アインシュタインの来日した大正時代あたりを調べていると、ちょくちょく「松井須磨子」の名が出てくる。1910年のハレー彗星について調べていたら、浦辺粂子が出てきて、それで浦辺さんに興味がわいて調べてみたら、そこにまた「松井須磨子」が現われた。 「松井須磨子」とは、よほどの有名人であったらしい。(美人には見えないけどね→画像)
松井須磨子は、もしかすると、日本で最初の「女優」なのかもしれない。新劇で、トルストイ『復活』のカチューシャ役が人気で、須磨子の歌う「カチューシャの唄」のレコードは大ヒットとなり、まだラジオのない時代なのに日本中の人がその歌を知っていたという。
その松井須磨子にあこがれて、浦辺粂子は16才のときに家出を敢行し、女優への道をすすんだのである。
浦辺粂子は、1902年伊豆下田に生まれた。本名は木村くめ。「くめ」は「久米」の意味で、一生食べる米に困らないようにと名づけられた。父は寺の住職だった。
7歳のとき、、ハレー彗星を見る。
浦辺粂子の母はなは、芝居が大好きで、たびたび娘くめを連れて東京の明治座まで芝居見物に行った。そのころはまだ、女役も男が演じていたのだが、そんなときに「新劇」が生まれ、松井須磨子が女を演じて評判となっていた。彼女の歌う「カチューシャの唄」が全国で流行った。その須磨子を見ようと、はなとくめは東京湯島まで出かけていった。それは新鮮だった。須磨子は、芝居がかった女ではない、普通の女を演じていた。歌声もすばらしかった。母子はすっかり魅せられた。
16歳のとき「女優になりたい」と父に申し出るがゆるしてもらえない。それでくめは家出した。その後は波乱万丈の役者生活。苦労した。
21歳、浦辺粂子として『清作の妻』で映画の主役デビュー。ちょっと変わった娼婦の役だった。その演技が評判になり、スターになる。
そういう変わった女役はだいたい女形(つまり男だ)が務めていた。そのために粂子が主役に抜擢されたときには、女形のひがみがすごかった。「あんな梅助になにができるんや」 それを知って粂子は「梅助とはなんですか」と聞いた。「おまえみたいな大根役者のことや、梅のようなしょっぱい、見ておれん芝居をするやつのことや」 粂子は「一つ勉強になりました。おおきに」と言って、しかし心の中では闘争心が燃えていた。それ以来、浦辺粂子は、梅も大根も、死ぬまで口に入れていない。
26歳、粂子は見初められて結婚する。相手は京都の実業家。ところが結婚してみるとこれがつまらない。自分で稼がないでお金を使うだけの生活。財布の中にはいつでもお金が十分にある。というか、財布さえ必要がない。なくても「これをください」といえば、届けてもらえたから。なんでも買える。ああおもしろくない。そのうち、夫の浮気がわかって、結婚生活1年目で、飛び出した。2度目の「家出」である。
粂子は、女優業へ戻った。
演技の研究心旺盛な粂子には、「へんな役」ばかりがくる。娼婦や狂女、粂子は何でもやった。そのうち、26歳なのに、20歳の娘の母親を演じろという。ということは40代…「老け役」だ。これがまた評価を得て、その後流行った「母親もの」の映画でひっぱりだこ。若い美人女優がやめていく中で、年を重ねても女優浦辺粂子はまったく仕事にこまらない。「老け役」には定年がないのだ。
というわけで粂子は、親に名づけられたとおり、「一生食べる米にこまらない」女優となったのである。
まったく、見事な役者人生だったというしかない。
浦辺粂子は80年代後半、片岡鶴太郎などによるモノマネで人気となり、それに乗じてレコードデビューした。これはその時点で、日本最高齢デビュー記録だった。(その記録はその後、きんさんぎんさんに破られたが) 松井須磨子が日本で最初にレコードデビューした女優であり、それにあこがれて女優になった浦辺さんが女優最高齢でレコードを出した… それもなんだか面白いことである。
テレビの企画で、2度目のハレー彗星も観に行った。
その浦辺さんを見ようと、僕は昨日、『さびしんぼう』(大林宣彦監督)を借りてきた。
僕は若い時、部屋にテレビがなく(TVを見るのがめんどうだった)、新聞も読まない(読むのがめんどうだった)そういう生活だったので、わりとよく映画を外に観に行った。そんな中にこの『さびしんぼう』もあって、あれはハレー彗星のやってくる前年だ。久々に観たが、この映画の風景も、浦辺粂子も、やっぱり、いい。一人でかるた遊びをしながら「知らぬがホトケ!」「あとは野となれ山となれ~」という浦辺粂子のセリフはつきぬけていて、最高である。(このシーン、映画館では爆笑だった。) この映画は、寺の息子である高校生の男の子が主役で、浦辺さんが「おばあちゃん」の役、これはストーリー的にはいてもいなくてもよい役どころなのだが、絶対いてくれないとこまると思わせてしまう。そして、お寺に生まれた浦辺さんが、お寺のおばあちゃんを演じている… 偶然だが、これもおもしろい神さまの演出だ。
浦辺さんは、一人でいても、まったく寂しさを感じさせない、そんなところが素敵だ。
一人でレストランへ行き、ハンバーグを食べる。
「あたしゃね、あのドロドロとした気取ったソースが嫌いでね。この、薄いソースでなきゃだめなの」と、ウスターソースを持参して来ていたという。賛成だ。東京はなぜ、食堂にウスターソースを置かないのかと、僕は前から不便に思っている。
浦辺粂子は1989年に亡くなった。こういうおばあさんが近所に住んでいたらいいなと思う。
松井須磨子は、もしかすると、日本で最初の「女優」なのかもしれない。新劇で、トルストイ『復活』のカチューシャ役が人気で、須磨子の歌う「カチューシャの唄」のレコードは大ヒットとなり、まだラジオのない時代なのに日本中の人がその歌を知っていたという。
その松井須磨子にあこがれて、浦辺粂子は16才のときに家出を敢行し、女優への道をすすんだのである。
浦辺粂子は、1902年伊豆下田に生まれた。本名は木村くめ。「くめ」は「久米」の意味で、一生食べる米に困らないようにと名づけられた。父は寺の住職だった。
7歳のとき、、ハレー彗星を見る。
浦辺粂子の母はなは、芝居が大好きで、たびたび娘くめを連れて東京の明治座まで芝居見物に行った。そのころはまだ、女役も男が演じていたのだが、そんなときに「新劇」が生まれ、松井須磨子が女を演じて評判となっていた。彼女の歌う「カチューシャの唄」が全国で流行った。その須磨子を見ようと、はなとくめは東京湯島まで出かけていった。それは新鮮だった。須磨子は、芝居がかった女ではない、普通の女を演じていた。歌声もすばらしかった。母子はすっかり魅せられた。
16歳のとき「女優になりたい」と父に申し出るがゆるしてもらえない。それでくめは家出した。その後は波乱万丈の役者生活。苦労した。
21歳、浦辺粂子として『清作の妻』で映画の主役デビュー。ちょっと変わった娼婦の役だった。その演技が評判になり、スターになる。
そういう変わった女役はだいたい女形(つまり男だ)が務めていた。そのために粂子が主役に抜擢されたときには、女形のひがみがすごかった。「あんな梅助になにができるんや」 それを知って粂子は「梅助とはなんですか」と聞いた。「おまえみたいな大根役者のことや、梅のようなしょっぱい、見ておれん芝居をするやつのことや」 粂子は「一つ勉強になりました。おおきに」と言って、しかし心の中では闘争心が燃えていた。それ以来、浦辺粂子は、梅も大根も、死ぬまで口に入れていない。
26歳、粂子は見初められて結婚する。相手は京都の実業家。ところが結婚してみるとこれがつまらない。自分で稼がないでお金を使うだけの生活。財布の中にはいつでもお金が十分にある。というか、財布さえ必要がない。なくても「これをください」といえば、届けてもらえたから。なんでも買える。ああおもしろくない。そのうち、夫の浮気がわかって、結婚生活1年目で、飛び出した。2度目の「家出」である。
粂子は、女優業へ戻った。
演技の研究心旺盛な粂子には、「へんな役」ばかりがくる。娼婦や狂女、粂子は何でもやった。そのうち、26歳なのに、20歳の娘の母親を演じろという。ということは40代…「老け役」だ。これがまた評価を得て、その後流行った「母親もの」の映画でひっぱりだこ。若い美人女優がやめていく中で、年を重ねても女優浦辺粂子はまったく仕事にこまらない。「老け役」には定年がないのだ。
というわけで粂子は、親に名づけられたとおり、「一生食べる米にこまらない」女優となったのである。
まったく、見事な役者人生だったというしかない。
浦辺粂子は80年代後半、片岡鶴太郎などによるモノマネで人気となり、それに乗じてレコードデビューした。これはその時点で、日本最高齢デビュー記録だった。(その記録はその後、きんさんぎんさんに破られたが) 松井須磨子が日本で最初にレコードデビューした女優であり、それにあこがれて女優になった浦辺さんが女優最高齢でレコードを出した… それもなんだか面白いことである。
テレビの企画で、2度目のハレー彗星も観に行った。
その浦辺さんを見ようと、僕は昨日、『さびしんぼう』(大林宣彦監督)を借りてきた。
僕は若い時、部屋にテレビがなく(TVを見るのがめんどうだった)、新聞も読まない(読むのがめんどうだった)そういう生活だったので、わりとよく映画を外に観に行った。そんな中にこの『さびしんぼう』もあって、あれはハレー彗星のやってくる前年だ。久々に観たが、この映画の風景も、浦辺粂子も、やっぱり、いい。一人でかるた遊びをしながら「知らぬがホトケ!」「あとは野となれ山となれ~」という浦辺粂子のセリフはつきぬけていて、最高である。(このシーン、映画館では爆笑だった。) この映画は、寺の息子である高校生の男の子が主役で、浦辺さんが「おばあちゃん」の役、これはストーリー的にはいてもいなくてもよい役どころなのだが、絶対いてくれないとこまると思わせてしまう。そして、お寺に生まれた浦辺さんが、お寺のおばあちゃんを演じている… 偶然だが、これもおもしろい神さまの演出だ。
浦辺さんは、一人でいても、まったく寂しさを感じさせない、そんなところが素敵だ。
一人でレストランへ行き、ハンバーグを食べる。
「あたしゃね、あのドロドロとした気取ったソースが嫌いでね。この、薄いソースでなきゃだめなの」と、ウスターソースを持参して来ていたという。賛成だ。東京はなぜ、食堂にウスターソースを置かないのかと、僕は前から不便に思っている。
浦辺粂子は1989年に亡くなった。こういうおばあさんが近所に住んでいたらいいなと思う。