はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

“中原囲い”のお通りだい!

2009年03月29日 | しょうぎ
 この先手玉の‘囲い’を「中原囲い」という。1992年から、中原誠16世名人が使い始めた新型の‘囲い’である。

 上のこの図は、中原誠名人に高橋道雄九段が挑戦した92年の名人戦第3局。 左右の2枚の「桂馬」を跳ねていて、まさに、「桂使いの中原」の将棋、という構えである。
 児玉孝一七段創始の「カニカニ銀」の場合は2枚の銀が前線に出てゆくわけだが、この図の「中原の2枚の桂」は、大きく翼を広げたペガサスのようである。このペガサスの動きは迅速で、強烈だ。 (ここはキングギドラというべきか。)
 いま、▲1五歩と中原名人が仕掛けたところ。以下、△1五同歩▲1四歩△9四歩▲7四歩△同歩▲2五桂△1四香▲8六飛△同飛▲同角△4五歩▲8三飛△7二銀▲8二飛成△5五角▲9一竜△3六歩…。激しい攻め合いになった。そして…

       
       投了図 (127手▲3七歩まで)

 この将棋(第3局)は中原が勝利した。 
 しかし次の第4局を高橋が勝ち、3勝目。 夢の「名人位」が高橋の目の前に見えてきた――。

 85年に谷川浩司から「名人位」を取りもどした中原誠(前回記事をごらんください)は、しかし、3年後に再び谷川と戦い、今度は谷川浩司が名人に返り咲く。ところが中原は、90年、またしても名人位に復位。このとき中原誠、43歳。
 その2年後の92年に、中原名人(45歳)に挑戦したのが、当時32歳の高橋道雄
 高橋は強かった。だが、谷川浩司や中原誠の若い時のように、天才だ、とか、いずれ名人になるだろう、などと言われることはなかった。だから戦前の雰囲気は、中原防衛(だろう)という感じだった。
 ところがその雰囲気を打ち破って、高橋はぐいぐいと前進した。「矢倉」で名人中原を圧した。中原も矢倉は得意なはずだったが、高橋の腰の重いパンチに、中原は勝てなかった。
 高橋3勝、中原1勝。 …あと1勝で、高橋新名人の誕生だ。
 ところが、ここからの中原の将棋がすごかった。中原は矢倉を捨て、軽快な「相掛かり」で闘った。
 僕はリアルタイムでNHK衛星放送の中継を観ながら、中原誠の指し手に感動した。がけっぷちで、こんな若々しい将棋が指せるなんて! 名人戦という大舞台だというのに、なんという大胆な…!
 中原誠は攻めた! 攻めて攻めて、攻め切って、そして3連勝! 名人戦の中原誠はほんとうに強かった。この年、92年の名人位を防衛し、これで通算15期目の名人位となった。


 92年に「あと一歩で名人」というところまで登った高橋道雄九段は、今年4月の誕生日で49歳になる。
 その高橋九段、今期のB1順位戦で好成績を挙げ、来期はA級に復帰する。 谷川浩司よりも2つ年上で、彼がA級最年長になる。
 この3月に高橋九段がA級昇級を決めた将棋、高橋九段の使った戦法は「8五飛戦法」だった。 この戦法の玉の陣形は、「中原囲い」なのである。


 1992年に生まれた「中原囲い」だが、その当時、だれもその囲いをまねて使う人はいなかった。中原誠の将棋は、だれも真似が出来なかったのだ。橋の欄干を飛びまわる牛若丸のようなあぶなっかしい将棋にみえたから。
 ところが中座真四段(おなじ‘マコト’なのがおもしろい)が、自分なりにこの「中原囲い」を使う工夫を思いついた。そうして出来たのが、「8五飛戦法」(「中座流」とも呼ぶ)である。1997年のこと。
 世紀末に生まれたこの新戦法「8五飛戦法」は優秀で、それに気づいた一部の感性の鋭いプロ棋士が採用して(はじめは徐々に)流行っていった。はじめに気づいたのが野月浩貴四段だ。
 そして、A級順位戦において、最初にこの異端とみられていた新戦法を使ったのが井上慶太八段だった。 1998年3月、これに勝てばA級残留という、最終局の重要な対局で井上八段は、この戦法を秘密兵器のように使ってきた。それに勝ってA級残留を決めたのだった。 それは、鮮烈な印象を残した。NHK衛星放送のTVカメラが入っており、その勝ちっぷりが素晴らしくカッコ良かったので、この「8五飛戦法」ががぜん脚光を浴びることとなったのであった。

 来期、その井上慶太八段(45歳)も、高橋九段とともにA級に復帰する。(40代のベテランが、20代の渡辺明竜王、好調30代の久保利明八段らを抑えて昇級だ!) 今年度B1クラスの順位戦12対局のうち、井上八段は2局、高橋九段は実に5局を、「中原囲い」で闘っている。


       
       ↑
     中座流・8五飛戦法の陣形。(後手番の戦法なので反対向きになっている。)



 「8五飛戦法」はやがてタイトル戦にも登場するようになった。
 2001年に丸山忠久名人(当時)が、名人戦第7局で谷川浩司の挑戦を退け名人位を4-3で防衛したのは、この戦法だった。

 そして2004年の竜王戦は、渡辺明竜王が森内俊之(当時名人)の挑戦をこの「8五飛」で退けた。

 2005年、瀬川昌司さん(現プロ棋士四段)が、プロ入りを決めたときの戦法も、これだ。


 くり返すが、この戦法は「中原囲い」が基本である。1992年に生まれた「中原囲い」は、いまもトップ棋士が採用しているのである。



 中原誠の創始した「中原囲い」…、これ、じつは、中原さんがゼロから考案したものではない。 むかしむかし流行った‘囲い’なのだ。そして、それをほとんどの人は知らなかった。なにしろ中原さんも生まれていない時代に流行ったものなので。
 この‘囲い’、明治時代の終わりごろから大正時代にかけて――つまり関根・坂田が闘っていた時代に――流行したのである。ただし、有名な対局では登場しておらず、その後、すっかり廃れてしまった‘囲い’なのである。だれも見向きせずに何十年も忘れられていた――その廃品を中原名人が拾ってきて、ぴかぴかに磨きをかけたというわけである。
 温故知新…。
 だからこの‘囲い’の本当の創始者は、わからない。
 ただ、言えることは、この‘囲い’がなかったら「8五飛戦法」もなかった、ということだ。



◇王将戦
  羽生善治 4-3 深浦康市
  羽生、タイトル防衛、5連覇!!
     ↑ 
  最終局で羽生さんが採用したのも、「中原囲い」(横歩取り8五飛戦法)でした。


◇棋王戦(5番勝負)
  佐藤康光 2-2 久保利明
  最終局はあさって30日。

◇NHK杯トーナメント 決勝
  羽生善治 ○-● 森内俊之
  羽生、7回目の優勝!
 
◇女流名人戦
  清水市代 3-2 矢内理絵子
  清水、女流名人復位、二冠に!

◇マイナビ女子オープン(5番勝負)
  矢内理絵子 - 岩根 忍
  4月17日開幕。 岩根、タイトル戦初登場!


◇名人戦(7番勝負)
  羽生善治 - 郷田真隆
  挑戦者は郷田真隆
  将棋界の春は「名人戦」!  4月9日開幕。
  郷田さんは2年ぶりの名人戦です。 
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中原の、桂!

2009年03月12日 | しょうぎ
 江戸時代からつづく「名人位」の初代は大橋宗桂である。 (ほんとうかどうか知らないが)織田信長が彼の将棋の桂馬の使い方のうまさに感心し、「そちはこれより宗桂と名乗るがよい」と言ったとか。以来、大橋家に将棋の強い男が出ると「宗桂」の名を襲名した。というわけで、歴史上につらなる「名人」たちの中に「大橋宗桂」という名の名人は複数(3人)いる。

 現代の将棋ファンの中では、「桂馬使いの名手」といえば、中原誠である。16世名人、中原誠。 彼こそ、20世紀の宗桂と呼ばれている――というのはウソだが、とにかく、桂使いの名手であることは、間違いない。


 上図は85年の名人戦。
 31手目(!)に4五桂とピョンと跳び、3筋、1筋、2筋とポンポンと歩を突きすてて、左の桂馬も7七に跳ね、5六飛と中央を狙う。
 これでなんと名人位を谷川浩司から奪還してしまった! 23歳の‘光速流’谷川浩司を翻弄するような、軽快な指しまわしで名人の座に復位した中原誠は、38歳であった。

 上図のあとは、△5二飛▲5五角△2二銀▲6四角△5四歩▲4二角成△同金▲7五歩△6三銀▲6五桂(!)
 (以下△6四銀▲6六飛△6三歩▲2三歩△3一銀となって下図)

   

 見よ! この二枚の桂!
 これが中原誠の将棋なのだ。 (これでイケるなんて、いったいだれが思うだろう)

 ここから▲5三桂左成(!)△同銀▲6三飛成…
 これで勝っちゃうんですから! (相手は谷川名人ですよ!)



 中原誠は、1947年生まれ。
 24歳で「大巨人」大山康晴を破り、若き名人となった。10年名人位を守り、その安定した将棋は‘自然流’などとよばれた。

 …が、そうではなかった! みんなダマサレテいたのだ!

 一度名人位を失った後の中原将棋は、もはや‘自然’などではなかった。その内に隠し持っていた超攻撃的な煌めきをむきだしにして、風の如く相手に襲いかかった。その奔放な将棋には、みな呆れた。だれも真似ができなかった。

 60年代、70年代――つまり大山・中原の名人時代だが――は、「じっくりした将棋」が主流であった。さらに、80年代になって、堅く守って強くたたかう居飛車穴熊が流行し始め、それが最有力戦法となっていった。生活の懸かった「負けられぬプロ棋士」たちは穴熊を自分のものとして闘った。
 そんな中で、中原誠は、逆を行った。重い殻を脱ぎすてて身軽になった中原のむきだしの才能は、名人戦という大舞台で、このような天空を駈ける将棋で自分を表現していたのである。
 今でこそ、タイトル戦の序盤でどのような激しい将棋が現われてもふしぎでなくなったが、おもえば、80年代、90年代の中原のあの超攻撃的将棋は、ひとの視野より10年以上先の21世紀の原野を、ただひとり歩いていたように思われる。

 やはり中原誠は、歴史に残る「名人」なのだ。   (→中原、現役引退
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