はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

矢倉vs雁木 5 花村の“飛車切り”! 花村-大山戦

2014年08月18日 | しょうぎ
 1950年の対局「花村元司-大山康晴」戦から。
 図で、先手の花村元司の指した手は、3四飛!
 この飛車切りはびっくりした。しかもこの後、花村さんは勝っている。しかも、相手は大山康晴だ!!
 3四飛、同金、6一角、3三金、8三銀という攻めを狙っている、というのはわかる。しかし、問題は先手陣がもつかどうかだ。△2八飛と、先に飛車を打たれて、自分ならとても受けきれる気がしない。いったい、花村さんはこの将棋をどうやって勝ったのだろう!?

 ということで、今日はこの将棋の棋譜を見ていきます。これ、先手の花村元司の「雁木」の将棋なんですよ。



 初手より
▲7六歩 △8四歩 ▲5六歩 △8五歩 ▲7七角 △5四歩 ▲6八銀 △3四歩
▲4八銀 △6二銀 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角 ▲7八金 △5二金右


▲6六歩 △3二銀 ▲6七銀 △4二角 ▲5七銀 △3三銀 ▲6五歩
 先手7七角、後手3三角型の「相居飛車」戦。ここから、先手は6六歩~6七銀と「雁木」に、後手は4二角~3三銀で「矢倉」に。


△8六歩 ▲同歩 △同角 ▲同角 △同飛 ▲8七歩 △8二飛
▲6九玉 △4三金 ▲6六銀右 △4二金上 ▲4六歩 △4一玉
 先手は6五歩と突きました。これは次に6六銀右~5八飛~5五歩などのねらいがあります。
 後手の大山康晴、ここで8六歩から角交換を決めました。この角交換をするかしないかは「矢倉」側の権利となります。
 「矢倉vs雁木」の戦型で、「雁木」の側が角を上がると、角交換将棋になることを覚悟しなければなりません。
 だから花村さんのここでの6五歩は、「さあ、角交換をしてこい」ということかもしれないですね。


▲4八金 △3五歩 ▲7七桂 △3二玉 ▲7九玉 △5三銀 ▲8八玉 △9四歩
▲1六歩 △1四歩 ▲9六歩 △3四銀 ▲5七金
 お互いが「角」を持っているため、ここからの駒組みが難しくなります。角打ちのスキを作らないように駒組みを進めなければなりません。後手の陣形は「天野矢倉」と呼ばれる、江戸時代の天野宗歩が愛用したという矢倉で、通常の矢倉に較べると角打ちのスキが少ない。
 先手の花村さんは4六歩と突いています。これは相手に4五歩と位を取らせたくない、という意味でしょうか。この歩を突くと4七に空間をつくってしまうので、ここに角を打たれないよう、ここで4八金と上がりました。次に3六歩~3七桂でしょうか。
 それを阻止する大山さんの3五歩。こっちの位を取りました。


△6四歩 ▲7五銀 △6五歩 ▲同桂 △6二銀 ▲6六銀上 △6三歩 ▲2四歩
 こうなりました。ここで後手の大山さん、6四歩。これは歩交換のねらいですが、花村さんは素直に同歩とはせず、7五銀、6五歩、同桂と、大山さんの動きを利用してきました。これはちょっと先手が無理気味な動きに見えますが、しかし、こういうのが “花村流”なんですね。少しくらい悪くても、逆転できる、という自信があります。
 1917年生まれの花村元司はこの対局時は32歳。対する大山康晴は27歳。大山はこの年名人挑戦者になっています。名人位奪取はこの時はなりませんでしたが、2年後に名人になりました。


△2四同歩 ▲同飛 △2三歩 ▲3四飛
 さてここです。
 2四歩、同歩、同飛、2三歩に、3四飛!
 なお、ソフト「激指13」ではこの3四飛は第3候補の手です。第1候補は2八飛、第2が2六飛です。「激指」はいずれにしてもここではすでに先手苦戦と見ています。


△3四同金 ▲6一角 △3三金引 ▲8三銀
 花村の「飛車切り!」です。


△8三同飛 ▲同角成 △2八飛 ▲6九歩
 3四飛と飛車を切れば、2八飛まではほぼ自然な進行。
 問題は、2八飛からの後手の攻めを、先手がどう受けるかだ。


△2九飛成 ▲6一馬 △6九龍 ▲7九飛 △同龍 ▲同金 △2八飛 
▲6八歩 △5九銀 ▲6七金 △4九角 ▲7七玉
 花村の“答え”は、「6九歩」だった。これで受かっているのか!? (6九歩は後手に△6九銀と打たせない意味がある)
 2九飛成、6一馬 、6九龍に、7九飛。 なるほど、こう受けるのか。
 再度の2八飛に、6八歩と受けたところは、「激指13」もほぼ「互角」の評価。しかもその局面での後手の最善手は「7一銀打」だという…。
 そうであるなら、「花村の飛車切り」は十分に成立していたということになるかもしれない。


△6四歩 ▲6二馬 △6五歩 ▲同銀 △8五桂 ▲8六玉 △6七角成 ▲同歩 △6八銀不成
 花村は7七玉と玉を上がる。
 大山、6四歩。


▲8五玉 △7九銀不成 ▲5三銀 △4三金打 ▲4二銀成 △同金 ▲5三金 △4三金打
▲4二金 △同金 ▲5二金 △4一金打 ▲同金 △同金 ▲3四桂
 “花村マジック”としか言いようがない。ここではすでに先手が優勢になっている。
 花村はここで8五玉としたが、すぐに5一銀と攻めるのがわかりやすかったかもしれない。(8五玉、7九銀不成の2手の交換は、相手に金を一枚余分に渡すので、その分、後手も受けに粘りが利く。) 5一銀、4一金打、4二銀成、同金、5三金、3一銀、6四角の進行は先手勝ちだ。
 しかし本譜でもやはり問題なく先手勝ちのようです。


△3四同金 ▲8二飛 △3三玉 ▲8一飛成 △9三桂 ▲9四玉 △8二歩 ▲9五桂
 図の3四桂は、「激指13」にも見えていない好手で、“決め手”。
 同金と取らせて、8二飛。これが花村元司の寄せの構図だった。


まで113手で先手の勝ち

 大山康晴、投了。

 花村元司の見事な勝ちでした。あの飛車切り以降、大山さんの手にはっきりした疑問手があったわけではないのに、花村さんが勝ちになっていました。


 戻って、ちょっと研究してみます。

途中図
 この途中図は56手目、6三歩と大山さんが歩を打った局面です。この歩は、先手からの6四銀などを消した手ですが、すぐに打つ必要もない手です。
 それを大山さんがここで打ったのは、これは単に「受け」の手ではないということです。
 仮に、ここで先手が5五歩と指したとしましょう。これは戦線拡大の手ですが、そこで後手からは「7四歩」という手があります(変化図)。

変化図
 大山さんの6三歩は、この「7四歩」を狙っていたのでした。(6三歩を打たずに7四歩では6四角があるのでダメです。)
 「7四歩」を同銀は、7三歩で銀が死にますし、6四歩もあります。8六銀なら、6四歩で桂馬を取れます。
 つまり大山さんの途中図の6三歩は、この「7四歩」を見せて、先手を焦らせた手なのです。
 花村さんは途中図で2四歩と行ったのですが、もしも2四歩、同歩、同飛、2三歩、2八飛と先手が指すとどうなったでしょう? やはり「7四歩」があって、大山さんの有利な将棋となってしまいます。

 こうして考えてみると、途中図(56手目)ではすでに、2四歩~2四飛~3四飛の「飛車切り」、これ以外に先手が勝つ手段はなかったのではないかと、そういう結論になるわけです。
 花村さんの「飛車切り」は、一か八かのギャンブルのような手に見えますが、実は、理クツの上でも、最善手段だったのかもしれません。




 花村元司さんは、昭和の人気棋士です。
 静岡県の出身で「しょんない、しょんない」が口癖でした。

 その将棋は、「妖刀」とかっこいい表現で呼ばれましたが。
 しかし、僕は、そのネーミングはちょっと違う、と今は感じています。僕は2年前に1955年頃のプロの将棋を調べていましたが、その時は花村元司の絶好調の時期だったのですが、その花村さんの将棋の面白さにハマり、できるだけたくさん棋譜・観戦記を集めようと思いました。その時に「妖刀とはちょっと違うかな」と思ったのです。
 花村さんのその頃の将棋は、序盤から飛び跳ねるような、元気の良い将棋です。
 「妖刀」というと、夜の闇の中で音もなく敵を斬る、というような、“陰”な感じがします。それはそれでかっこいいのですが、花村さんの将棋は(性格もですが)、“陽”という感じがするのです。
 中原誠名人が、80年代に相掛りの将棋で、名人戦の大舞台で、有名な「4五桂」とか、「5六飛」とかの、“素人将棋のような”手を繰り出してそれで勝って見せて周囲を驚かせましたけれども、その将棋に似ています。花村さんもずっと「素人将棋」とプロ仲間の間では若いうちはずっと呼ばれていましたが、よく言えば最近の21世紀の激しい序盤の将棋を何十年も先取りしていたような、そんな棋風だと思います。そんな将棋を1950年代にA級リーグで指していたのですから、それは“異質”に違いありません。そういう当時のプロ棋士や評論家から見て異質な、“得体のしれない”棋風が「妖」という文字をイメージさせたのかもしれません。
   ・参考記事『中原の、桂!




 東公平さんの観戦記集『升田幸三熱戦集』の中に、花村さんが指している将棋を横から見て升田さんが「牛若丸だな、花ちゃん。」と声をかけ、花村さんが「攻める穴熊戦法だ。」と答えたシーンが描かれています。それは1970年頃の対局シーンですが、僕はその時の花村さんの「攻める穴熊」の棋譜を知りたいと思い探してみましたが、それは結局見つかっていません。しかしその時の升田さんの「牛若丸だな」という表現こそ、僕が花村将棋に感じているものをうまく表している気がします。(関連記事『ヒゲの九段のA級順位戦PART4』)
 序盤から動く、飛び跳ねる将棋です。升田幸三もやはり序盤から動くのですが、升田さんの場合は、そこにしっかり緻密な読みを入れて、「優勢」な局面をつくろうとします。でも、花村元司の序盤は、ちょっと違います。花村さんの人生観、将棋観は、「人間は間違うために生まれてきた」なのだそうです。ですから、花村さんは、少しくらいは不利でも、最後には自分が勝つ、そういう闘い方を初めから目指しているのです。

 
 たとえば、こんな将棋です。

花村元司-塚田正夫 1953年 九段戦1
 花田さんが初めてタイトル戦の番勝負に登場したのは1953年度の「九段戦」。タイトルホルダーは塚田正夫です。
 その第1局の将棋がこんな将棋。「タテ歩取り」からの乱戦ですが、すでに角と銀とを刺し違えていて花村さんは「駒損」になっています。
 注目してもらいたいのは、先手の陣形。「5九金型中住まい」。 今、「横歩取り」の後手番でよく見られる最新の流行形と同じですね!
 図から、実戦は、5二金、5六飛、6四銀、7四銀、9二角、7五歩、同銀、5四飛、8六飛…
 この将棋も花村さんは、5二飛成と飛車を切って攻めていく展開になりました。
 結果は、塚田勝ちですが、花村さんの特徴がよく現れた将棋でした。タイトルも塚田さんが防衛。

花村元司-大野源一 1954年 A級順位戦
 ほらね。“牛若丸”でしょう?
 後手の大野源一さんの振り飛車に、先手の花村さんは飛車先を突かないで中飛車にして、7七桂と構える。これ、とても勝てる気がしませんが、でも勝っちゃうんです。A級順位戦の対局ですよ。
 この対局の年、1954年度の対局で、高島一岐代との対局は「持将棋」となりました。その「指し直し局」が3月の最後に行われたのですが、この勝負が結局はその年度のA級順位戦の優勝(つまりは名人挑戦者)を決める決戦となりました。この対局で高島が勝利して、名人挑戦者となっています。花村さんは2位に終わりましたが、この頃の花村さんの勢いは翌年も続きました。いや、もっと加速します。
 
   ・「大山-高島」名人戦第1局の記事 → 『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン


花村元司-大山康晴 1955年2月 NHK杯準決勝
 1955年2月、大山康晴とNHK杯トーナメントの準決勝で当たった。
 この時代、まだ振り飛車を指し始めたのは、大野源一くらいのものだったが、この対局で花村元司は「先手振り飛車」を採用した。そういう「振り飛車時代のあけぼの」の時期に、この図のように「振り飛車の袖飛車」という戦術を編み出している。(この袖飛車戦術が花村元司の創始かどうかはわからないがそうである可能性はかなりある。)
 この将棋は大山勝ち。

 なお、「名古屋戦法」を採用したのもこの年度のNHK杯。


塚田正夫-花村元司 1955年2月 早指王位決定戦
 この当時「早指し王位」という棋戦が創設された。その第一期の、塚田正夫との対戦。
 3五歩と仕掛けた! (この手、ノータイムでの着手だそうだ。)
 3五同歩に、3八歩、4八玉、3三銀、4七銀、4四銀、3八玉、1五歩、同歩、3五銀、2五飛、4六銀、同銀、1八歩。


 この仕掛けで勝ってしまうのだから、凄い。
 1八歩は、同香に、3六角というねらい。
 実戦は、2六飛、1九歩成、3七桂、3三歩と進んだ。この「3三歩」が花村さんの自慢の一手で、これで自陣は鉄壁、あとは思う存分攻める、という意味。(ここに歩を打たないでおくと、逆に先手から3三歩と叩かれる。) 花村さんが勝利。
 勝った花村元司は、大山康晴名人との三番勝負へ。しかしここでは敗れ、「第1期早指し王位」獲得はならなかった。


花村元司-升田幸三 1955年11月 王将戦挑戦者決定プレ-オフ
 「王将戦」の挑戦者を決めるプレーオフでは升田幸三と戦っている。(この将棋の模様は以前も別記事で触れています。) 花村元司、升田幸三、灘蓮照が当時の「超早指し」の得意な三人で、この「花村-升田」戦は、もうれつな勢いで指し手が進んで、「午前中には終わりそうだなあ」と、花村は対局中につぶやいた。午前10時開始、持ち時間各7時間の対局なのだが。
 花村は当時、「ひねり飛車」「タテ歩取り棒銀」を得意としてよく使っていた。この当時、A級でこの戦法を指すのは花村くらいだった。強い相手に対して、これを使った。
 ここでも「飛車切り」が出た。理屈を言えば、この将棋は後手升田の構想がまずかった。升田は6二の銀を5三に上がって、その手は花村に「7四歩から来てみろ」と強気に誘い、この飛車切りを強要した意味があった。花村が升田の誘いに乗ったのだが、正確に指せば、これは花村の指せる将棋だった。花村も「この将棋はもらった!」と思っていたが、ちょっと手がすべり、勝利は升田幸三が手にした。花村に負けず「早指し」で対抗した升田幸三の“気合い”がこの対局では上回っていたかもしれない。
 病み上がりの升田幸三がこれで「王将戦」の挑戦者として名乗りを上げ、大山康晴から「王将」をもぎ取り、さらにはこの名人を「香落ち」に指し込むことになる。
    ・関連記事  『1955王将戦 升田の復活


大野源一-花村元司 1956年1月 九段戦挑戦者決定戦 
 惜しいところまで行きながらも、「名人戦」「王将戦」とタイトル戦出場のチャンスを2つ逃している花村元司だが、3度目のチャンスはすぐにやってきて、今度はものにした。
 大野源一と争った「九段戦」の挑戦者決定戦三番勝負。その第1局。
 振り飛車の大野源一を相手に、 “後手一手損角換り”。(このように、この戦術は昔からあったのだ。)
 

 そして花村が振った。「角交換四間飛車」だ。 まったく、何をやってくるかわからない男だ。
 図の3四銀に、2四歩。花村はこの2四歩を誘っていた。これには1五角。2八飛、2四角が花村の予定。
 しかしそこで1六角と大野が打った手が好手で、先手が指しやすくなった。内心で「やられた」と思った花村だが、ノータイムで次の手を指す。3二飛。
 以下、3四角、同飛、2五銀、3三飛。こうなってみると、後手もやれる。
 この将棋は熱戦となったが、これを制した花村が、次の第2局も勝って、塚田正夫の持つ「九段位」のタイトルを賭けてその挑戦者として名乗りを上げたのである。
 その「九段戦五番勝負」は、花村挑戦者からみて○○●●●という結果になった。惜しくも、タイトル奪取とはならなかった。(第3局は勝てる将棋だったのだが、痛恨の負け。)


【1956年名人挑戦者決定戦】

升田幸三-花村元司 1956年 A級順位戦プレーオフ
 1年間の休場の後、「王将位」に復活した升田幸三と、絶好調の花村元司が8勝2敗で並んで、挑戦者決定三番勝負のプレーオフとなった、1955年度のA級順位戦。当時のプレーオフは三番勝負で、これは両者1勝1敗で迎えた第3局。
 「相矢倉」戦となった。だたし、先手升田は腰掛銀の矢倉で、右金を繰り出して攻めて行った。
 ここで後手の花村の指した手は――


 7七飛成!  どかんと、「飛車切り」!!!

 こういう手は、今の「穴熊戦術」を先取りした感覚なのだと思う。後手の「矢倉」は」四枚で守っていて堅い。だから無理気味に見えても、実は“ある手”だったということも「穴熊戦」ではよくあること。
 でも、この場合はどうだろうか。
 7七同金に、花村は、4六銀と打つ。4四歩、4二金、4三歩成、同金、7二飛と進む。


 この飛車打ちがある。

 この当時、花村さんは、対局中は物凄い集中していて、だからか、食事はまったくのどを通らないので取らなかった。朝から夜まで、対局の日はまる一日なにも食べないのだ。だからこの日も昼食は抜いた。
 それが昼の三時頃になって、釜揚げうどんを注文し、無理矢理それを詰めこんだ。が、吐き出してしまった。
 花村はそんなことは全く覚えていなかった。対局に集中していて、他のことは上の空なのだろう。後で河口俊彦にいわれて、そんなことがあったのかと知ったのだという。
 それほどの対局時の集中力こそが「妖刀」の正体なのだろう。


 花村元司、升田の7二飛に、(4七歩、3八飛、3五銀、同角として)7一金。
 花村は苦戦を意識しつつ、でも負けるとは思っていない。
 以下、5二飛成、4二金引、5三竜、4八歩成、3四歩、同銀、4四角、3三歩、4八飛、3七角成、3三角成、同金、4一飛成、5九馬。


 もの凄い展開だ。この5九馬を、同玉は、2六角、6九玉、5三角でこれは後手が良い。
 だから升田は7八玉。
 それはよかったが、次の花村の6九角に、6七玉と逃げた升田幸三の次の手が“ポカ”で、敗着となった。
 以下、5八角成まで、升田、投了。 以下は、7八玉、6八馬寄、8八玉、7七馬、同桂、7六桂という、簡単な“詰み”。
升田の6七玉で、8八玉と逃げておけば、その局面はどちらが制しているかわからない。まだ熱戦が続いたはずだ。
 花村ファンからすれば、この勝ち方は“奇跡の勝利”である。


 こうして、花村元司は、プロ棋士の最高の檜舞台、名人戦への登場を決めました。1944年のプロ入り以来11年目、年齢は37歳。相手は大山康晴名人です。
 “名人に香を引いて勝った”ばかりの升田幸三王将を三番勝負で破っての名人戦初登場。流れは完璧です。さあ、名人戦だ。


 しかし――
 大山康晴名人に、花村元司が挑戦した1956年の名人戦は、大山の4連勝で防衛となりました。花村さんは力を発揮することができなかった。1勝もできず、0-4の完敗でした。
 「花ちゃん、やっぱりあんたの将棋はしろうと将棋だね」と局後面と向かって大山に言われたという話を聞きますが、それはこの時でしょうか。


【1956年名人戦第2局】

 その「大山-花村」の名人戦の将棋を一局見てみましょう。

花村元司-大山康晴 1956年
 これは第2局。「相矢倉」ですが、花村さんは、この第2局だけは、自分も“らしさ”を発揮できたとしているようです。
 先手花村陣の6七歩型の矢倉というのが、今ではあまり見ない型ですね。ちなみに、矢倉でのこの2七飛という形は、花村さんの得意形で、よく現れます。
 今、花村さんが、5七の金を4七に動かして角道を通したところです。すると3九角成と、相手に馬を作らせることになりますが、ここからガンガン攻めていくつもりでしょう。


 4八歩と “金底の歩”を打っておいて、先手の攻め筋は2四歩、同歩、2五歩、同歩、同銀、です。
実戦もそう進み、以下2三歩、2四歩、4五銀、2三歩成、同金、7三角成。
大山名人は大長考で4五銀と桂馬を取って“桂得”。


 花村、7三角成。 これが花村のねらっていた攻めで、これで勝てるのではと思っていた。大山もこれを読んでの先の“大長考”だったか。この瞬間、先手“角損”だが、1五桂と桂馬を打てば、後手は受けが難しいだろうというのが花村の読み。
 1五桂に、3三金左なら、2四銀。3三金右なら、2三桂成、同金、2四歩、3三金、2三金。
 しかし大山に「絶妙の受け」があった。


 4四金! これは7三の飛車の横の利きを2三にまで通して、これで受けるという手である。
 花村もこれは読んでおらず、しかしこんないい手があったかと認めざるを得なかった。
2三桂成、同玉、1四銀では、3二玉で受けられる。そこで花村は、2三桂成、同玉、3四銀、同玉、2一飛成と竜を作って、この攻めに賭けた。


 以下も花村は、攻め続けたが、結局、大山名人の玉は2九にまで逃げ込んで、大山勝ち。




 ところで、大山名人の「4四金」の絶妙手(花村さんが著書にそう書いている)は、ソフト「激指」はどう評価するのでしょうか。そこに興味があって、この将棋を調べてみました。
 すると、「4四金」は、いちおう候補手の一つとして考えてはいるようですが、それほど高い評価ではありません。「激指13」はその局面では、「8六歩」と「7五歩」を有力手として考えています。それで「後手やや有利」と。 (4四金の局面は「互角」と見ています。)
 とすると、「大山名人の絶妙手4四金はなんだったんだ?」、という感じになるが…?

 ソフト「激指13」の評価も、間違っていることもよくあります。しかしどうも、この場合は「激指13」の読みのほうが正しいかもしれないと、調べてみて僕は思いました。
 「4四金」のかわりに、「7五歩」と後手が指した場合の研究を以下に示しておきます。興味深い変化となっています。

研究図1
 先手の1五桂に、「7五歩」と後手が指したところ。
 1五桂と打って、花村さんは「受けが難しいだろう」と思っていた。後手の大山名人も2三の地点を受けるために4四金という手をひねり出した。これが勝因で、名人が勝った、ということになっている。
 ところが、「激指13」は、「ここは受けなくてよい」というのだ。つまり放っておいても3三玉~4四玉という脱出ルートが開かれているので、ここは受けずに攻めるところだというわけです。本当なのでしょうか。
 先を進めてみる。先手はどう攻めるか。
 2三桂成、同玉、1四銀、3三玉、2一飛成と攻めるところだろう。
 そこで後手は7六歩。先手の応手は(a)7六同銀と、(b)6八銀に分かれる。
 (a)7六同銀、同飛、7七歩(研究図2)。
研究図2
 ここで7二飛と引くのもあるが、ここでは5六飛を紹介する。
 5六飛を同金は、同馬で「後手良し」。
 そこで5六飛に、5七歩としてみる。後手、8六飛。先手の8七歩に、後手7五桂。
研究図3
 この7五桂で「後手優勢」。
 これは見事ですなあ。(この変化を紹介したいのでこの“研究”を書きました。)

 さて、後手の7六歩に、(b)6八銀以下の変化ですが、6八銀、1四歩、3六桂、同銀、同金、8六歩、4五銀、8七銀(同金は先手玉詰む)、9七玉、4四金となって次の研究図4です。
研究図4
 これで「後手優勢」となりました。とはいえ、この4四金もそう簡単に指せる手ではありません。
 この手順の途中、4五銀のところで4五歩と指せれば先手が優勢なのですが、それは“二歩”でいけません。
 図で、3二金、4三玉、4一竜という有力な攻めがあってこれは部分的には後手受けが難しい。しかしこの場合は、9六銀成、同玉、6三角で、「王手竜取り」。先手の竜を取ってしまえば「後手の勝ち」というわけです。
 図の局面、ギリギリの感じですが、どうも「後手勝ち」は動かないようです。

 いやあ、、しかし、こういう変化を全部カバーするというのは無茶ってもんで、私たちの場合はこういう終盤戦は“勘”に頼るしかないですね。
 プロのトップの人たちは、それを何とか読み切ろうと頑張っておられるんですけどね。





 花村元司(はなむら もとじ、1917‐1985)、静岡県出身、木村義雄門下。

 将棋棋士としてプロ入りしたのは1944年、つまり戦争中のこと、その前は将棋道場を経営していて、かなり儲かっていたらしい。(プロ棋士になるより羽振りの良い生活だったとか。) 明るい性格で人から好かれ、商才があったのですね。

 「真剣師」(賭け将棋をする人のこと)でもありました。
 腕自慢のアマ棋士を相手に、駒落ち、特に「二枚落ち(飛車角落ち)」で指して負けないので、「東海の鬼」などという名前が付いた。「飛香落ち」で負けるのはまあ仕方がないとしても、まさか「二枚落ち」で勝てないとは…、と相手も不思議でしようがなかったらしい。
 「真剣師」で稼ぐために必要なことは、もちろん将棋が強いことは必要条件だが、もう一つ必要条件があって、それは「愛される性格であること」である。将棋で負かされることほどつまらないことはない。それでも同じ相手に「もう一番!」とまた盤を挟みたくなるような、そんな愛されキャラでないと「客」はいなくなってしまう、将棋の「真剣師」とは、そういう職業なのです。“リピーター”を育てなければいけない。性格に愛嬌がないと、この仕事はできません。
 つまり花村元司という人は、もともと、そういう人気者気質なのです。「鬼」というニックネームも、実は愛称なのだと思います。
 そして、将棋が抜群に面白い。


 プロ棋士になったのは1944年で、26歳の時。「五段」からのスタートですが、そういう“中途採用”のプロ棋士はかつていなかったので、特例のプロ入会試験が行われました。そのときの合格の条件は、プロ五、六段と6局指して指し分け(3勝3敗)以上なら五段での入会を認める、というもの。つまり、3勝が必要です。
 その試験の結果を書くと次の通り。(花村さんの星、相手、手合い)
 (1) ● 和田庄兵衛五段 平手
 (2) ● 奥野基芳五段  平手
 (3) ○ 小堀清一六段  香落ち
 (4) ○ 小堀清一六段  平手
 (5) ○ 大和久彪七段  香落ち
 持ち時間は7時間。これが当時のプロ棋士の対局の標準の持ち時間でしたが、“超早指し”の花村さんにとっては、これはどうも慣れなかった。そのせいか、第1、2戦は連敗してしまいました。特に第2戦は序盤のポカでの敗戦で、危機感を感じさせた。
 第3、4戦での小堀戦での連勝が花村を生き返らせた。どうやら自分のペースがつかめてきた。これは湯河原の旅館での対局だったが、花村にとって都合の良いことに、別室で賭博が開かれていた。遊びの好きな花村さんは、相手の小堀さんが指すと、すぐに指して、席を立って賭博場で遊んでいた。記録係が呼びに来ると、また対局上にもどって、すぐに指す。こうやって、「自分のペース」を取り戻して、小堀戦を連勝したのだった。“将棋学徒”の小堀清一さんにとっては不愉快な対局だっただろうが、それも“勝負”だ。

 この頃はまだ「奨励会」も設立前でしたから、今とはずいぶん意味合いが違いますが、瀬川晶司さんのプロ入り編入試験もやはり“6番勝負”でしたね。そしてこの来月、今泉健司さんのプロ編入試験がありますね。これも“6番勝負”なんですね。なぜか伝統的に“6番勝負”なんですね。今泉さん、どうなるでしょうか。興味あるところです。
 (追記: 「奨励会」も設立前と書いたが、これは誤り。「奨励会」は戦前すでにあった。筆者は「順位戦」と勘違いしていた。「順位戦」は戦後1946年に開始。 また、今回実施される小泉さんの入会試験が“6番勝負”というのも筆者の思い込みで、これも誤り。 実際は、「五番勝負」でした。)

 花村さんがA級八段に昇ったのは、1952年のことで、34歳。 同時に昇段昇級したのが小堀清一というのも、また、いいですね。
   ・関連記事『横歩取り小堀流4二玉戦法の誕生』 『「将棋の虫」と呼ばれた男

 

 花村元司さんは、将棋のタイトルは取れませんでしたが、将棋には華があるし、人気者でしたし、弟子もたくさんいますし、死去するまで現役プロ棋士でしたし、幸せそうな人でしたね。そういうイメージです。

 今回紹介した「花村-塚田」戦(1953年九段戦第1局)や「升田-花村」戦(1956年名人挑戦者決定プレーオフ)のような面白い将棋を忘れられてはあまりにもったいないと思い、今回の記事に詰め込みました。(ほかにもまだ紹介したい花村元司の棋譜がいくつもあり困りました。)
 最後に、プロ棋士で最初に「相横歩取り」を指したのも花村元司だということもここに書いておきます。1955年の九段戦準決勝「松田茂役-花村元司」戦です。
  




  ・関連記事『ヒゲの九段のA級順位戦PART1



【以下は、付け足しです】

 「飛車切り」ということで、最近チェックした江戸時代の棋譜で、僕が驚いた「飛車切り」の棋譜があるので紹介しておきます。

伊藤看佐-磯辺林蔵 1816年
 1816年の「伊藤看佐-磯辺林蔵」戦です。
 次は先手の伊藤看佐の手番ですが、ここで看佐、「飛車切り」で攻めたのです。


 3三飛成!
 「ここで切るか!!」と僕は思いました。
 以下は、3三同桂、4五歩、同桂、4六歩、3七桂不成、同桂、2九飛と進みました。


 5八銀、1九飛成、4五歩、7七歩成、同桂、6四歩、2五桂、4二金、7六歩、3七歩、3三角…
 以下、先手勝ち。
 勝ってしまうんですねえ…!

 この先手の伊藤看佐(1801-1827)という人は、江戸期最後の名人、十世名人の六代伊藤宗看(松田印嘉)の次男ですが、僕はこの人、“ものすごい才能を持った人”ととらえています。27歳で死んでしまって、棋譜も少ししか残っていないので有名ではないのですが、有名になって棋譜もたくさん残っていて評価も高かった大橋柳雪とは御城将棋で3度対戦していますが、看佐の3勝です。その内容も見事です。


福崎文吾-谷川浩司 1984年
 そして、これは1984年、敗れた谷川浩司が、「感覚が破壊された」と言って有名になった将棋。
 先手の福崎文吾、ここで3二飛成!  以下、同金、3三歩、同玉、3五銀となって、福崎さんが勝ちました。
 この「飛車切り」、当時は相当に驚かれたのですが、“穴熊感覚”の磨かれた現代の将棋指しは、おそらく第一感でこの3二飛成が浮かぶはずです。3二飛成が最善手なんですね。
 1950年代の花村さんは、すでにこういう感覚を持っていたんだと思います。



【追記します】

 図書館で借りてきた『日本将棋大系5 三代伊藤宗看』を読んでいましたら、ぜひここに追記しておきたい文章があったので書いておきます。

名村立摩-三代伊藤宗看 1735年
 江戸時代に名村立摩という民間の強豪棋士がいて、この人が“鬼宗看”と呼ばれた三代伊藤宗看と対戦したときに、彼が考案した「立摩流」で戦ったという棋譜があります。「左香落ち」の上手振り飛車に対しての急戦の指し方ですが、それが図の将棋です。2四歩、同歩、3六歩と仕掛ける。3六同歩に、2六飛~3六飛と指します。
 1735年、ということは、宗看30歳の時の対局で、すでに名人(七世)になっています。江戸時代では最年少で名人になったのが三代宗看です。

 その三代伊藤宗看が主役の『日本将棋大系5』の解説を書いたのは大山康晴名人(十五世)なのですが、この「立摩流」の仕掛けをみて、こう書いているのです。

 〔とにかく乱戦に!という指し方である。ふと私は、花村元司九段の将棋を思い出した。似ていると思う。

 この将棋、宗看の失着もあって、なんと名村立摩が勝利します。(ただし、その前に行われた「角落ち」での対局は宗看が勝利している。)

 それで大山名人はこの棋譜の解説の最後には、

 〔この将棋は、下手の立摩は花村九段好みの手将棋で、こまかく動き、攪乱して、みごとな勝利を得た。乱戦の雄らしく、きびしく迫る手に魅力は感ずるが、これを以て「立摩流」と呼ぶのは、いかがなものであろうか。いって見れば、夏の夜の花火のごとく、華やかに打ち上げて呆気なく消え去る戦法である。〕

と意見を述べています。

 「立摩流」? ふん、そんな立派なもんじゃないでしょ、というニュアンスですね。まあ確かに、“立摩流”は名前がかっこよすぎる。
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芝公園

2014年08月16日 | はなし
 「5月の散歩」、続き。


 東京タワー前の道を麻布方面から海(東京湾)方面に向かって歩くと、すぐにこういう場所に着く。

 どうです、いいところでしょう!

 「もみじ谷」と名前がついている場所で、湧き水の小川がちょろちょろ流れているのですが、“滝”もあります。東京はこういうコンクリートと自然とのコントラストが面白いです。





 さっきの「もみじ谷」は、この案内板の地図の上の方の「東京タワー」のすぐそば。
 僕はこの「もみじ谷」を通って、道路を渡り、「増上寺」に行くつもり。

 この地図のど真ん中にあるのが「増上寺」で、その右が「プリンスホテル」。
 そこをぐるりと囲っているのが「芝公園」です。もともとは「増上寺」も含めて“芝公園”だったらしいのですが、それだと法律上どうのこうので今は、“真ん中を除いたドーナツ状の部分”の全体が「芝公園」です。 古墳もあるんですね。

 あとでこの辺の地図を確認していて、この公園に「伊能忠敬記念碑」があったと知り、それを見逃し素通りしたことがちょっと悔やまれました。伊能忠敬って、ちょっとした“超人”ですよね。



 さて、道路を渡ったところに幼稚園があったのですが、そこへ至る道に「犬の散歩禁止」という大きな看板がありました。(それを写真に撮らなかったのが残念です。)それを見て「へー、犬の散歩禁止なのか…。」と思いつつ、さらに歩きました。






 それでまあ、こういうほのぼのとした広場に出ました。広くて、円形の、バラの花が咲いて美しい広場です。
 5月のバラはいいですねえ。

 

 この写真、向こうから一人の人物がこちらに向かって歩いていますね。おっさんなんですが、彼、スポーツバッグのような大きさのものを胸に抱えています。

 犬、でした。

 そうか、「犬の散歩禁止」…、そういうことか。

 抱えて散歩するのはいいんですね。ちょっと面白かったです。



 振り向けば、奴がいる。



 で、次は増上寺。






 歌川広重『名所江戸百景』の79景「芝神明増上寺」。

 絵の、左の赤い門が「増上寺」の正門らしいです。右が「芝明神」なのかな? ちょっと違う気もするけど、この辺りに「芝明神」があるんですね。今は少し場所が移動したのかもしれません。僕はこの時は「芝明神」にまで興味はなかった(知識もなかった)ので行きませんでしたが。


 けれど、昨日の将棋の記事の中で触れた、江戸時代末期の女流の将棋指し池田菊が「芝明神前に住む妖しき女」とのことで、つまりそうか、この辺に住んでいたんだな、と。


 橘仙斎『将棋営中日記』という江戸末期の書物があって、それには次のように記されているとのこと。
 「神明前に住居せし池田菊女と云へる者、子九月廿二日岡村幾次郎四段の開会の節に、男計りの中へ只一人出席せし由、誠に珍敷事のよし、其様子人を人とも思はず、其の上早き将棋にて、考へもせずにさすよし、当時初段のよし。」
 この女性、“超早指し”だったんですね。「人を人とも思はず」って、そこ、どんなのかもっと具体的に(笑)。
 
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矢倉vs雁木 4  初代宗桂・宗古・算砂の時代

2014年08月12日 | しょうぎ
 これは1619年の「大橋宗古-本因坊算砂」の対局。図の1七金にて「持将棋」(引き分け)となりました。記録上、史上最初の「持将棋」の将棋がこれ、ということになります。400年ほど前の将棋ですね。
 しかしこれ、現代ならもうちょっと指しそうなところ。先手がほんとうにこの後入玉できるかどうか…。
 この将棋の棋譜は、後で見て行きます。



 今日の記事は、「初代宗桂vs算砂」、「宗古vs算砂」、そして、その後の「将棋の囲いの発展」について書きます。



【初代宗桂vs算砂】


 まず、“最古の棋譜”。 「本因坊算砂-初代大橋宗桂」戦。
 慶長12年(西暦1607年)6月の将棋で、慶長といえば、関ヶ原の戦いが慶長5年、徳川家康の江戸幕府開府が慶長8年、大阪冬の陣・夏の陣が慶長19年・20年である。この将棋はどこで指されたものか、わかっていないようだ。徳川家康の駿府城か、秀忠の江戸城か。
 対局者の年齢は、宗桂が53歳、算砂は49歳。本因坊算砂は囲碁の一世名人であるが、算砂、宗桂、この二人は囲碁と将棋の“両刀使い”である。

 江戸時代は「振り飛車」が主流である。この将棋は後手番の初代宗桂が「四間飛車」に振っている。
 注目してほしいのは、先手と後手との「二枚の銀の位置」である。江戸時代の将棋はこのように、銀を早く三段目に構えるのが基本的に好きであった。
 先手なら「4七、5七、6七」、後手なら「4三、5三、6三」、この位置に“銀を二枚置く”のである。そうすると振り飛車の「美濃囲い」にもなりようがない。そういうわけで、「美濃囲い」は少なかった。

 この“最古の将棋棋譜”は(できれば解説を読みながら)盤に並べることをお奨めします。とても面白い内容の将棋です。




 これは翌慶長13年、大阪城で豊臣秀頼の御前で披露された対局。「宗桂-算砂」戦。
 後手の算砂が「四間」に飛車を振っているが、先手の宗桂も振りたそうである。先手の2六歩は、3手目に突いたものであるが。三段目に二枚の銀を並べる、というのも、このように二段目の通りを良くして、どこにでも振ることができる、ということが魅力だったのだろう。金をなかなか上がらないのが宗桂流です。
 ただしこの将棋、後手の右銀は7一に置いたままになっている。これは先手宗桂も振り飛車に転じることを最初から警戒していたということなのかもしれない。
 その予想の通り、ここで8六歩から、宗桂は8八飛と「向かい飛車」に転じた。「相振り飛車」である。




 その将棋はこうなった。宗桂の陣形は「右雁木」。
 後手の算砂は8二銀~9三銀~8四銀と、銀を進出させてきた。算砂はいろいろと攻めのアイデアマンというところがあって、積極的な動きを見せ工夫することが多い。名人宗桂を相手にはうまくいかないことが多いが…。
 ここで3五歩から後手が仕掛けた。といってもこれはまず単に歩交換が目的と思われるが、先手の宗桂はこれを手抜きして、逆に攻める。
 8四角! 以下、同歩、同飛、3六歩、8三歩、6一玉、8二歩成、5二玉、9一と…。
 算砂は8四角を同歩と取ったが、取らないで3六歩のほうがまだチャンスはあったようだ。
 先手宗桂の勝ち。


 初代名人大橋宗桂の将棋で、残存する棋譜は本因坊算砂との8番がすべてである。この二人はもともと師匠と弟子の関係で、算砂が師匠である。本因坊算砂は、囲碁と将棋、そのどちらにも高度な技をもっていたので、その弟子が多くいて、宗桂もその一人だったが、将棋に関してはこの弟子が師匠を凌駕することとなったのである。      
 『日本将棋体系1』の勝浦修解説を読みながらこれを書いているが、そこに「現存する8番はすべて振り飛車戦である」と書いてある。
 本記事は「矢倉vs雁木」というのがテーマなので、振り飛車を解説してもしかたがないのだが、この宗桂・算砂戦の8つの棋譜の一つに、 “相居飛車っぽい”ものが一つあるので、ここでその将棋を紹介したい。
 1615年の対局で、駿府の徳川家康の御前で指したものらしい。(家康は翌年に没する。)


 やはり「三段目に銀を二枚」という布陣。お互いにどこに飛車を振るのか、態度を保留している。雰囲気は相振り飛車模様である。
 しかしここで後手の宗桂は8四歩と飛車先を突いた。「今日は居飛車でいきますよ」と。対して、先手算砂、7八金。
 ということで、本局は「相居飛車風の闘い」となった。結局先手は3八飛と一路飛車を横に動かす。これは「袖飛車」という。勝浦さんはだから本局も“振り飛車”としたのだが、微妙なところで、“相居飛車”に近い感覚の陣形である。


 その将棋はこうなりました。後手は3二と5二に金を上がったら「雁木囲い」の完成になるが、このように当時は飛車を横に振る含みを持たせたいようで、金をなかなか上がらない。
 先手の陣形は「矢倉」ではないが、矢倉からの変形に見えなくもない。ということで、本局を「矢倉vs雁木」の将棋のルーツと認定して、見ておきたいと思います。
 図から、先手の算砂は5五歩。この手は悪い手で、どうも算砂に錯覚があったように思われます。
 5五歩、同歩、同銀、6五桂、6八角、4五歩、5六歩、5四銀左。


 「雁木」のいいところは、このようにすぐに角が中央に使えるところです。
 6六銀、4六歩、同銀、4四銀、7五歩、4五銀右、7四歩、8三飛。
 この頃の将棋は、この戦いのように、中央での争いになることを想定して、それに出遅れないように二枚の銀を中央に早く配置するのですね。


 4五銀、同銀、7七桂、4六歩、3七桂、4七歩成、4五桂、3八と、同金、5七歩。
 4六歩が“決め手”です。4八歩と受けていては、5六銀から、次に5三飛という手もあってどうにもならないので、算砂は3七桂。飛車を取らせてこの桂馬を活用しました。しかし…


 5七同銀、8九飛、4八玉、5九銀以下、順調に後手宗桂が勝ちとなりました。

 この将棋を「相居飛車のルーツ」としたい。



 もう少し、宗桂・算砂戦を見ておきましょう。
 先手の算砂が7八飛と「三間飛車」ですが、後手宗桂はそれに7二飛と「袖飛車」で応じます。しかしここで宗桂は6二玉。玉を7一~8二として、2筋の歩を伸ばして2二飛と「向かい飛車」に転じました!
 初代宗桂の振り飛車好きがわかると思います。とはいえ、現代の振り飛車とは相当に感覚が違います。序盤から“立体的”な振り飛車ですね。
 先手の「囲い」にも注目です。振り飛車だけど「美濃囲い」ではありません。右銀を5七に移動しているため、美濃にはならないわけです。「美濃に組む」というイメージが当時はない。



 これは後手宗桂の「三間飛車」ですが、面白いことに、“相矢倉”となっています。「矢倉で引き角」という駒組みがこの時代にすでにあったことが、この将棋で確認できましたね。
 初代名人宗桂は、8五歩から8四銀として、9五歩から「端攻め」です。この将棋は、しかし先手の算砂が頑張って逆転、しかし劣勢の後手宗桂の繰り出した桂跳ねの勝負手を算砂が応手を誤り、再逆転、となって後手の宗桂名人が勝っています。

 初代大橋宗桂と本因坊算砂の将棋は、実際には何百局と指されているはずですが、残された棋譜は8つ。それは宗桂の7勝、算砂の1勝となっています。
 なお、二人はお城で、将棋だけでなく、囲碁対局も行っているのですが、その棋譜は一つも残っていないそうです。なぜなのか、ちょっと謎です。
 将棋の棋風は、算砂は工夫することの好きな攻め将棋、宗桂は突然攻めるかと思えば、ゆったりと受けにまわったり、緩急自在という印象です。宗桂の全盛期の将棋をもっと見たい、そういう感想を僕は持ちました。



【宗古vs算砂】

 次に、「大橋宗古vs本因坊算砂」戦。この二人の棋譜は15番、残っています。
 宗古は、初代名人の宗桂の息子で、将棋の名人を継いだ男です。二世名人ということになります。
 父の初代宗桂は長生きしました。宗桂が没したのは1634年で、80歳でした。宗古は、宗桂22歳の時の子供である。
 
 宗古・算砂の15番将棋が行われたのは、1619年~1621年のことで、まだ父の名人宗桂も健在である。父の「御城将棋」の仕事を、若い宗古が引き継いだようです。“若い”といっても、このシリーズが始まった時、宗古は44歳だった。算砂のほうはもう59歳。年齢からも、将棋の二世名人であることからも、宗古が勝って当然なのですが、算砂も善戦しています。宗桂との闘いではあまりいいところのなかった算砂ですが、宗古戦では高齢であるにもかかわらず、生き生きとしている印象を受けます。



 これは「右香落ち」の対局で、算砂が上手ですが、図の7三銀型が「右香落ち」での“算砂オリジナル”の型。9筋に香車がないことと関連している駒組と思うが、正確な意味はわからない。
 この図をここに採り上げたのは、図の「7五歩」の仕掛けを紹介したかったから。これ、算砂が編み出した手筋だったのです。7五同歩と取らせて、6四銀と出る。そして、7四歩には、8四飛と浮く。
 宗古との「右香落ち」戦はこのように算砂が7三銀型で戦うので、先に見た「宗桂・算砂戦」とはちょっと雰囲気の違う将棋になっていますね。
 この将棋は上手の算砂の勝ち。



 次に、大橋宗古の“はじめての手筋”を紹介します。
 「四間飛車」に振って、「6六銀型」をつくる。そして5五歩から5筋の歩を交換する。



 左の金を5六まで運び、玉の陣形の整備の後、5五歩と歩を合わせる。
 5五同歩、同銀、5四歩、同銀。



 5四同銀と取らせて、先手は瞬間、銀損になるが――。
 以下、5四同銀に、5五歩で銀を取り戻すことができる。
 これは今でもよく使われる四間飛車の技だが、僕のイメージではこれ、大内延介さんがこう指していたという印象があります。 「宗古の時代」からあったのですね!
 宗古が勝っています。



 さて、本日メインの将棋です。
 京都伏見城にて、将軍徳川秀忠の御前での1619年8月の対局。

▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀 ▲7八銀 △6四歩 ▲6七銀 △6三銀
▲5六歩 △5四歩 ▲4八銀 △4二銀 ▲5七銀 △7四歩 ▲4六歩 △4四歩
▲3六歩 △1四歩 ▲1六歩 △8四歩 ▲2六歩 △9四歩 ▲9六歩 △5二金右 ▲6五歩

 この二人の将棋も、やはりほとんどは「振り飛車戦」になっていまして、8割以上が振り飛車です。(振り飛車なのかどうか微妙なのもあるためはっきりとは数値化できない。)


 ところがこの将棋は、後手算砂が8四歩、先手宗古が2六歩と突いています。どうやら「相居飛車」のようです。
 先手の宗古は、6七、5七と二枚の銀を上がって、金の上がっていない「雁木」です。宗桂・算砂戦でよく出てきた形。
 そしてここで先手宗古が仕掛けました。6五歩。

△6五同歩 ▲4五歩 △5三銀 ▲4四歩 △同銀 ▲4五歩 △3三銀
▲3七桂 △3二金 ▲4八飛 △4三歩 ▲7八金 △3一角

 こんなふうに、歩を突けばすぐに角を中央に利かせることができる。これが昔、「矢倉」よりも「雁木」が多く用いられた理由の一つでしょう。
 6五同歩に、4五歩。これが宗古の狙いでした。


 しかし、結果先手は「一歩損」。局面は収まってしまい、これは仕掛けても、先手面白くなかった。
 結果的に、後手は「矢倉戦法」になっていますね。 つまり、「矢倉vs雁木」です。

 ▲3八金 △8五歩 ▲6九玉 △8六歩 ▲同歩 △同角 ▲8七歩 △6四角
 ▲4七金 △4一玉 ▲7九玉


 飛先の歩を交換し、これは後手有利ですね。6四角がまた好形です。
 そしてここで後手、チャンスを迎えています。先手宗古の7九玉が悪手でした。(どうも本局の大橋宗古、変調です。)
 後手が、8六歩、同歩、同角とすれば、8七歩ならば、5九角成と角を成れる。だから8六同角に、4九飛かもしれないが、それには8七歩、同金、5九角成がある。これで将棋はほとんど終わっている。
 ところが、後手算砂、その決め手を見逃して、7二飛。私らの将棋ではこんなことはよくあるが、名人の対局でこれはちょっと恥ずかしい棋譜ではある。(宗古は8六角には、7七桂とするつもりだったか? それなら先手陣もまだ崩れない。しかし7七桂は、先手の角が使えなくなるので、6四角でやはり後手良し。)

 実戦は、△7二飛 ▲7七角 △7五歩 ▲同歩 △同角 ▲7六歩 △6四角
 ▲4六金 △7五歩 ▲同歩 △同角 ▲4七飛


 ここでも後手にチャンスがあった。ここは△7六歩と打つところで、これは同銀とは取れないので(同銀は5七角成で先手陣崩壊)、角を引くことになるが、8八角なら、9五歩、同歩、9七歩、同香、9三桂、3五歩、8五桂(参考図ア)と攻める。6八角なら、後手は怖いところがないので、8四角としてあとは6三の銀を進出させていけばよい。これで優勢が確保できていた。
参考図ア

 だが、算砂は8二飛。
 これで先手の宗古にもチャンスがきた。3五歩からの予定の攻めが間に合うかも、という展開になってきました。

 △8二飛 ▲3五歩 △同歩 ▲3四歩 △2二銀 ▲4四歩 △8六歩
 ▲同歩 △同角 ▲4三歩成 △同金右 ▲8六角 △同飛 ▲8七歩 △8二飛
 ▲3五金 △3八角


 算砂の8二飛は、8六歩から角交換をして、この図のように角を打つのが狙いだったようだ。

 ▲4八飛 △2七角成 ▲7一角 △9二飛 ▲4四金、と進む。

 これはどっちが勝っているのだろう?



 実戦は、先手7一角に9二飛と逃げて4四金(図)と進んだが、9二飛では7二飛もあった。その場合は5三角成、5二銀、6四馬、3六歩と進みそうだが、「形勢不明」。
 本譜は、図で、後手3七馬。算砂の勝負手。算砂は、“受けよりも攻め”の人である。

 実戦の進行は △3七馬 ▲4三金 △4八馬 ▲3二金 △同玉 ▲4八銀 △4九飛
 ▲5九金 △1九飛成 ▲5三角成 △5二金 ▲8六角 △7五歩 ▲同角 △7四香

 勝浦修解説では、5三角成が疑問手で、これでもつれた。かわりに4三歩なら「先手勝ち」とのこと。
参考図イ
 4三歩、4一歩なら、8三角と打つのだそうだ。なるほどなあ。



 先手は8六角と、角を繋ぐ手を用意していたが、後手算砂の7五歩、同角、7四香が力を見せた手で、先手を焦らせる。
 (しかしソフト「激指」によれば、それでも先手が少し良いようだ。)

 ▲3一金 △同銀 ▲同馬 △4三玉 ▲2一馬 △3四玉 ▲3五歩




 図の3五歩がまずかったのだ。入玉の“お手伝い”をしてしまった。
 ここは単に5七角なら、後手の入玉はできなかっただろう。その場合はまだ戦いは続くが、形勢は先手がやや優勢と思われます。

 △3五同玉 ▲5七角 △2六玉 ▲7五歩 △3七歩 ▲1一馬 △3八歩成
 ▲4四馬 △2七玉 ▲4五馬 △3六歩 ▲3九桂 △2八玉 ▲4六角 △2九玉
 ▲1九角 △同玉 ▲3六馬 △1七金 まで124手で持将棋

指了図

 こうして「持将棋1号局」が生まれました。




 「雁木」に構えて、6五歩という仕掛けは、この二人の他の将棋でも現れています。
 6五歩、同歩に、5五歩。
 これは後手の3四銀を見て、中央がうすくなった今が仕掛けのチャンスとみたのでしょう。
 5五同歩、同角、9二飛、5六銀左、5四歩、8八角、7三桂、2四歩、同歩、4五歩。


 後手の3四銀型は、2二飛と「向かい飛車」に構えるのが元からの予定です。この3四銀型の向かい飛車は本因坊算砂の得意戦法。
図以下、2二飛、4四歩、2五歩、4六銀、2六歩、4五銀左、同銀、同銀、2七歩成、5三銀と激しい攻め合いで、これは一気に終盤となりました。 ――勝利したのは算砂です。

 この将棋とまったく同じ局面で同じ仕掛けになった将棋もあり、やはりそれは先手が宗古で後手が算砂なのですが、6五歩~5五歩の仕掛けに、今度は後手算砂、同歩とせず、5二飛とまわっています。結果、相中飛車の闘いとなりました。(これもやはり算砂の勝ち。「3四銀型」は算砂にとってゲンのいい戦法ですね。)




 さて、もう一つ、「宗古-算砂」の「相居飛車」の対局を(簡単にですが)見て行きます。
 「右香落ち」の将棋です。初手から、8四歩、7六歩、3四歩、2六歩、8五歩、7八金、4四歩という出だしで始まっています。
 この時代、8~9割が振り飛車ですので、この出だしは珍しい。初めから先手後手双方が「居飛車で指す」ことを表明しているのが珍しいのです。


 そしてこういう駒組みになりました。
 この将棋の駒組みが江戸時代の初期にしては珍しいのは、「銀の位置」を見るとはっきりします。
 この記事の最初のほうで、双方が二枚の銀を、先手なら「4七、5七、6七」、後手なら「4三、5三、6三」に序盤で銀を並べたがるのが江戸時代の将棋と紹介しました。
 ところが、その法則からこの図は大きくはずれています、「4三銀」の一枚のみがその法則にあてはまりますが、あとの三枚の銀ははずれています。
 これは一つには、後手の算砂が「右香落ち」の時には特別に「7三銀型」の算砂流を用いていたことがあります。そしてこの対局では、下手の大橋宗古が「矢倉」を組むという、当時としてはおそらくはレアな作戦に出たからです。だいたい、「右香落ち」であっても、振り飛車で戦うのが下手の常識でしたから、「相居飛車」という戦型がそもそも常道から外れた“力戦”になるのです。
 これも「矢倉vs雁木」になんとか当てはまらないでもない、という戦型の将棋です。


 そして、このように下手の宗古は「矢倉」を組み上げました。
 矢倉にすると、“引き角”になるので、5七銀という形は、角道が渋滞するので使いにくくなる。そこで3七から銀を使うほうがいい。矢倉というのは、角と右銀との使い方がけっこうむつかしく、それが進化の遅れた理由でしょう。
 宗古は、2六銀としました。これは次に3五歩からの銀交換を狙っています。それで後手算砂は、4六歩。同歩に、4五歩。“継ぎ歩”の技です。先手からの3五歩がくる前に、算砂が攻めてきた。
 後手としては、4一玉としても、6二玉としても、それが有効かどうかわからない。だから「居玉」で戦うことに覚悟を決めた。
 この将棋は両者、技の応酬で見ごたえのある中盤が展開されます。


 途中を省略しまして、こうなりました。先手が攻めきるか、後手が受けきるか、という勝負。
 ここから5三桂成、同銀、8五飛、8二歩、3二銀打と進みます。先手の宗古が細い攻めをつなげられるかどうか、という将棋です。
 先手は「矢倉」に入城しており、玉は安全です。しかし攻め駒が不足ぎみ。
 こうしてみると、「矢倉に囲う」という戦い方は、現代の「居飛車穴熊」の戦術と思想が似ています。 囲いが完成してしまえば、「雁木」などよりも堅い。だから“攻め”さえ続けることができるなら、勝てる。ただ、角と右の銀の通り道がダブるので、序盤の駒組みに苦労をするが、組んでしまえば後は攻めあるのみ。

 最後に勝利したのは、大橋宗古でした。攻めきったのです。


 これは「平手」ではなく「右香落ち」ではありましたが、「相居飛車」において、序盤から“「矢倉」に組むぞ”という明確な目的をもって「矢倉」に組んだ、史上最初の将棋と位置付けることができるのでは、と思います。

 この対局が15番勝負の15番目の将棋で、結局、算砂の5勝、宗古の9勝、1持将棋、という対戦成績でした。(ただし、うち7局は算砂の「右香落ち」。)



【「囲い」の進化】

 初代宗桂、宗古、算砂の時代から、「囲い」がその後どのように進化・発展をしていったかを、おおまかに見ていきます。

[「左美濃」が出現]

三代大橋宗与-二代伊藤宗印 1695年 御城将棋
 「雁木vs左美濃」です。 1695年頃から「左美濃」が流行りはじめます。
 上で述べた「三段目の中央に銀を集める」という古典的作戦からイメージが自由になっていくにつれ、将棋の型が“近代化”していきます。図の後手「左美濃」の「3二銀」がそれに当たります。「雁木」ならばこの銀をさらに4三銀と中央に進めて使うのですが、この場合は「3二」に固定したまま使うという考えです。その発想が“新しい”のです。
 「左美濃」は、相手が振り飛車の場合も、相居飛車でも用いられました。
 後手の二代宗印(鶴田幻庵)は、後に五世名人を襲位、そして先手の三代宗与はその次の六世名人を襲位した人です。


 さらに時代は下ります。七世名人だった三代伊藤宗看が没した1761年から、次の八世名人九代大橋宗桂が名人襲位となる1789年までの28年間、「名人位の空位」がありました。その意味では将棋界の危機だったのですが、この「名人位の空位」の28年間に、将棋の戦術の目覚ましい変化が起きるのです。

[振り飛車「美濃囲い」の有効性の発見]

大津五郎左衛門-大橋宗英 1778年
 振り飛車での「美濃囲い」は優れているのではないか、と最初に気づいた人は、この大橋宗英かもしれない。(注: どうやら五代伊藤宗印のほうが10年くらい先に気づいていたようで、宗印が「左香落ち」の上手で美濃囲いを使った棋譜がいくつか残っています。)
 この人、大橋宗英(大橋分家六代目となる)は1799年に九世名人を襲いますが、この1778年の時には23歳です。当然名前もまだ宗英ではありません。たぶんこれは練習将棋のようなものでしょう。
 
 玉を深く8二玉と囲うのは前から指されていますが、その場合、ずっと、6二銀としたその後で8二玉、そして7二金と囲っていました。
 この「美濃囲い」は、1790年頃には、多くの人が真似て採用するようになります。


[相掛かり戦法の大発展]

五代伊藤宗印-九代大橋宗桂 1778年 御城将棋
 1778年というのは、将棋の戦法の進化に関してとても重要な年です。この時期から「相掛かり」が急激に発展します。(ここでは「横歩取り」も「相掛かり」の一部としてあつかう。)
 それ以前の将棋の考え方として、(1)銀を中央に進出させる、(2)飛車を振る場所を決める、この2点がまず「作戦」を決める場合に考慮するポイントでした。基本的には相手か自分かが「飛車を振る」というのがまず前提としてあるのです。
 ですから、2六歩、8四歩といきなりずんずん飛車先を突きあう「相掛かり」という戦型は、古くから存在はしていたけれど、めったに指されることがなかった。それがこの時期に急に指す人が複数現れて、研究も盛んになりました。(将棋の好きだった徳川将軍家治もその研究に熱心だった一人で、新戦法「横歩取り4五角」を何度も指している。)

 「4つの銀の位置」を見ていただきたい。4つとも、銀は初形の位置のまま動いていない。
 この感覚が“新しい”。「初代宗桂-算砂」の時代とは、感覚のえらい違いです。

 この図の将棋は、五代伊藤宗印(鳥飼忠七、江戸の饅頭屋の息子で伊藤家の養子に入り五代目を継いだ)と九代大橋宗桂(血筋的には伊藤宗看・看寿兄弟の甥になる、後に八世名人になった)の御城将棋の対局。宗印51歳、宗桂35歳。
 この将棋が「相掛かり」となり、先手番の五代宗印は、ここで「3四飛」と“横歩”を取った。
 そして後手九代宗桂は――――「3三角!」


 「横歩取り3三角戦法」誕生局が、実は1778年のこの御城将棋。
 そして図の、この後手九代宗桂の「2四歩」は、つい最近(三か月前)王位戦挑戦者決定戦の「木村一基-千田翔太」戦で千田さんが指して話題になった手です。あの瞬間、江戸時代のこの「横歩取り3三角戦法」誕生局にまで、最新戦法が原点回帰したわけですね。(これを見ただいたいの人は「新しい手だ!」と思ったようですが、僕は江戸時代のこの将棋をよく知っていましたので、「あれを指したか(ニヤリ)」、という感じでした。) 
 この将棋、「五代宗印-九代宗桂」戦は、観て面白い華やかな熱戦となっています。(宗印勝ち)
 これ以降、江戸時代の定跡書では、九代宗桂(八世名人)が指した「2四歩」が定跡の手と認知されて、この3三角戦法も研究されています。

大橋宗英-福島順喜 1776年
 私たちが今「中原囲い」と呼んでいる囲いもこの頃に誕生しました。図の後手番の福島氏の囲いのことです。この「中原囲い」も、二枚の銀を前進させる、という古い常識から離れて、銀を使わないで「飛角桂歩」で攻める、というのが“新しい”思想です。(昭和の時代にはこの「囲い」はすっかり忘却の彼方へ。1992年=平成4年に中原誠名人が復活させた。)


[「矢倉vs左美濃」が大流行]

大橋宗英-井出主税 1778年
 この頃から盛んに指されるようになった戦型がこの「矢倉vs左美濃」の型。

 ここでも「4つの銀の位置」をチェックしましょう。やはり例の「中央三段目」のゾーンに進んでくる銀はこの図ではまだ、ゼロですね。(後手の右銀はいずれ5三まで来そうですが。)

 この相居飛車での「3三角型左美濃」は、「雁木」と「矢倉」とをミックスしたような囲いです。
 3三角型なので、4五歩とこの歩を突けば、角は中央にすぐ働かせることができる。そこは「雁木」と同じ。違うところは、「左美濃」は、4二角と引いて次に3三銀とすれば「矢倉」に変身できるという点です。
 ただし3三角型なので、相手に7九角から2四歩で「角交換」を迫られるその覚悟が必要です。先手の方も、その「角交換」をすることが好ましいのかどうかわからず、悩ましい。そういうところも含めて、面白いということで流行ったのでしょう。
 「左美濃」という囲いは、すでに上で紹介した通り、1695年に登場してその時期に流行していますが、その頃は「雁木vs左美濃」でした。それも「相居飛車」なので指された局数自体がまだ少ない。
 それがこの1778年になると「矢倉vs左美濃」に変わり、これ以後、この戦型の棋譜が急に増えていきます。つまり、「矢倉」への評価がこの頃から徐々に高くなってきているわけです。


 このように「相居飛車」の将棋がよく見られるようになり、この時期から研究が進みました。
 しかし、とはいっても江戸時代。あくまでも主流はやはり振り飛車だということも忘れてはいけません。希少だった「相居飛車」の将棋が、この時期から、かなり増えた、ということです。



[江戸末期、「相矢倉」が見られるようになる]

池田菊女-八代伊藤宗印 1838年
 「組むのがめんどくさいけど、矢倉は堅くて勝ちやすい」と一部の人がだんだん気づいてきたのでしょうか、江戸時代の終わり頃になると「相矢倉」が増えてきました。(1700年代にはまだ見られなかった。)
 この将棋は池田菊という女性と、まだ数えで13歳の八代伊藤宗印(上野房次郎、明治12年に54歳で十一世名人を襲う)の対戦だが、“がっぷり四つ”の「相矢倉」である。池田菊の年齢は不明。

 この「相矢倉」は、先手は7七角~6八角、後手は3三角~4二角という角の運びで「矢倉」にしている。今とは違う。(今はこうした矢倉の組み方は「ウソ矢倉」と呼ばれる。) この時代の「矢倉」はそのようであった。


 その将棋はこうなった。今、先手池田菊の7一角に、後手の宗印(房次郎少年)が「7二飛打!」と打ったところ。これで勝てば「かっこいい!」と絶賛されることになるような飛車打ちだが、この場合はどうも良い手ではなかったようで、ここから先はどうやら先手有利である。
 7一角には、平凡に5二飛が正着のようだ。以下、4一銀、5八銀、5二銀成、同金、7二飛、6七銀成、同金、6一金以下、“ねじりあい”の続く互角の戦いになったと思われる。(途中、7二飛のところ、8二飛は、6七銀成、同金、7五桂で後手良しになる。)
 実戦は、図の通り「7二飛打」と打った。この狙いは、金を取らせて“二枚飛車”を攻防に利かせて7五桂から勝負、という手だが、7六銀以下、池田菊に落ち着いて対処され、攻め切れなかった。
 池田菊が勝利した。

 江戸時代、将棋指しの番付というものが発行されており、そこには女性の名前もいくつかあるようです。江戸時代最強の女流棋士はこの池田菊だったらしい。この池田菊、「芝天神前に住んでいる妖しき女」であったとか。

 この時期、池田菊と八代宗印(房次郎少年)はもう一局指していて、それは房次郎の勝ちらしい。指しわけ(1勝1敗)である。



[昭和初期、「相掛かり」が主流となる]

 大正時代を経て、昭和時代となって、「日本将棋連盟」が設立される。
 この時代に戦術の主流となったのは「相掛かり」。
 「矢倉」は主流にはならず、むしろ江戸末期よりも減少した。そして「平手の振り飛車」も見られなくなったのがこの時代の大きな特徴です。「香落ち戦」での振り飛車はふつうに指されていましたが、「平手で振り飛車? それはない。」というような風潮に、なぜかなってしまったんですね。(ただし「平手の振り飛車」がまったくなかったということではありません。例えば「南禅寺の決戦 木村義雄-阪田三吉戦 1937年」は阪田の振り飛車でしたね。)
 「矢倉」の流行は1950年代、「平手戦」での「振り飛車」の流行は1960年代まで待たなければなりません。
 そうしてみると、この大正から昭和20年までのこの時代は、戦術的に偏った、変な時代だったと言えます。「相矢倉」と「(平手戦での)振り飛車」と「横歩取り(3三角など)」が退化して、「相掛かり」のみが極められた特殊な時代です。

大野源一-木村義雄 1943年 

 この時代は、「相掛かり」でも、銀が前に出ていく激しい将棋が多かったのですが、持久戦もありました。(先手なら6六歩、後手なら4四歩と)角道を止めるのですが、その場合によく採用されたのが、「雁木」です。 ですからこの昭和の戦前期は、「矢倉」よりも「雁木」のほうが多く見られました。

 この図は、「相雁木」になった将棋。先手は1950年代にただ一人「(平手戦の)振り飛車」を主戦法として採用するようになった、大野源一さん。戦前はまだ居飛車を指していました。
 1943年といえば、大東亜戦争のまっただ中の対局です。

 図から、先手の構想は、攻めを主体とするなら、2六角~3七桂~4五歩。あるいは、3八飛から3五歩でこの筋の歩を交換したあと、4七金~3六金と金を前進させる。
 「雁木」は駒組みに柔軟性があり、それを生かして第2次の駒組みをするのもある。たとえば、8六歩~8七金~7八玉~7七桂という構想。または、7九玉~8八玉~6八銀~7七銀と、「銀矢倉」に組み変えるというのも、当時よく試された。
 この「大野-木村」戦も、お互いに「銀矢倉」へと組み換える将棋となり、結果は木村名人の勝ち。この時期の木村義雄は本当に鬼のように強かったようです。
 こうした「相掛かりの相雁木」の戦型は、けっこう指されてはいますが、定跡化される前に、戦争が激しくなり、そのまま戦争が終わって、将棋界も新しい時代を迎えました。戦後は「角換わり」と「矢倉」と「(平手の)振り飛車」の時代となりました。
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矢倉vs雁木 3  山田久美の二手損雁木戦法

2014年08月08日 | しょうぎ
 図は「高群佐知子-山田久美戦 1989年2月」女流王将A級リーグの将棋から。
 これ、どっちが優勢だと思いますか? 今、先手の高群さんが、2四飛~4四飛の十字飛車から、飛角を交換して、取った角を「7一角」と打ち込んだところ。7二飛、4四角成だと、「先手勝ち」なので、後手はここで6二飛なのですけど、これは「先手優勢」と思いませんか? 当然高群さんはそう判断してこの攻めを実行したと思うのですが、ところがこの局面は先手にとって意外にもむつかしい局面で、この将棋は後手山田久美さんの勝利となります。


 今日は山田久美さんの「雁木戦法」の話です。
 プロの戦後の将棋を調べてみましたが、「雁木」はそれなりにはずっといつの時代にも指されてきているようです。しかし一般プロ棋士(男性棋士)の中で「雁木」を1パーセント以上対局で使っている棋士は見当たりません。
 しかし、女流棋士では、「雁木」を使う人がいまして、最も採用率が高いのが山田久美さんです。(2番目はたぶん船戸陽子さん。)


 その本題の山田久美さんの「雁木」の話の前に、先日ネット中継された対局、女流王座戦の「香川愛生-加藤桃子戦」の将棋に少し触れておきます。この将棋で後手番の加藤桃子さんが「雁木」を採用したのです。(ね、最近、「雁木」が多いでしょう?)

香川愛生-加藤桃子 2014年
 その女流の将棋「香川-加藤戦」はこういう出だしの将棋でした。僕はこのオープニングの将棋、実はひそかに大注目しておりまして、「8八銀戦法」と勝手に命名して、この戦型の棋譜をコレクトしています。
 これは、初手より、5六歩、8四歩、7六歩、8五歩、7七角、5四歩、という出だしで始まります。(最初のところは7六歩、8四歩、5六歩でもよい。) そこで、通常見られるのは、次に5八飛(中飛車)か、8八飛(向かい飛車)で、どちらも有力な戦法ですが、“第3の手”としてここで「8八銀」(図)という手があるのです。これを最初に指したのは鈴木大介さんと思います。鈴木大介のねらいは、「後手はここで3四歩とするだろう、そこで2二角成、同銀、5三角、5七角という“力戦”に持ち込んで戦う」ということです。この展開もたぶん互角と思いますが、最近は後手がここではすぐには3四歩とせず、6二銀というような手が主流となってきました。
 その場合、先手は2六歩とします。つまり「相居飛車」の戦いとなるのです。後手が3四歩以外の手を指せば、2六歩で、これはもう先手の「飛車先歩交換」が権利となります。すると、いままでの常識からすれば、先手だけが飛車先の歩を交換して駒台に“一歩”を乗せたのだから、わずかとはいえ「先手指しやすい」ということになります。
 しかし実際には、(先手の得は)“それほどでもない”のかもしれません。それにこの戦型、後手の戦術の“選択肢”が幅広くあり、それが後手にとってかなり魅力的なのかなと思います。
 そのときに、後手が選ぶ戦術の選択肢の一つとして、「雁木」があるのです。「雁木」の戦術は、もともと相手の飛先歩交換を許すところがあるので、この場合選びやすいのかもしれないですね。ただし、この戦型で後手が「雁木」にするのがよいかどうか、それはまだわかっていません。“わかっていない”というところに、この戦型の最大の魅力があります。
 この「8八銀戦法」、先手がまず誘導する作戦です。この戦法を愛用しているプロ棋士を挙げると、最近では、村田顕弘さん、瀬川晶司さんが時折採用しています。


 余談が長引きました。


 本題です。山田久美さんの将棋です。
 次の4つの棋譜を紹介します。

 (1)高群佐知子-山田久美 1989年
 (2)高群佐知子-山田久美 1989年
 (3)清水市代-山田久美 1989年
 (4)中井広恵-山田久美 1988年

 この棋譜の山田さんの戦法、4つとも「雁木」なのですが、それも「二手損雁木」なのです。たぶんこんな指し方をしている人は、山田久美さん一人でしょう。

 山田久美、1967年生まれ、西村一義門下、群馬県出身。

 「山田久美」――ありふれた名前だ。だから男性の鈴木健二と同じように同姓同名の有名人が何人かいるだろうと思ったが、調べると、そうでもなかった。「山田久美」で最も有名なのは、女流棋士山田久美であるらしい。



(1)高群佐知子-山田久美 1989年2月

 初手より、▲2六歩 △3四歩 ▲2五歩 △3三角

高群佐知子-山田久美 1989年 図A-1
▲4八銀 △3二金 ▲7六歩 △4四歩 ▲5六歩 △4二銀 ▲5八金右 △4一玉
▲7八銀 △5二金 ▲3六歩 △6二銀 ▲7九角 △2二角

 1989年2月の将棋。先手は高群佐知子さんで当時17歳。後手が山田久美さんで、この当時22歳。女流王将戦B級リーグの対戦。
 高群さんは当時は居飛車党だが、なんでも指しこなすタイプ。逆に「矢倉」が得意で、「矢倉しか指したくない」というのが、山田久美流なのだ。
 高群が初手2六歩と突く。これには8四歩が(居飛車党なら)普通だが、「相掛かり」を指したくない山田は「3四歩」。高群の3手目は2五歩。山田「3三角」。
 そして山田は、先手の7六歩にも、「4四歩」。 「角換わり」も指したくないから。
 ここから山田流は「矢倉」にしたい。それはできないことではない。しかし…

図A-2
▲7七銀 △4三銀 ▲3七銀 △5四歩 ▲2六銀
 “角交換をしたくない山田久美”に対し、先手の高群佐知子は7九角から次に2四歩をねらう。“角交換をしたくない山田久美”は、なんと、2二角。これだと、後手は「二手損」になる。「二手損」してでも山田久美は“角交換をしたくない”というわけなのです。
 この後、4三銀から「雁木」に囲う。これが「山田流二手損雁木」のカラクリです。
 つまり、「相掛かり」も「角換わり」も「横歩取り」も好きではない居飛車党の山田さんが、なんとかそれらを回避して好ましい展開に持ち込もうとした結果の産物というわけです。
 
 対して、先手高群は「居玉」のままで銀を進出させる。「棒銀」です。


図A-
△1四歩 ▲3五歩 △4五歩 ▲3四歩 △同銀 ▲3五歩 △4三銀
▲3七銀 △5五歩 ▲同歩 △同角 ▲2六飛 △5三銀

 「雁木」は「棒銀」に弱い。 そして後手は「二手損」なのだからここはチャンス!――という先手の棒銀速攻作戦はこの場合、理にかなった作戦と思える。

図A-4
▲4六歩 △4四銀右 ▲4五歩 △同銀 ▲6六銀 △4四角 ▲2四歩
 しかし、案外、後手の「雁木」は柔軟で、そう簡単には突破はできなかった。(3五歩で、3五銀はうまくいかないのだろうか → それもあったようです)
 この図の5五角のように、軽く角が使えるのが「雁木」ならではの手。

図A-5
△2四同歩 ▲同飛 △2三歩 ▲4四飛 △同銀 ▲7一角 △6二飛
 ここで高群は、「チャンス!」とみて、2四歩からの“十字飛車”を決行したのである。(十字飛車って言うけど、よく考えると、おかしいね。「十字」じゃないよね。)

図A-6
▲2二歩 △同歩 ▲6二角成 △同金
 先手の攻めが決まって、後手はもうどうしようもない、そんなふうに錯覚しそうな局面です。
 ところが、実際はこの局面、難解で「互角」としか言いようがない局面なのだ。
 ソフト「激指13」は、ここで6八玉を最善手として示している。それでもやっと「互角」なのです。ということは、ここで先手が6二角成からどんどん攻めて勝てるような順はないということでもある。もしかしたら、厳密にはここは「やや後手有利」なのかもしれない。
 高群さんは、2二歩、同金と効かしてから6二角成と工夫した。(ちなみに、2二歩を同金と取らず、3三桂というのも後手としては“ある手”のようだ。)

図A-7
▲7一飛 △5一飛 ▲同飛成 △同玉 ▲7一飛 △6一飛 ▲同飛成 △同金
▲4三飛 △3三金 ▲6三飛成 △6二金
 飛車の打ち込みがありそうで、ない――という局面なのである。4三飛と打っても、4二飛の“合わせ”があるので後手の銀は取れない。
 やはりここでも6八玉が最善手なのかもしれない。
 高群さんは工夫を凝らして、4三飛から竜をつくる手段を見つけた。

図A-8
▲6五龍 △3八角 ▲4六歩 △3九飛 ▲6八玉 △5六銀 ▲4八銀 △2九飛成 ▲6二龍 △同 玉 ▲3九金
 なにか駒が入れば先手が勝てるのだが、その“駒の入手”がむつかしい。
 対して後手からは、「3九飛」と打ち込む手がある。ここにきて「居玉」で攻めたのが祟ってきた。
 具体的に指し進めて、これは後手優勢になってきたようです。

図A-9
△2七龍 ▲3四歩 △5七歩 ▲5九金引 △6五歩 ▲5七銀引 △同銀成
▲同銀 △5六歩 ▲4八銀 △6六歩 ▲5八金直 △6七歩成 ▲同金 △6六歩
▲同金 △5七銀
 先手は、6二竜と、せっかくつくった竜を切って、3九金。
 この手は飛角両取り。しかし、後手は“裸(はだか)玉”だが、、角一枚相手に渡したところで、まったく怖くない。
 山田久美は激しく攻めたてて、決めた。

図A-10
▲5七同銀 △同歩成 ▲7八玉 △6七と ▲同金 △同龍 ▲同玉 △6六歩
▲7七玉 △6七飛 ▲8八玉 △6九飛成 ▲6三歩 △同玉 ▲6一飛 △6二桂
▲6四歩 △7二玉 ▲6三歩成 △同玉 ▲6八銀 △7八金 
まで116手で後手山田久美の勝ち(投了図は省略)


 この対局は女流王将B級リーグの一局でしたが、これを勝利した山田さんは次年度はA級リーグ入りします。そしてA級でも勝ちまくり、念願の「タイトル初挑戦」を果たすのです。



(2)高群佐知子-山田久美 1989年12月

高群佐知子-山田久美 1989年 図B-1
 次の棋譜は、その年の12月の女流名人A級リーグの「高群-山田戦」。
 やはり後手番の山田久美の「二手損雁木」作戦。
 ここ(図)で、2二角。

図B-2
 高群さん、3七銀型から、3五歩と仕掛けた。
 後手が“二手損”していなければ、「6二飛」と「4五歩」が入った形になる。その場合は先手からの3五歩の攻めよりも、後手6五歩の攻めのほうが強力となる。
 この「居角」型で先に右四間で攻める「雁木戦法」は、『雁木でガンガン』に解説されているかたち。1980年代に学生だった小暮克洋さん(観戦記者)が開発された指し方です。
 しかしこの場合は“二手損”なので、その『雁木でガンガン』型の攻めは間に合いません。
 山田さんの「二手損雁木」は、それを考えても、理論的に“つまらない指し方”としか思えない。けれども「それでも何とかしてしまう」、のが「山田流雁木」。 山田流は、「二手損」なので、小暮流のように先攻する展開にはならず、「相手の攻めに反応して中央で勝負」という形になる。5三の銀を、どのタイミングでどう攻めに参加させるかがポイントとなります。あの銀に注目しましょう。

図B-3
 「雁木」だから5五角と飛び出すことができる。
 ここから、▲1八飛 △7三桂 ▲3四歩 △8五桂 ▲8六銀 △6五歩 ▲5六金 △2二角 ▲8五銀 △6六歩と進んだ。

図B-4
 で、図B-4ですが、ここの形勢判断が重要です。パッと見、後手が良さそうに見えると思います。しかしたぶん、それは錯覚で、ここはおそらく「先手が良い」のです。(「激指」はこういうところはだいたい全部「互角」という評価をする。)
 先手陣は金銀がバラバラなのでそこが印象が悪いのですが、「桂得」していますし、ここで5五歩で後手の角の捌きを押さえて、次に6六金とこの歩を払えば、「先手良し」がはっきり形になります。
 だから後手としては、そうなる前に「なんとか」しなければいけない。その手段があるかどうか、そういう場面です。

 実戦の進行は、▲5五歩  △6四銀 ▲4六角 △6二飛 ▲6三歩 △同飛 ▲7四銀。

 5五歩に、後手6四銀と指したのだが、「4四銀」の変化を考えてみよう。

参考図a
 上の図B-4から、5五歩、4四銀、同銀、同銀、6六金となって、そこで5五銀なら、3三桂(参考図a)。 これがあるから「先手良し」。


図B-5
 6四銀とこちらに銀を使った山田さんは、さらに6二飛から飛車を攻めに参加させて来たが、高群は6三歩、同飛、7四銀と返す。この銀が使えて、やはり後手はやや苦しい。
 ところが――

 △6一飛 ▲6五歩 △7一飛 ▲8三銀成 △4四歩と進んだのだが――

 先手の8三銀成が失着。銀がそっぽに行って、働かなくなった。これで形勢が接近する。
 
 8三銀成では、6四歩と指して、7四飛、6六金(参考図b)となれば優勢が維持できていた。
参考図b
 高群さんとしては、6七銀と打たれたら大変なので、銀の交換は避けて、なんとしても後手の銀に5三銀と退却させる方針だったのだろう。
 参考図bからは、このままなら先手6三銀がある。それを防いで後手6四飛なら、6五歩、6一飛で、そこで6四桂もあるし、2四歩、同歩、2三歩(同金なら3五桂)もある。

図B-6
 ここで後手の山田さんは4四歩と指した。この時期の山田久美は勝負師としての勘が冴えていたようだ。
 この「4四歩」は良い手ではない。けれども結果的には、この手が高群に「失着」を選ばせ、逆転に成功することになった。(この4四歩では、すぐ6五銀と行く手がある。この変化は後で触れる。)

 ▲3六銀 △6五銀、が実戦の進行。

 高群の3六銀は、“悪手”とまでは言えないが、ここは5四銀と出れば明解に「先手が勝勢」と言ってもよいほどの優位に立てたのだ。つまり高群は「決め手を逃した」のである。
 5四銀以下の変化の一例は、5四同銀、同歩、6七銀、8八玉、5六銀成、6四角(参考図c)。

参考図c
 次に5三歩成が後手玉への“詰めろ”になるから、はっきり「先手勝ち」と言える局面だ。
 高群さんは「6七銀と打ち込まれてはいけない」という先入観がずっとあって、だから5四銀からの銀交換の変化はほとんど読まずに3六銀と引いたのだと想像する。
 後手の山田さんもまた、高群さんは銀を引くと思って、4四歩を打ったのだ。これが逆転を呼び込んだ。この4四歩は、5四銀と先手に指されたら“敗着の一手”になるところだった。

図B-7
▲4七銀 △7七歩 ▲6八玉
 ここで6五銀があった。先手が同金と取ると、7六飛と出る。以下、7七歩、6七歩成、同玉となるが、これは「形勢不明」。どっちが勝っているかわからない。後手も飛車を渡すことになるので怖いのだが、元々劣勢なので後手としては仕方ない。
 高群佐知子は、これを6五同金とは取らず、4七銀と指した。元から、こう指す予定で3六銀と引いたのかもしれない。この変化も、やはり「形勢不明」である。つまり、その前の3六銀は、決め手を逃した失着ではあっても、まだここは先手が不利になったわけではなかった。

 ここで、図B-6で、後手が(4四歩と打たず)すぐに6五銀とする変化を調べてみる。
 6五銀、同金、7六飛に、先手は8八玉とする。以下、6七歩成、3五角(角を逃げる)、7七歩、7九歩、6八歩、8五銀(参考図d)。

参考図d
 これは先手優勢。後手は飛車の行きどころがない。
 つまり、山田さんは「単に6五銀」を選ばず、「4四歩、3六銀として、そこで6五銀」ならやれる、と判断したのです。これなら勝負になる、ということで。だから4四歩と打ったのです。(5四銀と出られたら負けだったのですが、それを山田さんは知っていたのかどうか。)

図B-8
 この前の図B-7より、4七銀 、7七歩、6八玉と進んでこの図B-8。
 劣勢から「形勢不明」にまで息を吹き返した感じの山田さんは、「7七歩」と指しました。しかしこれは疑問手かもしれません。
 「激指13」はこの手で、「5六銀、同銀、7六飛」を最善手順として挙げています。以下、7七歩、6七歩成、同玉に、5六飛、同玉、4五銀というのが、「激指13」の示す道。しかしこの変化は、飛車を相手に渡すことになるので後手としては怖いでしょう。怖いけれど、これしか後手が勝つ道がないとしたら、こう指すのがベストです。実際のところは、この変化、どちらが勝ちか、わかりません。

 実戦の後手7七歩に、6八玉として、図B-8ですが、この高群さんの「6八玉」が“敗着”となりました。
 ここは「7七同桂」と取るべきところだったのです。
 「7七同桂は、7六銀で支えきれない」という直感が先手6八玉を選ばせたのだと思います。おそらく7七歩と指した後手の山田さんも「7七同桂なら、7六銀で勝てそう」と思って、7七歩という攻めを選んだと思います。
 しかし、具体的に、7七同桂、7六銀、6八金、7七銀成、同金、7六歩、7二銀(参考図e)、まで進めてみると――
参考図e
 飛車を封じ込めて先手が優勢です。やはり終盤は“読み”が最大の武器。この図の7二銀は、あの働きの悪い8三成銀に仕事をさせることにもなり、「7七同桂」からのこの手順で先手が勝ったとしたら相当に気分が良いですね。「読み勝ったぜ!」という感じもありますし。

 高群さんの「6八玉」の後は、次のように進んでいます。
  △5六銀 ▲同銀 △7六飛 ▲4二歩 △同金左 ▲8八桂 △6七歩成
  ▲同玉 △6六金 ▲5八玉 △7五飛 ▲4七玉 △4五歩 ▲3五角 △3四銀

図B-9
▲6四銀 △3五銀 ▲7五銀 △3六角 ▲3八玉 △5六金 ▲4八歩 △2七銀
以下後手山田久美の勝ち


 3四銀で、いっぺんに後手の銀と角が働いてきました。あとは山田さんの寄せを見るばかり。



 どうもこの頃の山田久美さんの「雁木戦法」には、なにか理論を越えた力が宿っているような印象です。「理論的にはダメなのに、勝っちゃう」という感じ。相性が良いのでしょうか。



 昨年『将棋世界』に掲載された山田久美・高群佐知子の対談記事の中で、山田久美さんは、若い頃を振り返って「私は恵まれていたけれど、甘えがあった。そこで甘えなかったのが、清水市代であり、斎田晴子なんです。自分も最後に少し頑張りたい。」、「若い頃より今のほうが全然勉強しているんです。」と発言しています。

 この「二手損雁木」をみても、そんな感じがする。「角換わり」も「相掛かり」も「横歩取り」も、勉強不足だから指したくない、指せない、そこで生み出したのが「二手損雁木」。
 でもこの時期の山田久美さんのこの「雁木」には、たしかに“勢い”がある。若さと才能と体力と運とで“二手損”など関係ない、すぐに挽回してみせる、そんな将棋だ。

 
 将棋の強くなる人には、「実戦派」と「沈思派」があるように思う。後者は僕のつくった表現だが、要するに「実戦派じゃないタイプの人」だ。『将棋世界』の最新号に藤井猛が書いているが、藤井さんはほとんど実戦を指さないで、将棋の本を熟読して、普段から自分一人であれこれ考えて、それが蓄積されて強くなったのだという。これが「沈思派」の代表です。これは下手をすると、評論家タイプ、序盤理論には強いが実戦で負けるタイプになりやすい。
 「実戦派」のほうが、いわゆる“体でおぼえた将棋”で強そうだが、この「実戦派」の人にもハマりがちな落とし穴はある。実戦で強くなった人は、将棋を指さないときには一人になるので考えることをやめてしまう、そういうタイプになりがちだ。「対局」という空間が与えられなければやる気が出ないというタイプだ。そういう人がプロになった場合、対局中は将棋に集中できるのだが、対局のない日は遊んでしまう。つまり「一人で勉強する」ということができない、そういう人もいるだろう。才能はあっても。
 その点、藤井猛のような、普段から一人でずっと将棋のことを考え続けるのが好き、というタイプ(=「沈思型」)は、将棋の勉強に飽きるということがない。いくらでも考えられるのだ。
 理想を言えば、子供の時から「実戦」でバンバン鍛えて、その上で対局中も、盤を離れても将棋の世界に「沈思」できるタイプ、つまり両方をできる人が、本当に“強い人”になるのだろう。羽生さんや森内さんのような名人級のトップ人は、きっとそういう人達なのだ。


 山田久美さんはたぶん、対局のない日は将棋のことをあまり考えないタイプだったのだろう。
 それが今は、「将棋で勝つために大事なのは勉強」と言っている。



(3)清水市代-山田久美 1989年12月

清水市代-山田久美 1989年 図C-1
 3つ目の棋譜は、やはり1989年12月の対局、女流王将戦A級リーグ「清水市代-山田久美戦」。
 山田久美さんはこの清水市代戦に勝って、さらに勝って翌年4月の「女流王将」のタイトル戦に初登場します。「女流王将」は連覇中の林葉直子です。
 ちなみに、山田久美、林葉直子、清水市代、中井広恵は、この並びで1コづつの学年違いである。
 この対局時の年齢は、山田久美22歳、清水市代20歳。

 さて、その将棋だが、これも後手山田の「二手損雁木」。
 先手の清水は2四歩から歩交換をして、1五角。たいへん効率が良い。

図C-2
 こういう駒組みになった。7五歩から清水が仕掛けた図だが、この仕掛ける前の局面は「先手指しやすい」という形勢だろう。先手に選択肢が多い。1五歩から攻める手もあるし、6八銀左から7七桂と組み換えるのも有力だ。
 しかし後手のこの駒組みも、わるくない。角筋が通っていて、反発力がありそうだ。
 7五歩からの攻めは、たぶん最善ではないだろうが、とにかく、清水さんはそう攻めたのだ。

 7五歩、8五桂、8八銀、5五歩と進行したが、8八銀は先手形が悪いので、ここは7七の銀を取らせる方針で指すのもあった。

図C-3
 5五歩。相手が仕掛けた瞬間に、中央から反撃するのが、「山田流雁木戦法」の極意。
 さて、この場面。図C-3。筆者の「激指13」の協力を得ての検討では、先手が勝つためにはこの場面がキーになるのではないか、ということになった。
 清水市代は5五同歩と取った。これがどうだったか。相手に調子を与えて疑問だったのではないか。
 
 かわりに、(a)5五同角なら、どうなるのだろう。5五同角、同角、同歩、6五歩、同歩、5八歩(参考図f)。  

参考図f
 この歩を同飛は、4七角~6五角成。どうやらこの5八歩の手裏剣があって、これは後手が良さそうだ。

 ということで、次は図C-3の後手5五歩に、(b)8六歩を考えてみる。
 8六歩、5四銀直、5五歩、同銀、5六歩、4六歩、4八歩、4四銀引、8五歩(参考図g)。 

参考図g
 先手はこう指すべきところではなかったかと考えます。“4四銀引”と引かせて、角銀を使いづらくさせておくのがポイントです。
 ここでも5八歩がありますが、それには6八玉として、どうでしょう。
 なお、8六歩、5四銀直、5五歩に、後手同角の変化もある。以下、同角、同銀、5六歩、4六歩、4八歩、4四銀引、8五歩となり、この場合は、先手に角打ちのスキがなさそうなので、先手にとって角交換は問題ないと思う。

 ただし、先手の「8六歩」に対しては(△6五歩や、△3三桂など)5四銀直以外の手があり、ここはかなり手の広い局面です。


 先手の清水は5五同歩と取り、後手の山田は4四銀と出る。この銀をうまく使うのが「雁木」を指しこなす必要条件。
 先手、そこでの「8六歩」だとどうなるか。結論をいえば、ここでの「8六歩」はもう遅いかもしれない。
 8六歩、6五歩、同歩、5五銀、5六歩、6六歩、6八金引、4六歩、4八歩、5六銀、同銀、5五歩(参考図h)。
 
参考図h
 これもまだ“これからの将棋”ではっきりはしないが、しかしどうも「後手ペース」という感じ。


図C-4
 前の図(C-3)から、5五同歩、4四銀、4八飛、6五歩、同歩、5一飛、5四歩と進んで、この図C-4。
 5四歩は清水の勝負手。ここでは先手の指し方が難しくなっている。後手のほうはわかりやすい。先手は8八銀の“カベ形”が痛い。もうここは「山田雁木」のペースになっている。
 清水の5四歩は、次に7三角成りがねらいだ。
 山田久美は、5四同飛と指した。 これは9一角成と香車を取らせることになるが、山田さんはきっと攻め切る自信があっただろう。

 5四同飛、9一角成、6六歩と進む。


図C-5
 ここで6六歩という手があった。これは取ると飛車を成られてしまうので、6八金と引くが、つらい。
 以下、5五銀、5九香、5六歩、4六銀、同銀、同馬、1三角。
 (追記: 5九香のところで、4四歩、同角、4五香と勝負すべき、それならまだ先手もやれる、『将棋年鑑』の注釈にはそのように書かれている。しかし、これも5六歩、4六銀、同銀、同馬、5九銀で、先手自信なし、と思われる。)

図C-6
 後手にとって快調な手が続く。
 図以下、5五歩、4六角、5四歩、2四角打。
 この将棋のこの局面は、『将棋世界』の先ほど紹介した山田久美・高群佐知子の対談記事で山田久美さんの「全盛期の将棋」として紹介されている。山田さんはそこで「短い全盛期でした」と自虐的に笑って振り返っています。ということで、山田さんの全盛期は、22歳の時だった、ということがわかります。


図C-7
 2五歩、6八角成、同金、同角成、同飛、6七銀、8一飛、2二玉、5五角、4四金。


図C-8
 以下、後手山田久美の勝ち。

 山田さんが清水市代に快勝しました。上ですでに書いた通り、山田久美さんはこの期、女流王将のA級リーグで優勝、結果、林葉直子王将への挑戦者となったのです。(三番勝負で結果は0-2で奪取失敗)
 これが山田久美さんの、ただ1回のタイトル挑戦です。つまりこの時が、山田さんの将棋の実績の“ピーク”なのですね。タイトル挑戦時は山田さん23歳の時です。

 この林葉女流王将との三番勝負は、第1局が青森県百石町での対局で、第2局は東京将棋連盟会館が対局場でした。山田久美さんの女流棋士としてのたった一度の“晴れ舞台”だったのですが、それがたまたま、ホテルではなく、「民宿」だったことが、山田さんとしてはとても残念だったようです。


 女流棋士のほとんどは、若くしてプロの女流棋士となり、10代のうちに活躍して、そして山田さんのように23歳くらいをピークとして、そこからさらに強く伸びていくことがありません。林葉直子さんもやはりそうでした。石橋幸緒、矢内理絵子、千葉涼子ら、「花の80年組」も。(清水市代、中井広恵、強さをずっと維持したこの二人は例外です。)
 これは、なぜでしょうか。
 僕は、まだまだ女流は、全体の層が厚くなっていないのだな、と思います。いまだに、10代の新人プロが次々と誕生し、20歳くらいのタイトルホルダーが昔と同じように生まれています。20歳くらいの“強さのピーク”をその後も維持していく人があまりに少ない。(その意味で、将棋の勉強が大好きというタイプの里見香奈さんが今後どうなるのかたいへんに興味があります。)
 これが男子プロとなると、10代で棋力が伸びるのは当然のことで、でもそれだけではプロにはなれません。(女流はそれでプロになれてしまうんです。) そしてプロ棋士になって活躍しタイトル戦に出るためには、20歳を超えても、さらにひと伸びもふた伸びもしなければならないのです。 苦しんで苦しんで、そこから伸びた者だけが、上に進む。
 女流の場合は、そこまで伸びなくても、若さの勢いでタイトルが獲れてしまう。そんな印象です。
 


(4)中井広恵-山田久美 1988年5月

中井広恵-山田久美 1988年 図D-1
 4つ目の将棋の相手は中井広恵。山田21歳、中井18歳。
 これも後手山田久美の「二手損雁木」。

図D-2
 後手山田は先手の4六の角を追って、4五歩。これは図のように7六歩と打たれると、後手が“一歩損”になるが、これはどうしたことだろうか。このままふつうに指していくと、先手の銀の進出にやられてしまうので、非常手段でこう指したのかもしれない。
 この「雁木」という形での山田久美の攻めは、見てきた通り、4五歩を突いて角道を通してそこで5五歩と5筋の歩を突く展開になる。それが狙いである。
 ところがこの場合、中井が4六角とここに角を置いたので、後手の山田は「5五歩」が指せないのだ。
 「4六角3六銀」という「矢倉戦法」における攻めの理想の形をつくった先手が、すでにそこで作戦勝ちになっているのです。だから後手は“紛れ”を求めて、4五歩と突いてみた――と見ます。 この矢倉の攻めの理想形をすんなりつくらせてしまったのも、たぶん、後手の“二手損”のせいと思われます。

図D-3
 先手は「一歩」をもらったので、結局、「三歩」を手にすることとなった。「三歩」があると、じつは、「雁木」は攻略されてしまう。その攻めを紹介する意味で、この将棋を選んでみた。
 その攻めはまず、図のように、2四歩から始まる。 2四同歩に、2三歩、同金。
 そして2四角。

図D-4
 これは「雁木」に対してよくある攻め。この2四角を後手が同金と取ると、同飛で、これはほとんど先手の勝ちが決まる。
 この攻めに対しては、3二玉という受けがある。先手は4六角と角を引くが、△2四歩と受けておけばよい。
 これを再び同角と取るのは、同金、同飛、2三歩で、後手は角金交換の駒得だ。

図D-5
 だから「△2四歩」と、受けるのが普通だが、ところが山田久美は△2四歩ではなく、△3三桂。これは銀取りだが…
 中井はすかさず▲2四歩と打つ。これには1三金と逃げるしかない。この先手の2四歩の拠点は大きい。

 なぜ、山田久美は3三桂のところで、△2四歩ではなかったのだろうか。
 それには理由がある。

参考図i
 仮にあそこで後手が△2四歩と受けたとする。だがそれには2五歩(参考図i)の歩の“合わせ”がある。
 2五同歩に、2四歩、1三金、となって、結局は「▲2四歩」の拠点はつくられてしまうのだ。
 だから後手山田は困って、3三桂と変化したのである。しかしそれでも、もう後手は苦しい。
 つまり、この一連の攻めは、最初に2四歩と攻めるときに「三歩」を持っていることが条件で、「三歩」があればこの攻めがある。これでもう、攻めは成功なのである。 「雁木」を「居角」で指すときには、常にこれを意識しておく必要がある。  


図D-6
 3三桂とした後、それでも山田は頑張った。3一角と引いて2二歩と受けることで2筋を収め、悪いながらもチャンスを待つ。
 しかし8八玉と「矢倉」に入城した後、3五歩から中井は総攻撃を開始。
 3五歩、6六歩、同角、3五歩、3四歩、3六歩、3三歩成、という攻め合いになったが、これはもう陣形の堅さの差が大きすぎる。後手の山田に勝ち目はまったくなさそうだ。3三同玉、4五桂、3四玉、5三歩成以下、中井が順調に勝利した。

 これは女流名人のA級リーグの対局だったが、中井広恵はリーグ優勝、「女流名人」の挑戦者となった。その「女流名人」の五番勝負では、前年に奪われたそのタイトルを清水市代から3勝2敗で奪い返しました。



 山田久美さんの“二手損”の「雁木」は、決してほめられた作戦ではありませんが、けれども、以上に見てきたように割とよくこれで結果を出しています。戦法と山田さんの棋風との相性が抜群に良いのだと思います。
 しかし「山田雁木」は中井広恵には通用していなかったようです。僕が集めた「山田・中井」の雁木の将棋の棋譜は5つありますが、中井広恵の5勝0敗です。女流には「雁木」を指す人が多いのですが、船戸陽子さん、林葉直子さん、高群佐知子さんも指していました。ですから女流棋士で居飛車党なら、「雁木」と対することも多いわけですが、中井広恵さんは「雁木退治」が得意だったらしく、ほとんど負けていません。


 
 先ほど触れた山田久美・高群佐知子の対談記事の中で、山田さんは、林葉直子、中井広恵との関係について話しています。この三人は年齢差も、また敵(ライバル)であるという関係も超えて、仲が良かったらしい。 山田が言うには「三人のなかで一番穏健派なのが私、“天真爛漫”なのが広恵ちゃん、直子ちゃんは中間」となるらしい。 あるとき「1キロの鉄と1キロの綿ではどっちが重い?」という話になった時、最初に「1キロの鉄が重い」と中井広恵が言い、「それは違う」と林葉直子が反論し正論を理解させようとしたが、中井はどうしても譲らず、最終的にはこの話を収拾するために「それでいいよ」ということになったという。万事がそのように、この三人の決め事は、いつも中井広恵の意見が最終的に通ったのだそうだ。

 この話から想像できることは、中井広恵が「相当な負けず嫌い」だということだ。「負けず嫌い」の大きさもまた、プロの将棋指しには必要なもので、これも“才能”といってよいでしょう。



 山田久美さんは、自分でももう結婚することはないだろう、と考えていたのに、相手が現れて何年か前に結婚されています。
 その連れあいの人が「スポ根」体質の熱い人で、将棋が大好きで、剣道と駅伝も趣味。毎日走っていて、山田さんも時々一緒に走るそうです。そのときに、「あの電信柱がお前の次の対戦相手だ、あれを超えればお前は勝てる」などと言うのだそうで。その旦那は、山田さんの対局の結果に一喜一憂していて、だから山田さんもその反応にビクビクしていて、でも、だから頑張る。将棋の勉強をサボっていると叱られるそうです。
 プレッシャーがある環境というのはつらいことでもあるのですが、幸福な環境でもあるんですよね。


 

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矢倉vs雁木 2  昭和の雁木  松浦-真部戦

2014年08月02日 | しょうぎ
 これは1986年名将戦「松浦隆一-真部一男戦」の最終盤の局面。いま、先手の松浦さんが8九香と受けたところ。
 後手真部一男の手番ですが、どう指すのが正解でしょうか。
 後手玉には“詰み”はありません。なので先手玉に“詰めろ”をかければ良いのですが、その手段がむつかしい。
 6八竜が指したい手ですが、それだと後手玉に“詰み”が生じるのです。4五桂、同歩、2二角、4二玉、3一竜、5三玉、4四金、6三玉、5四金以下の詰み。
 4三玉とこの局面で逃げるのは、6一銀が“詰めろ”でやはり先手勝ち。
 さあ、どうする、真部?


 今日はこの「松浦隆一-真部一男戦」を鑑賞します。 後手の真部一男さんが「雁木」に囲った将棋です。


図1

▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲7七銀 (図1)
△4二銀 ▲4八銀 △5四歩 ▲5六歩 △6二銀 ▲2六歩 △3二金 ▲7八金 △4一玉
▲6九玉 △7四歩 ▲5八金 △5三銀右

 この将棋は図のように「5手目7七銀」のオープニングで始まっています。
 今は「5手目6六歩」から矢倉に組むのが主流になりました。

 先手が「矢倉」を指したいときに、「5手目6六歩」から始めるのは、昭和の終わり頃から徐々に指されはじめ、 1995年以降は「5手目7七銀」よりも、「6六歩」が主流となりました。
 その意味でこの「5手目7七銀」は“昭和の手”ですね。
 これは塚田正夫さんが指し始めて戦後になって流行した駒組です。
 「相矢倉」自体が戦後になってから流行した戦型で、戦前には「矢倉」はほとんど指されていません。そのことは木村名人の棋譜を調べてもらえればはっきりわかります。戦前・戦中の昭和初期は、「相掛かり」が全盛の時代でした。
 江戸時代の末期に、相矢倉は少し流行りましたが、昭和(戦後)のように主流になるほどのものではありません。

塚田正夫-金子金五郎 1941年
 そんな時代の中、戦時中から塚田正夫は、先手番の時に、このように「5手目7七銀」から「相矢倉」に誘導していたのです。だからこれ、“塚田流”と呼ばれていたのです。
 「棋譜でーたべーす」を調べると、この「塚田-金子戦」の前に、「5手目7七銀」を使っている棋譜は、たった一局しかありません。1920年の「石原丈石-花田長太郎戦」です。つまり、それ以前――江戸時代・明治・大正――には、「5手目7七銀」のオープニングは一つの前例もない、ということになります。
 この「5手目7七銀」からの「相矢倉」を原動力として、1946年に創設された第1期A級順位戦を優勝し、名人にまで駆け上ったのが塚田正夫です。つまり、「相矢倉ブーム」の先頭を走っていたのが塚田さんなのです。そうしてみると、「升田幸三賞」を受賞するのにもっともふさわしい人は、塚田正夫さんなのかもしれないと僕は思うのです(笑)。

 
   「木村義雄-塚田正夫」1947年名人戦の本ブログの記事
     『端攻め時代の曙光2
     『端攻め時代の曙光』 
     『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り
     『新名人、その男の名は塚田正夫


図2
▲5七銀
 「後手5三銀右戦法」。
 これは次に5五歩からの歩交換をして局面をリードする作戦です。この作戦は90年代には“郷田流”、2000年代には“阿久津流”とも呼ばれましたが、どうやら80年代からあったようです。
 いつからこの「後手5三銀右戦法」が指され始めたのか、気になったので調べてみました。僕が調べた限りでは、次の将棋、1980年のNHK杯「米長邦雄-佐伯昌優戦」が最も古かったです。

米長邦雄-佐伯昌優 1980年
 とすると、これは佐伯さんの考えた新戦法でしょうか。この「後手5三銀右戦法」は1984年頃から徐々に指されるようになりました。後に現れた「中原流急戦矢倉」なども、この「後手5三銀右」からの発展形です。5二金と上がる前に5三銀右とするのがポイントで、後で5二飛と中飛車にする可能性を残している。
 佐伯昌優さんは神奈川県の藤沢に将棋道場を開かれていまして、佐伯さんの弟子には、中村修、北浜健介、斎田晴子、高橋和、中村真梨花がいます。


図3
▲5七銀 △4四歩 ▲7九角 △5二金 ▲6六歩 △4三銀 ▲6七金右 △8五歩
▲2五歩 △3三角
 そして、その「後手5三銀右」に対して、先手が「5七銀」と指した最初の棋譜が(筆者の調べた範囲では)この「松浦嶐一-真部一男戦」なのです。とすると、「5七銀」は、松浦隆一の新手かも、ということになる。

 松浦隆一、1951年生まれ、東京都出身、丸田祐三門下。2011年に引退。
 『将棋世界』に鈴木輝彦さんの対談の連載があったが、その時に登場した松浦さんは、“失踪”のエピソードを語っている。「林葉さんの事があるまでは、僕の失踪事件が有名だった」と。
 あるとき、将棋連盟に女の人から電話がかかってきて、うちの松浦が家に帰ってこないのだが、という。松浦さんは結婚したことを棋士仲間にも知らせていなかったらしく、「おい、松浦さん、結婚していたのか?」ということで二重の驚きで話題になったようだ。「失踪」は、結局、二日間家を空けて麻雀を打っていただけのことだった。それよりも、電話してきた結婚相手の女性が上海生まれの中国人ということが、また連盟のなかで話題になったのだった。

 さて、実戦の先手の「5七銀」。
 こう構えられると後手も5五歩からの歩交換はしにくいということで、後手は別の作戦をとることになる。6四銀や、4四銀という指し方もありますが、真部さんは4四歩からの「雁木囲い」の作戦を選択しました。



図4
▲6八角 △5一角 ▲7九玉 △9四歩 ▲9六歩 △6四歩
 先手の2五歩に、後手が3三角としたところ。
 でもこの3三角はじつは後手にとって危険な手で、6四歩が無難。(前回紹介した2013年「羽生-中村戦」では6四歩でした。) 3三角に、4八銀、5一角、2四歩、同歩、同角、となったときに、後手が角交換を避けたいなら、そこで3三桂か7三角だが、3三桂は4六角が飛車取りになってダメ。だから7三角ですが、そこで4六角、同角、2一飛成(参考図a)、
参考図a
 と、こういういう変化があって、これを覚悟しなければならない。以下、3一金なら、1一竜で、次に2三桂がある。
 真部さんがどういう読みだったかはわかりませんが、あるいは角交換をするならどうぞというつもりだったかもしれませんね。

 松浦さんは6八角でした。


図5
▲3六歩 △3一玉 ▲1六歩 △1四歩 ▲4八銀
 さて図5。 この局面は、前回紹介した「羽生善治-中村太地戦」と、9筋の端歩の突き合いを除けば、同じ局面になっています。
 羽生さんは後手の攻めを警戒して8八銀と指したのでした。

羽生善治-中村太地 2013年

 松浦さんの指し手は3六歩。
 真部さんは3一玉。
 「雁木」では、4一玉のまま戦うことも多いのですが、その場合は相手に飛車を持たれたときに5一の地点で受けなければならなくなる。だからできるなら、3一玉としておきたい。
 しかしここでは8四角~7三桂~6五桂という形を早くつくると、後手が指しやすくなるのでは、ということで最近この型での「雁木」が見直されている。(これについては前回記事参照のこと)


図6
△7三角 ▲3七桂 △2二玉 ▲2四歩 △同歩 ▲同角 △2三歩
▲5七角 △6二飛 ▲8八玉 △6五歩
 ここで先手松浦さんは4八銀として、角筋を通しました。「矢倉」で5七銀と上がると角が使いにくくなる。それが付け目で「5七銀」を見て後手は「雁木」を選択したのでした。松浦さんは手損を甘んじて角道を通すことを選んだのです。


図7
▲6五同歩 △同飛 ▲1五歩 △同歩 ▲1三歩
 後手の真部さんがここで仕掛けました。
 先手は2手損していて、右の銀が働いていない。しかし“玉の堅さ”ではやはり先手の「矢倉」のほうが勝っている。


図8
△5一角
 6五歩、同歩、同飛の瞬間、松浦さんは1五歩、同歩、1三歩と端攻めを敢行した。「雁木」の弱点は、端。
 真部さんはここで5一角と受けた。

 この手では1三同香と取る手もあるようです。その場合、松浦さんはどう攻める予定だったのでしょうね。1三同角成、同桂、1四歩でしょうか。ソフト「激指13」で調べるとその変化も「互角」になります。
 ただし、1三同角成、同桂に、6六香はダメです。
参考図b
 それは2五飛(参考図b)で、先手が悪い。角の睨みが利いていることを忘れてはいけません。2六歩と受けても、2四飛とされて、次に後手からの3五歩の桂頭攻めがある。
 (追記: 訂正します。ここ、気になってもう一度この参考図b以下を検討し直してみました。2五同桂、2八角成、1三桂成、同玉、1五香、1四歩、1一飛、2四玉、1四飛成、3三玉以下、これは後手も受けがたいへんそうです。この変化も「互角」ということに訂正させてください。なお、「激指13」の評価は3三玉のところ「-476 後手有利」と出ています。)


図9
▲2五飛 △同飛 ▲同桂 △2九飛 ▲6一飛 △7三桂 ▲6四歩 △6二歩
▲9一飛成 △2五飛成
 図9。 ここで松浦さんは2五飛と指しました。飛車の交換をして攻め合うということですが、他の手段はどうだったでしょうか。
 感覚的なものですが、ここは飛車交換しないで先手が優勢になる手段がありそうな気がします。「激指13」で調べてみても、どの変化も「互角」ばかりなので、はっきりとはわかりません。僕は3五歩がいいんじゃないかと思いました。3五同歩なら、4六角と出る。以下7三桂には、1五香(参考図c)。
参考図c
 これを同角なら、以下、7三角成、3六歩、2五桂、2六香、2七歩、同香成、同飛、4八角成、6六香、3五飛、6三香成、のような展開が予想される。


図10
▲9三角成 △6五桂 ▲6六銀 △6四銀
 こうなってみると、これは後手にとって“やりがいのある局面”になっていると感じます。
 ここで先手は9三角成としました。当然こう指したいところですが、「激指13」は別の手を第1候補手にしていまして、それが次の図の4六角。
参考図d
 図10の場面で後手が指したい手は、6五桂と、2八竜です。それをあらかじめ受ける意味で、9三角成があるわけですが、この4六角は後手の2八竜も消しています。(後手4五歩には3七角とする。)条件によっては2八香と打つ手もあります。
 この4六角がこの場合良い手かどうかはわかりませんが、9三角成と成れるところで4六角という手はなかなか浮かびません。


図11
▲6五銀 △同銀 ▲7七桂 △5八銀
 ここで松浦さんは6五銀、同銀、7七桂と指しました。6五銀、同銀とすることで、9三の馬筋を通して、後手の2八竜の銀香両取りを受ける意味があります。
 6五銀、同銀に、そこで5三香という手もあります。以下、4二角、5二香成、同銀となって金が取れますが、ここで相手に香車を渡すのは怖いかもしれません。後手からの7六銀、同金、7五香のような手段も生まれますから。


図12
▲5七馬 △6七銀成 ▲同金 △2四角
 7七桂に、真部さんは5八銀と銀を打ち込んできました。なるほど、6八金と引けば、7六銀だ。7六銀、5八金、7五桂という攻めになる。以下は、9四馬、2九竜、3九香、1九竜、8五桂、8六歩、同歩、2八竜が一例です。


図13
▲2四同馬 △同歩 ▲2三香
 松浦さんは5七馬から馬を引きつけ、真部さんは2四角で角交換を迫る。働いていなかった5一の角と、めちゃめちゃ働いている先手の馬の交換を迫る手だから、2四角は“筋のよい”、気持ちの良い手といえる。しかし、2四同馬、同歩、2三香からの先手の攻めも相当に厳しかった。

 後手の2四角で、他の手はないのだろうか。「激指」を使って考えてみた。
 2四角のかわりに、8六歩という手がある。以下、同歩、7六銀、同金、7五桂、7九桂、8七歩(同桂なら6七金)、9七玉、2四角。
参考図e
 こうなれば、これは後手が良いのではないかと思う。以下、3五歩、同角、4六歩、2八竜で、次に4八竜と銀を取った手が“詰めろ”になる。
   

図14
△2三同玉 ▲2一龍 △2二金打 ▲1一龍 △6六香 ▲5七金 △6八香成
▲6五桂 △同龍 ▲1四桂 △7九角 ▲9八玉 △7八成香
 さて、「松浦-真部戦」は、2四同馬、同歩、2三香。
 真部さんはこれを同玉。当然こう取るのがベストと読んでこう指したのだろうが、「2三同金」の変化もあるかもしれないので、これは最後に検討してみよう。
 また、2三同玉、2一竜に、「2二香合」や、「2二桂合」の変化はどうなるか。それも後で検討する。

 実戦は、2一竜の王手を2二金打と“先手”を取って受けた。“先手”を取ることもあるが、もしここに香車を使ってしまうと次の6六香は指せなくなる。この6六香からの攻めが、真部さんの予定の攻めの組み立てだったのだろう。
 しかし松浦さんの1四桂も好手で、これがあるからさっきの2二金打がどうだったかということになる。


図15
▲2二桂成 △3三玉 ▲3二成桂 △同銀 ▲8九香
 後手は7八成香とわかりやすく迫っている。
 先手は2二桂成から金を二枚取って、8九香と受けた。
 なお、図15からの手順で、先手の2二桂成に対して、後手が同金と取るのは、1四銀(同玉なら2六桂から詰み)、3三玉、8九香となりますが、これは筆者の検討の結果では、「先手勝ち」となりました。


図16(=出題図)
△7七成香 ▲4五桂
 さてさて、ここが“問題の局面”です。
 後手の真部さんは、きっとこの場面を想定していたのだろうと思います。そしてここで、勝ちがある、と。

 しかし、6五の竜が動くと後手玉が(▲4五桂から)詰んでしまうのでは困った。

 (A)それなら、逆に後手からここで△4五桂はどうだろう。これは先手玉への“詰めろ”ではないが、次に金を取る手があって、これで竜が自由に動けるようになる。
参考図f
 だが、それは3一竜で「先手勝ち」。 次に4二銀、同金、1一角、4三玉、4四角成、同玉、4二竜という詰みがあり、それを受ける手もない。

 (B)9五桂という手がある。これは面白そうだ。
参考図g
 これはなかなか素晴らしい手で、先手玉への“詰めろ”になっている。その手順は、8七桂成、同玉、9五桂、である。もう一度9五に桂馬を打つ。9八玉と逃げれば8六桂、同香、8八角成まで。9五同歩なら、8六歩で、以下、同玉に6八角成からの詰みとなる。
 問題は、最初の9五桂に、同歩と応じられた場合で、以下、9六桂、9七銀、8九成香で次の図。
参考図h
 この8九成香を同玉は、7七桂、9八玉、6八竜まで。
 “これで後手勝ち”であれば、素晴らしい。
 ところが残念、そこで4五桂と打って、先手が勝ちになるようだ。同歩なら、2二角、4二玉、3一竜、5三玉、8九玉。4五同竜なら、8九玉で、先手玉に詰みはなく、後手の攻めは続かない。


図17
△4五同龍 ▲2二銀 △4三玉 ▲6四銀 △3五歩 ▲4一龍
 真部さんは、7七香成と指した。次に6八竜からの“詰めろ”だが、ここではおそらく、自らの“負け”を悟っての指し手でしょう。
 先手松浦隆一、4五桂。やはりここでもこの手が決め手になる。これは同歩と取ると2二角~7七角成。なので後手は4五同竜しかないが、すると先手玉は安全になり、あとは後手玉に“詰めろ”をかけていけばよい。

 つまり、図16(出題図)では、もう後手の真部一男に勝ちはなかったのでした。

投了図
まで107手で先手松浦隆一の勝ち




【終盤、後手に勝ちはなかったのか】
 最後に、検討しておきます。
 図13での2四角(角交換を後手から迫った手)以下、後手に勝ちがあったのかどうかについて。

再掲 図14
 図13から、2四同馬、同歩、2三香として、この図14。
 ここで「2三同金」と取ってみる。
 この手は、3一角、3三玉、6四角成となって、この6四角成が良さそうな手なので、それで真部さんはこの手を深くは考えなかったのかもしれません。しかし、以下、5一香、6五桂、2九竜、5九銀打(参考図i)と進んで、どうでしょうか。
参考図i
 これは後手が指せそうな気がするのですが、でも、後手の次の手がむつかしい。「形勢不明」としておきます。



参考図j
 次に、図14から、2三同玉、2一竜に、(ア)2二香合はどうでしょうか。
 2二香合、6五桂、4九角、7八銀、6四桂。
参考図k
 これも「形勢不明」。つまり、先手後手どちらもやれる、これからの勝負ということです。
 途中、6五桂を同竜と取るのもありますが、これは1四銀、同玉、2六桂、2三玉、3五桂、3三玉、4三桂成、同玉、4一銀、というような手段が先手から生じます。これも「互角」です。


参考図l
 さらに(イ)2二桂合を調べます。
 実はこの変化が(後手にとって)最も有力だと判明しました。
 2二桂合、6五桂、同竜、6六銀、同竜、同金、6八銀。
参考図m
 これで「後手良し」。 7八飛という受けがありますが、それには、6五桂、同金、6七金と迫って良し。
 「激指13」の評価値は、「-1208 後手優勢」
 このときに、後手は香車を持っているほうが攻めに厚みが出るようです。だから2二は「桂合」がよい。
 なお、6六銀の受けで、かわりに6六桂なら、6四桂と打って、先手先手で攻めていけます。
 (ただし、やはり6五同竜に、1四銀、同玉、2六桂以下の攻めはある。その場合の「激指」の評価値は「-586 後手有利」)


 以上のことから、図14以下、はっきりした後手の勝ちはなかったものの、後手にとっての有力な変化はあった、というのが結論です。全体的には、後手有望のながれです。 15図になると、「先手勝ち」です。



 「雁木」の将棋、調べてみると面白いですね。
コメント
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