はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

こまばしら

2008年08月30日 | しょうぎ
 これは僕のむかしの将棋の終盤から。

 「駒柱」ができた場面です。

 後手(名前を雷男としておきます)の四間飛車に対し、先手の僕が4五歩から急戦を仕掛けて局面をリード。そして、終盤に。
 9三にいた後手玉に対し、僕が、▲8二角(ハニーフラッシュ!)△8三玉▲9一角成とした時に、このままでは次に▲8二馬で後手玉は詰んでしまうので、6一にいた金を寄せて雷男氏が△7一金としたところ。
 こうして、駒柱が現われました。

 (この後は、▲8六香△6八金▲8九玉△7八金▲9八玉△8八桂成▲9七玉△9三金▲8四香△同金▲同銀△同玉▲8五金△8三玉▲7五桂まで、はんどろや勝ち。)

 駒柱(こまばしら)が現われると、不吉だとされています。


 昨日の朝、多摩川を通りますと、いつもは河原のところが一面に水浸しでびっくりしました。たしかに雨は降ったけど、「もうこんなに増水?」と。
 そして昨日の夕方からずっと深夜12時頃まで雷鳴と豪雨。こんなに降って、多摩川や荒川や利根川は大丈夫か? まだまだ降ると天気予報は言っているし…心配だ。

 そんな稲光と雷鳴と豪雨の中で、昨晩は、羽生善治と木村一基が闘っていました。将棋竜王戦の挑戦権を賭けた三番勝負の第1局です。
 中盤が勝負どころだったようです。そこで羽生さんがリードして、あとは羽生さんの角(馬)の華麗な舞が長々と続きます。僕は「天馬行空」という言葉を思い浮かべました。
 しろうと眼にみても木村さんに逆転の目はなさそうだ…それでも木村八段は受け続けます。夜空はビカッと光り、轟轟と雨は降り…時刻は23時半、手数はもうすぐ190手…そのときです!

 駒柱…!


 なぜ駒柱は不吉とされるのか、それに対する答えを僕はまだ聞いたことがありません。なぜでしょうね…。
 ああいう、タテのラインというのは、左右を分断するので良くないということでしょうか。そういえば、ハレー彗星も、日本でも西洋でも「不吉な星」と思われていたようですし。「不吉なタテの矢」から、映画『オーメン』の落雷シーンも連想させます。

 おなじく柱でも、茶柱は、「縁起が良い」と言いますね。「縁起」というのは、どん底(崖っぷち)から起き上がる、そのポイントのことだそうです。「不吉なこと」というのも、それをチャンスと捉えて起き上がれば、意味が反転する。たいてい、表の意味とウラの意味と、その両方がくっついているものですしね。


 今夜も、雨はずっと降っています。(雷はありません)

 羽生名人は、竜王戦のトーナメントも、深浦戦、丸山戦と、奇跡的な逆転劇の連続でした。こういう将棋をリアルタイムで味わえる同時代に生きているとは、なんと嬉しいことでしょう。


◇王位戦(七番勝負)
  深浦康市 3-2 羽生善治

◇竜王戦 挑戦者決定三番勝負
  羽生善治 1-0 木村一基

◇王座戦(五番勝負)
  羽生善治 - 木村一基   9月5日に開幕

楕円運動が気にかかる

2008年08月23日 | はなし
 今、「楕円」がとても気にかかるんです。 ということで、「楕円(だえん)」のはなし、します。

 「円」を描くにはコンパスをつかえばいい。
 では、「楕円」はどう描くか? 実際にはテンプレートとかを使って描くでしょうが、理論的には次のようにして描けるとなっています。
 2つの点を決めます。これを「焦点」といいます。その焦点をその焦点の距離よりも長い糸で結び、ピンと張って三角形をつくります。その三角形の頂点の動いた「線」が、「楕円」となるのです。


 宇宙では、惑星は(惑星だけじゃないのですが)、楕円軌道を描いている、といいます。あのハレー彗星も、太陽の周りを楕円軌道を描いてぐるぐるまわっています。(それを証明したのは、ニュートンとハレーでした。) もちろん地球も太陽の周りを楕円運動していますし、月も地球を楕円を描いてまわっています。
 そう、円運動ではないのです。「楕円」なのです。

 ケプラーの法則を思い出します。

 まずコペルニクスのことから話ましょう。
 コペルニクスは16世紀の人で、地動説を最初に唱えたことで歴史に名を留めています。
 星空を毎夜眺めていると、北極星を中心にして星座が回っていることに気づきます。ところが、それに当てはまらない星がいくつかあります。金星、火星、土星、木星…つまり、惑星です。コペルニクスがまず、注目したのは火星でした。彼は火星の動きを克明に調べました。火星は妙な動きをします。なぜこんな妙な動きをするのか、そこに「法則」はないのか? その結果、彼は、太陽を中心にして、地球や火星、木星など惑星が回っているという、地動説を思い着き、書き記したのです。それが『天球の回転について』という書で、1543年のことです。
 そして「地球は太陽の周りを回っている」と主張して裁判になったガリレオ裁判が行われたのは、1616年。

 ケプラーは1571年に生まれました。「ケプラーの法則」を発表するのは、1610年代だから、ガリレオと同時期に、コペルニクスの地動説に賛同していたことになる。
 それよりも前、1590年代に『宇宙の神秘』という本をケプラーは書いている。ケプラー25歳の時である。この本の内容は「宇宙はこんなカタチをしているのではないか」という仮説なのだが、ずいぶんとブッとんだ内容で、今の宇宙論の眼からみればデタラメなのだそうである。数学の幾何学を駆使して、ワンダーな幻想を描いたものなのだそうだ。とても魅力的で、きらめく、デタラメな世界が描かれていた。
 ところが、面白いことに、この本は、90パーセントはそのように「幻想的な出鱈目ワールド」なのに、その理論の自己検証していく過程でこの本の最後のほうで生まれたのが、「惑星は太陽のまわりを円を描いているのではなくて、楕円を描いているにちがいない」という結論なのだという。デタラメな幻想理論を組み立てていくうちに、偶然、(現代の眼で見ても)正しい宇宙像に漂着しているらしいのです。
 この『宇宙の神秘』でたまたま導かれた、「惑星は(地球も含む)楕円運動をしている」という新しい着想を、ケプラーはその後の人生の中でしっかりとしたものに(幻想的でなく、より科学的に)組み立てなおしていったようです。

 その後1643年に生まれたニュートンが、その著書『プリンキピア』によって、物質(惑星)間には万有引力が働くのだとして、ケプラーの法則はガッチリと理論で支えられ不動のものとなりました。
 そして、ケプラーの法則が基本にあって、惑星探査機も、『ガンダム』も、衛星放送もあるのです。


 さて、僕が「楕円運動」が気になる、というのは、「焦点」のことです。
 楕円には「2つの焦点」があります。その中間に「中心」があります。
 僕はカン違いしていました。地球は太陽の周りを楕円運動してる…限りなく円に近い楕円ですが…その場合、太陽は「中心」にあると思っていました。 違うのです! 太陽は(「中心」ではなく)「焦点」に位置しているのです。 2つの「焦点」のうちのどちらか1つに。(つまり、ど真ん中には、ないのです。)
 ハレー彗星は、75年の周期で、太陽に近づき、また離れていく。「楕円」を描いて…。 「ずい分ハレーというやつは変わった動きをするんだなあ」と、僕は思ってきたけれど、そうじゃなかった。地球も、火星も金星も、それから、地球をまわる月も、ほんとうは、その「ど真ん中(中心)」に主星を置いているわけではないのでした。ハレー彗星と太陽の関係ように、「焦点」に主星を置いてまわっているのです。
 そういうことに、今、気づいて、僕はハッとしたのです。

 なにを僕は言いたいのかというと、こういうことです。(さあ、飛躍しますよ!)

 人間の「こころ」の動きも「楕円運動」なのではないか。
   (「円運動」ではなくて。)

 円は「中心」をぐるぐるとまわる。だけど、「楕円」は、「中心」に主星を置いてもその運動は安定しない。けど、「2つの焦点」のうちのどちらかにそれを置けば安定する。「こころ」というのは、そんなふうになっているのではないか。なにがなにの周りをまわっているのかは、わからないけれど、そんな気がするのです。
 僕はこれまで、「円運動」だと思い込み、安定させようと思って、生きてきたような気がする…。中心に大切なもの(自分?)を置こうとするから、かえって軌道は乱れる。中心ではなく、もっとずれた位置にある「焦点」こそ、安定して生きるための魔法のポイントなのではないか。そして、「焦点」は、ど真ん中ではないのだ。真ん中よりズレていて、それでいいのだ。


 そんなことを思う2009年夏の終わりであります。
 ん、くだらない? うん…そうかもしれない。 (楕円といえば、去年、こんなのもかいていた。)
 だけどしようがない。気になるんだから。

 
 あ、このニュースも気になる。→「圧力式炊飯器のふたが突然開き、飛び散った食材でやけどをするなどの事故が…」 炊飯器で煮豆を炊くとキケンなんですって。へえーっ。

円空仏

2008年08月21日 | はなし
 今年は雷が多いですね。夕立で、雨宿りのためにに入った書店で『サライ』という雑誌の仏像特集に魅かれて、その雑誌を買いました。500円で、これだけの仏像写真が拝めるというのは安い、と思って。有名な、あるいは、魅力的な仏像の写真が沢山載っているけど、僕は、「やっぱ、円空さんがいちばんいいなあ」と思いました。

 そういうことで、円空の仏像は以前にも描きましたが(→「十一面千手観音像」)、また描いてみました。これは「両面宿儺(りょうめんすくな)像」というそうです。円空の仏像を僕はまだナマで観たことがないけど、飛騨(岐阜県)に行けば存分に見られるようだ。円空さん(「円空さん」と、そう呼びたくなる)は、関東でも仏像を彫って残しているのだけれど。鉈(なた)でザクザクと彫ってつくったらしい。かっこいいな、円空さん! 円空仏を見ていると、写真であっても、なにか気持ちが楽になる。
 円空の仏像は、寺の中よりも、野に在るほうが良く似合う。実際に、そういう像がたくさんあるのだけれど、そのために痛んでしまいます。円空は、江戸時代、1600年代の人。円空仏は、だから、300年以上の時間を生きぬいてきています。


 この雑誌には次のエピソードが載っていました。

 飛騨の正宗寺には、やはり円空の彫った「薬師如来像」があります。その像は、40cmほどの大きさで、つるつるに磨耗しているのですが、それは「子供たちが、この薬師如来像を川に投げ込んで、浮輪代わりにして遊んでいた」せいだというのです。

 あるとき、その円空仏を川に放り込んで遊んでいる子供たちの姿を見かけた村の老爺が、「仏さんにそんなことしちゃいかん」と叱った。すると、その老爺は病気になって寝込んでしまった。まもなく、老爺の枕元に円空仏が立ってこう言った。
 「子供たちと楽しく遊んでいたのに、おまえはそれをやめさせた。私は子供たちと遊べて、どれほど楽しいことか」
 老爺は、謝った。すると、病気はすぐに治った。

 
 爽やかな話だ。謝ったらすぐ病気が治る、という結末もいい。

 円空さんの彫った仏像には、話しかけたくなる、そんな雰囲気があります。「おい、なんでそんな顔しとるんか?」なんてね…。
 いや、僕はまだ会ったことはないんですが。

アルプススタンド

2008年08月20日 | はなし
 清原和博選手がプロ野球引退を表明しました。
 僕はたまたまその前日だったか、書店で『日本野球25人私のベストゲーム』という本を立ち読みして、清原選手のところだけ読んでいたんです。
 それによると、彼の「ベストゲーム」は、1985年の夏の甲子園決勝戦「PL学園対宇部商業」なのだそうです。その年は、例の、日航機墜落事故があった年です。僕はその時与論島にいたことは以前このブログで書きました。
 その試合で清原は、2本の同点ホームランを打ったのです。試合は最終回にPL学園がサヨナラ勝ちしました。彼はその試合で自信を得て、「これで俺はプロの四番になれる。山田太郎のようになれる。」と思ったそうです。水島新司の漫画『ドカベン』の明訓高校四番打者・山田太郎こそ清原和博の目標だったというのです。ああいう凄い四番バッターに、俺はなるのだ、と。 「マンガなんだけどね」と清原選手。


 面白いよね、『ドカベン』。あれだけ長く続いて、なにもかも順調にいくと、「フン、どうせマンガだからな」と腹の立つ気持ちも一方で湧いてきますけれど。でも読み返すと、やっぱり面白いよ。



 『ドカベン』は、はじめ「柔道まんが」として始まりました。最初の1年間は柔道まんがでした。でも、最初から作者の水島新司氏は野球まんがへの移行を考えていたようです。それなら何故、柔道まんがからはじめたのか? 理由は2つあって、1つは水島新司は「まだ野球まんがを描く自信がなかったから」といいます。2つめの理由は、野球まんがよりも柔道まんがのほうが当時は人気があったから、なのです。そういう時期があったのです。それはTVで『柔道一直線』が大ウケした後でしたからね。だから人気の柔道のほうが企画を編集部に持ち込みやすかったワケです。この『柔道一直線』も、元は漫画で、原作は梶原一騎、漫画は永島慎二。水島新司に永島慎二。なんだか名前が似ています。
 野球よりも柔道が人気があったといいましたが、もっと正確にいえば、スポーツまんがよりも「ケンカまんが」に人気のあった時代なのです。ボールを追いかけて点数競うより、なぐりあって血を流したりがまんしたり…そっちのほうが当時の子どもの気持ちにフィットしたんですね。子どものくせに、「親分」「子分」などと呼びあったり、学ラン着て原っぱでケンカをする… 『ドカベン』も、『ど根性ガエル』もそういう空気の中で生まれた漫画なのだ。スポーツまんがでも、試合をしているシーンよりも、ケンカシーンをページを多くさいて描いていました。『巨人の星』も『男どあほう甲子園』も。
 そのうち、そうした「時代の空気」が変化していきます。ケンカまんがの時代(男の時代)が終わり、ギャグと恋愛とスポーツの時代へと。『ドカベン』はその時代の空気の変化にうまく乗っていきました。


 僕は今年も去年も、高校野球のTV中継を一試合も観ていません。高校生がきびきびと動くのを観ることはとても気持ちいいと思いますが、勝敗そのものに興味はとくに沸きません。それでも、たまたまTVをつけて高校野球をやっていて、そのまましばらく観続けることはあります。
 去年の夏、そんなふうにたまたま観たとき、第1試合と第2試合のインターバルだったと思いますが、画面にはスタンドが映り、NHKのアナウンサーが「アルプススタンドに…」と言っていました。それを聞いて、僕はふとこう思ったのです。

 「アルプススタンド… 何故、アルプススタンドって言うんだろう? だれが言い始めたのだろう?」



 僕は去年の夏、第二次世界大戦の「空爆」について、ブログに書きました。沖縄の10・10空襲東京大空襲ゲルニカ爆撃中国の重慶爆撃…。第二次世界大戦は「空爆」という戦術が主役となった戦争といえます。そのクライマックスが原爆。
 それで「原爆」から僕が連想したのが、「アインシュタイン」でした。アインシュタインが、ヒトラーが先に原爆を手にする恐怖から、アメリカの大統領ルーズベルトに原爆を作るよう進言する手紙を書いたことは有名です。戦後アインシュタイン氏は、そのことを大きく後悔し、おなじ科学博士である湯川秀樹氏に会ったときに「湯川君、すまなかった」と涙したといいます。
 そのアインシュタイン、調べてみると、大正時代に日本へ来ているという。そういうことから僕は去年の夏の終わり頃、アインシュタインの訪日(なぜアインシュタインは日本へ来たか)に興味を抱くようになったのです。するとそこに、岡本一平という男が登場した。岡本一平…? 漫画家で、岡本太郎の父親で…それから? それでこんどは、岡本一平についての本を図書館で探しました。すると…


 バ~ン!
 それは、いきなり『岡本一平漫画漫文集』(清水勲編)の文庫本の表紙に載っていました。「アルプススタンド」というネーミング…それは岡本一平が甲子園へ行ったときに名付けて生まれたものだったのです!! 
 〔…そのスタンドはまた素敵に高く見える、アルプススタンドだ、上の方には万年雪がありそうだ。〕


 一平のこの漫画(+漫文)が載ったのは1929年8月14日の東京朝日新聞。その年の12月に一平とその一家は、ヨーロッパへの2年半の旅に出る…。

爆笑田中

2008年08月18日 | つめしょうぎ
 この詰将棋は、このブログ内で6月13日に発表した「双玉17手詰」(→問題解答)を推敲してできたもの。 「LPSA詰め将棋カレンダー2009」に投稿した3題のうちの一つです。これは不採用になったので、ここに発表します。

 元々は「双玉」だったのを、「玉」をひとつ取って、9手詰にしました。
 ということで、この詰将棋に『爆笑田中』というタイトルを付けてみました(笑)。

 詰将棋の、こんな小品にタイトルを付けるなんて、ふつうはしませんが、まあ、許してください。
 パソコンを使い始めた頃は、メールや、ブログのコメントの投稿や、保存する画像やなんかに、いちいち「タイトル」を付けるのが、面倒だし恥ずかしいしでストレスだったのですが、ブログを書いているうちに、文章を書く事と「タイトル」を付ける事とが同時作業となり、抵抗がなくなってきて、自然とタイトルを付けるようになりました。むしろ、楽しい。
 その影響か、つくった詰将棋にもタイトルを付けたくなります。
 昨日発表した僕の「はじめてつくった詰将棋」には、きのう、『キューティー・ハニー』というタイトルを思い着きました。8二(ハニー)角が決め手ということで。ええ、そう、「ハニー・フラッシュ!」ですワ。そして、キューティー・ハニー、彼女、処女ですよね? うまいネーミングだなあ…(と、どこまでもどこまでも自己満足の世界)。 ハニーの本名、なんでしたっけ?


 僕は、爆笑問題の深夜放送(TBSラジオ)もよく聞いています。「人妻枠」のコーナーが好きです。
 太田さんはハガキ(ではなく、今はメール)の読み方が上手い。爆笑太田光といえば、思い出すエピソードは、江角マキコが例の年金問題で休んでいて復帰した最初の番組で仕事をしたとき、太田さんが開口一番、江角さんに、「年金は払ったんですか」と聞いたそうですね。周囲も江角さんも、シーンとしてその場は凍りついたそうで…。凄い人だ。この太田さんが高校時代にはほとんどしゃべらなかったというから、人間というのはおもしろい。
 そしてラジオでの田中さんは笑い方が上手い。ラジオというのは、「笑い方」によって、どんなネタも「5割増し」になって面白く感じさせられてしまうから不思議です。それが「芸」というものですね。まあ、日常生活では、いちいち「5割増し」で笑われても僕らは疲れてしまいますから、ああいうのも「番組用」の芸でしょうけど。
 爆笑の田中さんの嫁さんは、去年、東京マラソンに出て、3時間15分で完走したそうです。これ、めちゃめちゃ速いですねえ!


 上の詰将棋(『爆笑田中』ね)の解答手順は、明日あたり、下のコメント蘭に書き入れておきます。

はじめてつくった詰将棋

2008年08月17日 | つめしょうぎ
 あれは10年前、村山聖くんが「2七銀…」と広島の病室で呟いて逝った年のことです。その年の10月の終わりでした。
 僕の脳裏に、将棋の駒が、ちらちらと浮かんでくるのです。金、角、飛、玉…
 なんだろう、この感じ…?
 僕は部屋のベッドの上に、折りたたみの将棋盤を広げ、駒を何枚か並べてみました。そのうちに、「うん? 詰将棋がつくれるかも…」という気がしてきました。
「こうして、こうして、こう… これでどうだろう?」

 そして、出来たのです!!
 しんじられない! 詰将棋を(僕が?)つくった! …ほんとうに?


 その詰将棋が上の図。
 僕はうれしくてうれしくて何度も詰め手順を並べました。もっと、かっこよくならないかと、考えました。その時間はまさに「至福の時」でした。
 (余詰めがあるなんてずっと気づかずに喜びにひたっていた。)

 まず、作意手順から。

 ▲8二角△8四玉▲9四飛成△同玉▲9一飛成△8四玉▲9三龍△7四玉▲6四角右(左でも可)成 まで9手詰め

 この詰将棋、しかし、余詰めがあります。 しかも、たくさん(笑)。
 まず初手▲9五角から、3手で詰み! (←わお!)
 それから、初手▲5一角でも…。  あらあらあら。


 いま見るとこのように欠陥のある作品ですが、僕にとっては一番たいせつな作品は、でも、やっぱりこれなんです。

 さて、10年を経て、ここに修正してみました。↓



 これなら大丈夫と思います。
 この玉方の8五の「と金」ですが、これを「金」にすると、ナント、やっぱり余詰めが発生してしまうのです。初手▲6二角打(△7四玉▲9四飛成…)以下の19手詰なのですが、これはソフト(東大将棋7)が発見しました。さすがソフト、こんなところまで人間が読み切るのは大変です。(でも、昭和までの詰メキストのみなさんはそれをやっていたのですが。)

 この詰将棋のねらいは初手(▲8二角)ですね。9一角では詰まないけれど、8二角とほうり込む、この感触。



 僕は20歳くらいのときに、指し将棋はアマ初段~二段くらいの実力だったのですが、その頃に一度詰将棋をつくろうとしたことがあります。その時まで、僕は、「芸術的なレベルの高いものはできないだろうけど、かんたんなものならできるだろう」と思っていました。
 ところが、出来ないのです。こんなに詰将棋をつくるのが難しいとは…。
 そのときはなんとか完成させましたが、とても詰将棋とはいえないような、(自分を)がっかりさせるものになりました。そしてそれ以来、「詰将棋をつくる」という才能は特別なものなのだ、自分にはとても無理だ、と思ってきたのです。ですから僕は、詰将棋を作る人達に、憧れながら、そして同時に、別世界の人々のように感じてきました。ずっと、そうでした。
 それが10年前、あの瞬間に、突然つくれるようになったのです。なぜか、つくれるようになりました。(体力が、最低だったあのときに。)

 ですから、詰将棋をつくる、というのは、僕にとって、「不思議な出来事」そのものなのです。
 いまも、一つの詰将棋ができ上がったとき、いつも、「ふしぎだなあ」と感じています。

LPSA  駒の動かし方手ぬぐい

2008年08月16日 | つめしょうぎ
〔手ぬぐいの定番デザインである”豆絞り”風に、駒の動かし方をデザインしました。バンダナに、風呂敷に、額に入れてインテリアに…用途はさまざま。この夏おすすめのアイテムです!〕

という、LPSA(日本女子プロ将棋協会)の商品をいただきました。

 そうです!

 『日めくり詰め将棋カレンダー2009』に僕のつくった詰将棋が採用されたのです!
 数日前に採用通知と、粗品として上の「駒の動かし方手ぬぐい」とが同封されて送られてきました。
 ありがとうございました。

 昨年は1題送って、余詰めのために不採用。(→「落選、の詰将棋」、「ヨヅメにご注意!」)
 その反省から、今年は、また余詰めがあってダメだったときのためにと考えて、いちおう3題ほど送りました。採用されたのは1題です。
 僕の中での本命は、6月につくった「双玉9手詰」(若島正の双玉5手詰に触発されてつくったもの)なのですが、少し見た目がゴチャッとしているのでやさしくて解きやすいものを求めているらしいLPSAカレンダー向きでなく、それで選んでもらえないのではないかと心配していました。しかし、その本命の「双玉9手詰」を採用していただくことになり、心は晴れ晴れでございます。
 僕としては、自作詰将棋を一度はどこかに掲載してもらいたい、という詰将棋においての夢が、ここに達成されました。 夢って、かなうなあ。



 あ、いま、新井選手がホームランを打ちました!

 北京五輪といえば、昨日の柔道金メダル石井選手の勝利者インタビューは笑えましたね。「屁のつっぱりにもなりません」って、そんないにしえのおっさん言葉、今時どこで仕入れたのでしょう? 「帰って、空気イスします」って…、新感覚だなあ。
 そして、女子卓球の早野選手の試合中の「顔」! たまらんね。 前から注目していたけど、今日もすごかった。 オリンピック、おもしろいよ。

 ああっ、同点ホームラン!

ドリームタイム

2008年08月15日 | はなし
 この数ヶ月、ちょっと心身が重くて、なにをやってもしんどい。おもしろくない。こういう時はブログを書いていてもおもしろくないので、「それなら、書かない」、と決めているのですが、気がつくとなぜかけっこう更新しています。(なぜでしょう?) 内容的には、やはり、重苦しい、ですね。「軽快さ」がない。
 暑さのせいではありません。TVでは、猛暑猛暑と煽っていますが、僕は「そんなに暑いかな、確かに暑いけど、夏だからな」などと、のんきに思っています。ていうか、今年は部屋のエアコンを全く使用していないんですよ。冷房がなければないで、身体はそっちに慣れていくんだなー、と。そろそろコオロギの声も聞こえてきていますしね。窓の外から流れてくる風が心地良いです。
 そういう暑さとは別のところで、身体が重い。
 僕のブログの記事内容も、「我が道を行く」って感じになっていますねえ。「ブログ通信簿」では、「自己主張が足りない」と言われていますが、そうですか、世間の人はそんなに自己主張を激しくやっているのですか。うーん…。まあそれはいいんですが、ともかく、「今現在」と大きく遊離した場所に、僕の興味がある。つまり、こころが、そういう場所にあるということ。
 オリンピックも観ていますよ。野球など観ていると、ああ、中島って選手はこういう構えで打席に立つのか、上原投手のピッチングは気持ちいいなとか思いますし、青木選手の膝を大きく曲げて立つ構えとか、描いてみたいですね。あと、体操の冨田選手とか、卓球の福岡選手の顔とか、描いてみたい、そういう気持ちは起こるんです。
 が、どうにも身体が重い。ということは、心も重い。
 どうやら、「沼地」を歩いているようですね、僕は。好んで、そういう道を選んで、すすんでいる。だから重いのは、しかたない。しかたないと観念しつつ、でも、やっぱり、きついのです。



 さて、本題にいこう。書きたいことは、エミリー・ウングワレーのこと。

 丸木スマは73歳で絵を描きはじめ、1956年81歳で生涯を閉じるまでの間に、700ほどの絵を描いたそうです。
 それを知って僕は、画家エミリー・ウングワレーのことを思い出したのです。たまたま2ヶ月ほど前に、エミリーの特集をNHKのTV番組『日曜美術館』でやっていて、僕はそれをビデオ録画していました。上の画は、それを観て、今、僕が描き写したものです。
 その番組の中で、エミリーは自分の鼻に穴を開けて貫通させているのですが、それは彼女の祖先からのずっと大切な場所であるアルハルクラにある岩の穴の形をあらわしたものであるといいます。「エミリーは、自分が故郷のアルハルクラと分かち難い一つのものであることを身体に刻んだのです」と説明していました。その場所、アルハルクラは、彼らが、大地とつながるための場所なのです。エミリーが絵を描くことを始めたのも、大地とのつながりのためなのでしょう。


 エミリー・ウングワレーは、78歳で絵を描き始めました。86歳で亡くなるまでの間に3000点もの作品を残したのです。そこに描かれた世界は、アボリジニのドリーミングの世界だといいます。

 エミリーはアボリジニの一種族の末裔なのです。アボリジニってのは、オーストラリアの大陸に、古くから住んでいる民族のことです。
 アポリジニとか、北方のイヌイットとか、日本ではアイヌとか、彼らは「文字を持たない人々」です。強力な文字文明の出現のために、すりきれて消えてしまいそうになりながら、それでも生きています。文字をもたないから、彼らは、彼らのもつ知恵や誇りを、子孫へ「神話」で伝えていきます。言葉と、絵で。
 そうした自分の一族の「神話」の全体を、アボリジニの場合は「ドリーミング」というのです。

 あるアポリジニのその祖先はフクロネズミだったりします。またエスキモーのある種族の祖先は、熊やハクトウワシだったりします。彼らの「神話」の世界を、ずっとずっと遡っていくと、人間と動物とが話ができた、そういう時代にたどりつくそうです。それを、(アボリジニでは)「ドリームタイム」と言います。

 そうして、丸木スマの絵を観ると、「ああ、これもドリームタイムだなあ」と思えてきます。



 ↑ 丸木スマ「柿もぎ」(一部) 
 柿とからすと人間と花と蝶が、まるで話をしながらあそんでいるように見えませんか。日本の、「ドリームタイム」の世界がここにあります。


 あああっ、「エミリー・ウングワレー展」っての、やっていたんですね。先月まで! 観そこねた、残念!

 エミリーの「エミューの女」って題の作品があるのですが、このエミューってのは、神話の中の巨鳥のことだそうです。彼女の種族にとって大事な鳥のようです。



 金メダルの北島康介選手、シドニーオリンピックの時には4位だったんですね。あのシドニーの時に、マラソンの高橋尚子や、柔道の野村忠宏、田村(谷)亮子が金メダルをすいっと取って、あのころから、僕ら(日本人)は、銀や銅では物足らなくなった気がしますね。「金の味」をおぼえたんですね。それまでは、銀でも銅でも、同じくらい喜んでいたよううな…。
 ふっ、また今日もブログ、書いちまった…。 

三吉の書いた「馬」

2008年08月12日 | しょうぎ
 坂田三吉は文字が書けなかったし、読めなかった。こどものとき、勉強がいやで、学校へ行くことを拒んだ。
 その坂田三吉が60歳のとき突然「字を習いたい」と言い出した。それで、坂田の代わりに将棋の免状の代筆を行っていた書道家の中村眉山が教えた。が、三つの字をおぼえて、投げ出した。三つの字とは、三吉の「三」と「吉」、それから「馬」である。
 坂田三吉は「馬」がとびきり好きだった。子どものときは竹馬に乗るのがとくいであったし、大人になってからは浪曲などで馬の出る物語を好んで何度もなんども聞いていた。

 坂田が大阪で「名人」を勝手に名乗ったために、将棋を指せなくなった(対局相手がいない)のは1925年、坂田三吉55歳の時。そこから、木村義雄(後に14世名人になる)との有名な対局「南禅寺の決戦」で復帰するまで11年、その間の坂田三吉は、ほとんど毎日、朝からずっとレコード(蓄音機)で浪曲や講談を聞いて過ごしていたという。
 浪曲『曲垣平九郎』(まがきへいくろう)が好きだったという。この中に坂田の大好きな「馬」が登場するのだ。
 それで僕は浪曲好きの父に『曲垣平九郎』を聞かせてくれと頼んだことがある。増水した大井川を馬に乗って渡るという話だった。なかなか面白い。ところが、曲垣平九郎が川に馬とともに飛び込んだところではなしが終わっている。これから面白くなりそうなのに…。「ええっ、おわり? オチはないの?」と思ったので、それを父に言うと、浪曲とは、だいたいそんなものという答えである。「オチ」があるのが、落語なのだと。

 好きなものは、とことん好きになる(いやなことはぜったいやらない)…それが坂田三吉の生き方らしい。
 坂田の書き残した「馬」の字は、まるで生きているようで、かわいらしい。いまにもブルンと鼻を鳴らしながら駆け出していきそうな、そんな「馬」だ。


◇王位戦
  深浦康市 3-1 羽生善治
  深浦、あと1勝で王位防衛。

◇王座戦 挑戦者決定戦
  木村一基 ○-● 谷川浩司
  木村一基八段、挑戦者に。(王座は羽生善治)

◇竜王戦 挑戦者決定トーナメント進行中
  まず、木村一基が、決勝三番勝負に名乗り。
  そして明日13日は、羽生善治・深浦康市がここでも激突。
  (個人的には、ここは羽生さんに勝ってもらって、竜王戦の渡辺明・羽生善治の対決が見たいところ。)

イリコ

2008年08月10日 | はなし
 ウチの田舎のほうでは、「にぼし」のことを「いりこ」と言います。いわし(鰯)の小さなやつですね。

 僕の小学校では、5、6年生になると「クラブ活動」という時間が週一であって、4年生の終わりのときに、どのクラブへ入るかを決めるために、先輩の活動を見学します。僕は「図画工作クラブ」と「科学クラブ」で迷いました。気持ちは「図画工作」のほうでしたが、「科学クラブ」では「水飴をつくって食べれる」といううわさがありましたし。(合法的に、給食以外のおやつが食べれるなんて!)
 さて、僕はまず、「図画工作クラブ」の見学に行きました。机の上に紙をひろげて先輩達がスケッチをしています。彼らが描いているものは…
 「いりこ」でした!
 先輩たちは黙って(下級生が見ているので意識している)、「いりこ」をスケッチしています。後で、あの「いりこ」は描き終わった後、どうするのだと、友達と話ました。きっと食べるに違いない…。
 僕は「図画工作クラブ」に決めました! (子どもは食い物によわい…)

 「図画工作クラブ」はたのしかった。トーテムポールを作ったり、石膏でモニュメントを作ったり。



 丸木スマが一番はじめに描いた絵というのが、「メバル」だそうです。これは瀬戸内海に多くいる魚です。僕は広島にいるときに夜釣りに誘われて行ったことがありますが、その時に釣りの目標とした魚が、メバルです。あれは、9月でした。海釣りは9月くらいの気候がちょうど良いですね。(余談だが、その年広島カープが優勝した。)
 スマは、1975年(明治8年)生まれ。メバルを描いたときは73歳。それがなかなかいい出来だとみなが誉め、そこからスマの画才が花開く。それまでスマは絵筆を握ったこともない。それどころか、スマは読み書きさえできないのだ。
 スマが少女の時、学校へ通うほどの経済的な余裕があったそうだが、窮屈なことが嫌いで野で遊ぶことが好きな少女スマは、読み書きを覚えることなく生きてきたのである。

 丸木位里・赤松俊子が、『原爆の図』の制作を始めたのは1947年。その第1部「幽霊」を発表するのは1950年。
 その制作の中、丸木夫妻が広島の三滝に次男と共に住んでいたスマのところに行ってみると、スマが近寄ってきて「見てくれや」という。画用紙の束を持ってきた。
 「これ、犬?」
 「魚じゃよ」  (←犬にみえる魚って…!)
 「これ、虎とひょう?」
 「猫じゃよ」
 みんなが集まって、スマの絵を見て、笑います。
 「おもしろかろうがの」と、スマばあちゃんも大笑い。


 スマの長男である丸木位里はこう言う。

 〔孫からもらった鉛筆とか、絵の具とか、クレヨンで描いてあるのが、もう、しょっぱなからおもしろい。おもしろいというか、何か出来ているし、何かあるんです。これには、まず、絵描きの私たちが、おどろいたわけです。おどろいて、何という絵か、これは。これは、もう、不思議な絵だと。何か出来ていると。何か、ものが描けていると。形は描けていないが、あるものの表現がまことにうまく出来ていると、私たち自身が見るなりおどろいたわけです。〕


  
 これは、丸木スマの「すずめと猿」という作品(一部)です。
 猿よりすずめを大きく描くなんて…意表をつく。ちょっと、思いつかない方法で見る人をおもしろがらせる。不思議な才能だ。
 こんな絵を描きたいなあ、と僕は思う。


 晩年の丸木スマは、朝から晩まで、絵を描き続けていたという。赤松俊子が、「疲れたでしょう。少し休んだら」と言うと、スマはこう答えたそうだ。

 「日照りのときの田の草取りのことを思うてみい、遊んどるようなもんよ。

通信簿

2008年08月09日 | はなし
 ええ~っ!?
 「将棋の知識や経験をいかして、児童文学作家を目指しましょう」 

 って…。  難題ふっかけるなあ…。



 昨日、地震がありました。僕は本棚の横に寝ているのでいつも危険を感じているのですが、昨日のは、揺れとともに本が落ちてきて、飛び起きました。
 落ちてきた本は、次の3冊。

 『聖の青春』大崎善生著
 『ユダヤ人の歴史』ポール・ジョンソン著
 『父が愛したゾウのはな子』山川宏治著

 村山聖さん、きのう8月8日が10周忌なんだよね。地震とともに落ちてくるなんて、すごい奴だ。
 弟弟子の片上大輔五段が思い出等をブログで書いています。(→こちら
 そしてこちらは、森信雄一門の村山聖の墓参りの写真。すごいな、森一門。
 村山聖の墓参りをしたら、将棋、強くなりそうな気がしますね。
 僕は村山さんが亡くなった一年後に広島将棋センターに行ったんだけど、その時はまだ席主の本多さんもいらっしゃった。「6対局」というのに参加して、4勝2敗でなにか商品をもらいました。

 はな子… うーん、井の頭公園、行ってみようかなあ。

スマの出現。

2008年08月07日 | はなし
 1940年代後半、『原爆の図』を制作していた丸木位里・赤松俊子のそばに、「第3の画家」が突如、出現した。
 大作を描くふたりの横で、「暑かろう」と団扇で風を送っていた、あの母…丸木位里を産み、育てた母、丸木スマである。絵筆を一度さえ持ったことがなかったスマが、70歳を越えて、絵を描き始めたのである。
 働き者であることが自分のとりえだったスマ。年をとって働く必要がなくなった。「たいくつだ~」と困っていたところに、位里の嫁・赤松俊子が、絵を描いてみればとすすめてみた。
 すると、スマは描きはじめた。もうれつに描きはじめた。

 丸木夫妻の「地獄図」のそばに咲いた花、それが絵描きの新星・丸木スマである。


 上の絵は「めし」という作品。 ねずみなのかねこなのかわからない。

原爆の図

2008年08月06日 | はなし
 「トキワ荘」のことはご存知と思います。漫画家の石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄らが1950年代に生活していたアパートのこと。そのトキワ荘、東京のどこにあるか知っていますか? (今はもう建物はなく、ビルが建っているそうですが。)
 その場所は、池袋の近くで、当時は椎名町、今は南長崎という地名の場所です。

 さて、この、池袋の近く(西口から歩いて行ける)には、トキワ荘の歴史よりさらに遡って、戦前から芸術家の溜り場だったという歴史があるようです。画家などが集まってアパートを借り、それらを「アトリエ村」と称しました。この椎名町駅近くには「さくらが丘パルテノン」と名づけられたアトリエ村がありました。他にもいろいろあって、こうしたアトリエ村を総称して、「池袋モンパルナス」と呼ばれていたそうです。

 そのアトリエ村「さくらが丘パルテノン」に住んでいた画家の夫妻、丸木位里・赤松俊子について今日は触れたいと思います。



 丸木位里は1901年、広島に生まれた。位里は「いり」と読むが、もともとは「いさと」である。
 丸木位里は顔の右側に大きな「あざ」を持って、丸木家の長男として生まれてきた。位里の母はそれを見て、自分が産み月に階段を踏みはずしてすべってしまったためではないかと心を痛めた。そのせいか、母はこの長男にはとくべつ、優しかったようだ。少年時の位里は絵ばかりを描いていた。長じても、金を稼ぐような心配をなにもせず、絵を描いていた。そのうちに丸木家は経済的に苦しくなり、財産(土地)を手放さねば生きていけないほどになっていき、それを見かねた親戚からは「位里を勘当にしてはどうか」という提案もなされたが、位里の母は大反対。どこまでも息子の位里に寛大で優しい、そして働き者の母であった。家は、農業と民宿をやっていた。

 丸木位里と赤松俊子は1941年、結婚する。二人が出会った時、位里には妻がいたが、ある日その妻が、赤松俊子のところにやってきてこう言った。「位里は、あなたに差し上げます。あなたの方が、位里を幸せにできるでしょうから。」

 赤松俊子は、1912年、北海道に生まれた。小学校の教員も勤めたが、画家と教員の二足の草鞋は無理だと悟り、画家としての道を進む。そして、日本画を描いていた丸木位里に出会う。
 1941年に結婚して住みついた場所が、「池袋モンパルナス」の一角、「さくらが丘パルテノン」である。

 しかしやがて戦争がきびしくなり、東京空襲から逃れるために、一時埼玉県浦和の疎開する。そして1945年8月6日、広島に新型爆弾が投下され、広島は壊滅状態といううわさが流れた。
 広島には、位里の父母や、親戚、知人がいる。心配した丸木位里は広島へ急いだ。少し遅れて、赤松俊子も広島へ。丸木夫妻は、原爆投下後の広島のすがたを見た。


 さて、話はかわる。いわさきちひろのことである。
 終戦後の1946年5月2日、中央線の列車に乗って、いわさきちひろは東京へ出た。『人民新聞社』の記者としての職を得て、共産党宣伝芸術学校へ入学するためである。ちひろ28歳。
 このとき、ちひろが上京第一日目に泊めてもらったのが、丸木夫妻の家、つまり「さくらが丘パルテノン」のようである。
 丸木位里は、戦争中から、戦争には反対であったようだ。そして、戦後、すんなりと日本共産党へ入党する。もちろん妻赤松俊子も一緒に。
 そういうつながりで、赤松俊子は、いわさきちひろの画の先生となったのである。

 丸木夫妻のところには、若い芸術家、画学生が集まって、デッサン会や合評会を行っていた。「絵は誰でも描ける」というのが持論の丸木夫妻は、「来たい人はだれでもどうぞ」という方針だった。
 いわさきちひろもそこに参加した。ちひろの姿は「白っぽいブルーズを着て長めのスカート、大きいスケッチブックを抱えてあらわれた」そうである。
 交代でモデルをしていたが、裸を描こうというときに、でも裸になるのは抵抗がある…と思っていたときに、赤松俊子はこう言ったという。「モデル一人で裸になるのは恥ずかしいから描く人もみな裸になってデッサンしよう」 そうして、風呂屋で絵を描いているように粛々とデッサンしたという。
 俊子はちひろより、8歳ほど年上である。


 そのうち、赤松俊子の体調がわるくなった。
 どうやら原爆の放射能の影響が出たらしい。しばらく空気の良いところで暮らそう、ということになり、丸木位里・俊子は池袋を離れ、神奈川県片瀬(江ノ島の近く)に移る。
 そうして位里は、原爆のことを考えた。
 「なぜ、みんな、原爆のことをなにも語らないのだろう。まるで、あれは、なかったことのように。」
 これじゃあ、いかん。自分は画家だ。そしてあの原爆を落とされた広島の街をこの目で見てきている。原爆の絵を描こう。

 丸木位里・赤松俊子は、片瀬にて、『原爆の図』の制作を始めた。1947年のことである。


 僕は、今日、『原爆の図』をはじめて観た。画集を図書館から借りてきて。8月6日に原爆の画集を見るなんて、やりすぎな感じで恥ずかしいが、こういうきっかけでもないと、このような絵には、手を伸ばすことができない。

 地獄図だ。  くるしい。

 
 丸木夫妻がこの画の制作にとりかかり始めた時、位里の母はもう70歳を超えていた。息子たちの家を移り住みながら、片瀬にもやってきた。位里の母は、位里にとくべつ優しかったように、嫁の俊子にも優しかったという。『原爆の図』を描いている夫妻の横で、「暑かろう」と、団扇で風を送ってくれたそうだ。


 『原爆の図』は、15連作で、第1部には「幽霊」というタイトルが付いています。第14部のタイトルは「からす」。 第15部が「ながさき」。
 実物は、一枚の画が、180cm×720cm(ふすま8枚分)だから、これは観るのも、たいへんだ。

共産党宣言!

2008年08月05日 | はなし
「一個の妖怪がヨーロッパを徘徊している――共産主義の妖怪が…」

 これは『共産党宣言』の有名な序文の冒頭である。
 変わった書き出しである。著書の中で主張する共産主義を、いきなり、「妖怪」と呼ぶのだから。(Wikipediaでは、「幽霊」となっていた)
 この冒頭は知っていても、僕は、まったくこれを読んだことがない。いまのいままで、共産主義という考え方は、マルクスから始まっているのかと思っていたくらいである。私たちの世代はだいたいこんな感じである。なにしろ「無気力世代」だったから。
 将棋のプロ棋士先崎学八段は、この本を(インテリを気取って?)中学生の時に読んだそうである。(笑) 僕より一回り年下(羽生世代)なんだけどね。
 
 いわさきちひろは、これを読んだ。熱心に読んで勉強した。
 28歳のときである。
 松本市で開かれた日本共産党の演説会を聞きに行った。だれに誘われたわけでもなく、自分で行こうと思ったようである。それがきっかけで、共産党の学習会に参加した。ちひろは、発言せず、黙ってしずかに聞いていたという。女性はただ一人だったから目立っていたはずだ。おしゃれに興味のあるちひろは、ファッションにも自分で工夫していたからあかぬけて見えていた。
 そして、ある日、入党を決めた。だれにも相談せず、決めた。

 「思想」や、「宗教」というのは、ある意味、舗装道路ではないだろうか。あるいは、列車の鉄道か。
 人は、悩み、考える。そうするうちに、いつの間にか、「沼地」を歩いている。もがけばもがくほど、深みへはまっていく、森の沼地である。
 ノイローゼ(神経症)とは、自分のこころの中に、ずぶずぶとはまって、身動きがとりにくくなる状態である。ちひろは、その入り口にいたのだろう。そうしながらきっと、もっと歩きやすい道を探していたのだ。

 初め、ちひろは、宮沢賢治に傾倒した。
 終戦が来て、職を失ったいわさきちひろの両親は、安曇野の土地を開墾し、農業を始めることにした。そうした中で、ちひろの生き方のヒントになったのが、賢治の『農民芸術概論綱要』だったのだろう。だが、農業をやろう、と決めたのは両親であって、ちひろではない。本当のところを言えば、ちひろの感性の中には、農業者として生きたいというのはなかったのではないだろうか。それに、「ほんとうの百姓になる」と言って実行した宮沢賢治も、結局は夢を描いただけで、数年で挫折しているのである。
 ほんとうのところ、ちひろの願いは、東京に出て、絵描きになることだったのである。都会へのあこがれもある。結婚への夢も消えてはいなかっただろう。ちひろは、賢治ではない。宮沢賢治にはなれるはずがないのである。賢治のように、森の沼地をずぶずぶと歩くなんてのは、彼のようなとくべつな者にしかできないことなのである。


 ちひろが20歳の時の結婚は、失敗に終わった。
 相手の青年もかわいそうだった。青年はちひろに恋をした。結婚を申し込んだ。ちひろの両親は大いに賛成した。この両親は、見合い婚で、結婚式当日に初めて顔あわせをした。それで、仲良くやってこれた。「いっしょになってしまえば上手くいくものよ」と、両親は自分たちの経験から言う。ところが、ちひろの「感性」は、小さな声で「NO!」と言っている。それにしたがってちひろはその結婚を断る。それでも、青年はあきらめない。それでちひろは、「外国で暮らせるのなら…」と無理難題を言って断ろうとするが、すると青年は、その言葉に副って中国・大連での勤務を決めてきた。そういう経緯で結婚したが、大連での暮らしの中、ちひろの心は開かない。青年は、ちひろの心が、自分に開かれるのを、待とうとした。結婚しても、ちひろは処女のままだった。青年は、好きになった女性に対して、誠実であろうと努力したようである。そういう生活は、しかし、突然、一年で終了を迎える。青年は首を吊って死んだのである。青年は、性欲の悩みを遊里で解消し、性病にかかってしまっていたようだ。彼は、ちひろに恋をしなければ、平凡で幸福な一生を送ったかもしれない。

 ちひろの「感性」は、初めから、こういうことになるのではないかとわかっていたのかもしれない。だからやめろと告げたのではないか。なぜ、自分はその「声」にしたがわなかったのか、とちひろは後で思っただろうか。
 「感性」とは何か、という問題はここでは置いておくとして、僕が言いたいのは、次のことである。
 青年との結婚話を「NO!」と言ったちひろの中の「感性」は、日本共産党への入党に関しては、「YES!」と言ったのである。


 共産党員となったちひろは単身、東京へ出る。共産党の党宣伝芸術学校へ入学するためである。ちひろの、絵を描いて生きる、という生活がここから始まったのである。
 ちひろの前に「道」は開かれた。道は照らされている。社会を勉強しよう。勉強する仲間がいる。平和のために活動する仲間がいる。絵を描こう。みんなのために、平和な社会のために、自分のために、描こう。
 その後、ちひろは同じ党員である松本善明氏と出会い、結婚する。息子を産み、母親にもなった。その後の、ちひろの、画家としての活躍はご存知の通りである。

 人の人生には限りがある。こころの器のサイズにも限りがある。(無限ではないのだ。) その限りのある時間と器に合わせて、「生き方」を選択する。そのナビゲーターを「感性」が担当するのだ、と考えてみよう。
 いわさきちひろの「感性」は、日本共産党という「乗り物」を選んだのだ。そして、妻になり、画家になり、母になり、世のために仕事をする、それらの夢をすべて実現した。たしかに、その「乗り物」は、彼女に合っていたようだ。

 もともと、社会主義や共産主義は、資本主義の発達によってできた「ひずみ」を修正するために生まれてきた思想のようだ。しかし今、共産主義自体がまた別の新たな「ひずみ」を生むという現実も証明されてきている。
 しかし、いわさきちひろの生きた時代は、共産主義が生き生きとしていた時代だと言える。世界で最初の社会主義国の誕生につながるロシア革命が起こったのは1917年11月。ちひろが生まれたのは、その1年後、1918年。また、ちひろが癌のために没したのは、1974年だが、その2年前、日本共産党は、衆議院総選挙において、都市部で支持を得て、史上最高の38議席を獲得した。

 そうしてみると、彼女の絶筆作となった『赤い蝋燭と人魚』(小川未明著)の、「赤」の色、あれは赤旗のことか、と思えてくる。
 なんにせよ面白いのは、彼女の絵と、共産主義という「思想」とが、その二つのイメージが、私たちの中ですんなり繋がらないところである。だが、たしかにちひろは、バリバリの共産党員だったのである。


  
 さて、「感性」とは、何か?
 人の中にある、「人間性」とはべつのいきもの…つまり、「妖怪」のようなものではないかと、僕は思っている。

梓川

2008年08月03日 | はなし
 このまえ、『河童の国』というタイトルで記事を書いたのだけど、そのあとで、すっかり芥川龍之介の小説『河童』のことを忘れていたなあ、と思った。僕はその小説を読んだことがあるのかどうかも自信がない。
 で、読んでみた。
 おお、これはまさしくノイローゼ世界の話ではないか。芥川は子ども向けの童話もたくさん書いているが、この『河童』は、そうではない。こむずかしくて、冷笑的な大人向けの話だ。おもしろいことは、おもしろいが。

 この小説の中に、河童の国でラップという名の河童が、往来で股を広げ、その間から顔をのぞかせている。主人公(人間)が、「発狂したか!?」と心配しましたが、ラップはこう言います。

 〔いえ、あまり憂鬱(ゆううつ)ですから、さかさまに世の中をながめて見たのです。けれどもやはり同じことですね。〕

 『河童』は、芥川龍之介の晩年の作品です。これを書いたしばらく後に自殺します。その理由というのが「ぼんやりとした不安」。芥川は、小説は書けば売れていたし、家族ともめていたわけではないし、死にたくなるようなはっきりした理由なんてないのですけど。芥川は、『河童』を書いて、「さかさまに世の中をながめて見たのです」が、「けれどもやはり同じことですね。」ということで、さかさまに眺めても、彼の憂鬱はどうにもならなかったんですね。
 それでまあ、僕は、芥川の『河童』を読んだ後、Wikipediaで「芥川龍之介」を調べてみたんです。そしたら、彼が死んだのは(1927年)7月24日で、この日を「河童忌」っていうんですって。僕が『河童の国』を書いた日は、24日ではなかったのですが…、ちょっと近かった。 なんか、オレ、あぶない? 河童が呼んでいる? いや、いまのところ大丈夫、と思います。(正岡子規の命日9月19日は「糸瓜忌」でしたね。


 ところで、この芥川龍之介の『河童』、主人公は穴から落ちて、「河童の国」に落ちてゆくのですが、その穴って何処にあると思います? この小説、こういう書きだしで始まっています。


 〔三年前(まえ)の夏のことです。僕は人並みにリュック・サックを背負い、あの上高地(かみこうち)の温泉宿(やど)から穂高山(ほたかやま)へ登ろうとしました。穂高山へ登るのには御承知のとおり梓川(あずさがわ)をさかのぼるほかはありません。…〕

 「梓川(あずさがわ)」にあるのだそうです。ここで主人公は、河童に会い、穴に落ちたのです。
 梓川は、長野県松本、安曇野を流れています。(またしても安曇野!)


 さて、安曇野、といえば、いわさきちひろのこと。彼女が終戦を迎えた地が安曇野だと、僕は既に何度か書いています。戦争中の忙しさに追われて、必死で生きていた時間が突然終わり、ちひろは今後のジンセイを考えなくてはならなくなりました。失敗した結婚、自分の持っている絵の才能、戦争はなぜ起こったのか…。

 その後、ちひろはどうしたでしょうか?
 ちひろは、河童に会ったでしょうか?

 そうした悩みを一気に解決する手段をちひろは見つけます。
 日本共産党へ入党したのです。 だれにも相談せず、考えて、決断したのでした。終戦後、半年後のことでした。

 芥川は、河童の穴に落ち込んで、帰ってこれなくなりました。河童の国への永住を芥川が望んだのでしょう。
 いわさきちひろは、共産党をみつけることで、「河童の国」をさがす必要がなくなったようです。

 そうか。あそこ、安曇野には「河童の国」の入り口が、あるのか…。
 そいうえば、結婚した相馬黒光は、安曇野でノイローゼになって、それで夫の相馬愛蔵が、「それじゃあ東京でなにか商売でも始めるか」と、パン屋(新宿中村屋)を開業したのだった。
 あ、芥川龍之介も、夏目漱石の弟子でしたね。