はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

南禅寺の決戦 1  決戦の前

2012年11月02日 | しょうぎ
▲7六歩 △9四歩

 

 初手木村の▲7六歩に、2手目坂田の△9四歩。
 これが有名な「坂田三吉」の端歩です。京都東山の南禅寺で行われた対局なので「南禅寺の決戦」。1937年2月5日より開始。「より開始」ってどういうことかといいますと、持ち時間両者30時間で、1週間かけて指された対局だからです。
 主催者は読売新聞社で、ですから読売新聞はこれを1週間、大々的に報じたわけですよ。ひとつの戦争ドラマのように。
 
 「坂田将棋の真髄、忽ち奇想天外の駒九四の歩」
 「雌伏一六年 忍苦の涙は九四歩の白金光を放つ」

 こんな見出し付きで。
 そりゃあ盛り上がったでしょう。「伝説の男 坂田三吉」ですから。「あの男が帰ってきた!」ですよ。16年ぶりに。16年ぶりってどういうことかって?16年将棋指していなかったんですよ。
 坂田三吉の弟子に星田啓三という棋士がいましたが、彼の話によればほんとにまったく指していなかったそうです。『9四歩の謎』(岡本嗣郎著)というのはそのあたりの事実に迫ろうと調べた本ですが、この本の中に坂田三吉はよく、「星田、やいとすえてくれ」といって星田に灸を頼み、「ええ気持ちや、よう効く」と言いながら、レコードで『曲垣平九郎』などの浪曲をくり返し聞いていたとあるんですね。それを読んで僕は、浪曲の好きな父に頼んでカッセトテープに『曲垣平九郎』の浪曲をダビングしてもらって聞いてみたということがあります。曲垣平九郎(まがきへいくろう)という人物は“馬乗り”の名手でして、「馬」の大好きだった坂田さんは、この人物がお気に入りだったようです。

 なぜ16年間将棋を指していなかったかというと、対局する相手がいなかったからです。坂田さんが「関根はんが名人なら、わいは大阪名人や!」ということを名乗ってしまって、撤回しなかったからです。将棋界と、大阪坂田一派が“冷戦状態”で交流禁止になったのです。坂田三吉が「大阪名人を名乗る」と発表したのは大阪朝日新聞で、坂田は朝日新聞の嘱託でしたが、つまりまあ坂田三吉のバックには大阪朝日新聞等の大阪財界人が付いており、見方によっては坂田さんは彼らに利用されたとも言えますね。しかし将棋指しは所詮は芸人、スポンサーにお金払ってもらって生きていく、そういう立場なので…。

 関根金次郎が30歳のころに、実力ナンバー1だったわけですが、結局政治力で小野五平が十二世名人に襲位しました。この時、小野五平は68歳でしたが、この小野が90歳まで生きたんです。で、やっと関根の順番がやってきて、1921年、関根金次郎十三世名人の誕生となります。この時、関根はすでに53歳で指し盛りを過ぎています。坂田三吉は51歳、関根の2つ下です。

 1906年、「千日手は攻めている方が手を変えなければならない」というルール(今とは違う当時のルール)を知らずに、それを相手の関根に指摘され負けになった坂田三吉は、その対局をきっかけに「関根を倒す!」とプロ棋士への道を決意しました。その時、坂田三吉は36歳。
 そして15年の月日、その間の関根金次郎と坂田三吉の対戦成績は15勝15敗です。互角の成績。
 坂田三吉は40代でも怪物のように強くなり、このときはすでに坂田三吉の方が関根より強いのでは、と周囲にはみなされていました。でも、この時の実力ナンバー1はこの二人ではなく、関根の一番弟子の若い土居市太郎で、すでに、いわば“土居時代”だったのです。
 坂田三吉はその土居市太郎との雌雄を決する一戦(1917年)に、「後手一手損角換わり」という奇策で臨み、土居の攻め、坂田の受けという展開になりました。土居の必死の猛攻を二枚の角打ちでしのぎ切り、勝ちが見えてきたというところまで行っていたのに、失着があって土居の逆転勝ち。そういうことで、坂田三吉は関根と同格といってよいほど強いけれども、どの時代でも実力トップに立ったことはないことになります。土居市太郎は坂田三吉に(おそらくですが)勝ち越しています。

 だれも皆当時はそういう経緯がわかっているし、坂田自身も心ゆくまで勝負をしてきたのだし、関根金次郎の名人襲位はだれも納得ずくでしたし、坂田三吉も了解していた事なのです。
 ところがその後でいろいろと事情が変わってきまして、きっかけは関根新名人が新たに「八段」の棋士を四人誕生させてしまったことでした。この「八段」という格はかなり重要なもので、これは“名人に準ずる”という格なのですが、その時点では坂田と土居と二人しかいなかった「八段」を、関根名人が(坂田の表現を借りて言えば)「石鹸会社のようにぶくぶくと」簡単に発行してしまったわけです。坂田さんはそれに腹をたてた。
 それに乗っかって、東京中心に色々なことが決められることに何かと憤慨していたらしい大阪の財界人たちが集まり、「坂田三吉大阪名人」が誕生した、といういきさつです。坂田三吉はうっかり乗せられてしまったのかもしれませんが、言った以上は自分の責任ということです。

 『9四歩の謎』には、「やがて関根名人が引退して、次は坂田が名人に、という密約があったのではないか」と考察しています。つまり、「53歳で名人になった関根金次郎が60歳を超えるころに引退し、次いで坂田三吉が――」という話です。口約束のようなものはあったかもしれません。
 しかしそれがあったとしても、坂田三吉が「大阪名人」を自称してそれを撤回しない以上、その“約束”を履行することも関根側にはできないわけです。

 そういうわけで、坂田三吉の「将棋を指さないで浪曲を聞く」という16年間の生活が続くわけです。
 舞台や映画の影響で、坂田三吉は貧乏というイメージがありますが、将棋を始めてからの坂田三吉は貧乏でありません。むしろ人気者で応援者もいましたから肉を食べたり、ひとに小遣いをあげたりという生活です。律義で静かな物腰で、おしゃれでよく手の爪を油で磨いていた、しかし声をだすと頭から声が出ているようなキンキン声だったそうです。この16年間もお金にはそれほど困ってはいなかったようです。
 さてそんな坂田空白の16年間の間に、なんとか坂田三吉を引っ張り出させたい、とずっと狙っていたのが読売新聞社です。「伝説の坂田」の将棋なら売れますからね! しかし坂田さんも「はいはい」とはそれは出ていけないでしょう。

 そのまま時がすぎ、1935年、関根名人は突然、引退を発表します。自分は引退して、次の名人は「実力制で」と宣言したのです。
 おそらくは、これに吃驚したであろう坂田三吉、こう思ったでしょうか。「じゃあ、わいの“大阪名人”はどうするんや!?」
 最初からそれを認めていない将棋界からすれば、どうするのなにもないことですが、坂田本人からすれば、重大事です。坂田三吉の気持ちは、関根金次郎のその決断を、「その決断、良し」と認めたことでしょう。「強いものが名人になる」それが一番良いことです。ただし、関根がそうやって「名人位」を返上したならば、自分も「大阪名人」を返上しなければおかしなことになる…。
 そのあたり、坂田三吉は何もしゃべっていません。ですから“謎”なのです。



 1935~37年、八段者による実力名人制度が進行していました。坂田の思いに関係なく…。
 その第1位が木村義雄(31歳)でした。2位で追うのが花田長太郎(39歳)、3位は土居市太郎(49歳)。 この三人は、みな、関根金次郎門下生です。
 「次の名人は木村義雄で確実だ。」 世間はそう見ていました。


 そのような時期、読売新聞社が「南禅寺の決戦」(坂田三吉vs木村義雄)、「天竜寺の決戦」(坂田三吉vs花田長太郎)を発表したのです。
 「伝説の男・坂田三吉がまた将棋を指す」というのです!


                           「南禅寺の決戦2」につづく


 過去記事
 『銀が泣いている』 (1) (2) (3) (4) (5)
 『曲垣平九郎
 『ゴテ一手ゾン角カワリ~
 『初代通天閣
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