写真は木村義雄十四世名人です。
今日は先手萩原淳八段、後手木村義雄名人の1941年の対戦をお贈りします。持ち時間は11時間(――ということは2日制でしょうね)。
今回の主役は萩原淳(はぎわらきよし)八段。木村名人より一年早く生まれています。この対局の時は両者ともに30代の指し盛りです。
萩原八段は、ちょっと見たことのない、そしておそらくは一回限りの戦法を見せてくれています。
ではその棋譜を――。
▲2六歩 △3四歩 ▲2五歩 △5四歩 ▲2四歩 △同 歩
▲同 飛 △3二金 ▲3四飛 △5五歩
▲2四飛 △2三歩 ▲2八飛 △6二銀 ▲7六歩 △5三銀
▲6八銀 △4二銀上 ▲6六歩 △4一玉 ▲6七銀 △8四歩
「5筋位取り横歩取らせ」戦法を紹介してきましたが、ここでは木村名人が後手番でそれを採用しました。先手荻原八段、それに応じてサクッと横歩を取りました。この場合はとくに、まだ先手の角道が開いていないので過激な乱戦になる可能性も少なく、横歩が取りやすいところではあります。
萩原八段、3四飛と横歩をとった後、2四~2八と飛車を戻します。
▲3八銀 △8五歩 ▲7七角 △5四銀 ▲2七銀
さて先手萩原八段の構想は? 3八銀~2七銀と右銀を出ました。「棒銀」です。
この時代、棒銀は珍しい。この時代の相居飛車は「中央重視」なので、右銀を5七へ持っていくのが基本です。後手の木村名人の銀がそう進んでいますね。棒銀は「プロには通用しない」と思われていたフシがあります。
1950年代になって、升田幸三が棒銀を積極的に使うようになって、そのあたりからやっと「棒銀」がプロでも立派な戦術の一つとみなされるようになりました。
ただし、「棒銀」の歴史そのものはずっと古いです。駒落ち上手の振り飛車に対する攻め方として棒銀は指南書にも書かれています。
△3三銀 ▲7五歩 △3一角 ▲7六銀 △5二金
この「5筋位取り横歩取らせ」の場合、後手は駒を中央に集めてくるわけですから、2筋の守備はうすくみえる。なので現代の視点から見れば「棒銀」で2筋を狙うのは理にかなっているように見えます。しかしこの時代の後手は「なに、大丈夫さ」と思っていたようです。
具体的には、先手が「棒銀」にきたら、後手はどう対応するのでしょう?
木村名人は、先手萩原の▲2七銀を見て、△3三銀。
これは次に△3一角とする予定です。萩原がずんずんと棒銀を進めてきたら、そのまま銀交換に応じるか、△2二銀かあるいは△4二角で銀交換を拒否するか、△5三角と置いて2六歩などで止める構想もある。それらの内のどれかだと思います。
後手が△3一角とすることがわかっているので、先手萩原は、先んじて▲7五歩から▲7六銀。 これは後手の△8六歩からの飛先突破を防いだ手。
それはわかるのですが、とはいえ、7六銀と2七銀はバランスが悪いようにも見えます。▲7五歩では、代わりの手として7八金もあったでしょうが、萩原八段はそう指さなかった。ちょっと“考え”があったからです。
木村名人、△5二金。 自然な手に見えますが…
▲8六歩 △同 歩 ▲8八飛
木村名人の△5二金は、しかし、問題の一着でした。この手が形勢をそこねる原因になったかもしれません。
ところで、この将棋に関しては、棋譜のみを見て、ど素人の僕が感じたことを書いています。つまり参考にする「解説なし」で書いているので、形勢判断など、まったくの誤りである可能性も大いにありますのでその点ご了承の上でお読みください。宜しくお願いします。
『△5二金が疑問手かも…』というのは僕のぼんやりした感想です。
木村の△5二金を見て、萩原、▲8六歩。 △同歩に、▲8八飛。
これを萩原は狙っていた!!!
△5三角 ▲7八金 △4二金左 ▲4八玉 △3二玉 ▲3八銀
△6四歩 ▲8六飛
こんな作戦、見たことありますか?
横歩を取って、棒銀に行くふりをして、「ブン!」と向かい飛車い振る。なんとダイナミックな戦術でしょう!
名づけるなら、「横歩取り陽動向かい飛車」だ!!
私たちは「ひねり飛車」という戦法を知っています。2筋で歩交換して一歩を手に持ち、その後飛車を浮き飛車で左エリア、7六や八六に持っていくのが「ひねり飛車」です。
この萩原流もそれと同じ構想とも言えますが、3四から2八そして8八へという飛車の動きは珍しいし、その間に「棒銀で行くぞ」というフェイクも入れていますから、木村名人もこれは騙されたかもしれません。
木村名人は△5二金としてしまったので、8筋は完全に無防備となり、先手の“向かい飛車”の勢力が優勢になりました。この“向かい飛車”は強力です。すでに銀(7六)も出てきていますし、なによりも普通の向かい飛車より優れている点は、「持ち歩2つがある」ことです。これは大きい。
後手がこの金をこちらに上がらなければ、7二金として8筋を補強できました。
しかし木村は5二に上がった。どうするのか。(それでも5二金を7二まで持っていくのか?)
萩原の▲8八飛を見て、木村名人は先手の狙いを十分に理解したはず。萩原陣もまだ隙だらけなのですぐには攻めてこれない。何手かの余裕がある。さて、名人はどう指したか。
木村名人、悠然と△5三角。そして2枚の金をくっつけ、玉を3二に囲います。今でいう「ボナンザ囲い」という形。
「不敗の名人」としてめったに負けなかった全盛期の木村義雄――とはいえ、これで8筋は大丈夫なのだろうか。
萩原は3八銀と自陣を引き締め、4八玉の位置をよしとみて、ついに攻めを開始します。
▲8六飛。
△8四歩 ▲8三歩 △同 飛 ▲8五歩
飛車交換は飛車打ちこみの隙がある後手に不利。よって木村△8四歩。
しかし先手には「持ち歩」がある。▲8三歩△同飛とたたいて、▲8五歩と継ぎ歩。
△8五同歩 ▲同 銀 △9四歩 ▲8四歩 △8二飛 ▲7六銀
△9三桂 ▲8三歩成 △8五歩
木村、△9四歩~△9三桂で応じるも…
▲9三と △8六歩 ▲8二と △7四歩 ▲8三飛 △6五歩
▲8六飛成
結局、双方飛車を取りあって、萩原、▲8三飛と打ちこむ。
△6六歩 ▲6四歩 △8七歩 ▲9一と △6九飛 ▲7九桂
△5六歩
▲8六飛成と竜をつくって、先手盤石。▲9一とで先手桂香得。
どうみても先手優勢だろう、これは…。 木村名人はどうするのか。
木村は、6~8筋で歩の味付けをしておいて、捕獲されそうな場所に△6九飛と飛車を打つ。
萩原、7九桂とがっちり。
▲5八玉 △4九飛成 ▲同 銀 △3五角 ▲4六香 △5七歩成
▲同 玉 △5六歩 ▲同 玉 △7五歩 ▲同 龍 △4四銀
△5六歩に同歩なら、△3五角として、△7九角成のねらいがあって、そうなると後手の飛車打ちが成功となる。これが木村の反撃の構想だった。「これでいける!」とどの程度思っていただろうか。自信があったか、それとも、ちょっと厳しいがこう行くよりない、と思っていたか。
萩原は▲5八玉。飛車を玉ですぐ取りに行った。
木村、飛車を切って、狙い筋の△3五角。
▲5七玉 △5六歩 ▲4八玉 △3六歩 ▲6六角 △3七歩成
▲同 玉 △5七歩成 ▲同 角 △4五銀右
飛車を失った後手はさらに二枚の銀を攻めに参加させる。 木村の攻め脚がゆるめば、萩原の勝ちだ。
▲7一龍 △5一歩 ▲9三角成 △8八歩成 ▲同 金 △4六銀
▲同 歩 △5五銀 ▲5三歩
▲7一龍~▲9三角成で先手は後手の目標にされそうになっている角を捌く。
△4六角 ▲4八玉 △5三金左 ▲3三歩 △同 玉 ▲3一飛
萩原がここで放った▲5三歩、これは半分「受け」の手で、うっかり△7一角と竜を取られては一大事。
△3二歩 ▲2一飛成 △7九角成 ▲2五桂 △2四玉 ▲3二龍
△4六馬
先手も▲3三歩△同玉▲3一飛で、飛車を打って攻め味をつくる。
これでお互いに“裸の王様”になった。さあ、どっちが勝っているのか?
▲5七馬
この図(△4六馬まで)では、先手玉が“詰めろ”になっている。先手がなにもしなければ、△4七香、または△5六桂で詰む。
棋譜を観ながら「どう指すのか」と思って次の手を見れば、萩原の指した手は「▲5七馬」だった。
これで受かっているのだろうか。 ここで△4七香なら同馬と取って、これは先手よさそうだ。では、△5六桂にはどうするのか。玉を逃げる手は金打ちで詰んでしまう…だから△5六桂は同馬しかないが、すると後手は同銀。そこで先手は3三竜、後手は1四玉と逃げて、先手2六桂と打つ――なるほど、これで詰みか、詰まない場合でも少なくとも後手のあの馬は消せそうだ。
木村名人は△3六桂と打った。
△3六桂 ▲同 龍 △5七馬 ▲同 玉 △4六金 ▲同 龍
△7九角 ▲6八桂
名人の攻め。 △3六桂▲同龍で竜を引き寄せ、馬同士で交換して、△4六金。
△4六銀 ▲同 玉 △6八角成 ▲5七歩 △3四桂 ▲5六玉
△4六飛 ▲6五玉 △5七馬 ▲3三角 △2五玉 ▲1六銀
竜をとって、△6八角成。 寄っているのか――!?
投了図
いや、寄らなかった。 木村名人、投了。
萩原玉は6五に逃げ、もう捕まらない。萩原八段が逃げ切って勝ち。135手。
32手目「△5二金」と35手目「▲8八飛」、これがこの勝負の全体像の骨格をつくったことになったポイントだと思うのです。
それを、「横歩取り」とのつながりで考えてみましょう。
先手は‘横歩’を取ったために2手(3四~2四)手が遅れています。そして右銀の棒銀の動き。これらがなしで、もっと早く8八飛と指していたら、木村名人の方はまだきっと右金は「6一」のままだと思います。‘横歩’をとり右銀を進め、という余分な手を指したために木村は「△5二金」を指し、萩原は「よし、それを待っていた!」と飛車を8八へと振ったのかもしれません。
だとしたら、「横歩取りによる手損を利用する高等戦術」ということになります。その真実は不明としても、萩原淳が、全盛期の無敵戦艦木村義雄を「萩原流横歩取り陽動向かい飛車」で一番倒したことは事実として残ります。一回しか使えなさそうな戦法ではあるけれども。
萩原淳八段は1935年~1937年に行われた実力制名人制度が立ち上がるときにそのリーグ戦に参加して戦ったメンバーの一人です。しかしそれ以外についての情報がぼくの手元にはなかったので、Wikipediaで調べてみました。
それによると、『1949年、第2回全日本選手権戦で木村義雄・升田幸三との決勝三者リーグを制し優勝。』とあります。この全日本選手権戦という棋戦は今の「竜王戦」のルーツになる棋戦のようで、ですので読売新聞社の主催です。この1949年のこの棋戦では、まず12人が戦って3人に絞る。それによって木村義雄、升田幸三、萩原淳の3人が勝ち残り、「巴戦」を戦った。そこで3者「1勝1敗」になったのでさらにもう一度「巴戦」をやり直し、そこで萩原さんが優勝した、ということのようです。3人で決勝戦なんて、ずいぶんと面白い仕組みですね。
それから、木村名人と升田幸三の有名な『ゴミハエ問答』。
名人「豆腐は木綿に限るね」
升田「昔から豆腐は絹ごしが上等と決まっておる」
から始まって、途中、
升田「名人なんてゴミのようなもんだ」
名人「名人がゴミ? なら君はなんだ?」
升田「ゴミにたかるハエですな」
となったので『ゴミハエ問答』と呼ばれていますが、実はこのエピソード、この1949年のこの棋戦での「三つ巴戦」の1回目の木村升田戦の前日の会食で行われたトークなんですって。(先週書いた記事『錯覚いけないよく見るよろし』では、1951年名人戦前ラジオで、としましたがそれは間違いだったようです。ここに訂正致します。)食事中のおしゃべりがけんか腰になった。ですから、ファンサービスというわけでもなかったのですね。自然と口喧嘩していただけ。
その木村升田戦は大熱戦となり、210手で升田勝ち。戦型は「相矢倉」でした。
さてもう一度1941年の萩原木村戦に戻ります。
木村名人の序盤の「△5二金」とその後の指し手についてです。結果的に見れば、その手が敗着では、というのが僕の感想ですが、しかし名人がそれを修正しようと思えばできたはずなのです。だけども、名人は決して「△5二金」を6二、7二とやり直すような妥協の手は指さなかった。「△5二金」と金を上がった手を生かすような将棋のつくりを考えた。このあたりが木村名人の強者の意地というか、名人の格調高さではないかと思うのです。
8筋を先手に攻め込まれても、後手は5筋の位を取っていますから、△5六歩と、6九飛の打ちこみと、それから角銀の援軍とで中央から崩す、そこに全てを賭ける覚悟で、あのように指したのではないでしょうか。もちろん、勝てると信じて。
参考図
この図は、木村義雄・坂田三吉の有名な対局「南禅寺の決戦」の途中図です。「9四歩」の坂田三吉の端歩突きがよく知られていますが、その対局は図のように、先手木村義雄が5五の位を取り、坂田は向かい飛車に振る、そういう戦型になりました。
19手目、先手木村義雄が指した手は、「5八金左」です。この図で見ると、有名な坂田の端歩(9四歩)より、木村の「5八金左」のほうがより“異様”な手に映りませんか。これが坂田の「向かい飛車」に対抗する木村義雄の「答え」です。これは上の萩原戦の時とは真逆の対応で、後手の攻め進めようとしている2筋からの真っ向勝負を考えています。「この金で行こう」と木村義雄はここで決断したのです。
この「南禅寺の決戦」は木村がまだ名人になる前の1937年に行われました。(萩原戦の4年前ですね。)
この将棋は横歩取りとは無関係な内容になりますが、ちょっとこの「南禅寺の決戦」の棋譜を並べてみて新たに気づいたことがあって、それを書きたいので、次回はこの対局の棋譜を紹介することにします。
それでは、また。
今日は先手萩原淳八段、後手木村義雄名人の1941年の対戦をお贈りします。持ち時間は11時間(――ということは2日制でしょうね)。
今回の主役は萩原淳(はぎわらきよし)八段。木村名人より一年早く生まれています。この対局の時は両者ともに30代の指し盛りです。
萩原八段は、ちょっと見たことのない、そしておそらくは一回限りの戦法を見せてくれています。
ではその棋譜を――。
▲2六歩 △3四歩 ▲2五歩 △5四歩 ▲2四歩 △同 歩
▲同 飛 △3二金 ▲3四飛 △5五歩
▲2四飛 △2三歩 ▲2八飛 △6二銀 ▲7六歩 △5三銀
▲6八銀 △4二銀上 ▲6六歩 △4一玉 ▲6七銀 △8四歩
「5筋位取り横歩取らせ」戦法を紹介してきましたが、ここでは木村名人が後手番でそれを採用しました。先手荻原八段、それに応じてサクッと横歩を取りました。この場合はとくに、まだ先手の角道が開いていないので過激な乱戦になる可能性も少なく、横歩が取りやすいところではあります。
萩原八段、3四飛と横歩をとった後、2四~2八と飛車を戻します。
▲3八銀 △8五歩 ▲7七角 △5四銀 ▲2七銀
さて先手萩原八段の構想は? 3八銀~2七銀と右銀を出ました。「棒銀」です。
この時代、棒銀は珍しい。この時代の相居飛車は「中央重視」なので、右銀を5七へ持っていくのが基本です。後手の木村名人の銀がそう進んでいますね。棒銀は「プロには通用しない」と思われていたフシがあります。
1950年代になって、升田幸三が棒銀を積極的に使うようになって、そのあたりからやっと「棒銀」がプロでも立派な戦術の一つとみなされるようになりました。
ただし、「棒銀」の歴史そのものはずっと古いです。駒落ち上手の振り飛車に対する攻め方として棒銀は指南書にも書かれています。
△3三銀 ▲7五歩 △3一角 ▲7六銀 △5二金
この「5筋位取り横歩取らせ」の場合、後手は駒を中央に集めてくるわけですから、2筋の守備はうすくみえる。なので現代の視点から見れば「棒銀」で2筋を狙うのは理にかなっているように見えます。しかしこの時代の後手は「なに、大丈夫さ」と思っていたようです。
具体的には、先手が「棒銀」にきたら、後手はどう対応するのでしょう?
木村名人は、先手萩原の▲2七銀を見て、△3三銀。
これは次に△3一角とする予定です。萩原がずんずんと棒銀を進めてきたら、そのまま銀交換に応じるか、△2二銀かあるいは△4二角で銀交換を拒否するか、△5三角と置いて2六歩などで止める構想もある。それらの内のどれかだと思います。
後手が△3一角とすることがわかっているので、先手萩原は、先んじて▲7五歩から▲7六銀。 これは後手の△8六歩からの飛先突破を防いだ手。
それはわかるのですが、とはいえ、7六銀と2七銀はバランスが悪いようにも見えます。▲7五歩では、代わりの手として7八金もあったでしょうが、萩原八段はそう指さなかった。ちょっと“考え”があったからです。
木村名人、△5二金。 自然な手に見えますが…
▲8六歩 △同 歩 ▲8八飛
木村名人の△5二金は、しかし、問題の一着でした。この手が形勢をそこねる原因になったかもしれません。
ところで、この将棋に関しては、棋譜のみを見て、ど素人の僕が感じたことを書いています。つまり参考にする「解説なし」で書いているので、形勢判断など、まったくの誤りである可能性も大いにありますのでその点ご了承の上でお読みください。宜しくお願いします。
『△5二金が疑問手かも…』というのは僕のぼんやりした感想です。
木村の△5二金を見て、萩原、▲8六歩。 △同歩に、▲8八飛。
これを萩原は狙っていた!!!
△5三角 ▲7八金 △4二金左 ▲4八玉 △3二玉 ▲3八銀
△6四歩 ▲8六飛
こんな作戦、見たことありますか?
横歩を取って、棒銀に行くふりをして、「ブン!」と向かい飛車い振る。なんとダイナミックな戦術でしょう!
名づけるなら、「横歩取り陽動向かい飛車」だ!!
私たちは「ひねり飛車」という戦法を知っています。2筋で歩交換して一歩を手に持ち、その後飛車を浮き飛車で左エリア、7六や八六に持っていくのが「ひねり飛車」です。
この萩原流もそれと同じ構想とも言えますが、3四から2八そして8八へという飛車の動きは珍しいし、その間に「棒銀で行くぞ」というフェイクも入れていますから、木村名人もこれは騙されたかもしれません。
木村名人は△5二金としてしまったので、8筋は完全に無防備となり、先手の“向かい飛車”の勢力が優勢になりました。この“向かい飛車”は強力です。すでに銀(7六)も出てきていますし、なによりも普通の向かい飛車より優れている点は、「持ち歩2つがある」ことです。これは大きい。
後手がこの金をこちらに上がらなければ、7二金として8筋を補強できました。
しかし木村は5二に上がった。どうするのか。(それでも5二金を7二まで持っていくのか?)
萩原の▲8八飛を見て、木村名人は先手の狙いを十分に理解したはず。萩原陣もまだ隙だらけなのですぐには攻めてこれない。何手かの余裕がある。さて、名人はどう指したか。
木村名人、悠然と△5三角。そして2枚の金をくっつけ、玉を3二に囲います。今でいう「ボナンザ囲い」という形。
「不敗の名人」としてめったに負けなかった全盛期の木村義雄――とはいえ、これで8筋は大丈夫なのだろうか。
萩原は3八銀と自陣を引き締め、4八玉の位置をよしとみて、ついに攻めを開始します。
▲8六飛。
△8四歩 ▲8三歩 △同 飛 ▲8五歩
飛車交換は飛車打ちこみの隙がある後手に不利。よって木村△8四歩。
しかし先手には「持ち歩」がある。▲8三歩△同飛とたたいて、▲8五歩と継ぎ歩。
△8五同歩 ▲同 銀 △9四歩 ▲8四歩 △8二飛 ▲7六銀
△9三桂 ▲8三歩成 △8五歩
木村、△9四歩~△9三桂で応じるも…
▲9三と △8六歩 ▲8二と △7四歩 ▲8三飛 △6五歩
▲8六飛成
結局、双方飛車を取りあって、萩原、▲8三飛と打ちこむ。
△6六歩 ▲6四歩 △8七歩 ▲9一と △6九飛 ▲7九桂
△5六歩
▲8六飛成と竜をつくって、先手盤石。▲9一とで先手桂香得。
どうみても先手優勢だろう、これは…。 木村名人はどうするのか。
木村は、6~8筋で歩の味付けをしておいて、捕獲されそうな場所に△6九飛と飛車を打つ。
萩原、7九桂とがっちり。
▲5八玉 △4九飛成 ▲同 銀 △3五角 ▲4六香 △5七歩成
▲同 玉 △5六歩 ▲同 玉 △7五歩 ▲同 龍 △4四銀
△5六歩に同歩なら、△3五角として、△7九角成のねらいがあって、そうなると後手の飛車打ちが成功となる。これが木村の反撃の構想だった。「これでいける!」とどの程度思っていただろうか。自信があったか、それとも、ちょっと厳しいがこう行くよりない、と思っていたか。
萩原は▲5八玉。飛車を玉ですぐ取りに行った。
木村、飛車を切って、狙い筋の△3五角。
▲5七玉 △5六歩 ▲4八玉 △3六歩 ▲6六角 △3七歩成
▲同 玉 △5七歩成 ▲同 角 △4五銀右
飛車を失った後手はさらに二枚の銀を攻めに参加させる。 木村の攻め脚がゆるめば、萩原の勝ちだ。
▲7一龍 △5一歩 ▲9三角成 △8八歩成 ▲同 金 △4六銀
▲同 歩 △5五銀 ▲5三歩
▲7一龍~▲9三角成で先手は後手の目標にされそうになっている角を捌く。
△4六角 ▲4八玉 △5三金左 ▲3三歩 △同 玉 ▲3一飛
萩原がここで放った▲5三歩、これは半分「受け」の手で、うっかり△7一角と竜を取られては一大事。
△3二歩 ▲2一飛成 △7九角成 ▲2五桂 △2四玉 ▲3二龍
△4六馬
先手も▲3三歩△同玉▲3一飛で、飛車を打って攻め味をつくる。
これでお互いに“裸の王様”になった。さあ、どっちが勝っているのか?
▲5七馬
この図(△4六馬まで)では、先手玉が“詰めろ”になっている。先手がなにもしなければ、△4七香、または△5六桂で詰む。
棋譜を観ながら「どう指すのか」と思って次の手を見れば、萩原の指した手は「▲5七馬」だった。
これで受かっているのだろうか。 ここで△4七香なら同馬と取って、これは先手よさそうだ。では、△5六桂にはどうするのか。玉を逃げる手は金打ちで詰んでしまう…だから△5六桂は同馬しかないが、すると後手は同銀。そこで先手は3三竜、後手は1四玉と逃げて、先手2六桂と打つ――なるほど、これで詰みか、詰まない場合でも少なくとも後手のあの馬は消せそうだ。
木村名人は△3六桂と打った。
△3六桂 ▲同 龍 △5七馬 ▲同 玉 △4六金 ▲同 龍
△7九角 ▲6八桂
名人の攻め。 △3六桂▲同龍で竜を引き寄せ、馬同士で交換して、△4六金。
△4六銀 ▲同 玉 △6八角成 ▲5七歩 △3四桂 ▲5六玉
△4六飛 ▲6五玉 △5七馬 ▲3三角 △2五玉 ▲1六銀
竜をとって、△6八角成。 寄っているのか――!?
投了図
いや、寄らなかった。 木村名人、投了。
萩原玉は6五に逃げ、もう捕まらない。萩原八段が逃げ切って勝ち。135手。
32手目「△5二金」と35手目「▲8八飛」、これがこの勝負の全体像の骨格をつくったことになったポイントだと思うのです。
それを、「横歩取り」とのつながりで考えてみましょう。
先手は‘横歩’を取ったために2手(3四~2四)手が遅れています。そして右銀の棒銀の動き。これらがなしで、もっと早く8八飛と指していたら、木村名人の方はまだきっと右金は「6一」のままだと思います。‘横歩’をとり右銀を進め、という余分な手を指したために木村は「△5二金」を指し、萩原は「よし、それを待っていた!」と飛車を8八へと振ったのかもしれません。
だとしたら、「横歩取りによる手損を利用する高等戦術」ということになります。その真実は不明としても、萩原淳が、全盛期の無敵戦艦木村義雄を「萩原流横歩取り陽動向かい飛車」で一番倒したことは事実として残ります。一回しか使えなさそうな戦法ではあるけれども。
萩原淳八段は1935年~1937年に行われた実力制名人制度が立ち上がるときにそのリーグ戦に参加して戦ったメンバーの一人です。しかしそれ以外についての情報がぼくの手元にはなかったので、Wikipediaで調べてみました。
それによると、『1949年、第2回全日本選手権戦で木村義雄・升田幸三との決勝三者リーグを制し優勝。』とあります。この全日本選手権戦という棋戦は今の「竜王戦」のルーツになる棋戦のようで、ですので読売新聞社の主催です。この1949年のこの棋戦では、まず12人が戦って3人に絞る。それによって木村義雄、升田幸三、萩原淳の3人が勝ち残り、「巴戦」を戦った。そこで3者「1勝1敗」になったのでさらにもう一度「巴戦」をやり直し、そこで萩原さんが優勝した、ということのようです。3人で決勝戦なんて、ずいぶんと面白い仕組みですね。
それから、木村名人と升田幸三の有名な『ゴミハエ問答』。
名人「豆腐は木綿に限るね」
升田「昔から豆腐は絹ごしが上等と決まっておる」
から始まって、途中、
升田「名人なんてゴミのようなもんだ」
名人「名人がゴミ? なら君はなんだ?」
升田「ゴミにたかるハエですな」
となったので『ゴミハエ問答』と呼ばれていますが、実はこのエピソード、この1949年のこの棋戦での「三つ巴戦」の1回目の木村升田戦の前日の会食で行われたトークなんですって。(先週書いた記事『錯覚いけないよく見るよろし』では、1951年名人戦前ラジオで、としましたがそれは間違いだったようです。ここに訂正致します。)食事中のおしゃべりがけんか腰になった。ですから、ファンサービスというわけでもなかったのですね。自然と口喧嘩していただけ。
その木村升田戦は大熱戦となり、210手で升田勝ち。戦型は「相矢倉」でした。
さてもう一度1941年の萩原木村戦に戻ります。
木村名人の序盤の「△5二金」とその後の指し手についてです。結果的に見れば、その手が敗着では、というのが僕の感想ですが、しかし名人がそれを修正しようと思えばできたはずなのです。だけども、名人は決して「△5二金」を6二、7二とやり直すような妥協の手は指さなかった。「△5二金」と金を上がった手を生かすような将棋のつくりを考えた。このあたりが木村名人の強者の意地というか、名人の格調高さではないかと思うのです。
8筋を先手に攻め込まれても、後手は5筋の位を取っていますから、△5六歩と、6九飛の打ちこみと、それから角銀の援軍とで中央から崩す、そこに全てを賭ける覚悟で、あのように指したのではないでしょうか。もちろん、勝てると信じて。
参考図
この図は、木村義雄・坂田三吉の有名な対局「南禅寺の決戦」の途中図です。「9四歩」の坂田三吉の端歩突きがよく知られていますが、その対局は図のように、先手木村義雄が5五の位を取り、坂田は向かい飛車に振る、そういう戦型になりました。
19手目、先手木村義雄が指した手は、「5八金左」です。この図で見ると、有名な坂田の端歩(9四歩)より、木村の「5八金左」のほうがより“異様”な手に映りませんか。これが坂田の「向かい飛車」に対抗する木村義雄の「答え」です。これは上の萩原戦の時とは真逆の対応で、後手の攻め進めようとしている2筋からの真っ向勝負を考えています。「この金で行こう」と木村義雄はここで決断したのです。
この「南禅寺の決戦」は木村がまだ名人になる前の1937年に行われました。(萩原戦の4年前ですね。)
この将棋は横歩取りとは無関係な内容になりますが、ちょっとこの「南禅寺の決戦」の棋譜を並べてみて新たに気づいたことがあって、それを書きたいので、次回はこの対局の棋譜を紹介することにします。
それでは、また。