はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

阿修羅

2006年10月31日 | まんが
 「阿修羅」ときいて連想するのは、僕のばあいは、

   萩尾望都『百億の昼と千億の夜』の阿修羅王
   向田邦子脚本NHKドラマ『阿修羅のごとく』
   ジョージ秋山『アシュラ』

かな~。古いね。 若い人なら何を思いだすんでしょう?
 『百億の昼と千億の夜』(原作は光瀬龍)は「週間少年チャンピオン」に連載された。「少年マガジン」に代表される「男っぽいけんか漫画」の時代が終わり、「少年チャンピオン」が少年漫画の先頭を走っていた。(そんな時代があったんだねー。) こんな作品群だ。

 「マカロニほうれん荘」「がきデカ」 …なんといってもこの2つのギャグ漫画が強烈だった
 「魔太郎が来る」「エコエコアザラク」 …恐怖漫画
 「ふたりと5人」 …まだ人気のなかった吾妻ひでおも描いていた
 「750ライダー」 …人気があったが、何が面白いんだか(ホノボノ喫茶店まんが)
 「ドカベン」「ブラックジャック」 …説明の必要もないッスね

 こうしてみるとやっぱすごいね。そこに少女まんがから萩尾望都を引っぱってきた。編集も乗りに乗っているね。
 「チャンピオン」誌をトップに」押し上げた力は「笑い」だ。「笑い」の風が吹きはじめていた。たまたま「チャンピオン」が一番にそれに乗っかったのだ。
 TVでお笑いブームが起こり、「笑っていいとも」「俺たちひょうきん族」が始まるのは、まだこれより4,5年後のことだから、少年漫画誌(とラジオ)があのころは時代の最先端をはしっていたことがわかる。
 萩尾望都『百億の昼と千億の夜』は、今読むとむつかしすぎるが、あの頃のSFファンはそういうのが嬉しくて読んでいた。阿修羅王、哲学者プラトン、シッダルタ(仏陀)、帝釈天、イエス・キリストというキャラが宇宙誕生のなぞをしらべるために、時空を駆け抜ける … うわー、目が回りそう!
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観音

2006年10月30日 | まんが
「かんのん」について調べてみた。
観世音菩薩の略らしい。(観自在菩薩ともいう)
「世」…世間の人々の
「音」…声を
「観」…聴いてくれる
「菩薩」…仏の次にえらいひと
みたいな感じ~。

 図はまんが高野文子「ふとん」から。「まんが奇想天外」誌に掲載された12ページの傑作である。高野文子のまんがはよけいな説明がなくてかっこいい。

 女の子が寝ている。黒い服のおとなたちが座っている。だれかの葬式らしい。
 女の子がめざめる。
 するとそこには観音様が立っている。どうやら死んだのはこの女の子らしい。
 女の子は観音にはなしかける。「だあれ?」 「観音」とこたえる観音。
 女の子は「おなかがすいた」という。観音は「おまえはもうごはんなどいらないよ」と言いながら女の子のままごと遊びにつきあう。「あれが飲みたい」とお酒を飲む。「ねえねえかんのんも飲んで」とお酒を注ぐ。
 「ねえねえねえ、かんのん、もう一つあのさあ…」歩く観音の衣装のすそをつかんで女の子は言う。「めりやすぶとんほしいな」
 「買ってやるよ」と観音。  女の子と観音、退場。
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真央

2006年10月29日 | はなし
 MAOつながりで、浅田真央
 このコ、すごく「描きたい。」と思わせる顔をしています。以前から「観音様に似ているナ。」とおもっていましたが、そのせいかも知れません。(同じことを思う人はいるようです。)この娘の写真を持っておくといいことありそう、なんて気持ちさえ抱かせます。
 手は大きいんだよね。
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魔王

2006年10月28日 | はなし
 僕がまんがの週刊誌を購読したのは中学まで。なので、まんがの連載ものをはじめから最期までリアルタイムでよむ、という体験は考えてみると多くない。
 この『魔王ダンテ』(永井豪)はそういうつきあいの連載まんがで、「ぼくらマガジン」に掲載された。このまんがには意表をつかれた。先の展開がまったく読めない話だった。以下、あらすじを。

 初回(100ページほどあった)に登場した主人公・宇津木涼が2回目に、ヒマラヤで眠っていた怪物・魔王ダンテに食い殺されてしまう。「えっ、主人公が!?」 でもよく考えてみればタイトルは『魔王ダンテ』だから、怪物のほうが主役か… でもなあ、この怪物の眉間の「顔」はマンガの主人公らしくないよなあ。
 で、3回目は場面変わって、おじさんのようなひとが主役になって、黒ミサなどをおこなう。いい大人たちが集まって、悪魔をよみがえらせようとミサを行う。女を裸にして鶏の血をあびせたり。(あぶない話だ。) そういう話がしばらくつづく。
 そして、悪魔=魔王・ダンテがよみがえる。ダンテ(体長20メートル)は空を飛び、名古屋の街を破壊、火の海と化す。自衛隊が出動するが歯が立たない。黒ミサのおじさん達は死ぬ。
 よみがえったダンテは、しかし、「顔」が違っていた。怪物ダンテの眉間の「顔」が宇津木涼になっている! リクツはこうだ、宇津木涼の精神力がまさっていたのでダンテのからだが宇津木涼に支配された。(そ、そうなんだ…)
 破壊した街の中で、魔王ダンテとなった宇津木涼は「はっ」と我にかえる。「おれ、なにしてるんだ」
 その後、宇津木涼は、なぜか人間の姿となって、もとの「宇津木家」に帰ってきた。そして人間の生活をしつつ、ときどきチンピラ悪魔の退治をする。
 そこにメドゥーサという女悪魔がやってきて、悪魔の歴史を話して、宇津木涼に「魔王ダンテとしての自分を思い出せ」とせまる。女悪魔の話によれば、数千年前、自分もあなた(涼=ダンテ)も、元は地球人で、そこに「神」が宇宙からやってきて、自分たち悪魔をむごい目にあわせてほろぼした。その「神」の子孫が人間である。人間こそほろぼすべき存在であると彼女は言う。
 それを聞いて宇津木涼、すべて思い出す。で、「自分は悪魔の王・ダンテである」というアイデンティティーを取り戻した涼は、さあ人間に戦いを挑もう、仲間(悪魔)に集合をかけろ、というところで第1部完。(第2部はない)

 こどもの自分にとっては、驚愕のラストであった。なにしろ、人間こそ敵だ、という結論なのだから。こんなラストもありなのか、と。
 ここで連載が終わったのは「ぼくらマガジン」が廃刊になったから。大人になって読むと、オウム事件や9・11テロにも通ずるところがあり、「あぶない話」である。が、僕はここから、「人間(自分)がいつも正しいわけじゃないんだな。ものごとって、表と裏と両方から見ないと簡単には判断できないものなんだな。」と学んだと思う。このまんがは、人間と悪魔、2つのアイデンティティーの間でゆれる「青年」の姿を描いている。
 この『魔王ダンテ』は後の傑作漫画『デビルマン』の原型である。また、ダンテのデザインは『マジンガーZ』の原型でもあるだろう。また、生頼範義(スターウォーズのポスターも描いた人)の描いたダンテが「ぼくらマガジン」の表紙を飾った時期もあって、迫力があった。
  ちなみに、「ぼくらマガジン」の廃刊とともに終了した漫画には『タイガーマスク』もある。漫画版「『タイガーマスク』のラストは、主人公伊達直人が車にひかれてひっそりと死ぬ、というあっけないものだった。あまりの淡白さで、逆によくおぼえている。梶原一騎原作のものにはこういう「あれっ」というようなラストが多い。あの『あしたのジョー』もそういう感じだったのを、ちばてつやが「変えますよ」と言ってうんうんと考えて描いたのが、あの有名な「白いラストシーン」である。
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SHINJOって

2006年10月27日 | はなし
マンガみたいにカッコイイやつだな。
    シンジラレナーイ! (by ヒルマン)
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体質

2006年10月26日 | からだ
 一昨日、7連勝中の羽生善治と8連勝中の佐藤康光がぶつかり、佐藤が勝ちました。佐藤強い、9連勝! 
 プロ野球の日本シリーズも気になります。ヒルマン監督は、優勝したらまた「シンジラレナーイ!」って言うのでしょうか?

 今日のテーマは「体質」について。
 あるブログで、男性が、携帯電話をPHSからドコモに変えたら、かけるたびに「電磁波」でどきっとする、ということを書いていた。その話を友人にしたら、実際にそういう「電磁波」に敏感なひとはいるらしい。
 花粉症は花粉へのアレルギー反応だが、あれは体質だから「根性」とか「気持ち」ではどうにもならない。そう、体質というのは「気持ちの問題」を超えているのだ。きっと「電磁波」を感じる人はそういう体質なのだ。TVで、牛乳と卵と小麦粉のアレルギーのこどもの特集をみたが、食事の選択が、まさに命がけだ。
 僕は酒の味は好きだが、アルコールの解毒能力がほとんどないようだ。「猫舌」でもあるのだが、そういう人間は「熱い!」と感じる温度のものに接っしてそれを「根性」でガマンしていると、実際に焼けどをする。「気の持ちよう」ではないのだ。
 「怖さ」についても、細胞レベルの「体質」の問題ではないだろうか、と思っている。怖い映画を観てスッキリした気分になる人とそうでない人がいる。ジェットコースターで楽しめる人とそうでない人がいる。あれは、「体質の違い」ではないのかな。
 大きな音がドンと鳴る。そのときに、敏感な人の細胞はキュッと固まる。そういう環境にずっと身をおくと、その状態に慣れるために、細胞はずっと固まったままになる。本人も周囲の人も「ああ、慣れた」と思っているかもしれないが、細胞のほうは、永久にリラックスできない状態でかたまってしまう。
 「からだと向きあう」とは、心のもっと奥にある、そのような細胞の声を感じとることではないかと考えている。身体を「ほぐす」というのはそういうことだと。
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「シンジラレナーイ」

2006年10月25日 | はなし
 北海道日本ハムファイターズのヒルマン監督。なかなかいい顔してます。「シンジラレナーイ!」はリーグ優勝したときに言った言葉。日本シリーズも今日勝って、あと1勝で日本一です。

 「あーあ」って感じのミスをしました。「これやっちゃいけないな」って思って気をつけていたのに、わざわざ近づいていってやっちまった。とりかえしのつかないほどのミステイクではないんですが、あーあ…
                       シンジラレナーイ…
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福式ダァー!

2006年10月24日 | からだ
 寒くなりました。(寒すぎるぜ!) いったん変えたテンプレをもとに戻すことにします。寒いとやはりあったかい色がいい、ということで。

 僕は2年半前からボーカル教室に通っています。その目的というのが「身体を内側からほぐす」ことで、歌を上手く歌う、というのは、まあ、「おまけ」のようなもの。(やっと人並みに歌えるようになったかな~)
 最近になって、ようやく「腹式発声」がわかりかけてきました。今までは、近いけど違うなあ、というカンジだったけど「あ、これだな!」というカンジになってきた。
 「腹式発声」とはどういうものか。専門的には知りませんが、僕的解釈を書いてみたいと思います。
 「お腹に息を吸って~」とボーカルの先生はいいます。でも、本当のところ、お腹に息など入りません。まさか胃袋には入れませんよね、じゃあお腹のどこに入れるの? やっぱり息は「肺」に入るのです。ではなぜ「お腹に息を吸って」などと指導するのでしょう? あれは「イメージ」なのです。
 ふだんの呼吸と発声は「胸式」と呼ばれますが、これは肺の吸う力によって呼吸します。対して「腹式」は、「お腹から肺を引っぱって」肺をひろげるのですね。
 正しくは「横隔膜」をひっぱるのです。横隔膜は肺の下に張り付くように存在しているアーチ型の膜で、これを動かすにはお腹の筋を上手につかわないと… ってわけ。
 「腹を抱えて笑う」ってのも「腹式」の横隔膜運動。でも一人暮らしをしているといつのまにか声を出して笑うことをしなくなってしまう…。
 もともと幼児のときに僕らは「腹式」で呼吸しているわけですが、いつのまにかお腹をつかうことを忘れてしまうんですね。「腹式」は「福式」ってことで、きっと良いに違いない。

 女流王位戦第3局は本日、石橋さんが勝って、清水2勝、石橋1勝となりました。
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階段5

2006年10月23日 | はなし
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シューマッハー

2006年10月22日 | はなし
ミハエル・シューマッハー、F1ラストラン。ブラジルGP今日深夜。えっ、10位スタート?
フェラーリは強くなかったけど、シューマッハーがドライバーになって強くなりました。チーム力をワンランク引き上げた印象です。引退後は何するんですかね。
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「作品」という船

2006年10月21日 | はなし
 たとえば「かわいいイラスト」をみて明るい気持ちになる。それはとってもわかりやすい。
 それにくらべて、いわゆる「芸術作品」はどうだろう。絵にしても、音楽にしても、作者ががんばって心を削ってつくられたようなものは、重苦しい。それに触れると心が重くなってしまう。そんなものを、わざわざがんばって作る意味ってなんだろう。人生捨てたり、ひとに心配をかけたり、そうまでして「作品」を作る価値ってあるのだろうか。
 ある人にとっては、心の深みへ引っ張りこもうとする「芸術作品」は、いやな臭いのものでしかない。「かわいいイラスト」で十分だ。
 けれども、すでに自分の中にある心の深みに捉われて、つかまるものもなく動けなくなっているひとにとっては、それは闇の海に浮かぶ「光の船」なのかもしれない。(「かわいいイラスト」はそこまでやってこないだろう。) 船が近くを通ったからといって、乗せてもらえるとは限らない。でも、なにか、「かけら」のひとつくらいは残していくかもしれない。
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ウイ アー ノット ぼいるどえっぐす

2006年10月20日 | からだ
 リハビリテーションの学校へいくと、骨と筋と神経と血管が関節のところでどうなっていてどう動くか、というような勉強をします。基本中の基本です。
 それを習いつつ、ぼんやりと思っていたことがありました。「なまたまご」と「ゆでたまご」の違いのことです。
 テーブルの上で「ゆでたまご」を横向きで回転させると、回転しながらたまごは立ちます。でも、「なまたまご」は立たない。そのことを例に、中身が固体と場合と、液体の場合ではちがう、とある本で人体の運動について説明していたのを読んだからです。
 リハビリの学校で習う人間の運動力学は、人間の中身が「液体」であることを考えていません。人体を「骨」とか「筋」とかのパーツにわけてその形や可動域をしらべます。それは間違っているわけではもちろんないのですが、人体をひとつの「生命体」としてとらえるという運動力学が欠けているように思っていました。
 しかたがない、といえばしかたがないのです。部分に分解してしらべる…それが医療科学の基本なのですから。でもそれだけでは「人は機械と同じかよ」とつっこみたくなります。
 読んだ本というのは野口三千三(故人・東京芸術大学教授だった)という人の書いた「原初生命体としての人間」。 この人は演劇の研究者だろうと思うのですが、自身が腰痛になやまされ、それで考え、「野口体操」を考案しました。僕はこの体操のやりかたはまったく知らないのですが、考え方は面白いとおもい自分の身体アプローチの参考にしました。
 この本によると「主観」が大事というのです。科学は「客観」を重視します。だけどそれだけでは治らない身体の悩みをどうするか。そこで「主観」重視の登場です。ひらたくいうと「自分の身体に聴け」ということ。
 ですから「体操」というのは「自分の身体とのはなしあい」なのです。自分にあった体操は自分の身体が知っているってわけ。
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ピカソ

2006年10月19日 | はなし
 行って参りました、「ピカソとモジリアーニの時代」展。
 ピカソに関しての知識もぼくは人並み程度で、ですから「泣く女」とか「ゲルニカ」の印象がつよくてあまり好きではなかったのですが、ピカソの絵をザァーとながめると明るい作品も多くて、楽しめます。たとえばこれ「」とか「白いファウナ」とか「」とか。(ピカソの焼き物もかわいいんですよね。)
 だけど有名なのはだいたい重苦しい作品が多い。今日のコレクションもそうでした。でもいろんな作家の絵をみることができました。
 でもねー、絵画をまとめて観るのって、しんどいね。「名作」には大概、「こころの奥の深いもの」が描かれている。それらといっぺんに付き合うのは無茶だよ。一度に多数の女が内面をむき出しにしてせまってくるようなものだよ。(経験ないけど。カンで。)
 やっぱり「絵画」は、一枚と、ゆっくり時間をかけて付き合うものなんだと思う。
 僕の友人にピカソ好きの人がいるのですが、彼女によれば、ピカソという人は、いろいろな女性とつきあうことで画風を変えていった人だそうです。「画風を変える」というのは「性格を変える」ようなもので、「変える」ためには「壊さなければ」なりません。ある種の女性には「壊すちから」がありますからね。(カンで言ってます。) 画家って、たいへん。
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モジりアーニ

2006年10月18日 | はなし
 明日「ピカソとモジリアーニの時代展」を渋谷に観にいこうと思うんですよ。皆さん、知ってます? モジリアーニ。 僕はよく知らないんですよ。
  それでモジリアーニのことを描いたという映画「モンパルナスの灯」をこれから観ようと思います。観たあとで絵と感想を描きます。


 はい、というわけで、観ました、「モンパルナスの灯」。
 モジリアーニ、男前(俳優だけど)!  周りの女性がスゲー美人ばかり(女優だけど)で、みんなモジ君に惚れている。 酒びたりの才能ある(かもしれない)だめ男の悲しく苦悩する一生、みたいな話。モジ君が死ぬのを待っている画商、おそるべし。(フィクションだろうけど。でもありえる。)
 死んだあとに売れたから「悲劇の画家」になるんだけど、たとえ生前に売れてもおなじだと思う。モーツアルトみたいに売れた分だけ使って借金だらけになって…。これがきっと「彼らしい人生」なんだよ。その意味では「悔いなし」だと思うよ。
 「絵を描く」ってなんだろうねー。
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ばねの如く

2006年10月17日 | からだ
 きのう、「足をほぐそう」という話をしました。
 しかし何年もかけて石のように固まったものが「ほぐす」ぐらいで柔らかくなるのでしょうか。簡単ではない、というか、それだけではムリ、と思います。では、どうすればよいのか。
 足だけではない。おそらく僕のからだは全身が硬くなってしまっている。ずっとほったらかしにしてきたからだ。どうしたらよいのか。
 僕は10年以上、そのことを考えてきました。それについて書きたいとは思うのですが、簡単ではありません。それで、ここでは「立つ」という姿勢について。
 きのうの記事で、立位の重心は「親指の付け根」にあるのでは、と書きました。
その根拠というのは、動物の「うしろ脚」です。犬や猫のうしろ脚は、「かかと」がずいぶん高い位置にあって、地面にはついていません。そして、ひざもかかともまっすぐではなく、曲がっています。
 だから僕は思ったのです。人間も本来の姿勢は、「足指の付け根」で地面と接し、ひざも腰も曲げておくのが正ポジションではないかと。かかとにはあまり体重をのせないようにします。(ほら、スポーツ選手が構えているとき、そんな姿勢でしょ。) 二足の人間と四足動物をいっしょにしてよいのか、という問題はありますが、とにかくやってみよう、と思ったのです。
 ところが、いったん身についた姿勢を「変える」のは大変なことです。不可能にちかい。だから僕は1日5分だけ、体操としてこの姿勢を日常にとりいれることにしました。実際にやってみるとこの姿勢、下半身がすごく自由になるんですね。なるべく全身の力を抜き(じつはこれが難しいんですがね)、深く呼吸をしながらゆっくりゆれる。イメージは「ばね」です。(ばねは耐震構造にかかせません。) あるいは「風にゆれる樹木」。 ひとりでに身体がうごくような感じがあって、「身体って生きものなんだ」ということの確認にもなりますし。5分だけ「野生にもどる」感じ。
 今では歌うときにこの姿勢をとりいれています。「あやしい踊り」と言われていますが、歌っているときは「変だ、でも、おもしろい」と思ってもらえるのでいいのです。本当は、日常生活の全部これでいくのがいいのでは、などと思っているのですが。
 うーん、でも、まだ、「足裏」は青竹踏んでも無反応。まだまだじゃ。
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