はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

敗者あり。

2008年03月31日 | しょうぎ
◇NHK杯決勝  佐藤康光(優勝!)○-●鈴木大介

◇棋王戦  佐藤康光 3-2 羽生善治 (佐藤、防衛!)
      絶不調と言われながらも、佐藤、タイトル戦に3つ出て、二冠を防衛、
      NHK杯は優勝、A級残留…  あれれれ、みんな、だまされてた?
      (07年度の最優秀棋士って、誰になるのさ!?)

◇名人戦  挑戦者に、羽生善治! (名人は森内俊之)
      4月8日から開幕

◇大和証券杯女流最強戦  甲斐智美(優勝!)○-●矢内理絵子

◇マイナビオープン  矢内理絵子 - 甲斐智美
           3番勝負は4月3日に開幕 ←まちがい(5番勝負でした)

◇順位戦  このブログに登場してきた棋士では、
      深浦康市、鈴木大介、阿久津主税、豊川孝弘、佐々木慎、村山慈明
      らが昇級を勝ち取りました。 おめでとうございます!

木下尚江

2008年03月30日 | はなし
 今月初め、映画『赤貧洗うがごとき』を観たあと、新宿中村屋に寄ってみた。店頭ではいちご大福を販売していた。その地下は喫茶店になっており、そこで僕はコーヒーとミックスサンドを注文した。ここには初めて入るが、人が多くて、落ち着いて長く居たくなるような感じではないな、と思った。そして、この土地で、木下尚江や相馬愛蔵が田中正造のことを話したりしたのだなあ、と。100年前の昔だが。


 臼井吉見著『安曇野』は、明治女学校を出た良(相馬黒光)が、安曇野の相馬愛蔵のもとに嫁ぐところからはじまっている。やがて新宿中村屋を創業するこの夫婦がこの小説の主役だが、それに関わる多くの主役級の人物が登場する。インド革命家ボースもその一人だが、ボースが登場するのは第3部である。この小説は明治時代から昭和の大戦後までを描いて全部で5部まであるが、第1、2部では明治時代になっている。そこで主役の一人として登場するのが、萩原守衛(芸術家)と木下尚江(新聞記者)である。この二人、相馬愛蔵の友人であり、安曇野の出身なのである。(厳密には木下尚江は安曇野の隣の松本の出身)

 木下尚江(きのしたなおえ)などという人物を僕はそれまで聞いたこともなかった。この小説によって昨年、知ったのである。「尚江」というから、いいかげんにながして読んでいた僕ははじめは「女か?」とおもったが、その発言から、すぐに男だとわかった。木下尚江は、キリスト教信者であり、そして、幸徳秋水、片山潜らとともに、社会民主党の結成をする(1901年)。(後に尚江は社会主義とは距離を置くようになるのだが。)
 この木下尚江は、やがて田中正造と知り合い、親交を深めていく。 

 『安曇野』は、正造と尚江の出会いをこう書いている。


 「お待たせしました」
 声をかけると、眠りから醒めたかのように、血の気の薄い、白けた顔をあげて、腫れぼったい目をむけた。
 尚江とわかると、額をテーブルにすりつけるようにして、
 「田中正造でございます」
 これが初対面の挨拶だった。もつれる手つきで風呂敷袋をといて、新聞の切抜帳をとり出し、ひとりごとのようにつぶやいた。
 「このごろは、新聞を見るひまもない始末でがして__」
 切抜帳は、尚江が渡良瀬川の沿岸や足尾の山を歩いてえた調査と所見を連載したものだった。


 「~でがす」というのが、栃木あたりの方言のようだ。
 この二人の出会いは1900年(明治33年)である。この時、正造60歳、尚江30歳。
 木下尚江の勤める毎日新聞社(いまの毎日新聞ではない)の社長島田三郎(代議士でもあった)の命を受けて、尚江は足尾銅山の鉱毒を調べ、それを新聞に連載した。現地を歩いて、そこで生活する人々の話を聞き、それを書いた。そのことを感謝して田中正造は尚江をたずねてきて礼を言った。「現地に来て見てほしい。そうすればそのひどさがすぐにわかる」と、国会で正造がどんなにそう訴えても、国は動かなかった。20年以上も続いている被害は渡良瀬川にとどまらなかった。渡良瀬川の鉱毒は利根川に注ぎ込み、どんどん拡大しつつあった。そんなときの、尚江の新聞記事だったのである。

 木下尚江のその時の、田中正造についての印象は「国会で演説するときの代議士田中正造とは別人のようだ」というものだった。その姿は、国会で演説し、激しくほえる田中正造ではなく、ただの、弱々しい老人のようだった。
 実際、政治家の中で孤立していく正造は、ボロボロであった。やがて正造は、党(憲政党)を抜け、代議士をやめ、しかしそこから「一人の老人」としてたたかいを続けていく。
 その様子をずっと見届けたのが、木下尚江であった。尚江は、正造のファンであった。その後ゆっくりと、聖者の風貌をおびていく正造を、尚江はふかい尊敬をもって見つめた。正造の死に際しても、駆けつけ、その傍らにいた。その場面も、『安曇野』には描かれている。

 尚江は、のちに、『田中正造の生涯』を編纂した。
 この本は、正造の書簡や日記の主なものが集められたもので、いま僕の傍らに図書館から借りたその本があるが、たとえば、次のような正造の記述がある。


 銭も無いくせに、又年よりのくせに、この寒いのに奔走すると誹る。
 しかれども、否な、予は至る所の美術善事を見て歓喜に堪えざるなり。それ美は醜の反対なり、醜を見ば、美必ずその裏にあり。


 「歓喜に堪えない」と正造は言っている。うれしくてたまらない、と。
 これは1911年(明治44年)の正月の日記だが、寒中を奔走しながらも幸福感に包まれているそんな境地にある、ということがわかる。

あれが生き神様というものだ

2008年03月28日 | はなし
 きのう、シチュウ用の牛肉が安かったので買った。玉葱と芋としらたきとで醤油で煮てみた。食ってみた。旨いが、肉がカタい。安い肉だからなのか、それともシチュウ用の肉というのはそういうもので、何時間も煮込むのがフツウなのか。


 明治時代、足尾銅山の鉱毒に何年ものあいだ悩まされていた人々がいた。それはもうひどいもので、かれらは何年もがまんしてきたが、おとなしいかれらの代わりに国会で何度も何度もしつこく怒って訴えたのが田中正造である。が、それでも国は動かない。やがて田中は「国はもう亡びた」と叫び、ノイローゼとなってゆく。

 島田宗三さんは、谷中村に生まれた。ずっと後になって島田宗三さんが書いた『田中正造翁余禄』の中に、島田早苗という人が2ページの短文を寄せていてその題名は「田中正造翁と父島田宗三」とある。それによると、そのころ鉱毒被害で米も実らず北海道へ移住するような話が出ていたが、早苗さんの父宗三さんは9歳のとき、祖父(宗三の父)がこう話していたのを聞いたという。
 「北海道へ移住しなくても、田中さんがあれほど骨を折ってくれているのだから大丈夫だ。あれがほんとうの生き神様というのだ」
 宗三さんはまだその「生き神様」に会ったことはなかったのだが。
 
 やがて宗三さんの祖父も父も死んでしまう。
 谷中村に大洪水がおこったときに、家族を避難させたあとに二人は、うっかり鉱毒を含んだ水を使って飯を炊いてしまい、それで身体が弱っていき、療養に努めたが6年後に息絶えた。1902年のことである。
 『余禄』には次のように記されている。

 〔それから数日後の三月五日、父は四十六歳で死んだ。前年五月、祖父が六十四歳でおなじ胃病で死んでから僅かに十ヵ月、思えば父も祖父も鉱毒のために死んだのである。〕

 このとき、島田宗三さんは13歳。
 宗三さんが田中翁に出会うのはその1年後である。
 田中正造はすでに「政治」に絶望し、政治家ではなくなっていた。彼の精神はどん底にあったが、それでも被害者である住民のそばにいた。彼は、政治家ではなく、ただの「翁」になっていった。
 川には、まだ、鉱毒が流れ続けている。ただの翁になっても、正造は、まだ、たたかいをやめるわけにはいかなかった。だが、なにと、どうやって、たたかえば良いのか…。正造は、迷いの中にあった。



 そんなことを僕は先月、本で読んでいたときに、2年前に作られた田中正造についてのドキュメンタリー映画があると知った。新宿でそれが観られるというので、今月、出かけてみた。映画のタイトルは『赤貧洗うがごとき』。
 この映画には、島田早苗さんも登場するのだが…
 (あっ!)
 「早苗」さんというから、島田宗三の娘さんかと思っていたら、オッサンだった。(息子だったのか…。)

 映画のあと、正造の絵が良く描けているので、ポスター(¥300)を買った。

 数日後、米屋に米を買いに行った。ずっと「北海道きらら」を食べていたのだが、この頃その米が入荷しなくなったので、別の米屋で、なんとなく「これにしてみようか」と、聞き慣れない銘柄の米をためしに買うことにした。新しい種類のようだ。「コシヒカリよりも粘りがある」と書いてある。これをくださいと店主に言うと、その店主は何度も「これはここでしか売っていない米ですよ」と言う。それで僕は「へえ。どこの米ですか?」と聞いた。店主は「えーっと」と直ぐには答えられなかったが、何か紙を見て、「佐野ですね」と言った。
 (ああ、佐野! …佐野か!)
 佐野市は、栃木県にある。なぜそれを僕が知っていたかというと…

 田中正造は栃木県小中村に生まれた。その土地は、現在は、佐野市である。



 硬い牛肉の入った煮物と、佐野でつくられた米を食ったあと、このブログを書いている。
 

僕は君の涙

2008年03月27日 | おんがく
 Perfume(パフューム)を聴きながら書いています。  …ウソです(笑)。 でもあの彼女達、まったく心には沁み込んでこないのに、それなのに妙に記憶に残る歌をうたうと三人組だなあ、と気になってはいます。男が読んではいけない少女漫画に触れたような感覚。「テクノポップ」なんすか、これ。

 ラジオから流れてきた『星つむぎの歌』という平原綾香の曲をもう一度聴きたくなったので彼女のベストアルバムをレンタルしてきて聴いています。いい曲ですね。東京は春から夏にかけての、星が見えにくい季節になりましたが。
 平原綾香さんは『Jupiter』が有名ですね。僕はあの歌声と曲は好きなんですけど歌詞がどうも心にフィットしない。まあそれはいいとして、あれは、クラシックのホルスト『惑星』の曲ですね。今確認してみましたら、その曲をホルスト(イギリス人)が作曲したのは1914年。英国が第一次世界大戦に突入した年です。その組曲の中で「Jupiter(木星)」は「快楽をもたらすもの」という意味なんですって。
 じつは僕は『惑星』のこの部分を若いときになぜだかよく口ずさんでいたんです。歌詞はありませんからハミングで。

  んーんーんー んんんんんんんんんんーんーんーんー んんーん♪

 僕はクラシックはほとんど聴かなかったのですが、たぶん、富田勲のシンセサイザーの曲を聴いていて、その影響ですね、『惑星』をハミングしていたのは。富田勲さんは、沢山の有名な曲がありますが、TVの『ジャングル大帝』の曲が馴染み深い。

  あー あー    あー あー ♪


 僕は10年くらい前、NHK「みんなの歌」で流れていた太田裕美さんの『僕は君の涙』を聴いて、その曲がとても好きになりました。
 その頃の僕は実家にいて、働く以外はめし食って詰将棋をつくって眠って、あとは川を眺めていました。いつも目の前で鶺鴒(セキレイ)が2、3羽シッポをピコピコ動かしながら川にすむ虫を探していました。セキレイって飛ぶときはばたばたと一生懸命はばたくんですが、そのわりにうまく飛べていないようにみえる。かれらは、夫婦だったのか、きょうだいだったのかわかりませんが、ずいぶん仲が良さそうに見えました。
 そんなときに聴いた『僕は君の涙』は、こんな内容の曲です。

 小さな女の子がいます。そのコが泣いて、涙がこぼれ落ちます。落ちたその涙のつぶである「僕」は雨とともに川に流れ、川下へと旅をして行きます。やがて海に出ます。それから水蒸気になって空にのぼり雲になります。雲は風にのって山のほうまで運ばれ、そこで雨となって大地に降ります。雨は大地の渇きを潤してさまざまなものを洗い流します。そして「僕」は、大地の中にすいこまれ葡萄の木の根に吸い上げられて、やがてブドウの実となります。ブドウの実はワインに変わり、あの「女の子」のもとへ。「女の子」は成長して大人の女性となっていました。そこでも泣いていた彼女は、ワインを飲んで元気に。そして「女の子」は、結婚しお母さんになり…。

 そんな話です。僕はこの話のように、川の水が流れて海へ出て、やがて山に戻ってくる… そういう話が、どうも、すきなのです。(彼女の中に入った「僕」は、その後、オシッコに…。いけません、そんなこと考えちゃいけません!)
 この曲はたしか太田さんの作詞作曲だったと思います。太田裕美さんは「酒豪としても有名である」とWikipediaにありました。太田さん、ワインの飲みすぎにご注意を。(スマン、よけいなお世話じゃ。)


 ところで、東京では、意外なほどウグイスの声をよく聴きます。去年、僕は20回以上は聴いています。こんなにもウグイスが鳴くのはおかしいと思い、「そういうグッズ」(ウグイスの鳴き声が流れてくる機械)が販売されていて地味に流行っているのでは、と疑いはじめていたところでした。
 2週間前、今年最初のウグイスの声を聴きました。ずいぶん近いように思われたので、よし、ほんもののウグイスかどうか確かめてやろうと思い、声の出所をさがしました。すると…
 居たのです。木の枝をちょこちょこと飛び移っているウグイスが。ええ、電気ウグイスではありませんでした。(すまん、ウグイス。うたぐって悪かった。)
 しかし、そうすると、このウグイスたちは、鳴かない季節もやはり東京に住んでいるのです。どんなふうに暮らしているのでしょうね。

渡良瀬川の翁

2008年03月26日 | はなし
 田中正造翁とその歌。

 1905年正月、島田宗三さん(当時15歳)が書初めをしていると、島田さんの家に泊まりに来ていた田中正造翁(当時64歳)が、わしも書きたい紙はないか、と聞いた。「私が書いてしまったのでもう紙はありません」と答えると、翁、「ではそこにある巻紙でよい」と言って、島田さんの手習い筆を借りて粗末な巻紙にかいた歌。「竜の躍動するような筆鋒で」と、島田さんはその著書『田中正造翁余禄』に記している。
 島田宗三さんはこの若い歳で父と祖父を亡くしたばかりだった。ときどき泊まりにくる田中翁は、もう一人の新しい父であったろう。それから9年間、行動をともにした。