕掛けの内容は、田村としてもわるくない感触だったのではないだろうか。
 ただ、玉型がわるかった。そのことにまだ、ここでは田村は気づいていなかったらしい。

 
 この年の10月、近藤正和は「奨励会三段リーグ」の長いトンネルをやっと抜けて、プロ棋士四段となった。



田村康介-郷田真隆 1997年
 一年後の、またもこれは郷田真隆との対戦。
 田村康介、“初手5八飛”!


 「2二角成」! これが田村康介の将棋だ!


 「6六銀7七桂型」をつくり、5五歩と歩を合わせていく。5五飛~8五飛がねらいだ。


 ここからは力の勝負。


 嗚呼!!
 5七角打で受けがない。3九角打がある。それを4九金と防げば、7九角成でいけない。
 
 またしても田村康介の角交換中飛車は郷田に敗れた…。



田村康介-大野八一雄 1997年
 上の郷田戦から三週間後、大野八一雄戦。
 今度は田村、“初手5六歩”!

 前局では“初手5八飛”、そして次は“初手5六歩”。この手に何の意味があるのだろう。田村康介はべつに中飛車党でもなく、何でも指すタイプの棋士だ。中飛車は一年に数局指すだけ。ならば初手の5八飛や5六歩に必然性はないだろう。
 それでも、このような“初手”を見せた田村の意図は何か?
 想像でしかないが、要するに「気合い」だろう。この戦法の、「2二角成」への思い入れがここに表現されていると筆者はみる。


 やはり、「2二角成」。


 この先手の陣形、「4七銀、3七桂型」は破壊力がある。かつて松田茂役が暴れた「ツノ銀中飛車」が流行ったのも、その攻撃力である。(木村義雄名人の「不敗の陣」もそうでした。

投了図
 攻め倒して、田村の勝ち。
 ついに田村は、中飛車からの「角交換」で結果を一つ出した。



羽生善治-田村康介 1997年
 さあ、次は羽生善治。相手が強いから通用しない、ではいけない。優秀な戦法であることを証明するためにも、勝たねば。
 後手番の田村、「8八角成」。


 やはり5五歩としないのが田村流。
 

 田村は、4四銀と出て、6五歩、同歩、3五歩と攻めた。


 ああしかし、もういけない。
 羽生善治の勝ち。


 どうも結果を出せない田村流角交換中飛車。
 この翌年に指した中座真戦でも、田村の「角交換中飛車」は敗れています。

 勝てない。 なぜなのか。
 どうやら(後手番での)7二玉のこの陣形がわるいようだと、田村はその後思い至ったらしい。この羽生戦も、3五角として6二金をはがす手を狙われるともう受けが難しくなった。いい感じで攻め始めても、結局やられてしまう。どうも粘りが利かないのだ。
 「角交換」の戦術がわるいのではない、玉の囲いがわるいのだ。

 しかし結果が出ていない戦法を指し続けるというのは、プロにとっては勇気のいることでしょう。1998年~1999年、田村康介はこの中飛車をあまり採用していないようです。
 


蛸島彰子-谷川治恵 1999年

 1999年、蛸島彰子が田村流「2二角成」を指しました! (これは前回記事で紹介した将棋。)
 この将棋を田村康介が知っていたかどうか、それはわかりませんが、僕には蛸島さんのこの将棋は、田村康介にエールを送っているように感じてしまうんですよね。まあ、脳内ファンタジーですが。
 それは“勝手読み”としても、「蛸島-谷川戦」の「2二角成」の局面は、1997年「田村康介-郷田真隆戦」とほぼ一致。蛸島さんが田村康介の棋譜を調べたうえで、その手を採用したことは間違いのないことでしょう。
 田村康介が“蛸島流5八飛”を指し、蛸島彰子が“田村流2二角成”を指す。なんだか“わかりあっている二人”みたいじゃないですか。


田村康介-清水市代 2000年
 2000年、田村は再び、「角交換中飛車」を指し始めます。


 清水の3五銀に、田村が4七角と打ったところ。
 7四歩、3六歩、4六銀、6九角。これで田村は清水の銀を捕獲した。
 以下、攻め合いに突入。

投了図
 田村康介の勝ち。



田村康介-米長邦雄 2000年
 やはりここでも“5六歩”。


 そして「2二角成」。
 おそらく後手米長さんは、振り飛車からのこの早い段階の角交換は、「居飛車穴熊に組ませない」ためと判断したのではないか。


 そうなると米長、「それなら、無理やりにでも居飛車穴熊にしてあげよう」と、銀を3三~2二として穴熊に。おもしろい。

投了図
 勝負は、田村の勝ち。



田村康介-中原誠 2001年
 これは2001年、つまり時代は21世に入った。
 角を露骨に5三に打ち込んで――

投了図
 田村の勝ち。


中座真-田村康介 2001年
 2001年。“田村流”はここでさらに進化した。
 「角交換」も、「5五歩」も、「3二金」もすべて含みに残したまま、「6二玉」!


 (この後のことは過去記事『升田式、米長式、田村式』『田村式』で触れています。)




 ところで、田村康介以前に「角交換中飛車」の発想はなかったのでしょうか?

佐藤大五郎-桐谷広人 1985年
 実はありました。80年代には先手中飛車で佐藤大五郎が時々このように角交換を。

武市三郎-丸山忠久 1991年
 またやはり先手中飛車ですが、1991年~1993年に武市三郎が角交換をして、6七歩型で指す中飛車をよく採用しています。その採用具合から、武市さんがこの戦法を気に入っていたことが想像できますが、しかし、勝率はよくなかったようです。
 ですが図の丸山忠久戦、この将棋は武市さんの指し手がはまって武市三郎の勝利。この対局はC2級の順位戦。丸山はこれが順位戦参加2年目でしたが、この期は9勝1敗でC1級に昇級、つまり唯一喫した黒星がこの武市三郎戦なのでした。



 田村、蛸島に続いて、近藤正和も2000年から“田村流”の角交換を使うようになります。

 その近藤正和の「ゴキゲン中飛車」の人気とそのネームの知名度の中に、“田村流”の角交換中飛車もやがて吸収されていきましたが、田村康介個人のもたらした「振り飛車の角交換革命」は、将棋技術史上重大な意味を持っています。
 振り飛車にとって“角交換は怖くない”どころか、“逆におもしろい”と振り飛車党が考えるようになった、そのきっかけが“田村康介”であったと思います。
 近藤のゴキゲン中飛車は本来は「後手番で5五歩とする中飛車」であったはず。後手番ならばおおよそ「5五歩」の位は取れるので、それで後手番の戦法とされるのだが、これが先手の場合だと、後手居飛車側が5四歩と「位取り拒否」をするとゴキゲン中飛車にならない。だから先手番で中飛車を指す価値は、(中飛車にこだわる近藤さんは別として)「ゴキゲン」を気に入った振り飛車党であっても、それほどなかった。

 ところが、蛸島彰子は、“田村康介流”に気がついた。これは面白い、これなら、先手番でも(つまり5五歩と位を取れなくても)おもしろい中飛車が指せる。

 蛸島彰子が、“初手5八飛”や、“初手5六歩”をこの頃に多用し始めたのは、そういうことだと僕は思います。50歳の年齢を超えていた初代女流名人の蛸島さんが、21世紀将棋の最先端を歩いていたという、面白い事実。



 なお、富沢幹雄さんがまだだれも指したことのなかった「ゴキゲン中飛車オープンング」(1991年3月井上慶太戦)の将棋を指した時、その年齢は70歳でした。



 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 『蛸ちゃん流中飛車
 『蛸ちゃん流中飛車Ⅱ
 『林葉の振飛車 part2
 『高群佐知子の4七銀型中飛車
 『“初手9六歩”の世界
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蛸ちゃん流中飛車

2013年07月07日 | しょうぎ
蛸島彰子-船戸陽子 1991年


 今知ったんですけど、ファッションモデルの「エビちゃん」の蛯原友里さん、これ、本名じゃないんですね。なんか、ちょっとだ、だまされた感。

 今日は「蛸ちゃん」の話です。


【1991年 蛸島彰子-船戸陽子】

 蛸島彰子(たこじまあきこ)、1946年生まれ、高柳敏夫門下、史上初の女流棋士、初代女流名人。

 蛸島彰子さんが、“初手5八飛”を指したのは1991年7月の対局でした。(上図)

 この年の2月に、まず林葉直子が女流名人戦で“初手3六歩”、“初手5六歩”を指して「女流名人」を4年ぶりに奪還、同じ月に先崎学が“初手5六歩”からの「5五歩位取り先手中飛車」を使い、NHK杯準決勝で羽生善治を撃破しました。先崎はその勢いでNHK杯優勝を勝ち取り、林葉は続いて女流王将戦でも“初手5六歩”を披露して15連勝と勢いに乗っていた挑戦者斎田晴子を退けて「女流王将V10」を達成したのでした。

 そういう流れの中で、蛸島さんが“初手5八飛”という、プロ棋士が誰も指したことのない手を指していたのです。

 初代の女流名人、蛸島彰子はこの時45歳。この年は蛸島さんの絶好調の年となりました。名人戦のB級リーグを13戦全勝、王将戦のB級リーグも11勝2敗という抜群の成績で両リーグでのA級昇級を果たしたのでした。



 相手の船戸陽子(ふなとようこ)さんは、この時、プロ入り4年目の17歳。
 蛸島さんはデビュー当時から「中飛車」が得意戦法。だから先手でも後手でも「中飛車」を指したい。それなら、“初手5八飛”でいいじゃないか。この手を指すのに、蛸島彰子ほどふさわしい人はいないでしょう。
 「5五歩位取り中飛車」から先手蛸島さんが仕掛けました。


 先手の陣形が乱れています。△4六銀の角取りを放置したまま、蛸島は7五飛。
 4六銀、同銀、7四歩、7九飛、4八金。 


 4八同金、6七飛成と、蛸島は後手船戸の飛車成りを許しました。しかし5八金打、5七銀打と守備を補強して、船戸の竜を追い返します。


 飛車を3九にまわして、2五銀と打ち、蛸島は3筋から攻める。


 7八歩と打って、後手の馬の働きを止めているのが大きい。
 好調蛸島は1七桂から攻め続ける。

 1三桂、5四歩、3五銀、5三歩成、同金、5四歩、同金、3五飛。


 3五同歩なら、3四銀と攻めようということだろう。それは持たない、と船戸はこの飛車を取れず。
 4五金、3四飛、2三銀、から防戦。


 この攻防は、後手の玉頭を攻め続けた先手蛸島の勝ち。

 蛸島彰子、“初手5八飛”からの「5五歩中飛車」で快勝。



【1995年 横山澄恵-蛸島彰子】

 1995年の将棋界の話題といえば、羽生善治です。この年の3月に「あと一歩で7冠王」のところまで行った羽生さんが、なおも勝ち続けていたのでした。
 女流将棋界でもまた、清水市代が全冠制覇への道をすすんでいました。
 そんな中、林葉直子(当時27歳)が「勝ちたいという気持ちがなくなった」として日本将棋連盟に退会届を提出。8月終わりのこと。
 9月、林葉さんが突然に退会したその3週間後の対局で現れたおもしろい将棋が次の将棋。

横山澄恵-蛸島彰子 1995年
 横山澄恵(石高澄恵、当時28歳)、“初手3六歩”!
 彼女は、何を思って、この手を指したのだろう。
 そして後手番の蛸島彰子は、林葉直子という個性の存在をどう思っていたのだろう。

 蛸島の指した2手目は、“5四歩”。


 「おいおいおい! 林葉対林葉かよ!!」と、おもわず突っ込みたくなるような序盤。


 後手蛸島は9二香から、9一玉。なんと穴熊に。
 相振飛車での中飛車の駒組みの難しさよ。ここでは後手、動きがむつかしいのかもしれない。(いや、これは相振飛車ではなかった。)

 先手横山(石高)が6六銀から5五銀右と仕掛けて、闘いが始まった。


 この攻め合いはどっちに分があるのだろう?
 6八同金、3八飛、6四歩、同歩、4五角、6二銀打、2一飛成、5七金、6九歩、5六歩、6六角、6八金、同歩、5八飛成、9三桂。


 5八飛成とした後手の次のねらいは「6七金」。しかし後手の持ち駒は金と歩のみなので、ここでしっかり受け切ってしまえば先手勝ち。なのだけれど、どう受けるかとなると、筆者にはまるでわからない。(先手6七金としても5七金がある。以下7七金打は千日手コース。)
 この棋譜を並べて、横山さんはどうしたかと見ていると、「9三桂」! 攻めた!


 先手の9三桂に、後手は同香、同角成、8二金。
 横山さんは6六馬と引き上げた。これなら蛸島ペースになったかなとも思えたが、金を自陣に投入したので攻め駒がない。
 5七歩成、6九金、4七竜。 ここから“もう一勝負”。


 5八竜。蛸島は金を取って勝負に出た。(勝負に出ないと先手からの9筋の攻めがきびしい。)
 5八同馬、7八金、9七玉、5八銀不成、4四馬、7九角、9六歩、8九金、7八金、4三歩、5五馬、9三歩。
 先手横山の7八金が冷静な一手。


 9三歩。禁断の“地獄突き”。
 攻め駒の足りない後手蛸島は、8二の金を攻めに使おうとする。
 9三同歩成、同金、8五玉、8四歩、7五玉、9五歩、同香、8三桂、6四玉、9五桂、同香、9四歩、同金、9八歩、同馬、8三香、8二香、9六飛。
 横山は、玉を6四に逃がし、先にセットした9筋の「香車ロケット」に期待をかける。


 9八歩、同馬と効かし、8三香、8二香の交換で後手に香車を使わせて、9六飛。
 横山の冷静さが光る。


 横山は5四角と置いた。後手には飛車しかないので、ここではもう勝負は決まっている。
 図から、6五玉、2五飛、7二角成、同銀、8三桂不成。

投了図
 蛸島、投了。 159手の熱戦だった。

 蛸島さんのガッツのある熱い攻めと、横山さんの冷静な鋭い指しまわしの対比が印象に残る一局でした。
 それにしても、“異常なオープニング”でした。

  (リンク:『林葉の振飛車』 part1  part 2


【1996年】

真部一男-桐山清澄 1996年
 その翌年、真部一男が、“初手5八飛”を指しました。
 これがおそらく一般プロ棋士(男性)の“初手5八飛”の1号局になると思います。



【1997年 蛸島彰子-船戸陽子】

蛸島彰子-船戸陽子 1997年
 1997年。またも蛸島さんが“初手5八飛”を指しました。


 1997年は近藤正和が「5筋位取り中飛車」で暴れはじめた年で、しかしまだ「ゴキゲン中飛車」の命名の前です。
 図は、蛸島さんの「先手5筋位取り中飛車」。
 この中飛車は昔からよく大山康晴名人が指していた戦法ですが、大山流は早めに6六歩と突いて、6七金と上がる形が多かった。
 さて、後手の船戸さんが飛車を5一にまわり、5四歩~6五歩と仕掛けました。


 後手の6五桂に、蛸島は5六飛と浮いて桂馬の利きをかわした。好手。
 5四金、4四銀とすすむ。船戸は5七歩。
 そこで蛸島、2五歩、同歩と2筋の歩を突き捨て、4三歩から激しく攻める。同銀に、3三角成から――


 敵玉をつり上げて、4六角。技が決まった。
 以下、3五歩、同角、2三玉、2四歩、3二玉、6二角成、5三飛に、5四飛と飛車を切って寄せた。

投了図
 蛸島の勝ち。

 蛸島さんはきっと、「5五歩位取り中飛車」の優秀性を、この時点で気づいていたでしょう。きっと近藤正和の棋譜は必ずチェックしていたのではないでしょうか。
 この年(1997年度)蛸島彰子さんは好調で、17勝7敗、勝率は.708で女流第3位。51歳。


【1998年 蛸島彰子-谷川治恵】

蛸島彰子-谷川治恵 1998年
 1998年。またしても蛸島彰子の“初手5八飛”。
 5八飛、8四歩、7六歩、8五歩、7七角となって、図。
 ここで後手の谷川治恵は、3四歩。対して蛸島は6六歩と突いた。
 今なら、この手で他の手を考えるだろう。6六歩とは、まだ突きたくないので。
 しかしたとえば6八銀(または7八銀)は、7七角成で困る。同銀は4五角、同桂は8八角がある。

団鬼六-山下カズ子 1989年
 ところで、これは「団鬼六流」。
 蛸島さんが“初手5八飛”を指したのは、この団鬼六さんの初手5八飛から始まる“珍戦法”を見ていたので、“初手5八飛”を指すことに抵抗がなかったということがあるかもしれません。この「鬼六流」は女流棋士達によく知られていました。団さんとよく対局していた彼女たちは、いつこの“珍戦法”が出てくるかと当時、警戒していたのです。
 図の将棋は「団鬼六-山下カズ子戦」。 もちろんプロ公式戦ではありませんが、「鬼六6番勝負」として『近代将棋』に掲載された将棋です。
 後手が8六歩、同歩、同飛と来れば、そこで角交換して、8八飛とするのが「鬼六流」。この手筋は今では「ゴキゲン中飛車田村式」でおなじみですが、鬼六流は田村式より12年早い。田村さんも「鬼六流」は知っていたことでしょう。


 谷川治恵(たにかわはるえ)さんは、蛸島さんの8つ年下。現在は女流棋士会会長で、佐瀬勇次門下。蛸島彰子さんとはタイトル戦で戦ったこともあるようです。
 この将棋は後手の谷川さんが、「5四歩」として、先手の5筋の位取りを許さない形。今、「先手中飛車」と呼ばれている形です。蛸島さんは中飛車から、7八金型の向かい飛車に転じました。
 そうして闘いが始まって、後手の谷川が6九角と打ち込み、先手は6七角と受けました。
 しかしこれは先手やりそこなっています。
 7八角成、同角、7六金、5七銀上、8五桂、同桂、8七歩成、同角、8五飛。


 ここでなんと、先手の蛸島、7六角。
 当然8八飛成と飛車を取られてしまうが、覚悟の上だろう。


 蛸島は不利ながらも、頑張って、なんとか後手の「二枚竜」の攻めを受け止め、5五馬と、好位置にもってきた。


 谷川、5四金と金を捨てて、5六竜(桂馬を取った)。
 5五金に、3六竜。3七歩に、2五竜。
 後手谷川は先手の2筋の薄さに目をつけた。


 3七金と金を寄った手が決め手。以下、8五角、2九竜、5八玉、6六桂で先手玉は詰んだ。


【1999年 蛸島彰子-谷川治恵】

 さて、翌1999年。
 ついに蛸島彰子、“初手5六歩”デビューです。

蛸島彰子-谷川治恵 1999年
 近藤正和が“初手5六歩”を指し始めたのは1998年からです。先手でも、後手番の戦法「ゴキゲン中飛車」と同じように“6六歩を突かない中飛車”を指そうと思えば、“初手5六歩”を選択するのは理論的には当然のことでしょう。しかし、「四間飛車」に脚光が当たっていたこの時期に、先手でも後手でも中飛車が指したい、などと思っている棋士は、近藤正和の他には蛸島彰子しかいなかったでしょう。 

 蛸島彰子、53歳。“初手5六歩”。
 谷川は3四歩、5八飛、5四歩、と対応します。やはり「5五歩」はゆるさない。


 「ゴキゲン中飛車」がもたらした大きな意識革命は、「振り飛車の角交換は面白い」ということ。そのためにいつでも角交換をできるよう「6七歩型」が良い。その「ゴキゲン中飛車」の大流行は2004年頃からの事。
 この将棋の13手目の振り飛車からの「2二角成」という蛸島の手を見ると、だれよりも早く、蛸島彰子がそのことに気づいていることがわかる。
 この将棋は例の「田村式」よりも前の将棋である。田村康介が、角道を止めないまま玉を右辺に移動させるということを始めたのだが、それは2001年のことなのである。
 この将棋は、それよりも前、1999年だ。 

 
 ここから蛸島は8五桂。同飛なら、8六飛だ。いや、9六角があった。


 蛸島は7九金型にしてから、9三桂成。開戦だ。
 こうやって先手から仕掛けたが、形勢は微妙のようだ。後手には3筋の「位取り」のストロングポイントがある。


 谷川の3六桂には、3九玉で凌いだ。
 7七飛には、7八桂。先手苦しげだが、この左辺の金と桂馬の防御が、見た目以上によかった。
 これからの勝負だが、しかし後手ペース。


 8五竜と引いた先手は、1五歩、同歩、同香と端から攻めた。ここで1四歩なら後手がかなり良かった。谷川は1五同香としたので先手にも希望が出てきた。


 激しい戦いだ。


 しかし後手が厚い。先手が苦しそう。
 4九桂は129手目。


 しかし先手も頑張った。後手陣にも火の手がまわってきた。
 150手目、4五桂と谷川治恵は打った。
 この手ではしかし、6五桂が正着だったという。なぜなら――


 この歩が打てたからだ。あそこで6五桂なら6五歩はない。それで後手玉に迫る手段が先手になく、後手が勝っていた。
 6五同玉、7六銀、同玉、6七金、6五玉、7六角、7五玉、8七角、4六角、7八玉…(略)
 後手玉に即詰はなかったが、先手玉は安全になり、金銀桂歩の持ち駒がある。

投了図
 175手の熱戦を蛸島彰子が制した。
 終わってみると、先手には無駄駒が一つもないですね。


 蛸島彰子さんは“初手5八飛”を、少なくとも4局指しています。それは表にあらわれている棋譜だけなので、実際にはもっと多いのかもしれません。
 “初手5八飛”は、男性棋士では上で紹介した真部一男の他には、田村康介が一度(1997年)指しているようです。




 『蛸ちゃん流中飛車Ⅱ
 『世紀末 田村康介の闘い
 『林葉の振飛車 part2
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 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか』 
 『“初手9六歩”の世界』 
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6・27詰将棋の解答

2013年07月05日 | つめしょうぎ
【正解手順】

2三香成  同歩  2一銀不成  2二玉  1四桂  1三玉  2五桂
1四玉  1三桂成  同玉  1四歩  2二玉  3二金  まで13手詰


途中図1


途中図2


詰め上がり図


 有力な“紛れ筋”は、初手2一銀不成、1三玉に、2三香成とする筋。これは同玉、3二銀不成に、1二玉と戻ると詰みません。



 この詰将棋を、「自分は実戦の30秒将棋の終盤でこれを正確に詰ませることができるか?」という思考実験をしてみました。

 ・1手目: 初手2一銀不成は詰まない。これを読むのに5~10秒。
      初手1三歩も同玉で続かない。これに5秒。
      初手2二香成りも2三歩、1二玉で詰まない。5秒。
      ということで、次の候補手2三香成(正解手)を選ぶだろう。
      (上の2一銀不成~2三香成の筋は最初から捨てて読まないと思う。)

      

 ・5手目: 4手目2二玉に、3二金か、3四桂が目につくが、どちらも1三玉で打ち歩詰になる。
      この打ち歩詰は解消できそうにない。その見極めに10秒。
      あとは1四桂と3二銀成の比較。
      3二銀成は1二玉で後がなさそう、これに10秒くらい。
      よって、たぶん、ここは1四桂(正解手)と指すしかない。

 ・7手目から後は問題なし。

 ・もしも相手が6手目に「3一玉」と逃げたら? 
      3二銀成~5四馬が発見できるかどうか。30秒あればたぶん発見できる。

    
 
 以上により、「たぶん、自分は詰めることができるだろう」というのが結論。


 つまりこの詰将棋、紛れ筋が詰まないことを見極めるのが容易(それぞれ5~10秒で結論がだせる)なので、じつはあまり迷う所がないのです。
 この詰将棋をすべて読み切るには10分くらい必要かもしれないが、実戦の終盤では、ダメな筋を選ばなければよいので、そのダメな筋がはっきりダメなら、読み切れなくても、消去法で正解手が選べてしまうのですね。
 (2つの同じくらいのレベルの読み切れない手を選択するとなると困るのですが。)


 作った後、そんなことを考えました。
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林葉の振飛車 part2

2013年07月03日 | しょうぎ
 本日の将棋
  (1)林葉直子-清水市代 1991年2月 女流名人3
  (2)林葉直子-斎田晴子 1991年4月 女流王将2
  (3)林葉直子-中井広恵 1992年1月 女流名人2
  (4)林葉直子-渡部愛 2011年

 林葉直子さんの“初手5六歩”の棋譜です。



(1)林葉直子-清水市代 1991年2月 女流名人戦第3局

林葉直子-清水市代 1991年1月 女名人3
 1990年度(平成2年度)の女流名人戦(五番勝負)は、林葉が2連勝で、これが第3局。
 林葉直子、“5六歩”!
 そして林葉は7手目に7七銀と上がり、矢倉模様の出だしとなる。
 林葉が飛車を5八飛と動かしたのは19手目。林葉の先手での“初手5六歩”の中飛車は、矢倉中飛車のイメージで指していたようだ。
 そういえば“初手9六歩”からの「9七角型中飛車」もそうだった。(1991年「林葉直子-佐藤秀司戦」)
 

 すると女流名人、清水市代も飛車を5二にまわって、矢倉系の相中飛車に。
 そして図の「4五銀」。やってみたくなる手だが、これで先手は結局形勢を損ねた。
 後手清水がうまく対応した。
 6五歩、同銀、8八角成、同金、7九角、7八金、2四角成。
 次に△3三桂で林葉の銀が死ぬ。


 そこで6八角。清水の馬を消しにかかる。
 清水の対応が優れていた。3三馬、7七角、1五馬(王手)、6九玉、3三桂。
 銀と桂馬の交換となった。
 結果的に、「居玉」が災いした。6九玉となっていれば△7九角打ちもなかった。


 清水、4四銀でがっちり。


 清水は△2五角で間接王手飛車を掛け、林葉に3六桂と打たせて3五歩。清水市代らしい、着実にリードを広げる指し方だ。
 林葉は、この桂馬と、さらには金を取らせ、そのかわりに飛車を5五~2五とさばいて角を取り――


 王手飛車で反撃。ここから寄せ合いに。
 3二玉、8三角成、8八金。
 清水、先手玉を挟撃でしばる。
 7八金、6六桂、6八玉、4七角。


 清水の「4七角」は、7八金からの寄せを見せながら、同時に飛車取り、馬取りにもなっており、これが“決め手”に見える。
 ところがそうではない、というのが将棋の終盤の面白さ。どこに逆転の目が潜んでいるかわからない。
 林葉がここで8八金とすればまだ難しかったのである。2五角成と飛車を取れば、先手は8三馬を頼って7七玉からの入玉をめざす。8三角成と馬を取れば、3四歩という攻めの手(同金なら2一銀がある)があってこれは大変な将棋だ。

 しかし林葉は「4七同馬」と応じた。

投了図
 以下、手数はかかったが林葉にチャンスなし。116手、清水市代の勝ち。

 とうことで、林葉直子の“初手5六歩”1号局はこのように不発に終わっています。
 女流名人戦はこれで清水が一番返して、林葉から見て2―1となりましたが、次の第4局は、林葉直子が振り飛車で完勝、女流名人に復位したことは、『林葉の振飛車part1』ですでにお伝えした通りです。


先崎学-羽生善治 1991年2月 NHK杯準決勝
 林葉さんが“初手5六歩”を突いたその3週間後、先崎学がNHK杯で“初手5六歩”を指したのでした。
 林葉と先崎は、米長邦雄の家でともに内弟子を経験した姉弟のような関係である。


 先崎は羽生善治に勝った。6六歩を突かない、5五歩型の中飛車で。(『戦術は伝播する 「5筋位取り」のプチ・ブーム』)
 先崎学は決勝でもやはり5五歩型の先手中飛車で快勝し、NHK杯で優勝した。相手はタイトルホルダー南芳一だった。

 


(2)林葉直子-斎田晴子 1991年4月 女流王将戦第2局

林葉直子-斎田晴子 1991年4月 女王将2
 上の女流名人戦が2月に終わって、3月からすぐに女流王将戦が始まりました。
 挑戦者は斎田晴子。斎田は「ミス四間飛車」と呼ばれ、実力をつけてきていました。
 なんと、斎田晴子はこの時、公式戦15連勝中なのでした。
 そうして迎えたこのタイトル戦三番勝負、その第1局は斎田先手番の「相振飛車」。
 激しい攻め合いを制して、林葉直子が先勝。好調斎田晴子の連勝にまずストップをかけたのでした。

 さて、第2局。
 林葉の初手は“5六歩”。
 そして今度は、3手目に“5八飛”。


 斎田も振る。3二飛。
 もともと林葉直子は、振り飛車党ではあっても相手が振るなら私は居飛車で、というタイプだった。昔はそういうタイプの振り飛車党が多く、なんとなくみんなが「相振飛車」を敬遠するところがあった。
 林葉はこの頃から、何かが変わってきた。
 この対局の斎田に対する“5六歩”も、「中飛車にもあなた、飛車を振る?」という挑戦的な問いかけに思える。


 今ではよく見るようになった、「5五歩、5六飛型」の中飛車。この当時はめったに見なかった形と思う。


 1991年に、まだ序盤でのこんな乱戦は、とくに男性の将棋には少なかったと思われる。やはりプロは生活が懸っているから堅くいきたいもの。(穴熊が大人気の時代である。)
 その意味では、やはり女流の将棋はアマチュアに近い要素がある。
 しかしそうしたアマチュア好みの乱戦・力戦を、現在では、むしろプロが積極的に吸収しようという姿勢になっている。昔は「しろうと将棋」と馬鹿にしていたものが、馬鹿にならないと学んだのだ。その象徴となったのが中原誠名人の超過激な相掛かり(5六飛とか、4五桂とか)で、あれが名人戦に通用するとはだれも思わなかったのだ。
 とはいえ、林葉さんの将棋がこのように奔放になってきたのも、1990年代からのことだ。今の「21世紀型将棋」の先駆けがこの頃に現れ始めてきている。

 さて、上図は、林葉の4五銀に、後手斎田が8四飛とまわって、その手に林葉が9七角と指したところ。
 なんと飛成を許すというのだ!


 林葉の後手に竜をつくらせるというこの構想は、しかし、やっぱりというか、無理があった。斎田の優勢な将棋になる。
 だが、その斎田も誤る。4四銀を4五銀と立った(3四竜とまわるねらい)のが林葉にチャンスを与えた手で、林葉は、5四歩、同歩、としてから、3七桂。
 以下、3四銀、5四飛、同竜、同銀、5九飛、3二飛、3一歩、5三角成。


 この図から、7二玉、6三銀成、8二玉、5二飛成――そこで斎田晴子の投了となった。
 7二玉が斎田の敗着。5一玉なら、むしろ後手の有望だった将棋。(先手は角を渡すと2九角があるので大変。)

 という将棋で林葉直子が斎田晴子との「相振飛車」の将棋を2局制して、2―0で「女流王将位」を防衛。じつに10年連続の女流王将保持となった。



林葉直子-斎田晴子 1991年4月
 その翌日。他棋戦で、またしても「林葉直子-斎田晴子戦」。
 初手7六歩、3四歩に、林葉、5八飛!!
 これは、8八角成から△4五角と、後手に馬をつくられてしまう。いかにも無茶で、この手をプロ公式戦で指した者は、林葉直子以外にいない。


 このように、林葉直子の“初手3六歩”(女流名人戦第1局)から始まる林葉の先手番での“派手な序盤”が本格的に始まったのがこの年、1991年なのです。
 この斎田晴子との闘いが4月。
 さて、この年の7月に指された将棋で、面白い棋譜が残っています。蛸島彰子さんの将棋ですが。

蛸島彰子-船戸陽子 1991年7月
 これです! なんと蛸島彰子、“初手5八飛”
 プロ初の、“初手5八飛”がこの将棋です。
 林葉さんの派手な活躍の陰で、蛸島さんもまた、躍動していたのです。


 初代女流名人の蛸島さんは、もともと中飛車が得意。
 そしてこの年、実は蛸島彰子は絶好調。年齢はこの時45歳。女流名人戦も女流王将戦もB級リーグで指していましたが、名人戦のB級リーグでは13戦全勝、王将戦のB級リーグでも11勝2敗という驚異的な成績で両棋戦でA級昇級を果たしたのでした。棋譜がわずか数局しか残っていないので確認ができませんが、おそらくほとんど中飛車で闘っていたと思われます。
 蛸島さんは、当時米長邦雄が「タイトルを獲りたいと本気で思っている棋士ならだれでも参加してください」として人を自宅に集めて開いていた「米長道場」と呼ばれる研究会に参加していましたが、その成果が出たのでしょうか。
 もちろんこの将棋も勝っています。しかしこの図の蛸島さんの「5五歩型中飛車」は、早い段階で「6六歩」と突いていますね。


林葉直子-蛸島彰子 1990年8月
 その1年前、「女流王将」林葉と、44歳の「中飛車の初代女流名人」蛸島の対戦。 
 「7六歩、3四歩、5六歩」というオープニング。
 つまりこれ、先手の林葉さんが、後手に、8八角成~5七角を誘っているわけですね。この将棋はしかし後手蛸島がその誘いに応じず、4四歩から飛車を振って「相中飛車」となりました。


 こんな将棋。先手は“6六歩を突かない振り飛車”であることに注目。
 この将棋は、「女流王将」の貫録をみせて、林葉直子の勝ち。

 こうしてみると、林葉直子さんのこの場合の“5六歩”は、どうしても中飛車をやりたいという今の思想と違って、5六歩型の乱戦(後手に5七角と打たせる)のねらいのようです。それが結果的に、後手がそれを拒否したので、相振り飛車の5五歩中飛車になった。

林葉直子-宮本浩二アマ 1990年7月
 こんなのもあります。上の「林葉-蛸島戦」の1カ月前のアマ・プロ戦。
 この将棋もやはり同じく「7六歩、3四歩、5六歩」から始まり、しかし後手の宮本さんが8八角成~5七角の乱戦を見送り、「8四歩、5五歩」と5五歩型の先手中飛車になっています。
 この時代までの「5筋位取り中飛車」はだいたい「6六歩」と突く形が多かったのですが、林葉さんはこの将棋では頑固にそれを突かずに序盤をすすめています。「6六歩」を突かないとこの図のように、後手に7二飛とされた時に、7筋の歩交換を防ぐには6六角と上がるしかないのですが、それだとまた後手は8二飛として、これは「千日手」になってしまう。
 そこで先手の林葉はここで4五歩から決断の開戦。しかし勝負は宮本アマの勝ち。

 この時期にはとくに「ゴキゲン中飛車」(近藤正和はまだプロ棋士になっておらずこの呼び名は当時にはありませんが)を意識していなかった林葉直子さんが、「△5七角打からの力戦」を拒否されることで、なんとなく「ゴキゲン中飛車」模様の将棋を指しているという状況です。
 林葉さんはこの数年後に後手番での「ゴキゲン中飛車」を指すようになりました。

 
 
 「女流二冠王」の林葉直子さん、1991年の12月には、新人王戦での男子プロとの対局で“初手9六歩”を指しました。(『“初手9六歩”の世界』)
 また、その前の6月、非公式戦(銀河戦)で、“初手3六歩”と指し、男性棋士に勝利しています。



(3)林葉直子-中井広恵 1992年1月 女流名人戦第2局

林葉直子-中井広恵 1992年1月 女名人1
 林葉直子が“初手3六歩”、“初手5六歩”を突いた1991年の清水市代との名人戦から1年が経過し、また女流名人戦五番勝負の季節が廻ってきました。
 挑戦者は、中井広恵。中井は新棋戦「女流王位」のタイトルを手にしており、つまりこの女流名人戦は林葉との、「女流二冠」の座を掛けた戦いであった。(当時の女流タイトルは3つ)
 第1局、後手番となった林葉の作戦は、中飛車。といっても4四歩と角道を止める昔からの振り飛車。中井の急戦の仕掛けに、林葉得意の「3二金型」から「7二飛」と袖飛車にまわる将棋となった。結果は中井の勝ち。
 そして第2局。先手番は林葉直子。

 林葉、“初手5六歩”。

 林葉直子がこの手を指すのは3度目。
 しかし中井広恵は、おそらくこの手を想定して対策を準備していたように思われる。


 林葉の「9七角型中飛車」。
 そしてそれを全力で受け止める中井の布陣。
 このように林葉が「5六歩」と早めに突くのは二つの方針があって、一つは角交換から△5七角と打たせる力戦ねらい、もう一つは本局のような「9七角型」または矢倉系の「原始中飛車」。


 4五歩と中井が位を取っているのがおおきく、後手が指しやすい序盤となる。
 いよいよ中井が攻撃を開始した。


 中井は、4六歩、同歩と4七に空間をつくって、2五桂。さすがである。
 6一角、4七角、5二角成、同金、6一飛、4一歩。4筋の歩を突き捨てたことで
歩一枚で受けが効く。

投了図
 序盤・中盤・終盤、スキがない将棋(どこかで聞いたフレーズだ)で、中井広恵が勝った。


 こんな感じで、林葉さんはこの時期、好調で「二冠王」だったのですが、“初手5六歩”の将棋については、実は内容があまりパッとしません。結果も1勝2敗です。

 なぜ、この時期に林葉直子さんは初手に“3六歩”とか“5六歩”、“9六歩”というような周囲を驚かす手を指し始めたのでしょうか。
 特徴的なのは、先手番の時にだけ、こういう手を指していたということです。後手番では“いつもの振り飛車”でした。
 僕が思うのは、「林葉さんは振り飛車党だから、先手番の指し方に悩んでいた」ということです。想像に過ぎませんが。
 これが居飛車党だったら、逆に、「後手番の指し方」に悩んでいたところです。(この当時はとくに。) 矢倉でも角換わりでもいつも先手に攻められて面白くない、何か後手番の面白い指し方はないものか。その結果、発展してきたのが、「横歩取り(取らせ)」であり、「後手一手損角換わり」です。
 しかし林葉さんは、「先手番で、何かもっと面白い指し方がないか」と模索していたように見えます。それでとりあえずいろいろやってみよう、と。
 この頃の振り飛車党は先手番の時、「7六歩、3四歩、6六歩」というオープンングで指していました。林葉さんも振り飛車党でしたからそう指していたのですが、そこに疑問を感じ始めていたのではないか。「7六歩、3四歩、6六歩」は、先手でも後手番と同じ振り飛車で行くということですが、基本的に「振り飛車戦法」というのは後手番の戦法としてできています。居飛車が攻めてきて、その動きに合わせて反撃するというリアクション戦術です。ですので、相手の動きをよく見ながら「待つ」ことになります。
 すると先手番でも「振り飛車」を指すということになると、一手多く指せるのですが、基本的な戦術の性格は同じなので、その「一手」を、「どう待つか」ということに使うことになります。ところが今の振り飛車は「自ら動く振り飛車」になってきていて、当時と違うのですが、20世紀の「振り飛車戦法」はそうでした。
 このように「先手番の振り飛車」はどこか、元々、ぬるい感じがあります。先手なのに、相手が先に仕掛ける前提で駒組みをする。実際、定跡書にも先手番の振り飛車はあまり解説されていません。先手番なのに受け身の振り飛車は、解説するのになにかスッキリしないところがあるからではないかと思われます。
 林葉さんはそういう「先手番の振り飛車」を指すことへの“違和感”を抱いていたのではないでしょうか。林葉さんが元から「矢倉」などが得意ならすんなり居飛車を指したでしょうが、しかし林葉さんは本格的な矢倉が好きではなかったように思われます。
 「相掛かり」は林葉さんに合っていたようで、林葉さんは1992年から「相掛かり」をよく指しています。1993年には“初手3六歩”を積極的に使い、その頃からは「矢倉以外は何でも指す」という万能タイプに変身していくのです。
 そのための“過渡期”としての、“初手5六歩”や“初手3六歩”であったと僕は思いました。


林葉直子-山田久美 1990年3月
 1990年の山田久美戦では、めずらしく、“初手2六歩”からの「相掛かり」で林葉は戦っている。林葉さんの“初手2六歩”は以前にも時々はあったのですが、だいたいは「ひねり飛車」が目的でした。



(4)林葉直子-渡部愛 2011年

林葉直子-渡部愛 2011年
 これがおそらく最新の林葉直子さんの棋譜。LPSAの棋戦に特別参加。
 この前年、やはりLPSAの棋戦で、「林葉直子-中倉彰子」の対戦があった。これが林葉さんの15年ぶりの将棋復帰だったが、その将棋は「7六歩、3四歩、7五歩」で始まった。「早石田」だ。この将棋はやはり実戦不足か、林葉さんにいいところがなく中倉勝ちとなったが、局後に周囲からの「3手目7五歩は現在将棋界でも流行している作戦でして・・・」という発言を聞いて、「え~、全然知らなかった~」と林葉直子は言ったそうだ。

 その林葉直子が翌年の渡部愛との対戦で指した初手は“5六歩”だった!
 今ではよく見る“初手5六歩”。(時代が、林葉将棋に追いついてきたわけですね!)


 林葉の中飛車に、渡部愛3二飛からの「相振飛車」に。この形は、20年前、「林葉-斎田戦」で始めて指された形。林葉直子の“初手5六歩”の2号局だ。
 まだその時には生まれていない渡部は知るはずもない。
 “昔の将棋は全然覚えていない”という元からそういうタイプの林葉もまた、おそらくその内容をまるで覚えていないだろう。林葉直子、43歳。そういえばいつだったか、ぎっくり腰をやって病院に運ばれたというのがネットニュースになっていたが。
 渡部愛(わたなべまな)はLPSAの女流棋士。1993年生まれだから、この対局時は18歳。


 後手渡部が3三角と上がって決戦を警戒し、林葉はここで7六歩と角道を開く。
 渡部、7二玉。
 林葉はここで早くも決戦に出る。3三角成、同桂に、3二角。
 もしも林葉に勝負へのこだわりが現役時代のようにあれば、もう少し慎重に決戦の時期を選んだだろう。開戦するには4九の玉の位置がよくなかった。


 渡部の4五角に、2六飛。この手がほとんど敗着となった。
 林葉は6六飛とどちらにするか迷ったという。確かに6六飛ならまだどうなったかわからない。
 現役時代の林葉直子なら、ここでしっかり読めたはず。そして明らかにその先を読めば勝てる可能性の小さい2六飛を指すことはなかったはずだ。
 とはいえ、2六飛は、林葉直子らしい手ではある。相手に6七角成のような手を平気でやらせるという意味で。

 6七角成、3九玉、6四飛、6八歩、8九馬、2三飛成、4一角成、4五桂、3二竜、5一歩、3一馬、6二銀上、4六歩、6六馬、4五歩、5六桂。

 後手に「5一歩」と底歩を打たれて、後手にだけ「桂香」を手にされて、その“差”が絶望的に大きい。竜と馬を敵陣内につくっても、持ち駒が歩のみの先手から、攻めはない。
 林葉は、そこで4六歩から渡部跳ねた桂馬を取りに行ったが…
 

 渡部愛が着実に急所を攻めた。

投了図 
 林葉直子、投了。



 林葉直子さんのブログの1ページ。
 「棋士の先生の記憶力は抜群」、とよく言われるが、「私はさっぱり」と林葉さん。
 また、面白いのが、このページの最後にある写真とそれについてのコメント。「下のは、まじめに将棋の聞き手をしている頃の写真でーす。」
 まじめに将棋の聞き手をしている写真がなぜか不思議、笑えてくる。




 『“初手9六歩”の世界
 『林葉の振飛車 part1
 『林葉の振飛車 part3
 『林葉の振飛車 part4
 『林葉の振飛車 part5
 『林葉の振飛車 part6
 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 『内藤大山定跡Ⅴ 「筋違い角戦法」の研究
 『鏡花水月 ひろべえの闘い


中飛車(初手5六歩の関連記事)
 『“初手5六歩”の系譜  間宮久夢斎とか
 『蛸ちゃん流中飛車
 『蛸ちゃん流中飛車Ⅱ
 『林葉の振飛車 part2
 『高群佐知子の4七銀型中飛車』 
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