はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

百折不撓

2008年09月30日 | しょうぎ
 羽生善治・木村一基の両者による王座戦第3局が行われています。
 羽生さんが勝てば、なんと王座戦17連覇(!)となります。
 相矢倉の戦いは、羽生の攻め、木村の受けで開戦、午後9時すぎの現在、羽生さんの攻めが息切れし木村が反撃、しかしその後もつれ…という展開。さあ、どうなるか。


 ところで、先週のA級順位戦の対局、佐藤康光・木村一基戦は面白かった。凄かった。 
 朝始まった対局が深夜2時までもつれ、持将棋(引き分け)。指しなおしで、終わったのが朝の6時すぎ。(さすがに僕も、全部は張り付いて観戦することは無理でした。)
 結果は、木村八段の勝ち。 この二人の将棋は熱いなあと思わせる内容でした。


 前年度の順位戦最終局(今年三月)でもこのふたり(佐藤・木村)は対戦しました。このたたかいもアツかった! 佐藤康光は負けたら降級というピンチでした。木村一基は「和服」を着てこの対局に臨みました。名人挑戦者は羽生に決定していたし、木村の残留はすでに確定していましたが、5連勝のあと3連敗という星の木村は、いいかんじでこのシーズンを終わりたかったのだと思います。「和服」は気合のしるしです。
 大熱戦になりました。この模様はNHK衛星放送で中継されて、緊迫した熱気の中でヨミを続ける両者の表情が感動を呼んだらしい。(僕はTV観ていないのですが、ネット中継を追っていました。) そして佐藤康光が勝ちました。佐藤はギリギリA級に残留しました。

 「和服の木村一基」は敗れた。
  …なぜか、「和服」で対局すると木村勝てない。


 数ヶ月前、NHK将棋トーナメント戦、木村一基八段・村中秀史四段戦が放映された。
 木村一基は「和服」で登場した。
 この対局はタイトル戦でもないし1回戦だし相手は四段…。ここでなぜ木村は「和服」なのか? …それはわからないが、想像するに「和服で勝てない」という妙なながれを、木村はここで断ち切りたかったのではないだろうか。
 将棋は村中四段が若々しく攻めた。木村は堂々対応した。「受け」は得意の木村だ。観ていた僕は、木村さん受けきった、村中さんの攻めは切れた、そう思った。実際、その攻めを続けるのは難しかったと思う。ところが、村中さんは切れそうな攻めをうまくつなげた。木村さんの油断もあったのかもしれない。村中さんがそのまま攻め切って、A級棋士からみごと金星を挙げた。

 またしても、またしても、「和服の木村一基」は敗れたのだった。
 なぜか「和服」で勝てない木村一基。


 僕は統計のマニアではないので、正確なところはわからないが、木村一基が「和服で勝つ」ところを一度も見たことがない。

 
 3年前、2005年度の竜王戦は、渡辺明に木村一基が挑戦した。木村一基のタイトル戦初登場であった。勝率7割の木村の成績は、そのまま竜王になったとしてもだれもふしぎには思わないものがあった。だが、内容は充実していたが、木村は終盤で渡辺にせり負け、0-4で渡辺明の圧勝という結果に終わった。タイトル戦だから、木村八段はこの時もちろん「和服」着用である。「和服の木村一基」はこのとき一番も勝てなかったわけだ。この時から、木村の「和服の苦悩」ははじまった…。



 そして今年の竜王戦の挑戦者決定戦三番勝負。 
 ご存知のとおり、2-1で羽生善治が木村一基に勝って挑戦者となったが、木村もここは1勝している。ところがこれはタイトル戦ではないということもあって、木村は「和服」を着用していない。「スーツにネクタイ」で1勝だ。


 そして羽生-木村の王座戦。
 木村は「和服」で臨んだが、第1、2局とも、羽生の勝ち。これで羽生善治は王座戦の対局12連勝である。
 木村一基は、タイトル戦で勝った経験がまだ、ない。 嗚呼、「和服の木村一基」は勝てないのか。

 「百折不撓」と木村八段は色紙に書いたそうです。100回折れても…。



 さて、対局中の王座戦第3局はどうなった?
 …まだ続いています。  160手を越えました。   →結果はこちらで。



◇倉敷藤花戦 挑戦者決定トーナメント決勝
   里見香奈○ - ●甲斐智美
  里見香奈、挑戦者に! (倉敷藤花位は清水市代)
  最終盤の大逆転だったようです。いよいよ里見香奈(16歳)がタイトル戦に登場ですね。 

はな子と猫と吉祥寺

2008年09月28日 | まんが
 地味ながら、マイ・猫ブームである。
 僕は、90年代は大島弓子の新作をいつもたのしみにしていたのであるが、彼女が、自身が飼っている猫のサバのことを描くようになってから、とくに猫好きでもなかった僕は気持ちがはなれてきていた。13年生きたというサバが死んで、大島さんはグーグーという名の子猫を飼い始め、それを漫画に描き始め、僕は、ああ大島弓子さんは描きたいことをだいたいもう描きつくしちゃったんだ、と感じたのだった。だから『グーグーも猫である』は途中まで読んだけれど、あとは追わなかった。
 そしたら漱石その他の影響で、僕の中で、今「猫BOOM」である。歩く猫が気になるし、むかし途中までしか読まなかった『ジェニィ』(ポール・ギャリコ著)を読み始め、それほど多くないと思っていた過去の僕自身の「猫との想い出」がつぎつぎと出てくるじゃないか。
 そんなときに『グーグーも猫である』が映画化されて封切されたというではないか。 よしこれは、観に行こう。行くなら、予習だ、『グーグー』の原作も全部読もう。
 で、読んだ。 猫が…、マンガのなかの猫が、おもしろい。
 このマンガ原作では、大島弓子さんはグーグー(←ショップで買った)のあと、次々と子猫を拾う。 「あ! 鳴いてる!」と、住んでいるマンションの外からニャーニャーと捨てられた子猫が鳴くたびに飛び出して夜の公園を探し回る大島弓子。大島さんは吉祥寺に住んでいる。その公園は井の頭公園だ。「へー、大島さん、井の頭公園のこんなすぐそばに住んでいたのか…」とそれで僕は知った。猫の鳴き声がきこえるほどの場所に。

 よし、じゃあ、どうせ映画『グーグーも猫である』を観に行くなら、吉祥寺へ行こう! 井の頭公園にも行って、はな子にも会おうじゃないか!

 今年8月8日、地震があって本棚から落ちてきた数冊の本の中の1冊が『父が愛したゾウのはな子』(山川宏治著)である。これを買って読んだ一年前から、僕はいつか井の頭公園のはな子にもう一度(過去に一度会っている)会おうとずっと思ってきたのである。


 そして9月27日(つまり昨日だ)、スケッチブックを持って電車に乗って吉祥寺へ。
 吉祥寺の駅の南口を出て10分ほど歩くと井の頭公園だ。

 「はな子、よわっていなければいいけどな…。」
 という心配はまったく無用だった。
 『父が愛したゾウのはな子』には、はな子という象がいかに茶目っ気があってあそび好きかということが書いてあったが、見ていると、なるほどそれがよくわかった。はな子は常にリズムをとるように、面白いことがないかなーというように、鼻や脚を動かしていた。僕はスケッチをはじめたが、はな子が向きを変えるのでしっかりとは描けない。描いている途中で食事の時間がきて、屋内に入ったので、僕はスケッチはあきらめて、キャベツをばっくりと食べるはな子をずっと見ていた。すごいなー、すごいなあ、象! 鼻の動きがおもしろいし、脚のかたちがおもしろい。見ていて、飽きない。
 はな子のほうでも、人間ってへんだなあ、おもしろいなあと思ったりしているのだろうか。61歳になったはな子…。井の頭公園に来てからはずっと「象」というものに会ったことのないはな子…。


↑キャベツを食べるはな子さん。これだけじゃない、まだまだ食いますぜ~。


 井の頭公園を少し歩く。この公園は広い。大きな池(湖のような)があって、弁天が祭られている。土曜日なので、たくさんの人がいた。
 ここは、神田川(江戸時代につくられた運河)の水源地でもある。


 さて、映画だ。
 吉祥寺駅の北側は、ショッピング街になっている。何度か吉祥寺には来たことがあるが、なぜか僕には、どうもこの街は歩きにくい。 人の流れがつかめないので、前にうまくすすめない…(笑)。


 『グーグーも猫である』、この映画は、最初の10分が秀逸である。
 あとは…人におもしろいよと薦められる内容とは…言いがたい。猫とのコミカルな絡みとか、しっかりしたストーリーを期待してこの映画を見た人は、きっとがっかりするだろう。そういうのは、ない。 おもしろ猫映画というより、これは「吉祥寺人情ものがたり(with猫)」なのだった。そして大島弓子との原作とは、まったくの別の話である。リアルグーグー猫(つまりマンガ版)は、家からまったく出ない猫だけど、映画版グーグーは外を歩き回ります。
 しかし、僕個人としては、それで大満足なのでした。
 この映画には、「井の頭公園」がたっぷりと出てくる。そして、なんと「はな子」も登場する。そうなんだ、はな子は吉祥寺の「顔」なのだ。
 実物の「はな子」に会いに吉祥寺へ来て、映画館に入って、その映像の中でまた「はな子」を観て、そこに「吉祥寺の街」があって「井の頭公園」があって、そして、ニセモノの「吉祥寺の住人たち」がいる。映画の中のニセ大島弓子…漫画家小島麻子(小泉今日子)が、マンガを描いている…そのマンガのタイトルは『八月に生まれる子供』。(←これは数ヶ月前にブログで僕が採り上げた話。) この漫画作品は、リアル大島弓子が描いたものだし、しかし作品の中に描かれた世界と人々は架空である。ホンモノの架空世界をニセ大島弓子が描いていてそれを吉祥寺の映画館で僕が観ている…。 
 そういう、現実と非現実が交差するという不思議感覚をたっぷりと味わえたのでありました。

 そして、もう一度書いておこう。この映画は最初の10分が秀逸である。



  夏目漱石の『吾輩は猫である』から、きっと大島弓子は、『グーグーも猫である』と続けて、この漫画のタイトルをつけたのだろう。
 映画には出てこないが、グーグーをきっかけに、大島さんは、白猫ビー、黒猫クロ、目のみえない猫のタマと拾って育て、さらに増え続けてとうとうマンションでは狭くなってしまった。それで大島弓子は(どこか知らぬが)家を購入し、吉祥寺から引っ越してしまったようだ。
 そしてなんとなんと、現在は13匹(!)の猫が家の中にいるという。一日中掃除ばかりしているという。 きっと猫はさらに増えていくのだろう。
 「吉祥寺の漫画家大島弓子」の姿は井の頭公園に今はなく、彼女、りっぱな「猫おばさん」に進化したのだなあ…。


 それと最近、気づいたことがあるんです。猫を描いた小説、絵、漫画、アニメ、写真集は数え切れないほどあるけれど…、実写の映画で「猫がメインキャラの映画」って、すごく少ないんですよ! 考えてみてください。さあさあ、どうです? 何があります、猫の映画? 

臥竜放屁?

2008年09月27日 | しょうぎ
◇王位戦
   深浦康市 4-3 羽生善治

 第7局は、深浦康市が羽生善治に勝って、王位防衛です!!
 深浦さんの思い切りのよい攻めが成功しました。2年連続で羽生善治にタイトル戦で勝つなんて、すごいな。



 羽生さんは、七番勝負の最終局って、案外、負けているんですよね。五番勝負の最終局にはメチャ強いんだけど。
 七番勝負最終局で強かった棋士といえば、中原誠。その中原十六世名人、半年間休場だそうです。中原さん、今期は羽生、佐藤康光、木村に勝つなど、将棋は好調だったんですよね。からだを大切にして、またがんばってください。

 王位は獲れなかったとはいえ、今の将棋界の主役はやっぱり羽生さん。王座戦、竜王戦とたたかいは続きます。



◇王座戦(五番勝負)
   羽生善治 2-0 木村一基
   第3局は9月30日

◇竜王戦(七番勝負)
   渡辺明 - 羽生善治
   10月18日に開幕。対局の場はフランス・パリ。


◇新人王戦
   佐藤天彦 2-0 星野良生
   佐藤天彦、09年度新人王に!


◇女流王位戦(五番勝負)
   石橋幸緒 - 清水市代
   10月10日開幕
 
◇倉敷藤花戦 挑戦者決定トーナメント決勝
   甲斐智美 - 里見香奈
    (倉敷藤花位は清水市代)

新人王をめざせ!

2008年09月24日 | しょうぎ
 将棋新人王戦三番勝負が始まっています。

 佐藤天彦四段 1-0 星野良生三段


 そして明日25日、第2戦が行われます。これに佐藤四段が勝てば、今期の「新人王」となります。

 ということで、佐藤天彦四段を描いてみました。 (ちょっと目がはなれてしまって…去年の新人王村山慈明五段とミックスしたような顔になりましたネ。)


 佐藤天彦四段はプロ3年目。福岡市出身20歳、中田功門下。
 今期は、20勝5敗の成績で、これは全棋士中2位。 ←素晴らしい!
 このアマヒコ四段は、プロ(四段)になる前から、実力は認められていて、奨励会でも成績が抜群だった。サラリーマンだった瀬川昌司さんのプロ編入試験が特例として行われることになった時、その前に第1戦の相手として立ちはだかったのが佐藤アマヒコ(当時三段)だった。それは、彼が、「奨励会で最も強い」ということで選ばれたわけで、瀬川さんにとっては大変な「強敵」だったのです。(←結果は佐藤天彦勝ち) それからこのブログでは、糸谷四段の奨励会時代のおもしろエピソードを書いたときにも、アマヒコ君には登場してもらっています。


 さて、最近6年間の新人王を並べてみます。 

 02年 木村一基 → 現在、王座戦で羽生善治に挑戦中
 03年 田村康介 → 今期15勝2敗 勝率1位
 04年 山崎隆之 → 今期対局数29は羽生につづいて第2位
 05年 渡辺明  → 竜王位4連覇中!
 06年 糸谷哲郎 → 今期17勝5敗 勝率4位
 07年 村山慈明 → 今期12勝8敗(前期は36勝10敗で勝率1位)

 つまり、「新人王になる」というのは、こういう人たちの「格」に肩を並べるということなのです。その新人王を、決勝三番勝負で、佐藤天彦と争っているのが、星野良生三段。こちらも20歳。かれは「三段」…つまり、まだプロではないのです。新人王戦は三段でも参加資格が得られるのですが、しかしその三段がトーナメントを勝ち抜いて「新人王」に輝くというのは、ちょっと、「事件」なのです。そういう意味でも、今期新人王戦は注目されています。(明日はぜひ星野三段に勝ってもらいたい。)

 16年前、石飛英二という三段の選手が新人王戦三番勝負に挑むことになって話題になりました。彼の倒した相手というのがスゴイ。 杉本昌隆、西川慶二、井上慶太、佐藤康光、森内俊之。(←これはホントにすごい!)
 赤旗の観戦記を担当していた奥山紅樹氏は、将棋連盟に、もし石飛三段が優勝したならば特例として四段にすると約束せよ、と申し入れました。たしかに、これほどのメンバーに勝って新人王になるなら、プロ棋士の資格は十分にある。世間のファンもそう思っただろう。 そりゃそうです、佐藤康光森内俊之の壁を撃破したんですよ!!
 だが、特例は認められぬ、というのが連盟の返事でした。
 結果的に、石飛英二三段は、決勝を0-2で佐藤秀司四段(現七段)に敗れ、準優勝となりました。そして、その後、石飛三段はプロ(四段)にはなれませんでした。それだけの成績を奨励会で挙げることができなかったのです。
 プロと、プロになれない棋士の「差」というのは、これほどに、微妙なものなのですね…。瀬川さんの例もありますし、今月めでたくプロ棋士になった佐藤慎一四段(←また一人佐藤姓がふえた!)は26歳で、年齢制限ギリギリでした。


 新人王戦は、26歳以下の棋士で最も強い棋士(ただし参加資格は五段以下なので渡辺明竜王などは参加しない)を決める棋戦で、「しんぶん赤旗」が主催しています。若い棋士が「番勝負」として注目される機会というのはとても少ないので、若手棋士としてはやりがいがあるでしょう。若手同士の、興味ある対戦も多いのです。
 ただ、ザンネンなことに、赤旗(日本共産党)は、ネット中継をしてくれない。せっかく将棋におかねを投資しているのだから、ネット中継しないと、もったいない気がするぞ~。日本共産党は、いま『蟹工船』がブームで、なんと党員が1万人増というニュースをこの前読みました。(うそだろう、と僕は思いましたが。) こっちも頼みますよ、共産党! 新人王戦のネット中継が見た~い!、です。

吾輩ハ猫デアル

2008年09月23日 | ほん
 …先ず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩は既に十分寝た。欠伸がしたくて堪らない。然し切角主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思うて、じっと心棒しておった。彼は今吾輩の輪郭をかき上げて顔のあたりを色彩っている。
  
 …これは仕様がないと思った。然しその熱心さには感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催している。身内の筋肉はむずむずする。最早一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる欠伸をした。さてこうなると大人しくしていても仕方がない。 
  
 すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた様な声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。この主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。外に悪口の言い様を知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗に馬鹿野郎とは失敬だと思う。
 それも平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするのならこの漫罵も甘んじて受けるが…     〕

     ( 夏目漱石 『吾輩は猫である』 )

福猫でございますよ

2008年09月21日 | はなし
 夏目金之助(漱石)に、「この猫はどうしたんだ?」と聞かれ、妻の鏡子さんは、何とかうっちゃらかしてしまいたいのだけどつきまとわれて困っているのだ、誰か頼んで捨ててしまおうと思っている、と話した。すると金之助はこう言った。

 「そんなに入って来るんならおいてやったらいいじゃないか」

 それでこの小猫の運命が決まった。
 そしてこの猫は、漱石の運命も変えてしまうのである。


 だがこの猫は、たいへんな悪戯好きで、子供たちにも嫌われていた。当時の夏目家は、筆子、恒子、栄子と三人の娘がいた。二女の恒子の寝床に入り込んだりして、恒子は「猫が入った、猫が入った!」と夜中でもキイキイと火事が出たように大騒ぎする。
 また、次のような筆子の回想もある。

 〔本当にしょっちゅう入ってきましたの、家へ。そうするとみんなが追い出すんです。「ホラ、また来た!」って。わたくしたちは、ひっかかれるから、キャーキャー逃げましたの。〕
     (半藤一利 『漱石先生ぞな、もし』)


 漱石だって、猫好きというわけでもない。それが証拠に、この猫には死ぬまで名前をつけていない。悪戯がすぎると漱石が物尺(ものさし)をもって追いかけたりしたという。
 ところが…、夏目家によく来る按摩のお婆さんが、この猫を膝に抱えて突然、こう言ったのだった。

 〔 「奥様、この猫は全身足の爪まで黒うございますが、これは珍しい福猫でございますよ。飼っておおきになるときっとお家が繁盛いたします」
 とこう申します。この子猫の毛並みというのが、全身黒ずんだ灰色の中に虎斑がありまして、一見黒猫に見えるのですが、 … 福猫が飛び込んできたと言われてみればなんとなく嬉しくもあるので、せっかくきたのを捨ててはとそこは現金なもので、その日から前のように虐待もしなくなり、 … だいぶ待遇が違ってまいりました。猫のほうではますますいい気になって… 〕
      (夏目鏡子 『漱石の思い出』)



 この家の主人、夏目金之助が小説を書き始めたのは、その年(1904年)の暮れである。
 その小説は、こんな書き出しで始まっていた。



 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて… 」

ねこ、来る。

2008年09月20日 | はなし
 この六、七月、夏の始め頃かと覚えております。どこからともなく生まれていくらもたたない小猫が家の中に入ってきました。
 猫嫌いのわたくしはすぐに外へつまみ出すのですが、いくらつまみ出しても、いつかしらんまた家の中に上がってきております。そこで夜雨戸をしめる時なぞは、見つけると因業につかまえては外に出したものです。しかし翌朝雨戸を操るが早いか、にゃんといっては入ってきます。


 それがまたそれほど嫌われているとも知らず、歩いていると後ろから足にじゃれついたり、子供たちが寝ていると、蚊帳(かや)の外から手足をひっかいたりします。そのたびにまた猫がといって(子供が)泣くのを合い図に幾度残酷につまみ出されたり、放り出されたか知れやしません。
 がなんとしてもずうずうしいと言おうか、無神経と言おうか、いつの間にやら入り込んで、第一気に食わないのは御飯のお櫃(ひつ)の上にちゃんと上がっておることです。


 腹が立つやら根気まけがするやらで、私もとうとううだれかに頼んで遠くへ捨ててきてもらおうと思っていると、ある朝のこと、例のとおり泥足のままあがり込んできて、おはちの上にいいぐあいにうずくまっていました。


 そこに夏目が出てまいりました。

 「この猫はどうしたんだい」


          (夏目鏡子 『漱石の思い出』)

『筆日記』

2008年09月18日 | はなし
 「筆日記」の「筆」とは、夏目金之助・鏡子夫妻のあいだに生まれた第一子「筆子」さんのこと。結婚3年目にできた子どもということもあり、金之助(漱石)もずいぶんかわいがった。

 〔長女が生まれましたのは、五月の末のことでありました。私が字がへただから、せめてこの子は少し字をじょうずにしてやりたいというので、夏目の意見に従いまして「筆」と命名いたしました。ところが皮肉なことに私以上の悪筆になってしまったはお笑い草です。で、いまではそんな欲張った名はつけるものではい、そんな名をつけるからこんなに字がへたになったのだなどと、当人の筆子はこの話が出るたびにかえって私たちを恨んでいるのです。親の心子知らずか、子の心親知らずか、ともかくお笑い草には違いありません。〕 
  (夏目鏡子述・松岡譲筆録 『漱石の思い出』)


 鏡子と筆子を日本に残し、漱石はロンドンへ。鏡子さんは妊娠していて、やがて次女恒子が生まれた。
 鏡子さんはもともと筆不精で、それに子育てに忙しく、あまり手紙を書かなかった。すると漱石から「なぜ手紙を書かないか」と文句を言ってきた。「どうしたのか、いくら忙しいといったって、たまさか手紙の一本くらい書く時間のないはずはない。」と漱石。それで鏡子さんは「そんなことをいったって、これでもあれやこれやでなかなか手紙が書けない、そういう貴方だってあんまりこのごろは書いてくださらないじゃありませんか」と返した。そしたら漱石、「おれは勉強に来て忙しいのだから、そうそう手紙も書けないと、ちゃんと最初から断ってあるじゃないか。おまえのは断りなしに手紙をよこさない。断って書かないのと、断らずに書かないのとではたいへんな違いだ。それに“あれやこれや”とはいったい何のことだ。」
 それで鏡子さんは考えた。毎晩床につく前に、長女の筆子のその日の行動を書き記して、それを『筆日記』とした。他人が見てもたいしておもしろくもない記録だけれど、それを送ると漱石はたいへんよろこんだという。


 そんなある日、「夏目発狂す」という電報がロンドンから日本の文部省に打たれたという。ある人が漱石に会いに行った時、部屋に閉じこもりっきりで、真っ暗な中で泣いているというのだ。
 それで文部省の役人が妻鏡子さんのところに心配して(探りに)やって来た。鏡子さんはこのような手紙のやりとりをしている、と話したが、すると役人は「手紙が自分で書けるくらいなら大丈夫ですな」と言いつつ、根堀り葉掘り質問する。「発狂した」などという話をまだ聞かされていない鏡子さんは、なんのことだかわからなかったという。
 「発狂した」という表現は強烈だが、まちがいでもなかった。漱石の神経症の症状は、かなり激しいものだったようで、日本に帰ってからも、発作が起こると、家族も手がつけられないほどだった。女中や家族が悪だくみをしている…などという妄想が激しく、これは神経発作というより、精神病にちかいのではないだろうか。家族の行動のいちいちが自分へのいじわるに思えてくる。近所に部屋を借りている学生を「あいつは探偵で俺のことを見張っている」などと本気で言い出したり、ボールをうっかり夏目家に投げ込んできた中学生が逃げるのを追いかけたり…という具合である。

 長女の筆子さんはその思い出が強く残っていて、漱石のことを、「お父様ったら、それはもう怖かったのよ」と自分の子ども達に話していたという。
 今は半藤一利(小説家)の妻である半藤未利子さんは、筆子さんの娘だが、エッセイ集『夏目家の糠みそ』の中にこう書いている。

 〔筆子自身もよく殴られたが、おおかた髪でも掴まれて引き擦り廻されたのか、髪をふり乱して目を真赤に泣き腫らして書斎から走り出てくる鏡子を、筆子はよく見かけたものだった。〕

 未利子さん自身は、漱石が死んだ後に生まれた孫なので、生前の漱石の思い出はもっていない。
 鏡子さんにすれば、それは「あたまがわるい」ときだけで、普段の夏目金之助は優しい穏やかな人なのだ。筆子さんもそれはわかっているのだが、漱石の思い出はと聞かれると「怖い父」が強く記憶に刻まれていて、それが真っ先に出てくるのだろう。


 ところで、周知の通り、夏目漱石には多くの弟子がいた。その中に、久米正雄、松岡譲がいた。久米正雄は、(漱石の死後だと思われるが)漱石の長女筆子さんと結婚したい、と母親である鏡子さんに申し出た。鏡子は、筆子本人が了解するならいいでしょうと言った。ところが筆子の選んだのは、久米ではなく、松岡譲だった。松岡も驚いた。彼も、筆子さんは久米と結婚するのだろうと思っていたからだ。しかし、筆子の気持ちが自分にあるのならと、松岡譲もその愛に応え、結婚した。そして生まれた娘(四女)が未利子さんというわけ。
 勝手に結婚するつもりでいた久米正雄は、このことを恨んだ。後に、小説の中でリベンジする。『破船』という作品の中で、松岡という男を、姦計をめぐらせて筆子を奪ったずるい奴というように描いたのだ。世間ではそれを信じたようであるが、松岡譲は沈黙をまもった。

 まあ、人間、いろいろあるってことですナァ。
 「とかくこの世は住みにくい…」  (by 『草枕』 夏目漱石)



 ロンドンから帰って東大講師となった漱石だが、この頃が最も「発狂」ぐあいが激しかったようだ。

 〔 けれども学校は、ねっからおもしろくないらしく、…
 これまでの行きがかりもあり、ほかに生活費を得る道もないので、目をつぶって学校に出ていたようです。
  …外国からもってきたあたまの病気が少しもなおらないので、なおさらすべてのことがおもしろくない様子でした。 〕 (夏目鏡子)


 帰国して、「いやだいやだ」といいながらも、講師の仕事を続け、その年(1903年)の暮れに、漱石は自分で絵の具を買ってきて水彩画を描くようになった。だれがみてもそれは「すこぶるへた」(by鏡子)だったが、やがて「あたまのぐあい」が穏やかになってゆく。

 そして1904年、夏のはじめのことだった。
 本郷千駄木の夏目家に、一匹の子猫がどこからともなくやってくる…。

ロンドンの猫

2008年09月16日 | はなし
( この絵は、岩合光昭 『きょうも、いいネコに出会えた』 の写真を模写しました。 北海道小樽の猫です。)


 夏目漱石は29歳の時、中根鏡子と結婚。二人のあいだに、筆子、恒子、栄子、愛子と女の子ばかり生まれ…、やっと生まれた男の子が純一で、その次が次男の伸六。
 そのなかで、長男純一(バイオリニスト)の息子が、夏目房之介(なつめふさのすけ)である。
 その房之介氏、「漱石の孫」ということで、TVの企画で、夏目漱石のロンドン留学の生活を訪ねてみることになった。2002年1月のことで、これは祖父漱石の実際のロンドン滞在の100年後になる。 その時に、漱石の暮らしたロンドン郊外クラバムの下宿からポストにハガキを投函するということになり、その撮影をおこなった。
 すると…


〔僕がもっていた小さなスケッチブックの紙を破き、コーディネーターの方から切手をもらい、その場で書くことになった。
 さて、撮影をしようとしていると、どこからともなく猫がやってきた。
 さよう、猫である。(中略)

 あらためて撮影をはじめると、猫はふたたび、するすると僕の顔のあたり、門柱の上に丸くなった。 (中略) … スタッフには大うけだった。僕は完全に猫に食われていた。

 こんどは、道端にしゃがんで絵ハガキを描くところを撮った。後ろでカメラマンが興奮して騒いでいる。あとでみると、僕がしゃがんでいる場面に、カメラの横から猫が入っていき、歩きながらカメラをふりむいて一度カメラに目線をやってから、僕のもとにやってきたのだ。
 (中略)

 この猫は、スタッフに目もくれず、なぜか僕になついた。カメラマン氏は「僕も猫好きで、なつかれるんですけどねぇ、不思議だよなぁ」と、しきりに首をかしげていた。まぁ、世の中たまには、こういうこともある。
 そして撮影後、何ごともなかったようにどこかにいってしまった。〕
       (夏目房之介 『漱石の孫』)


 夏目漱石がロンドンへ留学したのは1900年から3年間。はじめの2年間、漱石はずっと神経衰弱に悩まされていた。ロンドン滞在の間、5度、下宿先を変えているという。引っ越して気分を変えようとしたのかもしれない。
 もともと漱石は、行きたくてイギリス留学を志願したわけではない。文部省から、行けといわれたから、しぶしぶ行ったのだった。漱石に課せられた課題は、英語の教え方をマスターせよ、ということであったが、漱石は勝手に(やれとはいわれていない)文学研究などにふけっていた。
 神経衰弱を解消するために、自転車に乗って走ってみたりした。日本へ帰ってからは自転車には乗らなかったが、それは、当時の日本の道路はデコボコで、とても自転車に乗って快適に走れるものではなかったからである。(100年以上も前ですからね。)


 日本へ帰って東大の講師になった。しかし、この仕事もどうも漱石には合わず(なにしろ、人気のハーン先生の後釜でしたから、やりにくかったようです)、やっぱり神経発作にたびたびおそわれる。ふだんは優しく温和な漱石だったが、こういう時にはずいぶん家庭で暴れたらしい。
 こうしてみると、夏目金之助(漱石)というひとは、「さえないサラリーマン」のように思えるが…。 30代後半…まだ彼は小説を書きはじめてはいない。

 1903年の暮れ頃から、絵を描く、というのが漱石のこころを和らげる手段となった。
 そんな時にあの「猫」が現われた。あの有名な小説の主人公となった「名前のない猫」である。 (←この猫は最後まで、名前がなかったのです。)

この下に稲妻起こる宵あらん

2008年09月13日 | はなし
 〔 九月十三日に猫が死にました。
  …いつの間にか見えなくなったかと思ってるうちに物置の古いヘッツイの上で固くなっておりました。車屋に頼んで蜜柑箱に入れて、それを書斎裏の桜の樹の下に埋めました。そうして小さい墓標に、夏目が、「この下に稲妻起こる宵あらん」と句を題しました。九月十三日を命日といたしまして、毎年それからこの日にはお祭りをいたします。

 …猫の十三回忌の時に、小さな祠でも建てようかと思ったのを考えなおして、九重の石の供養塔を建てました。そうして雑司ヶ谷の墓地にあった萩を移して周囲を飾りました。 〕

     (夏目鏡子述・松岡譲筆録 『漱石の思い出』)



 九重の石の供養塔…? んん?   十重なのだが…? 


 たぶん僕がスケッチをする際に、まちがえて余分に1個多く石を描いてしまったのでしょう。
 とおもったが、しかし、ケータイで撮った画像(↓)を見ると、十一重にも見える… 九重でなくてもかまわないのか?



 漱石公園は、早稲田の近くにあります。夏目漱石は、イギリス留学から帰国して、その後3度引越しをしています。その最後の住居がここにあったのです。「漱石山房」と呼ばれた洋風の白い建物が復元されています。
 この「猫の塔」も、復元されたもので、初めのものは一度戦争で破壊されています。その後、国だか都だかが復元したものが今もあるわけです。ただしこの下には猫の遺骨はすでになく、それはもっと前に雑司ヶ谷の夏目家の墓に移されているそうです。

 ここへ行った帰りは、地下鉄に乗らず、JR高田馬場駅まで歩いてみました。歩くと30分以上かかります。この通りには早稲田大学があり、以前は古本屋がずらりと並んでいたのですが、時代の流れで、ずい分古本屋も少なくなっていました。

 JR高田馬場駅では、電車が来ると、「鉄腕アトム」のメロディが流れます。手塚治虫がこの高田馬場を拠点に仕事していたからですね。
 夏目漱石の孫、夏目房之介(ふさのすけ)氏は、『手塚治虫はどこにいる』などの漫画評論本を書いて、手塚治虫文化賞(特別賞)を受賞しています。 夏目房之介氏の手塚治虫批評などを読みながら僕が思うことは、やはり初期の(『アトム』より前の)手塚治虫というのは、比類なき天才だったんだなあ、ということです。イメージでいうと、巨大な戦艦を3つまとめてひっくり返し、怪力でもってぐるぐる回す、そんなことを紙の中でやっていた…、そんな男だったのだと。


 ところで、漱石が猫のために書いた句の「稲妻」というのは、光る「猫の目」のことだそうです。

ファン・カッテンディーケ

2008年09月12日 | はなし
 半年ほど前、なぜか僕の頭の中に、「カッテンディーケ」という言葉が何度かふいに浮かんできた。
 「んー? …だれだっけ?」
 それが幕末に日本に来た外国の人物で、それを僕は若いときに司馬遼太郎氏の本で読んだということ、それはわかっていた。しかし、その人、カッテンディーケがどこの国からきたどういう人物だったのか、まるで思い出せない。それで調べてみた。幕末に、勝海舟に洋式軍艦の操舵を教えた人物、それがカッテンディーケだった。
 なるほど…。 うーん、…でも、だから??  だから、どうした?

 この司馬遼太郎『オランダ紀行』は20代の時に僕は一度読んでいる。だが、その細部までは憶えていないし、それほどオランダや歴史に興味があったわけではない。
 つい最近、『オランダ紀行』を再読して(きっかけはゴッホだった)、さきの咸臨丸とキンデルダイクとそこに伝わる「赤ちゃんと猫の伝説」のはなし(前回ブログ記事に書いた)を偶然に見つけた。「ああ、これか!」 それで、納得した。僕はきっと、これを見つけたかったのだ。この話を見つけて、なぜかとてもうれしくなったのだ。


 アメリカのペリーの「黒船」が日本にやってきたのは、1853年7月。その蒸気船を観て、「あのような洋式の軍艦が欲しいのだが…」と徳川幕府はオランダに相談した。するとオランダは、気前良くタダで1隻それをくれた。スムービング号である。これは「観光丸」と改名された。日本(幕府)が初めて持った洋式軍艦である。オランダ国としては、それをプレゼントすることによって、日本国が軍艦の良さを知り、新しい軍艦を注文してくてることを期待してのことだったようである。その期待どおり、幕府はオランダに2隻の軍艦の建造を頼んだ。そのうちの1隻が、キンデルダイクで建造された「咸臨丸」である。(もう1隻は朝陽丸で、完成は1858年。)
 ただし、キンデルダイクで造られたのは船体だけのようだ。出来あがった咸臨丸(このとき名前はヤーパン号)の船体は、ライン川を下って、北海に面したヘルフットスライスという港で蒸気機関や艦載砲などが載せられた。「ヘルフットスライス」を無理矢理日本語になおすと「地獄への第一歩の水門」となるのだそうだ。


 完成した咸臨丸(ヤーパン号)は1857年、ヘルフットスライスを出港し、注文先の日本に向けて出港した。艦長は、オランダ海軍少佐ファン・カッテンディーケである。

 カッテンディーケは、Kattendijkeと書くのだが、katは「猫」、dijkeは「堤」である。(dijkeは、地名ではダイク、人名ではディーケと読むらしい。) 
 つまりカッテンディーケは、「猫堤」となる。



〔 咸臨丸は「赤ちゃん堤」で誕生し、「地獄への第一歩の水門」港から、「猫堤さん」に操艦されて日本へきたことをおもうと、童話に似ている。 〕
     (司馬遼太郎 『オランダ紀行』) 


 

 「猫堤」さん、ファン・カッテンディーケが、欧州から大西洋、インド洋をまわり、咸臨丸(ヤーパン号)とともに長崎に入港するのは1857年9月。
 2年間、彼は長崎に留まり、軍艦の操舵法を幕府の生徒たちに教えた。勝海舟、榎本武揚らが、その生徒である。咸臨丸はかれらの練習艦であった。
 カッテンディーケ「猫堤」先生は2年後、オランダへ帰国。
 軍艦としては小型の、その練習艦でもって勝海舟らが太平洋を横断してアメリカまでゆくのは1860年のことである。咸臨丸は荒波に揉まれ、艦長の勝海舟はじめ幕府の船員はずっと船酔いだったという。同乗していたアメリカ船員に助けられたらしい。ムチャな航海だったが、なんとか無事成功した。

キンデルダイク

2008年09月10日 | はなし
 ライン川___スイスのアルプスから発し、ドイツを流れ、オランダで北海にその流れを注いでいる。そのオランダのライン川の辺に、キンデルダイクという村がある。この村は、1997年にユネスコの世界遺産に登録されている。それは、このキンデルダイクに、19基の貴重な風車があるからである。(いまも中に人が住んでいるんですって!!)
 オランダでは18世紀、たくさんの風車が造られた。その数は1万基を越えるが、他の動力が発達してやがて需要がなくなって消えていった。それでも今もオランダには950ほどの風車がある。
 17世紀のオランダは、その海運力で世界をリードした。わずか200万人の人口にすぎないこの国の船が、世界を駆け巡った。「海こそ我が領土」といわんばかりに。1600年には、日本列島にもやってきた。鎖国政策をとる徳川幕府が、欧州で唯一貿易をゆるした国である。


 「キンデル」は「赤ちゃん」、「ダイク」は「堤(つつみ)」、つまりキンデルダイクは「赤ちゃん堤」という意味をもつ村の名前である。こんな伝説があるという。

 〔 「むかし、この堤に赤ちゃんが流れついたといいます」
 と、造船所の人がいった。地名についての伝説で、むろんはるかなむかしのことである。洪水のあとのことだろうか。
 赤ちゃんが乗っていたのはまるい板で、いっぴきの猫と一緒だった。赤ちゃんが寝返りを打って板が傾くと、猫がすばやく体重を他に移して平衡をたもちながら流れ着いたというお話である。 〕
   (司馬遼太郎 『オランダ紀行』)


 このキンデルダイクにあった造船所(司馬さんが行ったときにも小規模ながらもまだあった)で、あの咸臨丸が造られたのだという。そう、幕末、勝海舟や福沢諭吉やジョン万次郎を乗せてアメリカまで太平洋を往復した、あの咸臨丸である。ここ「赤ちゃん堤」で造られていたのだ。1855年に起工、1857年完成。

アムステルダムの猫

2008年09月08日 | ほん
[ 海洋博物館に行った。
 受付に猫がいた。
 台上にねそべっている。黒っぽいシマ猫で、巻貝を置いたような形でうずくまり、まぶたを持ちあげて私どもを見たが、すぐ閉じた。
 この光景は、猫がつねに船乗りとともにあったことを象徴している。
 十七世紀のオランダの大航海時代には、この国の猫も地球のあちこちに行っていた。猫がいなければ航海がなりたたないといっていいほど、当時の船にはネズミが多かった。

 ヤマネコはべつとして、イエネコがヨーロッパにやってきたのは八世紀だそうである。自信のない想像だが、アラビア人による地中海貿易と関係があるのではないか。アラビアは猫を飼うことの先進国なのである。
 日本に猫(ヤマネコでなく)がきたのは、伝説では仏教伝来のときとされている。仏教伝来は、通説では五五二年である。日本の船に経巻を積むとき、ネズミに食いあらされないように、という配慮からだったといわれる。
 とすれば、猫は遠洋航海につきものだったといっていい。
 ついでながら、猫を飼う習慣の起源ははるか前のエジプトにあるようで、中国にもたらされたのも、遠い古代ではない。古くはと書いた。古代は、田にはびこるネズミをとらせるために“”を飼ったらしい。 ]

   (司馬遼太郎 『街道をゆく三十五・オランダ紀行』 より)