はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

女優・浦辺粂子

2007年09月30日 | はなし
 アインシュタインの来日した大正時代あたりを調べていると、ちょくちょく「松井須磨子」の名が出てくる。1910年のハレー彗星について調べていたら、浦辺粂子が出てきて、それで浦辺さんに興味がわいて調べてみたら、そこにまた「松井須磨子」が現われた。 「松井須磨子」とは、よほどの有名人であったらしい。(美人には見えないけどね→画像
 松井須磨子は、もしかすると、日本で最初の「女優」なのかもしれない。新劇で、トルストイ『復活』のカチューシャ役が人気で、須磨子の歌う「カチューシャの唄」のレコードは大ヒットとなり、まだラジオのない時代なのに日本中の人がその歌を知っていたという。

 その松井須磨子にあこがれて、浦辺粂子は16才のときに家出を敢行し、女優への道をすすんだのである。


 浦辺粂子は、1902年伊豆下田に生まれた。本名は木村くめ。「くめ」は「久米」の意味で、一生食べる米に困らないようにと名づけられた。父は寺の住職だった。
 7歳のとき、、ハレー彗星を見る。
 浦辺粂子の母はなは、芝居が大好きで、たびたび娘くめを連れて東京の明治座まで芝居見物に行った。そのころはまだ、女役も男が演じていたのだが、そんなときに「新劇」が生まれ、松井須磨子が女を演じて評判となっていた。彼女の歌う「カチューシャの唄」が全国で流行った。その須磨子を見ようと、はなとくめは東京湯島まで出かけていった。それは新鮮だった。須磨子は、芝居がかった女ではない、普通の女を演じていた。歌声もすばらしかった。母子はすっかり魅せられた。
 16歳のとき「女優になりたい」と父に申し出るがゆるしてもらえない。それでくめは家出した。その後は波乱万丈の役者生活。苦労した。
 21歳、浦辺粂子として『清作の妻』で映画の主役デビュー。ちょっと変わった娼婦の役だった。その演技が評判になり、スターになる。
 そういう変わった女役はだいたい女形(つまり男だ)が務めていた。そのために粂子が主役に抜擢されたときには、女形のひがみがすごかった。「あんな梅助になにができるんや」 それを知って粂子は「梅助とはなんですか」と聞いた。「おまえみたいな大根役者のことや、梅のようなしょっぱい、見ておれん芝居をするやつのことや」 粂子は「一つ勉強になりました。おおきに」と言って、しかし心の中では闘争心が燃えていた。それ以来、浦辺粂子は、梅も大根も、死ぬまで口に入れていない。
 26歳、粂子は見初められて結婚する。相手は京都の実業家。ところが結婚してみるとこれがつまらない。自分で稼がないでお金を使うだけの生活。財布の中にはいつでもお金が十分にある。というか、財布さえ必要がない。なくても「これをください」といえば、届けてもらえたから。なんでも買える。ああおもしろくない。そのうち、夫の浮気がわかって、結婚生活1年目で、飛び出した。2度目の「家出」である。
 粂子は、女優業へ戻った。
 演技の研究心旺盛な粂子には、「へんな役」ばかりがくる。娼婦や狂女、粂子は何でもやった。そのうち、26歳なのに、20歳の娘の母親を演じろという。ということは40代…「老け役」だ。これがまた評価を得て、その後流行った「母親もの」の映画でひっぱりだこ。若い美人女優がやめていく中で、年を重ねても女優浦辺粂子はまったく仕事にこまらない。「老け役」には定年がないのだ。
 というわけで粂子は、親に名づけられたとおり、「一生食べる米にこまらない」女優となったのである。
 まったく、見事な役者人生だったというしかない。

 浦辺粂子は80年代後半、片岡鶴太郎などによるモノマネで人気となり、それに乗じてレコードデビューした。これはその時点で、日本最高齢デビュー記録だった。(その記録はその後、きんさんぎんさんに破られたが)  松井須磨子が日本で最初にレコードデビューした女優であり、それにあこがれて女優になった浦辺さんが女優最高齢でレコードを出した… それもなんだか面白いことである。
 テレビの企画で、2度目のハレー彗星も観に行った。


 その浦辺さんを見ようと、僕は昨日、『さびしんぼう』(大林宣彦監督)を借りてきた。
 僕は若い時、部屋にテレビがなく(TVを見るのがめんどうだった)、新聞も読まない(読むのがめんどうだった)そういう生活だったので、わりとよく映画を外に観に行った。そんな中にこの『さびしんぼう』もあって、あれはハレー彗星のやってくる前年だ。久々に観たが、この映画の風景も、浦辺粂子も、やっぱり、いい。一人でかるた遊びをしながら「知らぬがホトケ!」「あとは野となれ山となれ~」という浦辺粂子のセリフはつきぬけていて、最高である。(このシーン、映画館では爆笑だった。) この映画は、寺の息子である高校生の男の子が主役で、浦辺さんが「おばあちゃん」の役、これはストーリー的にはいてもいなくてもよい役どころなのだが、絶対いてくれないとこまると思わせてしまう。そして、お寺に生まれた浦辺さんが、お寺のおばあちゃんを演じている… 偶然だが、これもおもしろい神さまの演出だ。
 浦辺さんは、一人でいても、まったく寂しさを感じさせない、そんなところが素敵だ。

 一人でレストランへ行き、ハンバーグを食べる。
 「あたしゃね、あのドロドロとした気取ったソースが嫌いでね。この、薄いソースでなきゃだめなの」と、ウスターソースを持参して来ていたという。賛成だ。東京はなぜ、食堂にウスターソースを置かないのかと、僕は前から不便に思っている。
 浦辺粂子は1989年に亡くなった。こういうおばあさんが近所に住んでいたらいいなと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

桂馬でダッシュ!

2007年09月27日 | しょうぎ
 こんなシーンを想像してみました。
   ↓
 Aという野球少年がいたとする。
 少年には、どうしても勝ちたい相手チームがあって、ずっと勝てなかった。このチームに勝つことを夢見て、ずっと練習をしてきた…。そして今、ついに「勝てるかも」というところまできた! 1点差リードで9回の守備、2死を取り、走者は1塁2塁にいる…。次の打者をアウトにすれば勝ち、ヒットを打たれるとあぶなくなる。
 A少年は外野、センターを守っている。「これを守れば、勝つ!」 少年の胸はどきどきしている。ゆっくり呼吸をして、「落ち着け…」と自分にささやく。
 ピッチャーが投げて、相手打者が打った! 打球は鋭いライナーとなり、A少年の前に来た。 だれもが「ヒットだ!」と思ったが、A少年はダッシュ! 「これは、捕れる!」少年は確信して、走った。もし取れなくてそらしたら一気に逆転となる場面だ。しかしA少年に迷いはなかった。コンマ数秒後に、ボールをキャッチしている自分をくっきり描くことができたから。
 ボールは、A少年のグラブに、すっぽりと入った。  「ゲームセット!!」


 昨日の王位戦第7局をふりかえり、そんなことを思い浮かべました。
 深浦康市八段が初タイトルを獲りました。すばらしい勝負でした。深浦さんの前に出る気持ちがあらわれた将棋だと思います。

 この将棋は、「桂馬」が活躍しました。
〔1〕73手目▲5三桂成り
 羽生さんは「千日手にしましょうよ」と誘ってきた。「やや不利」と思っていたようですね。僕は「千日手になるのかなあ」と思っていました。深浦さんがどうやって攻めるのかわからなかったからです。
 ところが深浦さんはぐいっと「前に」出ました。▲5三桂成り…コマ損して攻めに出たのです。 男らしいぞ!

〔2〕91手目▲2一馬(と桂馬をとる)
 86手目▲9一角成りに、羽生王位は△6七桂(金とり)と攻めました。▲7八香△6五竜の後、深浦▲6九金と手を渡します。羽生さんの手番です。「どう攻めるのか」と見ていると、羽生さんはなんと△3一金と打ちました。これは「受け」の手で、「桂馬がほしいんでしょ、でもダメ、取らせないよ」という手です。
 そこで深浦八段はどうしたか? 「それでも桂馬をもらう!」と▲2一馬!! 羽生△同金、深浦▲5五桂

〔3〕105手目▲7七桂
 まさかこの手が羽生玉への「詰めろ」になっているとは! 

 この将棋は、序盤では深浦さんの右桂が飛び、最後は左の桂が飛んで仕上げました。タイトル奪取にふさわしい、気持ちのいい将棋でしたね!
 深浦さん、おめでとうございます。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

陣屋

2007年09月26日 | しょうぎ
 さあ、羽生-深浦の王位戦戦最終局。場所は「陣屋旅館」である。
 陣屋___。 かっこいい響きだ。

 この陣屋は将棋ファンには有名な場所。なんといってもそこには升田幸三ヒゲ九段の『強がりが雪に転んで周り見る』の色紙がある。升田ファンには、もう、仏像のような、ありがた~い色紙である。僕も一度だけ、拝見したことがある。
 僕が行ったとき、その色紙と並んで、いくつかの棋士の色紙も飾ってあって、深浦康市のかいたものもあった。なぜここに深浦さん(「『五段』となっていた)の色紙があったのか不明である。
 深浦さんがタイトルを獲るかどうか、気になるところだ。深浦康市八段の通算勝率は6割9分、これは現タイトルホルダー佐藤康光、森内俊之よりも上なのである。
 (実はこの稿は、前日25日夜に書いている。なので当然、今回の結果を知らない)


 僕が陣屋旅館へ行ったのは2002年12月の年の暮れ。羽生善治竜王に阿部隆七段(現八段)が挑戦した竜王戦の第6局である。

 このシリーズは異様な盛り上がりを見せた。
 まず、台湾で行われた第1局、2日目の夕方、「千日手」となった。すぐにもう一度指し直したら、なんとまた「千日手」だ! もう夜10時だ。対局者の疲労やホテルの都合など考慮して、この日は無勝負、後日指し直しになったのだ。
 そしてその後の星のながれは、羽生竜王から見て
 ○○●●●
となったのである。特に第4局は、阿部が執念の「入玉」で257手の熱闘を制した。そして第5局を勝って、「あと1勝で竜王」というところまできた。

 「阿部は竜王になるのだろうか?」

 第6局の対局場は「陣屋」だ。僕は神奈川県に住んでいた。「これは行くしかない」と思い、行った。べつに阿部ファンではないが、陣屋がおれを呼んでいる(笑)、そう思ったのだ。

 陣屋は、小田急線鶴巻温泉駅のすぐ近くにある。立派な門を通ると、TVでも見た「かがり火」が燃えている…。 おおお! 陣屋だ…!
 僕はコーヒーを飲んで露天風呂にも入った。(泊まってはいない) 升田さん(色紙と、掛け軸の絵)にも会った。 解説会では、中原誠や森鶏二もナマで見た。
 その将棋は相矢倉で、羽生の勝ち。(羽生からタイトルを獲るのはなんて難しいことなのだろう。) スコアは3-3となり、タイトルのゆくえは翌年の1月に持ち越された。


 そして第7局。羽生が勝って、竜王防衛。 終盤、優勢な羽生の顔が蒼白で、コマを持つ手がブルブルとふるえていたらしい。翌朝のフジテレビの番組で、大塚アナウンサーがそう言っていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒゲの九段のA級順位戦PART4

2007年09月25日 | しょうぎ
 さて久々の<ヒゲの九段のA級順位戦観戦記シリーズ>、今日は故・花村元司 九段にスポットを当てて。僕がこの時期の朝日新聞の観戦記に魅了されたのは、一言でいえば、「妖怪老人たちの面白さ」にやられたといっていい。とくに、東公平さんの升田幸三観戦記に脇役として出現する花村元司の「明るさ」がたまらない味であった。この明るい、つるっぱげの老人が「東海の鬼」などと呼ばれていたというから、少年の僕に、「なんだろう、この人は?」と強烈な印象を残したのである。
 花村さんはこのブログ内でも、時々、やはり脇役で登場してもらっている。  →こことか(「ハゲよりヒゲが上かなあ」)  →こことか(森下卓九段は花村門下)

 図中の「しょんないしょんない」というのは、花村さんの口癖だ。ハゲ頭をつるりとなでながら、こういって笑うのである。この言葉、ブログ検索してわかったが、いまも使われている東海地方の方言のようですよ。


〔升田幸三九段-関根茂八段戦〕
 並んで指していた花村と大友の将棋は…(中略)…中飛車側の花村が穴グマ囲いをし、それだけならめずらしくないが、△9二香、△9一玉、△8二銀、△8一桂、△7一金という守備陣にしてある所へ△7二飛と振ってきて、いわばソデ飛車戦法の味で大友の玉頭をおびやかしていた。升田と花村、交代にのぞき見しながら、お互いに何かいいたいのを我慢している。少しずつ緊張がほぐれてくる。
  升田「牛若丸だな、花ちゃん」
  花村「攻める穴グマ戦法だ」
  大友「なにをいってる!」
 カッとなったふりをして大友が着手。ピシッとコマ音がひびく。
        (注:大友昇は郷田真隆九段の師匠→6月26日記事
 ↑
 花村のこの指し方は、今ではポピュラーだが、当時(昭和40年代)はまだめずらしかったようだ。(穴グマ自体が少なかった)


〔升田幸三九段-原田泰夫八段戦〕
 花村八段が観戦に来ており、投了と同時に原田をかばっていろいろ意見を述べはじめた。
 「なに? そんな手があるもんか!」
 ごきげんのヒゲ九段は原田ではなく花村を相手どって感想戦をはじめ、読みの深さを披露し、花村があきれて「診察終わり」といって退散しようとした。
 「ボウズに診察されて、たまるか」とからかって一同を爆笑させた。


 この、花村元司が、深浦康市の師匠である。深浦さんはタイトルを獲れるのだろうか。ちなみに、師匠の花村さんは、名人戦をふくめ4回タイトル戦に出ているが、タイトルは獲っていない。深浦さんも、森下卓も、花村さんから直接に、御徒町将棋センターなどの場所で将棋を教わっている。花村さんの将棋は「妖刀」と呼ばれていたが、弟子には、正面からぶつかっていくような「王道」の将棋を指すように望んでいたようである。「妖刀」ではタイトルは獲れない、と自覚していたのかもしれない。

 羽生さんとの王位戦7番勝負最終局は、今日からはじまっている(二日制)。
 後手番になった羽生はゴキゲン中飛車の連続採用、深浦は穴グマにもぐり、囲いを完成させる前にしかけました。
 さあ、どっちが勝つとおもいます?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白色矮星「シリウスB」

2007年09月24日 | はなし
 なんとなくシリウスについて書きたいので、そうしてみます。

 天文学史上、はじめて地球と星(恒星)との距離をわりだしたのがベッセル(ドイツ人)です。(1838年) これは、白鳥座61番星を「視差」によって測定・計算したのです。11.2光年でした。
 そのベッセルが次に注目したのがシリウスでした。
 シリウスはオリオン座の左下にある明るい星で冬の夜空に目立つ星です。おおいぬ座に属します。おおいぬ座は、ギリシャ神話では、猟人オリオンの犬です。(いろいろ説があるようですが) シリウスは、中国では、ギラギラと輝く狼の瞳の意味で「天狼」と呼ばれていました。
 ベッセルが観測したところ、どうもシリウスの動きは変です。それで彼は、「シリウスは伴星をもっている」と考えました。しかし、「伴星」は見つかりませんでした。1844年ごろのことです。


 シリウスの「伴星」が発見されるのは1862年。アメリカのレンズ加工技術者アルバン・クラークが新型屈望遠鏡を完成させ、その観測テストとしてシリウスを調べたのです。するとシリウスの写真には小さな白い「しみ」がありました。これがベッセルの考えた、シリウスの「伴星」だったのです。これは「シリウスB」と呼ばれています。
 それにしても「シリウスB」は謎だらけでした。その小ささといい、白色(高温)であることといい… 説明できないのです。地球とシリウスとの距離は8光年。こんなに近くて白い星は他にありません。謎のまま年月が過ぎました。


 1915年、天文学者アダムス(アメリカ人)が、「シリウスB」のスペクトルを得るのに成功しました。するとますます謎が深まりました。地球ほどのサイズしかないことがわかり、それなのに巨大な質量を持っている。サイコロほどの量で1トンにもなります。「あり得ない。これはどこか間違っている」と多くの学者は考えました。しかしそうではなかったのです。

 そこで前回の記事にも出てきたエディントンの出番です。
 1916年に彼は「恒星はガス球である」という推論をしっかりとした計算のもとに発表しました。しかしそれでも「シリウスB」の巨大な質量は説明できません。そこにエディントンは、アインシュタインの「一般相対性理論」の論文を読みました。この理論が正しいならば、巨大質量の恒星から出てくる光は「赤方偏移」することになる。「赤方偏移する」というのは「光が遅れて届く」ということです。恒星の重力によって、空間がゆがめられる、という相対性理論からの結果のよってそうなるはずです。エディントンはそれをアダムスに確かめました。すると確かに、計算どおりの「赤方偏移」だったのです。(そういうこともあってエディントンは一般相対性理論の検証観測を提案したのですね)
 それで「シリウスB」が、大質量を持っていることは確実となりました。
 このような星を「白色矮星」といいます。「矮星」とは、小さな星という意味です。大きな星が、年をとって「重力崩壊」して、こうなるのです。

 ずいぶんわかってきましたが、それでもまだ「シリウスB」の謎は残りました。エディントンの恒星モデルによれば、この白色矮星の場合、内部に多大なエネルギーが存在しないとおかしいのですが、そのエネルギーがどこから来るのか説明できないのです。


 その謎は、1926年ファウラー(イギリス人)が、エディントンの星の構造理論に量子力学(粒子よりもさらに小さな物質の関係を調べる学問)を適応して、「星が崩壊するさいに熱核反応が起こる」ということを示すことで解決しました。
 さらにインドの学生だったチャンドラセカールが、相対性理論によって計算し、「白色矮星になるのは、太陽質量の1.4倍以下の星だけ」ということを発見したのです。これを、チャンドラセカール限界といいます。
 では太陽質量の1.4倍よりも質量の大きな星はどうなるかといえば、これは「中世子星」や「ブラックホール」になります。


 天文学の用語をタイトルにすると、なんかかっこよく見えるなあ。
 んー、それにしても、おおいぬ座のイヌの図、僕には、ダメ犬に見えるんですけど。ものすごく瞳の綺麗なダメ犬…って、どうかしら?
 どうもこのごろ身体がつかれやすくていけない。もしやからだが重力崩壊していて、オレ、白色矮星になってしまうのでは…?   あ、質量足らないか。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒヤデス星団

2007年09月22日 | はなし
 アインシュタインの「一般相対性理論」が完成するのが1915年。これは「重力によって光が曲がる」ということを含んだ革命的な理論でした。
 もともとアインシュタインの物理アプローチは、「思考実験」から入るようです。つまり、実験からではなく、まず先にアイデアがあって、それを数式によって組み立てて「理論」が出来上がるわけです。で、それが正しいかどうかを後で「実験」することになります。アインシュタインは、「光」と「重力」と「時空」を使って、頭の中の「思考実験」によって「理論」を組み立てたのです。
 で、「重力によって光は曲がる」ことに理論上は、なった。といっても、大質量の重力によって、わずかに曲がるだけ、ですから、地球上での実験は無理なんです。宇宙規模でないと。というわけで、ここに「太陽」が登場します。太陽は大きな重力を持っていますから、このそばを通る光は曲がるはず… ということです。ところが、太陽自体が光の塊ですから、そばに光が通るとき…といっても見えません。じゃあそれなら、「皆既日食のときに調べればよい!」というのです。
 さあ、それでアインシュタインは1914年、まだ「一般相対性理論」は未完成でしたが、シベリアへと出かけました。シベリアで8月21日に日食が観測されるからです。ところがこの8月にドイツとロシアとは戦争(第1次世界大戦)に突入、アインシュタインはロシアに捕らえられてしまい観測できずに帰らされてしまいました。

 その後、ついに苦労して「一般相対性理論」が完成
 しかしこの時、第1次世界大戦中で、アインシュタインのいたドイツは孤立していたために、この論文は広まっていませんでした。しかしそれでもこの論文のコピーは、何人かの学者が注目して読んでいました。
 その一人が、イギリスの天文学者アーサー・エディントンです。

 エディントンは数学の得意な男でした。その数学の才能が天文学の分野で生かされました。
 エディントンの天文学への貢献はいくつかあって、その一つは、星(太陽を含む「恒星」)の構造が、「ガス」でできていると予測して、それを理論的に(つまり数学的に)組み立てたことです。それによって、星の「色」と「大きさ」と「表面温度」との関係を明らかにしたのです。
 そのようなエディントンが、アインシュタインの「一般相対性理論」を重要な論文ととらえたのです。それはそうです。もしも重力によって光が曲がるのなら、根本的に宇宙像を修正しなくてはなりません。直感的に、エディントンは、アインシュタインのこの理論を正しいと思っていたようです。この正しさを確かめるためには…そうです、「皆既日食」です。
 それでエディントンは王立天文台長のフランクに、皆既日食の日に太陽の近くの星々を観測して確かめるよう提案しました。1917年のことです。
 このとき、まだ世界大戦中でした。エディントンは兵役を拒否しました。平和主義者だったからです。このとき、アインシュタインのいるドイツは敵国でしたから、その敵国の学者の論文を検証するなんて、という声がイギリスにはありました。ですがエディントンは戦争反対論者です。「学問に国境はない」という立場です。さて、天文台長フランクはどうかといえば、彼は「どうせアインシュタインが間違っているさ」と思っていました。それで、その間違いを証明するために、日食の観測に同意したのです。

 皆既日食の日は、1919年5月29日にやってきます。それが観測できるのは赤道付近です。エディントンらの観測隊は2隊に別れ、出発しました。エディントンのいる隊では、初め、雲がかかっていました。それでもあきらめず観測していたら、やがて雲はなくなり写真が取れました。その写真を持ち帰り、詳細な検証をしなければなりません。データ解析に数ヶ月かかりました。

 この時点では、まだ、アインシュタインはこのエディントンの観測のことは知りません。やがてそれを知ったアインシュタインは、当然結果を知りたくなります。9月になって、ローレンツが手紙で「エディントンの予備的な解析は、おおよそ君の理論の正しさを証明している」とアインシュタインに知らせました。アインシュタインは喜びました。
 そして11月6日。イギリス・ロンドンの学会で正式に発表されました。
 重力によって光は曲がる!
 (正確には、「時空が重力によってゆがむ」でしょうね)
 11月7日。この日はアインシュタインが世界的スターになった日です。『ロンドンタイムズ』を初めとする世界の新聞が大見出しでとりあげました。

 さて、日本では…?
 この記事は日本にも送られたはずですが、新聞にはとり上げられていません。科学というものに鈍感だったんですね。数ヶ月後に科学誌『ネーチュア』が日本に届き、それを読んだ日本の物理学者のコメントが新聞に載りました。翌1920年1月のことです。この物理学者が桑木或雄で、この桑木から西田幾多郎はアインシュタインの理論の話を聞いたというわけです。桑木はこれより13年ほど前に、旅行の途中でアインシュタインの職場を訪れ、するとアインシュタインは「3時間ほど時間がある」といってさまざまな話をし、「パリに行くのか、それなら不便があると困るだろうから、私の友人を紹介してあげよう」と親切にしてもらっています。
 桑木の趣味は謡曲でした。1922年、アイシュタイン博士が日本へ来たときに、桑木は、ア博士を能楽堂へ案内しています。
 また、神戸に博士を出迎えたとき、石原純もいて、アインシュタイン博士がタバコを取り出したとき、桑木と石原が同時にマッチを擦り、そのときにア博士は一瞬とまどったあと、桑木の火を借りたそうです。それが桑木の自慢となったのです。


 科学史を変えた1919年5月の皆既日食、その時に観測された星というのが、ヒヤデス星団です。ヒヤデス星団は、プレアデス星団(すばる)とともに、おうし座の位置にあります。オリオン座の右ななめ上にあるのが、おうし座です。おうし座の由来は、ギリシャ神話で、ゼウスが乙女(エウロパ)をかっさらうために化けた「牡牛」から。
 ヒヤデス星団は、Ⅴ字の形に並んでいて、日本では「釣鐘星」とか「馬の面」と呼ばれていました。(近視の僕にはうすくて見えませんが。) またヒヤデスには、「雨を降らせる女」という意味もあるそうです。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今ごろ、深浦は…

2007年09月21日 | しょうぎ
こんな感じかもね。                       (ウソ。対局中でした。)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久保と時間(1)

2007年09月20日 | しょうぎ
 2年前、瀬川晶司さんが特別な「プロ編入試験6番勝負」を受けた。その試験官としてのメンバーが話題をよんだ。その中でもA級棋士久保利明との対局が注目だった。久保さんにとってはあまり得な対局ではない。それを敢えて受けた。
 久保「将棋を知らない人にも、A級棋士とはこういうものなんだ、と雰囲気だけでも感じてもらうチャンスだと思ったんです」
 そこには、「負けたら…」というような意識はまるでない。さすがだ。
 将棋の内容も面白かった。早石田からアナグマにもぐった久保八段に対し、瀬川さんは位取り。中盤で瀬川さんはしっかり時間を使い、やや有利な局面をつくる。しかしこのとき、久保は時間に余裕を残し「なんとかなる」と自信をもっていた。瀬川、飛車を奪い、敵陣に打ち込む。このとき、瀬川1分将棋。久保、▲3七角と受ける。瀬川さんが優勢だった。勝つとしたら、ここがポイントだった。△7九飛成とすれば勝っていた可能性が強い。しかし…。

 久保「▲3七角は、1分将棋で△7九飛成は指せないだろうと思って打ったんです。あれ以外は相当早く負かされてますね。今日、いちばん、自分らしい手でした」
 瀬川「△7九飛成は見えていて迷ったんですが、香も取れないんじゃバカらしいと思って。とにかく時間がありませんでした」

 久保八段、取られた飛車を取り返す。それでも、まだ、瀬川有望だったのだが…。
 久保▲9四歩。
 瀬川さんがまったく読んでいなかった手だった。動揺した瀬川さんは、自滅していった。

 久保「さばく展開にはならなかったけど、久保将棋のすべてを出しました。膠着状態のときの▲7九金~▲7八金とかね。ああやって相手に時間を使わせるのがプロの将棋なんです。なまじ時間があるから、考えたくなるんです。このテクニックにいちばん長けているのが羽生さんですよ」
               (『将棋世界』山岸浩史氏の観戦記から)


◇竜王戦挑戦者決定三番勝負
   佐藤康光 2-1 木村一基
   佐藤、2年連続挑戦者に。渡辺明竜王との闘いふたたび。

◇A級順位戦、昨日は郷田真隆が羽生善治に勝ちました。やっぱりA級の将棋はおもしろいですね! 今日は、谷川浩司と丸山忠久が戦っています。

◇そして、羽生-久保の王座戦第2局は、あさって22日です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詠う物理学者

2007年09月19日 | はなし
 正岡子規の命日が今日9月19日で、子規の辞世の句が「糸瓜咲て…」で始まるのでこの日を「糸瓜忌」というそうだ。(wikipediaでいま得た知識) 正岡子規という人は、近代の俳句・短歌に大きな影響を与えた(らしい)。子規は明治に没したが、子規の意に賛同した人々が後に「アララギ派」をつくった。
 そのアララギ歌人だった石原純が今日の主役である。石原純は、若い時に子規の「歌よみに与ふる書」を読んで、歌を詠むようになった。しかし本職は別にあって、物理学者である。それも相当立派な…。

 さて、話はちょっと変わる。
 『悲しき口笛』といえば美空ひばりの最初のヒット曲の名であり、彼女の初主演映画のタイトルでもある。 当時12歳の美空ひばりの、シルクハットと燕尾服姿を思い出す。 …って、僕は観たことないのだが、それでも印象に残るほどの有名な作品だ。
 この映画は、戦争の混乱のなかで別れわかれになってしまった兄妹の話で、戦争が終わって兄が「歌の大好きだった妹」をさがす… というストーリーのようだ。妹役はもちろん美空ひばりで、兄の役を演じたのが、原保美という俳優。
 で、この原保美の母が歌人・原阿佐緒である。この人もアララギ派。

 原阿佐緒は絵画を学んでいる。絵画教師の職を得たこともあるが、どうもこの女性は一つの場所に安定できないホシの下にあるようだ。原因は男だ。男がほうっておかない…。
 その美しさのせいだろうか。いや、たぶんそれだけではない、童女的魅力があっって男の保護欲をかきたてたようだ。たくさんの男に求められ、だが、どうも、男運がない。近づいてくる男が妻子持ちばかりなのだ。2度結婚し、いずれも離婚。二人の息子を産んだ。30歳のときにも二人の男が言い寄ってきており、それがまた二人ともにアララギ派で、やっぱり妻子持ち。こまったものだ。
 その男のうちの一人が、物理学者・石原純である。
 石原純はその時、東北帝大の教授であった。物理学者としてあぶらの載りきった充実した年齢であった。その石原教授が阿佐緒への恋にとち狂った。阿佐緒は断り続けたのだが…。


 そんな時、1920年10月のある日、石原純のもとに一人の男がやって来た。改造社社長・山本実夫である。改造社は出版社で、雑誌『改造』を出している。
 山本は石原に言った。西田幾多郎教授(哲学者)からアインシュタインという偉大な科学者の名を聞いた、それで改造社ではアインシュタイン博士を日本へ招きたいと思うがどうだろう、と。
 石原純は、スイス・チューリッヒでアインシュタインと共に半年間仕事をしているのである。石原に出会う前から、ア博士は石原の論文を読んでもいた。「日本で一番アインシュタインを知っている男」が石原なのだった。

  世を絶えてあり得ぬひとにいま逢ひてうれしき思い湧くもひたすら

 これは石原が後にア博士との出会いの喜びを詠った歌である。
 また、こうも言っている。

 「温情のこもったさうして言い知れぬ懐かしみをもった人として私はアインスタインを印象しています。ふさふさとしているその頭髪や、豊麗な瞳や、ふっくらした顔だちなどが、みんな温和などこかに芸術的な彼の素質を偲ばせます。」

 昼休み時など、よくアインシュタインは山の上へと行く広い並木路をゆっくり歩きながら本を読んでいたりした。そこで出会った石原にいきなり「輻射はやっぱり量子的な関係に支配されているよ」と話しかけ、それから空を見上げて「チューリッヒの空は美しいではないか」などと言うのだった。
 ア博士の思考は、この時期(1913年)、特殊相対性理論を拡張し、一般相対性理論を生み出す過程の中にあった。


 1921年、原阿佐緒は、ついに石原の愛を受け入れる。ところがそれがすぐに記者にすっぱ抜かれた。二人とも有名人であったから(石原は物理学者として、阿佐緒は恋多き歌人として)そのために、世間の注目を浴びた。石原は東北帝大に辞表を出した。 記事は、石原が「恋多き女」原阿佐緒の「魔力」に絡めとられたような書き方をしていたが、事実は、石原が押しまくった結果なのである。
 職を失った石原純は、阿佐緒と二人で「愛の巣」で時間をすごすようになる。


 改造社の山本実夫は、石原の話を聞いて帰り、部下に「君、偉大な科学者を一人発見した。日本に呼ぼうじゃないか」と言った。その後、科学界の重鎮・長岡半太郎の賛同も得た。改造社は1921年7月に思想家ラッセルを招いたが、その際に山本の「現存する世界の偉人を三人挙げてくれ」という質問に、ラッセルは「一にアインシュタイン、二にレーニン、あとはいない」と答えた。アインシュタインとはそれほどの偉人なのか…、 この時、山本と改造社の意志ははっきりと固まった。
 改造社がアインシュタイン博士を日本へ招待したのは翌1922年。このとき、「色ボケ」の石原は、しかし、しっかりやった。アインシュタインの友人として同行し、ア博士の物理学の講義を通訳する仕事を果たしている。


 石原純と原阿佐緒の恋愛は5年ほど続き、そして終わった。阿佐緒は、「男はもうこりごり」と思ったようだ。82歳まで生きた。幸せな老後だったようである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はな子、伊豆大島を走る

2007年09月16日 | はなし
 1986年11月、伊豆大島の三原山が大噴火。TVには夜の闇に赤くかがやく溶岩流が映し出された。僕は東京に住んでいたが、友人は「マンションの屋上から見えるかも」と駆け上がっていた。伊豆大島では夜のうちに「全島避難」となった。
 三原山は、調べてみると36年ぐらいの周期で爆発している…ということは、次の噴火は2022年ということになるが…。
 伊豆大島といえば、椿の花。日本海とか寒いところに咲く椿が、なぜ暖かい伊豆大島にも多いのか。なぜだろう?(さあ、わかんね)
 それから、大島紬____と思っていたが、これは大間違いと知る。大島紬って、奄美大島だったのねー。 大島、多すぎるんだよ!(逆ギレ)


 はな子の話。
 タイ生まれのはな子が日本に来て2年たち、はな子も4歳になった。
 その頃は、全国的にぞうブームだった。東京の子供だけぞうが見れるのはずるい、私たちもぞうが見たい、という声にこたえて上野動物園も「移動動物園」が計画され、その一環として、はな子は、一頭の雌ライオンとともに、伊豆大島へ渡ったことがある。
 その日はな子は、いつものようにテントの周りをぐるぐるまわっていた。毎朝のことで、職員はだれも気にしない… ところがはな子は、自分でもしらないうちに、遠くに来てしまった。ひろがる草の藪を見たはな子の中で、うずうずと野生の血が騒ぎはじめる…。はな子は笹の藪に飛び込んだ。そして、走った。走り出すと、もう、止まらない! (ぞうが本気で走ると100メートルを9秒で走るという)
 「ぞうが逃げたぞ!」
 近くの高校の生徒たちが勢子として応援してくれた。それはよかったが、高校の先生が「耳を引っ張ればぞうは座るのだ」などと言ったから、職員の小森さんはあわてた。子ぞうとはいえ2トンはある。生徒に怪我をさせたらまずい…! 小森さんは必死に走って、はな子に追いついた! そして、はな子の尻尾をつかまえた! だが、はな子の暴走は止まらない。耳をめがけて飛びつこうとする生徒に小森さんは「だめだよ!」と言いながら、しかし、はな子は、走る。笹竹がぴしぴしとはねかえって体に当たる。小森さんは尻尾をつかんだまま…。
 はな子の暴走は、まだ、止まらない。
 止まれないのだ。はな子も、「だれか止めて~」と思っていた(かも)。
 そのまま、砂浜に出た。目の前におおきな海が広がっている。
 はな子はまだ走り続ける。止まらない。 そのときだ。
 「はな子っ!!!」
 ぞうの飼育担当の菅谷さんの声だった。その一喝に、はな子は、父に叱られたように、へなへなとその場にすわりこんでしまった。
 「ああ、たすかった…」 (と、はな子が言ったわけではない)
 小森さんの作業服はボロボロになっていたという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インディラ

2007年09月15日 | はなし
 インドが、イギリスから独立したのは1947年。マハトマ(偉大なる魂)と呼ばれていたガンジーは、ヒンズー教徒とイスラム教徒の共存を望んでいたが、「インド」と「パキスタン」と分離した形での独立となった。ガンジーは暗殺によって倒れ、初代首相にはネルーが就任した。
 そのネルー首相が、日本の子供たちからの手紙を受けとった。「日本の動物園にはぞうがいません。ぞうをください」 心を動かされたネルーは約束した。 「インドでいちばん優れたぞうを送りましょう」
 「優れたぞう」はやがて見つかった。15歳の雌ぞうで、かしこくておとなしい。首相はそのぞうに、自分の娘の名前とおなじ「インディラ」をつけた。

 インディラはインド・カルカッタから船でやってきた。1949年9月23日、東京芝浦に到着。そしてそこから上野動物園までの道を、深夜、歩いた。「なにごとか」と集まってきた人は驚いた。ぞうだ! ぞうのインディラの背には象使いのインド人が二人乗っている。見物人の中にはそのままついて来る人もいて、上野動物園に着いた頃には、その行列は2千人になっていた。(1万人と書いてある本もあった)
 ぞうがやってきた!
 上野動物園のぞうは、これで2頭になった。もう1頭は「はな子」で、はな子はその3週間前にタイから送られて来ていた。まだ2歳の小さなぞうで、インディラによくなついた。インディラとはな子は、熱烈な歓迎の中でむかえられたのであった。

 ネルー首相とその娘インディラは1957年、日本へやってきて、上野動物園のインディラと対面している。(娘といってもこの時40歳だが。) その後、父ネルーが死去した後、この娘インディラは政界へ進み、1966年にインド首相になっている。


 吉田茂首相は、大の動物園好きだったという。マスコミ嫌いだったが、動物園の式典へは忙しくても出席し、にこにこ顔だったという。
 1959年、インディラ来園10周年記念の会へは、吉田茂は、娘(三女)麻生和子を伴って出席し、「ネールさんがお嬢さんの名前をつけてきたので、お返しに日本からヒグマを送る時、和子とつけようと思ったが、これが(と麻生さんの方を向いて)クマでは嫌だというので…」と大笑したという。
 この和子さんは、今をときめく政治家麻生太郎氏の母である。映画化された『小説吉田学校』では、この麻生和子役は、あの夏目雅子が演じていたようだ。 
 麻生太郎__。そう、このたび、自民党総裁に立候補した麻生太郎さん。この麻生さんは漫画好きでも有名だが、SF作家野田昌弘氏は従兄弟なんだってね。麻生さんが首相になれそうかそうでないかで、株の「オタク銘柄」が上下しているそうで。(そんな安易なことでいいの、日本経済!?) ところで、動物園の上場株ってあるんかいね? (なさそうだな…)
 自民党総裁が決定するのは9月23日だそうだが、偶然にも、インディラが日本に来た日と同じだ。(こじつけだが)

 ぞうのインディラは49歳まで生きました。上野動物園の人気者として。
 僕も(あなたも)、インディラと一度は会っているかもしれません。

     
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目白押し

2007年09月14日 | しょうぎ
 今日は気になる対局が目白押し。

  佐藤康光-木村一基 (竜王戦挑戦者決定三番勝負第2局) ←佐藤が勝ったら挑戦者
  藤井猛-久保利明  ( A級順位戦 )
  渡辺明-谷川浩司   (王将戦)  ←これに勝ったらリーグ入り
  加藤一二三-田村康介   (王位戦) ←面白そう!
  深浦康市-山崎隆之   (棋王戦)
  豊川孝弘-大平武洋   (棋聖戦)
  有吉道夫-淡路仁茂   (王座戦 )
  村田智弘-清水市代   (朝日杯将棋オープン戦)  など。
 

 目白押し = 多人数が込み合って並ぶこと。また、物事が集中してあること。

 たくさんのめじろが集っているところって、見た事ないんだけど。
 佐藤、久保は、今日も「居玉」でがんばっている模様。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九九のできない男

2007年09月12日 | ほん
 彼女と彼は、名古屋の少林寺拳法の道場で、出会った。

 彼女は、黒帯だった。大学時代に少林寺拳法に励み、社会人になってやめていたのだが、仕事が落ち着いてきたのでまた始めたくなって道場の門を叩いた。同じ時期に彼も、かつて熱中した少林寺をやりたくなって入門してきた。二人は気が合い、つきあうことになった。
 つきあい始めて、彼女は、「彼、計算がニガテらしい」と気づきはじめた。
 彼は、建築会社に勤めている。会社でもかわいがられ、意欲的だ。その会社の仕事で彼は「玉掛け」の試験を受けることになる。それで勉強をはじめたのだが、かんたんな計算がわからないらしい。
 困った彼は彼女に聞いてきた。「この分数の計算、教えて。」
 やっぱりそうだったのね! 「そこはこうして…」 彼女は分数を教えはじめる。するとどうやら、九九さえも知らないことが判明した。 2×3ができないのだ! 2×3が!! 
 九九のできない23歳の男…。 〔別れよう!〕と、そのとき彼女は思った。


 九九さえできないその男、宮本延春さんは、小学生のときずっといじめられっ子だった。転校しても、先生に言っても、父に言っても、中学になっても、それは続いた。母は、働きっぱなしで毎日食事をつくってくれる。その母に心配をかけたくないので、母にだけは、相談しなかった。勉強もダメ。中学での成績は、ほとんど「1」ばかり。
 ある日、父が酔った勢いで「お前はおれたちの本当の子じゃないんだ」と言う。そして、冗談のようだが、それは本当だった。(←ビックリ!)
 高校へ行く学力もないので、建築の専門学校へ行き、大工見習いの職に就く。しかし親方との相性もわるく、やる気も出ない。
 父と母は毎日のようにケンカ。働かない父。ある時、またケンカして母が家出した。いつもなら数日して帰ってくるのに、今回はまだ帰らない… それで動揺した父は、なんと店の権利(母がきりもりしていたラーメン屋)を売ってしまった。その直後、母が戻ってきたが、もう遅かった…。
 母が、病気に。しかも2年のいのち。(←オイオイ、どんだけ不幸に…!)
 母、死去。その後、父も元気がなくなり、病気に。そして、父、死去。(←ひー!! まだ10代だよ!)

 天涯孤独になった宮本延春は、考えた。 「好きなことをやって生きていこう、やらない後悔だけはしない」と決心して、イヤだった大工見習いをやめ、アルバイト生活を始める。好きなことは音楽。バンド活動を始め、それを中心のアルバイト生活。お金がなくて、公園のイタドリを食べたこともあるというから、泣けてくる。

 ここまでの彼の人生を聞いたら、大人なら「ああ、だめ人生だな」と思うところ。いいところがまったくない。
 ところが宮本さんの人生はここから変わっていく。音楽仲間に紹介してもらった建築会社に入ったことで、宮本さんの運命が初めて好転していく__。
 この建築会社でうまれて初めて、「親切な大人たち」に出会うのだった。宮本さんは、音楽はもう趣味でもいい、この会社でずっと働きたい、とさえ思うようになる。社長が「銭湯に行こう」と誘ってくれるのがうれしい。
 こころの余裕ができた宮本さんは、やめていた少林寺拳法をまたやりたくなって道場へ行った。少林寺拳法は、なにもいいことのなかった宮本さんの10代の、ただ一つの「誇り」だったものだ。「こづかいはいらないから少林寺を習いたい」と親に言ってはじめたのだった。
 そして職場の人に紹介してもらった道場へ行くと、ある黒帯の女性に出会った。それが「彼女」だ。


 彼女は彼をみて、ふしぎに思うことがあった。彼は、九九ができないというのに、数字のパズルを独自のやりかたで解くのである。
 ある日彼女は録画していた「アインシュタイン理論の特集」の番組を観たが、よく意味がわからない…。その時彼女は、彼ならどうなのだろう、と思った。それで彼女は、宮本さんに「このビデオ観ておいて。面白さがよくわからないんだけど、わかったら教えてね」と言った。 
 それで宮本さんはその「アインシュタイン」の番組を見た。そして、そのビデオが、宮本さんの人生を変えた。
 宮本さんは、アインシュタインの「時間が伸び縮みする」という考えに仰天し、惹きこまれた。「もっと物理学を知りたい!」と思うようになる。それで物理の本を読み始めた。しかしそのうち、物理を本格的に理解するには「数学」が必要だ、とわかってきた。計算のまったくできない宮本さんは本屋へ行った。小学生用の計算ドリルを買ってきて、勉強をはじめた。宮本延春、23歳。

 そんな宮本さんを見ていた彼女は、またひらめく。
 定時制高校のパンフレットをとってきて、ここに行ったらどうかと勧め、宮本さんはそうすることにした。そして、「学校」というものに一切の幸福なイメージのなかった宮本さんが、ここでは、年下の同級生に慕われ、尊敬できる先生に出会う。宮本さんは、ますます、物理の勉強に熱中する。それで、物理をもっと勉強するために、大学進学を考えはじめた。だが、宮本さんの住む名古屋で物理を勉強するとしたら、名古屋大学しかないことがわかった。宮本さんは、彼女に聞いた。
 「ぼくががんばって勉強すれば、名古屋大学に入れるかな?」
 彼女は即答「それは無理。」 そりゃそうだろう、だれだってそう思う。先生に聞いても同じ答えだった。宮本さんは逆に燃えてきた。「よし! もし、ぼくが受かったら100万円くれる?」 すると彼女「いいよ。100万円で受かるなら、安いものだよ」
 それから宮本さんは、勉強のために、職場をやめてアルバイトに切り替え、1日最低でも10時間は勉強したという。それが、楽しくてしかたなかったのだという。あまりに楽しいので、もし受からなかった時には…なんてことは考えなかったそうだ。

 そして。
 宮本さんは、名古屋大学に合格した。物理学を勉強し、さらに大学院にまで行き9年間勉強した。もちろん、彼と彼女は結婚した。もう、九九だってできる。

 宮本さんは、物理が好きで大学に行ったのだが、9年の大学生活の後、高校の教師になった。「自分の経験を生かす職業は、学校の先生なのでは」と思ったからだという。数学の教師だ。23歳で、九九もできなかった男が、数学教師になるという、フシギさ…!!


 こんなことがあるんですね!
 この話は『未来のきみが待つ場所へ』(宮本延春著)の内容です。この本の初めの3分の2は、読んでいて沈んでいくような気分でしたが、最後の3分の1は、爽快なサクセスストーリー!
 この話を、だれか作家が小説として書いたとしたら、「こんな安易な、リアリティーのないサクセス話、だめだよ」と言われてしまいそうです。


 アインシュタインは「天才」とよく言われます。その理論がすごいのでしょうが、こういうエピソードを聞くときこそ、「うん、天才だなあ。」と僕は納得するのです。天才というのは、死んだあともふしぎな仕事をする人のこと、と思います。
 アインシュタインは数学が苦手だった、という俗説があります。でも、それはウソです。数学と音楽の得意な人でした。それから、くつしたをはくのが嫌いでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長手数の美学

2007年09月11日 | しょうぎ
 久保利明八段の師匠、淡路仁茂九段を描いてみました。
 だれが名づけたか「長手数の美学」。 「羽生にらみ」の前に「淡路にらみ」があったのだとか。
 「関西将棋」という言い方があって、「簡単には負けへんで」というような寝技にもちこむイメージの将棋をいいますが、淡路九段、長沼七段、それから故・森安秀光九段などがそういう将棋です。その淡路さんが子供のときからかわいがって育てた棋士が、久保利明ですが、彼は「さばきのアーチスト」ですから、こてこての関西風味とは味が違います。
 将棋の盤上ににあらわれる「個性」を、「棋風」といいます。


◇王位戦  羽生善治 3-3 深浦康市
   ついに羽生、追いつく。 決戦は25、26日、陣屋にて。

◇王座戦  羽生善治 1-0 久保利明
   第2局は9月22日

◇竜王戦 (タイトル保持者 渡辺明)
   挑戦者決定三番勝負  佐藤康光 1-0 木村一基
   第2局は9月14日

◇女流王位戦  清水市代 - 石橋幸緒
   第1局は10月2日
   
◇女流 倉敷藤花戦(タイトル保持者は斎田晴子)
   挑戦者決定戦は、清水市代-里見香奈 の組み合わせに。 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

早指し王

2007年09月10日 | しょうぎ
 王位戦第6局、始まりました。羽生のゴキゲン中飛車です。流行ってますねえ、コレ。二日制なので、決着は明日。


 各クラスの「順位戦」が行われています。C2クラスに僕がこっそりと応援している棋士がいます。村田智弘五段と田村康介六段です。なぜか。 この二人はすでにこのブログの将棋記事のなかに登場しています。でも「主役」ではなく、他の棋士の「引き立て役」として。だから僕は、彼らに活躍してほしい、彼らが活躍したときに彼らの記事を書こう、と思っているのです。
 村田智弘五段は、上野裕和五段の記事で登場してもらいました。女流棋士の村田智穂さんと兄妹なのだそうですね。今期順位戦、3勝0敗です。
 田村康介六段は、長沼洋七段の記事で書きました。田村さんも順位戦は3勝0敗。しかも今期はいまのところ14勝3敗、勝率全棋士中第2位と絶好調! というわけで今日は田村康介六段の話題。


 田村康介六段は大内延介門下で、31歳。
 同門に鈴木大介八段がいます。以前紹介したことのある瀬川晶司四段の本『泣き虫しょったんの奇跡』の中に、瀬川さんの部屋の中で、田村と鈴木がケンカするシーンが描かれています。まだプロになる前の、奨励会時代のエピソードです。
 田村「そんなヘボ将棋やめて、遊びに行こうよ」
 鈴木「ヘボ将棋とはなんだ!」
 田村「ヘボだからヘボっていってんだよ」
 鈴木「それが先輩に対する口の聞き方か!」
 結局そのあと、周囲に諌められてケンカをやめ、6人でトランプ「大貧民」をやり、夜は雑魚寝をして、翌日は皆で競馬に行くのであるが。

 田村六段といえば、「早指し」。
 たとえば今期順位戦。順位戦の持ち時間は各6時間もあります。二人がそれを目一杯使うと、朝10時から始めた対局が、夜になります。(あいだに食事休憩がある) ところが田村六段の対局は、早く終わります。田村さんが「早指し」だからです。今期も、田村六段の消費時間はだいたい3時間(つまり半分しか使っていない)で、それで3連勝です!
 彼がプロになりたての頃、順位戦の日に、大阪で対局しているはずの田村六段が東京の将棋会館にいるので「なぜ?」と聞いたら、「もう対局を終えて帰ってきました」というエピソードにも笑いました。
 でも棋士の早指しは、ふつうはほめられたものではありません。棋士は将棋を指して「対局料」をもらって生活しています。ですから一生懸命時間一杯頑張って、全力を尽くす… それが、一般的な棋士の美学となります。
 ですが田村康介はちがいます。彼の「美学」は、「なるべく時間を使わずに勝つ」なのです。だから、たぶん、ほんとは3時間だって彼にしたら「使いすぎ」なのです。
 こういう棋士がいてもいい、と思います。他の棋士とは違う「美学」の棋士というのは、その個性自体が「宝」ですから。しかしその「宝」も、勝ってこそ輝く、それが棋士という仕事。

 今はなくなりましたが、テレビ東京の「早指し将棋選手権」という棋戦がありました。10年前にそのTV将棋で、僕が観た田村康介という男、これが面白かった。まだプロ2年の田村が10年選手のように堂々としていました。
 相手は田丸昇八段でした。その将棋は1手30秒(20秒だったか?)ですが、「早指しの田村」は2、3秒しか使わない。田村、優勢。考える、田丸八段。田丸が指すと、また2、3秒で田村は指す。そして、タバコをくわえ、ちらり、と田丸を見つめる…。その顔が、「かんがえすぎですよ、田丸さん、早く指しましょう」と言っているように僕には思えた。顔でベテランにプレッシャーをかける男、田村。
 田丸さんは粘ったが、田村の勝利。 田丸は「サンドバッグでした…」と感想で語った。
 NHK杯戦でも昔は指しながらタバコを吸っていたそうですが、今は見ません。この対局は準決勝で、田村康介(当時は四段)は決勝に進みました。決勝の、田村の相手は、A級棋士村山聖八段。おお、村山と田村の決勝か…! 僕はわくわくしたことを憶えています。

 決勝は村山聖が勝ちました。(田村さんと村山さんとは気が合ったそうですね。) 解説や読み上げの棋士(先崎学、高橋和ら)は、当然のようにお祝いの宴会を準備していたのですが、村山聖は「クリーニングへとりに行かないと」とかなんとか煙に巻いて一人帰り、村山抜きで祝宴をしたといいます。そのいいかげんな理由がコミカルですが、思えば、あのとき、村山さんは癌を患っていることがわかって、手術の準備をしていたんですね。その翌年の夏8月に村山聖は逝きました。


 田村、村田、田丸、村山… なんてややこしいんだ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする