<林檎シリーズ・5> 「田辺のつる」
大学時代に「高野文子」に出会った。まだ彼女が珠玉の第1作品集『絶対安全剃刀』を出す前のことだ。
おそろしく切れのある漫画を描く人だとおもった。一番最初は『ふとん』だったと思う。これは「別冊奇想天外SFマンガ大全集」という雑誌に掲載されていた。次に読んだのが『田辺のつる』だった。
『田辺のつる』は、「漫金超」という雑誌の創刊号に掲載された。この本は、大友克洋の赤青の2色漫画が巻頭を飾っている。当時人気の絶頂だったいしいひさいちも描いている。さべあのま、ひさうちみちおも僕の好きな作家だった。そういうわけで僕はこの新漫画雑誌の創刊号をすぐに買った。(今も持っている。) それらの漫画の中で、どれよりも印象に残ったのが高野文子『田辺のつる』である。
漫画『田辺のつる』には、オチはない。呆けてきたおばあちゃんの日常を描いた、それだけの内容だ。ところが、その「つるおばあちゃん」をしわ一つない少女(または人形)として高野文子は描いたのだ。それでいて、動きはたしかに「おばあちゃん」なのだ! 新人・高野文子の「観察眼」と「表現力」に、ただ脱帽だった。(当時の高野文子の本職はナースだと聞いた。)
そしてもう一つ、僕にとってインパクトがあった理由… それは、その「つるおばあちゃん」の動きが、母の動きと重なってみえたことであった。
「母は、痴呆症なのかもしれない…」
その時、僕はそう思った。
高校を卒業して僕は家を出た。大学に入ったら、将棋部に入って…という夢を持っていたはずだったが、なぜかそうせず、僕は「漫研」に入った。
あとで考えると、それは僕にとって、「無意識のリハビリ」だったのだと思う。
僕の心とからだは、高校時代の3年間の間にすっかりその「芯」の部分が冷え固まってしまった。そのせいか、人としゃべるのがむつかしくなっていた。話しかけられても、応じる言葉が「なにも浮かばない」のである。頭の回転がのろくなって、それは、勉強をしていても感じられた。そうした事実さえも「考えない」ようにしていたが…。(無意識には自分でわかっていたと思う。)
家を出て、家の中にある「みえない無限の恐怖」から逃れたはずだった。だが、高校時代の3年間に、すでにそれ(「恐怖」)はしっかり僕の心の「芯」をとりこんでしまっていたのだった。考えること、感じることが、僕には出来なくなってしまっていた。
大学に入る頃には、僕の、将棋への好奇心はすでに薄れてきていた。たぶん、頭の回転がわるくなっていて、将棋を指してもそれ以上は強くなれないとどこかで見限り失望していたのだと思う。
それで「漫研」というわけだ。
ところで、僕は高校時代の3年間、あまり漫画を読んでいない。(本はまったく読まなかった) 弟が買って来る「少年ジャンプ」(週刊と月刊)、『ドカベン』(水島新司)の単行本くらいのものだ。小学校から中学にかけては、相当の漫画好きであったのだが…。(高校時代は『週刊少年チャンピオン』の黄金期だった)
大学で、酒と煙草を飲みながら漫画の話をするやつらがかっこよくみえた。(オタクという言葉はまだ存在せず、小学生男子のなりたい職業1位が漫画家、という時代だった。) 僕も漫画のことをしゃべりたかったが、しゃべる内容がなかった。「なにも心に浮かばなかった」からである。
彼らと漫画の話をしたい、そういう思いから、僕は、ガンバッて漫画を読むようになった。『火の鳥』(手塚治虫)も、『忍者武芸帳』(白土三平)も、『幻魔大戦』(平井和正・石森章太郎)も、萩尾望都『ポーの一族』もこの頃に読んだ。大友克洋が「ビッグ・コミック」の特別号に描いた『FIRE BALL』を喫茶店で読んだのもこの大学時代。少女漫画にエロ漫画、それから『ガロ』も読んだ。あの頃の大学には、まだ、「マスクにヘルメット」でビラ配り等をしている学生運動家がわずかにだが存在した。それも今では懐かしい。
そのうち、僕は漫画の絵を練習するようになった。もとが「ドヘタ」なので、練習すればその分だけいくらかは上手くなる。毎日毎日僕は鉛筆を走らせた。
思えば、漫画を読むのも、絵の練習をするのも、ガチガチになってしまった心身の「リハビリ」だったのである。「なにも考えることのできなくなった僕」の凍りついてしまった心の「芯」を、読むことで、描くことで、ほぐそうとしていたのである。(もちろん当時はそんなことは思っていない。) 「描く」という行為は、(何かを見て描き写すだけならば)何も考えないでよい。 それでいて、手を動かすから、脳に刺激を与えていく。「絵を描く」というのは、僕にとって、仮死状態になって干からびた「僕」を再生する作業だったのだと思う。
老人性痴呆には2通りの型がある。脳血管性痴呆とアルツハイマー型痴呆だ。おなじ「ぼけ」でも、この二つはまったく違った特徴をもつ。
脳血管性痴呆は、脳出血や脳梗塞などによって、脳に障害が生じるもので、記憶が一部欠けたり、部分的な機能障害が起こる。アルツハイマー型との決定的な違いは、脳血管性痴呆は「人格は破壊されない」ということだ。起こってもその破壊は「部分的」である。(まだら痴呆と呼ばれる)
アルツハイマーの場合は、「大脳の萎縮」によって起こる。この萎縮の原因はわからない。そして「人格が(全体的に)破壊されてしまう」という特徴がある。つまり、痴呆の症状がすすむにしたがって、家族のことを誰か理解できなくなるという「認知障害」が起きる。別人になってしまい、会話が成り立たなくなる。(ここが大変悲しいところだ。)
そのような知識は、ずっと後になって得たもので、当時の僕は何も知らなかった。
ただ『田辺のつる』を見たとき、その歩き方が、母を連想させた。まだこの時、母は歩けていたとは思う。が、ふらふら揺れながら歩いていた。
だが、アルツハイマーが発症するには、母の年齢(40代)は若い。いやしかし、アルツハイマーにも、「若年性アルツハイマー」というのがあると聞く…。
そんなことをちらと考えては、打ち消していた。
それからしばらくして、父から電話で、母を入院させたと聞いた。
「もう治らないんだな… 」
と(医者に聞かなくても)直感でそうわかっていた。
実家に帰ったときに、病名はなんというのかと、聞いた。父は紙にメモしていたその病名を読んだ。聞いたことのない病名だった。
大島弓子の『8月に生まれる子ども』という漫画作品を読んだのは、母が死んだ後のことだ。
主人公の女の子は種山びわ子という名前で大学生。この女の子が「猛スピードで老化していく病気」になる。どんどん年をとって、お母さんも飛び越して老婆になっていく。恋人とあそびに行く約束をしたのに…。記憶力もわるくなるし、身体も疲れるし、顔もシワシワで失禁までしてしまう…。
びわ子さんは自分がだれかもわからなくなってきた。自分はどうやらある大学生の男の子と仲が良くデートの約束をしていたらしい…。持草君というその男の子は「病気のことも知りましたが、今でも僕は会いたいと思っています」と手紙をくれた。
〔 いまは秋 これは男の子からの手紙
わたしは女の子で 18歳 種山びわ子という名前らしい 〕
それがこの漫画のエンディングだった。
それを読んだとき、僕はこう思ったのだった。
大学生の頃の「僕」は、まるで老人のようだったな、と
さらに今、思う。
あの「田辺のつる」に重ねた母のイメージ…あのイメージは本当は母ではなく、「僕自身」だったのではないか。このままほおっておいたらお前の未来はこうだよ…と、僕が僕自身に訴えていたのではないか、そんなふうに思うのだ。
あらためて『田辺のつる』を読んでみた。 …つるさん、かわいい。
「家族」にとっては、引っ掻き回されイライラさせられてしまう、そんなつるさんの言動も、ほんの少しの余裕をもって見れば、かわいくみえる。 こころは、不思議だ。 そうだ、こころの余裕があれば、いいのだヨ。
…「こころのよゆう」って、でも…、何だろ…?
大学時代に「高野文子」に出会った。まだ彼女が珠玉の第1作品集『絶対安全剃刀』を出す前のことだ。
おそろしく切れのある漫画を描く人だとおもった。一番最初は『ふとん』だったと思う。これは「別冊奇想天外SFマンガ大全集」という雑誌に掲載されていた。次に読んだのが『田辺のつる』だった。
『田辺のつる』は、「漫金超」という雑誌の創刊号に掲載された。この本は、大友克洋の赤青の2色漫画が巻頭を飾っている。当時人気の絶頂だったいしいひさいちも描いている。さべあのま、ひさうちみちおも僕の好きな作家だった。そういうわけで僕はこの新漫画雑誌の創刊号をすぐに買った。(今も持っている。) それらの漫画の中で、どれよりも印象に残ったのが高野文子『田辺のつる』である。
漫画『田辺のつる』には、オチはない。呆けてきたおばあちゃんの日常を描いた、それだけの内容だ。ところが、その「つるおばあちゃん」をしわ一つない少女(または人形)として高野文子は描いたのだ。それでいて、動きはたしかに「おばあちゃん」なのだ! 新人・高野文子の「観察眼」と「表現力」に、ただ脱帽だった。(当時の高野文子の本職はナースだと聞いた。)
そしてもう一つ、僕にとってインパクトがあった理由… それは、その「つるおばあちゃん」の動きが、母の動きと重なってみえたことであった。
「母は、痴呆症なのかもしれない…」
その時、僕はそう思った。
高校を卒業して僕は家を出た。大学に入ったら、将棋部に入って…という夢を持っていたはずだったが、なぜかそうせず、僕は「漫研」に入った。
あとで考えると、それは僕にとって、「無意識のリハビリ」だったのだと思う。
僕の心とからだは、高校時代の3年間の間にすっかりその「芯」の部分が冷え固まってしまった。そのせいか、人としゃべるのがむつかしくなっていた。話しかけられても、応じる言葉が「なにも浮かばない」のである。頭の回転がのろくなって、それは、勉強をしていても感じられた。そうした事実さえも「考えない」ようにしていたが…。(無意識には自分でわかっていたと思う。)
家を出て、家の中にある「みえない無限の恐怖」から逃れたはずだった。だが、高校時代の3年間に、すでにそれ(「恐怖」)はしっかり僕の心の「芯」をとりこんでしまっていたのだった。考えること、感じることが、僕には出来なくなってしまっていた。
大学に入る頃には、僕の、将棋への好奇心はすでに薄れてきていた。たぶん、頭の回転がわるくなっていて、将棋を指してもそれ以上は強くなれないとどこかで見限り失望していたのだと思う。
それで「漫研」というわけだ。
ところで、僕は高校時代の3年間、あまり漫画を読んでいない。(本はまったく読まなかった) 弟が買って来る「少年ジャンプ」(週刊と月刊)、『ドカベン』(水島新司)の単行本くらいのものだ。小学校から中学にかけては、相当の漫画好きであったのだが…。(高校時代は『週刊少年チャンピオン』の黄金期だった)
大学で、酒と煙草を飲みながら漫画の話をするやつらがかっこよくみえた。(オタクという言葉はまだ存在せず、小学生男子のなりたい職業1位が漫画家、という時代だった。) 僕も漫画のことをしゃべりたかったが、しゃべる内容がなかった。「なにも心に浮かばなかった」からである。
彼らと漫画の話をしたい、そういう思いから、僕は、ガンバッて漫画を読むようになった。『火の鳥』(手塚治虫)も、『忍者武芸帳』(白土三平)も、『幻魔大戦』(平井和正・石森章太郎)も、萩尾望都『ポーの一族』もこの頃に読んだ。大友克洋が「ビッグ・コミック」の特別号に描いた『FIRE BALL』を喫茶店で読んだのもこの大学時代。少女漫画にエロ漫画、それから『ガロ』も読んだ。あの頃の大学には、まだ、「マスクにヘルメット」でビラ配り等をしている学生運動家がわずかにだが存在した。それも今では懐かしい。
そのうち、僕は漫画の絵を練習するようになった。もとが「ドヘタ」なので、練習すればその分だけいくらかは上手くなる。毎日毎日僕は鉛筆を走らせた。
思えば、漫画を読むのも、絵の練習をするのも、ガチガチになってしまった心身の「リハビリ」だったのである。「なにも考えることのできなくなった僕」の凍りついてしまった心の「芯」を、読むことで、描くことで、ほぐそうとしていたのである。(もちろん当時はそんなことは思っていない。) 「描く」という行為は、(何かを見て描き写すだけならば)何も考えないでよい。 それでいて、手を動かすから、脳に刺激を与えていく。「絵を描く」というのは、僕にとって、仮死状態になって干からびた「僕」を再生する作業だったのだと思う。
老人性痴呆には2通りの型がある。脳血管性痴呆とアルツハイマー型痴呆だ。おなじ「ぼけ」でも、この二つはまったく違った特徴をもつ。
脳血管性痴呆は、脳出血や脳梗塞などによって、脳に障害が生じるもので、記憶が一部欠けたり、部分的な機能障害が起こる。アルツハイマー型との決定的な違いは、脳血管性痴呆は「人格は破壊されない」ということだ。起こってもその破壊は「部分的」である。(まだら痴呆と呼ばれる)
アルツハイマーの場合は、「大脳の萎縮」によって起こる。この萎縮の原因はわからない。そして「人格が(全体的に)破壊されてしまう」という特徴がある。つまり、痴呆の症状がすすむにしたがって、家族のことを誰か理解できなくなるという「認知障害」が起きる。別人になってしまい、会話が成り立たなくなる。(ここが大変悲しいところだ。)
そのような知識は、ずっと後になって得たもので、当時の僕は何も知らなかった。
ただ『田辺のつる』を見たとき、その歩き方が、母を連想させた。まだこの時、母は歩けていたとは思う。が、ふらふら揺れながら歩いていた。
だが、アルツハイマーが発症するには、母の年齢(40代)は若い。いやしかし、アルツハイマーにも、「若年性アルツハイマー」というのがあると聞く…。
そんなことをちらと考えては、打ち消していた。
それからしばらくして、父から電話で、母を入院させたと聞いた。
「もう治らないんだな… 」
と(医者に聞かなくても)直感でそうわかっていた。
実家に帰ったときに、病名はなんというのかと、聞いた。父は紙にメモしていたその病名を読んだ。聞いたことのない病名だった。
大島弓子の『8月に生まれる子ども』という漫画作品を読んだのは、母が死んだ後のことだ。
主人公の女の子は種山びわ子という名前で大学生。この女の子が「猛スピードで老化していく病気」になる。どんどん年をとって、お母さんも飛び越して老婆になっていく。恋人とあそびに行く約束をしたのに…。記憶力もわるくなるし、身体も疲れるし、顔もシワシワで失禁までしてしまう…。
びわ子さんは自分がだれかもわからなくなってきた。自分はどうやらある大学生の男の子と仲が良くデートの約束をしていたらしい…。持草君というその男の子は「病気のことも知りましたが、今でも僕は会いたいと思っています」と手紙をくれた。
〔 いまは秋 これは男の子からの手紙
わたしは女の子で 18歳 種山びわ子という名前らしい 〕
それがこの漫画のエンディングだった。
それを読んだとき、僕はこう思ったのだった。
大学生の頃の「僕」は、まるで老人のようだったな、と
さらに今、思う。
あの「田辺のつる」に重ねた母のイメージ…あのイメージは本当は母ではなく、「僕自身」だったのではないか。このままほおっておいたらお前の未来はこうだよ…と、僕が僕自身に訴えていたのではないか、そんなふうに思うのだ。
あらためて『田辺のつる』を読んでみた。 …つるさん、かわいい。
「家族」にとっては、引っ掻き回されイライラさせられてしまう、そんなつるさんの言動も、ほんの少しの余裕をもって見れば、かわいくみえる。 こころは、不思議だ。 そうだ、こころの余裕があれば、いいのだヨ。
…「こころのよゆう」って、でも…、何だろ…?