1950年の対局「花村元司-大山康晴」戦から。
図で、先手の花村元司の指した手は、3四飛!
この飛車切りはびっくりした。しかもこの後、花村さんは勝っている。しかも、相手は大山康晴だ!!
3四飛、同金、6一角、3三金、8三銀という攻めを狙っている、というのはわかる。しかし、問題は先手陣がもつかどうかだ。△2八飛と、先に飛車を打たれて、自分ならとても受けきれる気がしない。いったい、花村さんはこの将棋をどうやって勝ったのだろう!?
ということで、今日はこの将棋の棋譜を見ていきます。これ、先手の花村元司の「雁木」の将棋なんですよ。
初手より
▲7六歩 △8四歩 ▲5六歩 △8五歩 ▲7七角 △5四歩 ▲6八銀 △3四歩
▲4八銀 △6二銀 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角 ▲7八金 △5二金右
▲6六歩 △3二銀 ▲6七銀 △4二角 ▲5七銀 △3三銀 ▲6五歩
先手7七角、後手3三角型の「相居飛車」戦。ここから、先手は6六歩~6七銀と「雁木」に、後手は4二角~3三銀で「矢倉」に。
△8六歩 ▲同歩 △同角 ▲同角 △同飛 ▲8七歩 △8二飛
▲6九玉 △4三金 ▲6六銀右 △4二金上 ▲4六歩 △4一玉
先手は6五歩と突きました。これは次に6六銀右~5八飛~5五歩などのねらいがあります。
後手の大山康晴、ここで8六歩から角交換を決めました。この角交換をするかしないかは「矢倉」側の権利となります。
「矢倉vs雁木」の戦型で、「雁木」の側が角を上がると、角交換将棋になることを覚悟しなければなりません。
だから花村さんのここでの6五歩は、「さあ、角交換をしてこい」ということかもしれないですね。
▲4八金 △3五歩 ▲7七桂 △3二玉 ▲7九玉 △5三銀 ▲8八玉 △9四歩
▲1六歩 △1四歩 ▲9六歩 △3四銀 ▲5七金
お互いが「角」を持っているため、ここからの駒組みが難しくなります。角打ちのスキを作らないように駒組みを進めなければなりません。後手の陣形は「天野矢倉」と呼ばれる、江戸時代の天野宗歩が愛用したという矢倉で、通常の矢倉に較べると角打ちのスキが少ない。
先手の花村さんは4六歩と突いています。これは相手に4五歩と位を取らせたくない、という意味でしょうか。この歩を突くと4七に空間をつくってしまうので、ここに角を打たれないよう、ここで4八金と上がりました。次に3六歩~3七桂でしょうか。
それを阻止する大山さんの3五歩。こっちの位を取りました。
△6四歩 ▲7五銀 △6五歩 ▲同桂 △6二銀 ▲6六銀上 △6三歩 ▲2四歩
こうなりました。ここで後手の大山さん、6四歩。これは歩交換のねらいですが、花村さんは素直に同歩とはせず、7五銀、6五歩、同桂と、大山さんの動きを利用してきました。これはちょっと先手が無理気味な動きに見えますが、しかし、こういうのが “花村流”なんですね。少しくらい悪くても、逆転できる、という自信があります。
1917年生まれの花村元司はこの対局時は32歳。対する大山康晴は27歳。大山はこの年名人挑戦者になっています。名人位奪取はこの時はなりませんでしたが、2年後に名人になりました。
△2四同歩 ▲同飛 △2三歩 ▲3四飛
さてここです。
2四歩、同歩、同飛、2三歩に、3四飛!
なお、ソフト「激指13」ではこの3四飛は第3候補の手です。第1候補は2八飛、第2が2六飛です。「激指」はいずれにしてもここではすでに先手苦戦と見ています。
△3四同金 ▲6一角 △3三金引 ▲8三銀
花村の「飛車切り!」です。
△8三同飛 ▲同角成 △2八飛 ▲6九歩
3四飛と飛車を切れば、2八飛まではほぼ自然な進行。
問題は、2八飛からの後手の攻めを、先手がどう受けるかだ。
△2九飛成 ▲6一馬 △6九龍 ▲7九飛 △同龍 ▲同金 △2八飛
▲6八歩 △5九銀 ▲6七金 △4九角 ▲7七玉
花村の“答え”は、「6九歩」だった。これで受かっているのか!? (6九歩は後手に△6九銀と打たせない意味がある)
2九飛成、6一馬 、6九龍に、7九飛。 なるほど、こう受けるのか。
再度の2八飛に、6八歩と受けたところは、「激指13」もほぼ「互角」の評価。しかもその局面での後手の最善手は「7一銀打」だという…。
そうであるなら、「花村の飛車切り」は十分に成立していたということになるかもしれない。
△6四歩 ▲6二馬 △6五歩 ▲同銀 △8五桂 ▲8六玉 △6七角成 ▲同歩 △6八銀不成
花村は7七玉と玉を上がる。
大山、6四歩。
▲8五玉 △7九銀不成 ▲5三銀 △4三金打 ▲4二銀成 △同金 ▲5三金 △4三金打
▲4二金 △同金 ▲5二金 △4一金打 ▲同金 △同金 ▲3四桂
“花村マジック”としか言いようがない。ここではすでに先手が優勢になっている。
花村はここで8五玉としたが、すぐに5一銀と攻めるのがわかりやすかったかもしれない。(8五玉、7九銀不成の2手の交換は、相手に金を一枚余分に渡すので、その分、後手も受けに粘りが利く。) 5一銀、4一金打、4二銀成、同金、5三金、3一銀、6四角の進行は先手勝ちだ。
しかし本譜でもやはり問題なく先手勝ちのようです。
△3四同金 ▲8二飛 △3三玉 ▲8一飛成 △9三桂 ▲9四玉 △8二歩 ▲9五桂
図の3四桂は、「激指13」にも見えていない好手で、“決め手”。
同金と取らせて、8二飛。これが花村元司の寄せの構図だった。
まで113手で先手の勝ち
大山康晴、投了。
花村元司の見事な勝ちでした。あの飛車切り以降、大山さんの手にはっきりした疑問手があったわけではないのに、花村さんが勝ちになっていました。
戻って、ちょっと研究してみます。
途中図
この途中図は56手目、6三歩と大山さんが歩を打った局面です。この歩は、先手からの6四銀などを消した手ですが、すぐに打つ必要もない手です。
それを大山さんがここで打ったのは、これは単に「受け」の手ではないということです。
仮に、ここで先手が5五歩と指したとしましょう。これは戦線拡大の手ですが、そこで後手からは「7四歩」という手があります(変化図)。
変化図
大山さんの6三歩は、この「7四歩」を狙っていたのでした。(6三歩を打たずに7四歩では6四角があるのでダメです。)
「7四歩」を同銀は、7三歩で銀が死にますし、6四歩もあります。8六銀なら、6四歩で桂馬を取れます。
つまり大山さんの途中図の6三歩は、この「7四歩」を見せて、先手を焦らせた手なのです。
花村さんは途中図で2四歩と行ったのですが、もしも2四歩、同歩、同飛、2三歩、2八飛と先手が指すとどうなったでしょう? やはり「7四歩」があって、大山さんの有利な将棋となってしまいます。
こうして考えてみると、途中図(56手目)ではすでに、2四歩~2四飛~3四飛の「飛車切り」、これ以外に先手が勝つ手段はなかったのではないかと、そういう結論になるわけです。
花村さんの「飛車切り」は、一か八かのギャンブルのような手に見えますが、実は、理クツの上でも、最善手段だったのかもしれません。
花村元司さんは、昭和の人気棋士です。
静岡県の出身で「しょんない、しょんない」が口癖でした。
その将棋は、「妖刀」とかっこいい表現で呼ばれましたが。
しかし、僕は、そのネーミングはちょっと違う、と今は感じています。僕は2年前に1955年頃のプロの将棋を調べていましたが、その時は花村元司の絶好調の時期だったのですが、その花村さんの将棋の面白さにハマり、できるだけたくさん棋譜・観戦記を集めようと思いました。その時に「妖刀とはちょっと違うかな」と思ったのです。
花村さんのその頃の将棋は、序盤から飛び跳ねるような、元気の良い将棋です。
「妖刀」というと、夜の闇の中で音もなく敵を斬る、というような、“陰”な感じがします。それはそれでかっこいいのですが、花村さんの将棋は(性格もですが)、“陽”という感じがするのです。
中原誠名人が、80年代に相掛りの将棋で、名人戦の大舞台で、有名な「4五桂」とか、「5六飛」とかの、“素人将棋のような”手を繰り出してそれで勝って見せて周囲を驚かせましたけれども、その将棋に似ています。花村さんもずっと「素人将棋」とプロ仲間の間では若いうちはずっと呼ばれていましたが、よく言えば最近の21世紀の激しい序盤の将棋を何十年も先取りしていたような、そんな棋風だと思います。そんな将棋を1950年代にA級リーグで指していたのですから、それは“異質”に違いありません。そういう当時のプロ棋士や評論家から見て異質な、“得体のしれない”棋風が「妖」という文字をイメージさせたのかもしれません。
・参考記事『中原の、桂!』
東公平さんの観戦記集『升田幸三熱戦集』の中に、花村さんが指している将棋を横から見て升田さんが「牛若丸だな、花ちゃん。」と声をかけ、花村さんが「攻める穴熊戦法だ。」と答えたシーンが描かれています。それは1970年頃の対局シーンですが、僕はその時の花村さんの「攻める穴熊」の棋譜を知りたいと思い探してみましたが、それは結局見つかっていません。しかしその時の升田さんの「牛若丸だな」という表現こそ、僕が花村将棋に感じているものをうまく表している気がします。(関連記事『ヒゲの九段のA級順位戦PART4』)
序盤から動く、飛び跳ねる将棋です。升田幸三もやはり序盤から動くのですが、升田さんの場合は、そこにしっかり緻密な読みを入れて、「優勢」な局面をつくろうとします。でも、花村元司の序盤は、ちょっと違います。花村さんの人生観、将棋観は、「人間は間違うために生まれてきた」なのだそうです。ですから、花村さんは、少しくらいは不利でも、最後には自分が勝つ、そういう闘い方を初めから目指しているのです。
たとえば、こんな将棋です。
花村元司-塚田正夫 1953年 九段戦1
花田さんが初めてタイトル戦の番勝負に登場したのは1953年度の「九段戦」。タイトルホルダーは塚田正夫です。
その第1局の将棋がこんな将棋。「タテ歩取り」からの乱戦ですが、すでに角と銀とを刺し違えていて花村さんは「駒損」になっています。
注目してもらいたいのは、先手の陣形。「5九金型中住まい」。 今、「横歩取り」の後手番でよく見られる最新の流行形と同じですね!
図から、実戦は、5二金、5六飛、6四銀、7四銀、9二角、7五歩、同銀、5四飛、8六飛…
この将棋も花村さんは、5二飛成と飛車を切って攻めていく展開になりました。
結果は、塚田勝ちですが、花村さんの特徴がよく現れた将棋でした。タイトルも塚田さんが防衛。
花村元司-大野源一 1954年 A級順位戦
ほらね。“牛若丸”でしょう?
後手の大野源一さんの振り飛車に、先手の花村さんは飛車先を突かないで中飛車にして、7七桂と構える。これ、とても勝てる気がしませんが、でも勝っちゃうんです。A級順位戦の対局ですよ。
この対局の年、1954年度の対局で、高島一岐代との対局は「持将棋」となりました。その「指し直し局」が3月の最後に行われたのですが、この勝負が結局はその年度のA級順位戦の優勝(つまりは名人挑戦者)を決める決戦となりました。この対局で高島が勝利して、名人挑戦者となっています。花村さんは2位に終わりましたが、この頃の花村さんの勢いは翌年も続きました。いや、もっと加速します。
・「大山-高島」名人戦第1局の記事 → 『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン』
花村元司-大山康晴 1955年2月 NHK杯準決勝
1955年2月、大山康晴とNHK杯トーナメントの準決勝で当たった。
この時代、まだ振り飛車を指し始めたのは、大野源一くらいのものだったが、この対局で花村元司は「先手振り飛車」を採用した。そういう「振り飛車時代のあけぼの」の時期に、この図のように「振り飛車の袖飛車」という戦術を編み出している。(この袖飛車戦術が花村元司の創始かどうかはわからないがそうである可能性はかなりある。)
この将棋は大山勝ち。
なお、「名古屋戦法」を採用したのもこの年度のNHK杯。
塚田正夫-花村元司 1955年2月 早指王位決定戦
この当時「早指し王位」という棋戦が創設された。その第一期の、塚田正夫との対戦。
3五歩と仕掛けた! (この手、ノータイムでの着手だそうだ。)
3五同歩に、3八歩、4八玉、3三銀、4七銀、4四銀、3八玉、1五歩、同歩、3五銀、2五飛、4六銀、同銀、1八歩。
この仕掛けで勝ってしまうのだから、凄い。
1八歩は、同香に、3六角というねらい。
実戦は、2六飛、1九歩成、3七桂、3三歩と進んだ。この「3三歩」が花村さんの自慢の一手で、これで自陣は鉄壁、あとは思う存分攻める、という意味。(ここに歩を打たないでおくと、逆に先手から3三歩と叩かれる。) 花村さんが勝利。
勝った花村元司は、大山康晴名人との三番勝負へ。しかしここでは敗れ、「第1期早指し王位」獲得はならなかった。
花村元司-升田幸三 1955年11月 王将戦挑戦者決定プレ-オフ
「王将戦」の挑戦者を決めるプレーオフでは升田幸三と戦っている。(この将棋の模様は以前も別記事で触れています。) 花村元司、升田幸三、灘蓮照が当時の「超早指し」の得意な三人で、この「花村-升田」戦は、もうれつな勢いで指し手が進んで、「午前中には終わりそうだなあ」と、花村は対局中につぶやいた。午前10時開始、持ち時間各7時間の対局なのだが。
花村は当時、「ひねり飛車」「タテ歩取り棒銀」を得意としてよく使っていた。この当時、A級でこの戦法を指すのは花村くらいだった。強い相手に対して、これを使った。
ここでも「飛車切り」が出た。理屈を言えば、この将棋は後手升田の構想がまずかった。升田は6二の銀を5三に上がって、その手は花村に「7四歩から来てみろ」と強気に誘い、この飛車切りを強要した意味があった。花村が升田の誘いに乗ったのだが、正確に指せば、これは花村の指せる将棋だった。花村も「この将棋はもらった!」と思っていたが、ちょっと手がすべり、勝利は升田幸三が手にした。花村に負けず「早指し」で対抗した升田幸三の“気合い”がこの対局では上回っていたかもしれない。
病み上がりの升田幸三がこれで「王将戦」の挑戦者として名乗りを上げ、大山康晴から「王将」をもぎ取り、さらにはこの名人を「香落ち」に指し込むことになる。
・関連記事 『1955王将戦 升田の復活』
大野源一-花村元司 1956年1月 九段戦挑戦者決定戦
惜しいところまで行きながらも、「名人戦」「王将戦」とタイトル戦出場のチャンスを2つ逃している花村元司だが、3度目のチャンスはすぐにやってきて、今度はものにした。
大野源一と争った「九段戦」の挑戦者決定戦三番勝負。その第1局。
振り飛車の大野源一を相手に、 “後手一手損角換り”。(このように、この戦術は昔からあったのだ。)
そして花村が振った。「角交換四間飛車」だ。 まったく、何をやってくるかわからない男だ。
図の3四銀に、2四歩。花村はこの2四歩を誘っていた。これには1五角。2八飛、2四角が花村の予定。
しかしそこで1六角と大野が打った手が好手で、先手が指しやすくなった。内心で「やられた」と思った花村だが、ノータイムで次の手を指す。3二飛。
以下、3四角、同飛、2五銀、3三飛。こうなってみると、後手もやれる。
この将棋は熱戦となったが、これを制した花村が、次の第2局も勝って、塚田正夫の持つ「九段位」のタイトルを賭けてその挑戦者として名乗りを上げたのである。
その「九段戦五番勝負」は、花村挑戦者からみて○○●●●という結果になった。惜しくも、タイトル奪取とはならなかった。(第3局は勝てる将棋だったのだが、痛恨の負け。)
【1956年名人挑戦者決定戦】
升田幸三-花村元司 1956年 A級順位戦プレーオフ
1年間の休場の後、「王将位」に復活した升田幸三と、絶好調の花村元司が8勝2敗で並んで、挑戦者決定三番勝負のプレーオフとなった、1955年度のA級順位戦。当時のプレーオフは三番勝負で、これは両者1勝1敗で迎えた第3局。
「相矢倉」戦となった。だたし、先手升田は腰掛銀の矢倉で、右金を繰り出して攻めて行った。
ここで後手の花村の指した手は――
7七飛成! どかんと、「飛車切り」!!!
こういう手は、今の「穴熊戦術」を先取りした感覚なのだと思う。後手の「矢倉」は」四枚で守っていて堅い。だから無理気味に見えても、実は“ある手”だったということも「穴熊戦」ではよくあること。
でも、この場合はどうだろうか。
7七同金に、花村は、4六銀と打つ。4四歩、4二金、4三歩成、同金、7二飛と進む。
この飛車打ちがある。
この当時、花村さんは、対局中は物凄い集中していて、だからか、食事はまったくのどを通らないので取らなかった。朝から夜まで、対局の日はまる一日なにも食べないのだ。だからこの日も昼食は抜いた。
それが昼の三時頃になって、釜揚げうどんを注文し、無理矢理それを詰めこんだ。が、吐き出してしまった。
花村はそんなことは全く覚えていなかった。対局に集中していて、他のことは上の空なのだろう。後で河口俊彦にいわれて、そんなことがあったのかと知ったのだという。
それほどの対局時の集中力こそが「妖刀」の正体なのだろう。
花村元司、升田の7二飛に、(4七歩、3八飛、3五銀、同角として)7一金。
花村は苦戦を意識しつつ、でも負けるとは思っていない。
以下、5二飛成、4二金引、5三竜、4八歩成、3四歩、同銀、4四角、3三歩、4八飛、3七角成、3三角成、同金、4一飛成、5九馬。
もの凄い展開だ。この5九馬を、同玉は、2六角、6九玉、5三角でこれは後手が良い。
だから升田は7八玉。
それはよかったが、次の花村の6九角に、6七玉と逃げた升田幸三の次の手が“ポカ”で、敗着となった。
以下、5八角成まで、升田、投了。 以下は、7八玉、6八馬寄、8八玉、7七馬、同桂、7六桂という、簡単な“詰み”。
升田の6七玉で、8八玉と逃げておけば、その局面はどちらが制しているかわからない。まだ熱戦が続いたはずだ。
花村ファンからすれば、この勝ち方は“奇跡の勝利”である。
こうして、花村元司は、プロ棋士の最高の檜舞台、名人戦への登場を決めました。1944年のプロ入り以来11年目、年齢は37歳。相手は大山康晴名人です。
“名人に香を引いて勝った”ばかりの升田幸三王将を三番勝負で破っての名人戦初登場。流れは完璧です。さあ、名人戦だ。
しかし――
大山康晴名人に、花村元司が挑戦した1956年の名人戦は、大山の4連勝で防衛となりました。花村さんは力を発揮することができなかった。1勝もできず、0-4の完敗でした。
「花ちゃん、やっぱりあんたの将棋はしろうと将棋だね」と局後面と向かって大山に言われたという話を聞きますが、それはこの時でしょうか。
【1956年名人戦第2局】
その「大山-花村」の名人戦の将棋を一局見てみましょう。
花村元司-大山康晴 1956年
これは第2局。「相矢倉」ですが、花村さんは、この第2局だけは、自分も“らしさ”を発揮できたとしているようです。
先手花村陣の6七歩型の矢倉というのが、今ではあまり見ない型ですね。ちなみに、矢倉でのこの2七飛という形は、花村さんの得意形で、よく現れます。
今、花村さんが、5七の金を4七に動かして角道を通したところです。すると3九角成と、相手に馬を作らせることになりますが、ここからガンガン攻めていくつもりでしょう。
4八歩と “金底の歩”を打っておいて、先手の攻め筋は2四歩、同歩、2五歩、同歩、同銀、です。
実戦もそう進み、以下2三歩、2四歩、4五銀、2三歩成、同金、7三角成。
大山名人は大長考で4五銀と桂馬を取って“桂得”。
花村、7三角成。 これが花村のねらっていた攻めで、これで勝てるのではと思っていた。大山もこれを読んでの先の“大長考”だったか。この瞬間、先手“角損”だが、1五桂と桂馬を打てば、後手は受けが難しいだろうというのが花村の読み。
1五桂に、3三金左なら、2四銀。3三金右なら、2三桂成、同金、2四歩、3三金、2三金。
しかし大山に「絶妙の受け」があった。
4四金! これは7三の飛車の横の利きを2三にまで通して、これで受けるという手である。
花村もこれは読んでおらず、しかしこんないい手があったかと認めざるを得なかった。
2三桂成、同玉、1四銀では、3二玉で受けられる。そこで花村は、2三桂成、同玉、3四銀、同玉、2一飛成と竜を作って、この攻めに賭けた。
以下も花村は、攻め続けたが、結局、大山名人の玉は2九にまで逃げ込んで、大山勝ち。
ところで、大山名人の「4四金」の絶妙手(花村さんが著書にそう書いている)は、ソフト「激指」はどう評価するのでしょうか。そこに興味があって、この将棋を調べてみました。
すると、「4四金」は、いちおう候補手の一つとして考えてはいるようですが、それほど高い評価ではありません。「激指13」はその局面では、「8六歩」と「7五歩」を有力手として考えています。それで「後手やや有利」と。 (4四金の局面は「互角」と見ています。)
とすると、「大山名人の絶妙手4四金はなんだったんだ?」、という感じになるが…?
ソフト「激指13」の評価も、間違っていることもよくあります。しかしどうも、この場合は「激指13」の読みのほうが正しいかもしれないと、調べてみて僕は思いました。
「4四金」のかわりに、「7五歩」と後手が指した場合の研究を以下に示しておきます。興味深い変化となっています。
研究図1
先手の1五桂に、「7五歩」と後手が指したところ。
1五桂と打って、花村さんは「受けが難しいだろう」と思っていた。後手の大山名人も2三の地点を受けるために4四金という手をひねり出した。これが勝因で、名人が勝った、ということになっている。
ところが、「激指13」は、「ここは受けなくてよい」というのだ。つまり放っておいても3三玉~4四玉という脱出ルートが開かれているので、ここは受けずに攻めるところだというわけです。本当なのでしょうか。
先を進めてみる。先手はどう攻めるか。
2三桂成、同玉、1四銀、3三玉、2一飛成と攻めるところだろう。
そこで後手は7六歩。先手の応手は(a)7六同銀と、(b)6八銀に分かれる。
(a)7六同銀、同飛、7七歩(研究図2)。
研究図2
ここで7二飛と引くのもあるが、ここでは5六飛を紹介する。
5六飛を同金は、同馬で「後手良し」。
そこで5六飛に、5七歩としてみる。後手、8六飛。先手の8七歩に、後手7五桂。
研究図3
この7五桂で「後手優勢」。
これは見事ですなあ。(この変化を紹介したいのでこの“研究”を書きました。)
さて、後手の7六歩に、(b)6八銀以下の変化ですが、6八銀、1四歩、3六桂、同銀、同金、8六歩、4五銀、8七銀(同金は先手玉詰む)、9七玉、4四金となって次の研究図4です。
研究図4
これで「後手優勢」となりました。とはいえ、この4四金もそう簡単に指せる手ではありません。
この手順の途中、4五銀のところで4五歩と指せれば先手が優勢なのですが、それは“二歩”でいけません。
図で、3二金、4三玉、4一竜という有力な攻めがあってこれは部分的には後手受けが難しい。しかしこの場合は、9六銀成、同玉、6三角で、「王手竜取り」。先手の竜を取ってしまえば「後手の勝ち」というわけです。
図の局面、ギリギリの感じですが、どうも「後手勝ち」は動かないようです。
いやあ、、しかし、こういう変化を全部カバーするというのは無茶ってもんで、私たちの場合はこういう終盤戦は“勘”に頼るしかないですね。
プロのトップの人たちは、それを何とか読み切ろうと頑張っておられるんですけどね。
花村元司(はなむら もとじ、1917‐1985)、静岡県出身、木村義雄門下。
将棋棋士としてプロ入りしたのは1944年、つまり戦争中のこと、その前は将棋道場を経営していて、かなり儲かっていたらしい。(プロ棋士になるより羽振りの良い生活だったとか。) 明るい性格で人から好かれ、商才があったのですね。
「真剣師」(賭け将棋をする人のこと)でもありました。
腕自慢のアマ棋士を相手に、駒落ち、特に「二枚落ち(飛車角落ち)」で指して負けないので、「東海の鬼」などという名前が付いた。「飛香落ち」で負けるのはまあ仕方がないとしても、まさか「二枚落ち」で勝てないとは…、と相手も不思議でしようがなかったらしい。
「真剣師」で稼ぐために必要なことは、もちろん将棋が強いことは必要条件だが、もう一つ必要条件があって、それは「愛される性格であること」である。将棋で負かされることほどつまらないことはない。それでも同じ相手に「もう一番!」とまた盤を挟みたくなるような、そんな愛されキャラでないと「客」はいなくなってしまう、将棋の「真剣師」とは、そういう職業なのです。“リピーター”を育てなければいけない。性格に愛嬌がないと、この仕事はできません。
つまり花村元司という人は、もともと、そういう人気者気質なのです。「鬼」というニックネームも、実は愛称なのだと思います。
そして、将棋が抜群に面白い。
プロ棋士になったのは1944年で、26歳の時。「五段」からのスタートですが、そういう“中途採用”のプロ棋士はかつていなかったので、特例のプロ入会試験が行われました。そのときの合格の条件は、プロ五、六段と6局指して指し分け(3勝3敗)以上なら五段での入会を認める、というもの。つまり、3勝が必要です。
その試験の結果を書くと次の通り。(花村さんの星、相手、手合い)
(1) ● 和田庄兵衛五段 平手
(2) ● 奥野基芳五段 平手
(3) ○ 小堀清一六段 香落ち
(4) ○ 小堀清一六段 平手
(5) ○ 大和久彪七段 香落ち
持ち時間は7時間。これが当時のプロ棋士の対局の標準の持ち時間でしたが、“超早指し”の花村さんにとっては、これはどうも慣れなかった。そのせいか、第1、2戦は連敗してしまいました。特に第2戦は序盤のポカでの敗戦で、危機感を感じさせた。
第3、4戦での小堀戦での連勝が花村を生き返らせた。どうやら自分のペースがつかめてきた。これは湯河原の旅館での対局だったが、花村にとって都合の良いことに、別室で賭博が開かれていた。遊びの好きな花村さんは、相手の小堀さんが指すと、すぐに指して、席を立って賭博場で遊んでいた。記録係が呼びに来ると、また対局上にもどって、すぐに指す。こうやって、「自分のペース」を取り戻して、小堀戦を連勝したのだった。“将棋学徒”の小堀清一さんにとっては不愉快な対局だっただろうが、それも“勝負”だ。
この頃はまだ「奨励会」も設立前でしたから、今とはずいぶん意味合いが違いますが、瀬川晶司さんのプロ入り編入試験もやはり“6番勝負”でしたね。そしてこの来月、今泉健司さんのプロ編入試験がありますね。これも“6番勝負”なんですね。なぜか伝統的に“6番勝負”なんですね。今泉さん、どうなるでしょうか。興味あるところです。
(追記: 「奨励会」も設立前と書いたが、これは誤り。「奨励会」は戦前すでにあった。筆者は「順位戦」と勘違いしていた。「順位戦」は戦後1946年に開始。 また、今回実施される小泉さんの入会試験が“6番勝負”というのも筆者の思い込みで、これも誤り。 実際は、「五番勝負」でした。)
花村さんがA級八段に昇ったのは、1952年のことで、34歳。 同時に昇段昇級したのが小堀清一というのも、また、いいですね。
・関連記事『横歩取り小堀流4二玉戦法の誕生』 『「将棋の虫」と呼ばれた男』
花村元司さんは、将棋のタイトルは取れませんでしたが、将棋には華があるし、人気者でしたし、弟子もたくさんいますし、死去するまで現役プロ棋士でしたし、幸せそうな人でしたね。そういうイメージです。
今回紹介した「花村-塚田」戦(1953年九段戦第1局)や「升田-花村」戦(1956年名人挑戦者決定プレーオフ)のような面白い将棋を忘れられてはあまりにもったいないと思い、今回の記事に詰め込みました。(ほかにもまだ紹介したい花村元司の棋譜がいくつもあり困りました。)
最後に、プロ棋士で最初に「相横歩取り」を指したのも花村元司だということもここに書いておきます。1955年の九段戦準決勝「松田茂役-花村元司」戦です。
・関連記事『ヒゲの九段のA級順位戦PART1』
【以下は、付け足しです】
「飛車切り」ということで、最近チェックした江戸時代の棋譜で、僕が驚いた「飛車切り」の棋譜があるので紹介しておきます。
伊藤看佐-磯辺林蔵 1816年
1816年の「伊藤看佐-磯辺林蔵」戦です。
次は先手の伊藤看佐の手番ですが、ここで看佐、「飛車切り」で攻めたのです。
3三飛成!
「ここで切るか!!」と僕は思いました。
以下は、3三同桂、4五歩、同桂、4六歩、3七桂不成、同桂、2九飛と進みました。
5八銀、1九飛成、4五歩、7七歩成、同桂、6四歩、2五桂、4二金、7六歩、3七歩、3三角…
以下、先手勝ち。
勝ってしまうんですねえ…!
この先手の伊藤看佐(1801-1827)という人は、江戸期最後の名人、十世名人の六代伊藤宗看(松田印嘉)の次男ですが、僕はこの人、“ものすごい才能を持った人”ととらえています。27歳で死んでしまって、棋譜も少ししか残っていないので有名ではないのですが、有名になって棋譜もたくさん残っていて評価も高かった大橋柳雪とは御城将棋で3度対戦していますが、看佐の3勝です。その内容も見事です。
福崎文吾-谷川浩司 1984年
そして、これは1984年、敗れた谷川浩司が、「感覚が破壊された」と言って有名になった将棋。
先手の福崎文吾、ここで3二飛成! 以下、同金、3三歩、同玉、3五銀となって、福崎さんが勝ちました。
この「飛車切り」、当時は相当に驚かれたのですが、“穴熊感覚”の磨かれた現代の将棋指しは、おそらく第一感でこの3二飛成が浮かぶはずです。3二飛成が最善手なんですね。
1950年代の花村さんは、すでにこういう感覚を持っていたんだと思います。
【追記します】
図書館で借りてきた『日本将棋大系5 三代伊藤宗看』を読んでいましたら、ぜひここに追記しておきたい文章があったので書いておきます。
名村立摩-三代伊藤宗看 1735年
江戸時代に名村立摩という民間の強豪棋士がいて、この人が“鬼宗看”と呼ばれた三代伊藤宗看と対戦したときに、彼が考案した「立摩流」で戦ったという棋譜があります。「左香落ち」の上手振り飛車に対しての急戦の指し方ですが、それが図の将棋です。2四歩、同歩、3六歩と仕掛ける。3六同歩に、2六飛~3六飛と指します。
1735年、ということは、宗看30歳の時の対局で、すでに名人(七世)になっています。江戸時代では最年少で名人になったのが三代宗看です。
その三代伊藤宗看が主役の『日本将棋大系5』の解説を書いたのは大山康晴名人(十五世)なのですが、この「立摩流」の仕掛けをみて、こう書いているのです。
〔とにかく乱戦に!という指し方である。ふと私は、花村元司九段の将棋を思い出した。似ていると思う。〕
この将棋、宗看の失着もあって、なんと名村立摩が勝利します。(ただし、その前に行われた「角落ち」での対局は宗看が勝利している。)
それで大山名人はこの棋譜の解説の最後には、
〔この将棋は、下手の立摩は花村九段好みの手将棋で、こまかく動き、攪乱して、みごとな勝利を得た。乱戦の雄らしく、きびしく迫る手に魅力は感ずるが、これを以て「立摩流」と呼ぶのは、いかがなものであろうか。いって見れば、夏の夜の花火のごとく、華やかに打ち上げて呆気なく消え去る戦法である。〕
と意見を述べています。
「立摩流」? ふん、そんな立派なもんじゃないでしょ、というニュアンスですね。まあ確かに、“立摩流”は名前がかっこよすぎる。
図で、先手の花村元司の指した手は、3四飛!
この飛車切りはびっくりした。しかもこの後、花村さんは勝っている。しかも、相手は大山康晴だ!!
3四飛、同金、6一角、3三金、8三銀という攻めを狙っている、というのはわかる。しかし、問題は先手陣がもつかどうかだ。△2八飛と、先に飛車を打たれて、自分ならとても受けきれる気がしない。いったい、花村さんはこの将棋をどうやって勝ったのだろう!?
ということで、今日はこの将棋の棋譜を見ていきます。これ、先手の花村元司の「雁木」の将棋なんですよ。
初手より
▲7六歩 △8四歩 ▲5六歩 △8五歩 ▲7七角 △5四歩 ▲6八銀 △3四歩
▲4八銀 △6二銀 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角 ▲7八金 △5二金右
▲6六歩 △3二銀 ▲6七銀 △4二角 ▲5七銀 △3三銀 ▲6五歩
先手7七角、後手3三角型の「相居飛車」戦。ここから、先手は6六歩~6七銀と「雁木」に、後手は4二角~3三銀で「矢倉」に。
△8六歩 ▲同歩 △同角 ▲同角 △同飛 ▲8七歩 △8二飛
▲6九玉 △4三金 ▲6六銀右 △4二金上 ▲4六歩 △4一玉
先手は6五歩と突きました。これは次に6六銀右~5八飛~5五歩などのねらいがあります。
後手の大山康晴、ここで8六歩から角交換を決めました。この角交換をするかしないかは「矢倉」側の権利となります。
「矢倉vs雁木」の戦型で、「雁木」の側が角を上がると、角交換将棋になることを覚悟しなければなりません。
だから花村さんのここでの6五歩は、「さあ、角交換をしてこい」ということかもしれないですね。
▲4八金 △3五歩 ▲7七桂 △3二玉 ▲7九玉 △5三銀 ▲8八玉 △9四歩
▲1六歩 △1四歩 ▲9六歩 △3四銀 ▲5七金
お互いが「角」を持っているため、ここからの駒組みが難しくなります。角打ちのスキを作らないように駒組みを進めなければなりません。後手の陣形は「天野矢倉」と呼ばれる、江戸時代の天野宗歩が愛用したという矢倉で、通常の矢倉に較べると角打ちのスキが少ない。
先手の花村さんは4六歩と突いています。これは相手に4五歩と位を取らせたくない、という意味でしょうか。この歩を突くと4七に空間をつくってしまうので、ここに角を打たれないよう、ここで4八金と上がりました。次に3六歩~3七桂でしょうか。
それを阻止する大山さんの3五歩。こっちの位を取りました。
△6四歩 ▲7五銀 △6五歩 ▲同桂 △6二銀 ▲6六銀上 △6三歩 ▲2四歩
こうなりました。ここで後手の大山さん、6四歩。これは歩交換のねらいですが、花村さんは素直に同歩とはせず、7五銀、6五歩、同桂と、大山さんの動きを利用してきました。これはちょっと先手が無理気味な動きに見えますが、しかし、こういうのが “花村流”なんですね。少しくらい悪くても、逆転できる、という自信があります。
1917年生まれの花村元司はこの対局時は32歳。対する大山康晴は27歳。大山はこの年名人挑戦者になっています。名人位奪取はこの時はなりませんでしたが、2年後に名人になりました。
△2四同歩 ▲同飛 △2三歩 ▲3四飛
さてここです。
2四歩、同歩、同飛、2三歩に、3四飛!
なお、ソフト「激指13」ではこの3四飛は第3候補の手です。第1候補は2八飛、第2が2六飛です。「激指」はいずれにしてもここではすでに先手苦戦と見ています。
△3四同金 ▲6一角 △3三金引 ▲8三銀
花村の「飛車切り!」です。
△8三同飛 ▲同角成 △2八飛 ▲6九歩
3四飛と飛車を切れば、2八飛まではほぼ自然な進行。
問題は、2八飛からの後手の攻めを、先手がどう受けるかだ。
△2九飛成 ▲6一馬 △6九龍 ▲7九飛 △同龍 ▲同金 △2八飛
▲6八歩 △5九銀 ▲6七金 △4九角 ▲7七玉
花村の“答え”は、「6九歩」だった。これで受かっているのか!? (6九歩は後手に△6九銀と打たせない意味がある)
2九飛成、6一馬 、6九龍に、7九飛。 なるほど、こう受けるのか。
再度の2八飛に、6八歩と受けたところは、「激指13」もほぼ「互角」の評価。しかもその局面での後手の最善手は「7一銀打」だという…。
そうであるなら、「花村の飛車切り」は十分に成立していたということになるかもしれない。
△6四歩 ▲6二馬 △6五歩 ▲同銀 △8五桂 ▲8六玉 △6七角成 ▲同歩 △6八銀不成
花村は7七玉と玉を上がる。
大山、6四歩。
▲8五玉 △7九銀不成 ▲5三銀 △4三金打 ▲4二銀成 △同金 ▲5三金 △4三金打
▲4二金 △同金 ▲5二金 △4一金打 ▲同金 △同金 ▲3四桂
“花村マジック”としか言いようがない。ここではすでに先手が優勢になっている。
花村はここで8五玉としたが、すぐに5一銀と攻めるのがわかりやすかったかもしれない。(8五玉、7九銀不成の2手の交換は、相手に金を一枚余分に渡すので、その分、後手も受けに粘りが利く。) 5一銀、4一金打、4二銀成、同金、5三金、3一銀、6四角の進行は先手勝ちだ。
しかし本譜でもやはり問題なく先手勝ちのようです。
△3四同金 ▲8二飛 △3三玉 ▲8一飛成 △9三桂 ▲9四玉 △8二歩 ▲9五桂
図の3四桂は、「激指13」にも見えていない好手で、“決め手”。
同金と取らせて、8二飛。これが花村元司の寄せの構図だった。
まで113手で先手の勝ち
大山康晴、投了。
花村元司の見事な勝ちでした。あの飛車切り以降、大山さんの手にはっきりした疑問手があったわけではないのに、花村さんが勝ちになっていました。
戻って、ちょっと研究してみます。
途中図
この途中図は56手目、6三歩と大山さんが歩を打った局面です。この歩は、先手からの6四銀などを消した手ですが、すぐに打つ必要もない手です。
それを大山さんがここで打ったのは、これは単に「受け」の手ではないということです。
仮に、ここで先手が5五歩と指したとしましょう。これは戦線拡大の手ですが、そこで後手からは「7四歩」という手があります(変化図)。
変化図
大山さんの6三歩は、この「7四歩」を狙っていたのでした。(6三歩を打たずに7四歩では6四角があるのでダメです。)
「7四歩」を同銀は、7三歩で銀が死にますし、6四歩もあります。8六銀なら、6四歩で桂馬を取れます。
つまり大山さんの途中図の6三歩は、この「7四歩」を見せて、先手を焦らせた手なのです。
花村さんは途中図で2四歩と行ったのですが、もしも2四歩、同歩、同飛、2三歩、2八飛と先手が指すとどうなったでしょう? やはり「7四歩」があって、大山さんの有利な将棋となってしまいます。
こうして考えてみると、途中図(56手目)ではすでに、2四歩~2四飛~3四飛の「飛車切り」、これ以外に先手が勝つ手段はなかったのではないかと、そういう結論になるわけです。
花村さんの「飛車切り」は、一か八かのギャンブルのような手に見えますが、実は、理クツの上でも、最善手段だったのかもしれません。
花村元司さんは、昭和の人気棋士です。
静岡県の出身で「しょんない、しょんない」が口癖でした。
その将棋は、「妖刀」とかっこいい表現で呼ばれましたが。
しかし、僕は、そのネーミングはちょっと違う、と今は感じています。僕は2年前に1955年頃のプロの将棋を調べていましたが、その時は花村元司の絶好調の時期だったのですが、その花村さんの将棋の面白さにハマり、できるだけたくさん棋譜・観戦記を集めようと思いました。その時に「妖刀とはちょっと違うかな」と思ったのです。
花村さんのその頃の将棋は、序盤から飛び跳ねるような、元気の良い将棋です。
「妖刀」というと、夜の闇の中で音もなく敵を斬る、というような、“陰”な感じがします。それはそれでかっこいいのですが、花村さんの将棋は(性格もですが)、“陽”という感じがするのです。
中原誠名人が、80年代に相掛りの将棋で、名人戦の大舞台で、有名な「4五桂」とか、「5六飛」とかの、“素人将棋のような”手を繰り出してそれで勝って見せて周囲を驚かせましたけれども、その将棋に似ています。花村さんもずっと「素人将棋」とプロ仲間の間では若いうちはずっと呼ばれていましたが、よく言えば最近の21世紀の激しい序盤の将棋を何十年も先取りしていたような、そんな棋風だと思います。そんな将棋を1950年代にA級リーグで指していたのですから、それは“異質”に違いありません。そういう当時のプロ棋士や評論家から見て異質な、“得体のしれない”棋風が「妖」という文字をイメージさせたのかもしれません。
・参考記事『中原の、桂!』
東公平さんの観戦記集『升田幸三熱戦集』の中に、花村さんが指している将棋を横から見て升田さんが「牛若丸だな、花ちゃん。」と声をかけ、花村さんが「攻める穴熊戦法だ。」と答えたシーンが描かれています。それは1970年頃の対局シーンですが、僕はその時の花村さんの「攻める穴熊」の棋譜を知りたいと思い探してみましたが、それは結局見つかっていません。しかしその時の升田さんの「牛若丸だな」という表現こそ、僕が花村将棋に感じているものをうまく表している気がします。(関連記事『ヒゲの九段のA級順位戦PART4』)
序盤から動く、飛び跳ねる将棋です。升田幸三もやはり序盤から動くのですが、升田さんの場合は、そこにしっかり緻密な読みを入れて、「優勢」な局面をつくろうとします。でも、花村元司の序盤は、ちょっと違います。花村さんの人生観、将棋観は、「人間は間違うために生まれてきた」なのだそうです。ですから、花村さんは、少しくらいは不利でも、最後には自分が勝つ、そういう闘い方を初めから目指しているのです。
たとえば、こんな将棋です。
花村元司-塚田正夫 1953年 九段戦1
花田さんが初めてタイトル戦の番勝負に登場したのは1953年度の「九段戦」。タイトルホルダーは塚田正夫です。
その第1局の将棋がこんな将棋。「タテ歩取り」からの乱戦ですが、すでに角と銀とを刺し違えていて花村さんは「駒損」になっています。
注目してもらいたいのは、先手の陣形。「5九金型中住まい」。 今、「横歩取り」の後手番でよく見られる最新の流行形と同じですね!
図から、実戦は、5二金、5六飛、6四銀、7四銀、9二角、7五歩、同銀、5四飛、8六飛…
この将棋も花村さんは、5二飛成と飛車を切って攻めていく展開になりました。
結果は、塚田勝ちですが、花村さんの特徴がよく現れた将棋でした。タイトルも塚田さんが防衛。
花村元司-大野源一 1954年 A級順位戦
ほらね。“牛若丸”でしょう?
後手の大野源一さんの振り飛車に、先手の花村さんは飛車先を突かないで中飛車にして、7七桂と構える。これ、とても勝てる気がしませんが、でも勝っちゃうんです。A級順位戦の対局ですよ。
この対局の年、1954年度の対局で、高島一岐代との対局は「持将棋」となりました。その「指し直し局」が3月の最後に行われたのですが、この勝負が結局はその年度のA級順位戦の優勝(つまりは名人挑戦者)を決める決戦となりました。この対局で高島が勝利して、名人挑戦者となっています。花村さんは2位に終わりましたが、この頃の花村さんの勢いは翌年も続きました。いや、もっと加速します。
・「大山-高島」名人戦第1局の記事 → 『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン』
花村元司-大山康晴 1955年2月 NHK杯準決勝
1955年2月、大山康晴とNHK杯トーナメントの準決勝で当たった。
この時代、まだ振り飛車を指し始めたのは、大野源一くらいのものだったが、この対局で花村元司は「先手振り飛車」を採用した。そういう「振り飛車時代のあけぼの」の時期に、この図のように「振り飛車の袖飛車」という戦術を編み出している。(この袖飛車戦術が花村元司の創始かどうかはわからないがそうである可能性はかなりある。)
この将棋は大山勝ち。
なお、「名古屋戦法」を採用したのもこの年度のNHK杯。
塚田正夫-花村元司 1955年2月 早指王位決定戦
この当時「早指し王位」という棋戦が創設された。その第一期の、塚田正夫との対戦。
3五歩と仕掛けた! (この手、ノータイムでの着手だそうだ。)
3五同歩に、3八歩、4八玉、3三銀、4七銀、4四銀、3八玉、1五歩、同歩、3五銀、2五飛、4六銀、同銀、1八歩。
この仕掛けで勝ってしまうのだから、凄い。
1八歩は、同香に、3六角というねらい。
実戦は、2六飛、1九歩成、3七桂、3三歩と進んだ。この「3三歩」が花村さんの自慢の一手で、これで自陣は鉄壁、あとは思う存分攻める、という意味。(ここに歩を打たないでおくと、逆に先手から3三歩と叩かれる。) 花村さんが勝利。
勝った花村元司は、大山康晴名人との三番勝負へ。しかしここでは敗れ、「第1期早指し王位」獲得はならなかった。
花村元司-升田幸三 1955年11月 王将戦挑戦者決定プレ-オフ
「王将戦」の挑戦者を決めるプレーオフでは升田幸三と戦っている。(この将棋の模様は以前も別記事で触れています。) 花村元司、升田幸三、灘蓮照が当時の「超早指し」の得意な三人で、この「花村-升田」戦は、もうれつな勢いで指し手が進んで、「午前中には終わりそうだなあ」と、花村は対局中につぶやいた。午前10時開始、持ち時間各7時間の対局なのだが。
花村は当時、「ひねり飛車」「タテ歩取り棒銀」を得意としてよく使っていた。この当時、A級でこの戦法を指すのは花村くらいだった。強い相手に対して、これを使った。
ここでも「飛車切り」が出た。理屈を言えば、この将棋は後手升田の構想がまずかった。升田は6二の銀を5三に上がって、その手は花村に「7四歩から来てみろ」と強気に誘い、この飛車切りを強要した意味があった。花村が升田の誘いに乗ったのだが、正確に指せば、これは花村の指せる将棋だった。花村も「この将棋はもらった!」と思っていたが、ちょっと手がすべり、勝利は升田幸三が手にした。花村に負けず「早指し」で対抗した升田幸三の“気合い”がこの対局では上回っていたかもしれない。
病み上がりの升田幸三がこれで「王将戦」の挑戦者として名乗りを上げ、大山康晴から「王将」をもぎ取り、さらにはこの名人を「香落ち」に指し込むことになる。
・関連記事 『1955王将戦 升田の復活』
大野源一-花村元司 1956年1月 九段戦挑戦者決定戦
惜しいところまで行きながらも、「名人戦」「王将戦」とタイトル戦出場のチャンスを2つ逃している花村元司だが、3度目のチャンスはすぐにやってきて、今度はものにした。
大野源一と争った「九段戦」の挑戦者決定戦三番勝負。その第1局。
振り飛車の大野源一を相手に、 “後手一手損角換り”。(このように、この戦術は昔からあったのだ。)
そして花村が振った。「角交換四間飛車」だ。 まったく、何をやってくるかわからない男だ。
図の3四銀に、2四歩。花村はこの2四歩を誘っていた。これには1五角。2八飛、2四角が花村の予定。
しかしそこで1六角と大野が打った手が好手で、先手が指しやすくなった。内心で「やられた」と思った花村だが、ノータイムで次の手を指す。3二飛。
以下、3四角、同飛、2五銀、3三飛。こうなってみると、後手もやれる。
この将棋は熱戦となったが、これを制した花村が、次の第2局も勝って、塚田正夫の持つ「九段位」のタイトルを賭けてその挑戦者として名乗りを上げたのである。
その「九段戦五番勝負」は、花村挑戦者からみて○○●●●という結果になった。惜しくも、タイトル奪取とはならなかった。(第3局は勝てる将棋だったのだが、痛恨の負け。)
【1956年名人挑戦者決定戦】
升田幸三-花村元司 1956年 A級順位戦プレーオフ
1年間の休場の後、「王将位」に復活した升田幸三と、絶好調の花村元司が8勝2敗で並んで、挑戦者決定三番勝負のプレーオフとなった、1955年度のA級順位戦。当時のプレーオフは三番勝負で、これは両者1勝1敗で迎えた第3局。
「相矢倉」戦となった。だたし、先手升田は腰掛銀の矢倉で、右金を繰り出して攻めて行った。
ここで後手の花村の指した手は――
7七飛成! どかんと、「飛車切り」!!!
こういう手は、今の「穴熊戦術」を先取りした感覚なのだと思う。後手の「矢倉」は」四枚で守っていて堅い。だから無理気味に見えても、実は“ある手”だったということも「穴熊戦」ではよくあること。
でも、この場合はどうだろうか。
7七同金に、花村は、4六銀と打つ。4四歩、4二金、4三歩成、同金、7二飛と進む。
この飛車打ちがある。
この当時、花村さんは、対局中は物凄い集中していて、だからか、食事はまったくのどを通らないので取らなかった。朝から夜まで、対局の日はまる一日なにも食べないのだ。だからこの日も昼食は抜いた。
それが昼の三時頃になって、釜揚げうどんを注文し、無理矢理それを詰めこんだ。が、吐き出してしまった。
花村はそんなことは全く覚えていなかった。対局に集中していて、他のことは上の空なのだろう。後で河口俊彦にいわれて、そんなことがあったのかと知ったのだという。
それほどの対局時の集中力こそが「妖刀」の正体なのだろう。
花村元司、升田の7二飛に、(4七歩、3八飛、3五銀、同角として)7一金。
花村は苦戦を意識しつつ、でも負けるとは思っていない。
以下、5二飛成、4二金引、5三竜、4八歩成、3四歩、同銀、4四角、3三歩、4八飛、3七角成、3三角成、同金、4一飛成、5九馬。
もの凄い展開だ。この5九馬を、同玉は、2六角、6九玉、5三角でこれは後手が良い。
だから升田は7八玉。
それはよかったが、次の花村の6九角に、6七玉と逃げた升田幸三の次の手が“ポカ”で、敗着となった。
以下、5八角成まで、升田、投了。 以下は、7八玉、6八馬寄、8八玉、7七馬、同桂、7六桂という、簡単な“詰み”。
升田の6七玉で、8八玉と逃げておけば、その局面はどちらが制しているかわからない。まだ熱戦が続いたはずだ。
花村ファンからすれば、この勝ち方は“奇跡の勝利”である。
こうして、花村元司は、プロ棋士の最高の檜舞台、名人戦への登場を決めました。1944年のプロ入り以来11年目、年齢は37歳。相手は大山康晴名人です。
“名人に香を引いて勝った”ばかりの升田幸三王将を三番勝負で破っての名人戦初登場。流れは完璧です。さあ、名人戦だ。
しかし――
大山康晴名人に、花村元司が挑戦した1956年の名人戦は、大山の4連勝で防衛となりました。花村さんは力を発揮することができなかった。1勝もできず、0-4の完敗でした。
「花ちゃん、やっぱりあんたの将棋はしろうと将棋だね」と局後面と向かって大山に言われたという話を聞きますが、それはこの時でしょうか。
【1956年名人戦第2局】
その「大山-花村」の名人戦の将棋を一局見てみましょう。
花村元司-大山康晴 1956年
これは第2局。「相矢倉」ですが、花村さんは、この第2局だけは、自分も“らしさ”を発揮できたとしているようです。
先手花村陣の6七歩型の矢倉というのが、今ではあまり見ない型ですね。ちなみに、矢倉でのこの2七飛という形は、花村さんの得意形で、よく現れます。
今、花村さんが、5七の金を4七に動かして角道を通したところです。すると3九角成と、相手に馬を作らせることになりますが、ここからガンガン攻めていくつもりでしょう。
4八歩と “金底の歩”を打っておいて、先手の攻め筋は2四歩、同歩、2五歩、同歩、同銀、です。
実戦もそう進み、以下2三歩、2四歩、4五銀、2三歩成、同金、7三角成。
大山名人は大長考で4五銀と桂馬を取って“桂得”。
花村、7三角成。 これが花村のねらっていた攻めで、これで勝てるのではと思っていた。大山もこれを読んでの先の“大長考”だったか。この瞬間、先手“角損”だが、1五桂と桂馬を打てば、後手は受けが難しいだろうというのが花村の読み。
1五桂に、3三金左なら、2四銀。3三金右なら、2三桂成、同金、2四歩、3三金、2三金。
しかし大山に「絶妙の受け」があった。
4四金! これは7三の飛車の横の利きを2三にまで通して、これで受けるという手である。
花村もこれは読んでおらず、しかしこんないい手があったかと認めざるを得なかった。
2三桂成、同玉、1四銀では、3二玉で受けられる。そこで花村は、2三桂成、同玉、3四銀、同玉、2一飛成と竜を作って、この攻めに賭けた。
以下も花村は、攻め続けたが、結局、大山名人の玉は2九にまで逃げ込んで、大山勝ち。
ところで、大山名人の「4四金」の絶妙手(花村さんが著書にそう書いている)は、ソフト「激指」はどう評価するのでしょうか。そこに興味があって、この将棋を調べてみました。
すると、「4四金」は、いちおう候補手の一つとして考えてはいるようですが、それほど高い評価ではありません。「激指13」はその局面では、「8六歩」と「7五歩」を有力手として考えています。それで「後手やや有利」と。 (4四金の局面は「互角」と見ています。)
とすると、「大山名人の絶妙手4四金はなんだったんだ?」、という感じになるが…?
ソフト「激指13」の評価も、間違っていることもよくあります。しかしどうも、この場合は「激指13」の読みのほうが正しいかもしれないと、調べてみて僕は思いました。
「4四金」のかわりに、「7五歩」と後手が指した場合の研究を以下に示しておきます。興味深い変化となっています。
研究図1
先手の1五桂に、「7五歩」と後手が指したところ。
1五桂と打って、花村さんは「受けが難しいだろう」と思っていた。後手の大山名人も2三の地点を受けるために4四金という手をひねり出した。これが勝因で、名人が勝った、ということになっている。
ところが、「激指13」は、「ここは受けなくてよい」というのだ。つまり放っておいても3三玉~4四玉という脱出ルートが開かれているので、ここは受けずに攻めるところだというわけです。本当なのでしょうか。
先を進めてみる。先手はどう攻めるか。
2三桂成、同玉、1四銀、3三玉、2一飛成と攻めるところだろう。
そこで後手は7六歩。先手の応手は(a)7六同銀と、(b)6八銀に分かれる。
(a)7六同銀、同飛、7七歩(研究図2)。
研究図2
ここで7二飛と引くのもあるが、ここでは5六飛を紹介する。
5六飛を同金は、同馬で「後手良し」。
そこで5六飛に、5七歩としてみる。後手、8六飛。先手の8七歩に、後手7五桂。
研究図3
この7五桂で「後手優勢」。
これは見事ですなあ。(この変化を紹介したいのでこの“研究”を書きました。)
さて、後手の7六歩に、(b)6八銀以下の変化ですが、6八銀、1四歩、3六桂、同銀、同金、8六歩、4五銀、8七銀(同金は先手玉詰む)、9七玉、4四金となって次の研究図4です。
研究図4
これで「後手優勢」となりました。とはいえ、この4四金もそう簡単に指せる手ではありません。
この手順の途中、4五銀のところで4五歩と指せれば先手が優勢なのですが、それは“二歩”でいけません。
図で、3二金、4三玉、4一竜という有力な攻めがあってこれは部分的には後手受けが難しい。しかしこの場合は、9六銀成、同玉、6三角で、「王手竜取り」。先手の竜を取ってしまえば「後手の勝ち」というわけです。
図の局面、ギリギリの感じですが、どうも「後手勝ち」は動かないようです。
いやあ、、しかし、こういう変化を全部カバーするというのは無茶ってもんで、私たちの場合はこういう終盤戦は“勘”に頼るしかないですね。
プロのトップの人たちは、それを何とか読み切ろうと頑張っておられるんですけどね。
花村元司(はなむら もとじ、1917‐1985)、静岡県出身、木村義雄門下。
将棋棋士としてプロ入りしたのは1944年、つまり戦争中のこと、その前は将棋道場を経営していて、かなり儲かっていたらしい。(プロ棋士になるより羽振りの良い生活だったとか。) 明るい性格で人から好かれ、商才があったのですね。
「真剣師」(賭け将棋をする人のこと)でもありました。
腕自慢のアマ棋士を相手に、駒落ち、特に「二枚落ち(飛車角落ち)」で指して負けないので、「東海の鬼」などという名前が付いた。「飛香落ち」で負けるのはまあ仕方がないとしても、まさか「二枚落ち」で勝てないとは…、と相手も不思議でしようがなかったらしい。
「真剣師」で稼ぐために必要なことは、もちろん将棋が強いことは必要条件だが、もう一つ必要条件があって、それは「愛される性格であること」である。将棋で負かされることほどつまらないことはない。それでも同じ相手に「もう一番!」とまた盤を挟みたくなるような、そんな愛されキャラでないと「客」はいなくなってしまう、将棋の「真剣師」とは、そういう職業なのです。“リピーター”を育てなければいけない。性格に愛嬌がないと、この仕事はできません。
つまり花村元司という人は、もともと、そういう人気者気質なのです。「鬼」というニックネームも、実は愛称なのだと思います。
そして、将棋が抜群に面白い。
プロ棋士になったのは1944年で、26歳の時。「五段」からのスタートですが、そういう“中途採用”のプロ棋士はかつていなかったので、特例のプロ入会試験が行われました。そのときの合格の条件は、プロ五、六段と6局指して指し分け(3勝3敗)以上なら五段での入会を認める、というもの。つまり、3勝が必要です。
その試験の結果を書くと次の通り。(花村さんの星、相手、手合い)
(1) ● 和田庄兵衛五段 平手
(2) ● 奥野基芳五段 平手
(3) ○ 小堀清一六段 香落ち
(4) ○ 小堀清一六段 平手
(5) ○ 大和久彪七段 香落ち
持ち時間は7時間。これが当時のプロ棋士の対局の標準の持ち時間でしたが、“超早指し”の花村さんにとっては、これはどうも慣れなかった。そのせいか、第1、2戦は連敗してしまいました。特に第2戦は序盤のポカでの敗戦で、危機感を感じさせた。
第3、4戦での小堀戦での連勝が花村を生き返らせた。どうやら自分のペースがつかめてきた。これは湯河原の旅館での対局だったが、花村にとって都合の良いことに、別室で賭博が開かれていた。遊びの好きな花村さんは、相手の小堀さんが指すと、すぐに指して、席を立って賭博場で遊んでいた。記録係が呼びに来ると、また対局上にもどって、すぐに指す。こうやって、「自分のペース」を取り戻して、小堀戦を連勝したのだった。“将棋学徒”の小堀清一さんにとっては不愉快な対局だっただろうが、それも“勝負”だ。
この頃はまだ「奨励会」も設立前でしたから、今とはずいぶん意味合いが違いますが、瀬川晶司さんのプロ入り編入試験もやはり“6番勝負”でしたね。そしてこの来月、今泉健司さんのプロ編入試験がありますね。これも“6番勝負”なんですね。なぜか伝統的に“6番勝負”なんですね。今泉さん、どうなるでしょうか。興味あるところです。
(追記: 「奨励会」も設立前と書いたが、これは誤り。「奨励会」は戦前すでにあった。筆者は「順位戦」と勘違いしていた。「順位戦」は戦後1946年に開始。 また、今回実施される小泉さんの入会試験が“6番勝負”というのも筆者の思い込みで、これも誤り。 実際は、「五番勝負」でした。)
花村さんがA級八段に昇ったのは、1952年のことで、34歳。 同時に昇段昇級したのが小堀清一というのも、また、いいですね。
・関連記事『横歩取り小堀流4二玉戦法の誕生』 『「将棋の虫」と呼ばれた男』
花村元司さんは、将棋のタイトルは取れませんでしたが、将棋には華があるし、人気者でしたし、弟子もたくさんいますし、死去するまで現役プロ棋士でしたし、幸せそうな人でしたね。そういうイメージです。
今回紹介した「花村-塚田」戦(1953年九段戦第1局)や「升田-花村」戦(1956年名人挑戦者決定プレーオフ)のような面白い将棋を忘れられてはあまりにもったいないと思い、今回の記事に詰め込みました。(ほかにもまだ紹介したい花村元司の棋譜がいくつもあり困りました。)
最後に、プロ棋士で最初に「相横歩取り」を指したのも花村元司だということもここに書いておきます。1955年の九段戦準決勝「松田茂役-花村元司」戦です。
・関連記事『ヒゲの九段のA級順位戦PART1』
【以下は、付け足しです】
「飛車切り」ということで、最近チェックした江戸時代の棋譜で、僕が驚いた「飛車切り」の棋譜があるので紹介しておきます。
伊藤看佐-磯辺林蔵 1816年
1816年の「伊藤看佐-磯辺林蔵」戦です。
次は先手の伊藤看佐の手番ですが、ここで看佐、「飛車切り」で攻めたのです。
3三飛成!
「ここで切るか!!」と僕は思いました。
以下は、3三同桂、4五歩、同桂、4六歩、3七桂不成、同桂、2九飛と進みました。
5八銀、1九飛成、4五歩、7七歩成、同桂、6四歩、2五桂、4二金、7六歩、3七歩、3三角…
以下、先手勝ち。
勝ってしまうんですねえ…!
この先手の伊藤看佐(1801-1827)という人は、江戸期最後の名人、十世名人の六代伊藤宗看(松田印嘉)の次男ですが、僕はこの人、“ものすごい才能を持った人”ととらえています。27歳で死んでしまって、棋譜も少ししか残っていないので有名ではないのですが、有名になって棋譜もたくさん残っていて評価も高かった大橋柳雪とは御城将棋で3度対戦していますが、看佐の3勝です。その内容も見事です。
福崎文吾-谷川浩司 1984年
そして、これは1984年、敗れた谷川浩司が、「感覚が破壊された」と言って有名になった将棋。
先手の福崎文吾、ここで3二飛成! 以下、同金、3三歩、同玉、3五銀となって、福崎さんが勝ちました。
この「飛車切り」、当時は相当に驚かれたのですが、“穴熊感覚”の磨かれた現代の将棋指しは、おそらく第一感でこの3二飛成が浮かぶはずです。3二飛成が最善手なんですね。
1950年代の花村さんは、すでにこういう感覚を持っていたんだと思います。
【追記します】
図書館で借りてきた『日本将棋大系5 三代伊藤宗看』を読んでいましたら、ぜひここに追記しておきたい文章があったので書いておきます。
名村立摩-三代伊藤宗看 1735年
江戸時代に名村立摩という民間の強豪棋士がいて、この人が“鬼宗看”と呼ばれた三代伊藤宗看と対戦したときに、彼が考案した「立摩流」で戦ったという棋譜があります。「左香落ち」の上手振り飛車に対しての急戦の指し方ですが、それが図の将棋です。2四歩、同歩、3六歩と仕掛ける。3六同歩に、2六飛~3六飛と指します。
1735年、ということは、宗看30歳の時の対局で、すでに名人(七世)になっています。江戸時代では最年少で名人になったのが三代宗看です。
その三代伊藤宗看が主役の『日本将棋大系5』の解説を書いたのは大山康晴名人(十五世)なのですが、この「立摩流」の仕掛けをみて、こう書いているのです。
〔とにかく乱戦に!という指し方である。ふと私は、花村元司九段の将棋を思い出した。似ていると思う。〕
この将棋、宗看の失着もあって、なんと名村立摩が勝利します。(ただし、その前に行われた「角落ち」での対局は宗看が勝利している。)
それで大山名人はこの棋譜の解説の最後には、
〔この将棋は、下手の立摩は花村九段好みの手将棋で、こまかく動き、攪乱して、みごとな勝利を得た。乱戦の雄らしく、きびしく迫る手に魅力は感ずるが、これを以て「立摩流」と呼ぶのは、いかがなものであろうか。いって見れば、夏の夜の花火のごとく、華やかに打ち上げて呆気なく消え去る戦法である。〕
と意見を述べています。
「立摩流」? ふん、そんな立派なもんじゃないでしょ、というニュアンスですね。まあ確かに、“立摩流”は名前がかっこよすぎる。