はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

終盤探検隊210 ≪亜空間最終戦争一番勝負≫ 第109譜

2021年02月23日 | 横歩取りスタディ
最終一番勝負95手目



   [あの日はじまった物語]

あの日 ひとつの物語がはじまったのだ。
夏の陽(ほ)のさんさんとふりそそぐなか――
ぼくたちの漕(こ)ぐオールのリズムが
単調な鐘の音さながら時をきざみ――
その音がいまだに頭にこだましている
「わすれろ」と ねたみぶかい歳月はいうけれど

  (『鏡の国のアリス』巻頭の詩から  ルイス・キャロル著 矢川澄子訳 新潮文庫 )





<戦後研究:何が勝負を分けたのか(6)>


[調査研究:7六金図」

7六金図(一番勝負95手目)

  〔い〕7五歩  → 先手良し
  〔ろ〕7五香 = 実戦の指し手
  〔は〕9五金
  〔に〕9七歩成 → 先手良し
  〔ほ〕6四銀
  〔へ〕8六桂
  〔と〕7七歩
  〔ち〕4三馬

 この「7六金図」を調査中である。
 ここで後手に勝ちの可能性が残されていたか、それがテーマである。



変化9五金基本図
 〔は〕9五金(図)は「8六」をねらう手。
 以下7七銀、8四香、7五歩と受ける。
 そこで8六金、同銀、同香、同金、同桂は、5八香で「やや先手良し」の形勢。5筋の香打ちが先手で入るというのがポイントの手となる。
 ということで、7七銀、8四香、7五歩の後、後手は4三馬とする(次の図)

変化9五金図01
 7四歩なら、7五歩がある。
 先手は5四歩とそれを受ける。
 5四同馬なら、そこで7四歩と桂を取り、7五歩に6五銀と馬に当てて受けて、以下7六歩、5四銀と進み、これははっきり先手良しになる。
 なので、後手はここで8六金で勝負してくる(次の図)

変化9五金図02
 「4三馬、5四歩」の交換は先手が得をしたようにみえるが、これで後で先手からの5八香が入らなくなっているということに意味があるのである。
 とはいえ、単純に「8六」で全部清算するのはこれもはっきり先手良し。
 だから8六金、同銀、同桂と取って、8六同金に、そのタイミングで5四馬とする。
 以下7六金打、8六香、同玉(次の図)

変化9五金図03
 ここで8一金とすれば先手の飛車が取られるが、5七香、7六馬、同玉、9一金、4二銀、3一銀、同銀成、同玉、8三飛成で、先手優勢。
 8四銀とする手には、8三馬。以下9五銀打、同竜、同銀、同玉、7六馬、4二銀(次の図)

変化9五金図04
 先手の8九の飛車が受けに働いているので、ここで4二銀(図)と攻めていける。
 以下は、3一銀、同銀不成、同玉、8六金、4三馬、1一銀(次の図)

変化9五金図05
 先手優勢。
 次に3五桂、5四馬、5七香の攻めを狙って寄せていく。それを3四歩と防げば、5五桂、5四馬、2二金、4二玉、3二金、同玉、4三銀、同馬、同桂成、同玉、7六角で、“寄り” である。



変化6四銀基本図
 〔ほ〕6四銀(図)には、5四歩が好手で、これで先手良しになる。
 5四同馬に、4二金(次の図)

変化6四銀図01
 ここで後手がどうするか。
 「3一香」には、4三銀がある。以下同銀、4一竜で寄せることができる(4三銀に同馬も、同金、同馬、4一竜、3二銀、6一竜、5三銀、6五桂は先手勝勢)
 他に「1四歩」または「2四歩」があるが、いずれも5五歩で先手良し。
 「2四歩」、5五歩以下を示しておこう(次の図)

変化6四銀図02
 5五歩(図)が好手。
 5五同馬 なら6一竜として、3二金~5二馬を狙う。
 5五同銀 は、6五銀と打てる。以下5三馬、3二金、同玉、8四馬、同歩、5四金で、わかりやすく後手玉を寄せることができる。
 ということで後手は 5三馬 とするが、これも3二金、同玉、5四銀で先手が良い(次の図)

変化6四銀図03
 後手は5四同馬、同歩、7五銀で勝負する。
 対して7七銀と受けても先手良しではあるが、この展開は受けを一手誤ると逆転される。
 ここは4三銀から勝ちにいく。
 4三銀、同玉、4一竜、3四玉、6七角(次の図) 

変化6四銀図04
 6七角(図)が好手。正確に指せば、これで先手が勝てる。
 後手としては駒を温存して3五玉と逃げたいが、それは、7五金、同銀に、2六銀、3六玉、3七銀以下、後手玉詰みとなる。
 よって後手は4五銀と受けるが、7五金、同銀、8四馬、同歩と、駒を二枚補充して、4五角(次の図)

変化6四銀図05
 正確には詰まないのだが、詰まない筋に入っても先手が勝てる。
 4五同玉に、4六銀、同玉、4四竜。
 そこで4五金(金以外の合い駒は4七銀以下詰み)なら詰まないが、4七銀、5七玉、6八金、6六玉、6七銀、6五玉、4五竜、6四玉、4五金(次の図)

変化6四銀図06
 以下7三玉に7五金となって、先手勝ちとなる。



変化8六桂基本図
 〔へ〕8六桂(図)には、あっさり同金と応じるのがよい。
 8五香と打たれるが、7七玉とする(次の図)

変化8六桂図01
 これで8六香なら、同飛として、先手優勢となる(働いている後手の馬と眠っていた先手の飛車との交換は先手歓迎)
 しかしそこで7六歩という小技がある。同玉ならそこで8六香とするという意味で、それは先手不利となる。
 よって7六歩は同金と取る。以下8九香成、同金。
 その場面のソフトによる評価は評価値 +500 くらいで、先手良し。

 そこで後手にいろいろな手が考えられるが、以下は変化の一例を示しておく。
 7五歩、8六金、5九飛(代えて4七飛なら6八玉、4八飛成、5八歩で先手良し)、5一竜(次の図)

変化8六桂図02
 7五歩に先手が8六金としたのは後手8五金という活用を阻止した意味がある。
 5一竜(図)で寄せを狙う。
 攻め駒不足の後手は2九飛成としたいのだが、そう指すと5八香が打てて先手の優位が拡大する。
 よって、後手は1四歩とする。これも有効手だ。
 先手は4三歩。同馬に、4二金と打ち、6五馬に、再度4三歩(次の図)

変化8六桂図03
 次に3二金、1三玉、3五銀となると後手玉は “必至” となる。
 6四馬と受けるなら、2六香と打って 次に3一銀、1三玉、3二金の寄せを狙えばよい。
 受けがないので4三同銀、4一竜、2九飛成とするが、2五桂と縛り、2七竜、6七香、5五馬、6六銀(次の図)

変化8六桂図04
 先手勝勢。2五竜なら、5五銀と角を取って、次に3一角が残って先手が勝ちというわけだ。



変化7七歩基本図
 〔と〕7七歩(図)はハッとさせる手で、同銀なら7五歩で後手良しになる。
 これには7七同金と応じる。
 以下9五金、7五歩、8四香、7六金打(次の図)

変化7七歩図01
 8六香、同金上、同桂、同金、同金、同玉、8四銀(次の図)

変化7七歩図02
 ここは「7六金」または「8五金」が有力な受け手。
 「7六金」以下を解説して行くこととする。
 「7六金」に、〈A〉7四金〈B〉9三銀〈C〉9五金、が考えられる。

 〈A〉7四金 には、8四馬と切って、同金(同歩なら9五玉と "入玉" をめざす)に、5八香(次の図)

変化7七歩図03
 5八香(図)と打って、先手良しの形勢。3一馬には4三歩、同銀、3五桂と攻めて行けばよい。後手の「5三馬型」の陣には、いつでもこの5筋の香打ちが効果的な手となる。
 6四馬には、6一竜、6三歩、4二歩(次の図)

変化7七歩図04
 4二同馬なら5二香成(または5四桂)で寄せることができる。
 先手優勢。

変化7七歩図05
 〈B〉9三銀(図)は、同竜に、4九角と角を打って先手玉に迫る。
 これには8五銀と受け、7四歩に、5七香(次の図)

変化7七歩図06
 ここでもまた5筋に香を打つ手が出現した。
 6四馬、5五銀、3一馬、8三竜、7五歩、6六金、7六歩、7五歩、3八角成、8四歩(次の図)

変化7七歩図07
 先手優勢。以下2九角成には、4六桂と打って4四桂をねらう。

変化7七歩図08
 〈C〉9五金(図)の変化。
 後手は9五金、7七玉、8五金打と迫り、先手は6五銀と受ける(次の図)

変化7七歩図09
 9三銀、同竜、4七角、5六香、4三馬、5四歩、6四歩(次の図)

変化7七歩図10
 ここで、8五金、同金、同飛。ついに8九の飛車を活用することができた。
 以下6五歩に、3五桂(次の図)


 先手優勢。

 というわけで、〔と〕7七歩 は 先手良し、と結論する。


変化4三馬基本図0
 〔ち〕4三馬(図)
 これまで見てきたように、後手は香車を使って攻めることになるが、しかし先手に香を渡すと、どの変化も5筋に香を打つ手が現れて、それが先手の有効手になった。
 ということで、それならと〔ち〕4三馬とする手も考えられるところである。

 この手には5四歩と打つ。同馬なら、4二金と打って先手優勢となる。
 後手は、7五歩、同金に、1四歩(次の図)

変化4三馬図01
 ここはすでに先手良しの形勢だが、いまの「7五歩、同金、1四歩」の手順は、先手の手の選択肢を広げて、先手に間違わさせようというような怪しい手順。
 ここは色々な手があって、しっかり指せば先手が勝てる場面。候補手は「7六歩」、「7七銀打」、「3四歩」、「6一竜」などがあり、それ以外にも有力手がある。

 この解説では、「6一竜」以下の進行を見ていくこととする。
 以下8六桂、同玉、4二馬の進行が考えられる(次の図)

変化4三馬図02
 先手は8五金打と受け、7四歩に、5三歩成、同馬、6四銀打と打つ。6一竜とまわった手を生かした受けだ(次の図)

変化4三馬図03
 後手の馬を盤上から消してしまえば、いっきに後手玉は攻略しやすい薄い玉になる。それを見越しての積極的な受けだ。
 これで先手の優位が拡大しているのは間違いないところだが、ここでの後手の手はまた選択肢が多いので、先手も読むのが大変だ。
 以下は変化の一例を挙げておく。
 6四同銀、同金、8五金、同玉、8四銀、同金、同歩、9四玉(次の図)

変化4三馬図04
 先手優勢である。ソフトの評価値はすでに +2000 以上になっている。
 この図からは、6四馬、同竜、8二角という進行が予想される。以下7三歩、9三金、9五玉(次の図)

変化4三馬図05
 先手玉は押し戻されてしまったが、問題ない。8九飛が居るので先手玉は詰みを逃れており、一手の余裕ができれば4二銀と打っていける。
 先手勝勢。



 以上で、「7六金図」の調査は終了となる。

7六金図(一番勝負95手目)
  〔い〕7五歩  → 先手良し
  〔ろ〕7五香 = 実戦の指し手
  〔は〕9五金  → 先手良し
  〔に〕9七歩成 → 先手良し
  〔ほ〕6四銀  → 先手良し
  〔へ〕8六桂  → 先手良し
  〔と〕7七歩  → 先手良し
  〔ち〕4三馬  → 先手良し  

 結果はこの通り、すべて「先手良し」である。




7五香図(一番勝負96手目)
 ただし、実戦の進行、〔ろ〕7五香(図)の図がほんとうに「先手良し」なのかどうかについては、もう少し調査する必要がある。

 〔ろ〕7五香(図)に、▲5四歩 以下先手が勝利したのだったが、一つだけ確認すべき変化があるのだ。



5四歩図(一番勝負97手目)

 【これが勝因か? その5】 5四歩

 ▲5四歩(図)と打って、以下△同馬に、▲6五金打と打ち、先手は勝利することができた。▲6五金打としたところ以降は、後手にチャンスはなかった。

 “確認すべき変化” というのは、この▲5四歩 に、「6四馬の変化」である。



[調査研究:6四馬]

変化6四馬図00
 ▲5四歩に、「6四馬」(図)の変化を検討する。
 結論から言えば、「5四歩、同馬」と進んだ本譜の場合と同じように、6五金打と金を打てば先手が勝てる。 

変化6四馬図01
 6五金打(図)と打ったところ。
 ここで、[ア]7六香 と、[イ]6五同馬 が考えられる手([ウ]4二馬 は7五金寄で先手良し)

 [ア]7六香、6四金、7八香成には、同金と取っておく(次の図)

変化6四馬図02
 先手玉はうすくなったが、後手陣の「4二」のスキが先手の狙い所になる。
 後手はここで6四銀としたいが、先手4二角が打てる。それは先手優勢がはっきりする。
 7五銀と打つ手にも、4二角で先手良し。
 そうかといって3一金のような受ける手では、7三金で後手に勝ち目がなくなる。
 つまりこの図は先手良しである。

 8五金と迫る手があるので、それを以下解説しておく(次の図)

変化6四馬図03
 8五金(図)を同歩と取ると、8六金、8八玉、7七歩、同金、7六歩で先手危険なところがある(厳密には先手良し)
 8五金に4二角は、後手玉への詰めろではないので、7六金打、8八玉、8六桂で、先手負け。
 8五金には7七金と受けるのがしっかりした応接。
 9七歩成、同香、7六歩が予想される攻め。以下、8五歩、7七歩成、同玉、6四銀、4二角(次の図)

変化6四馬図04
 やはりここでも4二角(図)と打って先手優勢である。
 7六歩には6七玉とかわしておく。後手の持駒に金銀が四枚あるので先手玉が危険に見えるが、9三の馬が6六に利いているので、先手玉は全然詰まない。

変化6四馬図05
[イ]6五同馬(図)の変化。
 この変化は、実戦の▲5四歩、同馬、6五金打、同馬以下の変化と大変に似ている(第94譜 で解説)
 違いは「5四歩」が盤上にあること。
 6五同金、7六金、8八玉、7七歩、7五金(次の図)

変化6四馬図06
 7八歩成、同金と進むが、そこで7五金引では後手に勝ち目がなさそう。
 7五金上でどうか、を調べる。同馬、同金に、4二角(次の図)

変化6四馬図07
 さらに、6六角、7七歩、1四歩と進む。やはりこう進んで「先手良し」である。
 この図は本譜(5四歩に同馬、6五金打の進行)で解説した順(第94譜)とほぼ同じだが、その解説の場合には、ここで6八香と打ったが、ここでも6八香でも先手良しではあるが、5七角成で勝ち味が遅い。この場合は「5四歩」が盤上に残っているため5八歩が打てないのがつまらないのだ。
 よってここは6七金打(図)とする。これなら後手5七角成と成れない(次の図)

変化6四馬図08
 6七金打(図)に対し、考えられる後手の手は、4八角成3九角成、あるいは角取りを放置して 2四歩 だろうか。
 しかし 2四歩 は、6六金、同金、3一角打、2三玉、3七香で、先手良し。
 4八角成 なら5七銀。3九角成 には、6八歩(飛車の横利きを通す)、4八馬、5七銀。どちらを選んでくるか。

 あえて 3九角成 として、6八歩、4八馬、5七銀と進めるほうが良いと後手は判断するかもしれない。先手に6八歩を突かせた方が後で後手6六歩が効果的な攻めになるという意味だ(次の図)

変化6四馬図09
 そうするとこの図になる。ここから4七馬、7五角成と進んで、先手は金をタダ取りできた。
 以下6四銀打、7六馬、6五銀に、4八香(次の図)

変化6四馬図10
 6五銀に8七馬では、6六歩と打たれる。それで先手は、このタイミングで4八香(図)と打つ。3八馬なら、8七馬として、6六歩には7六金で問題ない。
 ここで7六銀でどうなるか。4七香、6七銀成、4二金(次の図)

変化6四馬図11
 4二金(図)とここに先着できるのが大きい。これで先手良し。後手は受けが難しい。
 以下7八成銀、同玉、3一金には、同金、同玉、1一銀(次の図)

変化6四馬図12
 先手勝勢である。

 「6四馬」の変化は 6五金打 で先手良し。


5四歩図(一番勝負97手目)
 ということで97手目▲5四歩のこの場面では、“後手に勝ちはなかった” ということになる。
 つまり、今回の譜のはじめの研究図「7六金図」(95手目)では「先手良し」が確定しているということである。

 ということは―――


5三同馬図(一番勝負94手目)
 後手の最終的は「敗着」は、▲5三香成(93手目)を、△5三同馬と取ったところ、だと確定した。

 【後手の失敗 その5】 5三同歩を逃したこと



 
 これで、今回の最終一番勝負の「戦後研究:何が勝負を分けたのか」の調査はすべて終了した。
 ある程度詳しく調べる必要があったので、長々とかかってしまい、そのせいでポイントがまたわかりづらくなっているかとも思う。
 であるから、次回は「戦後研究:何が勝負を分けたのか(1)~(6)」の要点をすっきりまとめて、それで「亜空間戦争最終一番勝負」の最終譜としたい。



第110譜につづく
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終盤探検隊 part189 ≪亜空間最終戦争一番勝負≫ 第88譜

2020年12月19日 | 横歩取りスタディ
≪最終一番勝負 第88譜 指始図≫ 7七金まで

指し手 △7六歩 ▲6六金 △9六歩 ▲5九香



   [ゆすぶって]

 「あんたなんか、こうやって、子猫にしてやる!」

 そういいながらアリスは女王さまをテーブルからもちあげて、力いっぱい前後にゆすぶった。
 赤の女王さまはぜんぜんさからわない。ただひどく顔が小さくなり、目が大きく緑いろになってきてね。それでもゆすぶりつづけていると、女王さまはますますちぢんでいって――ふっくらして――ふわふわしてきて――まるまるしはじめて――そして――

  (『鏡の国のアリス』 ルイス・キャロル著 矢川澄子訳 新潮文庫 より)



 こうして、ついに「赤の女王」は子猫に。




<第88譜 決着は泥の中で(六)>


≪最終一番勝負 第88譜 指始図≫ 7七金まで

 △7五歩 に、▲7七金(図)と受けたところ。

 ここしばらくの間、ずっと「盤面の左側」が戦場になっている。先手玉に近い。その分だけ、先手がしんどい闘いになっている。


 ≪指始図≫より、△7六歩 に、▲6六金 と進む。



≪途中図1 6六金まで≫

 ここで、後手 △9六歩
 だが、この手は “緩手” である。


変化7四桂図
 「代えて7四桂(図)なら後手良し」だった。

 あるいは「6四銀右」も有力手で、それでも後手が良かった。
 (このあたりの詳しい解説はここではしない。また後の譜であらためて行う)

 「△9六歩 は “緩手” 」というのは、そこで先手に7五歩と打つ手があるからである(次の図)


変化7五歩図
 7五歩(図)と打って、後手の7四桂の手を封じた変化。
 ただし、6四銀右がある。7五歩、6四銀右以下、難解な形勢。


 しかし、ここで終盤探検隊が選んだのは、その手ではなく―――(次の図) 



≪最終一番勝負 第88譜 指了図≫ 5九香まで

  ▲5九香(図)である。

 つまり、≪指始図≫ から、△7六歩▲6六金△9六歩▲5九香 と進んだ。



第89譜につづく
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終盤探検隊 part162 ≪亜空間最終戦争一番勝負≫ 第61譜

2020年09月07日 | 横歩取りスタディ
≪最終一番勝負 第61譜 指始図≫ 7七同歩成まで



   [白い騎士のうたう歌]

 鏡の国の旅で見たさまざまな不思議なものごとのなかでも、アリスがいちばんあざやかに思い出せるのが、この一齣(ひとこま)だった。何年もたってからでさえ、アリスはつい昨日のことのように、そのときの情景をあまさず思い浮かべることができたんだ――騎士のおとなしい青い眼、そしてやさしい微笑(ほほえ)み、夕日がその髪ごしにきらきら透けて、鎧(よろい)にあたって目も眩(くら)みそうにぎらっとかがやいたこと――首のまわりにだらりと手綱をたれたまま、足もとの草をたべたべ静かに歩きまわっている馬――背景には黒い森影――こうしたものすべてをアリスはさながら一幅の絵のようにながめながら、片手をかざして木によりかかってね。そして風変わりな馬と騎士の一組を見守り、なかば夢見心地で物悲しい歌のメロディに耳をかたむけていたんだ。

  (『鏡の国のアリス』 ルイス・キャロル著 矢川澄子訳 新潮文庫 より)





<第61譜 吉祥A図、攻略完了!>

 「吉祥A図」について徹底調査をしている。それがいよいよ完了しようとしている。

吉祥A図
   【0】7八歩 = 実戦の指し手
   【1】3三歩成 → 後手良し
   【2】3三香 → 後手良し
   【3】8九香 → 先手良し
   【4】2五香 → 互角(形勢不明)
   【5】5四歩 → 先手良し
   【6】2六香 → 先手良し
   【7】2六飛 → 先手良し
   【8】2五飛 → 先手良し
   【9】3七桂 → 先手良し
   【10】3八香 → 後手良し
   【11】8一飛 → 互角(形勢不明)
   【12】1五歩 → 後手良し
   【13】9八金 → 後手良し
   【14】6五歩 → 後手良し

 最後に、【15】3七飛 を調査する。



[調査研究 【15】3七飛

3七飛図
 【15】3七飛(図)と打つ手が残っていた。
 ねらいは3三香の攻めと、7七飛と後手の攻めの要の「と金」を払う手。

 対して、後手の候補手は―――
 [マ]7六歩[ミ]6六銀[ム]9五歩[メ]7五桂[モ]4四銀引
[ヤ]4四銀上[ユ]3一銀[ヨ]4六銀

 これらを一つ一つ、調査していこう。

 まず、[マ]7六歩 および、[ミ]6六銀 は、「3三香」として、先手良しになる。

研究3七飛図01
 [マ]7六歩(図)に、「3三香」と打ちこんで行く。
 以下その進行例を示すが、[ミ]6六銀 の場合も同じように進めて先手が勝てる。

 「3三香」に、3一銀と引いても、3二香成、同銀、同角成、同玉、3三銀以下後手玉詰み。
 したがって3三同桂と取るが、同歩成、同銀に、5二角成とできる。
 以下7五桂に、7九桂(次の図)

研究3七飛図02
 6二銀右、4一馬(次に3一金と打てば後手受けなし)、3一香、3四歩、4二銀左、8四馬(次の図)

研究3七飛図03
 8四同歩、3三金、同歩、同歩成、同銀、3一馬(次の図)

研究3七飛図04
 以下、後手玉“詰み”

研究3七飛図01(再掲)
 実はこの図では「3三香」以上に速い攻め筋がある。
 それは、「8四馬」である。それは次の [ミ]6六銀 で示そう。


研究3七飛図05
 [ミ]6六銀(図)でも、同じように「3三香」または「8四馬」で先手が勝てる。
 ここでは、「8四馬」を紹介しよう(次の図)

研究3七飛図06
 「8四馬」(図)で金を取って、この瞬間、後手玉に“詰み”が生じている。その詰みを受けても、6六馬があるので、後手はもう勝ちようがない。
 8四同銀に、3二角成、同玉、3三香、同桂、同歩成、同銀、3一金(次の図)

研究3七飛図07
 3一同玉に、3三飛成以下、“詰み”


研究3七飛図08
 [ム]9五歩(図)は、先手陣の急所に迫る手である。
 しかし、この場合も、「8四馬」で、先手勝ちになる。
 「8四馬」を同銀や同歩なら、3二角成、同玉、3三香以下、後手玉が詰むのはすでに述べている通りだが、「8四馬」に、9六歩、同玉、6二銀左と頑張った場合について、見ておこう(次の図)

研究3七飛図09
 「5三」を開けたことで3二角成以下の詰み筋は消えた。
 しかしここで “3三香” と打って、先手が勝てる。
 これには、同桂 と、同銀 がある。
 3三同桂、同歩成、同銀に、3四桂がある(次の図)

研究3七飛図10
 3一玉なら、2一金、同玉、2二金、同銀、同桂成以下、詰み。
 よって3四同銀だが、3二角成、同玉、3四飛、3三歩、3一金で―――(次の図)

研究3七飛図11
 後手玉が詰んでいる。

研究3七飛図12
 “3三香” を、同銀(図)の場合。
 3三同歩成、同桂に、5二角成。
 そこで8四銀と後手は勝負してくる(先手玉に詰めろが掛かった)が、3一銀以下、後手玉に “詰み” がある。3一銀、同玉、4二金、2二玉、3三飛成(次の図)

研究3七飛図13
 これで “詰み”


研究3七飛図14
 というわけで、【15】3七飛 に対し、後手は攻めるなら、[メ]7五桂(図)しかないようだ。
 この手には、先手は7七飛と「と金」を払う(次の図)

研究3七飛図15
 以下、7六歩(代えて 6七歩 は後述)に、3七飛(次の図)

研究3七飛図16
 3七飛(図)と3筋に戻って、再び、3三香の攻め筋が復活している。

 ここで 〔A〕4六銀〔B〕4四銀引〔C〕4四銀上〔D〕3一銀 が、後手の考えられる候補手。

研究3七飛図17
 〔A〕4六銀(図)として、以下3六飛、7七歩成のような展開になれば「互角」の戦い。
 しかし、4六銀に、3三香がある。
 以下、同桂、同歩成、同銀に、3四桂(次の図)

研究3七飛図18
 3四同銀、同飛、3三香(代えて3一香には、3三歩、同歩、2四銀で先手勝ち)に、1一銀(次の図)

研究3七飛図19
 1一同玉に、3二角成、2一銀、3三飛成で、後手“受けなし”になる。

研究3七飛図20
 戻って、〔B〕4四銀引(図)。 銀を引いて「3三」に利かせた。
 しかしそれでも3三香と打ちこんで行く手がある。同桂なら、同歩成、同銀引、5二角成で、先手優勢だ。後手の桂がいなくなれば5二角成が可能になるのである。
 よって、後手は3一銀と受ける。しかしこれにも、先手に有効手がある。8四馬だ(次の図)

研究3七飛図21
 8四同銀(図)に、3二香成、同銀、同角成、同玉、3三銀以下、後手玉“詰み”
 先手勝ち。

研究3七飛図22
 〔C〕4四銀上(図)にも、3三香と打ちこんで行く。
 以下3一銀に、この場合は「5三」の空間が開いているので、8四馬としてもその手が詰めろになっていないため無効。
 ここは、5二角成、同歩、4一金(次の図)

研究3七飛図23
 以下7七歩成、同飛、1四歩、3一金、6九角、2一金、1三玉、4七歩(次の図)

研究3七飛図24
 後手玉にはまだ詰めろが掛かっていないが、先手玉もまだ寄らない。8七桂成から飛車を取っても、攻めがうすい。
 このままなら、次に先手3七桂や3六桂で後手玉に詰めろが掛かり、それが間に合う。
 先手勝勢になった。

研究3七飛図25
 〔D〕3一銀(図)と受ける変化。
 先手はいったん7八歩と受けておく。以下6六歩に2五香と打つ。

研究3七飛図26
 2五香(図)と打って、次に、2三香成、同玉、3三金の狙い筋がある(2六香よりこの場合は2五香が優る。理由は追って明らかになる)
 これを4二金と受けるのは、6三角成、6二銀右に、4五馬が“絶好の位置”で、先手勝勢になる。
 よって、後手は4二銀引と受ける。「3三」を強化した。
 対して、先手は6五金と打つ。以下4六銀に、3六飛(次の図)

研究3七飛図27
 「2五」に香車を打ったのは、このような変化になったときのためだった。2六飛の狙いが生じている。
 この図は、先手勝勢になっている。
 図以下、一例を示すと、7七歩成、同歩、6七歩成、2六飛、1一玉、7五金、3五銀、1五桂(次の図)

研究3七飛図28
 2六銀に、2三桂不成、2二玉、3一桂成、同玉、5二角成で、先手勝ち。

研究3七飛図29
 「研究3七飛図06」まで戻って、そこで後手 6七歩(図)の変化。先手の飛車を3七まで戻すと後手がつらい―――ということなら、このように 6七歩 として封じ込める手は後手としては考えてみたいところだろう。
 対して、7五飛、同金、同馬、7七飛、8七桂でも先手が良いようだが、この図ではもっと勝ちやすい指し方がある。
 3三歩成、同銀、5二角成の攻めである(3三歩成を同玉は5二角成、同歩、2一竜)
 以下同歩に、3一金と打つ(次の図)

研究3七飛図30
 角を後手に渡しても、7九角打ちがないのがよい。
 以下3四銀、4一竜、3三玉、4八香(次の図)

研究3七飛図31
 後手玉は逃げられない。3二竜以下の“詰めろ”になっており、1四歩でそれを防いでも、3五歩と打って、先手勝ち。


研究3七飛図32
 [モ]4四銀引(図)と受けた場合。
 ここで3三香は3一銀以下、形勢不明の勝負になる。
 7七飛が本筋の手で、以下7六歩、3七飛、6七歩、5四歩(次の図)

研究3七飛図33
 5四歩(図)では、代えて4五歩(同銀なら3三香)があってそれで先手が良いが、5四歩はさらに良さを求めた手。6二銀左なら、今度こそ4五歩がより効果的になっている。
 よって5四同銀と取るが、5三歩が追撃の手裏剣で、同金に、3三香(次の図)

研究3七飛図34
 3三同桂、同歩成、同銀引、3四歩、4四銀、3三桂(次の図)

研究3七飛図35
 3三同銀引、同歩成、同銀、5一竜となれば、先手勝勢が確定。
 よって、後手は1四歩と抵抗するが、その手には先手1五歩。以下同歩、同香、同香、1四歩(次の図)

研究3七飛図36
 まだ後手玉は詰めろになってはいないが、8四馬と金を取れば詰めろになる。
 先手勝ち。


研究3七飛図37
 [ヤ]4四銀上(図)は、先ほどの[モ]4四銀引 と同様に「3三」を強化した受けの手だが、意味合いがずいぶんと変わってくる。[ヤ]4四銀上 と銀を上がることで、二枚の銀で中原を制圧しようといういうのが後手の秘めたる望みなのである。
 図以下、7七飛、7六歩までは同じ。そこで3七飛としたいが、4六銀、3六飛、3五銀上とされて、こうなると互角の勝負(こういう展開が後手の狙い)
 なのでこの場合、4七飛 と“途中下車” する手が優る。
 以下7五桂に、2六香(次の図)

研究3七飛図38
 2六香と打って、5二角成、同歩、2三香成が先手の狙いの攻め筋である(以下2三同玉、2一飛成、2二歩(香)、1五桂以下、後手玉詰み)
 後手の有力手は、攻めるなら 〈1〉5六銀、または 〈2〉6六銀、受けるなら 〈3〉6二金 がある。

 〈1〉5六銀、3七飛、6七銀不成。
 そこで5二角成は7七歩成、9八金、7六銀成で後手の勝ちになる。
 よって先手は8八金と受ける(次の図)

研究3七飛図39
 8八金(図)と受け、次に5二角成(同歩なら2三香成以下後手玉詰み)に期待する。
 それを6二金と受けても、6三歩、5三金、5四歩、同金、5二角成、同歩、2三香不成、同玉、2一竜、2二歩、1五桂、1四玉、2二竜で、後手に受けがなく先手勝ちになる。
 したがってここでは後手は攻めるしかない。7七歩成、同金、7六銀成。
 以下同金、同桂に、5二角成(次の図)

研究3七飛図40
 8七金、同飛、同桂成、同玉、8八飛、7六玉、5二歩、7九金、5八飛成、1五桂(次の図)

研究3七飛図41
 先手勝ち。

研究3七飛図42
 〈2〉6六銀(図)の場合。
 ここで5二角成は、7七歩成、9八金、5二歩と対応され、2三香成としても後手玉に詰みがないので、先手悪い。
 よってこの図では、7八歩と受ける。
 以下6七歩、8八金、6二金(次の図)

研究3七飛図43
 8八金としっかり受けて、後手の早い攻めはなくなった(7七歩成、同歩、7六歩くらいだが5二角成の攻めのほうが早い)
 なので、後手は自陣に手を戻して、6二金(図)としたところ。
 さて、ここでどうするか。
 4六飛と指すのが好手。対して後手は5五銀上としたいが、それは5一竜、同銀、4三飛成で先手勝ちになる。
 (注:4六飛がベストの手と見ているが、ここは4五歩、5五銀、3三歩成、同桂、5二歩でも先手良し)
 したがって後手は5五銀引と指すしかない。先手は3六飛。これで先手は後手の銀を下がらせて、手順に3筋に飛車を展開できた(次の図)

研究3七飛図44
 ここで「4五銀」は、8四馬、同銀、5一竜、同銀、3三金で先手勝ち。
 また「3一玉」とするのは、6三歩、5三金、5四歩、4一玉、5三歩成、同銀引、6一竜で先手良し。

 後手攻めるなら、「6八歩成」だ。この先を見ていこう。
 3三歩成、同銀引、6三歩、5三金、6二歩成、同銀、2三香成(後手に3一玉を許さない)、同玉、8五歩(次の図)

研究3七飛図45
 6三歩~6二歩成で、後手の銀を下がらせたので、この8五歩(図)が効果的になっている。
 図以下、6三銀、8四歩、5二銀で、角が取られてしまうが、同角成、同金、8三歩成と進めてみると―――(次の図)

研究3七飛図46
 先手優勢である。
 次に7五馬と桂馬を取る手が有効手になる。6七桂成なら、8六玉で“入玉”をめざす。

研究3七飛図47
 途中まで戻って、先手の6三歩に、手抜きして 6六歩(図)の変化。
 6二歩成、7八と、同金、6七歩成。これで先手玉に受けがない。しかしまだ詰めろは掛かっていない、という状況。
 先手に好手がある(次の図)

研究3七飛図48
 3三飛成(図)で、先手が勝てる。
 同銀は5一竜で。同桂は3四銀で、先手勝勢。また3三同玉には、3五銀で、やはり先手勝勢である。

研究3七飛図49
 戻って、〈3〉6二金(図)。 先手の狙いの5二角成を避けた手。
 これには6三歩と打って、5三金、5四歩、同金、9二竜と進める(次の図)

研究3七飛図50
 6二歩の受けに、同歩成以下、攻め合いに。
 5六銀、3七飛、6七銀成、5二と、同歩(次の図)

研究3七飛図51
 5二同竜、7七歩成と進むと、後手優勢。後手玉が詰まないから。
 しかし、ここで3三歩成を先に利かすのが正着手で、同桂なら3四金で先手良し。なので3三同銀引だが、そこで5二竜として、7七歩成に―――(次の図)

研究3七飛図52
 3三飛成‼(図)
 これで後手玉は詰んでいる。3三同玉に、3四金、同玉、5四竜以下。

研究3七飛図53
 [ヨ]4六銀(図)はどうなるか。
 この手には、7七飛とし、以下7六歩、7九飛と進む(次の図)

研究3七飛図54
 ここで(あ)5八金や(い)6七歩は、3三香で先手良しになる。
 具体的には、(あ)5八金、3三香、3一銀、5二角成、同歩、4一金(次の図)

研究3七飛図55
 これで、先手が勝てる。角を渡しても、後手6八角に8九飛、7七歩成が詰めろではないので、先手の3一金からの攻めのほうが早い。
 図で4二銀引なら、同金、同銀、3二香成、同玉、4一銀、2二玉、3二金、1一玉、8四馬で、先手勝ち。

研究3七飛図56
 7九飛に、(う)7五桂(図)が先手玉に最も迫っている。
 この手に対して同じように3三香と攻めると、角と香を後手に持たれたとき、6八角と打たれて、8九飛、7七歩成が先手玉への詰めろになっているので、今度は後手優勢になってしまう。
 なので、ここは7八歩と受けておくのが正着となる(次の図)

研究3七飛図57
 7八歩と受けて、先手の狙いは、5九飛~3九飛。このときに「金金香」と持っていれば、3九飛が後手玉への“詰めろ”になっている。
 後手は5八金とするが、3九飛で、次の図。

研究3七飛図58
 このまま3三香と打ちこめば先手勝ち。
 なので4四銀と受ける手が考えられるが、それでも3三香と打ちこむのが明快な寄せ。
 対して3一銀なら、5二角成、同歩、4一金として、先手が良い。
 3三同桂なら、5二角成(次の図)

研究3七飛図59
 先手勝勢。

研究3七飛図60
 3九飛に、3一銀(図)の場合。 
 この手には、2六香と打つ。2三香成、同玉、3三金、2四玉、8四馬がねらい。
 なので後手は4二銀引と受ける(4二金は6三角成、6二銀右、4五馬で、先手勝勢になる)
 そこで先手は6六金(次の図)

研究3七飛図61
 6六金と打って、先手の次の狙いは7五金、同金、同馬である。7五桂を取ってしまえば先手玉は安全になるし、桂馬が入れば1五桂が決め手になる。
 先手勝勢である。


研究3七飛図62
 [ユ]3一銀(図)が後手“最後の候補手”
 図から、7七飛、7六歩、3七飛と進む(次の図)

研究3七飛図63
 ここで考えられる後手の候補手は―――
 〔s〕6六銀〔t〕4二金〔u〕6二銀右〔v〕4六銀
 (他に〔w〕7五桂 は上で調べた「研究3七飛図25」に合流する→先手良し)

 〔s〕6六銀 には、2六香と打つ(次の図)

研究3七飛図64
 対して、7七歩成なら2三香成、同玉、3三金、2四玉、8四馬で、先手勝ち。
 よって後手は受けなければいけないが、4二金と受けるのは、6三角成、6二銀右に、2三香成、同玉、4五馬で、先手勝勢になる。
 したがって、2六香には、4二銀引と受ける。
 以下3三歩成(同桂なら3四歩、4五桂、8四馬、3七桂不成、6六馬で先手勝勢)、同銀、5二角成、同歩、2三香成、同玉、3一竜(次の図)

研究3七飛図65
 7九角には9八玉で大丈夫。先手勝ち。

研究3七飛図66
 [ユ]3一銀 と早く銀を引いたのだから、〔t〕4二金(図)は指してみたい手。
 以下6三角成、6二銀右、3六馬、6六銀、7八歩、7七歩成、同歩、6五桂、2六香(次の図)

研究3七飛図67
 2六香(図)と打って、後手7七桂成なら、2三香成、同玉、4五馬で後手玉は“必至”になり先手勝ち。
 それを受ける手として1一玉もあるが、2三香成、2二歩、1二成香、同玉、1五歩として、次に1四歩からの端攻めがあり、先手良し。
 また4五馬を防ぐ4四歩には、5四歩がある。
 ということで後手は4四銀と受けるが、これには6一竜、5二金に、5四馬がある。以下7七桂成、6四馬(次の図)

研究3七飛図68
 1五桂と、2三香成~3一馬の二つの狙いがあり、先手勝勢。

研究3七飛図69
 〔u〕6二銀右(図)と引く手のねらいは、次に4二金として4一角を捕獲することである。
 ここはしかし、2六香と打って、4二金に、3三金と打つ(次の図)

研究3七飛図70
 3三同桂、同歩成、同金は、3四歩がある。
 よって後手は図で1一玉とするが、4二金、同銀引、2三香成、7七歩成、同飛、2二歩、3二成香(次の図)

研究3七飛図71
 3二同銀、同角成、3一金、3三歩成、同桂、3一馬、同銀、4一金(次の図)

研究3七飛図72
 以下3二銀、3一金、2一銀が予想されるが、4二銀で先手が勝てる。4二銀は詰めろではないが次に3三銀成がねらいで、4五桂なら3二歩で後手“受けなし”になる。4二銀は後手5三角の受けを許さない意味もある。
 4二銀に、後手3二歩なら、8四馬で、先手勝ち。

研究3七飛図73
 〔v〕4六銀(図)は、3六飛、7七歩成、4六飛、7五桂、9八金、7六桂、8九香と進む(次の図)

研究3七飛図74
 後手の攻めはいったん止まり、ここで後手の指し手が難しい。
 6九金 のような手なら、7八歩、同と、7六飛で先手良しになる(以下8九と、3三歩成、同玉、5二角成、同歩、3一竜)
 7四銀 または 6二銀 は考えられる。7八歩なら4二金で勝負しようという意味の手だが、しかし7四銀6二銀)に、3三歩成、同玉、8二馬という手が先手に生まれて、やはり先手良しになる。
 
 ということで、後手は6二歩とする。これも4二金の角捕獲が後手の狙いである。
 対して、先手は、3三歩成、同玉、7九歩とする(次の図)

研究3七飛図75
 7九歩(図)は攻める前の準備。次に5二角成、同歩、3一竜の狙い。そのときに後手7九角の筋を消しておいたわけだ。
 図以下、4二金、5一竜、2二玉、3三歩、同歩(同桂なら8五角成、同玉なら3六飛)、3二歩(次の図)

研究3七飛図76
 3二同金は、同角成、同玉、5二竜以下、“寄り”
 3二同銀なら、5二角成(次に3一銀)で、先手勝ち。



 これで、【15】3七飛 の調査がおわった。結論は―――

3七飛図(再掲)

 【15】3七飛は 先手良し。




 「吉祥A図」の調査結果のまとめ

吉祥A図
   【0】7八歩 = 実戦の指し手
   【1】3三歩成 → 後手良し
   【2】3三香 → 後手良し
   【3】8九香 → 先手良し
   【4】2五香 → 互角(形勢不明)
   【5】5四歩 → 先手良し
   【6】2六香 → 先手良し
   【7】2六飛 → 先手良し
   【8】2五飛 → 先手良し
   【9】3七桂 → 先手良し
   【10】3八香 → 後手良し
   【11】8一飛 → 互角(形勢不明)
   【12】1五歩 → 後手良し
   【13】9八金 → 後手良し
   【14】6五歩 → 後手良し
   【15】3七飛 → 先手良し

 ついに「吉祥A図」の徹底調査が完了した。


第62譜につづく
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終盤探検隊 part62 第十代徳川将軍家治

2015年11月09日 | 横歩取りスタディ
 1782年先手徳川家治と後手九代大橋宗桂の将棋。「横歩取り」の将棋の終盤。この図は「後手勝ち」になっている。
 さて、後手の手番で、「正解手」は何か?


    [鬼道地獄祭]
「では次に」
「まだやるのか」
「まあ、これをご覧なさい。将棋指しなら眼福というものですよ」
平田屋は懐中から一枚の書付けを取り出して拡げる。
「さあ、どうぞ」
そういって一寿に渡し、自分は盤上の駒を取り片付けた。
「こ、これは…」
「いかがですかな」
「もしやこれは、し…将軍詰めとかいう図ではあるまいか」
「さすがご存じでしたな」
「なぜこのようなものがこの家に」
「差しあげた金子の大かたは、これをご覧いただいた上での口留め料とお思いください。この図がどこから出て来たか、御将棋方の伊藤さまなら、判らぬ筈はないでしょう」
「えらいものを見せられた」
「他言無用」
「当たり前だ。誰が喋るものか。私もまだ生きていたい」
「では駒を」
「え…」
                          (半村良『妖星伝(四 )黄道の巻』より)




初手より ▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △同飛

第一図
▲3四飛 △8八角成 ▲同銀 △4五角

 ここで先手徳川家治3四飛。“横歩取り”だ。

 1961年、伊藤家三代目の宗看が死んで、次に名人になる予定だったその弟の看寿がその一年前に先に亡くなっていたので、「名人の空位」が続いた。将棋御三家にとっては危険な状態だったが、幸運なことは、将棋大好きな徳川家治が「将軍」という権力の座にいたことだった。
 「名人位の空位」は約30年続くのだが、この間に、将棋の戦術は著しく進歩した。特に進歩したのが、「相掛かり」である。元々江戸期の主流は「振り飛車」であったので、「相居飛車」はなかなか進歩しなかったのだが、この1760年頃から著しい飛躍を遂げる。今で言う「中原囲い」が生まれたのもこの頃だったし、「横歩取り」が研究され始めたのもこの頃からである。

五代伊藤宗印-九代大橋宗桂 1778年
 これは1778年の御城将棋で、これが「横歩取り3三角戦法」の誕生局である。記録上はこの将棋が最も古い「横歩取り3三角戦法」であり、それを指したのが後手番の九代大橋宗桂(幼名は印寿)である。 
 九代大橋宗桂の「九代」というのは、大橋本家の「九代目当主」という意味で、そこで由緒ある名前「宗桂」を襲名したのである。
 30年近い「名人位の空位」の後、46歳で1789年に「八世名人」となったのが、この九代大橋宗桂である。もちろん将棋は強かった。 

第二図
▲7七角 △8八飛成 ▲同角 △3四角 ▲1一角成 △2八歩

 徳川家治は1737年生まれで、父は徳川家第九代将軍家継、祖父は徳川家第八代将軍吉宗である。
 家治が第十代将軍になったのは、1760年である。家治は一般に文武両道にすぐれ、聡明な人であったとされている。政治的にも将軍になった当初は熱心であったが、しだいに政治のことは関心を持たなくなり、田沼意次に任せていた。そうして家治は将棋などの趣味に没頭した。1779年に、跡取りとして期待していた息子の急死という不幸もあった。

 図は、後手九代宗桂の「4五角戦法」である。
 しかし今なら、4五角を打つ前に「2八歩、同銀」を入れるのが定跡になっている。
 そしてここでは、先手は「2四飛」とするのが現代では定跡で、たいていそう指される。
 ただし、「2八歩、同銀」や、この図での「2四飛」も、江戸時代1800年頃にはすでに研究されていた。

 徳川家治はこの「横歩取り4五角戦法」を何局か指している。というか、歴史上、最初にこの手「4五角」を指したのは徳川家治ということに、少なくとも記録上はなる。
 将棋が好きだった、というのは間違いない。

 さて、現代定跡の「2四飛」を指さず、ここで「7七角」と家治は指した。
 これ、実際のところはどうなのであろうか。

 また、「2四飛」、「7七角」以外では、ここで「8七歩」と歩を打つ手もあって、

村越為吉-花田長太郎 1920年
 そう指したのが、1920年(大正9年)「村越-花田戦」である。花田長太郎は当時は別に流行していたわけでもなかったこの「横歩4五角」を研究していたのである。花田はこの時23歳、そして公式戦22連勝という華々しい活躍をしていたところ。
 8七歩以下は、7六飛、7七銀、3四角、7六銀、8八歩と進む。(途中、3四飛に代えて7七飛成は3二飛成で先手良し)
 8八歩が花田長太郎の研究手。以下、7七桂、8九歩成、と進んだが、結果は先手の村越為吉が勝ち、花田の連勝記録は「22」で止まった。
 この変化も「互角」というしかない。

 実戦は、7七角、8八飛成以下の進行で次の図となる。 

第三図
▲2八同銀 △3三桂 ▲3六香
 ここで後手は2八歩を入れ、同銀に、3三桂、3六香というのが実戦の進行。
 「2八歩、同銀」となった形で、3三桂の手ではなく、「8七銀」と攻めていったのが1978年の谷川浩司。

東和夫-谷川浩司 1978年
 谷川浩司は当時16歳。谷川のこの「横歩4五角戦法」を見てカッコいいとおもって真似していたというのがまだ小学生の羽生善治。(→『31年前の羽生・森内戦 横歩4五角戦法』)
 この将棋は、以下、7九金、6七角成、6八香、7六馬、8二歩、2七歩、8一歩成、2八歩成、7一と、4九馬まで、なんと36手で後手谷川の勝ちとなった。以下は詰み。
 東の8二歩が悪かったようだが、図で7九金はそもそも先手あまり自信のない変化である。
 図の8七銀には、7七馬と引きつける手が手堅い手で、それで先手が良さそうなところである。また、図で6八金もあるようだ。

第四図
△3五歩 ▲同香 △2五飛
 3三桂には、当然3六香と打ちたい。(他には2一飛や5八玉もある)
 これには、3五歩が後手の返し技で、同香に――

第五図
▲3四香 △2八飛成 ▲9六角
 2五飛と打つ。これがおそらく1782年のこの当時の“定跡”で、これはたぶん現代にも通じる。(ただし4五角に2四飛が現代は主流なのでこの図は現れることが稀である)
 2五飛は「銀香両取り」だが、先手はどう指すのが正解か。
 実戦の家治の手は3四香。これで良ければこう指したいところだ。
 3四香が自信ないとすれば、3三馬という手がある。

北村昌男-飯野健二 1977年
 昭和の時代に、公式戦でそう指したのが、北村昌男である。3三同金に、2七桂と打つのである。
 これも「互角」の闘いであるが、後手には歩がなく、飛車を8筋に転じたいのだがそうすると先手からの2一飛が生じるということで、後手のこの後の指し手が難しいように思われる。
 この将棋の後手番は飯野健二。飯野が昭和50年代の「横歩4五角戦法」や「相横歩取り」の流行のきっかけをつくったのであった。
 この「飯野-北村戦」は、2七桂以下、後手飯野が3五飛、同桂、4四角と激しい手を選び、やはり短手数の決戦となった。以下2一飛、3二金、8二歩、3五角、8一歩成と進み、結果は先手北村が制した。

 さて、「家治-九代宗桂戦」は、2五飛以下、3四香、2八飛成、9六角と進む。

第六図
△8五銀
 9六角も前例があって、つまり当時の定跡手である。というか、最初に(歴史記録上)この9六角を最初に指した人物が伊藤寿三(あの詰将棋の看寿の息子)であり、その対局の相手(後手番)が徳川家治なのだった。家治が今度はその逆を持って指しているのである。(その将棋はあとで紹介する)
 この9六角、この局面の最善手と思われる一手。

 ここで後手の手がわからない――ということで、いろいろ試されている。2九竜や、4五桂や、3八銀という手が有力だ。2二銀打もあるか。
 この図がもし「先手良し」ならば、「横歩4五角」に対して、現代の常識「2四飛」ではなくこの将棋のように「7七角」というのも、“ある手”ということになる。ここまでのところで、先手に決定的に都合の悪い変化はまだ見当たらない。

 後手九代宗桂は、“新手”を指した。

第七図
▲3三馬 △同金 ▲同香成 △9六銀 ▲3八金打 △2九龍 ▲9六歩 △8六桂
 実戦、後手九代宗桂は「8五銀」という新手を用意していた。研究手なのか、その場で考えたか、それはわからない。
 同角なら、7八竜だ。
 先手はどう指すか。

 家治は3三馬と指した。
 なぜ「馬」なのだろうか。「3三香成」では先手勝てないのだろうか。
 3三香成以下は、9六銀、3二成銀、7八竜、4一飛、6二玉…、それを読んでおそらく将軍は「勝てない」と思ったのだ。きっと、ここで長考したに違いない。 
 苦吟の末、将軍家治は3三馬を指した。このほうがチャンスがあると判断したのだろう。
 しかしそれもやはり「後手良し」だった。たぶん家治もわかっていたことだろう。ほかに良い手が浮かばなかったのだ。

 さて、実際に8五銀と後手に打たれたこの図、では「後手良し」なのだろうか。
 いや、8五銀に、“6八飛”という手をソフト「激指」は示している。(他には2一飛もある)

研究図1
 なるほど、これで同竜なら、同金、9六銀に、3三香成で攻め合い。以下、7九飛、4八玉、2七角、3八桂で少し先手が良さそう――というソフトの読みだ。
 6八飛に、2九竜は、8五角、4五桂、3八銀、1九竜、3二香成が予想され、これもやや先手良しかと思われる(ただしきわどい。この順で後手勝ちの目もあるかもしれない)
 なので、6八飛には、2五竜が有力と思われるが、それは3三香成、9六銀、3二成香、同銀、2六歩(次の図)

研究図2
 これは「互角」というソフトの判断。2六歩以下は、同竜、2七歩、同竜、2八歩、2三竜、9六歩という展開になる。2六歩に、8五竜もあるが、それには8八歩として、やはり後手の9六の銀はたすからない。
 この変化、先手はやや駒得であるが、しかし先手の飛車と後手の竜の働きの差があるし、先手にとってあまりおもしろくない展開かもしれない。

 そういうことであれば、九代宗桂の新手8五銀は十分価値のある手ということになる。
 先手はこの展開が嫌ならば、もっと前の3四香(角を取った手)のところで、“北村流”の3三馬~2七桂と指すべき、となる。

 実戦は、3三馬、同銀、同成香。
 十代将軍はこの手に、本局の命運を賭けたのである。
 
 攻めの手番は後手宗桂にまわった。後手はどう攻めるのか。


第八図
▲6八金 △7九角 ▲3九金引 △6八角成 ▲同玉 △7九角 ▲5八玉
 九代宗桂の選択は、8六桂だった。ここは後手の攻め方はいろいろあるところだが、8六桂は「わかりやすい勝ち方」である。

第九図
△6九銀 ▲4八玉 △5八金
 そしてこの図。「後手の勝ち将棋」になっており、あとは決めるだけ。
 しかし、ここで1九竜や2四竜では、後手勝てない。1九竜には2一飛、2四竜には4三成香(次に3三角がある)で。 しかし八世名人になる男九代大橋宗桂がまさかそんな手を指すはずがない。
 九代宗桂は「6九銀」。

 ところが、これが失着で、後手はこの将棋を負けにした。逆転負けしたのである。

 ここでの正解手は2つある。
 一つは、「6八銀」。(これで受けが難しい。6六銀は、5九金以下詰み)
 あと一つは、「5九金」である。5九金に、同玉は6八銀から詰むので、5九同金しかないが、そこで3九竜で、後手玉は詰まないので、後手勝ち。

 宗桂の指した6九銀は何故悪い手なのか。
 6九銀に、先手4八玉のところでは、実はもう、後手に勝ちはない。(竜を取らせても詰む、と迫る手がないから)

第十図
▲5八同金 △同銀成 ▲同玉 △3九龍 ▲4二銀
 4八玉には、5八金しかないが――、ここで金と銀と駒を二枚渡してしまう。それがまずいのだ。
 先手玉は“受けなし”になったが――

第十一図
△4二同銀 ▲同成香 △6二玉 ▲5二金 △7二玉
 徳川家治将軍は、4二銀。
 先手玉は“受けなし”なのだから、勝つためには、後手を詰め上げる以外にないが、4二銀以下、“詰み”はあったのである。
 4二銀に6二玉は、5三銀成、同玉、6五桂、6二玉、5三角以下詰み。
 4二銀、同銀、同香成に、同玉は、3四桂から詰む。
 将軍家治の実力は、その“詰み”を読み切っていた。

第十二図
▲8三銀 △同玉 ▲8四歩 △同玉 ▲7五銀 △8五玉 ▲8三飛 △7六玉
▲8六飛成 △6五玉 ▲8七角
 8三銀、同玉、8四歩としたが、その時、もしも「銀」がなかったら、この後手玉は詰まない。すなわちその場合は「後手勝ち」になる。駒が足らないのだ。
 つまり、後手は「金銀」を先手に渡してしまったので、詰まされたというわけ。

 しかし九代大橋宗桂は7年後に八世名人になるほどの人物である。こんなことが見えなかったのであろうか。

投了図
まで73手で先手の勝ち

 見事、徳川家治は後手玉を詰まし、勝利した。


 しかし、これはどう見ても、後手九代宗桂が“勝ちをゆずった”のである。

 大橋家の九代目の宗桂は、八代目宗桂の息子である。
 そしてその八代宗桂は、伊藤家に生まれ、大橋家に養子として迎えられ「八代大橋宗桂」になったのである。彼の兄は七世名人の伊藤宗看であり、弟には伊藤看寿がいる。
 つまり、徳川家治と対局した相手九代大橋宗桂は、血筋的には、あの詰将棋の天才として有名な宗看・看寿兄弟の甥である。
 しかも「八段」という最高段であり、『将棋舞玉』という詰将棋百題の作品集も献上しており、歴史上、江戸期の作品集として、宗看・看寿の詰将棋には及ばないものの、その次くらいの評価を得ている作品集である。
 十代将軍家治の時代、1760~80年頃、最強の将棋指しはこの九代大橋宗桂だっただろう。(2番手は大橋分家の息子大橋宗英かと思われるが、まだ若年だった)

 それほどの人物の将棋が、こんなにさらりと逆転負けなんてことは、考えられないことだ。

 この対局「徳川家治-九代大橋宗桂戦」(1782年)時の二人の年齢は、将軍家治が46歳、九代宗桂が39歳である。(年齢はすべて数え)


[追記]
 「徳川家治-九代大橋宗桂戦」とされているこの棋譜は、もしかしたら、本当は1780年「徳川家治-五代伊藤宗印戦」の可能性がある。(むしろその可能性のほうが高いのではないだろうか)
 この棋譜が1782年「徳川家治-九代大橋宗桂戦」であると知られているのは、かつて『将棋世界』誌でそのように紹介されて棋譜が載っていたいたから。もちろん根拠はあって、元々は『俊樹玉手』という手合い集に載っているものらしい。
 ところがその一方で、まったく同じ棋譜が1780年「徳川家治-五代伊藤宗印戦」として、『御差将棋』という書に載っているのである。
 どちらかが間違っているはず。 『俊樹玉手』も『御差将棋』も、徳川家治将軍の将棋手合い集として江戸時代に発行されたものである。
 家治将軍は、五代伊藤宗印、伊藤寿三との対戦の棋譜は多く残しているが、九代大橋宗桂を相手にした棋譜は、これ以外にはない。



 九代宗桂の強さを見てもらうために、次の将棋を用意した。
 宗桂が14歳のときの将棋で、相手は血筋的には叔父になる伊藤看寿(当時40歳)。

九代大橋宗桂-伊藤看寿(飛車落ち) 1757年
 伊藤看寿は、「次の名人」になる予定で、すでに「八段」であったし、『将棋図巧』という献上図式の義務も果たしていた。1957年のこの時期、“最強”はおそらくはこの看寿だったと思われる。(彼に並ぶものがいたとしたら兄の宗看しかいない)
 その八段の看寿を相手に、「飛車落とされ」での対局である。
 下手九代宗桂(当時の名は印寿)が「右四間飛車」から攻め、上手の看寿が反撃、という場面。
 ここで九代宗桂は、9七角と、7九にいた角を9七にのぞいて、この角を中心に攻める構想。飛車はもう、取らせる覚悟だ。
 ここから下手の攻めを鑑賞しよう。
 上手4九と(図)に、6三桂成、同銀、6四成銀、同銀、同角、5三銀、7五桂、6二玉、7三角成(次の図)


 上手の5三銀の受けに、7五桂と打ち、6二玉に、7三角成(図)の“から成り”があざやかな寄せの構図。同玉なら6三銀としばって勝てるということだ。
 上手の看寿は、これは取れないと、5二玉。
 以下、7二馬、5九と、6三桂成、4一玉、7一馬、5八と、5三馬、3二玉、3一銀、3八飛、3九歩、3七飛成、4二馬、2一玉、3三馬、6七竜、8八玉、3二金、1二銀(次の図)


 1二同玉、2二金、同金寄、同銀成、同金、1三銀、同玉、2四角、1二玉、2二馬、同玉、3三金まで、下手印寿(九代宗桂)の勝ち。

 『日本将棋大系7』で、この棋譜を解説し、有吉道夫は次の通り述べている。
〔江戸時代の名人中、実力は一、二を争うほどの印寿(九代宗桂)である。この棋譜を見ると、中盤から終盤にかけての指し手は冴え切っていて、随所に、名人たるべき素質を現わす珠玉のひらめきがうかがわれる。〕
〔飛車落ちのハンデをもらっているとはいえ、これほど上手を圧倒する印寿の力は素晴らしい。しかも、これが十四歳の少年というのだから、驚きである。〕

 家治将軍が勝った相手というのは、そういう才能・実力を持った人物なのである。

   (動画 北浜健介解説 江戸古典詰将棋 九代大橋宗桂「将棋舞玉8番」


 徳川家治の棋譜で残されているものは、九代宗桂との対局はこの一局のみ。
 他には、伊藤家の当主五代伊藤宗印(鳥飼忠七、七段)と、伊藤寿三(五段)との対局が多く残されている。宗印とはほぼ互角の成績で、寿三には勝ち越しており、家治自身の段位は「七段」となっているが、これほどの成績なのだからそれは当然として、しかし“ほんとう実力”がどの程度だったかはわからない。
 しかし、伊藤宗印も、伊藤寿三も、ゆるめて指した(つまりわざと負けた)のは確かなことと思われる。全部がそうというわけではないが。
 将軍家治の将棋の力もあったことは間違いないが、宗印も寿三も、そう簡単に負けるはずのない棋力をもっていたはずなのである。宗印や寿三が九代宗桂と指した将棋を見ると、濃密な終盤が展開されているが、家治との対局の棋譜は、終盤があまりに淡泊なのである。

 それでも、この将軍が、将棋というものをとても愛していたことはよくわかる。

 徳川家治の将棋をもう少し見てみよう。


伊藤寿三-徳川家治 1775年
 将軍徳川家治と特に仲良く将棋を指していたのが、伊藤家当主の五代宗印(もとは鳥飼忠七という名で菓子屋の息子、伊藤に養子として入る)と、この将棋の対局の相手伊藤寿三である。伊藤寿三はあの看寿の息子で、「二代看寿」を名乗っていたこともある。伊藤家の当主ではなかったので、この寿三は、家治との将棋を気楽に指せたということもあっただろう。家治と寿三の対局の棋譜は多く残されている。
 この対局の行われた1775年、家治は39歳、寿三は28歳。

 この将棋は、上でも述べた、将軍家治による、史上最初の「横歩4五角戦法」の棋譜になる。後手家治の「4五角」である。


 上の棋譜と同じように進み、9六角と先手の寿三が打ったところ。これは将軍家治と寿三とで生み出し、育てた定跡といえる。
 ここが“注目の局面”であるが、家治は「2九竜」と指した。


 しかしこの手「2九竜」は最善手ではないようで、これだと「先手良し」になる。先手は6三角成とし、これは後手玉への“詰めろ”なので、後手はなにか受けるが、4一桂なら3三香成で、5二銀と受ければ、1八馬があり、「先手良し」である。
 ところが先手の寿三は、3三香成だった。
 これでこの将棋はわからなくなった。ここが寿三の“実力”なのか、将軍への“接待”なのかはわからない。
 将軍は、5六桂。


 この5六桂は将軍家治の「実力」を示した手で、これではっきり後手優勢になった。これを同歩は、5七銀とするつもりである。
 先手は同歩では勝てないとみて、3九桂と受けた。以下、4八銀、6九玉、4九銀不成、3二成香、5八銀成、7九玉、3九竜、8八玉(次の図)


 家治はここで6八桂成としたが、これが敗着となった。
 ここでは、一旦3二銀が正着で、それなら後手優勢である。以下、6三角成、5二銀、8一馬、8六桂が予想され、まだ簡単ではないが、後手は優位を保てた。
 本譜は6八桂成で、以下、同金、同銀、4一飛、6二玉、6三角成(次の図)


 6三同玉、6一飛成、6二桂、7五桂、6四玉、5五馬、同玉、5六金(次の図)
 先ほど6八桂成で後手は先手に「桂」を渡してしまった。それで7五桂と打てるのである。ぴったり詰み。


 まで、59手で先手伊藤寿三の勝ち。

 この将棋は伊藤寿三が勝ち。
 この将棋をみても、家治将軍の将棋の棋譜は、終盤がたいへんあっさりしている。


徳川家治-伊藤寿三 1775年
 その数か月後の将棋。同じ相手である。しかし今度は、先手が徳川家治、後手が伊藤寿三、先後が入れ替わっている。
 この将棋は、今度は「2八歩、同銀」の手を入れずに、単に3三桂とした。そして、3六香に、そこで2八歩(図)と打った。これは後手の寿三のうっかりではなく、たぶん“実験”のようなつもりでやってみたのだろう。(あるいは“接待”か)
 2八歩を同銀なら、上の将棋に戻るが、先手寿三は3四香と角を取り、後手家治は2九歩成。さあ、それでどうなるか。
 やはりこれは3三香成で先手が良い――と思われるが、先手の家治は4八銀(次の図)


 これはどうも先手の失着で、これで形勢は「互角」に戻された。(このあたりの指し手をみると読みの浅い“私たちの将棋”を見ているかのようである)


 この後手寿三の指した8四飛があるので、この将棋は「互角」になる。8八歩と受けて3四の香車を取られるとはっきり先手が悪いし、だから3三香成とするところかもしれないが、そうすると先ほどの4八銀が“悪手”になっているのがわかるだろう。
 ソフト「激指」で調べると、ここで3三馬が最善手で、以下、同金、同成桂、8九飛成、7九金打で、わずかに「先手良し」という。金を入手してその金で受けるという意味だ。しかしさすがにこの手が最善手とは気づきにくいところだ。
 実戦は、3三香成、8九飛成に、7九飛と受けた。だが、そうなってみると、すでに「後手良し」になっている。先手は受けが難しいのだ。(だとすればやはり3三香成では、3三馬が正解だった)
 7九飛に伊藤寿三は、8六桂と打った。ここで8六桂は“さすが”のきびしい手である。(8二竜などなら先手良しになるのだが)
 以下、8九飛、7八桂成、8六角と進んだ。 


 将軍は“詰めろ”(6八金の一手詰)を受けて、8六角とした。
 ここは、後手が有利を拡大するチャンスだった。7四桂もあるし、最も確実な手は8八歩だろう。
 しかし、伊藤寿三の指し手は8九と。
 またこれで形勢はわからなくなった。もし寿三が、わざとゆるめて指していたとしたら、この手だろう。
 以下、3二成香、7九成桂、4六歩、3五桂と進んだ。
 7九成桂は“詰めろ”(6九金、5八玉、7八飛以下)で、先手の4六歩は脱出路をつくった手。


 後手寿三は、3五桂と打って、先手玉の脱出口を封鎖した。良い手に見える。
 が、実はこの手が敗着。これは悪手だった。(この手で3二銀なら形勢不明だった)
 先手の徳川家治はここで“決め手”を放って、勝者となる。その“決め手”とは、まず3三馬と引いて王手――後手6二玉に――


 5三角成(図)である。
 これを同玉は、4三馬、同玉、3三飛から詰み。4三馬に6二玉も、8二飛、7二銀、同飛成、同玉、8四桂以下詰む。
 この詰みを家治はもちろん読み切っている。そうでなければ5三角成は指さない。
 ただし、5三角成に7二玉なら、詰みはない。
 しかしその場合、3五馬と、さっき寿三が打った3五の桂馬を取って、これで“形勢逆転”である。後手の3五桂が全くの無駄手になった。
 もしこれが、伊藤寿三の将軍への“接待将棋”だとしたら、見事な“接待芸”である。(最善手にみえて実は失着という心にくい技だ)
 ここから7八飛に、6四桂と打って、将軍は「優勢」を、「勝ち」へと広げていく。
 以下、同歩、4五馬、8二玉、8三歩、9二玉、8二金、同銀、同歩成、同玉、8三歩、同玉、8四歩、9四玉、8六桂、8五玉、9六銀、7六玉、6六馬(次の図)


 まで、67手で徳川家治の勝ち

 これは伊藤寿三の“実力”だろうか、それとも寿三が“ゆるめて相手に花を持たせた”のだろうか。
 寿三は五段という肩書で、将軍は七段である。寿三の「五段」とはどの程度の力なのか。
 伊藤寿三と先ほど出てきた九代大橋宗桂との将棋の棋譜がいくつか残っている。御城将棋で、1772年に角落ち、1773年に香落ちで、寿三と九代宗桂は手合わせしている。(宗桂が上手) 「角落ち」でも「香落ち」でも、終盤が難解な大熱戦になっている。そして「香落ち」では、寿三が勝ちきっているのである。その2つの将棋をみれば、「五段」といえど、八世名人でもあなどれない力があったと思われる。
 ということで、やはり、ほんとうの実力は、徳川家治よりも伊藤寿三が上だったとみるのが正しいところと思うのである。



【研究】

定跡9六角図
 さて、この図を研究しておこう。これがこの時代の「横歩4五角戦法」の定跡の重要局面である。これははたして先手後手どちらがよいのか?
 ここから8五銀と九代宗桂は指し、これは形勢は互角。また家治将軍は2九竜と指したが、これは6三角成で、先手良し。
 また、図で2二銀打もある。以下、3三香成、同金、2二馬、同銀、3九銀、2九竜、6三角成…、少し先手が良さそうだ。

 図で、後手の最有力手は3八銀(次の図)かと思う。

研究図3
 これを研究してみよう。
 3八同金、同竜、4九銀、2九竜、6三角成、5二銀、1八馬(この手では8一馬もある)、3九竜、3三香成、4八金、6八玉、4九竜、3二成香(次の図)

研究図4
 3二同銀、6三桂、6二玉、7一桂成、同金、4二飛、5四香、6四金(次の図)

研究図5
 ここまでくると、これは先手指せるかもしれない。図では7二金と受けるしかなさそうで、5四金、同歩、6五香、6三桂、5四馬で、寄せきれるのでは、というのが我々の研究。

 これで後手がうまくないとすれば、後手は「定跡9六角図」では、九代大橋宗桂の「8五銀」を選ぶことになりそうだ。

横歩4五角戦法定跡図
 こうして考えると、「4五角戦法」に対して、相手の研究をはずす意味で、「7七角」もありかもしれない。「7七角」で先手が悪くなる、というわけではないのである。ただ、2四飛とまわって、2三歩と打たせた方が得だろう、ということで「2四飛」が現代の定跡手になっているのだ。

上田初美-村田智穂 2013年
 最近では(といっても2年前だが)このように女流棋戦で上田初美さんが7七角と打って、この将棋を勝っている。上田女流はきっと、後手村田女流の「4五角戦法」の研究をおそれて、とっさに(定跡手の2四飛ではなく)7七角と変化したのだろう。振り飛車党の上田女流が、相手の横歩4五角にそなえて前から7七角を準備研究していたとは考えにくいからだ。めったに出ない「4五角戦法」なのだから。

 一般棋士の公式戦ではもう20年以上ここでの「7七角」は指されていないようだ。「4五角戦法」自体が指されないのでそうなるのだが、最後にこの「7七角」が指されたのは、1989年の「日浦市郎-羽生善治戦」(新人王戦)のようである。その前となると、例の1978年「東和夫-谷川浩司戦」となる。

日浦市郎-羽生善治 1989年
 「日浦市郎-羽生善治戦」は、3六香に代えて日浦が2一飛と打ち、羽生が4五桂(図)という他に例のない戦いとなっている。
 以下、おもしろい展開になる。4八金、6二玉、7七馬、2三角、2七香、1二角、1一飛成、5七桂成、1二竜、3八飛(次の図)


 この分かれは後手の羽生がやや良かったようだが、結果は日浦勝ち。その年、日浦市郎は新人王戦で優勝している。

 「横歩4五角戦法」に対する「7七角」は、江戸時代から現代までを集めても、残されている棋譜が少ない(10局に満たない)が、後手番が勝ったのは「東-谷川戦」の谷川浩司のみ。
 その結果をみても、「7七角」は十分に指す価値があると思われる。
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相横歩 森内vs石飛  あの歴史的一戦!

2013年06月18日 | 横歩取りスタディ

初手より▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲3四飛 △8八角成
▲同銀 △7六飛 ▲7七銀 △7四飛 ▲同飛 △同歩 ▲8四歩(上図) △8六歩

 先手が「3四飛」と“横歩”を取って、後手も8八角成、同銀のあと「7六飛」と“横歩”を取る将棋、これが「相横歩取り」という戦型。そのあと7四の地点で飛車交換をして、そこで「4六角」という一番よく指されている手ではなく、「8四歩」としたのが1992年に森内俊之が指した“新手”。
 これは新人王戦の準決勝で、相手は当時の将棋ファンの間では有名人となった石飛英二三段。
なにしろ「三段」という肩書で準決勝に進出(三段はプロ棋士未満、四段からがプロ棋士)、しかもこの前、準々決勝では佐藤康光を撃破したのですから。(佐藤はこの前年にはタイトル戦に登場、谷川王位に挑戦し3―4で惜敗しています。)
 そうして石飛三段の次の相手が森内俊之六段でした。この当時の新人王戦の参加資格は現在と違い、「30歳六段以下、プロデビューから10年以内」のような規定で、ですから森下卓のようなタイトル戦の挑戦経験者もいましたし(竜王戦、棋聖戦)、それどころか屋敷伸之というタイトル獲得経験者(棋聖位2期)も参加していました。郷田真隆もいました。郷田は四段ながらこの年の夏に谷川浩司を破り「王位」に就いています。
 この1992年の時点では、森内俊之にはまだタイトル経験はありませんでしたが、プロ6年目、全棋士参加の棋戦全日本プロトーナメントでの優勝経験があり、新人王戦はすでに2度優勝していました。21年後の今、私たちは「最低でも8期の名人位を獲得する十八世名人」であることを知っているので、森内俊之が、倒すにあたって大きな“難敵”であったことは、いっそうよく判りますね。当時は、森内が将来名人になるかならないかまでは誰にも判らなかったわけですが、「将来の名人候補」とされていましたし、ですから、この新人王戦の優勝候補としても、森下卓、佐藤康光、屋敷伸之らとともに、「森内俊之」の名前が自然と挙げられていたのでした。
 そこでこの準決勝戦のカード「森内‐石飛」戦です。
 石飛三段がもしこれに勝ったら…、どうなるのでしょう。そうなると、「三段が決勝進出」です。

 そういう注目の対局に、石飛英二は「相横歩取り」で挑んだ!!!
 そして森内は「8四歩」という、かつて誰も指したことのない“新手”で返したのでした。

 対して石飛の手は「8六歩」。



▲8六同銀 △3三角
 「相横歩」は、後手が7六飛としなければ現れません。ですから「8四歩森内新手」は、森内さんが、この対局のために用意したものではないでしょう。ずっと前から相横歩になったらこの手を指してみようと考えていたと思われます。
 さあ、この手、「8四歩」はどうでしょうか。

 フトコロでこっそりとあたためていた森内の“秘手”「8四歩」、このねらいは次に8三歩成である。先手の確実な攻めだが、森内は「ここで後手の早い攻めがありますか? なければ8三歩成でこっちが勝ちですよ。」と言っているわけだ。
 8四歩に、8二歩と受けるのは、8三歩成、同歩、8二歩で先手が好調。これはおそらく森内の研究範囲にハマる。

 石飛三段、「8六歩」。

 これを森内は「同銀」と取ります。取らないと、8七歩成~7八角で後手勝ちになる。



▲7七銀 △8五飛 ▲8八角
 「8六同銀」に、「3三角」。
 「8六歩~3三角」。 石飛三段のこの対応は、森内新手「8四歩」に対する完璧な対応だった。
 「3三角」に、7七歩なら、2六飛がある。後手の「3三角」は、攻めながら、先手のねらい筋5五角を消している。
 また「3三角」に、7七角はどうか。8八歩、同金、7九飛、6九飛、同飛成、同玉、2六飛で先手いけない。「やられた…」と森内はここでは思ったに違いない。

 森内の「7七銀」に、石飛は「8五飛」。 「8五飛」が厳しかった。



△7五歩 ▲8三歩成 △8七歩 ▲7九角 △8三飛 ▲5六歩 △7六歩
▲6六銀 △6四歩 ▲2五飛

 なんと先手の森内は「8八角」と受けた。歩の利かない先手は、打ちたくはないが、角を打つしか飛車成を防ぐ手がないのだった。(8八飛なら、同飛成、同銀、同角成、同金、7九飛となってこれは後手が良いのだろう。)
 後手の石飛は、完全に森内の「8四歩」を逆手に取って、早くも優位を築いてしまったのだ!
 石飛優勢!


 「8八角」はみじめな角打ちだが、それがしかし、逆に森内の“勝ちへの執念”を感じさせる。簡単には負けないぞ、と。森内はこの後、この角を上手く活用していくのである。
 将棋は「逆転のゲーム」なのだ!



△2二銀 ▲8四歩 △同飛 ▲8五歩 △7四飛 ▲4六角 △6二銀 ▲7五歩 △9四飛 ▲9六歩

 「2五飛」は一見かっこいい手に映るが、後手の6五歩の攻めを受けるためのつらい手である。手持ちにしておきたい飛車を、打たされたのだ。
 「8四歩~8五歩」と後手の飛車先の利きを止めて、森内は「8七金」と歩を払いたかったが、それをよく読んでみると、8六歩、同金、7七歩成で負けになる。



△8八歩成 ▲同金 △6五歩 ▲同飛 △7三桂 ▲3五飛 △6五歩 ▲5五銀 △8五桂 ▲8七金
 森内は「4六角」と8八にさっき打たされた角を活用し、「9六歩」と突いて、後手の飛車の捕獲をみせた。
 後手の石飛三段、「6五歩」から飛車を自由にしておいて、「7三桂~8五桂」と桂馬を活用。



△7七桂成 ▲同桂 △同歩成 ▲同金 △3四歩 ▲2五飛 △5四歩 ▲4五桂
 「8五桂」は、7七歩成のねらいもあるが、まず、後手の第一のねらいは(3四歩、2五飛としておいて)“5四歩”。 しかし「8五桂」の前に5四歩とすれば、その瞬間9五歩で飛車の逃げ場所がない。だから「8五桂」と先手の歩を払っておいて、次に“5四歩”とするつもりなのだ。5四歩に、6四銀と逃げると、8八角成で金が取れる。前に8八歩成、同金とした効果である。
 森内の「8七金」は、その金取りを避けつつ、7六金を次のねらいとした手。
 そこで、石飛は「7七桂成」から桂馬を交換して、ねらいの「5四歩」。



△4二角 ▲5四銀 △同飛 ▲9一角成 △5六飛 ▲5八歩 △5七歩
 石飛の「5四歩」に、森内は「4五桂」。
 一気に“寄せ合いの終盤”になだれ込む。



▲5七同歩 △同飛成 ▲5八金 △6八銀 ▲4九玉 △7五角 ▲4六馬
 「5七同歩、同飛成」に、5八歩(香)では6八銀で一手詰。森内は「5八金」。「6八銀」に、4九玉」でなんとか逃げる。
 「7五角」には、「4六馬」と馬を引き付ける。

 ほとんどもう、後手の勝ち。しかし終盤は“何が起こるかわからない”のが将棋の最大の魅力。
 それにしても、もしこれが現在のようにネットでリアルタイムで中継されていたなら、相当に盛り上がったでしょうね。「おい、石飛がほんとうに勝っちゃうのかよ!」、「イシトビ、つええー!!」、てな感じで。



△5六桂 ▲5七金 △同銀不成 ▲2四馬 △4一玉 ▲3八玉 △2三歩
▲3四馬 △4八銀成 ▲2七玉 △3九成銀 ▲4四香
 「5六桂」は、“緩(ゆる)んだ手”。 4六同竜、同歩、7七銀成のほうがわかりやすかった。



△4二銀 ▲8三飛 △7三歩 ▲8一飛成 △7一金 ▲9一龍 △8一金打
 「4四香」で、森内にも楽しみがある局面になった。
 しかし、後手はがっちり「4二銀」。



▲7二歩 △9一金 ▲7一歩成 △2九成銀 ▲6一と △3三銀左 ▲同桂不成 △同金
▲5二銀 △同玉 ▲6二と △同玉 ▲6五飛
 ここを凌げば後手の勝ちになる。
 先手森内、“最後の攻め”。



△6四歩 ▲4五馬 △2五飛 ▲3六玉 △4五飛 ▲同飛 △2四桂
▲2七玉 △6三角
 「6五飛」に、石飛は、冷静に「6四歩」。 
 「4五馬」には、「2五飛」。 王手で先手の攻めを消す。


投了図
まで122手で後手石飛英二の勝ち
 最後は「6三角」。 飛車のナナメ串刺しで勝利を決めた。

 
 石飛英二三段の、史上初の三段奨励会員の「新人王戦決勝(三番勝負)」への登場がこれで決まったのでした。
 あの森内俊之を相手に、見事な内容の将棋でしたね。


 “森内の秘手”の「8四歩」に、「8六歩、同銀、3三角」が完璧な返し技でした。


 ・過去記事 『新人王をめざせ!



 さて、もう一局、「相横歩取り」の棋譜を見ていきます。

内藤国雄‐塚田正夫 1959年
 「相横歩取り」がプロ公式戦に初登場したのは1955年の「松田茂行‐花村元司戦」。
 それからしばらく経って1959年に「内藤国雄‐塚田正夫戦」で「相横歩取り」が登場、これが2号局です。すぐに3号局が現れ、それが「高島一岐代‐丸田祐三戦」。
 この1959年に、実質的に「相横歩取り」が棋士たちの研究対象となり始めたようです。

 その1959年の、「奨励会」で指された「中原誠‐安恵照剛戦」を以下に紹介します。


中原誠‐安恵照剛 1959年
 これは奨励会での対局ですから、正式にはプロ公式戦ではありません。中原誠、安恵照剛、ともに奨励会二級です。中原誠は12歳、安恵照剛は18歳。同じ高柳敏夫門下の兄弟弟子対決。

 さて、この将棋を紹介したのは、図の23手目「3八金」について考えたいからです。

相横歩取り 22手目まで
 
 なんどもこのブログでは述べているように、この手では(1)4六角が定跡手。他に(2)8二歩(同銀、5五角と続く)、(3)8三飛があり、これらも有力な手。そして(4)2八歩、(5)7九金がともに郷田真隆によって指された“新手”で、しかしこれはどちらも“返し技”があって、後手良しになる。(→前回記事参照) (6)8四歩が、“森内俊之新手”だが、これもやはり“返し技”が決まって後手良しとなるのは、上に記した通り。

 さあそれで(7)3八金はどうなのでしょう? これは先手の中原誠の指した手です。
 ここで4六角と打つのが現代ではふつうに知られているために、「3八金」はほとんど見ない手になっていますが、冷静に眺めれば、ここで「3八金」とするのはごく自然な手に思えます。さすが“中原自然流”(笑)ですね。
 (1)4六角はすぐに攻めて良くしようとする手、一方(7)3八金は、まずスキをなくしてもうちょっとゆっくり行こう、という手。(1)4六角からは“乱戦”になって、これはもしかすると「後手の望むところ」かもしれないので、先手としては、後手のその思惑をはずして、「3八金」もありなのではないか。


 「3八金」以下は、7二金、8七歩、5二玉、5八玉、8二銀、9六歩、7三銀、9五歩、7五歩、が実戦の進行。



 安恵照剛(やすえてるたか)さんはこの当時、この「横歩取り」をよく研究していて指していたという。この対局まで、奨励会で中原さんは3連勝、安恵さんは4連勝だったそうです。
 やはり飛車を持っているので先手は9筋を伸ばしていくんですね。まあ同じように後手からも1筋の端のねらいがあるのですが。

 中原さんはここで9四歩、同歩、9二歩、同香、9一飛と行くつもりでした。でも安恵さんの指した「7五歩」を見て気が変わって別の手を指したのですが、9筋のその攻めも有効だったようです。9一飛以下、8二金、7四歩、6四銀、7一角、7二飛、8二角成、同飛、7一金。これは先手が良さそうです。
参考図

 実戦は、6六銀、1四歩、5五角と進みます。




 5五角は好手だった。(結果的に、その前の安恵の1四歩が緩手で、2二銀と指すべきところだった。)
 5五角に、後手が2二歩と香取りを防いでも、7三角成、同桂、8一飛があって、後手は防戦一方となる。それなら守ってもしかたがない。ということで、5五角に、後手安恵は8八歩。

 8八歩、8六飛、8二飛。



 
 7四歩、6四銀、8二飛成、同金、8六飛、8三角。



 8三角と受けるしかないのでは、先手優勢は明らか。
 でも、面白いですね。上で紹介した「森内俊之‐石飛英二戦」と先後逆の、似たような飛車打ちと角の受けが出ました。その将棋では「苦しい角」を打たされた森内さんがそのまま押し切られて負けましたが、この将棋はさて、どうなるのでしょうか。
 
 1一角成、8九歩成、8五香、7四角、8二香成、8五歩、9六飛、2八歩、8四金、4六桂。



 先手は駒得をして、優勢です。
 しかし、先手の飛車は9六飛と活躍を封じられ、後手の方は飛車を手持ちにしていますから、思ったよりずっと油断のならない局面なんですね。
 4六桂は、安恵さんの逆転の期待をこめた一手。

 4六同歩、3八角成、同銀、3九飛、1六角、3四歩、4九銀。



 この1六角~4九銀が素晴らしい受けで、やはり先手良しのまま。
 飛車を手持ちにされている間は、それをいつどこに使われるか細心に用心しなければならないが、実際に打たれた後では、その動きを封じることができるならば、むしろ打たれた方がラクになる。「飛車を打たれる恐怖」がなくなるので。

 2九飛成、2四桂、5四桂、5五銀、同銀、3二桂成。

 5五銀、同銀に、ふつうは同馬と銀を取るだろう。そこを中原は、銀取りの味を残しておいて3二桂成。強い人ならではの複雑な手の運びだが、ここは素直に5五同馬が正着だった。



 4六桂、6八玉、3二銀、5五馬、8六桂。
 どうせ5五の銀は取れる。それならば、4六桂とされても6八玉と逃げておけば、4六桂も質駒になる――という中原の読み。
 しかし、その中原の読みを上回る手が、安恵から放たれた。8六桂。



 この「8六桂」は先手の飛車の横利きを止める意味があって、8六同歩なら、5九銀が飛んでくる。5九銀は同玉とは取れないので(5八金の一手詰)、逃げるのだが、6九玉と逃げて、以下、4九竜、同角、5八銀、同角、同桂成、同玉、4八金、6九玉、5八角。詰みである。(参考図)
参考図
 もしも「8六桂、同歩」が入っていなかったら、5九銀には、7七玉と逃げて、飛車の横利きがあって詰みはないのだ。それが「8六桂」の意味。
 安恵は、狙っていたのだ!

 4六馬、7八桂成、5八玉、3九金、4八銀、3八金、4七玉、4八金、同玉、5八銀。



 5八銀は華麗な捨て駒。
 5八同玉、3八銀と、安恵は中原玉をしばる。中原は5六歩として玉の脱出をするが――。


投了図
 安恵の勝ちとなった。

 後に「桂使いの中原」と呼ばれた男が、逆に桂馬の一撃によって逆転された一局。(『中原の、桂!』)


 名人になった後、中原さんは奨励会時代のこの一局をこう振り返っています。
 「この敗戦は、私にとって非常にショックで、それ以後よく研究するようになった。」

 今調べてみて気づいたのですが、安恵照剛さんの四段昇進(プロ棋士デビュー)は、この対局時から12年後、1971年。30歳の時です。苦労人なんですねえ。この年に中原誠のほうはA級棋士となっており、翌'72年には大山康晴に勝って名人位に就きます。(人生はドラマチックですなあ…。) 
 安恵さんは現在は引退されていますが、現役の弟子に、日浦市郎、佐藤伸哉がいます。


 さて、この54年前の奨励会の対局で中原誠が指した「相横歩取り」の23手目「3八金」、いけるような気がしますね。
 なお、この手をプロの公式戦で指した人はまだいないようです。


 ・過去記事『9六歩型相横歩の研究(1)』 「安恵照剛-羽生善治 1992年」の相横歩取り戦の棋譜を採りあげています。



先手:森内俊之
後手:石飛英二
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △8八角成 ▲同 銀 △7六飛
▲7七銀 △7四飛 ▲同 飛 △同 歩 ▲8四歩 △8六歩
▲同 銀 △3三角 ▲7七銀 △8五飛 ▲8八角 △7五歩
▲8三歩成 △8七歩 ▲7九角 △8三飛 ▲5六歩 △7六歩
▲6六銀 △6四歩 ▲2五飛 △2二銀 ▲8四歩 △同 飛
▲8五歩 △7四飛 ▲4六角 △6二銀 ▲7五歩 △9四飛
▲9六歩 △8八歩成 ▲同 金 △6五歩 ▲同 飛 △7三桂
▲3五飛 △6五歩 ▲5五銀 △8五桂 ▲8七金 △7七桂成
▲同 桂 △同歩成 ▲同 金 △3四歩 ▲2五飛 △5四歩
▲4五桂 △4二角 ▲5四銀 △同 飛 ▲9一角成 △5六飛
▲5八歩 △5七歩 ▲同 歩 △同飛成 ▲5八金 △6八銀
▲4九玉 △7五角 ▲4六馬 △5六桂 ▲5七金 △同銀不成
▲2四馬 △4一玉 ▲3八玉 △2三歩 ▲3四馬 △4八銀成
▲2七玉 △3九成銀 ▲4四香 △4二銀 ▲8三飛 △7三歩
▲8一飛成 △7一金 ▲9一龍 △8一金打 ▲7二歩 △9一金
▲7一歩成 △2九成銀 ▲6一と △3三銀左 ▲同桂不成 △同 金
▲5二銀 △同 玉 ▲6二と △同 玉 ▲6五飛 △6四歩
▲4五馬 △2五飛 ▲3六玉 △4五飛 ▲同 飛 △2四桂
▲2七玉 △6三角
まで122手で後手の勝ち
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相横歩  “秘剣 郷田真隆”

2013年06月15日 | 横歩取りスタディ
 今日は、「相横歩取り」における郷田昌隆の新手と秘手(笑)について触れていきます。

基本図
 この図は、初手より7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛、8六歩、同歩、同飛、3四飛、8八角成、同銀、7六飛、7七銀 、7四飛、同飛、同歩
という「相横歩取り」でよくみられる変化に進んだところ。
 ここでどう指すか、ですが、いまは▲4六角と指すのが定跡手。ほかに▲8二歩(同銀に5五角)と▲8三飛が指されている。
 その三つの手以外の手をここで指したプロ棋士が二人だけいて、森内俊之(現名人)と郷田真隆(現九段A級棋士)です。いずれも20年ほど前に指された「新手」ですが、そのうち、郷田さんの指した“新手”について、今日は見ていこうと思います。




 その“郷田新手”の前に、郷田さんの著書『指して楽しい横歩取り』(2002年フローラル出版)に書かれていた郷田さんの“秘手”を見つけましたので、まずそれを紹介します。



〔1〕“郷田の秘手8六飛”


石橋幸緒‐清水市代 1996年
 この図は、前回記事で紹介した1996年女流王位戦の将棋ですが、上の相横歩取りの基本図から、先手4六角に、後手が8二歩(清水新手)と指して、8三歩、8四飛と進んだところ。
 さらにこの図から、8八銀、8三飛、9六歩、7二銀、9五歩、6四歩、9四歩、同歩、9二歩、同香、9一飛以下、大熱戦が演じられ、「石橋-清水戦」は219手で石橋幸緒の勝ちとなりました。
 さて、郷田真隆の著書は、図から、「8八銀、8三飛、9六歩」の後、「8六飛」と、こういう手もあると紹介しています。
 こんな手があるとは知らなかった!




 郷田本『指して楽しい横歩取り』は、「8六飛」以下、「9五歩、4六飛、同歩、4七角」となって――


 (こうなって)「▲3八銀には、△1四角成で、次に△2八歩が残ります。後手も充分指せる形勢といえるでしょう。」と郷田さんは書いています。

 なるほど、凄いですね。「8六飛」なんてかっこいい手があったんですね!
 (この手については、本記事の最後にまた検討します。)

 これがまず、 僕の紹介したかった“郷田の秘手”。 (本に書いてある時点で、“秘手”ではないんですけどね。秘手って言いたかったんです。)



◇定跡の研究◇

石橋幸緒‐清水市代 1996年
 さて、もう一度この図に戻ります。先手の石橋さんは8八銀と指しました。定跡もそれを正着としているようですが――
 ここで先手が、「8八飛」としたらどうなるのでしょうか。それを考えてみましょう。

変化図1
 後手の8四飛に、先手が「8八飛」と打つ。アマならばこう指す人が多い気がしませんか。
 じつはこの「8八飛」、所司和晴『横歩取り道場』にはちゃんと解説がされていて、「8八銀」に劣る手なのだという。というか、“後手良し”の変化になってしまう。
 以下の変化は、その所司和晴『横歩取り道場』に書いてあったもの。
 「8八同飛成、同銀、7二金」

変化図2
 飛車を交換して7二金。これが正解手順なのだそうだ。
 これは8四飛と打つ前と、先手の銀の位置が違っている。“違い”はそれだけである。銀が8八にバックしたことで、何が違うのか。
 図から先手は、「8二歩成、同銀、8三歩、7三銀、同角成、同桂」、とやはり角を切る。そして「8一飛、7一飛、8二歩成」。

変化図3
 「7七銀型」の時と、すこし攻め方が変わる。7三角成、同桂に、「7七銀型」の場合と同じように8二歩成、同金、7一飛と攻めるのは、6一飛、8三歩に、8一金というハッとするような受けがある。

参考図
 先手が7三飛成と桂馬を取れば、9五角の「王手竜取り」が待っている。「7七銀型」ならこの「王手竜取り」はなかったというわけなのだ。参考図は後手良し。

変化図4
 変化図3から、「8一飛、7二と、8五飛、7三と、9五角、7七桂、8九飛、6九銀、8八飛行成、同銀、同飛成、7八歩、4二玉」(変化図4)となって、「わずかに後手が有利」と所司本には書いてある。


A図   B図
 整理しておくと
 A図―8二歩成、同銀、8三歩、7三銀、同角成、同桂、8二歩成、同金、7一飛と攻めて、「先手良し」(『羽生の頭脳』、『横歩取り道場』) ただし微妙なところもある。
 B図―8二歩成、同銀、8三歩、7三銀、同角成、同桂、8一飛、7一飛、8二歩成と攻めることになるが、「後手わずかに良し」。(『横歩取り道場』)

 奥が深いっすね、定跡。



〔2〕“郷田新手2八歩” 郷田真隆‐田丸昇 1990年



 4六角と打たず、「2八歩」(23手目)が郷田新手。当時19歳の郷田真隆四段が、40歳田丸昇七段を相手に披露した“新手”である。郷田はプロ1年目だった。

 先手には△2七飛とか△2七角と打たれる傷がある。それを消して、「さあどうする?」と後手に手を渡す。これで後手の指し手が難しいだろう、というのである。
 (しかしこういう手は、アマチュア好みではないですね。真似する人はいなさそうです。)
 次に先手からの攻め筋としては▲5五角と、▲8三飛がある。その両方を同時に防ぐ手が後手にあるか。
 後手が△2二銀とすれば、郷田の予定は▲8三飛。対して△8二歩なら、▲6三飛成で先手良し。なので▲8三飛には△8二飛だろうが、8四歩、7二金、8二飛成、同銀、8三角と打ち込んで先手良し。
 また、図で△8二歩ならば、これは▲9六歩から9筋の歩を伸ばして、9四歩、同歩、9二歩、同香、9一飛の飛車打ちをねらう。この筋は▲4六角を打った時にも有効だった攻め筋だが、角を手持ちにしている分、さらに攻め筋が広がる。(先手の▲2八歩に対しても後手からの1筋の同様の攻め――△1八歩からの飛車打ち――があるのだが、先手の攻めが一歩速い。)
 これが郷田真隆の意図であった。
 田丸七段はどう指したか。



 「7二金」と田丸は指した。
 これには先手▲5五角がある。
 ところがよく読んでみると、5五角、8五飛、8六飛、同飛、同銀、3三角が好手で、以下9一角成、9九角成、8一馬、8九馬となると8九馬が金取りになっていてこれは後手良し。△3三角に、同角成はどうか。3三同桂、2一飛の攻めには、2二角の受けがあって、これも先手ダメだ。
 郷田は困った。田丸七段の「7二金」が正しい応手で、「2八歩」の郷田新手は不発になったのである。
 これは1990年の対局。田丸昇はこの年の年頭、大山康晴と棋王戦の挑戦権を争った充実の時期であった。
 不利を自覚して、郷田は5八玉。田丸3三桂。



 ところが田丸の3三桂が失着。
 3三桂とこの桂馬を跳ねると、2一飛と先手に打ち込む手が生じる。しかしそれは2二角の受けがあるから大丈夫、という田丸の読みだった。(局後、田丸の3三桂では5二玉が正着とされた。)
 郷田の眼がキラ~ンと光り、3六歩。6二玉に、2一飛と郷田四段は打ち込んだ。



 先手の2一飛。この場合は後手の2二角が成立しなくなっているのだった。2二角、3五歩、2三金、3四歩、同金、3二歩となるからである。これが郷田の3六歩の意味。
 しかし田丸七段のほうは、2二角など元から考えてはいなかったかもしれない。田丸は7三桂から6五桂と跳ね、6六銀に、8六飛と打ち、8八歩に、6六飛と飛車切り。
 なんて過激な攻めだ。



 “攻め将棋”の田丸、技を駆使して、1二角打の飛金両取りを実現させた。
 郷田は「二枚飛車」で迫る。



 プロの将棋はやはりすごい。魅せる終盤だ。
 田丸の2三香に、郷田は同飛成。以下、同馬、7一金、6七飛、5七桂、4五桂、2七玉、9六銀、9五銀、2六歩、1六玉、2四桂、2六玉、2五歩、同玉、3四金、同竜。



 1四馬、3五玉、7一金、4三竜、まで85手、郷田の勝ち。


 *過去記事 『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛』 「郷田真隆-田丸昇戦 1991年」の将棋を採りあげています。



〔3〕“郷田新手7九金” 郷田真隆‐村山聖 1994年



 「7九金」が、1994年に郷田真隆が23歳の時に指した“相横歩の郷田新手2弾”。相手は村山聖。村山は学年で言えば郷田の1コ上。もっとも村山聖は子供の時から学校にはほとんど行っていないのであるが。二人は麻雀仲間だったらしい。
 さて、この「7九金」はどういう意味なのか。
 たとえば後手が7二金とすれば、こんどこそ5五角で先手がよくなる。
 「これで後手の指し手が難しいでしょう」というのが、郷田の主張なのでしょう。



 村山聖、「7五歩」。 
 これが“最善の応手”なのだった。
 プロってのは凄いですね。指された郷田さんも、田丸さんといい、村山聖といい、「新手に対し一発で急所を見抜いてくるな、さすがだ」と感心したようです。
 「7五歩」は、7六歩とすればすぐに先手陣に7筋の歩の攻めが効くということ。たとえば、7六歩、6八銀、7七歩成、同銀、7八歩とすれば、郷田の「7九金」が無効になる。





 先手は8三飛と打ち込み、後手は7六歩、6八銀、8二飛と応じた。
 以下、同飛成、同銀、8三歩、7一銀、4六角、2八歩、同銀、8八歩、8二歩成、同銀、8七飛。



 この応酬を見ても、「相横歩取り」の将棋はおもしろいですね。
 郷田真隆はプロ3年目21歳の時に谷川浩司から4-2で「王位」のタイトルを奪取しています。翌年に羽生に奪われてしまうので、この「郷田-村山戦」(1994年王将戦)の時は無冠です。



 後手村山の6五角。
 8二飛成、4七角成、7二銀、同金、同竜、6一銀とすすむ。ここで8一竜と先手が指せば、後手は4六馬で角が取れる。
 しかし4一金、同玉、6一竜、4二玉、2四角(王手)として、先手は角を逃がすことに成功。
 以下、3三金、5八銀、1四馬。 



 先手は5八銀と受けに銀を投入したが、こうなってみるとしかし、先手の攻め駒が足らないか。



 竜の王手に、2一玉と後手村山は逃げる。
 ここでは後手、自信のある局面ではなかろうか。
 しかし先手陣は堅い。



 郷田は9一竜と香車と入手して、2四香。
 どうもここでは逆転しているようだ。(解説がないのでどこがどうわるかったか判らない。)


投了図
 村山聖、投了。



 郷田新手は、「2八歩」も、「7九金」も、“不発”に終わったのですが、これによってさらに「相横歩取りの定跡」がより深められました。そして形勢やや苦しめになりながらも、結局は両局ともに勝利をもぎ取った郷田真隆、さすがの強さです。郷田さんがタイトル戦に何度も登場するのは、こういう、結果につなげる芯の強さがあるからでしょうか。
 余談ですが、郷田さんは、プロレスを語らせたらプロ棋士で自分が一番という自信もあるようです。


 *過去記事 『横歩を取らない男 羽生善治5』 村山聖と羽生善治の初対局の棋譜です。




◇“8六飛”の研究◇

 さて、最後に、〔1〕の郷田流「8六飛」についてですが、郷田本の説明は、8六飛に、先手9五歩以下を説明していますが、9五歩以外の手を先手が指したらどうなるのでしょう?

 郷田流の「8六飛」に、「2六飛」と打つと?
 この手は次に、2四角(または7三角成)から王手をして、8六飛の「飛車の素抜き」のねらいがあいます。それと同時に、2一飛成もあり、後手は苦しそうに思えるのですが。

 「6四角」という“返しワザ”がありますか。
 2四角なら、5二玉(または3三歩)として、8六飛なら、同角が王手になり、5八玉、2七飛で後手良し。
 (しかし6四角には、2一飛成で後手が困るか。)


 また、「8六飛」はもともと4六飛~4七角がねらいなので、そのねらいを単純に消して「3八金」とすれば、後手はこのあとどうするのでしょう?
 ぼんやりしていると、やはり先手からの9筋の攻め(9一飛のねらい)があるので、後手がたいへんな気がします。
 郷田さんがこれを実戦では使っていないところをみると、やはり、まあ、そういうことかと。



 今日はこのへんで。 次回は“森内新手8四歩”の将棋を採りあげます。
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200手超!「相横歩」の熱闘  1996 女流王位戦

2013年06月12日 | 横歩取りスタディ
 写真は、2002年発行、所司和晴著『横歩取り道場2 相横歩取り』


 今回お贈りする棋譜は次の3つ。「相横歩取り」の棋譜です。
  〔1〕石橋幸緒‐清水市代 1996年 女流王位戦第3局
  〔2〕岡崎洋‐清水市代 1996年 竜王戦
  〔3〕甲斐智美‐竹部さゆり 2005年 レディースオープン



〔1〕石橋幸緒‐清水市代 女流王位戦第3局 1996年10月8日

 先日の甲斐智美‐里見香奈戦(女流王位戦第4局)が200手近くの熱戦で大変に面白かったのですが、僕はそれで、女流将棋の熱戦ということで、1996年の「石橋幸緒‐清水市代戦」を思い出したのです。僕は当時たまたま気が向いてその年度の『将棋年鑑』を買ったのですが、その五番勝負の棋譜も盤に並べて鑑賞し、「女流の将棋、おもしろいなあ」と感想を持ったのでした。同じころプロ棋士の先崎学さんや村山聖さんが「女流の将棋を並べるのが趣味」ということを発言していて、「よく判る!」と、僕はそれにうなずいていたのでありました。


初手より
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲3四飛 △8八角成  ▲同銀 △7六飛

▲7七銀 △7四飛 ▲同飛 △同歩 ▲4六角 △8二歩
 石橋幸緒さんは清水市代さんの弟子なのでこれは「師弟対決」なのですが、石橋さんの本当の師匠は清水さんのお父さん(将棋教室の先生)なのです。
 この時、石橋幸緒は15歳。15歳の少女がタイトル戦に新チャレンジャーとして登場です。石橋さんはこのタイトル戦の移動で初めて新幹線に乗ったので窓の景色が新鮮で眼が釘付けだったというエピソードが残っています。初々しいですね。
 迎え撃つ清水市代はこの時27歳。羽生善治より1歳年上です。

 戦型は「相横歩取り」となりました。プロでは登場することの少ない戦型です。


 


▲8三歩 △8四飛
 図の「4六角」が定跡の示す最善手として知られている。これは青野照市が1985年に指した“青野新手”。

升田幸三‐塚田正夫 1964
 1960年代、「相横歩取り」は元名人の塚田正夫が好んでこの戦型に誘導していたので「塚田流」と呼ばれていた。そうして飛車角総交換のこの変化となった時、'60年代は図のように「8三飛」として、竜をつくるのが主流だった。これが最善とされていたのだ。

大山康晴‐塚田正夫 1971
 1971年に大山康晴名人が、「8二歩、同銀、5五角」と指した。大山名人はこの指し方で2勝し、以後、この指し方が「相横歩」の主流となった。
 大山以前にもこの「8二歩、同銀、5五角」はもちろんだれも気付いてはいた。けれどもそれは“後手にうまく切りかえされて先手が不利になる”というのが定説になっていてそれを信じて誰も指さなかったのだった。具体的には5五角から、8五飛、8六飛、同飛、同銀、2六飛で“後手良し”と。
 この「大山‐塚田戦」もそう進んだが、勝利したのは大山康晴。それを見て、今度は松田茂役が後手番で相横歩を挑んだが返り討ちに会い、プロ棋士の評価も“5五角で先手良し”に変わったのだった。(松田は大山の5五角に、「2八歩」の“新手”を用意していたが、届かなかった。)
 以後、しばらくプロの公式戦には「相横歩」は現れなくなった。たぶんアマチュアでは一部のマニアの間で指されていたが。


青野照市-飯野健二 1985
 「相横歩取り」の進化を語る時、「飯野健二」の名ははずせない。“青野新手4六角”も、後手番で飯野健二がこの「相横歩」を80年代なかばに多用していたからこそ、生まれる機会を得たのである。
 青野照市はこの時32歳、飯野健二はその1つ下である。(青野さんの名前を聞くと、僕は反射的に、「これはトルイチ(取る一手の意味)、青野トルイチ。」という豊川孝弘ジョークを思い出してしまう~。)
 青野さんは、大山名人の「8二歩、同銀、5五角」を「4六角」に換えた。
 対して飯野健二は「8二角」と応じた。以下、「同角成、同銀、5五角」となる。
 こうすすむと大山流よりも青野流のほうが「一歩」を先手が節約していることになる。これが大きいのだ。「一歩」を余分に渡さないことによって後手の攻め筋が制限されることが多いのである。もともとこの「相横歩」は先手が有利と言われているのだが、これによってますます後手は苦労することになった。
 “青野新手4六角”には、「8二角」が今でも最有力とされている。
 しかし「4六角」に対して、それ以外の手もいくつか有力な候補があって(5つくらいある)、“相横歩は先手有利”とされてはいても、後手に有力な手が色々とあるので、先手は大変なのだ。しっかり勉強しておかないと後手の研究に“ハマる”。アマチュアで後手で「相横歩」を仕掛けてくる人が多いのはそのためである。
 

 さて、「石橋幸緒‐清水市代戦」に集中しましょう。



▲8八銀 △8三飛 ▲9六歩 △6四歩 ▲9五歩 △7二銀 ▲9四歩
 後手番の清水市代は先手の4六角に、「8二歩」と指した。これはプロでは他に指した人がいない。つまり“清水新手”である。清水さんはこの手を指してみたくて「相横歩取り」にこの将棋を誘導したようだ。この手自体は“だれでも思いつく手”なのだが、実際にそれ以前にプロの公式戦で指した人はいない。1994年に発行された『羽生の頭脳5 横歩取り』の中にも「8二歩」は簡単に触れられているが、“先手有利”となっている。
 “清水新手”の後手「8二歩」に、先手石橋幸緒は「8三歩」。 そこで清水、「8四飛」と返す。



△9四同歩 ▲9二歩 △同香 ▲9一飛 △9三香 ▲7三歩 △同桂
▲6四角 △8四角
 先手は9筋の歩を伸ばして「9四歩」から端を攻めて、「9一飛」。飛車の打ち込みがある。これがあるからこの変化は“先手有利”と定跡は示しているのだったが。清水市代は“その先”を考えて勝機ありと判断したのだろう。
 先手石橋、「7三歩」と手裏剣を放つ。同飛なら6四角があるので、後手は「同桂」。それでもやはり先手は「6四角」。これは次に▲8四歩を狙っている。そのねらいを消しつつ、5七ににらみを効かす「8四角」。



▲5三角成 △5八歩 ▲4八玉 △6五桂 ▲5四馬 △5七桂成
 「8四角」はかっこいい手ですね。おそらく清水さんはこの手に期待を賭けたのでしょう。
 石橋の「5三角成」に、清水「5八歩」。 今度は清水の手裏剣。
 これまたかっこいい“返し”だが、局後、5八歩では、5六歩がよかったとされた。先手が5六同歩と応じるならそこで5八歩とすれば、先手は(4八玉とは逃げられないので)5八同玉と取るしかなく、その変化ははっきり後手良しだったというのである。
 本譜は「4八玉」とかわした。



▲3八玉 △6三歩 ▲5三馬 △4二銀 ▲8五歩 △7三角 ▲7一馬 △同金
▲同飛成 △6一角 ▲7七桂 △3六歩 ▲6五桂 △6二角
 「3八玉」と逃げてみると、後手には歩以外に攻め駒はないので、まだまだこれからの将棋。力と力のぶつかり合い――。
 先手は後手に「6一角」とつらそうな場所に角を打たせた。瞬間、ここでは先手やれそうという評価になった。



▲6二同龍 △同玉 ▲3五角 △4四歩 ▲5七角 △5九歩成 ▲同金 △3七歩成
▲同玉 △5五飛 ▲4八玉 △8五飛 ▲5六歩 △2五飛 ▲5四桂 △5二玉
▲2八歩 △3八歩
 しかし、後手も「6二角」と角を引いて、脅威となっている先手の竜を捕獲する。(いや、捕獲できてはいないか)
 その後はあまりに手が広くあり、もうどうなるかわからない。



▲3八同銀 △6五飛右 ▲9三角成 △5三銀 ▲8二馬 △5八歩 ▲同玉 △8五飛
▲4六馬 △5七歩 ▲6九玉 △4五歩 ▲3七馬 △3六歩 ▲4八馬 △2八飛成
▲5五香 △2六桂
 華々しい乱戦だが、両者崩れない。後手の二枚の中段飛車が素敵です。
 1996年の2月に「羽生善治七冠王」が誕生しました。そしてその5カ月後に「清水市代女流四冠王」が誕生しました。「女流四冠」は当時の女流全タイトルです。
 この「清水-石橋 女流王位戦」はその年の9月から始まりました。



▲4九銀 △2九龍 ▲5七馬 △4六歩 ▲8六歩 △同飛 ▲8七銀 △8五飛
▲8六歩 △8一飛 ▲4六馬 △4四歩 ▲7三歩 △同銀 ▲3三歩 △同金
▲3九歩 △6四銀右 ▲3六馬 △5八歩 ▲同銀 △5七歩 ▲4九銀 △7五桂 ▲2五馬
 先手は馬をつくり、後手は竜をつくった。
 先手がやや苦しいか。先手はどこから攻める?
 


△3四歩 ▲7三歩 △3八桂成 ▲1六馬 △3九成桂 ▲7二金 △4九成桂
▲同金 △5八銀 ▲7九玉 △6七銀成 ▲同金 △8七桂成
 石橋さんの「2五馬」は王手だけど、先手にとって勇気のいる手。あとの「3八桂成」が馬取りになるからで、これでいっぺんに負けになる可能性もある。石橋さんは「勝負」に出たのでしょう。
 相手に攻めさせる間に、石橋は「7三歩」から「7二金」。



▲6八玉 △7二角 ▲同歩成 △5八金 ▲同金 △同歩成 ▲同玉 △5七歩
▲同金 △5九銀
 「8七桂成」となって、これは先手、寒いことになった。大丈夫でしょうか。



▲6二と △同銀 ▲6九金 △6八金 ▲同金 △同銀成 ▲同玉 △5三銀上
▲6二桂成 △同玉 ▲5三香成 △同玉 ▲5四銀 △4二玉 ▲1五角 △7七成桂
▲5八玉 △6八金 ▲4八玉 △2八龍
 はらはらさせる終盤です。図の「5九銀」は146手目。
 石橋、「6二と」と捨てて、「6九金」。6二桂成の開き王手のチャンスを狙う。
 「1五角」が石橋幸緒の終盤の強さを見せた手。これで後手にプレッシャーをかけつつ受けに利かす。



▲4九玉 △3七桂 ▲同角 △同龍 ▲3八金 △3六龍 ▲2五桂 △7六角
 ここで「4九玉」と逃げて受かっているというのがすごい。これは167手目。



▲3九玉 △5四角 ▲3三桂成 △同桂 ▲4六桂 △2一角 ▲3四馬 △2七桂 ▲2八玉
 図の7六角は王手銀取り。
 


△4三銀 ▲3七歩 △2六龍 ▲2七金 △4六龍 ▲同金 △3四銀
▲2二飛 △3二桂 ▲5四桂 △4三玉 ▲5五歩 △5三銀 ▲3五銀 △同銀
▲3四銀 △同玉 ▲3五金 △同玉 ▲4三銀 △3九銀 ▲1八玉 △2九銀
▲同玉 △2八歩 ▲同金 △同銀成 ▲同飛成 △3九金 ▲同龍 △2二香
▲2八歩 △6七角 ▲3四金 △同角成 ▲3六歩 
 後手清水の「2七桂」の王手に、「2八玉」と石橋は逃げた。3九銀なら2九玉で受かっているという読み。 
 清水は「もうひと頑張り」と「4三銀」。(184手目)
 しかし「3七歩」から先手は自玉を安全にして、「2七金」から後手の竜を逆に攻め、一気に後手玉を攻略。
 

投了図
 まで219手で先手の勝ち


 激しい戦いでした。
 石橋幸緒さんはこれがタイトル戦の初勝利となりました。
 しかし女流王位のタイトルは清水市代さんが3-1で防衛しています。このシリーズは四局どれも力のこもった良い将棋になったのでした。


 1996年、清水女流四冠が誕生したその下で若い芽がすくすくと伸びてきていました。
 同じ年のレディースオープントーナメントの決勝三番勝負に16歳の碓井涼子(千葉涼子)が登場し(0-2で中井広恵に敗れる)、倉敷藤花三番勝負にチャレンジャーとして初登場したのが18歳木村さゆり(竹部さゆり)でした。(木村さゆりは0-2で清水に敗れる。)
 また前年度には女流王位戦で、15歳の矢内理絵子が清水市代に挑戦しています。(3-0で清水防衛)


〔2〕岡崎洋‐清水市代 1996年 竜王戦

岡崎洋‐清水市代 1996年
 これは上の「石橋‐清水戦」の2カ月後の対局。男性棋士との将棋で、後手番になった清水市代は、再び、“清水新手8二歩”を指しました。石橋との将棋に手ごたえを感じていたのでしょう。
 清水の「8二歩」に、石橋は8三歩でしたが、岡崎洋は「3八金」。とりあえず先手のキズを消す落ち着いた手ですが、所司和晴の本(『横歩取り道場』)にも軽く触れてあり、「穏やかな流れになり角を打たされた分先手不満だ」としています。しかし実際のところは“形勢不明”が正しいところかとおもわれます。

 5二玉、9六歩、6四歩、3六歩、7五歩、8八歩、3三桂、5八玉、4五桂、6八銀、3七歩

 と進みました。後手の指し方、かっこいいですね。
 


 桂交換して再度後手が「4五桂」と打ち、「6四角」に「2四飛」。 以下は、6五飛、8三角、7四歩、3七歩、2八金、同飛成。
 技の掛け合い、という感じですね。



 清水、飛車を切って5四金。飛車切りの代償に角を取りましたが。



 二枚飛車で攻められて――


投了図
 岡崎の勝ち。


 
〔3〕甲斐智美‐竹部さゆり 2005年 レディースオープン

甲斐智美‐竹部さゆり 2005年
 実は竹部さゆりさんは「相横歩取り大好き」の人なのでした。後手番で「相横歩」に誘導して、定跡手の「4六角」に、「8二歩」。
 甲斐智美「8三歩」に、竹部の用意してきた手は「7二金」。
 さあどうなるか。

 8二歩成、同銀、8三歩、7三銀、同角成



 7三角成として“先手良し”というのが定跡書の伝えるところ、『羽生の頭脳』にも所司本にもそう書いてある。

 7三同桂、8二歩成、同金、7一飛、6一飛、8三歩

 7三同桂に8一飛では7一飛で受かってしまう。そこで8二歩成、同金、7一飛とする。7一飛の飛車打ちに後手が4二玉と逃げれば、8三歩、同金、7二飛成で先手勝ち。そこで後手は6一飛と受けるが、この場合も8三歩がある。


 7一飛、8二歩成、とすすむ。

 こうなって“先手良し”としているのが『羽生の頭脳』。
 所司和晴『横歩取り道場2 相横歩取り』ではさらにその先が調べてある。
 「甲斐‐竹部戦」は次の進行となった。

 6五桂、7一と、5七桂不成、5八銀。

 所司本『横歩取り道場』は、6五桂に、6八銀、7三飛、8四銀、8六飛、7三銀成、8九飛成、7九金、同竜、同銀、4二玉、3五飛以下“先手有利”となる変化が解説されている。竹部さゆりさんもこういう変化を当然研究して臨んでいただろう。
 また2011年発行の北島忠雄著『相横歩取り』では、6五桂、6六銀、7三飛、8四銀、8六飛、7三銀成、8九飛成、7九歩、4二玉、6五銀、3三玉、9一と、8六桂、2五金までの手順が書かれているが、この形勢判断は難しいようだ。“ぎりぎりの勝負”としている。
 またこの北島本は、この「甲斐‐竹部戦」で甲斐さんの指した(後手の6五桂に銀を逃げずに)7一と以下の研究手順も書いてある。6五桂、7一と、5七桂不成、5八銀、4九銀成、同銀、4二玉、3六歩、3三玉、3七桂、を提示して“先手やや指せる”としている。

 以上のように、じつは「8三歩」以下のこの変化も明解に“先手良し”とも言えないのである。

 

 5八銀、4九銀成、同銀、4二玉、4六桂、5六角、5八玉、2六飛、3八銀左、2八歩、2七歩 、4六飛、同歩、2九歩成、2四金、3九と、8二飛、5二桂、7二飛打。
 先手の甲斐智美はこの時22歳。20歳まで奨励会で男子と共に修業していたが、20歳までに(奨励会の)初段にならなければ退会、という規定により退会となり、その後女流棋士として努めている。中原誠門下。
 竹部さゆり(木村さゆり)も奨励会に所属していた経歴がある。
 後手が4二玉と先逃げした手に、北島本では3六歩~3七桂を示していますが、甲斐女流は4六桂。後手の竹部、5六角から2六飛。横歩取りの乱戦特有の攻め筋だ。





 7二飛打と先手が打って、先手勝ちのように見えるが――

 5一銀、4七銀、4九角、5七玉。

 5一銀と受けられて見るとどうも攻めが続かないようだ。6一とは、後手3八とで先手負けになる。
 そこで先手の甲斐智美、一旦受けにまわる。4七銀。



 4七角成、同玉、6二金、同飛成、同銀、4八金、5四飛。
 後手竹部さゆり、角を切って6二金と打つ。飛車を入手するのがいい、と判断。
 (なるほど、先に竹部さんが4一銀でなく、「5一銀」と受けたのは、6二金をねらっていたからなんですね!)



 4九金、3五桂、3六玉、2四飛、3五玉、2七飛成。
 5四飛が決め手になった。


投了図
 78手、竹部さゆりの勝ち。
 


 以上、見てきたように、「相横歩取り」の定跡で、先手の「4六角」に、「8二歩」とする変化は、まだまだ後手の可能性が残されています。プロでは女流将棋でのみ、実戦例があります。1996年女流王位戦の「石橋-清水戦」の棋譜がそのまま所司和晴『横歩取り道場』の解説になっています。


 
 
先手:石橋幸緒
後手:清水市代
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △8八角成 ▲同 銀 △7六飛
▲7七銀 △7四飛 ▲同 飛 △同 歩 ▲4六角 △8二歩
▲8三歩 △8四飛 ▲8八銀 △8三飛 ▲9六歩 △6四歩
▲9五歩 △7二銀 ▲9四歩 △同 歩 ▲9二歩 △同 香
▲9一飛 △9三香 ▲7三歩 △同 桂 ▲6四角 △8四角
▲5三角成 △5八歩 ▲4八玉 △6五桂 ▲5四馬 △5七桂成
▲3八玉 △6三歩 ▲5三馬 △4二銀 ▲8五歩 △7三角
▲7一馬 △同 金 ▲同飛成 △6一角 ▲7七桂 △3六歩
▲6五桂 △6二角 ▲同 龍 △同 玉 ▲3五角 △4四歩
▲5七角 △5九歩成 ▲同 金 △3七歩成 ▲同 玉 △5五飛
▲4八玉 △8五飛 ▲5六歩 △2五飛 ▲5四桂 △5二玉
▲2八歩 △3八歩 ▲同 銀 △6五飛右 ▲9三角成 △5三銀
▲8二馬 △5八歩 ▲同 玉 △8五飛 ▲4六馬 △5七歩
▲6九玉 △4五歩 ▲3七馬 △3六歩 ▲4八馬 △2八飛成
▲5五香 △2六桂 ▲4九銀 △2九龍 ▲5七馬 △4六歩
▲8六歩 △同 飛 ▲8七銀 △8五飛 ▲8六歩 △8一飛
▲4六馬 △4四歩 ▲7三歩 △同 銀 ▲3三歩 △同 金
▲3九歩 △6四銀右 ▲3六馬 △5八歩 ▲同 銀 △5七歩
▲4九銀 △7五桂 ▲2五馬 △3四歩 ▲7三歩 △3八桂成
▲1六馬 △3九成桂 ▲7二金 △4九成桂 ▲同 金 △5八銀
▲7九玉 △6七銀成 ▲同 金 △8七桂成 ▲6八玉 △7二角
▲同歩成 △5八金 ▲同 金 △同歩成 ▲同 玉 △5七歩
▲同 金 △5九銀 ▲6二と △同 銀 ▲6九金 △6八金
▲同 金 △同銀成 ▲同 玉 △5三銀上 ▲6二桂成 △同 玉
▲5三香成 △同 玉 ▲5四銀 △4二玉 ▲1五角 △7七成桂
▲5八玉 △6八金 ▲4八玉 △2八龍 ▲4九玉 △3七桂
▲同 角 △同 龍 ▲3八金 △3六龍 ▲2五桂 △7六角
▲3九玉 △5四角 ▲3三桂成 △同 桂 ▲4六桂 △2一角
▲3四馬 △2七桂 ▲2八玉 △4三銀 ▲3七歩 △2六龍
▲2七金 △4六龍 ▲同 金 △3四銀 ▲2二飛 △3二桂
▲5四桂 △4三玉 ▲5五歩 △5三銀 ▲3五銀 △同 銀
▲3四銀 △同 玉 ▲3五金 △同 玉 ▲4三銀 △3九銀
▲1八玉 △2九銀 ▲同 玉 △2八歩 ▲同 金 △同銀成
▲同飛成 △3九金 ▲同 龍 △2二香 ▲2八歩 △6七角
▲3四金 △同角成 ▲3六歩
まで219手で先手の勝ち
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31年前の羽生・森内戦 横歩取り4五角戦法

2013年05月30日 | 横歩取りスタディ
 今年の名人戦、森内俊之名人と羽生善治挑戦者の七番勝負は、森内名人の3勝1敗で、名人防衛まであと1勝。第5局は明日から行われます(二日制)。
 (この記事は5月29日夜に書いています。)

 今日はその森内・羽生の31年前の対局の棋譜を鑑賞していきます。今羽生・森内は二人ともに42歳。ですから31年前ということは、まだ二人が小学生の時の対戦になります。この棋譜は「棋譜でーたべーす」にあったものですが、「都下小学生名人戦」とあります。その決勝戦のようです。(これは毎年NHKで放送される「小学生名人戦」とは別の大会です。)
 それで、その対局の戦型ですが、これが「横歩取り」なんです。しかも200手を超える熱い戦いになります。


 ところで、1996年、羽生善治が谷川浩司に勝って「七冠」をその手に収めた時に、将棋世界編集部より臨時に発行された『七冠王、羽生善治。』という本に、羽生さんが綴った文章があるのですが、その中から。

 〔 王将戦第4局の横歩取りも、もともとは谷川さんが四、五段時代によく指していた戦法でした。その影響で私も横歩取りが大好きで、小学生の大会などではそればかりやっていました。だから、今回の王将戦第4局が谷川さん相手の横歩取りで終わったというのは感慨深いものがあります。 
 小学生の頃は谷川ブームの影響で、クラスの男子は全員ルールを知っていました。今、全国の小学校で同じような状況になっているかもしれません。その中から、我々の世代を倒す人が出てくるのでしょうか。でてきてもらいたいような、それは楽しみでもあるしちょっと複雑な心境です。 〕



 それでは当時小学生の11歳同士の羽生・森内戦を見ていきましょう。
 これは谷川浩司が名人(史上最年少)になる1年前の夏の対局です。

初手より▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲3四飛


△8八角成 ▲同銀 △2八歩 ▲同銀 △4五角
 羽生少年、横歩を取りました。後手の森内が「さあ横歩を取ってみろ」と誘って、それに先手の羽生が乗ったのです。
 森内少年、角を換えて、2八歩、同銀、4五角。いわゆる「横歩取り4五角戦法」です。この戦法、昔、横浜のあるアマチュアの方が「ツバメ返し戦法」という呼び名を提案されていたと加藤治郎の本には書いてある。なかなか良いネーミングだと僕は思いますが、それは広まることもなく「4五角戦法」と呼ばれています。

 この横歩取りの「4五角」は、200年以上前、徳川将軍家治と伊藤寿三(詰将棋で有名な伊藤看寿の息子)との間でさんざん研究されたようだが、それは「2八歩、同銀」を入れずに「4五角」打つ形。
 その後、「2八歩、同銀」と入れてから「4五角」が有力ということで、これはすでに1800年には発見されていた。
1800年 楢崎新次郎‐上野伊三郎
 これがその証拠の対局。後手の4五角に対し、8七歩、7六飛、7七銀(図)。 以下、3四角、7六銀、3三桂とすすむ。後手上野伊三郎の勝ち。
 しかしそれでもこの“4五角戦法は先手有利”という定説がずっとあり、また、そもそも先手で「3四飛」と横歩を取る将棋が指されることが少なかったために、1970年代後半になるまで、有名な対局には現れることはまずなかった。ただ一つの例外が1920年の対局「村越為吉‐花田長太郎戦」で、花田が「4五角戦法」を用い、しかし敗れている。(花田長太郎はこの対局まで22連勝で記録更新が懸っていたがストップした。)
 1920年 村越為吉‐花田長太郎
 後手花田の4五角に、村越はやはり8七歩、7六飛、7七銀と応じた。以下、3四角、7六銀に、図の「8八歩」が花田長太郎の研究手。実戦は、7七桂、8九歩成以下、村越為吉の勝ちとなったが、現代では先手の7七桂に、「8九飛、7九歩、9九飛成」でこの形は“後手良しになる”と結論付けられている。




▲2四飛 △2三歩 ▲7七角 △8八飛成 ▲同角 △2四歩 ▲1一角成 △3三桂 ▲3六香
 1970年代に、アマチュア棋士の中では盛んにこの「横歩取り4五角」が研究されていた。
 やがてそれがプロ棋士の公式戦にも登場した。「東和夫‐谷川浩司戦」(1978年11月)が有名だが、「下平幸男‐青野照市戦」の方が5日ほど早い。さらには「棋譜でーたべーす」を探すと、その1年前1977年の2月に「北村昌男‐飯野健二戦」でこの戦法が指されていることがわかる。「4五角戦法」のプロ棋士の火付け役は飯野健二、谷川浩司、青野照市ということになる。
 上の図から、「2四飛、 2三歩 、7七角」と進んだ。今ではこれが最善手順と断定されているが、1978年頃、“先手の2四飛で7七角はどうなのか”というようなことがアマ棋士間で色々と議論されていて、プロ棋士もそこに興味があったようである。当時の常識でも「2四飛、 2三歩 、7七角」が正しいとされていたのだが、それが本当かどうか疑い始めたわけだ。実は上で挙げた「下平幸男‐青野照市戦」と「東和夫‐谷川浩司戦」、この2局はそういう将棋で――つまり“2四飛とせずにすぐ7七角と打つ”将棋だった。(その前に挙げた「村越為吉‐花田長太郎戦」も同じ。) 
 ところがそれはとっくの昔、江戸時代に大橋柳雪という人物が『平手相懸定跡奥義』という書の中でしっかり論じて結論を出していることだったのである。また柳雪のこの本には、後手が4五に角を打つ前に「2八歩」と打った時に、同銀と取らないで7七角と打つ変化にも触れていて、〔2八同銀の処で7七角、7六飛、2八銀と指す人あるも面白からず〕と書いてあるようだ。
 この時代の横歩取り愛好家たちの持っていた熱気と、それがすでに江戸時代の棋書に研究済みだったと後で知った時の驚きと感動が、沢田多喜男著『横歩取りは生きている』には記されている。



△3六同角 ▲同歩 △5四香 ▲8五飛
 羽生善治「3六香」。
 このあたりは今では「定跡」になって確立し皆当然のように指しているが、1970年代の当時は手さぐり状態だった。
 長い間、“横歩取り4五角は先手有利”とされていたのは、大橋柳雪の定跡書に中で深く研究されていて、そのように書いてあったということにルーツがあるようだ。大橋柳雪(おおはしりゅうせつ)は江戸時代後期の人物で将棋は名人格の実力者であるが、実は羽生少年の指した図の「3六香」も柳雪が書の中で示していた手なのである。100年以上も前に研究され発見された手が今も輝いているわけである。
 当時のアマチュア愛棋家は、この柳雪のつくった「定説」をくつがえそうと挑戦していたのである。ただし、この時期にはプロもアマもほとんどだれも柳雪の定跡書の存在は知らなかったようだ。
 そのように沢田多喜男『横歩取りは生きている』には「3六香」の手が“柳雪の示した手”として称賛されているが、よくよく調べてみると、大橋柳雪以前からこの「3六香」は知られていたように思われる。
 1775年 徳川家治‐伊藤寿三
 このように徳川第十代将軍の家治がすでに「3六香」を指している。大橋柳雪が生まれるより20年前の対局である。(これは柳雪の示すのとはちょっと違う局面だけれども。)
 だからたぶん「3六香」は大橋柳雪の発見ではないだろうが、しかし、柳雪の凄さは、他の様々な有力手をすべて精査した上で、“3六香が最善手、他の手では先手良くならない”と断じているところにある。


 後手の森内俊之少年はここで「3六同角」と取って、取った香車を「5四香」と打ちました。これも今ではかなり有力とされている手です。


 しかし「3六同角」では、かわりに「8七銀」や、「6六銀」などの手段もある。それらをすべて総合すると現代の結論は「厳密に研究すれば先手良し」なのだが、とにかくこのように「4五角戦法」は後手からの手段がいろいろあって、先手はその後手の攻めに対していちいち正しく応じなければ勝てないのだ。
 居飛車党で、後手が横歩取りを誘ってきたときに、「3四飛」と横歩を取るなら、こういう戦いに引き込まれることを覚悟しなければならない。プロで「4五角戦法」はほとんど今では指されないが、アマチュアではやたらと多い。「4五角戦法」の定跡研究は横歩取りの必須の知識なのである。居飛車を指すなら、好き嫌いに関係なく、こういう定跡を学んでおかなければならないので大変なのだ。


 
 さて、後手の「5四香」に対する応手がむつかしい。
 1979年5月の「加藤一二三‐谷川浩司戦」では、加藤は6六角と新手で応じたのであった。
1979年 加藤一二三‐谷川浩司
 この当時の“定跡”では、「5四香」には、「6八玉」と応じるものとされていた。(以下、4五桂なら、5六歩、同香、5八歩で受かる。) だが「それは危険」と加藤一二三は判断して「6六角」を生み出したのである。
 実際、後手の谷川浩司は「6八玉」のその先を考えていて「5七香成、同玉、6九飛」が予定だった。この手順、じつはアマチュアの研究ですでに後手良しとして一部では広まっていたようである。
 6九飛以下を示すと、6九飛、5九飛、同飛成、同金、3八飛、5八飛、4五桂、5六玉、5八飛成、同金、3八飛、4八飛、同飛成、同金、5九飛(参考図)、4五玉、2九飛成、3七銀、8九飛成――となる。
参考図
 確かにこれは先手勝てそうもない。
 「加藤‐谷川戦」は「6六角」以下、「4五桂、5六歩、5七桂不成、同角、5六香、5八歩、5七香成、同歩、8六角」のように進んだ。この将棋は加藤一二三が勝利。
 しかし「6六角」はその後の判定では“後手良し”になると結論された。6六角、4五桂、5六歩、5七銀、3三角成、同金、1二飛、5六香、3二馬、同銀、同飛成、5二金がその手順。



△4五桂 ▲同飛 △5七香成 ▲5八歩 △6八銀 ▲同金 △7九飛
 後手の「5四香」に、先手の「8五飛」と打つ手が最善手で、“これにて先手良し”というのが現代の定跡である。これは谷川浩司が1979年に「4五角戦法」を指していた時にはまだ発見されていなかった手だ。(上の「加藤‐谷川戦」がその証拠)
 しかしこの羽生・森内戦は1982年8月の対局。すでに「8五飛打」が一般小学生にも知られていることになる。いったいこの手、だれがいつ発見したのだろう。何かで読んだ気もするが、気のせいかもしれない。
 羽生少年、森内少年は、いったいこれらの知識をどうやって学んだのだろう。当時は「横歩取り4五角戦法」について書かれた本などほとんどなかったはず。あるいは、『将棋世界』『近代将棋』の中で研究されていて、それを読んだかもしれない。


 さて、この将棋はこのあたりから「定跡」を離れていきます。
 森内少年は「4五桂、同飛、5七香成」と指しました。羽生少年の「5八歩」の受けに、「6八銀 、同金 、7九飛」。最初からこう指そうと決めてきたのでしょうか。



▲6九銀 △6八成香 ▲同玉 △8九飛成 ▲6六馬 △8六桂
 所司和晴『横歩取り道場4五角戦法』を読みますと、この変化、先手の「6六馬」までの局面を示して「後手不利」としています。



▲1六角 △7九金 ▲5六香 △6九金 ▲5七玉 △4二銀 ▲8五飛 △5九金
 森内少年、未来の十八世名人はここで「8六桂」と指しました。
 対して羽生少年、未来の十九世名人は、「1六角」。 浮いていて狙われている4九の金にひもをつけた手です。
 攻めが止まると森内の負けです、「7九金」と打つ。



▲5九同金 △同龍 ▲4九金 △4八銀 ▲同金 △2九龍 ▲3九銀打 △7八桂成 ▲3八角
 羽生の受け、森内の攻め。 ――先手が良さそうですね。



△3八同龍 ▲同金 △6八角 ▲4八玉 △6九成桂 ▲3七玉 △5九角成
▲4八銀 △4九馬 ▲2一飛 △3一金 ▲2四飛成 △5九成桂 ▲3五飛 △3二桂
▲2七龍 △5八成桂 ▲3九銀左 △5九馬 ▲4八桂
 先手の羽生さんが森内の飛車(竜)を捕獲しました。



△6八馬 ▲6五飛 △6二金 ▲8五飛 △8二歩 ▲8三歩 △同歩
▲同飛成 △8二歩 ▲8八龍 △5七馬 ▲2三歩 △2一歩 ▲2六龍 △4八成桂
▲同金 △6六馬 ▲同歩 △4四桂
 さて、「5九馬」に「4八桂」とした図の局面の形勢判断をしてみますと、後手の森内さんの攻め駒は、「馬、成桂、持駒の金と歩二枚」、これではちょっと攻めきれそうもない、よって先手羽生優勢。
 ところがですね、もう一枚、3二の桂馬が攻めに参加してくる展開になります。



▲5八龍 △4五金 ▲2二歩成 △同歩 ▲3四桂 △3六金 ▲同龍 △同桂
▲同玉 △4四桂
 このあたりからだんだん形勢が妖しくなっていきます。
 「4四桂」と跳ね出した手に、先手はどう応じるのが正解なのでしょうね。実戦は、羽生少年がどこかで間違えている気がします。(3四桂に変えて、6五桂はどうだろう)



▲2七玉 △4五角 ▲3八玉 △3四角 ▲5三香成 △同銀 ▲5二歩 △同金
▲5四歩 △同銀 ▲同龍 △5三香 ▲2四角 △6二玉 ▲8四龍 △2六桂
 森内少年、再度の「4四桂」。 ここではもう、どっちがいいのかわからない。



▲2九玉 △3八歩 ▲同金 △同桂成 ▲同銀 △3七歩 ▲同銀右 △2五飛
 森内の「2六桂」は128手目。
 ここはもう「森内優勢」なのかもしれません。後手は歩を4つ持っていてその歩を3筋に使えるのが大きい。



▲2六歩 △2四飛 ▲5四歩 △同香 ▲4六桂 △4五角 ▲5四桂 △同角
▲同龍 △5三歩 ▲5八龍 △3六歩 ▲2八銀 △3七金 ▲3五銀 △2八金
▲同玉 △3七銀 ▲同銀 △同歩成 ▲同玉 △4五桂 ▲3八玉 △3七歩
▲2八玉 △3六角 ▲3九桂 △2三飛 ▲5五香 △4二金上 ▲3四銀打
 「アイタッ!」って感じの「2五飛」。
 羽生少年としては、泣きたくなるような展開ですね。
 しかし若いときの羽生善治は「あきらめない」ことでも有名でした。


 
△3八銀           
▲4五銀 △3九銀不成▲同玉 △4五角 ▲4八玉 △2七角成 ▲5七玉 △4五馬 ▲4六金
 「3四銀打」で、羽生は森内の飛車を捕獲。そういえばこの将棋で羽生さんが森内さんの飛車を捕獲するのは2回目ですね。
 ところが結局、羽生さんはこの飛車を取ることはできなかったのです。
 森内少年、「3八銀」。 羽生が2三銀成と飛車を取れば、同歩でよい。
 それでは負けだと判断した羽生少年は、玉の逃げ道をつくるために「4五銀」と桂馬を取ります。羽生敗勢ですが、あきらめてはいないでしょう。なにしろ将棋は逆転のゲームです。



△3五馬 ▲同金 △2六飛 ▲4六銀 △2九飛成 ▲5四歩 △5六銀
▲6八玉 △6七銀打 ▲7七玉 △5八銀不成▲5三歩成 △同金左 ▲7八角 △7九龍
 羽生少年の「4六金」は177手目。
 「3五馬 、同金 、2六飛」となって、森内のあの飛車が働いてきました。



▲9六角打 △6七銀引成▲8六玉 △7八龍 ▲5四桂 △同金 ▲同香 △7七龍
▲8五玉 △8六飛 ▲7五玉 △7六龍 まで204手で後手の勝ち
 さすがにこれは、天才羽生少年も観念せざるを得ません。


投了図
 2三で捕獲されたかに見えた森内さんの飛車が暴れまわって、森内俊之少年の勝ち。
 この負けは羽生善治少年も悔しかったでしょうね。将棋の負けはだいたいひどく悔しいものですが、この「4五角戦法」で負かされるのは特別なものがあります。「正しく応じると先手良し」なんていう状況がそもそも鬱陶しい。それで負けると、ああおれじゃあ“正しくできない”、つまり、“だめな人間”ということか、なんて感じたり。アマチュアで「4五角戦法」を仕掛けてくる人の心の中には、“アンタこの定跡勉強してるか?”と相手をためしているようなところがあるように、先手番の立場からは思ってしまうのです。



 ところで、この「第2回東京都下小学生名人戦」の日付は1982年8月4日になっています。その翌日、8月5日から行われた王位戦第2局「中原誠‐内藤国雄戦」で、「横歩取り4五角戦法」が登場したのです! 
中原誠‐内藤国雄 1982年 王位2
 ついに「4五角戦法」がこの時タイトル戦に登場したのでした。内藤さんは図のように「8七銀」と指しています。結果は先手中原誠の勝ち。(七番勝負は内藤が4-2でタイトル奪取。)


 さて明日は名人戦第5局。ここは兎に角、羽生善治に勝っていただきたい。できれば200手超の熱戦でお願いします。



開始日時:1982/08/04  第2回都下小学生名人戦
先手:羽生善治
後手:森内俊之
 
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩
▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲3四飛 △8八角成 ▲同 銀 △2八歩
▲同 銀 △4五角 ▲2四飛 △2三歩 ▲7七角 △8八飛成
▲同 角 △2四歩 ▲1一角成 △3三桂 ▲3六香 △同 角
▲同 歩 △5四香 ▲8五飛 △4五桂 ▲同 飛 △5七香成
▲5八歩 △6八銀 ▲同 金 △7九飛 ▲6九銀 △6八成香
▲同 玉 △8九飛成 ▲6六馬 △8六桂 ▲1六角 △7九金
▲5六香 △6九金 ▲5七玉 △4二銀 ▲8五飛 △5九金
▲同 金 △同 龍 ▲4九金 △4八銀 ▲同 金 △2九龍
▲3九銀打 △7八桂成 ▲3八角 △同 龍 ▲同 金 △6八角
▲4八玉 △6九成桂 ▲3七玉 △5九角成 ▲4八銀 △4九馬
▲2一飛 △3一金 ▲2四飛成 △5九成桂 ▲3五飛 △3二桂
▲2七龍 △5八成桂 ▲3九銀左 △5九馬 ▲4八桂 △6八馬
▲6五飛 △6二金 ▲8五飛 △8二歩 ▲8三歩 △同 歩
▲同飛成 △8二歩 ▲8八龍 △5七馬 ▲2三歩 △2一歩
▲2六龍 △4八成桂 ▲同 金 △6六馬 ▲同 歩 △4四桂
▲5八龍 △4五金 ▲2二歩成 △同 歩 ▲3四桂 △3六金
▲同 龍 △同 桂 ▲同 玉 △4四桂 ▲2七玉 △4五角
▲3八玉 △3四角 ▲5三香成 △同 銀 ▲5二歩 △同 金
▲5四歩 △同 銀 ▲同 龍 △5三香 ▲2四角 △6二玉
▲8四龍 △2六桂 ▲2九玉 △3八歩 ▲同 金 △同桂成
▲同 銀 △3七歩 ▲同銀右 △2五飛 ▲2六歩 △2四飛
▲5四歩 △同 香 ▲4六桂 △4五角 ▲5四桂 △同 角
▲同 龍 △5三歩 ▲5八龍 △3六歩 ▲2八銀 △3七金
▲3五銀 △2八金 ▲同 玉 △3七銀 ▲同 銀 △同歩成
▲同 玉 △4五桂 ▲3八玉 △3七歩 ▲2八玉 △3六角
▲3九桂 △2三飛 ▲5五香 △4二金上 ▲3四銀打 △3八銀
▲4五銀 △3九銀不成▲同 玉 △4五角 ▲4八玉 △2七角成
▲5七玉 △4五馬 ▲4六金 △3五馬 ▲同 金 △2六飛
▲4六銀 △2九飛成 ▲5四歩 △5六銀 ▲6八玉 △6七銀打
▲7七玉 △5八銀不成▲5三歩成 △同金左 ▲7八角 △7九龍
▲9六角打 △6七銀引成▲8六玉 △7八龍 ▲5四桂 △同 金
▲同 香 △7七龍 ▲8五玉 △8六飛 ▲7五玉 △7六龍
まで204手で後手の勝ち



 さて、さらに調べて見ましたら、この二人の少年が指した将棋(後手森内俊之の指し方)と同じように進めたプロ棋士の実戦例があったんですね。すなわち、「3六香」と先手が打った後、「同角、同歩、5四香、8五飛」となって――
永作芳也‐飯野健二 1981年
 この将棋があるいはこの戦型における「8五飛打」のプロ第1号局かもしれませんね。
 そしてここから「4五桂、同飛、5七香成、5八歩、6八銀、同金、7九飛、6九銀、6八成香、同玉、8九飛成」と進んだ実戦例です。羽生・森内戦と同じ進行ですね。

 この将棋は1981年のC2順位戦の対局「永作芳也‐飯野健二戦」ですが、今日紹介した羽生・森内の天才少年対決は1982年ですので、その1年前に行われた対局になります。おそらくはこの棋譜のことが将棋雑誌に書かれていて、それをこの両少年は知っていて指していたんですね。
 そしてこの「永作‐飯野戦」の将棋は図のように先手が7八角と打ちました。 羽生少年は、自分で考えたのか、あるいは何かで知ったか、そのどちらか判りませんが、「永作‐飯野戦」のその手を修正して「6六馬」と指したわけです。

 ここから、「8六竜、5七玉、4四桂、3七銀、7六竜、4八玉、2七金、6六香、6二銀、2一馬、8七歩、2三桂」と「永作‐飯野戦」は進みました。

 以下、先手永作芳也四段の勝ちとなっています。




 今知りましたが、行方尚史八段が王位戦の挑戦者になったんですね。これは楽しみです。

    
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“佐瀬流”vs郷田新手2四飛

2013年03月07日 | 横歩取りスタディ
 郷田真隆著『指して楽しい横歩取り』、2002年、フローラル出版社発行。


 先日のA級順位戦の最終戦の「渡辺明‐郷田真隆戦」の郷田さんの矢倉後手番の“シノギ”は凄かったですね。あれを勝ちに持っていくとは…、だれがあの将棋で郷田勝ちを想像できたでしょうか。
 今郷田さんは「棋王」です。その棋王位の座をかけて挑戦者の渡辺明と五番勝負を闘っている最中ですね。いま1勝1敗ですが、どうなりますか。
 
 写真のこの本には「郷田真隆 棋聖」と肩書があるんですが、2002年のこの時は棋聖だったんですね、郷田さん。


 「横歩取り“佐瀬流”8二飛戦法」の棋譜並べ。今日は次の2つ。
  (1)加藤一二三‐丸田祐三 1956年
  (2)郷田真隆‐田丸昇  1991年

加藤一二三‐丸田祐三 1956年
 戦後、佐瀬勇次が指し始めた「横歩取り8二飛戦法」。丸田祐三が採用した。
 先手の加藤一二三は1940年1月1日生まれ、この対局時は16歳。加藤さんのプロデビューはその2年前。
 天才少年とたたかう37歳の丸田祐三。
 このお二人、いまもお元気のようです。


 8二飛には、8三歩、5二飛、8四飛が最も多い対応。しかしこの場合、後手の丸田が新工夫を見せた。8三歩に、「4二飛」がその工夫。


 丸田、3三角~4三飛~4二角と面白い駒組み。これはかっこいい!

 
 加藤一二三は2六飛とまわる。対して後手は2二歩と受けた。手堅いが、ここは2二銀ではいけないのだろうか。
 先手加藤の7七銀~5六歩の構想、これに僕は大変感心しました。「銀使い」の加藤ですしね。


 後手丸田、3三飛~6四角~3五飛。
 ここから戦いになります。3六歩、3四飛、3七銀、4五歩、5五歩、同歩、3五歩、同飛、5五銀、7五角、4四銀。


 先手が指しやすいように見えますね。
 後手丸田祐三ここで8七歩。加藤、7七角。そういえば丸田さんは「小太刀の名手」と呼ばれていたようですね。
 以下、5七角成、3五銀、同馬。


 ここで加藤、2二角成。2六馬なら、3二馬。こうなった時、後手の7筋の金銀が壁になっているのが致命的。
 2二角成に、5八歩、4八玉。

投了図
 ここで丸田、投了。

 加藤一二三の、2六飛~7七銀~5六歩~6六銀の構想が素晴らしい対応でした。


 この将棋は1956年の対局(王将戦の予選)ですが、これを最後に横歩取りの“佐瀬流”(8二飛戦法)は、トッププロの将棋から姿を消します。
 なぜでしょうか。
 「8二飛」の“佐瀬流”に対して、8三歩~8四飛となって、それですぐに後手が悪くなるわけでもない。しかしどうも、その後の後手の模様の取り方がむつかしいのかと思います。玉の囲いが難しい、先手にとって警戒すべき後手からの早い攻め筋があるわけでもない、後手は一歩損――どうもいい条件がない。
 そういうことかと思われます。


木川貴一‐大友昇 1957年
 翌年、大友昇がこのような将棋を指しています。そう、今では“内藤流”などと呼ばれている「横歩取り3三角戦法」です。加藤治郎氏の著書では、この「横歩取り3三角戦法」を最初に指したのは梶一郎ということになっていますが、その棋譜は見つかりません。この「横歩取り3三角」は、しかし、歴史を紐解けばもっと古く、18世紀(江戸時代)からあります。
 大友昇は、郷田真隆、森けい二の師匠。

中原誠‐内藤国雄 1969年 棋聖戦2
 ということで、佐瀬勇次の「横歩取り8二飛」をきっかけに、先手の2四歩、同歩、同飛に、8六歩、同歩、同飛の定跡が見直され、その「佐瀬流8二飛」が指されなくなった後、「3三角」が地味ながらも時折1960年代に指されていたわけです。
 そうして、1969年12月の棋聖戦五番勝負第2局で“空中戦法”として、「横歩取り3三角戦法」が一気に広く認知されるに至るのでした。
 さて、この図はその中原‐内藤戦の仕掛け前の局面。この図のように、先手中原が「3六歩」と突いたのがポイントで、この手を指すと、後手からの8六歩からの攻め(同歩、同飛で、次に7六飛と“横歩”が取れる)があり、実際に後手内藤さんがそう指してこの仕掛けが「横歩取り空中戦法の定跡」となっていくのですが、つまり先手の中原棋聖が「3六歩」と指したのが“空中戦法を誕生させた”ともいえるのです。この歩突きの前の局面はいくつか先例があり、この「3六歩」が、“中原新手”なのです。
 ここを突くと後手からの攻めがある、そのチャンスを後手は待っているわけです。

 “佐瀬流”の「8二飛」がすたれて、「3三角」が今では盛んに指されているその違いの、その理由がここにあります。“佐瀬流”の場合は、5二飛とか、4二飛の下段飛車になるのですが、その後の攻めがそれほどはっきりしない。
 ところが「3三角戦法」の場合は、先手が「3六歩」と攻めの手を見せれば、その瞬間にスキができるので後手からの8六歩からの“横歩取り”の狙いが生じて、この場合、まだ先手は攻めの準備ができておらず、それで後手は先に動いて主導権を握れるというわけです。先手はだから「3六歩」が突きにくいが、ここを突かないと先手の攻めも組み立てが難しい。そこが後手の「横歩取らせ3三角戦法」の狙いなのです。
 今でも、「横歩取り3三角戦法」の将棋は、基本的に先手がどのタイミングで「3六歩」を突くか、それが焦点となっています。


 ということで、1950年代にトッププロ棋士にも採用された「8二飛戦法」は、「3三角戦法」の有効性を発見するまでの道案内のような役割を歴史的には果たしたかと、僕は考えます。
 それでも、1990年代に一つだけ、「8二飛」の棋譜を見つけましたので、次にそれを見ていきましょう。「郷田真隆‐田丸昇戦」です。


郷田真隆‐田丸昇 1991年
 田丸昇が“佐瀬流8二飛”を現代によみがえらせた。
 先手郷田真隆はどう対応したか。(この時、郷田はプロ2年目の19歳)


 郷田真隆、「2四飛」。 これは過去に指した人がいない。 
 なので“郷田新手”ですが、これはさすがに格調高い。堂々とした手です。
 郷田さんにはこういう堂々とした手が多いので、最近は郷田真隆が指せばなんでも「格調高い」と言うのがちょっとしたギャグにもなっていますが、この手などは冗談でなく、たしかに、格調高いですね。
 というのは、先手の飛車は2筋で使うのが本筋ですし、しかし2四飛には、後手からの8八角成、同銀、3三角の心配があり、それに自信がないと指せない手だからです。(8八角成、同銀、3三角には、2一飛成で先手良し、でしょうか? いちおうそういうことだと思いますが、単純ではない。2一飛成、8八角成、同金、同飛成、3一竜、4一金などの変化を読み切らないといけない。)

 ただ、この8八角成、同銀、3三角の変化は、次の参考図で先手から2二角成~7七角の変化と類似。
参考図 
 この局面での2二角成~7七角は後手良しとされていますから、郷田‐田丸戦での「2四飛」の局面でもその攻め筋はなさそうには思えます。しかし、この場合は参考図と違って「横歩を取っている」という違いがありますのでまったく同じではありません。
 

 とうことで後手の田丸さんは、3四の“横歩”を取られていることを逆用しようと、「3六歩」。 プロらしい応酬です。
 3六歩を同歩なら、角を換えて1五角の王手飛車があります。
 郷田は3八銀。以下、3七歩成、同銀、3六歩、4八銀、8八角成、同銀、2二銀、8七歩、5五角。


 5五角に、郷田は2八歩。 2八歩と受けるしかないのなら、後手もわるくないかなとも見えるのですが…。


 後手がのびのびして見えますが、後手からのこれ以上の厳しい攻めはありません。
 先手郷田はここで、3七歩と歩を合わせます。2五銀に、1八角。


 これが郷田の狙いでした。この角は6三角成を見ています。


 先手、馬をつくりました。


 馬をつくって、「二歩得」。 はっきり先手優勢でしょう。
 先手は4筋に飛車をまわって4五歩。


 先手からの4筋の攻めはとても止められそうもない、ということで後手の田丸さんは8五桂~9四桂と攻め合いにでます。


 落ち着いて受ける郷田。銀を自陣に投入。


 9五銀には9八桂。 後手の攻めを止めれば先手が勝ち。
 田丸、9七桂成、同形、9六銀と攻める。以下、6五歩、2八角成、6四桂。

投了図
 ここから後手、8七銀成、同金、9六銀と食いつきますが、そこで8五桂が郷田の決め手。

投了図
 郷田の勝ち。


 というわけで一応、“郷田新手2四飛”は成功かと思われます。
 しかし、“佐瀬流8二飛”自体が現代では指されることがないので、この郷田新手はあってもなくても影響がなく、まったく知られておりません。

 横歩取り“佐瀬流8二飛”についての棋譜調べは今回でおしまいです。

 

 「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
  『創始者はだれなのか “8二飛戦法”
  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
  『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン
  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛』(本記事)



 さて、郷田さんの「棋聖位」の話などをを最後にもう少し。
 郷田真隆は2001年夏に3―2で羽生善治から「棋聖位」を奪取して、復位となったのですが、その将棋を見てみます。

 郷田真隆‐羽生善治 2001年 棋聖戦5
 これは第5局の終盤ですが、この図を見てもすでにこれがどんな戦型だったか判りませんね。これは後手羽生棋聖の「横歩取り中座流(8五飛戦法)」でした。この五番勝負、そのうちの3局がこの「横歩取り中座流」となっています。
 図で3四桂が先手郷田の予定でした。以下3四同銀、同馬で先手勝ち、と郷田は読んでこの局面にしたのですが、とっさに、それは4六桂から先手玉が詰まされる、と気づいた! 予定変更で、郷田挑戦者、6七玉。
 しかし後手羽生棋聖の5七歩がきびしい。郷田は4九銀と受ける。他に受けがない。ここで郷田1分将棋に。羽生も残り2分。

 羽生、7四銀と先手の玉を上下から包む。
 しかし郷田に2一金と捨てる手があった。同玉に、8三馬~7四馬で羽生の打った銀を消す。
 この後も羽生にもチャンスがありましたが、郷田が羽生玉を仕留めて、棋聖位に復位しました。165手の激闘でした。



 翌2002年の棋聖戦は挑戦者に佐藤康光を迎えました。これもまた2―2で最終局第5局に棋聖位のゆくえは持ち込まれました。その第5局の戦型は「角換わり相腰掛銀」の戦型に。
 後手番の郷田真隆が新手(新構想)を披露しました。
佐藤康光‐郷田真隆 2002年 棋聖戦5
 いったいどこが新しいのか? この形で「7四歩」と突いているのが新しいのです。
この歩を突くのは“勇気がいる”のでした。
 というのは、この図から4八飛~2五桂~2八角という構想が先手にはあって、「7四歩」と突いてしまってはその構想で後手つぶれ、がそれまでのこの局面の評価なのでした。
 郷田はどうやってそれに対応するつもりでいるのか。プロも注目の郷田の指し手でした。
 この図から、4八飛、4二金右、8八玉、2二玉、2五桂、2四銀、2八角、7五歩、同歩、8四飛。

 これが郷田真隆が用意していた指し方でした。
 2八角に「7五歩」、そして同歩に、「8四飛」。
 郷田以前にはだれも思いつかなかった指し方です。
 この将棋は、ここから4五歩、同歩、同銀、同銀、同飛、7六歩、5五角、3三銀と力の籠った応酬が展開され、勝負は佐藤康光の勝ちとなりました。
 郷田さんは「棋聖位」をここで失いましたが、この「角換わり相腰掛銀」における“郷田流新構想”は燦然と今も輝いています。

 この将棋は進化して、今では後手の7五歩を同歩とは取らず、4五歩とし、以下、7六歩、同銀、4五歩、6四角、7三歩、7四歩、6二飛、2八角、6六飛とすすむのが最新定跡です。

 今、「角換わり相腰掛銀」の将棋は、「先後同型」の形が“先手良し”に傾く変化が多いことから、後手番の指し方が狭くなっていて、苦労しています。その状況の中で、後手がこの“郷田流”を有力とみて選ぶことになるのです。
 特に昨年はこの形がよく現れました。中でも「名人戦」では2度、現れています。
羽生善治‐森内俊之 名人戦6
 昨年の名人戦第6局。これで勝てば名人位防衛が決まる、という対局で、森内俊之名人は先手羽生善治に対して、その“郷田流”。この名人戦では第2局でも同じこの形になり、その将棋は先手で羽生さんが勝っています。
 図の「2六角」が森内俊之の新手。この新手が良いかどうかはあやしいようですが、この勝負を勝って、森内さんが名人位を防衛しました。 
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1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン

2013年02月23日 | 横歩取りスタディ
 当時の朝日新聞の将棋欄は夕刊にありまして、「家庭欄」の下段のほうにあったのですが、「家庭欄」にはこのように、「プロレスごっこはやめましょう」というような記事もあったわけです。
 僕はもちろんまだここでは生まれていませんが、しかし僕もプロレスごっこの経験者でして、「あれは楽しかったなあ」という記憶です。僕は「4の字固め」とかの技が習得できず、それで“独自の技”を編み出していました(笑)。 しかし子供っていうのは遊びに関してはやはり天才で、オリジナルな技を持っているとそれなりに一目置いてくれるんですね。あいつにはあの技があるから警戒しろ、なんて雰囲気をつくってくれる。そうやって遊びを盛り上げる。技に名前を付けたりして。あとで考えるとダメダメなしょぼい技なんですが。
 将棋の戦法に名前を付ける、なんてのも、そういう子供の遊びのノリに似ていますね。
 世のお母さんや、管理責任を意識する学校の先生たちが、プロレスごっこをやめさせたいというのは理解できます。
 しかし、それが“主流”の考えになって全体を覆ってしまうとしまうと、これは違う、という気がします。
 プロレスごっこや、けんかというのは楽しいのです。身体と身体がぶつかってもみ合って身体が熱くなるあの感触が、子供時代は楽しくてやっていた。
 たしかに、プロレスごっこや子供のけんかが元で、けが人が出たり、争いや面倒な事の原因になる可能性はあるわけですが、それ以上に、「育てる」という意味では、必要なものを育てていたと思うのですが。生きるために、より良い世界ををつくるために必要なものを。
 「たたかう気持ち」、これが私たちの未来には大事かと思います。

 ところで、『将棋世界』の最新号は、米長邦雄氏の追悼号でしたが、ここに寄せられた内藤国雄さんの追悼文の中に、余談として、「親睦会がこの1回で打ち切りになったのは予算の関係ではなく、酒が入ってあちこちで喧嘩が起こり始めたからだと思う。」と書かれていました。この1回きりの親睦会は1963年のことのようですが、昔は喧嘩っぱやかったんですねえ、みんな。50年代となるともっと荒れていたかもしれません。
 そういうことを考えると、この時代の人々が「けんかのない世界」を理想としたのも、当然の事とも思えます。

 しかし、「たたかう気持ち」を失ってはいけません。



 今日の将棋の棋譜は主に2つ。1955年の将棋。
  (1)松田茂役‐塚田正夫 A級順位戦
  (2)高島一岐代‐大山康晴戦 名人戦七番勝負第1局



(1) 松田茂役‐塚田正夫 1955年 A級順位戦


 塚田正夫の“佐瀬流”(横歩取り8二飛戦法)。
 図から、松田茂役、2二角成、同銀、7七桂。前例のない指し方だった。「天才」松田は独創的だ。


 しかしこれは2五角~4七角成があった。プロがこれをうっかりしたとは考えにくいが、当時の観戦記は「松田の見落としである」と断定している。
 2四飛、4七角成、4八銀、2三歩、2六飛、8三馬、8七金。


 馬をつくって「歩得」をした後手がうまくやったように思える。
 松田、8七金。善悪はともかく、こういう手を指すところが「天才」とか「ムチャ茂」などと呼ばれる所以だろう。
 松田茂役に関しては、「松田さんは奨励会のときからとても女性にもてた」と原田泰夫が言っていたそうだ。普段は口数が少なかったが、酒が入るとにこにこし、野球で巨人が勝つとご機嫌になったという。
 弟子に、加瀬純一、木下浩一、真田圭一がいる。 


 今、8五に打っていた歩を、松田茂役が「8四歩」と進めたところ。
 観戦記は、これを許さず後手はその前に、8三歩として備えておくべきだったと書いている。塚田が局後の感想戦でそう言ったのかもしれない。


 松田、駒台の角を4七に打つ。8筋をねらう。塚田はどう受けるのか。


 塚田正夫、5四馬。これで8筋は受かるのか?
 実は松田はここで3六角と指した。つまり8筋を攻めなかったのだが、攻めるとどうなったのだろう? すなわち、9四金、同歩、8三歩成なら、後手はどう凌ぐつもりでいたのか。
 以下、8三同金、同角成、同飛、同飛成、7一金、5二金、6三馬、4一飛、2二玉。これは先手の指し切りだという。
 ということで松田は、9四金以下の攻めを決行しなかった。


 5~6筋から戦いが始まった。


 ここで後手塚田は、3六歩。 同歩、同馬、3七歩に…
 「6三馬では8二歩で悪いと思った」と塚田の感想。
 そこで本譜は、6七銀。


 6七同金に、6九馬、同玉、6七歩成。



 5八銀、5七と、同銀、6七金、6八銀、6六歩、4九角、5八歩、同角、7八銀、5九玉、8八歩成、同飛、8七歩。


 9八飛、5八金、同玉、8九角、9六飛、6七歩成…(略)


 なんとか先手玉は右辺に脱出したが…



投了図
 捕まった。 後手塚田の勝ち。




黒澤明、小津安二郎の映画広告
い~のちみじ~かし恋せよおとめ~♪





松田茂役‐花村元司
 この年、九段戦の「松田茂役‐花村元司戦」で、「相横歩取り」が指されたらしいです。 これがプロ公式戦初の「相横歩取り」(8八角成~7六飛)で、花村元司が後手番でそれを指したのです。


 ただし、先手の松田茂役は、7七桂と指しています。(現代の相横歩定跡の主流は7七銀です。)


 上の図から、7四飛、3六飛、3三桂、2六飛、8七歩、同銀、4四角、7五歩、同飛、6六角、と進んだそうです。

 この棋譜は加藤治郎の著書に(途中まで)載っていますが、「後手有望の岐かれとみられるが、この後花村八段に失着が出て松田逆転勝ちとなった」とあります。


 ここ、どうもおかしい、です。
 というのは、1955年度の九段戦は花村元司が挑戦者になっているから。負けた花村さんが挑戦者になっていては、変です。
 これがリーグ戦か、挑戦者決定戦の番勝負なら花村負けでもよいですが、どうもそうではないようですし(準決勝だったという)、それなら「松田勝ち」では、意味不明。
 この対局が、この前年度1954年度の九段戦ならばつじつまが合う。この年度は松田茂役が九段戦挑戦者になっているから。
 とにかく、どこか記述に間違いがあると考えられます。

 ということで、僕は、この「松田茂役‐花村元司戦」は、1954年の対局ではないかという疑いを持っています。(「棋譜でーたべーす」にはこの将棋の棋譜はありません。)

 (後日注; 九段戦はトーナメント式でしたが、当時は準決勝も三番勝負だったのかもしれません。それなら、この対局が「1955年、松田勝ち」でも問題ありません。それが“正解”という気がしてきました。)


 それで、「相横歩取り」は、このとうり1955年あたりで「松田茂役‐花村元司戦」でプロ公式戦に初登場、その後数年、間をおいて、1959年「内藤国雄‐塚田正夫戦」で2号局が指されました。

内藤国雄‐塚田正夫 1959年
 今度は「7七銀型」です。
 以後、時々後手番で塚田正夫が「相横歩」を使うので、この戦型は“塚田流”と呼ばれるようになりました。




サザエさんとソ連の水爆核実験の記事



 (2) 高島一岐代‐大山康晴戦 名人戦七番勝負第1局

 この1955年は高島一岐代(たかしまかずきよ)さんが挑戦者となりました。(’54年度のA級順位戦で優勝した。)
 「日本一の攻め」などと呼ばれ、無理っぽい攻めを成功させるのが得意だったようです。大阪府八尾市の生まれで、藤内金吾の弟子。つまり内藤国雄の兄弟子になります。(内藤国雄はこの時、奨励会でまだ修業中。)
 高島さん、38歳での名人挑戦です。戦後、木村、塚田、升田、大山以外の者が名人戦に登場するのは初めてのことでしたので、フレッシュな感じだったと想像されます。でも、大山名人は32歳で、挑戦者のほうが年上なのですけどね。
 この頃のA級・名人の年齢はけっこう若いんですよ。平均年齢37歳、最高齢が44歳の大野源一さんです。(現在のA級の平均年齢は40.5歳)


 今ではめったに見られない戦型、「相腰掛銀矢倉」。
 戦前は「5筋を突く相掛り」がプロ将棋の主流でした。
 それが戦後になって、急に「5筋を突かない戦型」が流行し始めました。1950年代前半までは、「角交換相腰掛銀」と「相掛り相腰掛銀」が流行り、やがて千日手になりやすいということで「角交換相腰掛銀」が避けられるようになり、かわりに「銀矢倉」がちょっとの間、よく指されました。ということで、こういうような「相腰掛銀矢倉」もこの頃はたまに見られたのでした。(しだいに銀矢倉は角が使いにくくスピード感に欠けるということで捨たれていくことになります。)


 後手の大山名人は、2五銀と、先手高島の角を目標にしてきました。
 しかし、ここで1五角という手がありました。同香なら2五飛で、次に香車も取れますから「二枚替え」になります。これは名人も読んでいなかった。
 なので大山は3四銀とバック。2六角に、2四歩。やはり角を狙っていきます。


 高島一岐代の指し手は、いろいろと大山名人の意表を突いたようです。 
 先手がうまくやって、いま、8三金と打ったところ。これで角を獲りました。 


 高島は、その角を敵陣に打って、これを馬にして自陣に引きつけます。
 先手駒得で後手の陣形は乱れています。 高島、大優勢。


 149手目、3一飛。 
 これはもう先手勝ち、ということで周囲は“終局の準備”に入る。
 指していた大山もこれは負けと覚悟はしていた。投げどころを考えていて、図のしばらく後、よし投げるかと思った時、周囲の報道陣のざわつきが耳に入り、「大山負けと決めているな」とわかるとこれが気にくわない。大山名人、「もうひと粘り」と考え直して指し続けることにした。
 すると―――


 4七歩、同と、4五金、同金、4七銀で将棋は終わっていた。
 しかし高島の指し手は、5四金。
 4五桂、3九香、5八飛。この飛車を打って大山は「夢ではないかと心を弾ませた」と自戦記に書いている。以下、7三竜、同金、5五銀、3六玉、4九銀。
  

 4七玉、5八銀、同玉、7九飛、4七玉、4四銀、2八銀。


 2八銀と打って、これは完全に逆転した。
 ここから数手進んで、高島、投了。 190手、大山名人の勝ち

 〔 それにしても勝負とはあやしくも不思議なもので、報道陣のわずかな動きが耳に入ってから、勝利の女神が私に乗り移る感じになって頑張れた。 〕(大山康晴)



 これは高島さんは惜しい将棋を落としました。この期の名人戦は高島一岐代が2勝を挙げたましたが、結局、4-2で大山名人の防衛で終わりました。
 大山名人の“逆転力”はほんと、凄いですね。


 1955年度のA級順位戦を8勝2敗で勝ち抜き、翌1956年の挑戦者として登場したのは、花村元司でした。

 この花村さんは1955年度の「九段戦」(今の竜王戦の前身のタイトル戦)の挑戦者にもなって、塚田正夫と五番勝負を戦っています。
 「名人位」は大山康晴で、「王将位」も大山康晴。
 升田幸三は1954年の名人戦七番勝負に出場した後、体調不良のため一年休場。入院もしたりして、升田はもうだめだ、と思われていました。復帰してももうタイトルを争うような将棋は指せないだろうと。
 ところが、升田幸三はこの年、1955年度の「王将戦」の挑戦者となります。それだけでなく、このタイトルを大山康晴からストレートで奪取。その上、香落ち上手で名人大山にも勝利して「名人に香車を落として勝つ」を実現してしまったのが、この年なのでした。(正確には年をまたいでいるため1956年になる。)

升田幸三‐大山康晴 王将戦
 これがその1955年度王将戦の第1局。対局日は12月13日。
 「角換わり棒銀」を封じる後手の「5四角」に、升田幸三が「3八角」の新手を出したのがこの対局。

 流れとしては、このままこの将棋の内容をお伝えしたいのですが、長々となってしまいましたので、これは別記事とします。




李承晩ラインへの抗議デモ

 李承晩、りしょうばん、イスンマン、時の韓国大統領。
 彼が、「李承晩ライン」なるものを勝手に領海線として、その領海内に入った日本の漁船を拿捕し始め、約4000人の日本人が韓国に拉致され(死傷者も出た)、韓国政府は彼らを帰さず抑留して政争のための人質として扱いました。抑留者の食料など、その環境は良いものではなかったようです。
 漁民の拿捕は1952年から始まり、上の写真は1955年の記事。「李承晩ライン」が廃止されるまでにはさらに10年かかりました。

 僕はこの大事件のことを10年程前まで知りませんでした。そのことを恥ずかしく思いましたが、後で、ほとんどみんな同じように知らなかったんだとわかり、あらためて驚きました。こんな大事件をあんなにきれいに忘れてしまっているなんて!
 「過去のことは水に流して」という日本人のやりかたかと思いますが、逆に韓国の方が「独島は我が領土」などとアピ-ルしてくるので、1960年代以降に生まれた日本人も気づいたのです。黙っていれば日本人も気づかなかったかもしれないのに、なぜ彼らはアピ-ルしてくるのか。

 日本と朝鮮半島とが「併合」したのは、“話し合い”によるものです。しっかり条約を交わしてのことであり、強要もしていません。
 それでも、朝鮮人の中には「日本」になるのがいやだという人はいたでしょう。それが日本側にもわかっているから、日本政府は彼らに「日本人になってよかった、自分は日本人だ」と思ってもらえるよう、朝鮮半島や台湾、満州を「住みよい国」にしようとがんばりました。朝鮮半島は特に、国家予算の3分の1をつぎ込んでインフラを整備し、非人道的な制度をやめさせ、朝鮮人の代議士の誕生も日本人が後押しして進めようとしています。朝鮮半島という国土は資源もなく、農業にも適さず、そういう国土を持ってもあまり得することは実はありません。しかし日本という国は、「併合」となって、そこが日本になった以上は、とにかく「住みやすいところ」にしたいと真面目に身を砕いて働いたのです。一緒によい国をつくろうと、“日本人”となった朝鮮半島の人々と力を合わせて頑張ったはずなのです。
 戦争中から、アメリカは、自分たちの国には黒人をはっきり差別する制度が存在していることもあって、それ以上に「悪い日本」を国際的に印象づけるために、「日本は朝鮮を奴隷扱いしている」ということにしてきました。そう思いたかった、ということです。時のアメリカ大統領ルーズベルトによるプロパガンダなのですが。(中国のプロパガンダもありました。日本はプロパガンダ戦がまったく弱かった。)
 戦争が終わって、日本は敗戦国になりました。
 日本は誇り高くアメリカ、イギリス、中国と同時に戦って散ったのですが、本当はまだ戦争は終わっていなかったということです。宣戦布告して正面から激突することだけが“戦争”ではないということです。
 朝鮮の人たちは、「自分たちは敗戦国ではない」と主張しました。戦時中は、日本人と共に同じ方向をみて戦っていたのですから、“敗戦の苦しみ”を共有することができたらより絆の強い友になれたはずなのですが、そうはなりませんでした。彼らはアメリカなどに「自分たちは戦勝国と認めてほしい」とさえ主張しました。それは認められず、戦勝国でも敗戦国でもなく「第3の国」だということで、「三国人」とされたのですが。

 「李承晩ライン」、「竹島」をめぐるこの騒動は、結局これは“戦争”だったのだと思います。
 韓国側は、「戦勝国」になりたいのです。そのためには日本と戦って勝てばよい。つまり「竹島」は彼らにとって、“勝利の証し”なのだと思います。
 だから、「俺たちは勝ったんだぞ」と彼らはアピ-ルしたいのです。現実に実効支配(日本にすれば不法占拠)しているにもかかわらず、アピ-ルする。「勝った勝った」と自慢したいのです。

 だけど、それはないよ、と思います。
 あの時代、日本には軍隊もないし、国民は「もう戦争はしたくない」と思っていたでしょう。日々を生きることで精一杯の時代です。
 そういう時だからこそ、日本が弱いことをわかっているから、あの時代に李承晩は“戦争”をしかけてきたのです。あれを“戦争”と呼ばないのは、あの時の日本には軍隊がないし、だれももう戦争したいと考えてないし、戦争とは(西洋式の定義では)そもそも軍隊同士の激突なのですが、韓国がやったことは「漁民の拿捕」ですから。
 でも、それがあの国の“戦争”なのだということです。


 最近、中国軍の船が日本の漁船を追っていたというニュースもあり、気になることです。



憲法改正の世論調査
 これも1955年の記事です。当時も、やはり「憲法改正論議」はされていたようです。


 「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
  『創始者はだれなのか “8二飛戦法”
  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
  『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン
  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛
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“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した

2013年02月21日 | 横歩取りスタディ
 佐瀬勇次(させゆうじ、1919-1994)、千葉県出身、石井秀吉門下 


 “横歩取り8二飛戦法”は、佐瀬勇次さんが発見しました。
 戦争中、華北での4年間の軍隊生活中に思いついたんですって。実戦で初めて指したのは、1944年(まだ戦時中ですね)の奨励会での加藤博二戦。

 佐瀬さんは、先々月亡くなられた米長邦雄元名人の師匠ですが、上の棋士系統図を見ればわかるように、高橋道雄、丸山忠久、木村一基らたくさんの有名棋士の師匠でもあります。藤井猛、三浦弘行も佐瀬一門ですし、この図には載っていませんが、女流の中井広恵も佐瀬勇次の弟子です。
 「藤井システム」も「中座流8五飛」も、佐瀬一門から生まれ出たのですね!

 佐瀬勇次の順位戦の最高位はB1クラスで、1952年の1年間のみ。どうやら、B1に昇る原動力になったのが“佐瀬流8二飛”かもしれません。佐瀬さんは“8二飛”で5勝2敗と、加藤治郎氏の本には記されています。年齢は、升田幸三の1つ下となります。
 残念ながら佐瀬勇次の指した“8二飛戦法”の棋譜はみつかりません。


 ところでこの棋士系統図、佐瀬勇次の師匠の石井秀吉の師匠は、川井房郷という人物なのですが、この人がどういう人なのか気になります。ネットで調べても、わからないのです。わかったのは、名古屋生まれだということくらい。
 今の棋士は東京の棋士は3分の2が「関根金次郎一門」に属することになるのですが、この「川井房郷一門」は別系統ということになります。もとをたどれば、あるいは川井房郷氏も関根金次郎と同じ伊藤宗印(十一世名人)の門徒かもしれませんが。



 「二上達也‐熊谷達人戦」 1955年 順位戦(B1)

 今日の棋譜はこれ。
 二上23歳、熊谷24歳。“達達対決”ですね。この若さでB1クラスという前途有望な二人の一戦。

二上達也‐熊谷達人 1955年
 熊谷達人(くまがいみちひと)の“横歩取り佐瀬流8二飛戦法”となりました。

 〔 熊谷君は現役の指し盛りに顔面の奇病にとりつかれ、昭和五十二年の四月に四十六歳の若さで亡くなった人だ。大阪の旧制天王寺中学を出た秀才で、努力家でもあった。いつもにこやかな人で「極楽鳥」のあだ名があった。長考型の粘っこい将棋を指した。 〕(升田幸三 『升田幸三選集』から)
 升田と熊谷とは、とても仲が良かったらしい。
 

 先手二上達也(ふたかみたつや)は8三歩から8四飛。8四飛に、8八角成なら、「同飛」と取って、後手からの“王手飛車”の狙いは空振りになる。

 〔 二上君は攻めの鋭い棋風で“攻めの二上”と言われたが、その後どういうわけか“受け”に変わって伸び悩んだ。 〕(升田幸三 『升田幸三選集』から)
 二上のタイトル戦登場回数は26。(これは升田幸三、加藤一二三よりも多い。) 

 
 8筋は、後手から「8二歩」と歩を合わせて、図のような形になった。
 後手熊谷、ここで持駒の角を3一に打つ。
 7六飛、8四歩、3六歩、5四飛。
 3一角で7六飛とさせて、8四歩。次に8三銀とするねらい。


 5四飛の形はかっこいい。意味としては、先手の3五歩からの3筋の攻めに備えた手。
 ここから、3七桂、2四飛、2五歩、3四飛、2七金、5三角、3五歩と進む。
 後手の2四飛~3四飛がどうだっただろうか。ここはせっかくその前に8四歩としたのだから、8三銀と指すべきだったかもしれない。後手の玉はこのままでは危うい。金銀が左右に分裂しているから。


 二上は相手の動きに乗じて右金を前進させたが、これが機敏だった。
 図から、3五同角、3六金、6二角、3五歩、1四飛、4五桂。
 金が自由に動けるのも、後手が「角」を手離したため。相手の「角打ち」を怖れ心配する必要がない。それどころか二上は、熊谷の「角」を目標に攻めをスピードアップ。


 4五同桂、同金、2六歩、同飛、3四銀、2四角。
 後手熊谷も2六歩から3四銀と、技を繰り出す。この銀を同歩と取ると、2六角で後手は飛車を取れる。


 しかし二上、2四角。王手。この手があった。後手が玉を逃げれば、3四金で銀がただ取りできる。
 実戦は、2四同飛、同歩、4五銀、2三歩成、3一金、2五歩、6六飛。
 後手駒得だが…、ここからの先手二上の攻めが冴えていた。


 5二玉、3七桂、5四銀、3四飛、4四角、4三と、同銀、3一飛成、4一金、2一竜、1二角。 


 1二角。攻防の角。
 2五竜、5六歩、同飛、同角、同歩、6二玉、4五桂、7一玉。


 こうしてみると、後手の右辺の“コリ形”が痛い。
 2一龍、3二銀、4三角。

 
 4三角という手があった。(6一金の詰めろ)
 4三同銀、4一竜、6一桂、4三竜、3五角、5二金、8三銀、6一金、8二玉、3二竜、2六角打、5三桂成、同角、同桂成、同角、6五桂。

投了図
 先手は最後、左の桂馬まで寄せに参加させて、熊谷たまらず投了。 106手、二上達也の勝ち。
 この将棋は、先手の二上の攻めが俊敏だった。後手の角打ちを逆用して快勝。

 二上達也はこの年、10勝1敗で昇級、新A級八段となりました。
 一方の熊谷達人は3勝8敗、本来なら降級の星でしたが、運よく免れました。そして3年後にはやはりA級八段になりました。



 “佐瀬流8二飛戦法”は、先手の8三歩に5二飛として中飛車になりますが、すると「中住まい」に囲うことはできませんね。では玉をどう囲うか、また、2筋、8筋の歩をいつどこに打つか、それが大変にむつかしい。それを考えるのがこの後手の戦法の“楽しみ”でもあるのですけれど。




『平手相懸定跡集』の中にある“横歩取り8二飛戦法”

▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩  ▲7八金 △3二金
▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △8六歩  ▲同歩 △同飛 ▲3四飛


 この図で、先手が3四飛と横歩を取ったとき、1800年頃は、(1)3三角、(2)4一玉、(3)8八角成~4五角、(4)8八角成~3八歩、(5)8八角成~7六飛などがすでに指されていたようで、この『定跡集』に載っています。(『平手相懸定跡集』は江戸時代の将棋定跡書)
 「佐瀬流」の指し方、すなわち図ですぐに8二飛という手はこの本にはありませんが、ちょっと違う「8八角成、同銀、8二飛」の指し方は研究されているようですので、それを見てみましょう。

 図より、△8八角成 ▲同銀 △8二飛


▲8三歩 △同飛 ▲2四歩
 佐瀬流と違って、8三歩を「同飛」と取れる。
 (8三歩に5二飛の変化は後で記す。)


△3三歩 ▲3六飛 △2七角
 「2四歩」が定跡手なんですね。してみると、前回記事で紹介した「升田幸三‐塚田正夫戦」の升田2四歩は、これを知ってのものだったかもしれませんね。


▲5六角 △8八飛成
 後手の2七角に、5六角と打つ。飛車取りと同時に、2三歩成がある。


▲8八同金 △3六角成  ▲同歩 △7九飛
 後手は飛車を切って攻める。


▲6九飛 △7六飛成 ▲2三歩成 △5六龍 ▲同歩 △2三金  ▲4五角
 7九飛には、6九飛と先手で受け、2三歩成。

 これにて先手よし、だという。なるほど。



 さて、先手の8三歩に、5二飛とするとどうなるか。その変化についても考慮されています。
 △5二飛 ▲2四歩

変化図1
△3三歩 ▲3六飛 △2七角  ▲2六飛 △4五角成
 やはり「2四歩」と打つらしい。

変化図2
▲3六角 △3五馬 ▲2八飛 △2二歩

変化図3
▲6三角成 △7二金 ▲5二馬 △同玉 ▲4八銀

変化図4
 これにて先手良し



 後手にもまだ変化の余地はありそうですが、一応、1817年に出版された『平手相懸定跡集』にはこういう定跡が書かれています。
 この書物は、「大橋宗英(九世名人)の定跡書」とされていますが、実際に書いたのは宗英の門人の藤田桂立だとか。
 明治、大正、昭和初期の将棋指しはこの定跡書をよく参考にしていたようです。それで、この、先手が「3四飛」と横歩を取る将棋は、そこで後手から様々な手段があるのですが、しかしどの手段も概ね「先手良し」の変化が出てくる。そういう認識になって、昭和初期(戦前)には、もう、この型で後手が「8六歩、同歩、同飛」とすることも少なくなっていたようですね。20年とか30年とか指されなくなると、みんな忘れてしまうんですね。

 戦後、横歩取りの“佐瀬流”の発見は、先手が横歩を取ったところで、そこで「8六歩、同歩、同飛」もあるのではないか、と戦後の新しいプロ棋士たちに再考させるきっかけになったところに、おおいに意義があったのではないかと、僕は思います。


 
 1955年の広告。 新製品のラジオ、¥17,800。 超高級品だったでしょね。1960年代でさえ、サラリーマンの初任給は2万円以下だったといいますから。ちなみに、同じ1955年の広告でテレビの値段(シャープ)をみると、¥84,500になっています。 


 「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
  『創始者はだれなのか “8二飛戦法”
  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
  『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン
  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛
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創始者はだれなのか “8二飛戦法”

2013年02月19日 | 横歩取りスタディ
 1952年と1955年の朝日新聞の将棋欄のA級順位戦の観戦記を読もうと思い、図書館へ行きました。当時の将棋欄は夕刊に掲載されていました。
 上の映画の広告は1952年のもの。
 これら映画広告を見て、ついでに1954年の暮れの紙面も調べてみました。映画『ゴジラ』の広告を見てみたかったからです。
 しかし、見つかりません。考えてみれば、すべての映画の広告が新聞に出されるわけではないのですが。
 しかし、『原子怪獣現わる』という題名の映画広告があって、これが『ゴジラ』か!と、一瞬、思いました。
                                   ↓

 が、これは違いました。これは大映の配給らしいですが、アメリカのハリウッド制作の映画です。日本の東宝の『ゴジラ』は1954年11月の初上映とのことなのですが、この『原子怪獣現わる』はその1か月後の上映になります。
 そしてどうやら、この映画も、『ゴジラ』と発想がほとんど同じです。日本とアメリカとで、同時に同じような内容の怪獣映画が作られたことになるのですが、これは偶然でしょうか。偶然に同じ発想をしたとしても何の不思議もないですが、アメリカが、あるいは日本が、海の向こうからの伝え聞こえたアイデアを流用したということがあっても、これまた不思議ではありません。
 (『さいざんす二刀流』ってどんなのか気になる~。漫画キャラ“イヤミ”の源流か?)


 さて、前回記事の続き、1950年代に少し流行った“横歩取り8二飛戦法”のプロ棋士の棋譜を見ていきます。
 今日の棋譜は次の2つ。
 (1)升田幸三‐塚田正夫 1952年 九段戦
 (2)升田幸三‐松田茂役 1952年 順位戦(A級)

 

(1)升田幸三‐塚田正夫 1952年 九段戦

 先手が「3四飛」と‘横歩’を取ったところ。
 そこで「8二飛」と引くのが、“横歩取り8二飛戦法”。


 その「8二飛」に対しては、5八玉や、8七歩とする指し方もあり、その棋譜を前回は紹介しました。しかし一番人気の対応は、図の「8三歩」。
 「8三歩、5二飛、2四歩」と進みました。
 (「8三歩」を同飛と取るのは、2二角成、同銀、3二飛成で後手負け。)


 「2四歩」が升田幸三の決断の一手。「これで決めてやる!」というような手です。
 狙いは、次に3二飛成、同飛、2三金。
 単純なねらいですが、うまくいくのでしょうか。
 塚田さんは、3三角と指しました。これで先手3二飛成はなくなりました。次に2二銀とすれば、逆に升田の打った「2四歩」が負担になりそうです。升田、どうする?


 升田幸三、「3三飛成」!
 驚愕の一手ですね。「同桂」に――2三歩成、同金、2四歩を入れて――


 「3四角」。
 しかしこれで攻めが続くのでしょうかねえ。
 僕は思いました。3二銀で、先手は次の攻めがないじゃないか、と。
 3二銀には、きっと、2三歩成、同銀、同角成、同金、2四銀と攻めるのでしょうね。しかし攻めが細すぎる…。
 塚田さんはしかし、3二銀とは指さず、「2七飛」でした。
 2七飛に、升田さんは4三角成~5二飛と飛車を取って――


 「2八飛」と飛車を合わせます。
 以下、同飛成、同銀、4六歩、同歩、4七角、2三歩成、同銀、3一飛から攻め合いましたが――

投了図
 52手、塚田正夫の勝ち。
 升田の才能、カラ回りの一局、でした。

 1か月前の「塚田正夫‐花村元司戦」では、後手の花村元司が“8二飛戦法”を仕掛けたのですが、それを「これは有力」と思ったようです。
 今度は塚田正夫が後手番で“横歩取らせ8二飛戦法”を升田幸三を相手に仕掛けたのでした。そして、このとうり、結果は成功しました。(本局は戦法がどうこうより、升田さんの自爆っぽい内容ですが。)
 前局の「塚田正夫‐花村元司戦」は、先手の塚田さんの攻めが炸裂しましたが、序盤の内容としては「先手指しにくい」という塚田さんの感触だったようです。

 

伊藤宗看‐大橋宗英 1788年
 升田さんの「2四歩」は、失敗でしたが、あるいはこの対局の棋譜が頭の片隅にあったかもしれません。
 この図の将棋は、対局日が11月17日なので、「御城将棋」の対局ですが、12歳年上の宗英が後手番で右の香車を落としています。今では「右香落ち」の将棋は全く指されることはないので、この将棋も“横歩取り”ではありますが、序盤の研究としてはまったく参考にはなりません。後手の「右香」がないので、「9六歩~9七角」で敵の飛車先を受けるような手が成立しています。この将棋は、先手伊藤宗看の勝ち。
 この時は大橋宗英が32歳、伊藤宗看20歳。宗英は11年後に九世名人となり、さらにその10年後に宗看が十世名人になります。(谷川浩司―羽生善治のような年齢差です。)
 ところで、“名人伊藤宗看”は、歴史上、3名存在しています。初代伊藤宗看(三世名人)、三代伊藤宗看(七世名人)、六代伊藤宗看(十世名人)で、この三人はいずれも“強い名人”でした。詰将棋『将棋無双』で有名なのは、この真ん中の三代宗看。
 で、この大橋宗英と対戦している“伊藤宗看”は、六代宗看。
 この、初代、三代、六代、というのは、「宗看の○代目」ということではない。宗看はこの三人以外には存在しておらず、二代目宗看とか五代目宗看とかはいないようだ。「三代」とか「六代」というのは、伊藤家三代目当主、六代目当主、という意味であって、二代目は宗印(五世名人)だし、五代目もやはり宗印なのである。(ただし五代宗印は名人にはなっていない。)



 さて、盤上の将棋の話に戻って、1952年の当時の観戦記を読みますと、この戦法の注目点は、「8二飛」にではなくて、その前の、「8六歩、同歩、同飛」とする指し方にあったようです。この指し方が新鮮で、「成立するかどうか」がテーマとなっていたようです。
 すなわち、

  初手から、7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛

 その局面で、「8六歩、同歩、同飛」とするのが、どうか、と。
 当時はここでは「2三歩、3四飛」と進んでいたのです。(または先手は横歩を取らず飛車を引く。) この“2三歩を打たずに8六歩”がこの時期生まれた新しいテーマだったのです。

 とはいえ、この手(8六歩、同歩、同飛)は江戸時代、それも18世紀の昔から指されています。
 たとえばこの一局。

伊藤寿三‐徳川家治 1775年
 「徳川家治」とは、江戸幕府第十代将軍徳川家治のことです。この人は聡明な人で、趣味も多く、将棋が大好きでしかも強かった。
 この対局の時は38歳ということになります。相手の伊藤寿三は、詰将棋の神様とも称される伊藤看寿(かんじゅ)の息子です。
 こんなふうに、18世紀に、徳川家治がすでに「8六歩」を指しているわけです。凄いですね、240年前ですよ。

 この後も少し見てみましょう。
 先手の寿三は「3四飛」と取ります。


 対して十代将軍家治は、「8八角成、同銀、4五角」と指しました。
 今で言う「4五角戦法」です。徳川家治はこの「4五角戦法」を先手後手両方をもって何局も指しています。「極めてやろう」と思っていたんですかね。
 現代の眼で見ると、この図では先手が良しとされています。4五角、2四飛、2三歩、2八飛となって、後手は攻めが続かない、というのが現代の定跡。

村越為吉‐花田長太郎 1920年
 現代の定跡は、横歩取りの「4五角戦法」を使うなら、8八角成から角交換した次に「2八歩」と打つことを示しています。
 1920年に花田長太郎が、「2八歩」を指しています。「村越為吉‐花田長太郎戦」。花田長太郎23歳の時の将棋。(花田長太郎は関根金次郎十三世名人の弟子で、塚田正夫の師匠です。)
 「2八歩、同銀」としておいて「4五角」と打つ。これならば、上で示した“2八飛”とする手が先手にはないので、後手もチャンスがでてくるというわけ。今でもこの手が最有力手として指されています。(ただし先手が正確に対応すれば後手が勝ちにくそう、というのが現在の評価。)
 この「2八歩」が、もしかして花田さんの考えた新手なのかとも思いましたが、違いました。「2八歩」はもっと前からあるようです。大橋柳雪(おおはしりゅうせつ、1794 ― 1839)の定跡書に、すでに記されているようですね。
 「村越‐花田戦」、この将棋は先手の村越為吉が勝利しています。花田長太郎の「4五角戦法」、不発の終わりました。
 それでなのかどうなのか、これより以後、ずっと「4五角戦法」は指されることもなく、その前の「8六歩、同歩、同飛」までも忘れ去られていたわけです。
 (「4五角戦法」は70年代になってプロ公式戦に現れる。)


 後日注: 後で判ったことですが、花田長太郎はこの対局前まで、なんと、22連勝の記録更新中だったようです。ここで村越に敗れて連勝ストップという話題の一局だったみたいです。 



 塚田正夫「後手が同形に8六飛と出るのは、従来の横歩取り先手よしを覆す新定跡になるかもしれない。」(1952年9月)


 
(2)升田幸三‐松田茂役 1952年 順位戦(A級)

 後手松田茂役(まつだしげゆき、元々松田茂行だったが晩年に改名したらしい)が“横歩取らせ8二飛戦法”。 升田幸三、受けて立つ。


 さて、先手は「8四飛」。
 「あれっ? 9五角で、「王手飛車」じゃないか!!」
 8八角成、同銀、9五角には、7七角、8四角、1一角成で、先手良し、なのでしょうか? いやいや、とても先手良しには見えない。
 前回記事で紹介した「松浦卓造‐高島一岐代戦」でも同じように「8四飛」と指しているし、これはすると両対局者の“うっかり”などではない。いったいどういうことなんだ――!? 
 と、僕は悩みましたが、しばらく考えて自己解決。8八角成には、“同飛”で何事も起こらない。
 こういうところが、素人の「序盤研究」の意義といえます。これが実戦でしたら、勘違いするか、時間を序盤で浪費してしまっているところです。


 後手の「7四歩」はなかなか凡人には浮かばない手です。同飛と取らせて、7三金と活用する。「どうせ歩損しているんだ、1歩も2歩もいっしょだ」ということか。
 松田茂役は「天才」とか、「名人候補」と呼ばれていました。この時、31歳。


 升田、角を換えて、7七桂。
 3三桂、4八銀に、松田はここで「8六歩」。
 以下、6五桂に、6四金と出る。


 この将棋を別室で研究していた者達は、「先手有利」と断定していた。先手の攻めを後手は受け切れない、と。
 升田も、初めはそう思っていた。8二歩成、同銀、2二飛成、同金、5三銀、6五金、5二銀成以下、攻めきれる、と。
 ところがよく読むと、5三銀に、3二飛とされた時に、6四銀成が、8七歩成で一手負けになると気づいた。ということで、升田は苦吟した。約2時間の長考の末、6六歩と指した。しかしここから形勢は後手に傾いていく。
 局後の講評で、木村義雄十四世名人は、6六歩では、3五角で先手良しと見解を述べている。しかし升田は「5三角には、6二角があってまずい。」と言っており、つまり木村名人の言う3五角にも、やはり6二角がある。(木村名人はこの年の春の名人戦で大山康晴に敗れ、引退している。)
 まあつまり、その前の、松田茂役の8六歩~6四金がすぐれていたのである。

 (後日注; 3五角、6二角、同角成、同銀、6六歩としておけば、次に8二歩成があるので先手良し、としている解説も別にあった。)

 6六歩、2三歩、2八飛、4四角、8四角、4一玉、7三桂成、と進む。


 松田、5五歩。松田の「中飛車」が働いてきた。


 飛車角をさばいて、後手好調。升田の飛車は働きのない駒になってしまっている。
 5六歩に、5四飛と引いて、4六歩には、5五金と出る。5五金は角取りになっている。
 7四歩、4六金、6五歩、7二歩。


 松田7二歩。これで持駒を補充する。
 8二歩成、7三桂、7一と、7四飛、7五銀、4四飛。


 升田は銀を得たが、その銀を7五銀と「打たされ」た。
 松田は戦力を4筋に。
 
投了図
 松田茂役の勝ち。 松田さんの会心の指し回しでした。


 この年度のA級順位戦は、升田幸三が4戦全勝で走っていましたが、ここで松田茂役が土をつけました。この年度は結局、升田、塚田、松田の三者が並び、プレーオフとなり、名人挑戦権は、升田幸三が獲得しました。
 実はその名人挑戦権争いと名人戦の将棋は、本ブログですでにいくつか紹介済みです。
 この年度は、A級に花村元司と小堀清一が初参加した年であり、前に紹介した“横歩取り小堀流4二玉”が流行した年なのです。
 つまり、トップ棋士達が、横歩取りの新らしい二つの風、“小堀流4二玉”と“8二飛戦法”を指し始めたのが、この1952年度なのでした。


 小堀流4二玉戦法の記事
  『横歩を取らない男、羽生善治 3
  『横歩取り小堀流4二玉戦法の誕生
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「将棋の虫」と呼ばれた男
  『その後の“小堀流”と、それから村山聖伝説



 では、この“横歩取り8二飛戦法”を流行らせたのは誰なのか。

 この対局の観戦記に、升田幸三がこう言ったと記されています。
「3四飛と横歩を取り、8二飛と引かれた局面は、最近塚田君と二局、○○君と一局経験している。私の感じでは先手指せると思ったのでまた横歩を取った。」

 この「○○君」というのが、この“8二飛戦法”の創始者なのです。
 誰なのかは、次回記事で明らかにします。



1955年のソ連の水爆実験の記事


 Wikipediaで調べましたら、ハリウッド制作映画『原子怪獣現わる』の項目がありました。米国では、日本の『ゴジラ』初公開よりも1年前に公開されており、ということは、「日本で発想→アメリカがパクッた」という可能性は消えました。逆は、しかし残っています。
 日本の東宝が『ゴジラ』を構想するきっかけは1954年3月のビキニ環礁の水爆実験ということなのですが、アメリカはそれよりも前に「核実験によって復活した恐竜」という設定の映画を作っているわけです。
 もともとこの『原子怪獣現わる』のストーリーの原作はレイ・ブラッドベリの短編小説『霧笛』ですが、恐竜が「核実験によって復活する」という設定は、映画で付け加えられた設定のようです。



 「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
  『創始者はだれなのか “8二飛戦法”
  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
  『1955年 プロレスごっこ、将棋、李承晩ライン
  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛
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“横歩取り8二飛戦法”を指してみた

2013年02月14日 | 横歩取りスタディ
 昨年から「横歩取り」を勉強しようと思って調べていたら、“8二飛”とする戦い方があることを知りました。それでためしに、使ってみました。
 上の図は、「わたし」の実戦。後手番が「わたし」。
 初手より、7六歩、3四歩、2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金、2四歩、同歩、同飛、8六歩、同歩、同飛、3四飛、と‘よこふ’を先手が取った時に“8二飛”とする。そういう戦法です。
 (この手では、一番多いのが「3三角」(内藤流空中戦法)、他には、下平幸男さんが最初に指した「3三桂」戦法、それから、「8八角成、同銀、7六飛」の「相横歩取り戦法」などがあります。)

 で、先手「あいて」(仮)氏はどう指したか。
 「9六歩」と指しました。
 この将棋はネットの将棋倶楽部24の早指(持ち時間1分、あとは一手30秒)なので、この時はこの「9六歩」の意味を考えることもなく、後手番の僕は次の手を指したのですが、今考えると、「9六歩」は、次に7七桂の「ひねり飛車」をねらった手ですね。(9六歩とせずに7七桂なら8七歩で先手の角が死んでしまいます。)

 僕は、「8八角成、同銀」に、「3三金」と指しました。


 「3三金」は、先手「3六飛」に、「2二飛」が狙いです。
 以下、「2八歩、2七歩、3八金、2八歩成、同銀、2六歩」。


 「2六歩」では、2七歩もあるかもしれません。2七同銀なら、2八歩、同金、3九角。3九銀には2八角と打ち込むのです。
 「2六歩」は、次に露骨な「2七角」がねらい。さあ、先手はどうするか。

 「2三歩、同飛、4五角」と進みました。


 ここから「3四歩、6三角成、6二銀、8一馬、2七角、2四歩、同飛、2七銀、同歩成」が実戦の進行です。
 僕はこの対局時、この“横歩取り8二飛戦法”を特に研究して指したわけでもなく、知識としては「8二飛という指し方がある」ということくらいであとは白紙の状態でした。なので、先手の「6三角成」にどう対応するのがよいのか、この時初めて考えたわけで、どう指すか迷いました。7二銀や7二角は、5三馬が3一の銀取りになっているのが気に入らない。そこで「6二銀」と指しました。

 先手の「8一馬」に、「2七角」と打つ。

 「2七角」に、3九金は、3五歩(同飛なら、8一角成で角が取れる)があります。対局中はそれで後手がいいかと思っていたのですが、今見ると、2七角、3九金、3五歩、2七銀で、同歩成なら3五飛、3六歩なら同銀で、この変化は後手むしろ自信なし。

最終図
 ここで先手の「あいて」(仮)氏、時間切れとなり、終局。 
 後手の「わたし」の勝ちとなりました。

 相手の考慮中に、「先手が2五歩、同飛、1六角なら、8五飛が8一馬取りになっているから良し、2五歩、同飛、2六歩には、8五飛と2六同ととどちらが良いか迷うな…」というようなことを考えていました。
 先手が時間切れになったのだから、後手の「作戦成功」――ということかなとその時は思ったのでしたが…。

 もしこの最終図から、「2五歩、同飛、1六角、8五飛」(参考図a1)と読み通りになったとしまして――

参考図a1
 この先を考えてみますと、「2七角、8一飛、2六飛、2五歩、同飛、2四歩、8一角成、2五歩」。

参考図a2
 これは後手が銀桂交換の駒得ですが、先手は手番を握っていて、馬をつくっています。これは優劣不明。
 途中、8一角成のところで、飛車を取らずに、5五飛というような手もあり、その選択権を持っている先手のほうが有望な気もします。

 やっぱり「実際に指してみる」というのは一番の勉強法ですね。それを後でもう一度見るというのも大事。なかなかできませんが。



 この“横歩取り8二飛戦法”は、1950年代にプロ間で指されていた指し方でして、その実戦棋譜を見てみましょう。次の3つを用意しました。
 (1)大山康晴‐丸田祐三 1956年
 (2)塚田正夫‐花村元司 1952年
 (3)松浦卓造‐高島一岐代 1956年


(1)大山康晴‐丸田祐三 1956年
 
 この将棋は上の「わたし」の実戦と似た進行になります。
 後手の丸田祐三、“8二飛”と飛車を引く。
 ここで上の将棋では「9六歩」でしたが、この将棋の先手の大山康晴は違う手を指しています。


 大山さんは「5八玉、3三角、8七歩」と指しました。
 ここから8八角成、同銀、3三金以下――あとは「わたし」の実戦と同じに進んでいます。


 同じですね。
 3四歩、6三角成、7二角。
 7二角と丸田さんは指しました。


 5三馬、3六角、同歩、4二銀、6四馬、6二銀、7九銀。


 飛車角交換ですが、先手は馬をつくって「歩得」。 先手優勢に見えます。
 図の7九銀は後手の飛車打ちにあらかじめ備えた手。


 先手大山は6六角と打ちました。相手の飛車を間接的ににらんでいます。
 後手は歩切れで、大山さんが悠々角を打ったのですから、僕はこれで先手大山の押切り勝ちになると思ったのですが…。
 ここから、4五銀、同桂、同金。後手の丸田、勝負に出る。
 大山、5七馬。以下、5四桂、5五角、同金、同歩、4五桂。


 4八馬、5六飛、6七玉、3六飛、3七歩、6六飛、同馬、4九角。


 5六玉、6六桂、4八金、7八桂成、同銀、7六角成、6七金、5九角、5八金、7七角成、5四飛、5三桂。

投了図
 まで丸田祐三の勝ち。
 一気に後手丸田が攻め倒してしまいました。 「疾風の寄せ」でしたね!

 馬をつくったところでは先手良しと思うのですが。

 それと、こういう分かれになるのなら、後手の「8二飛」に対しては、大山さんの指した「8七歩」よりも、僕の実戦で「あいて」氏の指した「9六歩」のほうがよりgoodな手に思えます。「一歩」を多く手持ちにできますから。

 なるほど、「9六歩」、いい手っぽいですね。



(2)塚田正夫‐花村元司 1952年

 では次の棋譜。塚田正夫‐花村元司戦。後手の花村さんが“8二飛戦法”です。
 この将棋も、大山‐丸田戦と同じように、先手が「8七歩」とした将棋です。こちらのほうが古い棋譜です。


 ここで花村は、7二金。(前局では2七歩でした。)


 そしてこうなりました。
 ここで先手の塚田は激しい攻めに出る。


 なんと、8三飛成!
 同金に、5六角、8二金、2三銀。 これで後手の飛車を捕獲。
 同飛、同角成、3一銀。 

 後日注: 観戦記によれば、塚田さんも花村さんも8三飛成の攻めに気づいていなかった。花村が9四歩と指した後に、塚田が気づいた。


 とりあえず花村は、先手の攻めを止めた。馬はつくらせたが、後手は駒損はしていない。
 この将棋はA級順位戦での対局。1944年に「五段」を特別に認められプロ入りした花村元司はこの年(1952年)にA級八段となりました。塚田38歳、花村34歳の対戦。


 塚田、今度は左から攻める。7三馬(桂馬を取った)と馬を切ります。
 同金、7一飛に、花村は6二玉。 9一飛成に、6一飛。
 8二竜、7二金、9三竜、8二角。


 塚田、飛車を逃げずに、8五桂。
 9三角、同桂成、8四歩、8六歩、5一飛、8五歩。


 8六歩~8五歩と歩を伸ばします。僕なども、こういう手が1秒で見えるようになると良いのですが。


 後手花村も必死で攻め味をつくろうとしますが、先手塚田もそれを許しません。 
 どちらも、「さすが、粘り強い!」という感じ。
 この年、塚田正夫は大山康晴を3―2で破って「九段位」のタイトルを獲得しています。(「九段位」は現在の竜王位の前身。)その後4期「九段位」を保持し「永世九段」となる。


 8八角に、8九金。 塚田は花村の攻めを切らせば勝ち。
 図から、7八歩成、8八金、同と、2六香。 後手には受ける「歩」がない。
 5七桂成、同金、2四歩、同香、3三金、7七馬。

投了図
 ここで花村、投了。 塚田正夫の勝利。


 このように、引き飛車にして、飛車を振って使うのが“横歩取り8二飛戦法”。






(3)松浦卓造‐高島一岐代 1956年
 
 3つ目に紹介するプロ実戦譜。先手の松浦卓造、ここで「8三歩」と指した。
 実は、プロの実戦ではこの「8三歩」が最も多い。
 「8三歩」を同飛と取るわけにはいきません。取ると、2二角成、同銀、3二飛成で後手崩壊です。これを取れないのは後手悔しいような気がしますが、それは承知の上での“8二飛戦法”なので、本当はちっとも悔しい気持ちはないのです。


 後手の高島一岐代(たかしまかずきよ、1916-1986 大阪府出身 藤内金吾門下)は、「5二飛」。
 先手松浦卓造(まつうらたくぞう、1915―1977 広島県出身 神田辰之助門下)は玉を右に囲った。


 後手はさらに飛車を2筋に持って行き、「相振り飛車」になった。通常の「相振り飛車」と同じに見えるが、実は決定的に違うことがある。序盤に先手が「3四飛」から‘横歩’を取ったので、先手が「一歩得」になっているということ。
 その「歩得」を生かして、先手が攻めた。6四歩、同歩、6五歩、同歩、6四歩。これは俗に“ウサギの耳を掴む”という攻めだ。これを“ウサギの耳”というのは、いったいいつから言い出したのだろう? 江戸時代からか、昭和からなのか。


 後手に歩を渡したので、その歩を使って、今度は後手が2筋から攻める。

投了図
 先手松浦の勝ち。

 この将棋のように、先手が「歩得」を生かして先に攻める展開になるならば、後手のこの戦法は失敗です。


 まだほかにも“横歩取り8二飛戦法”のプロの実戦棋譜はあるので、次回にそれを紹介します。




  「横歩取り佐瀬流8二飛戦法」の本ブログ内の記事
  『“横歩取り8二飛戦法”を指してみた
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  『“それ”は、戦争中に佐瀬勇次が発見した
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  『“佐瀬流”vs郷田新手2四飛
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「9六歩型相横歩」の研究(4)

2013年02月09日 | 横歩取りスタディ
 「相横歩取り」は、江戸時代から指されていまして、九世名人大橋宗英(大橋分家当主六代目)の『平手相懸定跡集』に記されています。この書物によれば、「相横歩取り」は先手が有利になるとされているようだ。
 宗英は1799年から10年間、名人を務めました。よく、「近代将棋の祖」と紹介される人物です。江戸時代の名人の中ではだれが一番強かったか、というような話題になれば、まず名前が挙がるのがこの人、宗英さんです。
 そういうことで、一応、プロ棋士は“相横歩取りは先手が有利”、とそう信じていました。なので、先手番がまず「3四飛」と横歩を取った時、「8八角成、同銀、7六飛」と後手も横歩を取るという「相横歩取り」はプロ間では明治、大正、昭和初期と、この時代には指されることはまず、なかったのです。その定跡をまったく疑わなかったというようなことではないと思いますが(100年以上も前の定跡ですしね)、考え直すきっかけが特になかったということでしょう。
 しかし、戦後、木村義雄の後に実力制度のもとで2期名人になった塚田正夫が、1960年代、70年代に後手番でよくこれを指しました。それで「相横歩取り」の戦型は「塚田流」と呼ばれるようになったのですが、塚田元名人がこれを時々指すので、他の各プロ棋士たちも、塚田と対戦するときのために、この「相横歩定跡」を、改めて見直す必要が生じてきたのでした。“きっかけは塚田正夫”ということです。

内藤国雄‐塚田正夫 1959年

 1959年の内藤国雄‐塚田正夫の王将戦、これが塚田が「相横歩取り」をプロ公式戦で指した最初の将棋のようです。内藤国雄はプロ棋士になったばかりの四段。塚田さんは元名人の九段ですから、ふつうならまず対戦することはないのですが、おそらく新人の内藤さんが勝ちつづけてこの対局が実現したのでしょう。
 図から、7四同飛、同歩、8三飛、8二歩、8六飛成、と進みました。そしてこの将棋は、塚田が九段の貫録を見せ、勝利しました。
 なお、大橋宗英『平手相懸定跡集』の定跡手順は、図から7四同飛、同歩、8八飛、です。さらに進めると、8二歩、8三歩、7二金、8二歩成、同銀、5五角、2五飛、8二角成、8七歩、同歩、8六歩、同飛、8五歩、7二馬(以下略)、のように進んで、「これにて先手良し」と結論されているようです。


 そういう時代の背景があって、前回紹介したように、1962年棋聖戦、塚田正夫‐大山康晴で、「9六歩型相横歩取り」が指されたのでした。これもまた、仕掛け人は塚田正夫なのです。

 ということで、今回は「9六歩型相横歩」の第4回目、お贈りする棋譜は次の3つ。
 (1)升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦七番勝負 第1局
 (2)升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦七番勝負 第5局
 (3)升田幸三‐塚田正夫戦 1965年

 このうち、(1)(3)が「9六歩型相横歩」の棋譜です。

 

(1)升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦七番勝負 第1局

 トップレベルの棋士というのは、40代になっても強い。この時は升田46歳、大山41歳。
 しかし升田さんの46歳という年齢は、タイトルを獲るには最後のチャンスかもしれない、というような年齢ではあります。いつの時代になっても升田さんより大山さん方が5つ若い、というのは、“なんか、ずるい”という感じがします。これも持って生まれた運ですねえ。

▲7六歩 △3四歩 ▲9六歩 △8四歩 ▲2六歩 △8五歩  ▲2五歩 △3二金
▲7八金 △8六歩 ▲同歩 △同飛  ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △7六飛

升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦1
▲2二角成 △同銀  ▲3四飛 △3三銀 ▲8四飛 △8二歩 ▲5八玉 △7二金
▲3八金 △8三歩
 升田〔 第一局はたいへん珍しい横歩取りという戦型になった。 〕


▲8五飛 △2六飛 ▲2八銀 △2二飛  ▲7七桂 △5二玉 ▲8六飛
 大山は8三歩で飛車を追います。先手は飛車をどこに引くか。
 升田さんは8五飛としました。
 私見ですが、この戦型は先手なら「8六飛」、後手なら「2四飛」の浮き飛車がよいように思います。しかしこの場合、後手の飛車が7六にいるので8六に引けませんね。
 升田さんは、後手の2六飛に、2七歩とすぐには打たず、2八銀。このあたりが序盤に鋭敏な升田幸三の工夫が見られます。
 先に「8五飛」と中段に構えたのも、すんなりと後手に「2四飛」の形をつくらせないということでしょう。


△4四銀 ▲2七歩 △8二銀  ▲1六歩 △7四歩 ▲9五歩 △3三桂
▲6八銀 △7三銀  ▲3六歩 △6四銀
 ここで先手は「8六飛」と構えました。
 升田〔 △4四銀で△2六歩が気になるが、それは▲2七歩△同歩成▲同銀でお手伝いになる。そこは抜かりない。 〕


▲3五歩 △2四飛
 この将棋は、先手の升田幸三は「6八銀型」で構えています。この戦型は先手の左の銀は、後手の銀に対して出遅れる運命にあるので、それならいっそ「6八銀」のままの方がよいかもしれません。このほうが守備は堅そうですし、飛車の横利きも通っていますし。ただ問題は、攻めがあるかということ。先手からの攻めがないと、じわじわと後手に攻め形をつくられて勝負どころもなく負けてしまいそうです。
 升田幸三はどうしたか。 3五歩と指しました。
 升田〔 次の▲3四歩を防ぐには△2四飛はこの一手。 〕


▲2六飛 △2五歩  ▲3六飛 △5四角
 升田〔 ここで二つの順に分かれるので迷った。結局は本譜の▲2六飛を選んだのだが、今こうやって局面を見ると、この順は誤った。
 ここはもう一つの順である▲8四歩がよかった。△8四同歩と取るなら▲同飛△8三歩▲7四飛となるが、これは歩の食い逃げで問題にならない。
 そこで▲8四歩に対しては7五銀だが、以下▲8三歩成△8六銀▲7二とと進行する。
 一日目からこうまで激しくするのは、と思って躊躇したのだが、こう指しておれば一手勝ちの将棋だったようである。 〕


▲8六飛  △3五銀 ▲3七銀 △1四歩  ▲8五桂 △8四歩 ▲7三歩
 5四角のような角打ちは横歩取りではよく出てきます。しかしその角打ちを升田さんは軽視していたのかもしれません。先に持ち角を打つとその角がいじめられる展開になるのがいやなのですが、この大山の角は二枚の銀に守られてその心配がありません。
 升田〔 ▲8五桂以下、やや強引な感じではあったが、攻撃にふみきった。 〕


△7一金 ▲9三桂不成 △同桂  ▲8四飛 △8二歩 ▲9四歩 △2六歩
▲同歩 △同銀  ▲4六角
 升田〔 ▲8五桂以下は、作戦に齟齬を感じた焦りからだが、これでなんとか指せるという読みもあった。しかし、△2六歩から反撃されてみると事態は容易ではなかった。 〕


△3七銀不成 ▲2四角 △3八銀不成  ▲3四歩 △7五銀
 升田の苦しい将棋になった。しかし――
 升田〔 大山君に△7五銀という悪手が出た。 〕


▲3三角成 △4二金打 ▲8九飛 △8六桂 ▲8八金 △3六角  ▲4二馬 △同金
▲3七金 △2七角打
 升田〔 すかさず▲3三角成と乗じて△8四銀と飛車を取っているひまがない。 〕
 この瞬間の3三角成を大山名人は見落としたようだ。3三角成は5一飛以下の詰めろになっている。大山、4二金打。

 
▲3三歩成 △4九銀打 ▲同飛 △同銀不成 ▲6九玉 △3三金 ▲2二飛 △3二歩 ▲3九桂
 逆転したか――とも思ったが、そうではなかった。
 升田〔 私などは悪手を指すと、とたんに顔に出してしまうが大山君はポーカーフェイスだ。何くわぬ顔で指し続けるものだから、相手は自分の読みに自信をなくしてしまうらしい。私は大山君の子供の頃から面倒をみていて、彼の性格は知りつくしているから、顔色にだまされて形勢判断を誤るというようなことはないが…。 〕
 ▲3三歩成では、▲5六歩と突くべき、それでも後手良しだが、▲3三歩成は負けをはっきりさせた、と升田は言う。


△3八角成 ▲3六金 △3九馬 ▲2一飛成 △7六桂  ▲4一銀 △6二玉 ▲5一角 △6一玉
▲3三角成 △5八銀成  まで102手で後手の勝ち
 升田〔 この将棋は持時間の十時間をいっぱい使って頑張ったが、どうも読みが空転している。 〕

投了図

 という内容で、まず大山十段が1勝目。



(2)升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦七番勝負 第5局

 これは「9六歩型相横歩」とはまったくつながりのない、中飛車の戦型になるのですが、内容が面白いので紹介したくなりました。

 大山3-1のスコアで迎えた第5局です。升田幸三の先手番。
 この七番勝負では升田幸三が中飛車にする将棋が多いです。振り飛車では中飛車と向かい飛車が多かったのが升田幸三。
 升田〔 前局は大山君にではなく、完全に自分に負けた。終了後の当夜はなかなか寝つけなかった。しかし十日間の休養で体力も若干回復して気力も戻ってきた。借りは必ず返す固い決意だった。それも同じ中飛車で破るつもりであった。 〕

升田幸三‐大山康晴 1964年 十段戦5
 序盤に変化をつけるのが好きな二人。升田はわざと玉の移動を後回しにする。6五歩とやってきても大丈夫、とみている。そう升田が読んでいるとわかっていて大山は6五歩。誘いに乗って、それで升田が負けたら、ダメージはでかい、ということだろう。
 6五歩、同歩、8八角成、同飛、2八角。
 そこで升田、1八香。 1九角成、3九玉。


 これが升田の予定の受け。もちろんこの後も読んでいる。
 4四歩に、3六歩。これは次に3七角と合わせて大山の馬を消す狙い。後手の馬が消えれば、先手に「歩得」が残る。これは必勝に近い。
 ということで、5五歩、同歩、4五歩、同歩、5五馬と進む。


 升田、7七角と角を合わせる。同馬、同桂、5五角。
 升田〔 (7七角に対して)△4五馬なら、▲5六銀左△4四馬▲5五銀△3三馬▲5四歩で問題にならない。 〕
 後手5五角に、先手は、7八飛などと受けると8六歩があるし、6八金では飛車の横利きが止まってしまう。
 升田は5九角と受ける。
 大山の1九角成に、3七角。


 このあたりまですべての変化を読みに読んで升田幸三元名人は、大山の仕掛けを誘ったわけです。「序盤の升田」の凄さです。ただ、これだから終盤でエネルギーが切れる。この将棋も大山が仕掛けを見送っていればこれらの読みはすべてまぼろしに終わっていた。大山が仕掛けたのは升田への“やさしさ”か、それとも一度はやさしくしておいて後でダメージを与えるという、高等な悪魔的戦略か。
 3七同馬、同桂、5七角、4八金、2四角成、5七角。


 升田〔 大山君としては、▲5七角に対しては△3三馬と引きたいところだが、それなら私は▲6六角と出る。△同馬▲同銀△6七角は▲5八角と合わされ無意味なので、△4四歩とでも打って頑張るよりないが、そこで▲5八飛と回って、歩切れの大山君は抵抗しようがないのだ。 〕
 ということで、大山は1四馬。仕方ないとはいえ、これはつらい。つらいけれども、それでも平気で指し続けるのが大山康晴という怪物。


 大山名人は馬をつくってはいるが、働きが悪い。先手の生角のほうが明らかに働いている。
 それになんといっても先手は「二歩得」である。
 形勢は大差。
 序盤で将棋をつくり、優勢を築いて、あとは相手の抵抗を粉砕する、というのが升田将棋。ただし大山相手の場合は、しばしば失敗するのであるが。
 ということで、「升田ほぼ勝ち」という形勢ではあるが、だからこそ慎重にと升田は駒を進めた。「将棋は我慢」なのである。


 升田〔 ここで頭に血がのぼると、とんでもないポカをやることになる。とにかく一手一手に少考を重ね、慎重に指した。 しかし悪い癖というのはそう簡単に直らないようで、再度の6四歩に対する5五角は軽率だった。 〕
 図では、9一と、6五歩、9三角成でよかったという。
 実戦は、5五角、6五歩、7三と、6四飛…


 升田〔 ここまできたら何手かかっても勝つつもりだ。大山君とやるときには、焦りは禁物なのである。 〕
 3六桂、4二と、同金、5六金、4六馬、同銀、6九角、2三銀、同玉、4五角
 升田〔 5六金が受けの決め手である。 〕


 王手飛車取り♪


 139手、升田幸三の勝ち。

 これで十段戦七番勝負のスコアは大山の3-2となりました。

 この将棋は、大山が升田の誘いに乗って仕掛け、升田の読み通りに中飛車優勢となり、そのまま先手が押し切って勝利しました。升田幸三の快勝でした。
 しかし、全盛期の大山康晴の“余裕”も感じられる、という気もしました。3-1なので、升田の誘いとわかっていて仕掛け、不利になってもそれでも勝つチャンスをうかがっている。こういう将棋で升田の集中力が切れてポカの出た将棋が何局もあるわけですから。
 まあでも、升田の用意した序盤の角打ちのやりとりは面白かったですね。「面白い」ということになると、やっぱり升田幸三の勝局になるんですね。

 この1964年度の十段戦は次の第6局を大山が勝ち、4-2で防衛しました。



(3)升田幸三‐塚田正夫戦 1965年

升田幸三‐塚田正夫戦 1965年
 1965年十段リーグの一局。
 この将棋は先手の塚田正夫さんが、「9六歩型相横歩」を誘って、升田幸三がそれに乗ったのですが、「後手升田の模範演技をご覧下さい」というような将棋です。
 7五角をあらかじめ防いで先手が5八玉とした図。
 ここから2六飛、2八歩、7二金、3八金、8三歩が後手の抜かりない手順。
 2六飛の前に先に7二金だと、3八金、2六飛、2七歩で、これは後手「一手損」になってしまう。


 2六の飛車が追われる前に、8三歩で、先に相手の飛車を追うのがよい。このタイミングでは先手は「8六飛」とできないから。


 後手は素早く左銀を進出させ、4五銀。ここに銀がいると、先手は3六歩と突くことができず、先手の右の金銀桂が固まったまま使えない。
 後手は7四歩から銀を進出させることもできるし、7五歩もある。
 こうなると、後手にだけ楽しみのある将棋になる。


 ということで、先手の塚田正夫、こういう駒組を。先手の苦労がうかがわれる。


 先手は7四歩、同飛と、一歩をつかって、5六角と打つ。しかし、歩切れである。
 無理っぽい攻めだが、先手は攻めの糸口をつかまないと後手に完封されそうなのだ。
 升田の8四飛に、塚田7八飛。
 升田、8三角。塚田、6五歩。
 以下、8六歩、7五飛、8七歩成、6四歩、5六角、同金、6四飛、7四歩、6九飛成、7三歩成、同銀、3六角。


 3六角に、8九竜、6四桂、同歩、7二角成。
 塚田の「華麗な攻め」だが…。
 7四歩、7六飛、8六と、6六飛、3五桂、3六歩、3七歩。
 「優勢になったら平凡な手でよい」とよく言う通り。


 3七同玉、2九竜、3五歩、3六歩、まで後手升田の勝ち。


 ということで、今回で「9六歩型相横歩」の研究を終了とします。
 この「9六歩型相横歩」は、先手が望んで仕掛けるのですが、後手が手得するので、結局先手が苦しくなるように思われます。それでは敢えてこれをやる意味がないわけですが、後手番の立場で、先手側にこれを仕掛けられた時にどう対処するのがベストかを知っておく、という意味では意義のある勉強であったかなと思います。


 ちなみに、1965年の十段戦は二上達也さん(羽生善治の師匠、大山の9つ年下)が挑戦者となりました。4―3で、五冠王の大山十段の防衛に終わりました。
 この時期、最強はもちろん五冠王の大山康晴でしたが、二番手はだれかといえば、二上達也だったでしょう。三番手が升田幸三で、あとは「その他」という感じ。
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「9六歩型相横歩」の研究(3)

2013年02月03日 | 横歩取りスタディ
 渡辺明竜王が表紙の、『将棋世界』1月号。 2か月前に出たものです。
 この中に「双龍戦」という良い企画があるのですが、この1月号に載った「清水上徹‐永瀬拓矢戦」が面白かった。清水上さんは有名なアマ強豪で、永瀬さんは昨年秋に、新人王戦、加古川青流戦と2つの棋戦で優勝したばかりの若手実力者。

清水上徹‐永瀬拓矢
 こういう出だしでした。初手より、7六歩、3四歩、9六歩。
 これはお互いに振飛車党の場合、割とある出だしなんですね。先手の清水上さんも、後手の永瀬さんも振り飛車が得意です。


 ところがその後が違った。永瀬の4手目1四歩に、清水上9五歩。
 これはつまり、徹底的に「居飛車と振飛車の対抗形にはしないぞ」という清水上さんの考えてきた方針なんです。後手の永瀬さんが「対抗形」を得意としているとみた清水上さんは、向こうが振り飛車なら自分も振って「相振飛車」にする、向こうが居飛車でくれば「相居飛車」でと、そういう作戦を立ててきたわけです。
 端歩を突いた場合、この場合は居飛車が得、この場合は振飛車が得、といった細かな損得が生じますが、それが勝敗に直結する場合も、こういうトップの実力者同士ではあるのです。


 結局、後手永瀬拓矢さんは、6手目に8四歩とし、そこで清水上さんは予定通り2六歩から相居飛車の「相掛かり」の戦型となりました。
 この観戦記には、永瀬さんが「△7六飛」と横歩を取るのは、「2二角成、同銀、3四飛の相横歩をやられて損だと思った」と言ったことが書いてあります。
 ということでこの「清水上徹‐永瀬拓矢戦」は、後手が横歩を取らず8四飛と引き、図のようになります。お互いに浮き飛車です。この後も面白い展開になるのですが、興味がある方は図書館などで『将棋世界』1月号をお読みください。(結果は清水上さんの勝ち)

 ちなみに、後手の永瀬さんが8四歩とせずに、「1五歩」だったら、先手の清水上さんの予定は、2六歩だったとのことです。その場合、後手が振り飛車にすれば“対抗形”になるのですが、すると居飛車の「9五歩」と振り飛車の「1五歩」とでは、玉に近い「9五歩」のほうが働いている、というのが清水上さんの主張だと思われます。
 永瀬拓矢さん、先月の順位戦の対局(牧野光則戦)では振り飛車ではなく、相居飛車で闘っていました。「横歩取り」の後手番でしたが、この将棋は永瀬五段が勝ちました。あるいは、この清水上さんとのこの対局の経験があって、「居飛車も指しこなせないとだめだ」と思ったのかもしれませんね。



 さて、「9六歩型相横歩」の棋譜を調べています。その第3回目。
 今日は次の2つの棋譜を紹介します。
  (1)塚田正夫‐大山康晴 1962年 棋聖戦
  (2)塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦

 実はこの(2)の将棋は「9六歩型相横歩」にはならなかった将棋ですが、冒頭で紹介した「清水上徹‐永瀬拓矢戦」と同じオープニングで始まる将棋だったのです。


 
 (1)塚田正夫‐大山康晴 1962年 棋聖戦
 まず、こちらから。
 これは第1回の「棋聖位」を決めるためのリーグ戦(塚田、大山、升田の三者によるリーグ戦)の一局。


 おそらくはこれがプロ公式戦初の「9六歩型相横歩」。仕掛け人は塚田正夫だったのですね。
 ここから、8八飛、7二金、3八金、2六飛、2七歩、と進みます。
 8八飛と先手が引いたのは、後手からの7五角を避けるためで、この手の代わりに5八玉も考えられます。
 後手は「7二金、3八金」としてから、2六飛と回りましたが、これは後手一手損になります。


 というのは、先手はすでに3八金としているので、2六飛に、「2七歩」と打てる。「7二金、3八金」の手の交換の前に2六飛なら、先手は2八歩とするしかない。この形は2筋を守るため、2七歩とする手が後で必ず必要となるので、2八歩と打たせる方が結果的に一手、後手は得になるのです。
 まあ、後手の大山康晴は序盤のその程度の損得は気にしていないかもしれません。
 大山康晴はこの時、名人、十段、王将、王位とすべてのタイトルを保持していました。結局、新しくできたタイトル、棋聖位も収めて五冠王になるのですが。


 先手の塚田元名人は、「6六歩~6七銀型」に構えました。
 このように、この「9六歩型相横歩」の戦型は、後手の銀が前進して先手が受け身になりがちです。後手大山名人の「4五銀」は、飛車の横利きを通すとともに、先手の指したい「3六歩」という手を指させない、という意味があります。
 ということで、先手は指す手がないように見える。塚田さんの次の手は?


 塚田、4九飛。 対して、大山、4四飛。
 塚田さんは4九飛として、次に4六歩であの銀を後退させようとしましたが、大山さんは、そうはさせませんよと、4四飛。意地悪ですね~。
 ということで、塚田さんはここで2六歩~2七銀とします。
 後手は7四歩~7五歩。
 この戦型、先手に苦労が多いように見えます。


 後手の7六歩を防いで、先手は6五角と、角を手放しました。


 角を打っている分、それが目標にされて先手がつらい感じ。


 銀交換になりました。
 ここで7五角と大山も角を打ちます。先手の玉頭が寒すぎる!


 先手も攻め合ってと金ができました。
 図から、6六歩、5五歩、4四歩、5六歩、同角、5七銀、4九玉、3七歩。


 4五角、3八歩成、同玉、4四飛、5三銀、同角、同と、同玉、3五角。


 塚田、王手飛車を敵玉にかけました!
 まあでも、これは大山名人の読み筋なのでしょう。
 4六銀打、5六桂、3五銀、4四桂、同銀、7二角成、4二玉。


 5四馬、4五桂、8二飛、5二歩、8一飛成に、3七歩、同桂、同桂成、同玉、4五桂、3八玉、3七金、2九玉、2七金。
 「4五桂」と打つのが早い寄せになるんですね。

投了図
 2七金まで、大山康晴の勝ち。

 棋聖リーグの結果、あらためて大山・塚田の五番勝負が行われて、大山が制し、第1期棋聖位に就きます。五冠王です。もちろん、当時のタイトルの全てです。


 どうも「9六歩型相横歩」、先手がうまくいきませんねえ。「9六歩」と突いた手があまり有効手になっておらず、後手の左銀に中央で威張らせてしまいます。
 永瀬さんは「(7六飛は)相横歩をやられて損だと思った」と言ったのですが、「9五歩型」だと状況が変わるのでしょうか。


 
(2)塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
 
塚田正夫‐升田幸三 1963年 順位戦
 この将棋は『升田幸三選集』に解説があります。
 升田〔 角筋をお互いに開けて▲9六歩。塚田さんは先番のときによくこの手を指す。△8四歩か△4四歩かの様子見だ。手将棋を得意とする塚田好みの一手である。それならこっちもで△1四歩。するとまた▲9五歩だ。これ以上はつき合い切れんから△8四歩とした。△1四歩はともかく、△1五歩はちょっと早い。 〕
 上の「清水上徹‐永瀬拓矢戦」とまったく同じ手順です。しかし図から、8四飛、2八飛、3三桂と進み、ここでは別れています。


 升田〔 私は塚田さんの▲9五歩をとがめる手はないかと思いながら指し手をすすめていたが、手拍子に△2五歩と打ってから気づいた。次の順である。▲9四歩△同歩▲9六歩△同香▲8六飛(参考図)。このあと▲8二歩△同銀▲9三歩成△同桂▲同香成△同香が予想されるが、香を持てば△2六歩(▲同飛は△2五香)などの筋が生じるからこっちが優勢だ。塚田さんはこの筋に気づいていなかった。 〕
 参考図
 升田〔 チャンスを見逃したために将棋はがらりと変わって塚田ペース。 〕


 こうなりました。先手の塚田さんが将棋を楽しんでいる感じです。


 4四歩が後手升田のミス。塚田に7五金と出られて6四の歩を取られてしまう。4四歩では先に3四飛が正着。


 7四飛に、8六飛、3六歩、5六金、5四飛。


 7五歩、6二銀、4四歩。
 塚田の7五歩が大胆な手で、後手からの4六角、同金、5七飛成は、5八歩で大丈夫と見ている。升田はそれが予定だったが、塚田に「やってこい」とされると行く気がしなくなった。しかしそれが失敗だった。
 升田〔 それにしても△6二銀は手拍子としかいいようがない。 〕


 6六歩、同飛、8四飛、7八銀、7四歩。
 升田〔 ▲7八銀がしゃれた手である。 〕
 塚田正夫、好調。


 升田〔 △7四歩は盤上この一手。歩切れを補い△7三桂の活用を図った。 〕
 升田もなんとかバランスを取って、勝負形になってきた。


 升田〔 狙いはわかっていた。△6四銀で△5四銀とすればこの狙いは消せたが、それでは勝負所どころを失う。 〕
 塚田の「狙い」とは、4三歩成、同銀、3三角成、同金、6六桂。


 升田の飛車が死んだ。 わかっていて打たせるのがプロの技。
 升田、6三角。
 しかし取った飛車を打ち込まれて、升田陣、大丈夫か。


 升田〔 ▲1一飛成で私に手番が回ってきたが、△2七歩成が突っ込みに欠けた手で、せっかくの好機を取り逃がしてしまった。単に△1五角である。▲1六歩は△2七歩成▲1五歩△3八と。これは私のほうがよい。だから△1五角には▲6八玉であろうが、そこで△2七歩成▲同歩△7六桂▲5八玉△5六角▲同歩△6八金▲4七玉△5九角成となる。途中、△5六角と切らずに△5五銀もあるから有力な順だった。 〕
 実戦は2七歩成を塚田が「同金」と取って、升田の1五角に4八歩と受けた。以下4六桂、4七銀、5五銀、1六歩。
 歩をなる前に1五角なら、先手が4八歩と受ければ、4六桂が金取りになるので全然違ったということです。実戦は2七歩成を同金と取って、4六桂が空を切ったわけです。


 1六歩に、升田5一角と退却。
 升田〔 まったくもってどうかしている。これで勝負どころをなくした。 〕


 7二金、同玉、5二竜、まで119手で塚田正夫の勝ち。


 この期、1962年度のA級順位戦は二上達也(羽生善治の師匠)が優勝し、名人挑戦権を獲得。二上の名人挑戦はこれが2回目でした。二上さんは32歳で絶好調の時期でしたが、大山康晴名人はさらに強く、4―2で大山名人の防衛となっています。


内藤国雄‐大山康晴 1969年
 さてこれは1969年の内藤国雄‐大山康晴戦。先手番の内藤国雄の「空中戦法」になっています。(本来は「空中戦法」は後手番)
 一般には、「空中戦法」は1969年12月の中原誠対内藤国雄の棋聖戦五番勝負第2局で誕生したということになっていますが、実際にはこのように、それよりも半年ほど早い同じ年の5月に、内藤さんは大山名人との対局で「空中戦法」を指しています。
 でも、どうして先後が逆になっているのか。また、なぜ大山さんが「横歩取り」を指しているのか。


 その内藤‐大山戦の出だし。初手から、7六歩、3四歩、9六歩。
 内藤さんも、大山名人も、「何でも指す」というタイプです。ですがどちらも「あまり好きではない」という戦型があり、それが内藤さんの場合は「矢倉」、大山さんの場合は「相振飛車」。
 ということで、先手の内藤さんは大山名人の嫌がる「相振飛車」をさそい、後手の大山名人はそれを感じ取って、ここで8四歩と指します。
 この頃の大山内藤戦はだいたい「どちらかが飛車を振る」という将棋だったのです。
 ところがこの日の内藤さんは2六歩…。


 となって、後手大山の横歩取り、先手の内藤は「7七角」で空中戦という流れです。
 結果は内藤勝ち。大山名人に分の悪かった内藤国雄ですが、この対局の経験で、「横歩取り、いけるで!」と思ったかもしれません。(はっきり確証はとれていないのですけど、これが内藤さんの対大山戦7戦目での初勝利ではないかと思います。)


 ところで、こういう「端歩のかけひき」はもっと昔からあります。

塚田正夫‐大山康晴 1948年 名人戦4 
 これはあの「高野山の決戦」で、大山康晴が升田幸三に勝って、名人の塚田正夫に挑戦した時の第7期名人戦、その第4局。
 「相掛り」の先手番で、塚田正夫がここで「1六歩」と突いています。
 これはどういう意味でしょうか。当時の観戦記によれば、これは塚田が「考えてきた作戦」とのこと。その観戦記を読むと、これは塚田正夫の考えたオリジナルの作戦のように思えるのですが…。

大山康晴‐塚田正夫 1948年 名人戦1
 ところが妙なことに、その同じ名人戦の第1局で、この7手目の「1六歩」は大山康晴の手によって、先に指されているではありませんか!
 最近出た『大山康晴名局集』にこの将棋の大山自身の解説があります。それを読むと、
 〔 ▲1六歩も早い感じだが、当時の流行手で、急戦含みの指し方といえるものだった。 〕
 とあります。
 僕なりにこの手の意味を考えてみますと、この早い「1六歩」は、先に2四歩から飛車先交換をしてしまうと先手は「2六飛型」にするか、「2八飛型」にするか選択しなければならない。その選択を保留にして「1六歩」とし、相手の態度をみたのかと思います。
 まあ、こういう駆け引きがこの当時(戦後まもなく)、流行っていたということです。(しかしこの時期は振り飛車はほとんど指されていなかったので、初手から7六歩、3四歩、9六歩の出だしはありませんでした。)


 この将棋(第7期名人戦第1局)は、先手の大山がこのような戦術を取ります。
 後に戦法に名前を付けるのが大好きな加藤治郎氏が、この浮き飛車で右銀を3七~4六と繰り出して3五歩からの仕掛けをねらうこの戦法を「大山式」と命名したのですが、今ではこの指し方、「中原流」と呼ばれていますね。実は大山康晴が「中原流」の創始者だったのです。(世相を反映して「殴り込み戦法」などと当時は呼ばれていたと大山自戦記には書かれている。当時はみんな心が荒れていたということでしょうか。他の誰かがこう指しているのをみて、大山さんが採用したのかもしれません。)
 以前から、「相掛かり」で4六銀から3五歩をねらう仕掛けはあったのですが、戦前のそれは5筋の歩が「5六歩」と突いてありました。そこを突かずに4六銀から3五歩、というのが新しい形なのでした。

 この第1局は大山勝ち。 名人位は、4―2で塚田名人が防衛しました。



深浦康市‐羽生善治 1996年 王位戦1
 「初手9六歩」という将棋もいくつかありまして、タイトル戦で現れたのはこれ。
 1996年王位戦、羽生善治王位を相手に、挑戦者深浦康市(当時五段、24歳)が初手9六歩!
 以下、3四歩、5六歩、8四歩、5八飛、6二銀、5五歩。
 これは漫画つのだじろう作『5五の龍』で、主人公が得意としていた「5五龍中飛車」というやつ。深浦さん本人は漫画の方は知らず指していたそうですが。
 しかしタイトル戦初登場で「初手9六歩」とは、深浦、やりますな。 当時の羽生さんは六冠王でした。


 おもしろい将棋でした。結果は後手の羽生王位の勝ち。



【追記】 『升田幸三選集』をよく読めば、(2)塚田‐升田戦の序盤について、次のように説明が書いてありました。
〔 △7六飛を誘っているのがわかった。以下▲2二角成△同銀▲3四飛△3三銀▲3六飛の交換強要だ。飛車を持てば▲9四歩から▲9二歩で▲9一飛がある。 〕とあったが、これはどうなのだろう?

 ▲3六飛以下、飛車角交換するとこの図になる。
 現代の定跡手(端歩の突いていない型の場合)は△6四角だが、この△6四角からの激しい将棋になれば、先手からの▲9四歩~▲9二歩はとても間に合う展開にはならない気がするが。(この『升田幸三選集』の発行は1980年代後半である。)  
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