はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

NEWTON 3月号

2009年01月31日 | ほん
 『NEWTON 3月号』を買いました。
 1000円でした。 むむ、ちょっと高いか。
 しかし写真はおもしろいぞ。




↑顕微鏡の世界





これは先週買った『週刊西洋絵画の巨匠1ゴッホ』 


190円! 安い!
ゴッホの代表作がほとんど載っていました。しかもふろく付き。

美女と野獣のひしめく宇宙へ行こう!

2009年01月13日 | ほん
 宇宙に「絶世の美女」が存在する…? 
 …かどうかそれは判らないが、いたほうが素敵だ。いてほしい。それがSFファンの願いというものだ。
 そして「美女」とくれば、「野獣」がいる、これもお決まりのようなもの。そして、野獣に手篭めにされそうになる美女をたすけるために現われる、「英雄」。
 英雄、美女、野獣、これがスペース・オペラの黄金の公式である。


 今日はそんな、美女と宇宙怪物の登場する、二つの宇宙活劇小説をご紹介。
 『火星のプリンセス』(火星シリーズ)と、それから、『生け捕りカーライル』シリーズ。


 『火星のプリンセス』のほうは有名だ。作者はエドガー・ライス・バローズで、彼の書いたものでは、『ターザン』シリーズ(これはSFではないが)がもっと有名。 他にも<金星シリーズ>、<月シリーズ>、<地底シリーズ>などたくさんある。
 僕はこども版の『地底のペルシダー』をワクワクしながら読んだことを記憶しているが、その内容はすっかり忘れてしまった。そのうち、(今度は大人版で)読んでみるつもりだ。「地球空洞説」というものが、かなり古くから伝説としてあって、そこには地底人が住んでいて、地底の太陽もあって、やっぱり美女もいるのである。

 『火星のプリンセス』をはじめ、バローズの日本語版文庫シリーズの表紙や挿絵を描いているのは武部本一郎である。少年時代に彼の絵に魅了された人は多い。なんといっても「美女」が素晴らしい。

        

 この『火星のプリンセス』を、僕はこのブログを書き始めた頃、4年前に、図書館から借りてきて読んだ。その頃、火星が大接近していたのだ。 E・R・バローズの小説は、ストーリーもアイデアも生き生きしているので、人気が高い。食べ物にたとえて言えば、食べれば食べるほど食欲が増す食べ物なのである。
 ただし、「これがSFか?」となると、いやSFとはいえない、ファンタジーだなどと、定義にうるさい人は言う。 というのも、この『火星のプリンセス』の場合、主人公ジョン・カーター大尉は、どうやって地球から火星にまで行ったかといえば、「幽体離脱」というまったく科学的でないやり方で火星にまで飛んでいったのである。

〔…わたしの関心はすぐさま、かなたの地平線のきわにある一つの大きな赤い星に釘づけにされた。じっとみつめていると、圧倒されるような、恍惚状態に引きこまれるのを感じた___あれはマース(Mars、火星)、軍神だ。わたしのような軍人にとっては、常に抗しがたい魅力を秘めている星である。過ぎ去った遠い昔のあの夜のこと、わたしがじっとみつめていると、あの星は想像を絶する空間を越えてわたしを誘い、磁石が鉄片を吸いよせるように、わたしを招きよせているるように思えた。〕

 そして、ジョン・カーターは(1866年3月3日のことだった)、火星へと飛んだのである。 火星に、「吸いよせられた」のだ。

 すると火星には、緑色人という腕が四本ある化け物のような乱暴な種族と、赤色人という穏やかな種族がいて、その赤色人の王女が「絶世の美女」なのである。この火星のプリンセスの名前は、デリジャー・ソリスという。
 たしかに、科学的ではないかもしれない。 まあしかし、大目にみようではないか。ここに描かれた火星人はタマゴから生まれる単性生殖だし、空を飛ぶ船は出てくるし、「大気製造工場」なんてのもある。宇宙活劇にはちがいない。 大事なことは、「面白い」ということ。
 そう、とにかくこのE・R・バローズの書くものは面白いので、大人気だったのである。

 

 E・R・バローズが一番最初に書いた小説が<火星シリーズ>の第一作目『火星のプリンセス』なのである。ただし、初めは『火星の月の下に』というタイトルだった。
 1911年、35歳の時に、バローズはこの小説を書いた。元々は軍人になりたくてしかたがない、という人だったようだが、その夢は実現せず、結婚して家庭をもつが、色々な事業をしてみるがどれも上手くゆかず…。そんな時にバローズは新聞小説を読み、それがあまりにつまらないので、「これなら自分が書いたほうが面白いのでは?」と思い、それで書いてみた。 それが『火星の月の下に』である。
 この<火星シリーズ>が掲載されたのは、<オール・ストーリー>という雑誌で、まだSFという概念もない時代である。 (史上初のSF専門誌<アメージング・ストーリーズ>の創刊は1926年である。)





 次は、『生け捕りカーライル』シリーズ。作者はアーサー・K・バーンズという。
 一番上に掲げた絵は、僕が描いたものだが、この物語の日本語版である『惑星間の狩人』(創元推理文庫)の中のBEM(怪物)の挿絵を見て描いた。美女(ゲーリー・カーライル)のほうは、僕の想像で描いたもの。
 「ゲーリー・カーライル」というのがこの物語の主人公の名前で、これも宇宙を駆け巡る英雄なのだが、これは女性、ヒロインなのである。 もちろん、もの凄い美女であることは言うまでもない。 (当然である。宇宙のヒロインなのだから。) 性格は姐御肌、男にナメられようものならとことん闘う、こうと思い込むとテコでも動かない。
 ゲーリー・カーライルは、宇宙船箱舟号に乗り、太陽系を駆け巡り、ありとあらゆる宇宙生物を捕獲して「ロンドン・惑星間動物園」に送り込む、それが彼女の仕事である。彼女はその「動物園」の専属スタッフなのだ。 そして、なにより、変わった宇宙生物を捕獲することが、ゲーリーは大好きなのだった。
 「生け捕りカーライル」 …それが彼女につけられたニックネームである。
 その宇宙生物の捕獲が難しければ難しいほど彼女は嬉しい。そんな生物がいるとわかったら彼女はいてもたってっもいられない。なんとかしてそいつを生け捕りにしようと秘術をつくす。ゲーリー・カーライルとは、そのような美女である。
 たとえばこんな生物。タバコの煙が大好きで紫煙の香りをかぐとスピードに乗って体当たりをかけてくるので、愛煙家を怖れさせている金星のカブト虫。首が三つあるゴリラみたいな顔の怪獣。クリスマスツリーのような生物。

 このシリーズが書かれたのは、1937年から。<スリリング・ワンダー・ストーリーズ>誌に掲載された。
 僕がいま、こういう話を紹介しているのは、20世紀の前半のSFというものは、このように、「宇宙は生命で満ちている」という感覚であったということを言いたいためだ。宇宙には様々な珍妙な生き物が生息していて、絶世の美女だっていたのである。 (だって美女がいなきゃ、宇宙はつまらないですからね!)

 もうすこし、この『ゲーリー・カーライル』を紹介しよう。第4話では、カットナーという作家の<月のハリウッド・シリーズ>と合流する。『月のハリウッド』は、フォン・ツォーンという月で映画撮影所「九惑星映画株式会社」を持っている男が主役なのだが、そのフォン・ツォーンがゲーリー・カーライルの美貌とスター性に目をつけ、金にものを言わせて彼女を映画に出させようとする。 が、もちろん、ゲーリーはそんなことに興味はないし、「ナメタラアカンゼヨ!」な性格であるから、猛烈な肘鉄砲をフォン・ツォーンに食らわせる。 あの女は金では動かない、こうなりゃ、エサが必要だ、つまり「珍生物」だと、大金を投じて水星にロボットを送り込んで、珍種の生物を手に入れた。それをエサに、ゲーリーをくどく。さすがのゲーリーもこれにはちょっとグラッとくるが、思いとどまる。
 フォン・ツォーンが月に持ち帰ったこの生物、実は電気エネルギーが大好物。そいつがどんどん増殖しながら、ルナ・シティの発電所の電気をすべて食ってしまう。さあ、たいへん。 ルナ・シティは破滅寸前。
 そこにさっそうと現われたのが、宇宙ヒロイン、ゲーリー・カーライル。 その電気生物どもをみんなショートさせて退治した。
 ところが、転んでもただで起きないフォン・ツォーン氏、そのゲーリーの活躍の一部始終をこっそり撮影していたのだった。結果、この世紀の大作を映画公開して大もうけ。
 ゲーリー・カーライルは、くやしくて地団駄を踏んだのであった。
 ___というような話。

 さて続いて第5話「アルマテッセン彗星」。
 太陽系に巨大な彗星がやってきた。どうやらその彗星には生命が住んでいる様子がある。
 ゲーリーはウキウキとして出かけた。そこで見つけたのは、「青い球」…。 どうやらこれは知的生命体らしい。(プロテアンと命名された。) よし、まずお友達になって、あとで宇宙船に引っぱりこもうとゲーリーは考えた。「ヨロシク」と友好の証し右手を差し出したゲーリー。するとその生命体、青い球は風船のようにふくらんで、あらら、その中にゲーリーを飲みこんでしまった。
 「生け捕りカーライル」が、生け捕られてしまったのだ!!
 ゲーリー・カーライルが戻らないので心配した「動物園」のスタッフが行ってみると、そこにはいくつかの「青い球」が浮かんでいる。なにやら話をしているようだ。ゲーリーはそのうちの一つの球の中で気を失っている。助けに行った仲間も捕まってしまい、さあたいへん。
 そこへうじゃうじゃと別の怪物が現われてきた。よく見ればその怪物たち、どこかで見たことがあるものばかり。実はその怪物たちは、ゲーリー・カーライルが過去に捕獲した怪物なのである。ゲーリーの意識の中からそれらの怪物のイメージを、あの「青い球」が読み取り、実体化させていたのだった。にせもののゲーリー・カーライルまで出現した。
 おっと、そこに今度は「赤い球」の一群が出現。「青い球」と「赤い球」がケンカをはじめたようだ! そのどさくさにまぎれて、ゲーリーは救出され、逃げ出すことに成功。
 しかしまだ、捕らえられたままの仲間がいる。救出しなければ。
 「青い球」4つ、「赤い球」3つ、これがどうやらこのアルマテッセン彗星の全住民のようだ。かれらはお互いにイメージを実体化させて、闘っている。さらによくよく調べてみると、彼らの「ケンカ」は、終わりのないチェスゲームのようなもので、退屈なあまりに遊んでいるようなものらしいと判明。
 すったもんだがあったのち、ゲーリーたちは仲間を救出、その生命体とは仲直り。
 そして… 



 …こりゃ、きりがない。 そろそろこのへんで、やめておこう。
 しかし…、「へんな生物」の棲む宇宙の、なんと楽しいことか!


 
 これはE・R・バローズ『地底のペルシダー』の武部本一郎氏による挿絵。この美女はダイアナ。 僕は火星のプリンセス・デリジャー・ソリスよりだんぜんこっちのほうが…。



 月を眺めてきた人類は、どうやら月に生物はいなさそうだと、実はずっと前から気づいていた。月には、空気も水もないようだ。望遠鏡でみれば、ますますそれははっきりする。
 というわけで、火星である。金星、木星、ガニメデである。20世紀前半のSF創世記の作家達は、火星や金星などに、生き生きした「生命」という夢の花を咲かせたのである。

 ところで、宇宙の怪物は、SF世界では「BEM(ベム)」という。これは、なんとなくそうなったようだが、語源は「Bug-Eyed Monster」の略。 (直訳すると「昆虫の眼をした怪物」となる。)




 次回はいよいよ『宇宙のスカイラーク』について、書きます。 E・E・スミスによるこの作品は、SF史を語るならば必ず触れなければならない、そんな重要なもののようです。

<アメージング・ストーリーズ>ってなあに?

2009年01月11日 | はなし
 SFマニア野田昌宏のエッセイに『ある美人姉妹』というのがある。今日はその話をご紹介。

 時は昭和30年代、野田昌宏さんは、TV制作のA・D(アシスタント・ディレクター)をやっていた。ある文芸ドラマのロケで八丈島に行った時のこと、一人の若い女優が八丈富士の斜面で足をすべらせてケガをしてしまった。野田さんは彼女をおんぶして病院へ。骨折はしていないが、数日間は足を動かしてはいけない、と診断がでた。ところがその日はロケ最終日。ロケは終わり、スタッフは飛行機で帰っていったが、その女優と野田さんは残ることになった。
 あーああ、まいったな…。 こうして、野田さんは八丈島でひまをもてあますことになる。


 そんな八丈島での数日後のことである。
 20歳くらいの年齢の女優Sは、野田さんが買ってきたアイスキャンディーをぺろぺろとしながら、野田さんにこう聞いたのであった。

 「ねえ、<アメージング・ストーリーズ>ってなに?」

 野田さんは面食らった。まさかそんな女優からそんな言葉が出てこようとは…。
 「ああ、そうか。」 野田さんがひまでしょうがなくて落書きした、<アメージング・ストーリーズ>の表紙絵、それを女優Sはひろって見て、野田さんに聞いたのだった。 火星人がロボットと格闘しているへたくそな野田さんのラクガキであった。
 「ああ、これはな…。 SFって知っているかい? アメリカのSF雑誌の表紙なんだよ。」
 「ふゥん、そうなの…? それで表紙にはみんなヘンな絵がついているのね…」
 「みんな…ッて、君は本物を見たことがあるのかい?」
 「あるわよ。お祖父ィちゃんが持っていたの」
 「ほう。粋なお祖父ちゃんじゃないか」

 ずっと後でわかったことだが、Sのそのお祖父ちゃんという人は、若い時期に妻子を日本においてアメリカに渡り、そこそこ成功した人なのだった。機械いじりが好きで、わけのわからぬ無線機やそのテの雑誌を山ほどもってきたという。その中に<アメージング・ストーリーズ>もあったというわけ。

 しかし<アメージング・ストーリーズ>の雑誌もその価値はピンからキリまである。
 <アメージング・ストーリーズ>は、前回記事に僕が書いたように、ヒューゴー・ガーンズバックという人が1926年に創刊した世界初のSF雑誌である。この雑誌はその後もずっと続いているそうだが、しかしガーンズバックが編集長だったのは1929年春までである。彼の雑誌は乗っ取られて、別の人の手に渡ってしまったのであった。その後、元気なガーンズバックはくじけず、別のSF雑誌<サイエンス・ワンダー>誌を創刊する。 そして<アメージング・ストーリーズ>のほうはといえば、その後続いてはいても内容的には精彩を欠くものになってしまったという。
 だから<アメージング・ストーリーズ>といっても、ガーンズバック時代のものこそは価値が高いのだ。なんといっても、フランク・R・パウルの表紙絵がすばらしいのである。パウルは、ガーンズバックと行動を共にしていたので、ガーンズバックが別の雑誌を始めた時に、パウルもそちらに移ったのだった。

 だから野田昌宏さんは、女優Sから、彼女のお祖父ちゃんが<アメージング・ストーリーズ>を持っているといっても、まさかヒューゴー・ガーンズバックのものではあるまいと思っていたのであるが…。(あとでわかるのだが、事実は違ったのだ!)


 女優Sは、ずいぶんと気の強い女だった。八丈島の病院での入院生活の3日目、彼女は若い看護婦と衝突し、泣かせてしまった。間に入った野田昌宏さんは苦労させられることになる。しかもそのうち、台風が接近して飛行機が飛ばず、Sの足のケガが良くなってもしばらくは島に足止めになってしまった。6日目にやっと帰れることになった時には、飛行機の窓から見える東京の街が涙で霞んでよく見えなかった、と野田さんは書いている。
 空港には、Sのお姉さんが迎えに来ていた。和服で、Sよりもさらに美人だった。
 ところがSは、お姉さんの顔を見ようともせず、一人で住んでいる自分の青山のアパートに帰るといってきかない。 というわけで、美人お姉さんは、野田さんに何度もお礼をくり返して、一人で帰っていった。
 その後、野田さんは、その女優Sのビッコひきひきの病院通いにつきあい、間もなく彼女は全快したので、食事でお祝いをして、その後はずっと会うことはなかったという。 ところが…



 ところが半年後のこと、野田さんのところに、彼女、女優Sから真夜中に突然電話がかかってきた。なにごとか、と思えば、こうである。
 「お祖父ちゃんの<アメージング・ストーリーズ>を家から持ってきたから、取りに来ない?」
 まあ、せっかくの好意だから、行くだけ行ってみるかと、野田さんは彼女の部屋へ。すると…。



 まぎれもなくそれは、ヒューゴー・ガーンズバック編集時代の<アメージング・ストーリーズ>なのだった! 表紙やイラストはあのフランク・R・パウルによるものである!

 野田さんは、目を見張る思いで、その雑誌のページをめくった…。

 うん? 香水の匂いが…
 野田さんが目を上げると、そこには全裸に近い姿のSが立っていた。彼女はその大きな眼でジーッと野田さんの顔を見つめ、大きな胸の黒い布片を取りはずそうとしているところだった…。

 「!!!」

 さて、それで野田昌宏氏はどうしたか?
 逃げ出したのである。
 野田さんは、その時、自分の周囲で仕事と情がからんで女と揉めている男達の大変そうな姿が脳裏によぎったのだった。

 あの判断は正しかった…とは思うが、それでも、彼女のあの輝く裸身は惜しかったと思わないでもない、と野田さんはふりかえる。いや、もっと惜しかったのはガーンズバックの<アメージング・ストーリーズ>…、美女は他にもいるが、あれは二度と…。
 その後、野田さんはSと会うことはなかった…。



 それから数年後、野田昌宏は北千住でロケをしていた。問題が起きて野田さんは電話を借りるために近くの店に飛びこんだ。そこは大きな葬儀屋だった。
 野田昌宏さんは驚いた! そこにいたのは、あの女優Sの和服美人のお姉さんだったのである!
 「野田さんですね?」と彼女のほうが、声をかけてきたのでそれがわかったのだった。電話での話が終わると、Sの美人お姉さんは、冷たいものでも、と無理矢理引き止められて話をすることとなった。話題は当然Sのことになる。
 「あのコは、銀座でお店をやっているんですけれど、家には全然…」と和服美人。 そして彼女はあの“雑誌”のことを話した。
 「あのコはだしぬけに帰ってきて、野田さんにあげるんだとか言って、お祖父ちゃんの大切にしていた雑誌を…」
 そのお祖父ちゃんも死んでしまい、お祖父ちゃんが大切にしていたものだからとしばらくは取っておいたのだが、結局はもう手放してしまったという。お宝、ガーンズバックの<アメージング・ストーリーズ>はもう手の届かないところに行ってしまったのだ。
 Sのお姉さん続けた。「でも…あのコは言っていましたわ。あの雑誌はぜんぶ野田さんにあげるつもりだったんだ…って。」

 その瞬間、野田さんの脳裏にはあの時のSの胸の映像がフラッシュバック! ふとお姉さんの顔を見ると、彼女のきれいな顔に妖婦じみた微笑が走った(ような気がした)。 うわッ、もしや、Sはこの姉にあの時のことを…スタコラと逃げ出した俺の姿を、何もかもおもしろおかしく報告しているのではあるまいか!?
 急に居心地がわるくなった野田昌宏さん。 そそくさとその葬儀屋を退散したのであった…。


 その野田昌宏「宇宙軍大元帥」は、去年、逝ってしまった。
 すると野田さんの貴重なSFコレクションは、いったい誰が受け継いだのだろう?

 
   ◇      ◇      ◇      ◇


 今晩は満月なんですね。 西の空には金星が__。

 『宇宙のスカイラーク』まで、あと少し。

ヒューゴー・ガーンズバック

2009年01月08日 | はなし
 これは御茶ノ水駅の聖橋から見た夜の景色。 あれに見えるは、秋葉原。 電気部品のメッカである。


 さて、僕は1年ほど前に「賢治のシャープペンシル」という記事を書いた。シャープペンシルを作った早川徳次氏が、1923年に関東大震災で家族と工場を失い、それでシャープペンシルの権利を売り、大阪行って、日本初の鉱石ラジオをつくって売り出した、そういう話である。これが現在の総合家電メーカー「シャープ株式会社」の起こりであり、日本のラジオ製品の始まりである。1925年のことで、この年にラジオ放送が日本で始まったのである。 (僕の父によれば、鉱石ラジオというものは電波が入ったり入らなかったりじつに頼りないものであったそうだ。)

 では、世界では?  世界のラジオ放送はいつ始まったのか?

 それは1906年12月24日、アメリカで電気技術者レジナルド・フェッセンデン(カナダ生まれ)が行ったクリスマス放送が始まりである。しかし、放送といっても個人的なものであり、彼が趣味でやったようなもので、その放送を聴いた人も、趣味でラジオを自分で作っていた人たちである。つまり、電気機械に夢を抱く「アツイおたく魂」をそなえた人たち同士の交流と言ってよい。
 アメリカのラジオ放送が、企業により、すなわちラジオ局によって放送されたのは、1920年のことになる。

 ここで一人の、そんな「熱いラジオ魂」を持った男の話をしよう。彼が今日の主役である。 名を、ヒューゴー・ガーンズバックという。1884年、ルクセンブルクにまれ、1904年にアメリカにやってきて、その翌1905年に、アメリカ初の通信販売のラジオ店を開いた。彼はこの「ラジオ」という未来の機械に将来を賭けたのだ。
 そうはいっても、まだラジオ局の開局する15年も前のことだ、ラジオを売るのは簡単じゃない。放送といっても、個人が趣味でやっているものだし、そのころのラジオの性能は電波を確実にキャッチできるようなものではない。
 でも、だからこそ、アツクなれる趣味、といえる。面白い放送をキャッチしたときの感動は、たまらない喜びとなって身体中を駆け巡るだろう。きっとそれは、宇宙人との交信のようなものだ。
 さて、ヒューゴー・ガーンズバック。彼はラジオの販売促進のために、ラジオ雑誌を創刊しようと思いついた。それが『モダン・エレクトリック』誌で、アメリカ初のラジオ雑誌である。


 1911年春のことである。 そのラジオ雑誌に予定していた原稿に穴が開いてしまった。困ったガーンズバックは、その穴埋めに、自分が書いた未来小説を載せることにした。
 これが、ウケた!
 その小説は『ラルフ124C41+』というタイトルで、西暦2660年を舞台にしている。ラルフ124C41+という名の天才発明家が主人公で、彼の発明した様々な「未来機械」が描かれていた。ファクシミリ、太平洋横断地下鉄、太陽電池、レーダー、テレビ電話、蛍光灯…この時代、まだ蛍光灯もテレビジョンも発明されていなかったのである。
 こんな小説はかつて読んだことがないぞ、ここに新しい世界がある、ある読者はそう感じたことだろう。
 手ごたえを感じたガーンズバックは、その後も作家に未来小説を書かせたり、ウェルズやヴェルヌの昔の作品を載せたりした。

 そして1926年、ついに「その日」がやってきた。
 ヒューゴー・ガーンズバックは、新しい雑誌<アメージング・ストーリーズ>を発刊したのである。
 この雑誌こそ、世界最初のSF専門誌であった!! (まだ「SF」という言葉はなかったが。)

 

 ガーンズバックは作家を集め、科学小説を書かせた。ところが、それらはガーンズバックには不満だらけだった。作家たちは科学というものの知識がいい加減だったのである。ガーンズバックは、彼らに「科学」を教えなければならなかった。
 しかし、この新しいタイプの小説に、ワクワクした読者もいたはずだ。そこには、「可能性」があった。「不思議」があった。 後の慣用句に言い換えれば、「センス・オブ・ワンダー」の片々が。
 表紙絵は、フランク・R・パウルが担当した。これがまた素晴らしかった。
 内容的に、この世界初のSF誌<アメージング・ストーリーズ>が充実するのは、1928年8月号まで待たなければならなかった。その号では、E・E・スミス『宇宙のスカイラーク』、フィリップ・フランシス・ノーラン『バック・ロジャーズ』が登場した。「SFヒーロー」の誕生であった。
 「SFファン」は熱狂した。 これだ! おれたちはこういう物語を待っていた!!

 「SF」という言葉も、彼、ヒューゴー・ガーンズバックが生み出したという。そういうわけで、彼もまた、「SFの父」の一人なのである。

  

 これはフランク・R・パウルの描いた、ウェルズ作『宇宙戦争』の火星人とその乗り物。
 「火星人=タコ」の図式がウェルズのこの物語のイメージから発していることはよく知られている。この『宇宙戦争』の火星人の価値は、タコの姿をしていることよりも、宇宙人が「知性」を持っているとしたことである。彼らは、地球人には勝てない「機械の乗り物」を造っていた! 人間よりもすぐれた知能の宇宙人は、それ以前には想像上であっても考えられたことがなかったのである。 (この火星人たちは、地球のありふれた病原体のために全員死んでしまったのだが。)
 H・G・ウェルズはイギリス人で、1897年に『宇宙戦争』を書いた。(彼もまた「SFの父」とよばれる。) この小説の舞台はだからロンドン郊外になっているのだが…
 1938年10月30日のこと、アメリカのCBSラジオで『宇宙戦争』がドラマとして放送された。何気なしに聞いていたアメリカ聴取者は、「宇宙人がやって来た!」と本気にして大騒ぎになった。有名な「宇宙戦争ラジオドラマ事件」である。 (SFマニア野田昌宏さんは、このドラマの台本までもっていたという。すごい人だ。)



 こう書いてきて、僕は、こんなことをふと思ったりする。なにかに「熱狂する」ということと、「電波」との間には、なんらかの強い繋がりがあるのかもしれない、と。
 相手がそこにいないのに話ができる…。 「電波」…、まさにこれは、超能力にちがいない。

夢見るジョンジョロリン

2009年01月07日 | おんがく
 
  [夢見るジョンジョロリン]

 今日は日曜で、何をしようか、せっかくの休みなのに~

 猫の毛でもむしろうか、やることがないから~

 ジョンジョロリン、ジョンジョロリン、明るい日本はここにある ♪



 これが、僕のはじめて買ったLPレコード。(前に『ホング・コングの逆襲』ではないかと思うと書いたけど、実家で確認したら、『セロリ・パセリ』でした。)  実家から持ってきたのはいいけど、でも、こちらにはレコードプレイヤーがないので、聴けません。
 僕はまた、『所ジョージのオールナイト・ニッポン』を1回分録音した120分テープもあるけど、これもテープデッキがないので聴けません。残念。

 所さんの『オールナイト・ニッポン』は、すごい早口(今の所さんの3倍くらいの速度)で喋るので、最初は「あいつ、うるさいだけ!」と思っていた。ところが、よく聴いてみると面白いので、毎回テープに録って聴くようになった。
 あの超早口の喋りは、自分の一週間の遊びをぜんぶ喋りたくてしかたがない、1時間や2時間では喋り足りない、というふうだった。所さんは、たとえば、バイクに偽装した自転車を実際に作り、一方通行の道路を逆走する、そして警官が止めに来たら、「自転車だよ~ん」と警官を驚かす、そんなことを(話の上でのことではなく)本当にやっていたのだ。 __なんという元気な人だ! あのころの所ジョージは、「あいつは、TVでは面白くないけど、楽屋ではメチャクチャ面白い」と、他の芸能人がよく言っていた。 「ツッパリバカ」というコーナーが人気で、他に「王さんコーナー」、「桜井の父」などがあった。
 そのラジオ番組は予告なしに3月、突然、終了した。 所さんは、終了の3分前になって「今日で所さんのオールナイト・ニッポンは終わりです。」といった。それでも少し時間が余って、「だから~、所さんは、この番組が好きだったんだよ~!」とテレながら何度かくり返して、そして本当に『所ジョージのオールナイト・ニッポン』は終わった。 僕は、ああ…もうあのうるさくて面白い喋りは聴けないんだ、と思った。
 所ジョージはその日の番組終了後、泣いたそうだ。ずっと後で僕は知った。それは数年前のこと、『宮川賢のバツラジ』を聴いていたら、宮川さんがそのように言っていたのである。 宮川さんは、あの時期の(つまり30年ほど前の)「深夜ラジオ黄金期」にやっぱりAMラジオを毎夜聴いていて、それでラジオ・パーソナリティに憧れてラジオの世界に入ってきた人なのだ。 所さんのその話は、ラジオ界の小さな伝説として残っていたのだろう。
 このアルバム『セロリ・パセリ』の中に『春二番』という曲も入っているが、これが『所ジョージのオールナイト・ニッポン』のエンディング曲だった。


   [春二番]

 か~どの~ 小池さんに、お嫁さんが来て~

 あ~いさ~つ廻りで~ 家にもやって来た~

 つ~まらない物ですけど~ 受け取って下さい~

 つ~まらない物では~ 受け取れません~ ♪


   心の片隅が~ ひ~ね~くれ~て~

   ついでに頭の片隅が~ …   


 4年ほど前に、『坂崎幸之助のオールナイト・ニッポン』の最終回に、所ジョージがゲストで出て喋っていたのを、僕は偶然にも聴くことができて、嬉しかった。
 アルフィーの坂崎幸之助は、所ジョージの『オールナイト・ニッポン』のパートナーだった。 たとえば面白くないハガキを読んでしまったとき、アリス(谷村新司らがいた三人組のバンド)のものまねをして、二人でギターを弾いてこう歌う。

  アツく~涙が出るよな~
  シラけた~ はがき~ ♪


 
  ↑
 そしてこれは山崎ハコのアルバム。妹のものだが、勝手にもらってきた。
 山崎ハコは、所ジョージの番組のうしろ『オールナイト・ニッポン第2部』をやっていた。喋る速度が超スローで、所さんとは対照的で、それがおかしかった。
 山崎ハコは、あの当時、いまにも死んでしまいそうな風貌のキャラ(身体も弱いし歌が暗い)だったが、じつは今も健在だ。一昨年、ラジオで新曲(『BEETLE』)が流れているのを聴いた。

フランクフルトの小猫たち

2009年01月06日 | はなし
 TVアニメ『アルプスの少女ハイジ』を観ている。小説版とのちがいを味わいながら。
 それにしてもハイジの声優の杉山佳寿子さんは上手いですねえ! あんなふうにクスクス笑う女の子を、大人が演技でできるなんて! (…このアニメの放映された数年後に、ラジオ番組『鶴光のオールナイトニッポン』にゲスト出演して、ハイジの声でよがり声をだしたのを聞いたときは、心がよじれそうな気持ちになりましたが。)

 上の絵は、このアニメの中のフランクフルト駅を写してみた。 


〔 … どうしたはずみか籠の蓋がゆるみ、その中から一つ、二つ、三つ、それからまた二つ小猫がころがり出て、そこいらぢう這ひ廻りました。目もとまらないほど早く方方を駈けずり廻るので、部屋いっぱい小猫がゐるやうに見えました。
 (中略)
 … それはそれは大騒ぎでありました。クララは嬉しがりました。
 『まあ、ちいちやくて、なんて可愛いんでせう。ハイヂ、これ御覧なさい。ね、ね、あすこにもゐるわ。』
 ハイヂも大悦びで、あちこち小猫のあとを追って駈け歩きました。先生は途方にくれてテイブルのそばに立ったまま、小猫に引っかかれないように、両方の脚を代りばんこにあげてゐました。フロイライン・ロッテンマイアは、はじめは声も出せないほど仰天してゐましたが、やっと我に返ると命がけで叫びました。
 『チネッテ、チネッテ。__セバスチアン、セバスチアン。__』 〕


 こんなぐあいに、『アルプスの少女ハイジ』(ヨハンナ・シュピーリ著)にも猫は登場する。アルプスの山ではなく、クララの住んでいるドイツ・フランクフルトでの出来事である。
 この小猫たちは、ハイジが山が見たくて登った塔(フランクフルトの街の屋根が続いているだけで山は見えずハイジはがっかりするが)で見つけてきたものである。このシーンは物語上とくべつ重要な場面ではないが、クララとハイジが仲良くなるきっかけとなっている。


 上の訳は、野上弥生子(1885-1985)によるもの。 この『ハイジ』を日本語に翻訳した人はたくさんいるが、日本で最初に翻訳したのが、じつは、野上弥生子さんなのである。なんと1910年代のこと。つまり大正時代の初めごろで、タイトルは『アルプスの山の娘(ハイヂ)』となっている。
 それにしても、僕が野上弥生子という小説家の存在自体を知ったのが1年前だというのに、ずいぶんもう昔のことのように感じる。野上さんは、夏目漱石の最後の弟子で、彼女が漱石に初めに見せた小説の題名が『明暗』。 それとは内容はちがうのだろうが、漱石の最後の作品の題名も『明暗』で、これは未完で終わった。


 フランクフルト(ドイツ中部の大都市)は、最近の僕のブログには、何度か出てきた。 ( 『ハイジ』の中ではフランクフルトは暗い印象に描かれていて、フランクフルトにはちょっとお気の毒。ほんとはそんなことないでしょうに。)
 アンネ・フランクの生まれた場所がここだし、ロスチャイルド家も、ヤコブ・シフもこの街の出身だ。
 ライン川がアルプスから発し、オランダで海に注いでいることは前に書いた。フランクフルト市には、ライン川の主流は流れてはいないが(支流のマイン川が流れている)、だいたい近くを通っている。 そこをさらに川上に遡るとアルプス(スイスの山)に行き着くわけだ。
 フランクフルトより南のこのあたりに、昔、15世紀に、ファウストという男がいて、その伝説がずっと残っている。それをもとに、物語を書いたのが、ご存知ゲーテ(1749-1832)。 ゲーテこそ、フランクフルトが自慢とする文豪である。
 彼が『ファウスト』を書いたころ、『ハイジ』の作者ヨハンナ・シュピ-リ(1827-1901)がスイスに生まれた。50歳を過ぎたら小説を書こうと思っていたヨハンナは、1881年に『ハイジ』を発表した。彼女は、ゲーテの文学が大好きだったという。
 ゲーテ『ファウスト』の第2部の最初の場面は、アルプスを舞台に始まっている。


 ところで、フランクフルトはまた、16世紀に、天文学者ケプラーも育てている。彼は『ケプラーの夢』という著書によって、月に生物を住まわせた人類史上最初の人物なのだそうだ。 もちろん空想の中に、であるが。

雪正月

2009年01月03日 | はなし
 明けましておめでとうございます。

 元日は津和野に行きました。夜のうちに10cmほどの雪が積もり、でも雪は止んでいたので、ディーゼルに乗って津和野へ。車内には、「鉄チャン」らしき人たちが何人かいて、たいていは一人で来ていて、でもなんかしあわせそうでした(笑)。 SLに雪景色とあらば、そりゃあ…ネ。 津和野駅には、SLが自分の出番を待っていました。

 僕が津和野駅を出ると同時に、止んでいた雪がどどどと降り始めました。どうしようかなあ(神社まで20分くらい歩かねばならない)と思いながら、観光案内所で地図をみると、安野光雅美術館がすぐ駅前にあるではありませんか。この美術館がオープンしたのは知っていたのですが、元日に開いているかどうかはわからないし、場所も確認していなかったのです。こんな好都合の場所にあって、開館しているなら、これは当然寄るべきところ。
 中に入ってみると、これがとてもいいのです。中庭があって、そこをぐるりと廻るような構造なのですが、安野さんの小学校時代のような教室の部屋もつくられていて、たくさんの大きな窓があります。その窓からは中庭にどかどかと(音はしませんが)降る雪が見えます。
 安野光雅氏は津和野の生まれなのです。
 美術館のこの日の特集は安野光雅さんのオランダの風景画でした。安野さんのオランダの画集は図書館から借りてすでに見たことがありますが、僕はこのブログで最近ずいぶんオランダのことを書いていますし、また新鮮な目でこれらの原画を眺めることができました。たとえばアーネム(アルンヘム)の森を描いたものがあります。安野さんによれば、この街は「どこまでも森」なのだそうです。ここは、大戦時オードリー・ヘプバーンが住んでいて戦場になったことをブログ記事に書きました。
 また、安野光雅が絵本作家としてデビューし、世界で評判になった『ふしぎなえ』は、画家エッシャーの絵との出会いが大きく影響しているそうですが、そのエッシャーの生まれたところもオランダで、安野さんはそこにもスケッチに行っています。レワールデンというところで、そこで生まれたエッシャーはその後4歳のときにアルンヘムへと移っています。
 安野光雅美術館の中には安野さんの画集等を観ることのできる図書館がありました。僕はそこで、『スイスの谷』という画集を開いて1ページずつ観ました。このごろ、僕はスイスを中心とする欧州のアルプス地方が妙に気になるのです。前日、大晦日の夜に、僕は『アルプスの少女ハイジ』(ヨハンナ・シュピーリ著)を読んだのでした。『スイスの谷』の中で安野さんは、『アルプス登攀記』という本を紹介していました。これも読んでみようと思いました。



 安野光雅美術館を出るときにもやはり雪はどかどか降っていた。守衛さんに、傘をどこかで売っていないかと聞いてみると、駅前の観光協会で傘を貸してくれるとわかったので、それを借りて神社にお参りに行った。
 なつかしい津和野の街を歩いていると、雪道を歩くのがだんだんたのしくなってきた。
 津和野の神社は、太鼓谷稲荷神社という。祭神は宇迦之御魂大神(穀物の神様)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神で、どちらも女の神様である。


↑これは津和野のマリア教会  手前は鯉の堀(残念ながら鯉は写っていない)

 喫茶店でコーヒーを飲んで、その後、まだ降り続く雪の中を歩いて、森鴎外旧居にまで行って来た。ここは駅から遠いのだが、文豪になど以前はまったく興味もわかなかった僕は、これまで何度も津和野に来ながらも、この鴎外旧居には行ったことがなかったのだ。 鴎外といえば、『舞姫』か。僕はまだ読んでいないが、これはドイツに留学した日本人(鴎外自身?)とドイツの美少女との恋愛を描いた話らしい。

 津和野を後にすると、雪は止んだ。
 雪道を歩くのがたのしいので、家に帰る前に、ご先祖様の墓に寄っていくことにした。前日にも行ったのだが、前日は雪が積もっていなかった。墓地への道は、午前中に一台車が通ったらしく轍があったが、その上に雪が積もり、人の足跡はまるでなかった。車の轍の間のバージンスノーをあるいた。雪が泣く。「きっくきっくきっく…」、そう、『雪渡り』(宮沢賢治)の、アレである。だれもいない正月の墓地は、白い帽子と白いドレスの「墓美人」でいっぱいだ。


 かえる途中、僕のうしろを、SLが汽笛を鳴らし、走って行った。
 なんだか特別な一日のように思えました。

←SL (雪のためか予定時刻を遅れて走っていたようだ)

 それにしても僕の携帯による写真はどれもピンボケだ。使い方がきっと間違っている。