はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

「お茶の水橋」周辺

2014年06月28日 | はなし

 JR御茶ノ水駅の東口。

 こっちから出ると、目の前に「お茶の水橋」がある。右に行けば「お茶の水橋」、左に行けば神田○○町という感じ。 御茶ノ水も含めこのあたり一帯は江戸時代から「駿河台(するがだい)」とも呼ばれている。



 御茶ノ水駅東口を出ると、なぜか楽器専門店が並んでいる。 たとえば、バイオリン専門店。



 そして、これはウクレレ専門店。




 「お茶の水橋」から西を望む。もちろん川は神田川。



 電車の行く先は「JR水道橋駅」である。



 広重『名所江戸百景』の「48景 水道橋駿河台」。 
 これは5月の端午の節句の風景。 そしてあの橋は「水道橋」である。
 (「安藤広重」という呼び方は間違いなのだそうだ。苗字を付けて呼ぶなら、「歌川広重」が正しいらしい。)
 「端午の節句」は、今では5月5日だが、江戸時代はどうだったのだろう?
 どうやら、旧暦の5月の最初の午(うま)の日だったようだ。とすると、現在の6月初め頃ということか。

 なぜ「水道橋」なのか。
 この絵の手前に「水道」がこの神田川を渡っていて(現代なら金属製の水道管だが、当時は水の渡る木製の“懸樋”)、そのそばに架かる橋だから。「神田上水」は、井の頭池(現在の三鷹市)を水源とする人工の川で、これは神田方面へ上水を供給する水道として造られた。その「水道」が、神田川とクロスしていた場所がここである。
 このあたり、詳しく正確に記述すると面倒なことになる。「神田川」も、時代によって名前も位置もエリアも何度も変化しているから。
 井の頭池を水源とする「神田上水」が、「関口」(文京区)で二手に分かれ、左が「上水道」となり、右が“余水”として「神田川」となる。その左手に進んだ「水道」が、「水道橋」の地点でクロスして江戸城方面の武家屋敷に流れていく、という構成である。(現代はその旧「神田上水」も、「神田川」と呼ばれている。)
 遠く井の頭からわざわざ「水道」を引っ張ったというのは、やはり「湧き水」でないと飲み水としては使えない、ということなのでしょうか。井の頭池すげー、と言わざるを得ない。



 「お茶の水橋」を渡ると、左手にビワの木があった。ビワの実は、6月の梅雨の今の時期が“食べごろ”だが、誰にも食べられることなく過ぎてゆくのだろう。 東京にはこのようにビワの木がよく見られる。
 どうやら神田川の北側のこの下の方のどこかで、昔むかし、良い「湧き水」が発見されて、それが「御茶ノ水」の名の由来になったようですな。場所は特定されていないようです。徳川第二代将軍秀忠の時代ですから、江戸時代の初期の話。



 振り返って駅と橋を見ると、こんな感じ。


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御茶ノ水「聖橋」周辺

2014年06月19日 | はなし
 JR御茶ノ水駅の「聖橋」から東(秋葉原方面)を望む景色。
 右手がJR御茶ノ水駅のホーム。川はもちろん神田川。斜めに渡っている電車は地下鉄丸の内線。
 奥に見える鉄橋はJRですが、そのむこうにかすかに見えるのが「昌平橋」ではないかと思う。
 左手に緑が繁っていますが、あそこらへんのさらに左に「湯島聖堂」があります。

 この写真を撮った日は小雨が降っていました。




 これが広重の『名所江戸百景』47景「昌平橋聖堂神田川」。
 「聖堂」というのは湯島聖堂のことで、 あの坂の向こうにそれがあったということ。
 手前の橋が「昌平橋」で、この絵は昌平橋から(上の写真とは逆に)西を望んだ景色になります。

 偶然ですが、この絵も、“雨”の景色ですね。


 このあたりは一帯が“台地”(神田山)だったんですよ。そこをザクッと掘削して「神田川」を作ったのです。つまり人工の川なんです。
 最初につくった「神田上水」が住宅の多いところを通っていたので、どうも増水すると洪水になって危険ということで、この川をつくったようです。この神田山を削って、その“土”は、品川などの埋め立て地に運ばれたんですね。




 江戸時代は、「昌平橋」があって、御茶ノ水の「御茶ノ水橋」と「聖橋」はありませんでした。
 この古地図は、上方向が南で、皇居(江戸城)のある方向です。川の左が秋葉原方面、右が水道橋方面となります。

  「昌平橋」は元々は相生(あいおい)橋と呼ばれていたが、湯島聖堂(朱子学を学ぶところ)の聖人孔子の生まれ故郷の「昌平」にちなんで「昌平橋」と呼ばれるようになった――とのこと。

 御茶ノ水がなぜ御茶ノ水というかというと――、ええと、忘れました。興味があったらこちらで調べてみてください。 
              →神田川のページ






 JR御茶ノ水駅のホームから見た「聖橋」。 なかなか味があります。
 この橋がつくられたのは1927年(昭和2年)。 設計は山田守という人だそうです。
 なぜ「聖橋」と名前が付いたかというと――



 この橋の北に「湯島聖堂」があって、南には「ニコライ堂」があるからです。2つの「聖堂」をつなぐ橋。

 なお、「湯島天神」はまた別にあって、「神田明神」のもう少し北のほうに離れて位置している。(「湯島天神」には菅原道真が祭られている。)




 あれが「ニコライ堂」。 この呼び名は愛称で、正式には「日本ハリストス正教会東京復活大聖堂」。
 ロシア正教の聖堂で、「ハリストス」とはキリストのこと。キリスト教が東(イスタンブール・ギリシャ正教)と西(ローマ・カトリック)に分かれて、ギリシャからロシアに渡ったのが「ロシア正教」。
 
 「ニコライ堂」と呼ばれているのは、1861年に日本に来た伝道師ニコライ(イワン・カサートキン)による。ニコライが日本を赴任の地として選んだのは、青年の時、図書館で、ゴローニン(海軍軍人・探検家)の著書の『日本幽囚記』の中に描かれていたある日本人に会ってみたくなったからということである。江戸末期の船問屋の天才船長だった高田屋嘉兵衛のことである。どういうところで嘉兵衛を天才とするのかといえば、大阪から関門海峡をまわって函館(松前)に荷を運ぶということを仕事としていたが、生涯、一度の事故も起こしていないということです。
 日本に来て、ニコライさんは高田屋嘉兵衛を探したが、嘉兵衛はすでに死んでいて会うことはできなかった。

 ある本に書いてあったが、ニコライは「聖歌」にたいへんに力を入れていて、このニコライ堂の聖歌隊の合唱はとても人気があったとのことです。ラジオも蓄音機もない時代ですから。遠くから聴きに来る人もいたとか。


 僕は一度、この「ニコライ堂」の中を拝観してみようとは、前から思っていますけれど、まだ、行っていません。





 さて、サッカーW杯「コロンビア-コートジボワール戦」を観よう。

 そしていよいよ「日本-ギリシャ戦」ですね!
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神田明神と大橋柳雪

2014年06月17日 | しょうぎ
 神田明神です。

 祭神は、大国主之命(オオクニヌシ)と、少名毘古那之命(スクナヒコナ)と、平将門命(タイラノマサカド)。


 前回記事の『大橋分家物語~詰将棋つくるの苦手なんだよね~』の中で、1827年大橋柳雪(おおはしりゅうせつ、当時33歳)が、大橋分家の「二代目宗英」の襲名をしたということを書きました。「宗英」という名前は、大橋分家から出た九世名人大橋宗英(1756‐1809)の名前ですが、当時「史上最強」とされた名人で、その二代目を継ぐということは、この人に大橋分家の大きな期待がかかっていたことがわかります。
 その「二代目宗英」の襲名式は、この神田明神で行われたそうです。
 
 ただし、かれはその後(病気を患ったためと言われていますが)、「二代目宗英」を返上し、下野して、「大橋柳雪」となって、1839年まで生きています。

伊藤看理-大橋柳雪 1821年
 これは柳雪がまだ「英俊」だった時の「御城将棋」の一局。「平手」戦。 柳雪27歳。
 先手番の伊藤看理は六代宗看(後に十世名人になった)の長男看理。28歳。
 ここでも「伊藤家vs大橋分家」の対決の構図がある。 どちらも六段。
 後手柳雪の「四間飛車」という戦型となった。

 さて、この局面は先手が優勢に見えるが…、しかしこの将棋は後手の大橋柳雪が勝ちます。


 さあ、後手番柳雪の指した“魔法の一手”は?  答えはこの記事の最後で。



 大橋柳雪は元の名を、中村喜多次郎、江戸小石川の生まれです。小石川生まれの将棋指しということでは、塚田正夫(1947年に木村義雄を破って名人になった)がいます。


 江戸時代の横歩取りの研究をした大橋柳雪 → 『31年前の羽生・森内戦 横歩取り4五角戦法




 神田明神は、JR御茶ノ水駅から歩いて行けます。
 左に行くとニコライ堂、聖橋を渡って右(北)に行くと神田明神、湯島天神。(さらに北にずっと行くと上野不忍の池にたどり着く。)



 広重(歌川広重、江戸時代の絵師、1798‐1858)の『名所江戸百景』の「10景」に描かれている。



 『名所江戸百景』、その「10景、 神田明神曙之景」。
 つまり神田明神境内からの、江戸の日の出前の景色。しかし、いま神田明神に行っても、高台にあるわけでもないので、ここから江戸が見渡せたというのも不思議な気がしますね。

 それにしても、広重のこの絵の構図は大胆だ。真ん中に縦に一本の木を置いているが、風景画でこういう構図は、風景を左右2つに分断するので、よくない、と学校などでは教わる気がする。美術学校行ってないから知らんけど。




 サッカーW杯、いちおう録画して全部観ていますが、消化するのがたいへんです。今、「ガーナ-アメリカ戦」を観ているんですけどね。
 あろうことか、「日本-コートジボワール戦」だけ、録画しておらず観ていません。NHK将棋トーナメントのほうを録画して、サッカーは生放送を見るつもりでいたのですが、まさかの寝過ごし。 負け試合だったわけですが、それを見なくてよかったのか悪かったのか…。
 ギリシャ戦は、朝7時でしたっけ? なんか崖っぷちでドキドキしますねえ。




 大国主は、いろいろと別名も持っている。
 八千矛神(ヤチホコ)とか葦原色許(醜)男(アシハラシコオ)とか大穴牟遅(オオナムチ)。

 そういえば、柳雪もずいぶんと名前が変わった。
 中村喜多次郎→中村英節→大橋英俊→大橋宗英(二代目)→大橋柳雪





 さて、「伊藤看理-大橋柳雪戦」。
 「次の一手」は、「8四歩」でした。 これで後手の柳雪が勝ちになります。

 これを先手が同歩なら、7五金から次に8六歩が利いて後手が勝ち。だから当然、先手はそんな手は指さない。
 3三桂成、7六歩、6七金、同歩成、7四桂、8三玉。

 
 このように8三玉として勝てる――、というのが先ほどの「8四歩」の意味。 受けの手だったのです。
 以下、3二成桂、8五桂、8二飛、9三玉、6二と、7七歩成、7七同桂、7六金、9八玉、7七と。

 「激指13」は「8二飛、9三玉」の場面で、「評価値+1222 先手優勢」と判断しています。ところがそこで示す「激指」のどの候補手を指してみてもここから先手勝ちは出てこないのです。
 つまり、ここでは「後手勝ち」が正しく、大橋柳雪が「激指13」に、この場合は読み勝っているということになります。(ただし「激指」も問題の局面での“8四歩”は候補手の一つとして読み筋に入ってはいた。)



 2三飛成、7三歩、まで後手大橋英俊(柳雪)の勝ち。
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大橋分家物語  ~詰将棋つくるの苦手なんだよね~

2014年06月14日 | つめしょうぎ
 六世名人大橋宗与(大橋分家三代目作の詰将棋です。
 初手だけでも、ちょっと考えてみてください。
                 (この詰将棋問題の答えは、本記事の最後で。)



 この大橋分家三代目の宗与さんは1723年から5年間名人を務めておられますが、名人になったときは76歳で高齢でした。八段でしたから名人になる資格はもっていたのですが、本人もたぶん名人になれるとは思っていなかったようで、その準備もできていなかったみたいです。
 筑摩書房の『将棋図式集 中』(内藤國男著)には、「百番中、半数以上が初代宗看の『将棋駒競』からの改作や不完全作で埋められ、悪名高い図式集である。にわかに図式献上を命じられ、門弟たちの代作をかき集めて百番を整えたのであろう。」とあります。

 どうやらこの三代宗与さん、詰将棋をつくるのが苦手だったみたいです。


 もともと三代大橋宗与の将棋のライバルは、伊藤家二代目の宗印でしたが、この宗印(元の名を鶴田幻庵という)がたいへんに強かったので、伊藤宗印五代目の名人位を襲位しました。しかしその伊藤宗印が1723年に死んでしまって、その後に大橋分家の三代宗与さんが六世名人を襲位することとなりました。

 伊藤宗印さんは、あの天才児たち伊藤家の印達、宗看(印寿)、看寿ら五兄弟の父親です。これは失礼な表現になるかもしれませんが、いわば“江戸将棋界のサンデーサイレンス”みたいな人(サンデーサイレンスは、日本の競馬界のスーパーな“種馬”で、スペシャルウィーク、ディープインパクトなど強い名馬の父として超有名)なのです。 父親が天才棋士だからといって、その子供が将棋の才能があるとは限りません。将棋の才能は遺伝しない――それが今は常識と思います。それが現実は正しいと思われるのですが、伊藤宗印とその息子たちに限っては違うのでした。宗印さんの息子たちは天才ぞろいでした。
 で、この伊藤宗印さん、この人が亡くなった時の記録にその年齢が記されていないらしく、なのでいつの生まれで、何歳で死んだのか私たちにはわからないのです。ですからそれは推定するしかないのですが、おそらく大橋分家三代宗与よりもずっと若かったものと思われます。

 そうだとすると、八段の宗与もいまさら名人になれるとは思っていなかったと思われます。自分の方が先に死ぬだろうと。
 けれども八段位になって、「献上図式」を命じられ、宗与さん、なんとかその義務を果たしました。
 
 「八段」というのは最高段で、いつの時代も(江戸時代は)八段は一人か二人くらいです。
 八段になると「名人」になる条件を満たすわけですが、名人には「詰将棋集を作って将軍家に献上しなければならない」という慣例がありました。この詰将棋集のことを「献上図式」と呼ぶのですが、百題の詰将棋をこれに収めます。



 将棋の名人の図式献上というこの慣例は、二世名人大橋宗古から始まったようです。宗古は、初代名人大橋宗桂の息子ですが、彼は、宗桂の作った詰将棋もかき集めて「詰将棋集」にまとめています。
 
 なお、「大橋分家」という家は、初代大橋宗与から始まっていますが、この初代宗与は初代大橋宗桂の息子で、宗古の弟です。


 三代目の名人になったのは、伊藤家の宗看初代宗看と呼ばれる)ですが、ここでその「献上図式」に収められた詰将棋の内容のレベルが徐々に上がってきます。この初代宗看の詰将棋から、「詰め上がりに持駒が余らない」という美学が始まっています。どうやら伊藤家の人々は伝統的に“詰将棋が得意”のようですね。
 
 江戸時代の将棋の「家元」というのは、大橋家、大橋分家、伊藤家の将棋御三家のことを指します。
 将棋の御三家の場合、当主が将棋が強くなければ、その体裁が保てません。ですから、その子供に将棋の才能がなかったとき、才能のある誰かを探して“養子”として迎えることは、歴史上幾度もありました。特に伊藤家は、もともとが伊藤宗看という男から始まった家です。(二世名人宗古の娘を嫁にした。)
 

 1713年に五世名人になった伊藤宗印は、初代宗看の後を継いで伊藤家の養子となり伊藤家の二代目となった男(鶴田幻庵)ですが、この人もやはり熱心に詰将棋を創作した人物で、詰将棋百題の図式集(詰将棋を「図式」という)を2つ作っています。『将棋図式』と『将棋精妙』です。



 この“詰将棋つくりの得意だった伊藤家”と対照的に、逆に、“詰将棋つくりが苦手だった”と思われるのが「大橋分家」の人々なんですね。 その点に注目して今回の記事を書いています。

 詰将棋つくりの得意な人が、将棋が強いとは限らない。これは今では常識です。
 僕の友人はある年に、『将棋世界』誌の「詰将棋サロン」に発表した作品で、高い評価をもらって年間最優秀賞をいただきましたが、彼はほとんど将棋は指さないし、指してもせいぜいアマ初段(道場での基準)で全然強くない。
 「詰将棋をつくる」という行為には、何度でもやり直しがきくし、時間制限もない、盤に並べて動かして考えてもよいし、誰かに相談もできる、そういうことがあって、勝負将棋とは性質が違うのです。(今なら将棋ソフトも使えます。)

 けれども「伊藤家」は特別な家風をもっていて、この家の人は将棋も強く、詰将棋づくりも伝統的に意欲的です。つまり、両方得意なのです。


 1723年、五世名人伊藤宗印が死んで、大橋分家三代目大橋宗与に「六世名人」がまわってきました。
 大橋分家としては初の名人を出すこととなり、たいへんおめでたい。 が、困ったのがこの「献上図式」の提出義務です。
 たぶん大橋分家では大あわてで弟子たちの作った詰将棋をかき集めて体裁を整えたのでしょう。推察にすぎませんが、そのように言われています。
 大橋宗与の提出した献上図式は一般に『将棋養真図式』という書名で呼ばれていますが、 評判が最低です。なぜかというと、この『将棋養真図式』、不詰作、余詰作も多く、また、これまでの誰かの作った詰将棋の類自作(つまり、パクリですね)も多く含まれているとのことです。「献上図式」には、その詰将棋問題の「答え」は書かれていないので、詰むと思って解こうとした詰将棋がじつは詰まない、ということになると、それは評判が悪くなりますよね。
 まあ、そういう評判の悪い詰将棋集をお上に提出したのが、六代名人(三代)大橋宗与さんなのでした。
 ただ、実際に宗与さんがこの子の献上図式をつくることを命じられたのは名人になるもっと前1716年なので、伊藤宗印の次は大橋宗与が名人になる、というのは予定だったようでもあります。

 上の問題はその三代大橋宗与『将棋養真図式』の第64番。 評判最悪といっても全部がだめということではなく、この64番はなかなかさわやかな作品です。


 ところで、この1723年、五代名人伊藤宗印が死んだ時、三代大橋宗与よりほかに名人候補はいなかったのでしょうか。たぶん、いなかったのです。八段は宗与ただ一人。 しかしこの時、だれが将棋が一番強かったかとなると、三代宗与は76歳ですから、どうも彼が最強だったとは考えにくい。
 この時期の10年ほど前、未来の名人候補の筆頭は伊藤宗印の長男印達(いんたつ)なのでした。この人は天才少年でしたが、15歳の年齢で父宗印よりも先に天に召されてしまいます。これが1712年のこと。その数年前に行われた「宗銀・印達57番勝負」はまさに「未来の名人を決めるための死闘」だったのでした。宗銀もまた10代の少年で印達より4つ上、彼は大橋本家を継ぐ人物(養子)でしたが、彼もまた印達の後を追って、その翌年に亡くなっています。
 さて、伊藤家の次男は印寿という名の子供でした。伊藤家の期待を背負って天才と呼ばれていた兄印達が死んだあと、家を継ぐ自覚が芽生えて、将棋に打ち込むようになりました。といっても、兄が死んだ時はまだ7歳だったのですが。
 そして1723年、10年間名人を務めた父宗印が死んだ時には、印寿は18歳です。
 その1723年、おそらく将棋の実力最強は、当時18歳(数え)の、この伊藤家の印寿だったと思われます。彼がまだこの時に名人になれなかったのは、きっと年齢的なものでしょう。少し、年齢が足らなかった。父宗印が死んだので、印寿は伊藤家初代の名前「宗看」を譲り受け、伊藤家の三代目当主となります。「三代伊藤宗看」の誕生です。これが江戸期の詰将棋で有名な「三代伊藤宗看」です。
 5年後、六世名人三代大橋宗与が81歳で死んで、三代伊藤宗看七世名人を襲いました。宗看もまた、「献上図式」の準備が整っていなかったのですが、“特例”として、名人襲位後の図式の献上が認められて、それから6年の後に「献上図式」を提出。この作品集は堂々とした内容でした。一般に『将棋無双』と呼ばれ、その一つ一つが目を見張るような内容の名作です。



 ここで、三代大橋宗与二代伊藤宗印(この場合の「二代」というのは、伊藤家の二代目当主の意味)の将棋を一つ観戦しましょう。もう一度書いておきますが、三代宗与は六世名人、宗印は五世名人になった人です。

初手より、▲7六歩 △3四歩 ▲4八銀

図1
△8四歩 ▲5六歩 △8五歩
 序盤が面白いと思ったので、この将棋を採り上げます。1692年の「平手」の対戦です。「御城将棋」の棋譜の記録はこの頃からはじまっています。
 宗与さんは45歳で、宗印さんはたぶんそれより若い。この時期の勝負の結果が次期名人(五世名人)を決定したのでしょう。

 初手から、7六歩、3四歩に、4八銀。

 この3手目の4八銀は今でも、昔も、「めずらしい手」です。
 ここで後手から8四歩~8五歩とされると、後手にだけ飛車先の歩交換を許すことになり、だからこの手はあまり良い手ではない、というのが現代的な評価と思います。
 けれど、まったく良いところがないかといえば、そうでもない。相手が「振り飛車党」だった場合、その「振り飛車党」に8四歩と突かせて居飛車を選択させることになり、それなら一つの有効な勝負術となりえます。
 実際、女流のベテラン山下カズ子さん(元女流名人)は、2007~2008年にこの作戦をよく使っています。その時の相手はやはり「振り飛車党」です。後手がここで8四歩と指さないで「振り飛車」を選べば、先手は「居飛車穴熊」をめざす。すると「2六歩」の一手を、「穴熊づくり」に優先させて使えることになるのです。そう考えると、これは一理ある。
 「飛車先の歩交換を許すかわりに、5七銀の理想型をすばやくつくり、中央を支配する」というのが、このオープニングの本来の思想です。

 
図2
▲5七銀 △3二金 ▲7五歩
 この先手の作戦を何度か使ったことのある棋士は、他には、真部一男、そして田丸昇がいます。
 田丸昇さんは一度タイトル戦(棋王戦)の挑戦者決定戦まで進んだことがあるのですが、その頃にこれを得意としていたのです。その挑戦者決定戦の相手は大山康晴(当時66歳)でした。田丸さんが先手番でこの作戦を用いたのは、相手が振り飛車党の大山15世名人だったからなんですね。実際この前に当たった大山戦でも田丸さんはこの作戦で戦った。その時は大山さんは4手目に4四歩として「振り飛車」にしました。変幻自在の大山名人は、この対局では今度は4手目8四歩の居飛車を選択しています。
 また、田丸昇さんは、この時期、森けい二、小林健二にもこの戦法で戦って、勝利しています。
 ここでちょっとその「田丸-大山戦」を少し見ておきます。
 上のこの図と同じに進んで、ここで「5五歩」が田丸流。森けい二戦、小林健二戦もそう指して戦った。
 ところが――、大山名人はこの「田丸の5五歩」を“悪手”にしてしまう。

田丸昇-大山康晴 1990年 棋王戦 挑戦者決定戦
 図2から5五歩、8六歩、同歩、同飛、7八金、8五飛と進む。
 田丸さんは乱戦が好きな人で、こういう戦いは望むところだったかもしれない。しかし、この8五飛で、すでに先手はまずかった。それを大山名人がこの将棋で証明する結果となりました。
 この決戦で田丸さんを応援していた先崎学は、その著書『一葉の写真』に収められているエッセイの中で「(5五歩の手で)ここでは▲5七銀か▲7八金とするべきで、それならどうということもなかった。(5五歩で、負けにした。)」ということを書いている。
 ここから、実戦の進行は、9六歩、8六歩、7七桂、8二飛、8五歩、7四歩、9七角、7五歩。


 7五同歩に、5五角、5七銀、7六歩、6六銀、7七歩成、同金、4四角、5五歩、8五飛、8六金、というような田丸好みの力戦に進む。しかしプロ同士の時間の長い対局で、こうあっさりと「桂損」してしまっては、これはもう先手の負け将棋である。
 大山康晴、この将棋を快勝して、棋王戦挑戦者となりました。この時の66歳でのタイトル挑戦は、将棋界の最高年齢挑戦記録となっています。
 (この一戦のことは過去記事『戦術は伝播する 「5筋位取り」のプチ・ブーム』の中で書いています。)


 もう一つ、図2と同じオープニングで始まった、歴史上重要な対局があります。
阪田三吉-関根金次郎戦 1913年
 これです。1913年の「阪田三吉-関根金次郎戦」。 この対局は、関根金次郎・阪田三吉の初の「平手」での対局になります。
 図2(△8五歩)から、5七銀、8六歩、同歩、同飛、7八金、8八角成と進み、この図になりました。力戦系の「角換わり将棋」となりました。阪田さんは「角交換将棋」の妖しい戦型を得意としていましたから、そうした形に誘導してこのオープニングを使ったと思われます。
 この後の内容は、以前書いた別記事で触れていますので、そちらをどうぞお読みください。 ( →こちらです。 )

 つまりこの戦型は「角交換」から、定跡をはずれた「力戦」になりやすいのですね。


 さて、本線の「三代大橋宗与-二代伊藤宗印戦」に戻りましょう。

図3
△8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲7四歩
 図2以下、先手の5七銀に、後手の宗印さんは、3二金としたのですが、これがセンスのある手です。まあ、現代なら「普通の手」なのですが、320年前のこの段階では、ほとんどの将棋では先手がどこかで6六歩と指すか、あるいは後手が4四歩と指すかして、角道が止まった将棋になっていました。そうい将棋が当時の好みでした。なので、この将棋のように先手後手両者の角がにらみあったまま駒組みをする将棋というのはこの時代はまだほとんどないのです。(1600年代の対局ですからね!)
 この将棋では、先手の宗与がそれ(角道を止めない将棋)を望み、後手の宗印もそれに乗った。その場合に、いつでも角交換して強気に戦えるよう、宗印は3二金としたわけです。

 その3二金に、先手宗与の次の手は7五歩でした。これも意欲的な手です。
 しかし、結果的には、これはまずかった。
 宗印のこの後の指し方が上手かった、ともいえます。

図4
△6二銀 ▲7三歩成 △同桂 ▲2二角成 △同銀 ▲8八銀 △8四飛 ▲7四歩
 この7四歩がねらいだったのでしょう。取れば、角交換をして9五角の王手飛車ですから、これは取れない。まさかそれにハマることはないでしょう。宗印さんは6二銀。問題はその後がどうなるかです。どちらが読み勝っているか。

図5
△7四同飛 ▲8二角 △9五角
 桂馬を跳ねさせて、ここで7四歩。同飛なら、8二角と角が打てます。
 ところがこれが後手宗印の“読み筋”なんですね。8二角と打たせて、これで勝てる、と。

図6
▲7七歩 △8七歩 ▲7九銀 △7六歩 ▲9六歩 △8六角 ▲6八銀引 △7七歩成
▲同銀 △同角成 ▲同桂 △同飛成 ▲6八銀 △7四龍 ▲9一角成 △8八歩成
 この、「9五角」があるので、後手が指せる――というのが、宗印の読み。感覚的には、9五角には4八玉と逃げたいところですが、それだとこの場合は8四飛が「角銀両取り」になる。
 それで宗与は7七歩と受けた。 宗印は、8七歩。これを同銀は、やはり8四飛で「角銀両取り」。

図7
▲9二馬 △8三歩 ▲7五歩 △8四龍 ▲6六香 △7二歩 ▲5七銀 △9九と
▲7四歩 △8五桂 ▲7八飛 △7五香
 駒割りは、先手の「銀桂」と、後手の「角香」との交換。しかし後手には「と金」ができている。そしてなにより、先手は飛車を使うのが難しそうです。というわけで、後手優勢。宗印が読み勝っていた。

図8
▲3八飛 △7七桂成 ▲5八金左 △8九龍 ▲4八玉 △6九銀 ▲5九金引 △6七成桂
▲9三馬 △5七成桂 ▲同玉 △4五桂 ▲4八玉 △5八銀打
 優勢になった宗印は、宗与の動きに丁寧に応じる。

図9
▲6三香成 △同銀 ▲5五桂 △4九銀成 ▲同玉 △5七香 ▲3九玉 △5八銀不成
▲2八玉 △4七銀成 ▲9五角 △4二玉 ▲6三桂成 △5九香成 ▲5三成桂 △3三玉
▲2六歩 △3八成銀 ▲同玉 △7八龍 ▲6八歩 △4九成香 ▲5四銀 △4八成香
▲2七玉 △3五金
 5八銀打。この銀を取ると詰んでしまう。
 勝負あった。

投了図
まで92手で後手の勝ち

 序盤の先手宗与の7五歩から7四歩が無理な動きで、後手宗印がそれにうまく対応して、以下はずっと後手がリードしてそのまま押し切った将棋。
 しかしこの投了図はけっこうきわどい。4三成桂、同金、同銀成、同玉、4四歩、同玉、5五銀、4三玉、4四銀打、3二玉と進むと、先手が勝てそう。この手順の途中の4四歩に、“5三玉”とかわして、これでわずかに後手が残しているようです。(後手4九成香としたところで、3一銀なら後手がより安全に勝てる。)

 伊藤宗印の勝ち。


 Wikipediaの「大橋宗与(3代)」の項目には、「宗印との対戦成績は下手香落ちでは10勝2敗であったものの、平手では9戦全敗であった。」と書かれていますね。



 1713年に四世名人五代大橋宗桂(初代伊藤宗看の実子。大橋本家の養子となり、成長して名人となった。)が亡くなり、五世名人を伊藤家二代目の宗印が襲位しました。  




 さて、1723年にその五世名人伊藤宗印が亡くなりました。

 この時八段だったのが大橋分家の三代宗与76歳。 実力最強は18歳伊藤印寿(三代宗看)。 それで、実力2番手はおそら15歳大橋分家の宗民(後の四代宗与)だったでしょう。大橋分家の期待の星がこの少年で、三代宗与の実子です。
 (大橋本家のトップは七代宗桂でしたが、実力は平凡でした。また、伊藤家の兄弟は、この時、三男宗寿が10歳、四男看恕が8歳、五男看寿が6歳です。)
 という状況ですから、この時点で、「(三代宗与の後の)次の名人は、伊藤家の印寿(後の宗看)か、大橋分家の宗民(後の四代宗与)か」ということになります。ということで、この頃、この二人の少年は次期名人の座をかけてバチバチと戦うことになります。
 勝者はもうご存じの通りです。四代宗与は敗れたのでした。(さらに20数年後、四代大橋宗与は、次は宗看の弟伊藤看寿と闘う運命にあります。)

 さて、5年後、1728年、伊藤家の三代宗看(印寿)が七世名人となり、その後も、伊藤家では亡き宗印の息子たち五兄弟のうちの五男、看寿がすくすくと育って、次の名人にふさわしい実力者となっていきました。大橋分家の四代宗与(八段)もやっつけたし(その緒戦が例の「魚釣りの一局」)、大橋本家の八代宗桂(11歳の時に伊藤家から大橋家に養子に行った伊藤家三男の宗寿、つまり看寿の兄)にも勝っている。
 看寿は、1753年、献上図式をすでに提出しています。『将棋図巧』と呼ばれる図式集は、数百年後の詰将棋ファンも魅了してやまない珠玉の詰将棋作品集です。
 こうして、伊藤看寿の「次期名人への準備」は完璧に整いました。その道を遮るものはなにもない――といいたいところでしたが…。


 ところが、1960年、看寿は死んでしまいます。看寿の1か月前に兄看恕(かんじょ、七段)が先に亡くなっている。その1年後、名人の宗看もそれに続いて…。
 こんなふうに伊藤家の兄弟が次々に死んだので、死因は何か流行病ではと想像されています。本当のところは不明です。


四代大橋宗与-三代伊藤宗看 1753年
 これは1753年の四代宗与(45歳)と名人三代宗看(48歳)との将棋です。「御城将棋」です。伊藤看寿の次期名人がほぼ確定してきていたころですね。
 盤面は――はい、そうです。先手「早石田」ですね。これより220年後に升田幸三が名人戦で用いて「升田式石田流」と呼ばれた指し方です。「御城将棋」ですでに指されていた。大橋分家四代宗与が指したのです。
 後手の名人宗看は、ここで8八角成と角交換をし、4五角と打ちました。


 この4五角には、「7六角」の“返しワザ”があって、これは先手が指しやすくなる、と現代の将棋指しはみなそれを知っています。この頃はどうだったのか。歴史記録上はつまり、この「早石田の7六角」は四代宗与の“新手”ということになるのです。
 この将棋はやはり序盤は先手がリードして、優勢を築きます。


 ところが中盤、名人伊藤宗看が“怪力”を発揮して形勢をひっくり返し、逆転勝ち。


 (「魚釣りの歩」で有名な「伊藤看寿-四代大橋宗与戦1946年」の対局はこちらの記事で書いています。→『「ちょっと風呂入ってくる」の一局』)


 七世名人の宗看が死んだ。名人位を継ぐ準備をしていたその弟の看寿もすでにいない…。
 そうすると、名人位はどうなるのか。次の名人はだれか。
 宗看の死んだ1961年、この時に有力だったのは、大橋分家の四代大橋宗与(八段、53歳)、大橋本家の八代宗桂(七段、48歳、伊藤家の天才5兄弟の三男)。
 本来なら、53歳八段の大橋分家四代宗与が名人になるところでしょう。それに文句を言うとしたら、宗与よりも実力では上かもしれない八代宗桂を擁する大橋本家です。(伊藤家の宗看、看寿にはそれぞれ息子がいたが、凡庸な才能だった。)

 しかし、現実の歴史は「名人位の空位が続く」です。だれも名人にならなかった。

 この事情はわかっておらず、なぜそうなったのか、それは想像するしかありません。よく説明されるのは、四代宗与と八代宗桂がにらみ合って、どちらも「勝負せよ」と言い出せなかった、というようなこと。
 というか、その前に、どちらもまだ、「献上図式」を提出していないし、それでは名人にはなれません。
 僕はこう思いました。「四代宗与は献上図式が出せないから名人位を主張しなかったのだな」と。宗看は23歳で名人になった時、“特例”で、後で図式を献上することが許されましたが、それは宗看が若かったから。仮に53歳の四代宗与もその例にならって、遅れての図式献上が許されたとしても、彼自身、つくる自信がなかったのではないでしょうか。

 伊藤宗看、伊藤看寿の残した図式集(詰将棋集)が凄すぎました。だれが見ても「凄い!」「面白い!」「こんなの見たことない!」と感嘆させられるような濃密で華麗な内容のものばかり。
 
 ハードルが高くなりすぎて、もうこれを超えることなどできそうにない、当時の人たちはそう思ったのではないでしょうか。
 詰将棋をつくることと、将棋に強い、ということとは別の才能なのですが、宗看・看寿はそのどちらも強かったものですから、それを言い出すことも許されない感じです。仮に「献上図式」の義務を果たしたとしても、どうしても「献上図式」のその内容で、「名人の価値」まで宗看・看寿と比較されて評価されてしまいます。これはたまったものではありません。
 四代宗与の父三代宗与は、六代名人を襲位したときに、なんとか「献上図式」を提出したわけですが、あのような雑な内容のもの(弟子たちの詰将棋をかき集めるなど)を子の四代宗与までが提出すれば、名人になったとしても、これは逆に恥になる、と四代宗与は考えたかもしれませんね。

 その四代宗与は1764年に亡くなりました。宗看の死の3年後です。

 その後も「名人位の空位」は続きました。なぜ、ここで大橋本家の八代宗桂が名人にならなかったのか、不思議です。宗看、看寿には、いくらか劣るかもしれませんが、名人としての実力には十分なものを持っていたと思われます。それに八代宗桂はもともと宗看、看寿とは兄弟で、詰将棋も作れた。実際、八代宗桂は図式『将棋大鋼』を献上しています。その内容を見て、誰か権威があってでも性格にクセのある人物がいて、「宗看、看寿のものより劣る」と切って捨てたのかもしれませんね。そう言われれば返す言葉がない。しかし、宗看・看寿という、神の領域の最高級品と比較されてもねえ…。 『将棋大鋼』は、確かに宗看・看寿の作品のレベルの輝きはないにしても、よくできた内容ではあるようです。

 さて、この八代宗桂にはすぐれた息子がいまして、これが健やかに育ち、後に九代大橋宗桂となります。そして、彼は将棋指しとしても才能ある優秀な人物だったのです。大橋本家ではおそらく彼は大切に大切に育てられたことでしょう。
 その九代宗桂はついに名人(八世名人)となります。1789年のことで、やっと「名人位の空位」問題が27年ぶりに解決されました。
 九代大橋宗桂は1744年生まれ。宗桂になる前の彼の名前は印寿(これはあの三代伊藤宗看と同じ名前)。彼も伊藤家の血縁なのですが(宗看・看寿の甥にあたる)、彼は詰将棋でも果敢に「宗看・看寿」という最高峰の険しい峰に挑戦しました。九代宗桂の献上図式『将棋舞玉』は、高く評価される作品も多いようです。



 さて、この献上図式にまつわる物語もいよいよ最終章です。
 九代宗桂の次に名人になったのが、大橋分家の六代目大橋宗英九世名人です。
 この人は歴代名人の中でも最強じゃないか、と言われるほどの強い名人でしたが、名人になった時、こう宣言したのです。

 「献上図式の慣例は廃止する。」と。

 つまり、「俺は詰将棋は作らないよ。」と言い切ったのです。
 詰将棋をつくる才能と、ふつうの指し将棋の強さ、これは全然別のもので、だから名人になったからといって、詰将棋をつくらなきゃいけないなんて、そんな慣例ナンセンス、廃止、廃止~、廃止だ~、ということでしょう。

 僕がここで注目してほしい点は、名人になったら詰将棋集を献上するという慣習を廃止した大橋宗英という人が、大橋分家の人間だということです。

 詰将棋の得意な伊藤家。
 その伊藤家に翻弄されてきた大橋分家。伊藤家に将棋で負けて、名人位のチャンスが廻ってきても「献上図式」のハードルが越えられず…。嗚呼…。
 詰将棋をつくるのが不得意な大橋分家――。大橋分家の献上した惟一つの図式――三代大橋宗与『将棋養真図式』――は、なんてことだ、「史上最低」と言われてしまっている。大橋分家から出たその名人は、長生きしたから名人になれたなどと軽んじて評価されている…。

 しかし――ついに――、ついに大橋分家の時代がやってきたのでした。
 1799年のことでした。
 「献上図式」など廃止。これでいいのだ。

 こうしてみると、大橋分家の悲願は、「献上図式の廃止」だった、そんな気がしないでもない。大橋分家の人々は詰将棋が嫌いで、日頃から「あんなもの将棋の強さとは関係ない、廃止すべきだ」と内輪でひそひそと言ってきたのかもしれませんね。
 それを代表して、九世名人になった大橋宗英が「廃止!」と宣言した。鬱陶しい「詰将棋」を退治したのです。将棋の強い、たのもしい新名人が。
 
 史上最強の名人、大橋宗英!  大橋分家六代目! バンザ~イ!


 めでたし、めでたし。




 一つの物語としては、ここで完結です。




 が、現実の世界に終わりはない。
 次の名人はまた伊藤家から出るんですよ。


 大橋宗英は1809年に没します。宗英が名人位に座していたのは10年間でした。
 そこからまた「名人位の空位」が始まります。1825年まで「名人位の空位」が続き、そこで伊藤家から次の名人が生まれました。

 伊藤家の養子となった松田印嘉。この人が伊藤家六代目当主となり、「宗看」となりました。つまり「六代宗看」です。 

六代伊藤宗看-大橋宗英 1798年
 1798年の「御城将棋」での両者の対戦。この年に伊藤印嘉から「宗看」になった六代宗看と、この翌年に九世名人に襲位することになる大橋分家六代目当主の宗英。年齢差は12、ちょうどひとまわり開いています。宗英が43歳で、宗看が31歳。どちらも指し盛りです。
 
 さて、この将棋ですが、上で解説した「三代大橋宗与-二代伊藤宗印戦」と同じオープニングで始まっています。初手から7六歩、3四歩、4八銀という、出だしです。


 後手番の宗英は、飛車先を切り、その飛車をすぐに引いて、8八角成と角交換。
 1700年代の前半までは、どちらかが角道を止めるという将棋がほとんどなのですが、1700年代後半にお互いに角道を開けたままというような将棋も研究され指されるようになってきました。ということで、「相掛かり」「横歩取り」が発展したのがこの時代です。しかし「角交換将棋」はやはりまだまだ少なかった。
 本格的に角交換将棋がプロ棋士によって指され、研究されていくのは大戦後、つまり1945年以後になります。


 おっと、宗英、2二飛。 「角交換向かい飛車」に。
 そういえば1716年の御城将棋で、右香落ち下手でいきなり2二角成として角交換にして四間飛車に振ったのはまだ8歳の子供だった四代大橋宗与でした。そうしてみると大橋分家は、角交換振り飛車に縁があるようにも思えてきます。


 宗英は、飛車を振った後、7二金、6二銀、5二玉と「中住まい」にして戦いました。
 「相掛かり」、「横歩取り」の感覚で指していることがわかります。



 序盤で8筋で得た「一歩」を使って1筋の端攻め。
 この将棋は後手の宗英が勝ちました。



 大橋宗英の時代が終わったのは1809年。
 大橋分家は嫡子の英長が分家七代目を継いで、「七代宗与」を名乗りましたが、将棋の実力は平凡でした。


 家元では、1809年からまた「名人位の空位」が始まりました。
 この時、伊藤家の六代宗看の年齢は42歳。なぜここで彼が名人になれなかったのでしょうか。七段でしたが、実力は十分だったと思われます。
 たぶん、ここでも、大橋分家のつよい「抵抗」があったのではないかと思われます。


 大橋分家では、七代宗与は、中村喜多次郎という男に目を付け、養子に迎えます。正式に大橋分家の養子となったのは、1818年で、この時中村喜多次郎は24歳です。名を「大橋英俊」としました。翌年からは「御城将棋」に出勤します。

 この「大橋英俊」こそが、後に大橋柳雪として、江戸時代の名棋士として名を残すことになる人物です。
 彼は1827年には「二代目宗英」を襲名します。大橋分家がいかにこの男に期待を託していたかが、この「宗英」の襲名でわかります。「宗英」こそが、大橋分家の人々にとっては最上級の輝きを示す名前でしょうから。


 しかし、その3年後の1830年、「二代目宗英」は、その名を返上し、嫡廃となり、下野して、大橋柳雪となります。
 大橋柳雪について、“強い!”という評判が世間に広く流布していくのは、その後のことでした。
 彼、柳雪が大橋家を去った理由は、病気になったからと言われています。聴力を失ったようです。
 将棋の内容は、むしろ、下野した後のほうが生き生きとして面白いようです。あるいは、「家元の当主を継ぐ」という立場が、柳雪にとっては息苦しいものだったかもしれません。


 
 1825年に、六代伊藤宗看十世名人を襲いました。


 宗看は1823年に、大橋柳雪(まだ「英俊」だった)と「御城将棋」で対戦しています。「右香落ち」の将棋で、宗看が上手です。その将棋は下手の柳雪から2二角成と角交換をして、その角を4五角と「筋違い角」に打って、「相居飛車」でたたかうという戦型となりました。
大橋柳雪-六代伊藤宗看 1823年
 勝利したのは六代宗看です。
 六代宗看が名人になったのは、この対局の勝利が大きかったかもしれませんね。「大橋分家の期待の星・英俊(後の柳雪)にも香車を落として勝った。これは最強だ。」ということで。この時、宗看は58歳、英俊(柳雪)は29歳でした。
 (ちなみに、天野宗歩=留次郎はこの時8歳で、大橋本家の門人でした。 宗歩が柳雪に会いに行くのは、宗歩が18歳の時です。)
 


 十世名人六代伊藤宗看は、江戸時代の最後の名人となりました。





【冒頭の詰将棋の解答です。】

問題図
 


3三角、同玉、2五桂、同歩、2四銀
 3三角と打つ手が正解。同銀(同馬)なら、1二金、2三玉、1三金、同桂、1二銀以下の詰み。
 よって、3三同玉だが、そこで2五桂~2四銀。


2四同玉、2一飛成、3三玉、2四金、4四玉、3四金、5四玉
 2一飛成に2二香合は3六桂から詰む。


5五歩、同馬、6四と、同玉、6一竜、7三玉、6三竜、8二玉
 5五歩、同馬としてから、6四と。 これを単に6四とは、同玉、6一竜、7三玉と追った時に、9三に馬の利きがあるので詰まない。


9四桂、9二玉、9三竜、同玉、8四金、9二玉、8三金まで27手詰め
 ここまでくると簡単に詰みそう。けれどもここで9三竜は、同香で詰まない。そこで、9四桂が正解となる。

詰め上がり図
 27手と長いけれど、変化がすっきりしていて、解いて気持ちの良い問題だと思います。
 これが評判最低の、三代大橋宗与(六世名人)の献上図式『将棋養真図式』の64番です。これを三代宗与さんが自分でつくったかどうか、それはわかりません。



 わからないといえば、大橋分家の墓がどこにあるのか、これがわかっておらず、将棋界の歴史の“謎”の一つです。
 
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発見!!!!  “隠れあやちょ”

2014年06月11日 | はなし

和田彩花著『乙女の絵画案内』 (PHP新書) 

 

 

新書サイズの、まあこういう本なのですが、なぜかちょっと写真に撮りたくなって

 

表紙をはずしてみたのですが、すると…

 

おおっ? 表紙の下に、また表紙!?   なぜ表紙が二重に??   

さらには―――

 

おい! ちょっと!

 

“表の”表紙をひっくり返すと、そこには“隠れあやちょ”が!  これはびっくり!

 

スマイレージのリーダー和田彩花(わだあやか)さん。彼女はアイドルをやめたら、15年後くらいの将来は、どこかの美術館の案内人か、あるいは館長にでもなっているかもしれないね。

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「ちょっと風呂入ってくる」の一局

2014年06月05日 | しょうぎ
 将棋ファンのみなさん、『将棋世界』最新7月号は“買い”ですよ。  面白い記事がたくさん載っています。  (写真のとなりの本は、僕が『将棋世界』と同時に勝った三浦弘行の矢倉の本。今回の記事との関連はとくにありません。)


特によかったのが池田将之さんの『関西本部棋士室24時』。

 今回のこの記事は、奨励会の青年三人の3段リーグでの3月の戦い中の、彼らのそれぞれの心の動きを取材している。「三人」というのは、このリーグをついに勝ち抜いて新プロ棋士となった宮本広志、星野良生の二人と、それから、今回年齢制限をむかえて退会することに決まった竹内貴浩さん。
 竹内さんは、すでに最終日より前に「退会」が決まっていて、最終日は消化試合だった。最終日はのびのび戦い、2連勝(奨励会の3段リーグは1日に2局を指す)でフニッシュ。その日、週刊将棋の記者にこう言ったそうだ。「振り飛車を指したのですが、どうも向いているようで、気付くのが遅すぎました。」なんとさわやかなコメントだろう。竹内さんは地元の名古屋で“指導棋士”をやるそうである。


 鈴木宏彦さん構成の『イメージと読みの大局観』も内容がよかったです。
 その中で、江戸時代の「伊藤看寿-四代大橋宗与」の将棋が取り上げられていました。
 この将棋は「魚釣りの一局」としてちょっと有名になっている将棋です。

 それで、僕はこの将棋を初めから全部並べてみたいと思いました。それをこれから鑑賞してみることとしましょう。

 まず、これがどうして「魚釣りの一局」と呼ばれているかと言えば、この対局を指している伊藤看寿のことを心配する兄の宗看が、看寿の指したある一手を見て、(これで大丈夫と安心して?)魚釣りに行った、という逸話があるからです。
 しかし、本当に兄の宗看が魚釣りに行ったかというと、その話を信じている人はほとんどいないでしょう。それはたぶん周囲の人がつくったジョークでしょう。
 現代では、サッカーなどをネットで交流しながら観戦している人たちが、ひいきのチームが点を入れた時に、「風呂入ってくる」というのがジョークになっていますが、それと同じことでしょう。本当に風呂に行く人はまずいない。 (ワールドカップ、始まりますね!)



 では、その魚釣りの一局、「伊藤看寿-四代大橋宗与戦」の棋譜を具体的に鑑賞します。 1745年11月17日の対局です。この11月17日というのが、江戸時代、「御城将棋」が毎年行われた日なのです。 将棋御三家(大橋本家、大橋分家、伊藤家)にとって、重大なイベントでした。
 1745年ですから、これは江戸時代中期の物語となります。
 この将棋は、看寿にとっても、宗与にとっても、「負けられない重要な勝負将棋」なのでした。


図1
8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △8四飛 ▲8八飛 △6二銀 ▲4八玉 △4二玉
▲7八銀 △3二玉 ▲9六歩 △1四歩 ▲9五歩 △6四歩 ▲1六歩 △6五歩
▲3八玉 △5二金右 ▲4八銀 △7四歩 ▲2八玉 △7三銀 ▲3八金
 今では見られない「右香落ち」の将棋です。

 上手の大橋宗与は、大橋分家の四代目当主で、この年37歳(数え)。
 六世名人だった三代目大橋宗与の息子。

 一方の伊藤看寿は詰将棋で有名なあの「看寿(かんじゅ)」です。この対局当時は27歳。そして兄はあの「伊藤宗看(そうかん)」です。伊藤家初代の「宗看」の名を継いで伊藤家の三代目となり(なので「三代宗看」と呼ばれる)、この時、七世名人でした。その宗看は看寿よりひとまわり年上で40歳。才能豊かなこの弟看寿に、「名人」を継がせたいという期待をもっていました。(年齢はすべて数え年)

 つまりこの勝負は、伊藤宗看の次の「名人」をだれにするかという話がいつか持ち上がってきたときに、その判断材料となる一戦なのでした。 「伊藤家」vs「大橋分家」です。
 年齢的には、宗与は宗看と近く、この二人はこれまでずっと戦ってきたのでした。 宗看は名人、宗与は八段です。



図2
△7五歩 ▲同歩 △6四銀 ▲9四歩 △7五銀 ▲9三歩成 △8六歩
 さてこのような駒組みとなりました。これを見て、あなたはどういう感想をお持ちになりますか。
 270年前の将棋ですが、古臭くない、どころか、最先端の将棋のような新鮮な香りさえ感じられませんか。

 この局面、どうして上手は(△3四歩と)角道を開けないのか。

 それはこういうことなのです。
 「右香落ち」という対局はこれより100年以上も前からあるのですが、ずっと「角交換」をしない将棋だった。
 ところが1716年に、「右香落ち」で先手から2二角成と角交換する将棋が現れ、それが徐々に流行りはじめたのがこの時代なのです。
 そして、それ(下手からの角交換作戦)を最初にやったのが、実はこの対戦の上手をもっている四代大橋宗与なのでした。 (その将棋はあとで簡単にですが紹介します。)
 それ以降、「どうやら角交換は下手が指しやすいようだ」ということで、だんだんと上手のほうが「角交換」を避けるようになり、それが「右香落ち」の主流になってきたのです。角交換をすれば、上手側には、9一、9二に角打ちのスキがあるのでどうも困ることが多いのです。

 そういうわけで、上手は角道を開けないで駒組みを進めるようになった。この対局の上手番の宗与さんも「角交換は下手が指しやすい」とたぶん思っているのです。


 この図から、上手が仕掛けました。 7五歩、同歩、6四銀。 「相掛かり」の将棋のような軽快な動きです。


図3
▲9四と △5四飛 ▲9八飛 △8七歩成 ▲同銀 △6六歩 ▲7八銀 △6七歩成
▲同銀 △7六歩 ▲8八角 △8七歩 ▲9七角 △7四飛 ▲9五と △7三桂
 角道を開けないまま上手は攻め、下手の角を目標とします。
 下手の看寿は、9筋からと金を作りました。そのと金を9四→9五と引きつけます。
 宗与が攻め、看寿がぎりぎり交わす――という展開。


図4
▲7八歩 △3四歩 ▲5六銀 △6六銀 ▲6四歩 △6二歩 ▲6八金 △5五銀
▲6七銀 △6四銀 ▲8五歩
 上手宗与は7三桂と桂馬を使う。下手看寿はここで7八歩。
 そしてそこで、宗与、△3四歩。 ついに角道を開けた。


図5
△7五銀 ▲6九歩
 8五歩は、次に8四とのねらい。 宗与の指し手は、7五銀。
 そこで看寿の指した次の手が、有名な“魚釣りの歩” 。


図6
△3三角 ▲8四と △同銀 ▲同歩 △9六歩 ▲8六角 △8八歩成
 「6九歩」。 これが兄宗看がこれを見て勝利を確信した、という“魚釣りの歩”。
 8四とと攻めたいところで、攻めないで6九歩、これで「よしよし、落ち着いているなあ、これなら大丈夫」、ということでしょうか。
 受けるべきところを、しっかり受けたわけですね。

 しかし実際のところは、これで先手良しなどと言える形勢ではないようです。「互角」というのが正しいところのようです。感覚的には、上手のほうを持ちたい人がむしろ多いのではないだろうか。

 上手宗与は3三角。これはどういうことでしょうか。下手の看寿が動かなければ、上手は玉の整備をするのでしょうか。だとすると、2二玉~3二銀、さらに銀冠にするみたいなことでしょうか。(現代なら穴熊も…)
 上手のほうにはそういう手がありますが、下手の看寿にはあまり有効な手はなさそうです。
 ということで、ここで8四とと、看寿は攻め合いを選びます。宗与も、「それを待っていたぜ」、みたいな感じでしょう。


図7
▲9六飛 △8七と ▲8三歩成 △8六と ▲同飛 △9九角成 ▲8四と △6四飛
▲7三と △2四香
 しかし8八歩成のこの場面を見ると、一目、下手が攻められてたいへんに見えますね。


図8
▲8二飛成 △3三馬 ▲5六銀 △8八歩 ▲9七桂 △8九歩成 ▲7四桂 △4九角
 こうなりました。
 駒割りは、下手の「角香」と、上手の「銀桂」との交換。上手が少し駒得。
 でも、下手は「と金」がある。あの「と金」がどれだけ働くか。

 雰囲気は、上手好調ですね。


図9
▲7五銀 △7四飛 ▲同銀 △3五桂 ▲3九玉
 下手の7五銀に、「読み筋通り」とばかりに、宗与は7四飛と桂馬を食いちぎって、それを3五に打つ。
 下手、どう受けたか。 3九玉。 飛車と歩しかない下手には適当な受けがないですね。


図10
△3八角成 ▲同玉 △2七桂成 ▲4九玉 △7九と ▲6七銀
 看寿は2七の地点を明け渡し、上手の攻めの焦りを誘う。 でも、受かっているのか。


図11
△7八と ▲同銀 △7七金 ▲8六龍
 上手は、下手玉を左右から囲んで、“挟撃体制”となっている。
 この場面が、『将棋世界』の『イメージと読みの大局観』で採り上げられた場面です。

 ここで上手がどう指すのがよいか、というのがテーマでした。

 加藤一二三九段、森内俊之竜王、豊島将之七段は、ここでは「2八成桂」として、次に2七香成を狙うのが厳しいという。加藤さんはその手できっぱり「上手良し」と判定。
 また、郷田真隆九段は、7七歩成、同歩、6九とでも、下手の受けがむつかしい。しかしその前に、「4二金寄り」と指したいという。鈴木大介八段も、やはり「4二金寄り」がよいという。永瀬拓哉六段は、自分なら「5一金寄」と指すだろうと。郷田、鈴木の判断は「上手良し」。

 総合すると、「ほぼ互角だが、下手大変では?」、あるいは「上手良し」というのが、現代のプロ棋士の感覚のようだ。
 森内竜王は、「2八成桂」に、5六歩でどうかといい、豊島八段は、「2八成桂」に、8四角としたいという。これらの意見も、下手が頑張るなら、というニュアンスです。

 (なお、ソフト「激指」の評価も、ここらへんはずっと「互角」である。候補手も多く、どれを指しても「互角」。)

 実戦は、7八とから、7七金。
 対して、看寿、8六竜。


図12
△7八金 ▲同金 △7七銀 ▲7六龍 △7八銀成 ▲同龍 △7七金
 この8六竜があるから、自分の勝ちだ、と看寿は読んでいたかもしれない。


図13
▲5八龍 △7八歩 ▲7二飛 △6六馬 ▲6二と △4二金寄 ▲8五角
 下手の「竜」を捕獲してしまえば、上手が勝つが――。


図14
△7五馬 ▲6三銀不成 △8五馬 ▲同桂 △7六角 ▲2五歩 △同香
▲2四歩 △同歩 ▲5六角 △6六歩 ▲3五銀
 下手看寿は「8五角」。
 結果を知った上でこの図を見ると、この「8五角」は駒音高く打たれたように思ってしまう。「勝ちました」と高らかに宣言するかのように。


図15
△5八角成 ▲同玉 △6七歩成 ▲5九玉 △6四飛 ▲5五角
 受けを読み切った看寿は、攻めに転じた。3五銀と打って、これは2三金、同玉、3四銀からの“詰めろ”。
 宗与は5八角成と飛車を取って、6四に打つ。 攻防の手だが、形つくりだろう。


図16
△3三金 ▲5二と △6二歩 ▲同飛成 △2三玉 ▲4一と △7九歩成
▲3四銀 △同飛 ▲同角 △同玉 ▲3五金
 5五角(図)以下、下手、寄せ切る。


投了図
まで144手で下手の勝ち


 宗与にとっては、惜しい内容の勝負でした。

 あそこ(図11)で、7八とと攻めたのが、どうやらよくなかったらしい。そこまでは、むしろ宗与ペースの将棋で、ずっと看寿の耐えしのぶ展開でした。 「何か」手があれば上手が勝ちでした。そしてその「何か」はたぶんあったのです。
 おそらく以前からそういうことがあの局面について言われていて、それで鈴木宏彦さんが『将棋世界』で今回採り上げてみたのだと思います。

 看寿が、絶体絶命の包囲網をイリュージョンで脱出したような、そういうイメージが正しいかもしれません。
 本譜のように上手が7八とからの攻めにくれば、「8六竜で勝てる」と読んでいた看寿に対し、四代宗与のほうは「8六竜の受けならなんとかなる」と甘くみていたのではないかと感じました。
 (決して、“魚釣りの歩”で下手勝ち、というような単純な将棋ではなかったですね。)


 このように、若いほうの看寿が勝ったので、次に両者が対戦するとすれば、「平手」または「左香落ち」となって、つまりは、「同格」にちかいところまで看寿の力が伸びてきたことの証明となったわけです。(この対局まではこの両者の手合いは「角落ち」でした。)
 この対局時、段位は、宗与が八段で、看寿が六段です。たぶんこの勝負に勝って、看寿は七段に推されることになったのでしょう。
 当時の最高段は八段です。「八段」は名人候補というような、そういう意味でもあるのです。

 伊藤家の「宗看の次の名人は看寿で」という野望が、着実に一歩進んだということです。



 (しかし、実際にはこの対局の15年後ですが、看寿のほうが先に死んでしまうことになり、伊藤家の望みは実現しませんでした。看寿が死に、次いで宗看が死んで、その数年後に四代宗与も死んで、結局その後しばらく「名人位の空位」が続くことになりました。)

 



四代大橋宗与-七代大橋宗桂(右香落ち) 1716年御城将棋

さて、これは上の対局で看寿と戦った四代大橋宗与(大橋分家)と、大橋本家の七代目大橋宗桂との一戦です。

 宗与は1709年生まれなので、この時は数えで8歳ということになるのですが――、そして、これ、やはり「御城将棋」なのです。
 この図のように、「右香落ち」の将棋で、歴史記録上最初に▲2二角成と、「角交換将棋」にしたのが、彼、四代大橋宗与です
 この将棋以前には、この▲2二角成の手では、ほとんど▲6六歩と指されていました。約100年の間。 下手のほうから角道を止めていました。
 それを、数え8歳の子供が▲2二角成の新手で、新定跡を切り開いたわけですね。「振り飛車は6六歩とするもの」という先入観をとっばらったのです。

 「角交換振り飛車」の始祖は四代大橋宗与だった、のです。


 なお、相手(上手)の七代宗桂は、大橋本家の七代目。  五代目の宗桂(四世名人、実は伊藤家の出身、初代宗看の息子)が1713年に亡くなり、急遽六代目となった大橋宗銀も翌1714年に20歳の若さで死んでしまい、その後に、大橋家養子となって七代目を継いだ人。 記録資料がなく、元の名も、出身もわかっていない。 そしてどうやら残っている棋譜は5つだけらしい。
 この対局時、七代宗桂は28歳くらいと推定される。



 そして、この将棋はこうなります。
 そう、「角交換四間飛車」です。
 「角交換四間飛車」を最初に指した男、それが四代大橋宗与(8歳)なのでした。


参考図3
 この将棋は、下手の宗与が勝利しました。
 大橋分家ではこの勝利に大いに湧いたことでしょう。 それはそうです。 8歳の少年が、大橋本家のトップに「香落ち」で勝利したのですから! (数えで8歳ということは、今で言うと小学1、2年生の子供ですよ!) 

 四代宗与こそ、分家の“希望”であったと思われます。

 



 ところで、この四代大橋宗与は、「初代大橋宗桂の血」を受け継ぐものでした。つまり偉大なる「初代名人、宗桂」の血です。
 男性方の血縁を正統とするならば、大橋本家はすでにその血統を絶やしていましたし、伊藤はもとから違います。
 大橋分家だけが、「初代名人=大橋宗桂」の血統を残している家でした。それが大橋分家の誇りだったでしょう。大橋分家こそ、名人を出すにふさわしい家だと。

 その大橋分家の三代目の宗与は、名人(六世)になりました。大橋分家からの初の名人の誕生でした。1723年~28年のことです。
 そして、その誇りある大橋分家の、期待を背負って生まれ、育ってられてきた男、それが四代大橋宗与です。1728年に父が亡くなり、20歳の息子が次の「宗与」として四代目を継ぎました。



 ですが、彼、四代宗与の進む道は険しかった。彼の行く前には、怪物のように将棋の強い伊藤家の息子たちが道を立ち塞いでいました。
 伊藤宗看、宗寿、看恕、看寿。 みながみな、とんでもない才能の兄弟でした。 (長男の印達は15歳で早世したが、彼もまた天才と呼ばれていた。三男宗寿は大橋本家の養子となり、大橋本家八代目を継いだ。いちばん地味だった看恕も七段まで昇った。)
 四代大橋宗与は、伊藤家の“怪物たち”と、たった一人で闘わなければならなかったのでした。(大橋本家はすでに伊藤家の血に乗っ取られた状態ですから。)

 まったく、マンガの主人公のような立ち位置じゃないですか!

 正義の血統をもつ大橋分家四代目が、外来種――宇宙からやってきたインベーダー伊藤一族――と戦う…(笑)。





 伊藤家(宗看、看寿)と大橋分家(宗与)の戦いは、「魚釣り」というようなのんきな感じとは真逆の、息苦しい、緊張感を持ったものだったと思います。その緊張感でとげとげした対局を、「魚釣り」というほのぼのした話で包みくるんで江戸時代の人々が無意識にバランスをとったと、そういうことかもしれません。

 あるいは、“勝者が歴史をつくる”で、伊藤家のだれか調子者が「あの将棋はあの底歩(魚釣りの歩)からヨユウだったなフフフフ」と吹聴し、それがそのまま信じられたということかも。





 大橋分家の「初代名人宗桂の血」も、この四代目の宗与で終焉となります。

 大橋分家からは、しかし、数十年後の江戸後期、大橋宗英(大橋分家六代目)が現れ九世名人になっています。また有名な大橋柳雪も、大橋分家で育った人物です。(大橋柳雪の関連記事→『31年前の羽生・森内戦 横歩取り4五角戦法』)




 墨田区にある本法寺。ここに伊藤家の墓があり、宗看、看寿兄弟らもここに眠っている。
 2年前この記事(『南禅寺の決戦6 名人位の返上』)中に本法寺について書いた時には「本所相生町の本法寺」と紹介したのですが、今は本所相生町はなくなって、「横川1丁目」になっているようですね。




 今回の記事は、僕にとっては、四代大橋宗与のキャラを発見したことが収穫でした。





[追記、訂正です]

 この記事を書いた翌日に、重要な間違いが判明しましたので報告します。

 記事中、歴史上「右香落ち」で最初に2二角成からの角交換をしたのが1716年の四代大橋宗与、としたのですが、これが間違いだったことがわかりました。 1つ、棋譜をみつけました。すでに1600年代に、2二角成の角交換を指している人がいたのでした。さて、それを指したのはだれでしょう? ここではもったいぶって、その答えを書かないでおきます。いつか別記事でそのことに触れるかもしれません。
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神田川の船着き場

2014年06月01日 | はなし

神田川。 朝8時頃。 秋葉原の近くの神田佐久間町の和泉橋から。

ここは初めてきた。

船着き場がある。

 

あれ? 人がいっぱいいるが…   どういうこと?

まさか、神田川を船で渡って出勤!?  そんなシステムってあったの!?

ここは隅田川が近いが、ここでフェリーに乗って神田川→隅田川→深川、木場、みたいな感じ?

 

気になって近づいてみた。

 

 

すると―――みんなで黙々と煙草を吸っていた。

ああ、そういうことだったのね。

(この写真は別の場所で撮ったものです。)

千代田区は確か東京で最初に「路上喫煙禁止」を条例にした区でしたね。

 

最近は、田舎町でも「たき火を禁止」を条例としていたりしますね。

猫カフェで猫を夜遅くまで働かせてはいけない、という東京の条例はその後、猫は夜行性だからいいんだとかで時間変更があったところまでは知っていますが、今はどうなっているんですかね。

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