はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

田辺のつる

2008年05月24日 | まんが
<林檎シリーズ・5>  「田辺のつる」

 大学時代に「高野文子」に出会った。まだ彼女が珠玉の第1作品集『絶対安全剃刀』を出す前のことだ。
 おそろしく切れのある漫画を描く人だとおもった。一番最初は『ふとん』だったと思う。これは「別冊奇想天外SFマンガ大全集」という雑誌に掲載されていた。次に読んだのが『田辺のつる』だった。
 『田辺のつる』は、「漫金超」という雑誌の創刊号に掲載された。この本は、大友克洋の赤青の2色漫画が巻頭を飾っている。当時人気の絶頂だったいしいひさいちも描いている。さべあのまひさうちみちおも僕の好きな作家だった。そういうわけで僕はこの新漫画雑誌の創刊号をすぐに買った。(今も持っている。) それらの漫画の中で、どれよりも印象に残ったのが高野文子『田辺のつる』である。
 漫画『田辺のつる』には、オチはない。呆けてきたおばあちゃんの日常を描いた、それだけの内容だ。ところが、その「つるおばあちゃん」をしわ一つない少女(または人形)として高野文子は描いたのだ。それでいて、動きはたしかに「おばあちゃん」なのだ! 新人・高野文子の「観察眼」と「表現力」に、ただ脱帽だった。(当時の高野文子の本職はナースだと聞いた。)
 そしてもう一つ、僕にとってインパクトがあった理由… それは、その「つるおばあちゃん」の動きが、母の動きと重なってみえたことであった。
 「母は、痴呆症なのかもしれない…」
 その時、僕はそう思った。


 高校を卒業して僕は家を出た。大学に入ったら、将棋部に入って…という夢を持っていたはずだったが、なぜかそうせず、僕は「漫研」に入った。
 あとで考えると、それは僕にとって、「無意識のリハビリ」だったのだと思う。
 僕の心とからだは、高校時代の3年間の間にすっかりその「芯」の部分が冷え固まってしまった。そのせいか、人としゃべるのがむつかしくなっていた。話しかけられても、応じる言葉が「なにも浮かばない」のである。頭の回転がのろくなって、それは、勉強をしていても感じられた。そうした事実さえも「考えない」ようにしていたが…。(無意識には自分でわかっていたと思う。)
 家を出て、家の中にある「みえない無限の恐怖」から逃れたはずだった。だが、高校時代の3年間に、すでにそれ(「恐怖」)はしっかり僕の心の「芯」をとりこんでしまっていたのだった。考えること、感じることが、僕には出来なくなってしまっていた。
 大学に入る頃には、僕の、将棋への好奇心はすでに薄れてきていた。たぶん、頭の回転がわるくなっていて、将棋を指してもそれ以上は強くなれないとどこかで見限り失望していたのだと思う。

 それで「漫研」というわけだ。
 ところで、僕は高校時代の3年間、あまり漫画を読んでいない。(本はまったく読まなかった) 弟が買って来る「少年ジャンプ」(週刊と月刊)、『ドカベン』(水島新司)の単行本くらいのものだ。小学校から中学にかけては、相当の漫画好きであったのだが…。(高校時代は『週刊少年チャンピオン』の黄金期だった) 
 大学で、酒と煙草を飲みながら漫画の話をするやつらがかっこよくみえた。(オタクという言葉はまだ存在せず、小学生男子のなりたい職業1位が漫画家、という時代だった。) 僕も漫画のことをしゃべりたかったが、しゃべる内容がなかった。「なにも心に浮かばなかった」からである。
 彼らと漫画の話をしたい、そういう思いから、僕は、ガンバッて漫画を読むようになった。『火の鳥』(手塚治虫)も、『忍者武芸帳』(白土三平)も、『幻魔大戦』(平井和正石森章太郎)も、萩尾望都『ポーの一族』もこの頃に読んだ。大友克洋が「ビッグ・コミック」の特別号に描いた『FIRE BALL』を喫茶店で読んだのもこの大学時代。少女漫画にエロ漫画、それから『ガロ』も読んだ。あの頃の大学には、まだ、「マスクにヘルメット」でビラ配り等をしている学生運動家がわずかにだが存在した。それも今では懐かしい。

 そのうち、僕は漫画の絵を練習するようになった。もとが「ドヘタ」なので、練習すればその分だけいくらかは上手くなる。毎日毎日僕は鉛筆を走らせた。
 思えば、漫画を読むのも、絵の練習をするのも、ガチガチになってしまった心身の「リハビリ」だったのである。「なにも考えることのできなくなった僕」の凍りついてしまった心の「芯」を、読むことで、描くことで、ほぐそうとしていたのである。(もちろん当時はそんなことは思っていない。)  「描く」という行為は、(何かを見て描き写すだけならば)何も考えないでよい。 それでいて、手を動かすから、脳に刺激を与えていく。「絵を描く」というのは、僕にとって、仮死状態になって干からびた「僕」を再生する作業だったのだと思う。


 老人性痴呆には2通りの型がある。脳血管性痴呆とアルツハイマー型痴呆だ。おなじ「ぼけ」でも、この二つはまったく違った特徴をもつ。
 脳血管性痴呆は、脳出血や脳梗塞などによって、脳に障害が生じるもので、記憶が一部欠けたり、部分的な機能障害が起こる。アルツハイマー型との決定的な違いは、脳血管性痴呆は「人格は破壊されない」ということだ。起こってもその破壊は「部分的」である。(まだら痴呆と呼ばれる)
 アルツハイマーの場合は、「大脳の萎縮」によって起こる。この萎縮の原因はわからない。そして「人格が(全体的に)破壊されてしまう」という特徴がある。つまり、痴呆の症状がすすむにしたがって、家族のことを誰か理解できなくなるという「認知障害」が起きる。別人になってしまい、会話が成り立たなくなる。(ここが大変悲しいところだ。)



 そのような知識は、ずっと後になって得たもので、当時の僕は何も知らなかった。
 ただ『田辺のつる』を見たとき、その歩き方が、母を連想させた。まだこの時、母は歩けていたとは思う。が、ふらふら揺れながら歩いていた。
 だが、アルツハイマーが発症するには、母の年齢(40代)は若い。いやしかし、アルツハイマーにも、「若年性アルツハイマー」というのがあると聞く…。
 そんなことをちらと考えては、打ち消していた。


 それからしばらくして、父から電話で、母を入院させたと聞いた。
 「もう治らないんだな… 」
と(医者に聞かなくても)直感でそうわかっていた。
 実家に帰ったときに、病名はなんというのかと、聞いた。父は紙にメモしていたその病名を読んだ。聞いたことのない病名だった。



 大島弓子『8月に生まれる子ども』という漫画作品を読んだのは、母が死んだ後のことだ。
 主人公の女の子は種山びわ子という名前で大学生。この女の子が「猛スピードで老化していく病気」になる。どんどん年をとって、お母さんも飛び越して老婆になっていく。恋人とあそびに行く約束をしたのに…。記憶力もわるくなるし、身体も疲れるし、顔もシワシワで失禁までしてしまう…。
 びわ子さんは自分がだれかもわからなくなってきた。自分はどうやらある大学生の男の子と仲が良くデートの約束をしていたらしい…。持草君というその男の子は「病気のことも知りましたが、今でも僕は会いたいと思っています」と手紙をくれた。
 〔 いまは秋  これは男の子からの手紙   
    わたしは女の子で  18歳   種山びわ子という名前らしい 〕
 それがこの漫画のエンディングだった。

 それを読んだとき、僕はこう思ったのだった。
 大学生の頃の「僕」は、まるで老人のようだったな、と

 さらに今、思う。
 あの「田辺のつる」に重ねた母のイメージ…あのイメージは本当は母ではなく、「僕自身」だったのではないか。このままほおっておいたらお前の未来はこうだよ…と、僕が僕自身に訴えていたのではないか、そんなふうに思うのだ。



 あらためて『田辺のつる』を読んでみた。   …つるさん、かわいい。
 「家族」にとっては、引っ掻き回されイライラさせられてしまう、そんなつるさんの言動も、ほんの少しの余裕をもって見れば、かわいくみえる。 こころは、不思議だ。 そうだ、こころの余裕があれば、いいのだヨ。
 …「こころのよゆう」って、でも…、何だろ…?
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双玉詰将棋 by 若島正

2008年05月23日 | つめしょうぎ
 この図は詰将棋作家・若島正さんの作で、第5回詰将棋解答選手権の問題の一つとして、今週の『週刊将棋新聞』に掲載されていたもの。(無許可で載せてすみません。たいへん感動したもので、紹介したくて。)
 5手詰めです。
 すぐに解答を書きますので、自力で解きたい方は、まず解いてからお読みください。
 僕は、長めの詰将棋は、初めから「答え」を見ることにしている。だけどこの問題は「5手詰め」とあったから、「それなら、解ける」と、考えてみた。

 「双玉」詰将棋だ。
 「玉」が二つ。つまり「あっち」と「こっち」、二つの「玉」がある。「あっちの玉」を詰めれば良いのだが、「流れ弾」に当たらないように気をつけなかければならない。そこが普通の詰将棋とちがうところだ。

 この詰将棋、▲2六馬の一手詰め!と行きたいところだが…それは、3一の香で「こっちの玉」を取られてしまう! ここが「双玉」のおもしろいところ。
 このままでは「馬」が動けない。それなら、3六に飛車を打ってはどうだろう?
▲3六飛、△1五玉…どうやらこれは詰みそうにない。
 それなら初手▲1三飛はどうだ? △同銀と取らせて▲2六飛…△1五玉に…▲2五馬としたいが、これはやっぱり△3七香(!)で「こっちの玉」を取られて駄目だ。うーん。
 じゃあ、初手▲1四飛か? ここは敵の角が効いている、△同角。そこで▲2六飛は詰まないから、▲3六飛か。うん、△1五玉と逃げたらこんどは「馬」が動けるから、▲2六馬。うん、詰みだ!
 しかし… ▲3六飛に△同角があるぞ。 …あ! ▲3六飛に△同角、そこで▲2六馬! よし、詰んだ!!

 答えを整理してみよう。

 ▲1四飛 △同角 ▲3六飛 △同角 ▲2六馬 まで5手詰め

 なるほどなあ~。おもしろいなあ。
 「角」の効きにわざわざ「飛」を打って取らせて、最後は▲2六馬、うまいもんだなあ! 
 こういう詰将棋をさらっと作ってしまうなんて、「詰将棋作家」ってすごいもんだなあ! (そんな職業はないんだけどね)
 何年か詰将棋を解いていると、「新しい!」と感じる詰将棋には出会えなくなる。とくに短い手数のものには。ところが、そうか、「双玉」という世界があった!

 僕はこの若島正作品に触発されて、きのう、双玉詰将棋を作ってみました。そして、なんとか、出来ました! 9手詰めです。詰将棋をつくったのは1年振りですが、出来上がったときの快感はなんともいえませんね!ああ、きもちいい!
 では発表、といきたいのですが、これ、9手に収まったので、LPSAの「詰将棋カレンダー」に応募してみようと思います。なので残念ながら、まだ、発表はできません。
 どうだろうなあ…見かけ、バラバラだからなあ。(前回は余詰めがあって不採用だった→「落選、の詰将棋」「ヨヅメにご注意!」)



 『週刊将棋』のその記事には、第5回詰将棋解答選手権のチャンピオンとして宮田敦史(プロ棋士五段)が輝いたことが報じられている。宮田五段は、4回出場して、その4回ともチャンピオンになっているというからすごい。宮田さんは、身体を壊したらしくしばらく棋士としての活動を休んでいたが、今期から復帰しています。頭の痛くなるような詰将棋をよろこんでほいほい解いて行くのだから、棋士としての活躍も当然期待できるところです。タイトル戦に出て難解な終盤を読む姿を披露してほしい。
 ところでこの詰将棋解答選手権、今回の問題は難問が多く、優勝した宮田敦史五段でさえ全問は解答できず、宮田さんは「負けた気分」とくやしそう。
 2位は奨励会員(プロ棋士のタマゴ)の黒川智記クン、3位は前回優勝の北浜健介七段。
 個人的な希望としては、この選手権の王座に、アマチュアの人(詰将棋の解答専門の趣味人)がなってほしい。
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これが名古屋戦法だ

2008年05月21日 | しょうぎ
 「花村流名古屋戦法」というのがあるそうだ。

 これは、『将棋世界』誌に数年前に連載されていた山岸浩史氏の「盤上のトリビア」で紹介されていたもの。
 山岸さんが升田幸三に関して調べていたことがあって桐谷広六段(升田幸三の弟子、現在は引退)の自宅を訪ねたことがあった。そこで、たまたま加藤治朗著『将棋新戦法』を見せてもらった時に発見したのがこの「花村流名古屋戦法」。
 「なんだこりゃあ!」
 自称「戦法オタク」の山岸さんは、そのネーミングに心ときめき、桐谷六段に「この本、コピーさせてください!」と頼んだ。が、断られた。コピーなんかしたら本がダメになってしまう。(古くてバラバラになりそうだから。)
 それで山岸浩史さんは国会図書館へ行ってみた。そこでもこの本は「複写禁止」のラベルが貼ってある。がっかりした山岸さんだったが、その本を読んでいると、期待通りに面白い。じゃあ…
 「書き写すまでのことだ!」
 山岸さんは、せっせと書き写す。「幕末の蘭学医になった気分」と山岸さん。
 そうした労の結果として「花村流名古屋戦法」(「清野流岐阜戦法」というのもある)が『将棋世界』に発表された。

 それが上の図の花村元司-大野源一戦(NHK杯・昭和30年)。

 花村元司九段は、元真剣師で東海(名古屋のとなりの静岡県)の出身。この名古屋戦法、むかし名古屋で流行っていたのかな? だれかこれを受け継ぐ棋士はいないものか…。


 森内俊之名人-羽生善治二冠の名人戦第4局が最終盤です。
 持ち時間が9時間もあって、たたかいが始まった頃には、残りの持ち時間が10分とか20分って… ワシには理解できん世界じゃ~。

 対局の場所は名古屋。
 一昨年の竜王戦で、藤井猛九段が「過去に、名古屋で勝ったほうが竜王戦を制している」と言っていたことがあります。その時も、実際その通りになりました。
 去年、森内名人が最終局を勝って、18世名人の資格を得たのも、愛知県の銀波荘でしたね。

 いま、午後9時になるところ。
 どっちが勝つのか? 
 羽生さんの手が震えているそうです。(羽生さんは、重要な対局で、勝ちになったときに手がふるえるという特徴がある。)


追記;
 そうか! ひらめいたぞ!
 「名古屋戦法」は、二つの「金」が左右に登って「しゃちほこ」のようだから、それで「名古屋戦法」なのだ!   ほんとか??…それで、いいのか?


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碌山美術館

2008年05月20日 | ほん
 きのうのこと。3冊の本を持ってコーヒーショップへ。3冊の本とは__
  ①『日本橋異聞』 荒俣宏著 (書店で買ったもの)
  ②『旧石器の狩人』 藤森栄一著 (図書館で借りたもの)
  ③『スワンソング』 大崎善生著 (同じく図書館で借りた)


 僕はこのように3冊くらいの本を持ってコーヒーショップに入るのが好きだ。どれを読むかは決めていない。

 ①『日本橋異聞』を買ったのは、日本橋(本所深川)に興味があるので。
 僕はTBSラジオをよく聞くが、木曜深夜のおぎやはぎの深夜放送もわりとよく聞いている。とりわけおもしろいのは、小木の嫁の霊感力の話。ご存知と思うが、小木サンの嫁さんは歌手森山良子の娘である。ナホというこの娘が、どうも霊感力が強いらしく、いろんなものが見えたり聞こえたりするらしい。夜に寝ているとポルターガイスト現象が起きるらしい。はじめはこの嫁だけが聞こえていたのが、そのうち一緒に寝ている小木サンにも、となりや階下の部屋から、ラップ音など霊が騒ぐのが聞こえるようになったという。はじめは「怖い」とおもっていた小木サンだが、毎日のことなので段々と慣れてきて、ある日、あんまりラップ音がやかましいので小木サン、「うるさーい! 何時だと思っているんだ!!」と大声で一喝したら、とたんに騒霊がやんだという。そういう具合に霊感の強い小木氏の嫁サンであるが、彼女が最も会いたい有名人というのが、荒俣宏なのだという。(←爆笑)
 荒俣宏氏の書いたこの本によると、『四谷怪談』というのは、四谷ではなくて、「深川」を舞台にした物語なのだそうだ。
 荒俣さんは、杉浦日向子(江戸風俗にくわしい漫画家、故人)と突然結婚して世間を驚かせたことがある。美女と妖怪、と僕らは思った。ところが、結婚して一週間でこの二人はわかれたらしい。

 ②『旧石器の狩人』、この本は3週間前に借りて、とても面白いので、期限を延長して借りてじっくり読んでいる。著者の藤森さんは長野県諏訪市生まれの人で、この本は諏訪湖の湖底にある「曽根遺跡」の謎の解明について書かれている。その中に、前に僕が書いた、相沢忠洋さんの「岩宿遺跡の発見」のことにも触れられている。

 ③『スワンソング』…これは大崎善生さんの小説だが、僕は初めて手にとった。これを借りたのは、別のある本に「藻岩山」という札幌にあるらしき山が出てきて、「藻岩山…どこかで聞いたことがあるな…大崎さんの小説じゃなかったかなあ…」と思って、図書館で大崎善生の本をざっと眺めてみたが、藻岩山の件はわからず、その時に『スワンソング』を、これはまだ読んでいない、と借りてきたというわけ。

 ところで、そのきっかけになった「ある本」というのが、三浦綾子著『道ありき』。そう、このブログの中で星野道弘さんについて書いたときに(→「水草」)、三浦綾子が出てきたので読んでみようと思ったのだった。『道ありき』は、三浦さんが20代のときの闘病生活を描いたものである。この時三浦綾子さんが入院していた病院から、「藻岩山」が見えたと書いてあったのである。この本は、彼女をふかく信仰に導いてくれた恋人が死に、その後、その恋人とそっくりな男性が現われて(三浦光世氏)、その男性と結婚するところまでを書いている。
 その『道ありき』を読んでその後、その続編である『この土の器をも』を読んだ。三浦綾子自伝「結婚編」である。
 三浦綾子さんは、ただの主婦(小さな雑貨屋もやっていた)だったが、『氷点』を書いて1000万円の賞金を得て、作家になった。当時の1000万円は今でいうと1億円ほどに相当するビッグな賞金である。その頃の生活が描かれているのがこの『この土の器をも』なのである。さて、この本の書き出し__、最初の1行目はこうなっている。

 〔青春とは自己鍛錬による、自己発見の時だと、臼井吉見氏は言っておられる。〕

 臼井吉見! うすい、よしみ!
 うおっ、またまた出たか…。 小説『安曇野』の作者である。(←何度も書いて恐縮だ)
 この『この土の器をも』を読んでわかったのだが、臼井吉見氏は、三浦綾子が大賞に選ばれたその朝日新聞の賞金1000万円の小説新人賞の審査員の一人なのだった。
 (それにしても、いきなり1行目から出てくるとは…!)

 というわけで、今回のブログ記事は、<安曇野偶然シリーズ>なのであります。(そんなシリーズ作った覚えはないのだがなあ。)

 さーて、それでは大崎善生『スワンソング』のこと。
 またまた出ました、偶然マジック!
 この小説、冒頭の場面は諏訪市の「諏訪湖」から始まるのである! そう、『旧石器の狩人』のテーマである、「諏訪湖」である! そして読みすすめると、やはり、安曇野も出てくるし、ユーミンの「中央フリーウェイ」も出てくるではないか! しかも主人公の恋人は「鬱病」で、そのために病院めぐりをしているシーンなのだった。
 (おいおいおい、なんじゃこりゃ)
 それにしてもこの偶然にはあきれてしまう…。

 この本を僕は3時間で読んだ。内容は「恋愛と死と憂鬱」という、いつもの大崎調。主人公の男は、二人の女性と恋愛する。はじめの女性と別れ、べつの女性と恋をする。この後のほうの女性が諏訪市の生まれなのだった。
 そして(やっぱり)その二人とも死んでゆく。(大崎小説では定跡手順だ。) 一人は自殺、もう一人は(主人公とわかれたずっと後に)ガンで。はじめから終わりまでほぼ全編、「ゆううつ」に包まれている小説だ。
 もし諏訪や安曇野という僕にとっての「偶然」がなかったら、このようなウツウツとした小説など、10分読んでやめていただろう。
 大崎善生氏の小説に限らず、恋愛が小説になる場合、恋愛のウキウキした部分は描かれず、うっとおしい部分が主に描かれる場合がほとんどだ。きっとそういうのが、読者に求められているんだろう。恋愛小説好きというのは、実は「ゆううつ」好きな人々なのではないか。というか、「ゆううつ」を抱えて生きている大人が世の中に多いってことだろう。

 『スワンソング』は、まあ、そういう憂鬱な話だ。
 その憂鬱も、少し「明るい兆し」が見える場面が最後のほうで描かれている。そのシーンは、主人公がある美術館のベンチに座っているシーンである。この美術館というのが、(なんと!)安曇野にある「碌山美術館」なのである!(ろくざんびじゅつかん、とよむ)

 なぜ、僕は驚いているのか。
 「碌山美術館」とは、萩原碌山(守衛)の美術館であり、碌山=萩原守衛(ろくざん、おぎわらもりえ)は安曇野出身の芸術家で、小説『安曇野』の主人公の一人なのである。



 相馬黒光(そうまこっこう)が、安曇野の相馬愛蔵の元へ嫁いで来たところから小説『安曇野』は始まる。黒光が嫁入り時に持っていったものの一つに一枚の画がある。それが『亀戸風景』(長尾杢太郎作)という絵画作品で、萩原守衛は、その絵を見てショックを受ける。そして、芸術家への道を進むことになる。その後、萩原守衛は、ヨーロッパへ行き絵の修行をし、そこでロダンの彫刻、とくに『考える人』に感動し、彫刻を始める。日本へ帰り、相馬夫妻のパン屋「新宿中村屋」に住み込み、芸術活動を行う。そしてその場所で、ある日、喀血し、この世を去る。30歳であった。
 碌山(萩原守衛)の代表作は『女』という彫刻作品だが、このモデルは、相馬黒光である。萩原守衛は、黒光が安曇野へ来たときから、ずっと彼女のことを慕っていたようで、人妻である黒光に結婚(つまりダンナとわかれて俺と結婚してくれ)をせまっている。そうした萩原守衛の生涯が臼井吉見の『安曇野』に描かれている。傑作といわれるその『女』を僕も見てみたいのだが、たぶん、「碌山美術館」に行けば見られるのだと思う。
 相馬黒光という女性は、「芸術家を刺激するなにか」を持っていたのだと思われる。「刺激」とは、恋であり、狂気である。芸術家という人々は、平凡をつきやぶるような狂気を求めているところがある。萩原守衛の友人高村光太郎は、彼を死に至らしめたのは黒光であると、相馬黒光のことをひどく嫌っていたという。そのことも『安曇野』に書かれている。
 萩原守衛が死んだのは、明治43年4月。萩原は、新宿中村屋の裏庭にアトリエを建設中だった。ここに友人の中村彝(なかむらつね)を呼んでともに芸術活動に励む予定であった。大正時代に入って、このアトリエに、インド革命家R・B・ボース(のちに相馬夫妻の長女俊子と結婚)を匿うことになる。
 明治43年4月(1910年)といえば、ハレー彗星が夜空に見えていた頃である。その年の8月には関東は大雨となり、利根川も、多摩川も氾濫した。岡本一平が多摩川を渡ってかの子に求婚したのが、この時である。そしてこの時期、70歳の川の聖・田中正造は、利根川一帯の治水について調べていた。
  あ、そうだ、荒俣宏『日本橋異聞』には、高村光太郎は明治43~44年に、日本橋に住んでいたと書いてある。それは、荻原守衛が死んだ後…かな?


 上の写真は僕が20数年前に撮ったらしいもの。写っている(マンガ化している)のは僕で、どうやら穂高駅前らしい。確かに上高地には行ったことがあるが、この写真を撮ったことは覚えていない。この写真が出てきたのは、今年の1月に、「与論島の孵化したウミガメの写真」をさがしていた時である。その時に、気がついた! この写真の中に、「碌山美術館」という案内板が写っているではないか!
 僕は碌山美術館に行ったことがない。なにしろ萩原碌山という人物を、僕は1年前でさえまだ、知らなかったわけだから。なのに、偶々(たまたま)、20数年前に僕はこの案内板と一緒に並んで写真に写っていたというわけだ。

 ジンセイって、ふしぎだなあ…。
 僕は、ジグソーパズルでも、やっているのだろうか。


 ところで、この写真の案内板の「碌山美術館」の下には、「井口喜源治記念館」というのがみえる。この井口喜源治という人も、『安曇野』の主人公のうちの一人で、教育者だそうである。
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白い芋虫

2008年05月18日 | はなし
<林檎シリーズ・4>  「白い芋虫」

 まず、ある小説の一片から。


 《いつの頃からか、私の胸のなかに一匹の毛虫が棲みついてゐる。いや、毛虫ではない。毛の代はりに、全身ちかちかと光る白雲母の粉末のやうなものに覆われた芋虫だ。その芋虫が、胸のなかの暗がりで真っ白に輝いてゐるのが、私には見える。まるでレントゲンで透かしたやうに。

 私は知ってゐる__それが去年の夏期講習の最終講義で産みつけられたから孵(かえ)った、自分自身の劣性遺伝質の結晶だといふことを。卵は、私が孵化(ふか)したのだ、片時も離さずに暖めて。だから自業自得だが、ほかにどうすることができたらう、この私に?

 芋虫はまるまると肥え太っていゐる。胸のなかに湧いてくる意志や勇気や希望や夢を、片つ端から食ひ尽くすからだ。胸のなかには、もうなにもない。なにも湧いてこない。食ひ荒らされて、ぼろぼろになって、いまはただ芋虫の排泄物の悪臭が充満してゐるだけだ。

 ああ、この芋虫を胸のなかからつまみだせたら。せめて、この芋虫に…(以下略)》

   (三浦哲郎著『白夜を旅する人々』)



 遺伝なのではないか?
 遺伝だとしたら、どうしよう?
 遺伝だったら、僕の未来は… ??

 そんな疑問はずっとありました。僕のこころの片隅に、ずっと。気になって仕方ない壁のよごれのように、ありました。
 僕はそれに、ホワイト(修正の白)を重ね塗りして、みえないようにしていたけれど。それについて調べるのは、もっと怖くなる気がして、なかなかできなかったです。



 小説『白夜を旅する人々』___。
 れん(れん、という名の娘)は、気づいてしまった。
 姉のるい、妹のゆう… 先天性色素欠乏…。生まれつき、視力が弱く、白夜の世界に生きているような…髪も、眉の色も白く、身体は疲れやすい。
 その二人にはさまれて生まれた次女れんは、そうではない。けれど18歳まで大きくなったとき、考えてしまった。 自分のなかの… 芋虫… 。


 この、れんの憂鬱は、僕のなかの「みえない恐怖」とにていると、読んだとき、感じました。(読んだのは20代後半です)
 この憂鬱は、だれのせいでもないのです。
 (それがまた、困るのだ。たたかう相手がいないから。)


 この物語はどうやら、小説といっても、ほとんど作者の家族の実体験を書いたものらしい。東北・青森の呉服屋に生まれた六人のきょうだい達が主人公だ。この小説の中で、次女れんにかわいがられて育つ幼い弟羊吉(ようきち)が、作者自身のようである。
 れんは、死ぬことに決めた。 まだ言葉のわからない弟に、れんは話しかける。


 《姉さんなあ、もう駄目なのよ。ぼろぼろなの、毛虫に食い荒らされた樹みたいに。もう青い葉っぱは一枚もない。だからこれ以上ここにいてもしかたないの。なんの望みもないし、なんの楽しみもないし、黙って枯れるのを待つばかりだから。… 》


 著者の三浦哲郎氏は、青函連絡船の航路のあった海峡を、「あの場所は、私にとっては、聖地」と言っています。
 
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オシラサマ

2008年05月17日 | ほん
  … この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止まれる鳥を落としなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。

 昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝、つひに馬と夫婦になれり。

 ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。

 その夜娘は馬のをらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋(すが)りて泣きゐたりしを、父はこれをにくみて斧をもちて後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。

 オシラサマといふは、この時よりなりたる神なり。
 馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。 …

  (柳田国男『遠野物語』より)



 『遠野物語』は、民俗学者として有名な柳田国男が、明治42年(1909年)に東北の遠野(岩手県)生まれの友人佐々木喜善から話をいくつも聞いて、それらを記録してまとめたものである。
 この本には「ほんとうか!?」と驚くようなふしぎな話が詰まっている。上の「オシラサマ」の話は、「六九」番の話である。
 しかし、「木に止まった鳥をまじないで落とす老婆」って…  うひゃぁ…!!

 それから、「オシラ遊び」というものもあるそうだ。
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ヒ一族

2008年05月16日 | ほん
「行くぞ」
 龍馬が地を蹴って奔った。北辰一刀流が流麗な弧をえがいて老人の胴へ向かう。今度は老人の剣がそれを払う。二人はまたとびすさって睨み合う。
オシラ… オシラ
 龍子が奇妙な抑揚をつけて叫んだ。
「莫迦め。昼日中からオシラサマが出て来るものか」
 夢幻斎が言ったとき、さんさんたる四月の陽光を浴びた霧島山頂に、不思議な靄が押しよせて来た。
 霧はみるみる濃くなり、その中に、ひとつふたつみっつ…目も鼻もなく髪もなく身に一糸もまとわぬオシラサマの姿が湧きあがって来た。
オシラ… オシラよ。その老人を殺しておくれ」
「何をする、これ龍子。やめさせい」

 (半村良著『産霊山秘録』より)


 『産霊山秘録』(むすびのやま・ひろく)は、「ヒ一族」(ひ・いちぞく)を主役とした伝奇大河小説。「ヒ」とは、天皇を陰から護る忍者の一族。
 「ヒ」の血を受け継ぐ彼らは、御鏡(みかがみ)・依玉(よりたま)・伊吹(いぶき)の、三種の神器を扱い、産霊山(むすびのやま)という霊力を持った山を、飛ぶ(←テレポート)。
 この物語では、「オシラサマ」は、ヒ一族の女性形で、彼女らは、日の光に当たると消えてしまう存在。
 明智光秀、藤堂高虎、山内一豊、坂本龍馬も、ヒ一族だったそうな。アポロ11号の月面着陸の陰にも、ヒの活躍があったんだとさ。


 半村良の小説の特徴は、血、黄金、超能力、かな?
 人情、ホステス、というのもある。
 半村さんはこの作品で第1回泉鏡花文学賞を受賞している。直木賞作家でもある。(→『新宿馬鹿物語』


追記;
 上の絵のシーンは、龍馬とその恋人お龍夫人(この小説では龍子)が、結婚することになって、新婚旅行に九州の霧島山頂へ行ったときに現われた、龍馬の暗殺をたくらむ老人(お龍の父なのだが)とのたたかいのシーン。もちろんこれは半村さんの「妄想」で、でも、坂本龍馬とお龍さんが霧島山に登ったのは本当。(龍馬ファンなら常識ですが。)
 で、今ラジオのニュースで知ったのだけど、この「お龍さんの30歳の頃の写真」が見つかったんですってね! わお、グッドタイミング!
   →新聞記事「若い日の「お龍さん」写真は本物?警察庁科警研が鑑定
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みえない無限の恐怖

2008年05月15日 | はなし
 どうもうまく書けないので気持ち悪い。それなら、書くのを止めれば、というところだが、止めてしまうともっと気持ち悪い気がする。(できれば、一気に書いてしまいたいが…。) とにかく、書きだしてみよう。

 この話(母の病気のこと)を、<林檎シリーズ>としておきます。(とくに意味はないです。)

 <林檎シリーズ・1> → 「ある日曜日の朝のこと
 <林檎シリーズ・2> → 「リンゴの白い花


<林檎シリーズ・3> 「みえない無限の恐怖」 

 前回、「ハッキリした問題は何もなかった。」と書いた。
 そう書くと、ブログ読者には、僕の高校時代には、家庭内の問題はたいしたことがなかったように思われてしまうだろう。ところが、そうではないのだ。そこのところがいちばん「わかってもらいたいところ」なのだが、それが上手く書けそうにないので苦吟している。
 「事件」というようなものは、何もない。だが、日常的に、「みえない恐怖」がつきまとっていたのだ。「恐怖」というものは、その、正体がわかれば、戦える。行動できる。だが逆に正体がいつまでも見えないと、「恐怖」はいつまでも続き、こっちはじっとして震えるばかり。その間にそいつは無限の拡大をはじめる…。映画『エイリアン』でもそうだったが、その敵の、全体の姿が見えるまでが、もっとも怖いのだ。その「もっとも怖い時間」が僕の家庭では長々と何年も続いた…。
 だいたい僕は、「恐怖」に包まれているという自覚もはじめはなかった。だが、後で考えると、確実に、僕は「恐怖」のために、タマシイが(あるいは神経が)凍りついてしまったのである。気がついたときは、もはや、全身が動かなくなっていた。

 家のなかで日常的に、ゆっくりと何かが積み重なって変化しても、なかなか気づかないものなのだ。
 たとえば、田舎の家へ行ってカエルの声がうるさくて「こんなところでよく眠れるなあ」と思ったりする。あるいは、海のそばの潮騒。あるいは、道路のそばの車の通る騒音。 ところが一週間もそこで過ごすと慣れて気にならなくなる。人間というのは、そういう具合に、「気になること」は、「気にならない」ようにと調節する機能が自然と働くのだ。
 だから、僕の家では、母が妙な動きをしていても、はじめはそれを「変だな」と思っても、いつかそれが見えなくなっていたのだ。目の前で、母が「妙な動き」をする…それでも、僕らはそれが「見えなかった」のだ。
 僕が高3の時には、母はあきらかにおかしかった。歩き方が変だった。言動も変なことがあった。他人が見れば、おそらく、すぐにわかったはずだ。近所の人も気づいていただろう。だが、母は歩いているし、家事もしているし、痛みがあるわけでもない。僕らは平然と暮らしていた。いつも通りに。

 本当は、僕は気づいていたのだ。気づいていながら、僕のタマシイは「恐怖」に凍りついて、もはや「変だ!」などと言い出せなかった。おそらく、家族の他の者も同じでは、と思う。(ここのところは、よくわからない)

 ところが父は明るかった。ずっと変わらず明るかった。
 この「明るさ」がクセモノで、だから僕らは「なにも問題がないのだ」と勘違いしてしまった。本当はそうではないのだが、そう思うほうがラクだったから。
 結局のところ、後から考えれば、母を病院につれていけばよかったわけだ。そうすれば「恐怖」の正体も明かになったはず。
 だが、だれも「変だ!」と言わないし、父も平然としていた。僕は「とりあえずやるべきことをやろう」と受験勉強に打ちこんだ。(が、実際はあまり集中できなかった。だらだらとラジオを聞いて過ごしていた。) その頃の僕の家庭は、暗くはなかった。明るかったのである。だが、心の隅で、「妙な動き」をする母を避けていたのである。
 まあ、そのような「みえない微妙な空気」に包まれていたのである。その「空気」こそ、僕が恐怖していたものなのだった。

 なぜ、父は、母を病院に連れていかなかったのか? (その数年後に、親戚の人に言われてやっと病院に行く)
 母が死んだのは、僕が30歳の時だが、その何年か後に、僕はその疑問を父にぶつけてみた。(それまで、あの頃のことはあまりつっこんで話してみなかった。) 
 答えを聞いて僕は驚いた。
 どうやら父は、母の症状に「気づかなかった」らしいのである! 「信じられない…!」それを知って僕は唖然とした。 気がつかないって、そんなことがあるだろうか!? 父と母は毎日同じ部屋で寝ていたのに!! あれだけ、妙な動きをしていたのに! それが親戚の人に言われて、初めて「病気のようだ」と気づいたらしいのである…! 15歳の時に僕が「あれ?」と感じてその後5年以上、気づかなかったことになる。ありえない…と思うのだが、どうやらほんとうらしいのだ。
 僕は父が、わかっていたのに、言うタイミングを失ってしまったくらいに理解していた。ところが、父は、どうやら本心から「気づかなかった」と言うのである。(聞いてみないとわからないものだなあ、と僕は思った。)
 「そういうことだったのか!」
 その時期まで、僕は母の件で、父に対していくらか「うらみ」のような感情を持っていたが、それは消し飛んだ。あきれた。
 たぶん、父は、「明るさ」の中に逃げこんだのである。誰よりも早く、「母の異常」に気がついたのかもしれない。そして、その瞬間から「明るさ」だけを取り、「いやなこと」はいっさい見ないことにしたのである。父にとって、「母の病気」というものは、自分の器を超える巨大なものであると直感的に悟り、一切考えない感じない見えないとすることで、自分の「心身」を守ったのである。
 そうか、父は、この男は、カンペキに都合の悪い事実を消し去って生きていたわけか…。
 ずるい、といえば、ずるい。大人が、「父親」である人間が、いちばんに逃げこんだのだから。
 だが、僕は、自分が大人になって、「大人」というものが、じつはたいしたことがないのだと知っている。精神的には、「子どもとたいしてかわりがない」ということを知っている。10年や20年多く生きていたからといって、それで強くなれるものでもないのだ。
 父も、「恐怖にふるえるただの子ども」にすぎなかったのだ。
 また、父と話したときに、「結婚生活はどういうものだったか。大変だったか。」というような問いかけをしたことがある。その時に父はこう言った。「結婚生活は、楽しかった。とにかく、楽しかった」と。その言葉を聞いて、僕はこの件に関して父のことを全部ゆるすことにした。「それなら、母の結婚生活も幸せだったんだろう」と思ったからである。母に幸せな時間があったことが確認できれば、その分だけ、僕のこころは安らぐ。自由になる。ああ、母も、たしかに幸せだったのだ。

 さて、高校時代の僕。
 そんな母を見て、僕はいやでも「おかしい」と気づいている。ところがその頃、僕自身がだんだんと口が重くなって、頭の回転も遅くなり、うまくしゃべれない。まあつまり、タマシイが凍ってしまったのである。全身の神経細胞がちぢこまってしまったのである。魔法をかけられたように、僕は無能な人間になっていった。
 僕の抱いた「恐怖」の一つに、「母は精神病ではないか」というのがある。
 その当時の僕にはその方面への知識はまったくない。ないからこそ、その茫漠とした「恐怖」は、僕の中にある「想像力」を食料として、無限に巨大化していく…。もし精神病だったとしたら、この先、この家はどうなるのだろう…。
 結果的には、精神病ではなかったし、そうだったとしてもそれに対処していけば良い。こういう問題に直面した家は自分の家庭だけではないのだ。そういうことが当時の僕にはわからなかった。
 「わからない」というのは、怖い。「わからない」ままに放って置くということが、最悪の処置なのだった。そのせいで、「自分」の心身が「無限の恐怖」に凍りついてしまった。
 (これは誰のせいでもなく、自分の生き方がぬるかったせいだと思っている。「生きる」ということに関して、僕は油断していたのだ。受験勉強など、やってる場合じゃなかった。)

 母にはかわいそうなことをした。僕は正体のみえないその病気を無用に怖がり、そのために嫌な視線で彼女に接していただろう。家族にそのような「妙な」態度でいられては、母は精神的にまいってしまっていただろう。それで妙なふるまいがあったとしても当然なことなのである。
 (そんなふうに思えるのも、後々になってからだ。言い訳をさせてもらうと、その当時の僕の立場は「自立をめざす」年頃であった。だから、母をうとましく思うことも健康な家庭ならば「ふつう」なのだ。)
 彼女はその頃には、自分の身体が「変だ」と気づいていただろう。手がふるえてうまく家事ができない。うまく歩くことができない。食べものを飲みこむのがむつかしくなった…。だが、家族はいつも通りに日々を暮らしている。彼女もまた、いったんは異常に気づきながらも、それを打ち消し、「何も問題ない」としてあの時期を生きていたのだと思う。 
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甲斐智美

2008年05月14日 | しょうぎ
◇マイナビ女子オープン(5番勝負)
   矢内理絵子 3-1 甲斐智美

◇女流王将戦(5番勝負)
   清水市代 1-0 矢内理絵子


 マイナビ女子オープンは矢内理絵子女流名人の優勝!(賞金500万円)
 矢内さんは、五番勝負の開幕前のインタビューで、賞金の使い道について「貯金かな」と答えていました。その堅実さが、同じ質問に対して「世界旅行」と答えた甲斐智美さんの勢いを制しました。
 最近、甲斐さんはとてもよく勝っていて、目立っていました。もともと勝率の良い棋士だったのですが、「そのわりに目立たないなあ、名前も強そうなのに」、と僕は思っていましたが、ゴキゲン中飛車を中心とする振り飛車を指すようになって一皮むけたのでしょうか。ですから、彼女を描かなくては、と思いつつ、なんとなくここまで延ばしてきて、結局負けた後に描くことになってしまいまして…御免なさい。甲斐さんの師匠は16世名人・中原誠。
 それにしても、矢内さんは勝負強くなりました。

 ここで、通算勝率6割以上の女流棋士を上位から並べてみます。

 1 清水市代 .735 (422勝 152敗) ←女流王将、倉敷藤花
 2 中井広恵 .676 (481勝 231敗)    
 3 甲斐智美 .662 (104勝 53敗)   
 4 里見香奈 .662 (45勝 23敗)  
 5 石橋幸緒 .659 (280勝 145敗) ←女流王位 
 6 千葉涼子 .653 (260勝 138敗)  
 7 斎田晴子 .646 (389勝 213敗)  
 8 岩根 忍 .640 (55勝 31敗)   
 9 矢内理絵子 .636 (265勝 152敗) ←女流名人、マイナビ優勝   
10 中村真梨花 .621 (64勝 39敗) 

 こんなふうになっています。こうしてみると、清水さんの強さが飛び抜けているとわかります。甲斐さんは3位。
 そして、矢内女流名人の勝率がそれほどではないことも。ところが、彼女のここ数年の安定感は素晴らしい。ここに、矢内さんの不思議さ、魅力があります。
 また、甲斐さん、里見さん、岩根さんらは、いつタイトルを獲ってもおかしくないですね。でも、なにか物足らない気もします。

 清水市代を超える強い女流棋士は、この先、現われるのでしょうか?
 (そろそろ現われてほしいよね)



◇棋聖戦挑戦者決定戦
   羽生善治 ○-● 久保利明(←またしても羽生に…)
 羽生さんが棋聖戦でも挑戦者に。(棋聖位は佐藤康光。)
 この前の日曜日、羽生さんがネット棋戦で「時間切れ負け」をして話題にもなっています。(僕も観戦していたのですが…。) 羽生の将棋はなにが起こるかわからない! 目が話せませんね!

 羽生善治二冠の他には、橋本崇載、山崎隆之、阿久津主税ら(いずれも20代)が好調です。橋本七段は王位戦の挑戦者になれるのか!? いや、王位戦の挑戦権もやっぱり羽生なのか!? というところが、見どころ。

 
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リンゴの白い花

2008年05月13日 | はなし
 1年前にも書いたけど、リンゴの白い花が咲くのがこの季節。ということで、リンゴの花を描いてみました。


 さて、「母に起こったこと」を書くとしてみた(→『ある日曜日の…』)のだが、…困った。書きたいのだが、じつは、書くことがほとんどない。
 母はいわゆる「不治の病」で死んだ。とはいっても「不治の病」にも色々ある。そして、同じ病気であっても、その人の性格と、年齢と、家族の対応によって、まったく違った状況になる。そういったことを考えたいのだが、そのために僕が書くべきことは一般的な病気の症状ではなくて(それは医学書を調べれば書いてある)、「具体的な事実」なのだと思う。が、それがむつかしいのだ。
 ああ、困った。

 前回、僕が15歳の前に、彼女について、「おかしいな」と思った最初の事を書いた。それは僕が中3の時で、その後3年半の間、僕は家族と住んでいた。その間、母は「主婦」として仕事をこなしていた。まだ、病院にも行っていない。彼女も、父も、僕ら息子娘も、「病気」として認知していなかった。(こころの隅でそうではないかというのはあったはず)
 ただ、「変だ」というのは、僕が高校を卒業する時にははっきりとわかっていた。だが、それが「なんなのかわからなかった」のである。その3年間に、「僕が知っている具体的な事件」というのが、実に少ないのだ。

 この病気は、じつにゆっくり進む。だから最初の何年かは、まったく病気とはわからない。(本人が訴えるとかすれば別だが。)
 もともと母は、不器用であり、失敗も多かった。その失敗がすこし増えたところで、だれもそれが病気とは思わない。「気つけて!」と注意するだけだ。
 母は器用ではないので、料理も上手なほうではない。しかし、味付けはわるくないし、工夫もしていたので、まあ人並みの家庭料理だったと思う。それがある時(僕が高校2年くらいのとき)に気づいた。「あれ? なんか、料理、むかしより下手になっていないか?」 どうもそんな気がするのである。それにおかずのレパートリーがだんだん少なくなってきている…。
 彼女の「変化」はそんな具合に極めてスロウであった。

 僕は高校生になって、夜更かしが多くなった。まあ、ふつうといえばふつうだ。勉強したり、ラジオを聴いたりして3時頃まで起きていた。そんなに起きていれば腹が減る。それである日、台所へ行って、ラーメンでも作ろうと、戸棚を開けた。
 僕はびっくりした。
 普段は見えない、その戸棚の中がグチャグチャだったのだ。母が、元々そういう性格だったら「あーあ…」と思うだけだ。しかしうちの母は、働き者で、だからたいていの場所はきれいに掃除できている。だから僕は驚いた。この、見えないこの場所だけが、グチャグチャなのだ。そんなことはそれまでには、なかった。
 「これは、どういうことだ?」
 僕は、見てはいけないものを見た、という気持ちになった。

 そういうことの積み重ねで、僕は彼女のことを「おかしい」と気づいていった。
だが、その「おかしさ」が、何なのかわからなかった。病気なのか?とはあまり考えなかった。少なくとも大きな問題は一つもない。飯がちょっとまずいとか、その程度だ。
 僕が高校時代におぼえている「具体的なこと」は、その程度しかないのである。


 たしかに、ハッキリした問題は何もなかった。

 だが、「おかしい」、という事実もまたハッキリしていた。たしかに母は変だった。もっとよく見ればそれはわかったはずだが…、僕は、見たくなかった。
 もやもやとした塵のような嫌な感じが、僕の心の奥に溜まっていった。後々考えると、これが実は大問題だったのだ! 初めは「塵」でも、気がつけばそれは、「巨大な岩塊」になっていた。
 高校時代の僕は、クラスで2番目にしゃべらない男になっていた。(1番しゃべらなかったN君は、たぶん元々そういう男なのであった。)
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和銅!

2008年05月12日 | はなし
 荒川を上流にさかのぼると、埼玉県の西部に達する。この山岳地域を「秩父」といい、ここに「和銅遺跡」がある。ここで「和銅」が発見されたので、それが大和朝廷に献上された。それが「おめでたい!」というので、元号が「和銅」になり、刑に処せられていた人が解放されたり、和同開珎が造られて発行された。708年のことである。
 「和銅」とは、なにか?

 3世紀ぐらいに、日本列島では、銅剣、銅矛、銅鐸がいくつも造られたことが判っている。青銅器である。銅にいくらかすずをまぜたもので、そうすると丈夫なものになる。ところが、その青銅の材料になる「銅」をどこで採掘したかとなると、日本には見当たらない。(鉄は出雲などで採れた) どうやら、朝鮮などで造られた青銅器を溶かして造りなおしたらしい。この時期、青銅や鉄の精錬技術は、朝鮮半島で発達していた。
 まあ、それで、日本でも「銅を発見せよ」と全国におふれを出した。
 そしたら、秩父で見つかって、見つけた朝鮮人がそれを大和に献上した。これがめでたい「和銅」である。しかもこの和銅は80パーセント以上が銅という超良質な自然銅で、だからむつかしい精錬技術を必要としなかった。その意味でも、大変におめでたかったのである。 (つまりこの銅山は鉱毒も発生しない)

 ちなみに「和銅」の次の元号は「霊亀」で、この時には、大変めずらしい亀が献上された。「左の眼は白く、右の目は赤く、…背に七星を負い、…」 たしかに、めでたい。(ほんとうなのか?)

 8世紀初頭のこの時期、権力を掌握していたのは藤原不比等(ふじわらのふひと、中臣鎌足の息子)だと言われている。
 701年(大宝元年)には「大宝律令」が完成し、712年(和銅5年)には『古事記』を完成させている。梅原猛は、この『古事記』の作者もこの不比等だと言っている。(この説がどれほどの支持を得ているのかはしらない) 「不比等」とは「ほかに比べるものがないほどのすごいやつ」というような意味らしい。(自分で付けたのか?)
 藤原不比等という男は、この「律令政治」を完成させた、いわば「権力のデザイナー」だったのである。「銅の鉱脈をさがせ」というのも、元号を「和銅」と呼びお祝いしたのも、その一環であろう。

   

 この不比等から1世紀をさかのぼれば、聖徳太子がいる。聖徳太子にしても、不比等にしても、日本の「文字による文明」の基盤をデザインしたのである。(聖徳太子の記した歴史書は焼失して残っていないそうだ)
 この古い時代、強い豪族は大和だけではなかったはずだ。一地方の一豪族である大和の「天皇」が、今も日本の中心に位置しているのは、この大和の豪族が「すすんだ文字文化」を持っていたからではないだろうか。記紀(『古事記』と『日本書紀』)は歴史書であり、同時にすぐれた文学でもある。文字は後世に残る。すぐれた文学が残れば、その家系が正統のものであるように輝いて見えるものである。

 聖徳太子や、柿本人麻呂、菅原道真という人が、その死後も畏れられたのは、かれらが「文字をあやつる大魔法使い」だったからだろう。


 ん? 銅のはなしが、なぜか文字のはなしになった。
 現在の日本は、銅輸入国である。その半分以上は「銅線」として電線に使っているらしい。
 10円玉は95パーセントが銅なんだと。その図案の建物は平等院鳳凰堂で、京都にあるこの建物は、不比等の子孫の藤原氏が11世紀に建てたものである。「不比等」←→「平等院」というつながりが、おもしろい。

 それにしてもワタシは、なぜにこんなことを書いているのか。
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銅将

2008年05月10日 | しょうぎ
 将棋には「玉将」があって、「金将」、「銀将」があります。大切な「玉」を、「金」が守り、その横に「銀」が控えています。

 では、「」はないのでしょうか?
 じつは、あります。 上の図のような動きをします。(1マスだけ動ける)

 古い将棋…「大将棋」「中将棋」という今の「本将棋」よりも盤の大きな将棋の駒の中にあるのです。ルールもしっかり判っています。
 「大将棋」は15×15の盤で、駒も多く、指すのも大変です。
 「中将棋」は12×12の盤で、駒の種類は21種類(今の将棋は8種類)。この中将棋は、現代でも愛好者がいる。故人だが大山康晴15世名人も大好きだったそうである。(升田幸三も指したことがあるが、「性に合わん」と言っていた) 
 中将棋、大将棋は今の「本将棋」と違って、取った駒を再使用は出来ません。つまりいつでも、「持ち駒」なし、です。


 僕はこの中将棋、指したことはないが、いつかおぼえて指してみたいと思っている。なにしろ面白いのは、今の将棋にない駒が色々とあるからである。

 「銅将」(どうしょう)は、中将棋・大将棋の駒である。中将棋には「盲虎」とか「猛豹」などがあるし、大将棋には「悪狼」、「猫刄」がある。

 こういうのを見ると「面白い」と思うのだが、「大将棋」となると指している人はほとんどいない。おぼえるのが大変だし、ルールを知っている人に出会うことが難しい。出会ったとしても、問題は、一局に時間がかかりすぎることだ。
 しかもその浪費した時間に見合うほどは、おもしろくない(と思われる)。

 最も盤面の大きな将棋は「大局将棋」とよばれる36×36マスのもの。これはフジテレビの番組『トリビアの泉』の中で、関西のプロ棋士伊藤博文と安用寺孝功によって指されたことがある。僕もこの番組を見ていたが、対局時間32時間41分、総手数3805手というからすごい。歴史上、この将棋を指した記録はこれまでに一つもないので、これはその意味でも貴重な対局であった。最後のほうは、二人ともぐったりして、早く終わりたいために協力して指していたが、それでもこれだけ時間がかかる。
 だれかが冗談でこんなアホな将棋を作ったんでしょうね。冗談も何百年後に貴重な史料となる。冗談がくだらぬ法律になって、ギリギリと人を苦しめることもある。

 「石将」、「鉄将」なんてのもあるゾ。

 
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Habu Magic !

2008年05月09日 | しょうぎ
◇名人戦 
   森内俊之 1-2 羽生善治


 夕食時には「森内、圧倒的に優勢」ということだった。
 でも僕は、「おれが森内側だったら、優勢でも逆転負けする将棋だな」と思ってみていました。こういう、森内陣のような将棋を僕はよく指していたのですが、大体、逆転負けするのです。「すこしくらいの優勢でも、思ったほどじゃないんだな」と学んで、こういう「じっくりもりあがる将棋」はあまり指さないようになりました。とくに、時間がなくなると危険なのです。
 でもそれは「どシロウト」の場合。
 今日指しているのは森内です! 18世名人です! (僕ではないノダ。)
 加藤一二三九段も、深浦康市王位も、「森内の勝ち」を断言しています。(加藤さんは「翁」の風格が出てきましたね)


 ところが…、
 あああっ! 出ました!  はぶMagic!!

   

 将棋って、おもしろいなあ~!!
 最後に、森内さんの「金」がどんどん逃げていくのが、おかしくて!
 その「金」を追う羽生さん。逃げる森内さんの「金」。
 最後にはとうとうその「金」を奪いとって、164手、羽生さんの勝ち。
 いやあー、名人戦、おもしろい!
 
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黒曜石! 岩宿!

2008年05月07日 | はなし
 戦争が終わったとき、相沢忠洋さんは19歳だった。自由になった彼が選んだ職業は、なんと、納豆売りの行商だった。

 「桐生市」は、みどり市(星野富弘美術館がある)と足利市(渡良瀬橋がある)の間にある。
 この桐生の地に魅力を感じていた相沢さんは、この地で納豆の行商を仕事とした。「変わった男だ」「この若さでフロシキを背に行商することもあるまいに…」と、はたからは思われていただろう。しかもこの行商人、妙に古い話を聞きたがる。石ころを持っていたりする。人の歩かない妙な場所を、好んで歩く。それも下を向いて…。
 赤城山からは、上州(群馬県)の名物「からっ風」が吹いてくる…。

 「関東平野」は大昔、海だった。あるいは、湿地帯だった。その「関東平野」の奥座敷がこの赤城山のあたりで、この「かわいた土地」と「ぬれた土地」の境界にむかしの人々が暮らした跡がたくさんある。縄文遺跡である。

 相沢忠洋さんは、そうした遺跡の、土器や石器の「かけら」を拾って集めていた。その当時、考古学では、「日本最古の縄文遺跡はどこか!?」というようなテーマがすすめられていた頃だった。
 桐生の渡良瀬川の側に「稲荷山」という山があって、そこに「赤土の崖」があった。相沢さんは、そこから黒曜石の小さなカケラをいくつも発見していた。だが、土器は全くでてこない。「すると、この黒曜石は、いつの時代のものだろう…?」それが相沢さんの中で深まる謎だった。黒曜石はこのあたりでは産出されない。古代の「狩人」たちが矢じりとして使ったのだ。
 相沢さんは、本を調べてみた。赤土は関東ローム層で、これは火山灰である。やがて相沢さんの中には、とほうもない結論が生まれてきた。「これは、縄文時代よりももっと古い時代の人々の用いた道具なのではないか。」 つまり「旧石器時代」の。「土器」を使う前の人々の…。
 しかし…。
 考古学史上、まだ日本列島では、旧石器時代に人が暮らしていたというハッキリした証拠は発見されていなかったのだった。もし、これが相沢さんの考えどおりだとしたら、それは…。

 相沢さんは、自分の中に湧いてきた考えをおそれながら、「とにかく、完全な形の黒曜石の石器をさがすことだ」と思った。
 そして、その「決定的瞬間」がやってきた! 1949年、初夏。
 

〔 この二年余り、私はただ一つ、この石器を見つけだすために、そして赤土の崖の謎をつかむために、探し求め、歩きつづけてきたのだった。しかも、長いようでもあり短いようでもある。私の手探りの道であった。
 私は泥んこになった手と、その貴重きわまりない石器を洗うために沢田の沼辺へ引き返した。
 子どもたちはまだ遊んでいた。私が沼辺で石を洗っていると、子どもの一人が近寄ってきた。
 「おにいちゃん、石なんか洗ってどうするの」
と話しかけてきた。
 「この石はねえ、大むかしの人が使ってた石なんだよ」
 子どもは黙って、私の洗うしぐさを見守っていた。槍先形の石器には赤土が付着していたが、洗い落とすと、掌の上で輝くようにつや光がして美しくなった。
 「わあ、きれいな石! ガラスみたいだ、ぼくもほしいな」
と子どもは身を乗りだして、沼辺にしゃがんでいる私ににじりよってきた。
 その石器は、長さ三十センチ、幅三センチほどの長菱形で、周辺全体がきれいに加工され、一端は鋭く尖り、一辺はまた鋭く打ち割り刃がついていた。
 空にかざして太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っている。私にはその美しさが神秘的に思えるのだった。

 このときの感激こそ、私の生涯忘れることのできないものであった。思えば、一片の黒曜石の細石剥片に気をとられてから三年余の赤土の崖がよいの末に、ついにこの感激にめぐりあえたのであった。
 子どもたちはいつのまにか私をとりかこんで、私とその石器を目をかがやかせて見守っていた。みんなでかわるがわる石器を手にし、西にかたむいた太陽の光にすかして見ながら、感激の声をあげるのだった。 〕
 


 何もしらない子どもたちが集まって、相沢さんの栄誉を祝福している。

 これが、相沢忠洋さんの著書『岩宿の発見』に書かれている、岩宿遺跡の発見の瞬間であった。相沢さんが「赤土の崖」と呼んだその場所は、「岩宿(いわじゅく)遺跡」と命名され、これを機に、「日本に旧石器時代が存在する」ということが考古学上認識されることとなった、まさに「大発見」だったのである。(実際にはこの黒曜石のナイフは、どうやら7センチが本当のようだが、この本ではなぜか「三十センチ」になっている。)
 この相沢さんの本『岩宿の発見』は、この発見よりもずっと後(20年後)に書かれたものであるが、たんに考古学上の自慢話などではない、こころふるえる本である。(僕は、読みつつ、泣いた。)
 この本のキーワードは「一家団欒」。
 相沢さんは、学者ではない。ただの、石器好き、土器好き、であった。相沢さんはそれらを拾い、集めて眺め、「むかしの人々の一家団欒はどんなものだったろう」と想像していた。そうすると、こころが安らかになったからだという。相沢さんのこころは、この関東平野の片すみで、縄文時代をもとび超えて、1万年前の人々の「一家団欒」にまで飛んでいったのである。(彼のこころの寂寥は、それほどに大きかったのだ。)
 彼は、そんな赤城山の裾野を歩いて、人々の食事する「一家団欒」の時刻をねらって、納豆を売っていた。 そしてこの本には、また、相沢さんの子どものときの「一家団欒」と、その後の両親の離婚や散り散りになった家族との思いや体験の記憶が記されている。

 1961年、相沢忠洋さんは群馬県から功労賞をもらった。その時にもらった銀杯を脳血栓で倒れ床に臥していた父に見せると、父は「よかったなあ、おまえやみんなに苦労をかけてすまなかった」そう言って銀杯を撫で、よろこんだそうである。(相沢さんの父は、芸人、歌舞伎の囃し方だったそうだ)

 さらに1967年には、岩宿遺跡の発見者として、『吉川英治賞』を受賞することになった。たいへんな栄誉だが、このときには相沢さんの父も母もすでに他界していた。このよろこびを誰に伝えればよいのだろう…。


〔 受賞の日、うれしかるべき私には、なぜかさびしさがいっぱいで、胸がふさがるばかりだった。ただ戸惑うばかりだったのである。
 授賞式の後、はるばる桐生からかけつけてくださった友人を江戸川まで送って、その帰途、私は隅田川の橋上に立った。川面は黒くよどんでいた。
 そのよどみのなかへ、いただいてきた花束のなかから一輪をぬきとって投げこんだ。そして私は鎌倉で別れたまま、いまだに消息不明の末の妹の健在を願った。 〕


 この本を書いたあと、これを読んだ多くの人から手紙をもらい、相沢さんは「ただただ感謝感涙する」ことになったそうである。
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砕け散った「政治家」 (2)

2008年05月04日 | はなし
 田中正造はなぜ「政治家」を辞めたのか? についての2回目。
 

 「足尾銅山の鉱業停止をしてほしい」

 農民たちは、東京へと、「押し出し」を行いました。その人数の多さを聞いて「これは止めなければ!」と田中正造は彼らを追いました。多人数で押しかければ暴力の衝突になりやすい。そうなった時、損をするのは彼らです。ケガをすればその分家族の涙とその後の苦労がふえるだけです。
 数千人の彼らに正造が追いついたのは、保木間(現東京都足立区)の氷川神社。この時、正造は彼ら農民に向かって、こう言いました。
 「いまできた政府は政党内閣で、我々の政府である。これを信用しようじゃないか。私が君達の代わりに訴えるから。」
 農民たちは、その正造の言葉に「誠実」を感じたのでしょう、いったん怒りを鎮めて「押し出し」はやめ、代表者50人の陳情にすることにしました。
 
 正造がこの時に言った「我々の政府」というのは、次のことです。
 この時期、「政党政治」が初めて実現しています。それまでの内閣は、「藩閥政治」といって、薩摩・長州の有力者のみが集まって密室で決められた内閣でした。それに対し、「一番議員数の多い政党が内閣をつくる」というのが「政党政治」です。(ただし選挙権を持つ者は一定以上の納税者のみでしたが)
 そうして生まれた内閣が「大隈・板垣内閣」です。田中正造はこれを「我々の政府」といい、それに期待をかけていたのです。この時には、正造は、「政治を信用しよう」という信念の下に在ったことがわかります。
 「私達に任せて欲しい」と言った田中正造は、何度も政府(大臣ら)との話し合いを要求します。しかし内閣総理大臣板垣退助は一度も会うことはしませんでした。
 さらに、この内閣はわずか4ヶ月で自己崩壊をしてしまいます。内部での権力争いが原因でした。

 もともとおとなしく我慢強い被害地の農民たちは、ついに「行動」に出ました。彼らは、警官・憲兵隊と衝突しました。「行動」といっても彼ら農民のそれは、デモによる陳情です。武器はもっていません。その彼らに向かって、(武器をもつ)警官と憲兵の暴力が加えられました。これが川俣事件(1900年)です。


 田中正造は絶望しました。
 自分が信じた「政治家」(国、議会)とは、こういうものだったのだ!
 「政治家」は国民のために、何一つ出来ないではないか! 『憲法』には素晴らしいことが記されている。それなのに、権力を有する「政治家」は(内閣や大臣は)、鉱毒被害を拡大するという「悪」を平然と見逃している。とすれば、なにもしない「政治家」こそ、『憲法』にそむく「悪の集団」ではないか!
 政治家や学者や役人、警察官… 学問や名声を持つもの、権力や武力をもつものが、もたないものをいじめている… これが「国」か! これが「政治」の正体なのか!!
 正造はもはや、「政治家」として自分がやれることはないと悟ったのです。そのまま「政治家」であることは、正造にとって、「悪の集団」に加担していることと同じであったのです。

 正造は議会で「『亡国に至るを知らざれば是れ即ち亡国』の儀に付質問」という演説を行いました。足尾鉱毒問題は、たんに一地方の問題ではないのだ、国の大問題であると訴えました。この問題を見過ごすことは「国を亡ぼすこと」であると。(あなたたちが国を亡ぼしているのだ、と。)
 そして、とうとう、田中正造は議会に辞職願を提出します。1901年のことです。


 それでも、正造はたたかいをやめたわけではありません。
 といっても、信じていた「政治」という手段を失った正造になにができるでしょう? 今まで信じていたものが、なくなったのです。



 だれもが、出来るなら、「人間(ひと)を信じよう」と思う。そのほうが、人を恨まずにすむ。人にやさしくできる。
 でも…それができなくなったら…? その時、その人はどうなるか。
 人間を信じることを基本に生きてきた者が、徹底的にそれを否定されるような嵐の中に置かれたら、それでも誠実に生きたいと願うとき、彼はどうすればいいだろうか。
 田中正造が、そんな一人だったと思います。
 「政治」は、人間が作ったものです。話し合えば「政治」は良くなっていくものだ…その「政治」の進歩してゆくイメージを信じて「政治家」となり、人々の為に尽くそうとした彼が、「政治」に裏切られたのです。徹底的に。
 「政治」はもはや信用できない、と正造は見切った。それでも「人間」は信じたい…しかし…。どう生きたらよいのか。正造はわからなくなりました。
 60歳の正造は、それまでの彼の「生き方」を、まるっきりひっくり返されてしまったのでした。


 さて、それから、彼はどうなったか。

 実は田中正造について、注目すべきところは「その後」なのです。
 「田中正造」と聞くと、足尾鉱毒問題でたたかった政治家、というふうに知られていますね。(それはたぶん、それがわかりやすいからです)
 しかし、彼のほんとうのおもしろさは、「その後」にあるようです。絶望し、砕け散った「政治家田中正造」がその後、どう「新しい正造」に生まれ変わっていったのか…? ほんとうの正造のドラマはそこにあるのです。(これは正造の研究者・林竹二氏の受け売りなのですが。) 
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