≪月9一竜図≫
[THE MOON IS HELL!]
≪六月十日、宇宙船は、地球・カルフォルニア。インヨカーンを出発し、六月十五日、月(ルナ)に到着する。月を一周後、着陸は、できうるかぎり“裏側(ダークサイド)”の中心ちかくにおこなう。探検と資料収集は、一年十一ヵ月にわたっておこなわれる。(以下略)≫
六月十五日
今日でわれわれは、月世界に満二年をおくったことになる。
われわれは今日、帰還飛行に出発する計画だったのだ。帰還用宇宙船のみじめな残骸は、われわれを嘲笑しているようだ。何度も調査してみたが、使えそうなものの痕跡は何ひとつ発見されなかった。爆発した燃料が、あらゆるものを破壊してしまったのだ。
(C.W.キャンベルJr.著『月は地獄だ!』から)
これはC.W.キャンベルJr.による1951年に発表されたSF小説である。この小説の設定では、人類の月への到達は1974年ということになっている。そしてアメリカ合衆国は1979年“月の裏側(ダークサイド)”に15人の隊員を送り込み、「月の裏側の領土宣言」を行って、その15人を2年間滞在させ、鉱物調査研究などの仕事を任せ、2年後に交代の人員を乗せた宇宙船がやってきて任務引き継ぎをさせる――という計画だった。ところが、その帰還用宇宙船が着陸時に爆発大破してしまったのである。
この設定を、「現実」の進展と較べてみると面白い。「現実」世界での人類の月への到達(アポロ11号)は1969年で、この小説よりも5年早い。(この時代の科学の進歩のスピートの凄さよ!) しかしこの小説の中の宇宙船は、1979年に、宇宙船で一度に“15人”を月世界に送り込んでいる。(そんな宇宙船は今リアルに想像できない)
この小説は、月の裏側に孤立してしまった彼ら“15人”のサバイバル物語である。地球からの助けが来ると信じて待つしかないが、それまでどうやって生き延びるか。食料、水、空気をどうやって得るか。暖房をどうするか、あるいは地球との通信をどうするか(月の裏側なので無線がつながらない)。 (「15人」という設定は、あるいは『十五少年漂流記』を意識したものだろうか?)
そういう話である。 “宇宙人”は登場しない、人間の物語である。
このように1950年代になると、SF小説のなかに安易に宇宙人は登場させられなくなった。人類の宇宙への進出がリアルに迫ってくると、“宇宙人の登場する話”などはすでに1930年代に流行った古いおとぎ話になってきはじめていたのである。
C.W.キャンベルJr.は主に1930年代に作家として活躍した。代表作は『影が行く(Who Goes There?)』(1938年)で、『遊星からの物体X(The Thing from Another World)』として3度、映画化されており、この映画のファンも多い。
アイザック・アシモフは少年時代、“本”だけが友人だった。陽気な社交的な性格であったが、常時家のキャンディストアの店番をしなければならなかったし、学業成績が抜群だったのでひとよりも早く進学し、特定の親しい友人ができなかったのだ。読んだ本はほとんど文面まで内容を憶えていたし、15歳で大学生(コロンビア大学)、19歳のときにはすでに大学院生になっていた。専攻は化学だった。
そんなアシモフが10代の時に憧れた作家の一人がC.W.キャンベルJr.であった。そのアシモフは1951年に映画化された『遊星からの物体X』を観て、がっかりした。あの素晴らしい小説をこんなにつまらなくしてしまうなんて!
C.W.キャンベルJr.の名は、SF界では、作家というよりも、“名編集長”として有名である。キャンベルは1938年にSF雑誌『アスタウンディング』の編集長になる。
その時にアイザック・アシモフ(当時18歳大学生で、キャンベル編集長は28歳)はこの『アスタウンディング』への小説の持ち込みを始めた。それはほとんどボツだったが、アシモフはキャンベルとSFの話ができることが嬉しくて、どれだけ持ち込み作品が不採用になっても、キャンベルと話した後の帰りの途では、次の小説への意欲が満ち溢れるのであった。
C.W.キャンベルJr.という男は、あふれんばかりのアイデアマンだったのだろう。彼が編集ではなく小説の執筆だけに専念していたとしたら、そちらで第一人者になっていたに違いない。
あのアイザック・アシモフの有名な「ロボット工学3原則」はキャンベルの口から出たアイデアだったし(アシモフがそう日記に書いて公表している。しかしキャンベルはそれを否定している。つまりキャンベルは自分で発言したことをいちいち憶えていなかったということだろう)、またアシモフの代表作『銀河帝国の興亡(ファウンデーション)』のシリーズで途中から“ミュール”という名の強力な超能力者が登場して話ががぜん面白くなるが、あれもキャンベルのアイデアであった。キャンベルからそれを聞いた時、アシモフは最初気が進まなかったと後に述べているが、“ミュール”が登場しなかったら、きっと読者も退屈していただろう。
『銀河帝国の興亡』は、人類が銀河宇宙の隅々にまで勢力を拡げたその後の話(つまり途方もない未来の話)であるが、この話には“宇宙人”は一切登場しない。これにはアシモフの裏事情があって、“宇宙人”を登場させると編集長キャンベルとの打ち合わせがややこしくなってしまう、だからここは“宇宙人なしで行こう”とアシモフは思ったのだ。“宇宙人”を登場させると、必ずやキャンベルはそれが人類よりも知性的に劣る存在でなければ納得しない、そういうところがアシモフの考えと衝突して話が先に進まない、アシモフはそう感じたからであった。
その結果、『銀河帝国の興亡』は“宇宙人”は登場しない世界となったが、SF的にはそのことで『銀河帝国の興亡』は古臭くない作品としてその後に評価されやすくなった。『銀河帝国の興亡(ファウンデーション)』三部作がSF大会で発表されるフューゴー賞に選ばれたのは1966年である。それが書かれ発表されたのは1940年代なのに。雑誌連載当時よりも、20年後になって評価されたのであった。
このように、1950年代以降、安易に“宇宙人”を出すと、「30年代の古臭いSF」の色に染まって見えてしまうのである。
(1960年代にはニューウェーブというものが流行った。これからのSFは外宇宙をめざすのではく、内宇宙をめざす――というのである。そういうこむずかしい世界にSF文学は突入するはめになってしまったのだ)
それでもやっぱり、一般のSFファンは“宇宙人”が大好きである。“宇宙人の出ないSFなんて”、それじゃあ面白くないのである。
だから、アメリカのSFシーンの内容的な盛り上がりのピークは、実は1930年代、40年代なのである。アシモフの『ロボット工学シリーズ』も、『銀河帝国の興亡』シリーズも、1940年代の作品群である。
1930年代の、SF雑誌を中心としたファンの盛り上がりは、かつてない現象であった。「オタク」のルーツがここにあった。
“彼ら”のヒーロー(作家)は、E・R・バロウズ、E・E・スミス(『宇宙のスカイラーク』シリーズ、『レンズマン』シリーズ)、エドモント・ハミルトン(『キャプテン・フューチャー』シリーズ)、そしてC.W.キャンベルJr.である。
それらのSF物語の面白さについて語り合う仲間を求めて、“彼ら”は集団を結成し、集会を開いた。(まだ飛行旅客機のない時代である)
それがついに全米レベルになり、「世界SF大会」の第1回がニューヨークで開かれる運びとなった。それが1939年のことである。(欧州では第二次世界大戦がはじまっていた)
しかしこの「第1回世界SF大会」の運営は順調なものではなかった。実はこの時、SFファンの団体勢力は2つの団体に二分されており、そのうちの片方の団体が「第1回世界SF大会」を開くというのだから、もう片方の側としては面白くない。「おれたちを差し置いてなにが“世界SF大会”だ」、ということになる。不満のかたまりと化した彼らは、「世界SF大会」の会場の入口前を陣取って占拠した。つまりは、“いやがらせ”である。結局のところ、“彼ら”もSF大会に興味があって参加したくて仕方がなかったのである。参加したいのだけどライバル団体だから素直にそれができない。その気持ちがそういう形で表われたのだった。 二つのSFファン団体は、話し合ってそれを解決した。ケンカはせずに、今日は一緒に祭りを楽しもうということになり、主催団体は入り口前を陣取っている集団を、中へと招き入れたのである。
こうして「世界SF大会」が始まったのである。
この1939年ニューヨークでのSF大会の時、アイザック・アシモフ(19歳)も、入口前を占拠した団体の中にいたのであった。
日本の「SF大会」は、1962年に、東京でその第1回が開催された。
「オタク」という言葉は1980年代に生まれて流行りはじめ、1990年頃には誰もが知る言葉となった。今では世界で通用する言葉である。ただしその言葉の正確な定義は曖昧なまま使用されているのであるが。
今では「オタク」の定義が広義に使われるので、何かを偏愛的に好きになる人はみな「オタク」になってしまうが、80年代について言えば、アニメファン、特撮ファンが中心であっただろう。いや、それだけではまだ「オタク」ではない。その中に含まれていた「美少女」という要素、これが爆発力を持っていた。「SF」と「美少女」というのが重要なファクターだった。
最初は「マンガ同人誌」というものを土壌とし、その文化は発達した。 「オタク」達の集う場所が“コミケ”(“コミックマーケット”の略語)だった。
しかし“コミケ”という催し自体、単に同人誌を売り買いする「同人誌即売会」であり、本来は地味なもののはずである。そこに“華”を添えて、他では味わえないお祭り感を、遠く地方等からやって来た客に味あわせてお土産にしたのが、「コスプレ」(コスチューム・プレイの略語)である。「コスプレ」を目にした客人たちは、彼らコスプレイヤーを写真に撮り、地元に帰ってその写真を見せることで、自分は“面白い場所”に行ったのだと人に示したり、また自分で再確認することができたのである。
Wikipediaによれば、“コミケ”の「コスプレ」は1977年頃に流行りはじめたようである。
さらにその源流を辿れば、「日本SF大会」に、「コスプレ文化」の源流があって、1974年にE・R・バロウズ著『火星の秘密兵器』創元文庫の表紙絵(武部本一郎画)の王女のコスプレが最初という記録があるようだ。(『火星の秘密兵器』は『火星のプリンセス』から始まるバロウズの「火星シリーズ」の第7話になる。『火星の秘密兵器』をバロウズがアメリカで発表したのは1930年)
しかしSFコスプレ文化は、アメリカのほうがもっと早く、〔古くからハロウィンで仮装する伝統があるアメリカでは、1960年代後半からSF大会等のイベントにおいて、『スタートレック』等のSF作品に登場する人物の仮装大会 (masquerade) を行なっていた〕と、やはりWikipediaに書かれている。
「SF」が「オタク文化」の源流にあることは確かなように思われる。
日本での「オタク文化」の中心には「SF]があり、「SF」はアメリカからやってきたのである。
そこに推進力を加えたのが「美少女」である。
本来は「SF」と「美少女」とは結びつく必然性は何もないわけであるが、その必然性のない両者を結び付け組み合わせることで、爆発的な連鎖エネルギーを発生させたのである。
日本の“コミケ”という場で、「SF」と「美少女」が混ざり合わさり、祭りが生まれたのだ。
≪月2二玉図≫
〔一〕4一銀 → 後手勝ち
〔二〕2五玉 → 後手勝ち
〔三〕6六角 → 後手勝ち
〔四〕4五玉 → 後手勝ち
≪亜空間戦争≫は勝負どころを迎えている。
この≪月2二玉図≫が問題の局面で、ここで先手に勝ち筋があるかどうか、それがこの闘いのカギを握っている。しかしこのように〔一〕~〔四〕の4つの手段は、すでに「後手勝ち」が判明した。〔一〕4一銀で先手が勝てそうだ、というのが我々の最初のイメージであったが、その勝利のイメージは打ち砕かれた。4一銀は、4二桂、2五玉、4一銀という手順で後手勝ちとなる。
というわけで、我々終盤探検隊は、別の手を模索しなければならなくなった。勝利(我々の部隊は「先手側」に組み入れられている)のためには、それしかないのだ。
この図で、先手がぼやぼやしていると、後手からは2つの手段があって、そのどちらかの手で先手は「負け」に追い込まれる。2つの手段とは、[A] 4二桂と、[B] 3三桂打である。
だから〔二〕2五玉や〔四〕4五玉も検討してみたのだったが、これは駄目とわかった。
〔三〕6六角も、[B]3三桂打に敗れ去った。
そういう状況である。
〔五〕7三歩成
7三歩成図1
ここでの7三歩成はぼんやりしすぎの手に見える。しかし無意味な手ではなく、駒をたくわえたときの3一銀、同玉、4一金以下のイッキの詰み(または寄せ)を狙う手なのである。
ここで後手の候補手はやはり[A]4二桂と、[B]3三桂打である。
[A]4二桂から調べてみよう。
以下、2五玉、3三桂、1七玉、3八金、1八玉、2八銀、4九飛と進んで次の図である。
7三歩成図2
こうなって、これは〔二〕2五玉の時に調べた図とほぼ同じで、その形に先手の7三歩成が入っているが、この手が先手にとってなんのプラスにもなっていないようにみえる。しかし、先手も狙っているのである。
〔二〕2五玉で調べた時、ここから2九銀不成、同飛、同金、同玉、3七銀不成と進め、それで後手勝ちと結論した。
同じように進めてみよう。
2九銀不成、同飛、同金、同玉、3七銀不成、そこで3一銀(次の図)
7三歩成図3
駒を蓄えた先手はここで3一銀と攻めに転じる。この時に7三のと金が後手玉を詰めるのに働くという算段なのだ。
うまくいくだろうか。
3一同玉、4一金、同銀、同桂成、同玉、4二歩、同金(同玉は先手勝ち)、8五角(次の図)
7三歩成図4
5二桂、5一竜、同玉、6二と、4一玉、5二と、同金、4二歩(次の図)
7三歩成図5
これは先手勝ちになっている。後手玉は“詰み”。
図の4二歩に、同玉は6四角から、5一玉は7三角から詰みとなる。
これは先手の計画がピッタリとはまった。
しかし後手の応手に問題はなかっただろうか。
7三歩成図6
実は先手の8五角に5二桂が問題で、そこでは5二銀(図)が正着なのだ。これなら後手玉は詰まず、後手勝ちになる。
5一竜、同玉、6二とに、“同玉”として、そこで6三銀が今度は無効なので詰まないのだ。
では、ここから、5一竜、同玉、6二金と攻めるのはどうか。
以下、4一玉、5二金、同金、同角成、同玉、6三銀、5三玉で、次の図。
7三歩成図7
惜しくも、詰まない。(持駒の「角金銀銀」が「角金金銀」だったなら詰むのだけれども…)
また、[A]4二桂以下のこのコースは「7三歩成図2」(先手が4九飛と受けたところ)で、3七銀行成とするのが手堅く、これも後手勝ちである。
ということで、〔五〕7三歩成は[A]4二桂以下、後手勝ち、が結論だが、[B]3三桂打はどうなるか。それも確認しておこう。
[B]3三桂打に、3一角、同玉、4一金と攻めていく。以下同銀、同桂成、同玉に、4二歩(次の図)
7三歩成図
この4二歩(図)が期待の一手である。
これを同金は、5一竜、同玉、6一飛以下詰む。7三に「と金」が出来ているのでこうした攻めが可能となったわけだ。
よって4二同玉だが、8六角と王手し、後手5三銀合、先手2三玉で、次の図となる。
7三歩成図
1一まで入玉すれば先手勝ちになる。
だから後手は6七角と打ち、3四歩に、同角成、同玉と強引に先手玉をバックさせるしかない。そして2二歩。
先手の手番が来たが、そこで5三角成(次の図)
7三歩成図
これを同金は3一角から詰むので、5三同玉だが、実はそれも詰むのである。詰み筋は、5三同玉に、6三飛、同金、同と、同玉、7二角以下。
7三の「と金」があるからこの攻め筋が威力を発揮できたのである。先手の勝ちになった。
しかし、ではこの変化、先手勝ちなのかというと、ここまでの手順で一か所問題がある。(やはり“合駒”が問題だった)
7三歩成図
今の手順を途中まで戻って、8六角と王手した時に、この図のように“5三桂合”とすれば、状況が変わってくる。
今度は、後手が「角金銀」と持っているので、ここで2三玉には、3二金、1二玉、2三角以下、先手玉は捕えられてしまうのだ(詰みとなる)。
かといって、図で5四歩では、2四金の一手詰め。
よってこの図は、先手の負けのようだ。
つまりこの攻めも、先手少し足らず、結果としては 〔五〕7三歩成に[B]3三桂打でも「後手勝ち」 である。
〔六〕9一竜
9一竜図1
〔六〕9一竜と「香車」を入手したところ。持駒に「香」を一枚加えることで、先手の攻めや受けに技が増えるが、実際に“勝ち味”が出てくるだろうか。
後手の手番だがやはりここは2つの候補手、[A]4二桂と、[B]3三桂打が有力である。
[B]3三桂打を調べていく。次の図である。
9一竜図2
先手玉は放置すると2五銀や4五銀で詰まされるので、3六角(次の図)とそれを受ける。
9一竜図3
この角は5四や6三にも利いている。この角の利きを攻めに使うねらいもあるのだ。
ここで後手が<e>2四歩(次に2三銀の狙い)なら、この角の利きが有効に働いて先手が勝つ。すなわち、2四歩に、3一銀、同玉、4一金、2二玉なら3一角、1一玉、2三香(次の図)となり――
9一竜図4
この図は先手勝ちになっている。
この変化の途中、4一金を同銀なら、後手玉は“詰み”がある。それも確認しておこう。
4一同銀、同桂成、同玉、3二銀、同玉、2三角、4二玉、2二飛で次の図になる。
9一竜図5
5三玉、5二飛成、同玉、6二金、同玉、6四香。 以下、後手玉は詰みとなる。
これは9一竜と香車を取った手と、3六角と打った手が最大に効果を発揮して先手がうまくいった。
9一竜図6
よって、3六角の図では、後手は<f>4四歩とこちらの歩を突くのが考えられる。これは後手有望かと思われるが、はっきり後手勝ちとも言い切れない変化となる。
4四歩に、3一角、同玉、4一飛、同銀、同桂成、同玉、2三玉、4二飛、3二歩、同飛、4三香(次の図)というのがその変化。
9一竜図7
この香打ちがある。これを同金だと、5一竜、同玉、3二玉で先手良しとなる。
したがって4三香には、後手は4二銀または4二桂という手になるが、同香成と取って、まだまだ大変な勝負である。
9一竜図8
ということで、先手3六角に対する後手の最善は、<g>3一歩(図)と、我々(終盤探検隊)は判断している。これは3一歩とここを受けておいて、次に2四歩や4四歩とすれば、後手の勝ちが確定する、という考えだ。
それを上回る手段が先手にあるかどうかが勝負となる。なにもないなら、先手が負けだ。
4一銀と打ち、同銀に、2六香とする。後手は3二銀だが、そこで4一角(次の図)
9一竜図9
9一で取った「香車」を2六に打って、先手はなんとか攻める形をつくった。
この図は次に2三香成から後手玉の詰みがあるが、しかし狙いが単純なのでちょっと先手の攻めは届かない。
ここは1四銀と受けられても先手が悪いが、後手にはもっと華麗な決め手がある。「2五桂」だ。
「2五桂」は3三の空間を開ける手で、2五同香なら3三銀で先手玉が詰み。
「2五桂」に1五歩(2五玉~1六玉の逃げ込みを狙う)は、2四銀、2五香、3三銀打、4五玉、5三金で後手良し。
なので「2五桂」に、先手は5二角成で勝負してみる(次の図)
9一竜図10
これを5二同歩なら、3三歩と打つ。同銀に、4三玉と入って、これは先手良しになる。
しかし図で、5二の馬を取らずに、3三銀打、4五玉、6五銀として、次の図。
9一竜図11
これで「後手勝ち」が確定である。
2五角なら、4四銀、3四玉、5四銀で先手玉は“必至”となる。
図で4七角も同とで、先手は指す手がない。
以上の調査により、先手の〔六〕9一竜には、[B]3三桂打で「後手勝ち」。
(また、解説は省くが〔六〕9一竜に[A]4二桂でも後手勝ちになる)
〔七〕8二飛
8二飛図1
この〔七〕8二飛は後手の [B] 3三桂打 と [A] 4二桂、その両方に対応できている。
8二飛図2
[B]3三桂打には、3一銀(図)から攻めていく。
同玉に、5一竜、同金、4一金で後手玉は“詰み”。
8二飛図3
「8二飛図1」から、[A]4二桂なら、2五玉、3三桂、2六玉、3四桂、1七玉、3八金でこの図である。
ここで後手玉に詰みがある。3一銀、同玉、4二金(次の図)
8二飛図4
4二同玉、5二飛成、同玉、6一竜、5三玉、7一角、6二歩、同竜、5四玉、3六角(次の図)
8二飛図5
詰み。
このように、8二飛は、後手の [B] 3三桂打 と [A] 4二桂 の両方に対応している。
だが、問題がある。
8二飛図
8二歩に、6二歩(図)。
これで飛車の横利きを封じられ、ここでは後手からの[B]3三桂打と、[A]4二桂、その両方の手段が再び有効になっている。いや、この図になってみると、8二飛と6二歩との交換によって先手が飛車を打ってしまって持ち駒として使えないマイナスのほうが大きく、むしろ状況は先手にとって悪化している。〔七〕8二飛は打った意味がなかった(6筋に後手の歩が打てない状況ならよかったのだが)
ということで、〔七〕8二飛は、6二歩で「後手勝ち」、が結論。
≪月2二玉図≫再掲
〔一〕4一銀 → 後手勝ち
〔二〕2五玉 → 後手勝ち
〔三〕6六角 → 後手勝ち
〔四〕4五玉 → 後手勝ち
〔五〕7三歩成 → 後手勝ち
〔六〕9一竜 → 後手勝ち
〔七〕8二飛 → 後手勝ち
先手、勝ちの見えない闘いとなっている。
勝ちという希望がない、それでも戦いを続けるしかない。たしかにこれは“地獄の闘い”である。
[THE MOON IS HELL!]
≪六月十日、宇宙船は、地球・カルフォルニア。インヨカーンを出発し、六月十五日、月(ルナ)に到着する。月を一周後、着陸は、できうるかぎり“裏側(ダークサイド)”の中心ちかくにおこなう。探検と資料収集は、一年十一ヵ月にわたっておこなわれる。(以下略)≫
六月十五日
今日でわれわれは、月世界に満二年をおくったことになる。
われわれは今日、帰還飛行に出発する計画だったのだ。帰還用宇宙船のみじめな残骸は、われわれを嘲笑しているようだ。何度も調査してみたが、使えそうなものの痕跡は何ひとつ発見されなかった。爆発した燃料が、あらゆるものを破壊してしまったのだ。
(C.W.キャンベルJr.著『月は地獄だ!』から)
これはC.W.キャンベルJr.による1951年に発表されたSF小説である。この小説の設定では、人類の月への到達は1974年ということになっている。そしてアメリカ合衆国は1979年“月の裏側(ダークサイド)”に15人の隊員を送り込み、「月の裏側の領土宣言」を行って、その15人を2年間滞在させ、鉱物調査研究などの仕事を任せ、2年後に交代の人員を乗せた宇宙船がやってきて任務引き継ぎをさせる――という計画だった。ところが、その帰還用宇宙船が着陸時に爆発大破してしまったのである。
この設定を、「現実」の進展と較べてみると面白い。「現実」世界での人類の月への到達(アポロ11号)は1969年で、この小説よりも5年早い。(この時代の科学の進歩のスピートの凄さよ!) しかしこの小説の中の宇宙船は、1979年に、宇宙船で一度に“15人”を月世界に送り込んでいる。(そんな宇宙船は今リアルに想像できない)
この小説は、月の裏側に孤立してしまった彼ら“15人”のサバイバル物語である。地球からの助けが来ると信じて待つしかないが、それまでどうやって生き延びるか。食料、水、空気をどうやって得るか。暖房をどうするか、あるいは地球との通信をどうするか(月の裏側なので無線がつながらない)。 (「15人」という設定は、あるいは『十五少年漂流記』を意識したものだろうか?)
そういう話である。 “宇宙人”は登場しない、人間の物語である。
このように1950年代になると、SF小説のなかに安易に宇宙人は登場させられなくなった。人類の宇宙への進出がリアルに迫ってくると、“宇宙人の登場する話”などはすでに1930年代に流行った古いおとぎ話になってきはじめていたのである。
C.W.キャンベルJr.は主に1930年代に作家として活躍した。代表作は『影が行く(Who Goes There?)』(1938年)で、『遊星からの物体X(The Thing from Another World)』として3度、映画化されており、この映画のファンも多い。
アイザック・アシモフは少年時代、“本”だけが友人だった。陽気な社交的な性格であったが、常時家のキャンディストアの店番をしなければならなかったし、学業成績が抜群だったのでひとよりも早く進学し、特定の親しい友人ができなかったのだ。読んだ本はほとんど文面まで内容を憶えていたし、15歳で大学生(コロンビア大学)、19歳のときにはすでに大学院生になっていた。専攻は化学だった。
そんなアシモフが10代の時に憧れた作家の一人がC.W.キャンベルJr.であった。そのアシモフは1951年に映画化された『遊星からの物体X』を観て、がっかりした。あの素晴らしい小説をこんなにつまらなくしてしまうなんて!
C.W.キャンベルJr.の名は、SF界では、作家というよりも、“名編集長”として有名である。キャンベルは1938年にSF雑誌『アスタウンディング』の編集長になる。
その時にアイザック・アシモフ(当時18歳大学生で、キャンベル編集長は28歳)はこの『アスタウンディング』への小説の持ち込みを始めた。それはほとんどボツだったが、アシモフはキャンベルとSFの話ができることが嬉しくて、どれだけ持ち込み作品が不採用になっても、キャンベルと話した後の帰りの途では、次の小説への意欲が満ち溢れるのであった。
C.W.キャンベルJr.という男は、あふれんばかりのアイデアマンだったのだろう。彼が編集ではなく小説の執筆だけに専念していたとしたら、そちらで第一人者になっていたに違いない。
あのアイザック・アシモフの有名な「ロボット工学3原則」はキャンベルの口から出たアイデアだったし(アシモフがそう日記に書いて公表している。しかしキャンベルはそれを否定している。つまりキャンベルは自分で発言したことをいちいち憶えていなかったということだろう)、またアシモフの代表作『銀河帝国の興亡(ファウンデーション)』のシリーズで途中から“ミュール”という名の強力な超能力者が登場して話ががぜん面白くなるが、あれもキャンベルのアイデアであった。キャンベルからそれを聞いた時、アシモフは最初気が進まなかったと後に述べているが、“ミュール”が登場しなかったら、きっと読者も退屈していただろう。
『銀河帝国の興亡』は、人類が銀河宇宙の隅々にまで勢力を拡げたその後の話(つまり途方もない未来の話)であるが、この話には“宇宙人”は一切登場しない。これにはアシモフの裏事情があって、“宇宙人”を登場させると編集長キャンベルとの打ち合わせがややこしくなってしまう、だからここは“宇宙人なしで行こう”とアシモフは思ったのだ。“宇宙人”を登場させると、必ずやキャンベルはそれが人類よりも知性的に劣る存在でなければ納得しない、そういうところがアシモフの考えと衝突して話が先に進まない、アシモフはそう感じたからであった。
その結果、『銀河帝国の興亡』は“宇宙人”は登場しない世界となったが、SF的にはそのことで『銀河帝国の興亡』は古臭くない作品としてその後に評価されやすくなった。『銀河帝国の興亡(ファウンデーション)』三部作がSF大会で発表されるフューゴー賞に選ばれたのは1966年である。それが書かれ発表されたのは1940年代なのに。雑誌連載当時よりも、20年後になって評価されたのであった。
このように、1950年代以降、安易に“宇宙人”を出すと、「30年代の古臭いSF」の色に染まって見えてしまうのである。
(1960年代にはニューウェーブというものが流行った。これからのSFは外宇宙をめざすのではく、内宇宙をめざす――というのである。そういうこむずかしい世界にSF文学は突入するはめになってしまったのだ)
それでもやっぱり、一般のSFファンは“宇宙人”が大好きである。“宇宙人の出ないSFなんて”、それじゃあ面白くないのである。
だから、アメリカのSFシーンの内容的な盛り上がりのピークは、実は1930年代、40年代なのである。アシモフの『ロボット工学シリーズ』も、『銀河帝国の興亡』シリーズも、1940年代の作品群である。
1930年代の、SF雑誌を中心としたファンの盛り上がりは、かつてない現象であった。「オタク」のルーツがここにあった。
“彼ら”のヒーロー(作家)は、E・R・バロウズ、E・E・スミス(『宇宙のスカイラーク』シリーズ、『レンズマン』シリーズ)、エドモント・ハミルトン(『キャプテン・フューチャー』シリーズ)、そしてC.W.キャンベルJr.である。
それらのSF物語の面白さについて語り合う仲間を求めて、“彼ら”は集団を結成し、集会を開いた。(まだ飛行旅客機のない時代である)
それがついに全米レベルになり、「世界SF大会」の第1回がニューヨークで開かれる運びとなった。それが1939年のことである。(欧州では第二次世界大戦がはじまっていた)
しかしこの「第1回世界SF大会」の運営は順調なものではなかった。実はこの時、SFファンの団体勢力は2つの団体に二分されており、そのうちの片方の団体が「第1回世界SF大会」を開くというのだから、もう片方の側としては面白くない。「おれたちを差し置いてなにが“世界SF大会”だ」、ということになる。不満のかたまりと化した彼らは、「世界SF大会」の会場の入口前を陣取って占拠した。つまりは、“いやがらせ”である。結局のところ、“彼ら”もSF大会に興味があって参加したくて仕方がなかったのである。参加したいのだけどライバル団体だから素直にそれができない。その気持ちがそういう形で表われたのだった。 二つのSFファン団体は、話し合ってそれを解決した。ケンカはせずに、今日は一緒に祭りを楽しもうということになり、主催団体は入り口前を陣取っている集団を、中へと招き入れたのである。
こうして「世界SF大会」が始まったのである。
この1939年ニューヨークでのSF大会の時、アイザック・アシモフ(19歳)も、入口前を占拠した団体の中にいたのであった。
日本の「SF大会」は、1962年に、東京でその第1回が開催された。
「オタク」という言葉は1980年代に生まれて流行りはじめ、1990年頃には誰もが知る言葉となった。今では世界で通用する言葉である。ただしその言葉の正確な定義は曖昧なまま使用されているのであるが。
今では「オタク」の定義が広義に使われるので、何かを偏愛的に好きになる人はみな「オタク」になってしまうが、80年代について言えば、アニメファン、特撮ファンが中心であっただろう。いや、それだけではまだ「オタク」ではない。その中に含まれていた「美少女」という要素、これが爆発力を持っていた。「SF」と「美少女」というのが重要なファクターだった。
最初は「マンガ同人誌」というものを土壌とし、その文化は発達した。 「オタク」達の集う場所が“コミケ”(“コミックマーケット”の略語)だった。
しかし“コミケ”という催し自体、単に同人誌を売り買いする「同人誌即売会」であり、本来は地味なもののはずである。そこに“華”を添えて、他では味わえないお祭り感を、遠く地方等からやって来た客に味あわせてお土産にしたのが、「コスプレ」(コスチューム・プレイの略語)である。「コスプレ」を目にした客人たちは、彼らコスプレイヤーを写真に撮り、地元に帰ってその写真を見せることで、自分は“面白い場所”に行ったのだと人に示したり、また自分で再確認することができたのである。
Wikipediaによれば、“コミケ”の「コスプレ」は1977年頃に流行りはじめたようである。
さらにその源流を辿れば、「日本SF大会」に、「コスプレ文化」の源流があって、1974年にE・R・バロウズ著『火星の秘密兵器』創元文庫の表紙絵(武部本一郎画)の王女のコスプレが最初という記録があるようだ。(『火星の秘密兵器』は『火星のプリンセス』から始まるバロウズの「火星シリーズ」の第7話になる。『火星の秘密兵器』をバロウズがアメリカで発表したのは1930年)
しかしSFコスプレ文化は、アメリカのほうがもっと早く、〔古くからハロウィンで仮装する伝統があるアメリカでは、1960年代後半からSF大会等のイベントにおいて、『スタートレック』等のSF作品に登場する人物の仮装大会 (masquerade) を行なっていた〕と、やはりWikipediaに書かれている。
「SF」が「オタク文化」の源流にあることは確かなように思われる。
日本での「オタク文化」の中心には「SF]があり、「SF」はアメリカからやってきたのである。
そこに推進力を加えたのが「美少女」である。
本来は「SF」と「美少女」とは結びつく必然性は何もないわけであるが、その必然性のない両者を結び付け組み合わせることで、爆発的な連鎖エネルギーを発生させたのである。
日本の“コミケ”という場で、「SF」と「美少女」が混ざり合わさり、祭りが生まれたのだ。
≪月2二玉図≫
〔一〕4一銀 → 後手勝ち
〔二〕2五玉 → 後手勝ち
〔三〕6六角 → 後手勝ち
〔四〕4五玉 → 後手勝ち
≪亜空間戦争≫は勝負どころを迎えている。
この≪月2二玉図≫が問題の局面で、ここで先手に勝ち筋があるかどうか、それがこの闘いのカギを握っている。しかしこのように〔一〕~〔四〕の4つの手段は、すでに「後手勝ち」が判明した。〔一〕4一銀で先手が勝てそうだ、というのが我々の最初のイメージであったが、その勝利のイメージは打ち砕かれた。4一銀は、4二桂、2五玉、4一銀という手順で後手勝ちとなる。
というわけで、我々終盤探検隊は、別の手を模索しなければならなくなった。勝利(我々の部隊は「先手側」に組み入れられている)のためには、それしかないのだ。
この図で、先手がぼやぼやしていると、後手からは2つの手段があって、そのどちらかの手で先手は「負け」に追い込まれる。2つの手段とは、[A] 4二桂と、[B] 3三桂打である。
だから〔二〕2五玉や〔四〕4五玉も検討してみたのだったが、これは駄目とわかった。
〔三〕6六角も、[B]3三桂打に敗れ去った。
そういう状況である。
〔五〕7三歩成
7三歩成図1
ここでの7三歩成はぼんやりしすぎの手に見える。しかし無意味な手ではなく、駒をたくわえたときの3一銀、同玉、4一金以下のイッキの詰み(または寄せ)を狙う手なのである。
ここで後手の候補手はやはり[A]4二桂と、[B]3三桂打である。
[A]4二桂から調べてみよう。
以下、2五玉、3三桂、1七玉、3八金、1八玉、2八銀、4九飛と進んで次の図である。
7三歩成図2
こうなって、これは〔二〕2五玉の時に調べた図とほぼ同じで、その形に先手の7三歩成が入っているが、この手が先手にとってなんのプラスにもなっていないようにみえる。しかし、先手も狙っているのである。
〔二〕2五玉で調べた時、ここから2九銀不成、同飛、同金、同玉、3七銀不成と進め、それで後手勝ちと結論した。
同じように進めてみよう。
2九銀不成、同飛、同金、同玉、3七銀不成、そこで3一銀(次の図)
7三歩成図3
駒を蓄えた先手はここで3一銀と攻めに転じる。この時に7三のと金が後手玉を詰めるのに働くという算段なのだ。
うまくいくだろうか。
3一同玉、4一金、同銀、同桂成、同玉、4二歩、同金(同玉は先手勝ち)、8五角(次の図)
7三歩成図4
5二桂、5一竜、同玉、6二と、4一玉、5二と、同金、4二歩(次の図)
7三歩成図5
これは先手勝ちになっている。後手玉は“詰み”。
図の4二歩に、同玉は6四角から、5一玉は7三角から詰みとなる。
これは先手の計画がピッタリとはまった。
しかし後手の応手に問題はなかっただろうか。
7三歩成図6
実は先手の8五角に5二桂が問題で、そこでは5二銀(図)が正着なのだ。これなら後手玉は詰まず、後手勝ちになる。
5一竜、同玉、6二とに、“同玉”として、そこで6三銀が今度は無効なので詰まないのだ。
では、ここから、5一竜、同玉、6二金と攻めるのはどうか。
以下、4一玉、5二金、同金、同角成、同玉、6三銀、5三玉で、次の図。
7三歩成図7
惜しくも、詰まない。(持駒の「角金銀銀」が「角金金銀」だったなら詰むのだけれども…)
また、[A]4二桂以下のこのコースは「7三歩成図2」(先手が4九飛と受けたところ)で、3七銀行成とするのが手堅く、これも後手勝ちである。
ということで、〔五〕7三歩成は[A]4二桂以下、後手勝ち、が結論だが、[B]3三桂打はどうなるか。それも確認しておこう。
[B]3三桂打に、3一角、同玉、4一金と攻めていく。以下同銀、同桂成、同玉に、4二歩(次の図)
7三歩成図
この4二歩(図)が期待の一手である。
これを同金は、5一竜、同玉、6一飛以下詰む。7三に「と金」が出来ているのでこうした攻めが可能となったわけだ。
よって4二同玉だが、8六角と王手し、後手5三銀合、先手2三玉で、次の図となる。
7三歩成図
1一まで入玉すれば先手勝ちになる。
だから後手は6七角と打ち、3四歩に、同角成、同玉と強引に先手玉をバックさせるしかない。そして2二歩。
先手の手番が来たが、そこで5三角成(次の図)
7三歩成図
これを同金は3一角から詰むので、5三同玉だが、実はそれも詰むのである。詰み筋は、5三同玉に、6三飛、同金、同と、同玉、7二角以下。
7三の「と金」があるからこの攻め筋が威力を発揮できたのである。先手の勝ちになった。
しかし、ではこの変化、先手勝ちなのかというと、ここまでの手順で一か所問題がある。(やはり“合駒”が問題だった)
7三歩成図
今の手順を途中まで戻って、8六角と王手した時に、この図のように“5三桂合”とすれば、状況が変わってくる。
今度は、後手が「角金銀」と持っているので、ここで2三玉には、3二金、1二玉、2三角以下、先手玉は捕えられてしまうのだ(詰みとなる)。
かといって、図で5四歩では、2四金の一手詰め。
よってこの図は、先手の負けのようだ。
つまりこの攻めも、先手少し足らず、結果としては 〔五〕7三歩成に[B]3三桂打でも「後手勝ち」 である。
〔六〕9一竜
9一竜図1
〔六〕9一竜と「香車」を入手したところ。持駒に「香」を一枚加えることで、先手の攻めや受けに技が増えるが、実際に“勝ち味”が出てくるだろうか。
後手の手番だがやはりここは2つの候補手、[A]4二桂と、[B]3三桂打が有力である。
[B]3三桂打を調べていく。次の図である。
9一竜図2
先手玉は放置すると2五銀や4五銀で詰まされるので、3六角(次の図)とそれを受ける。
9一竜図3
この角は5四や6三にも利いている。この角の利きを攻めに使うねらいもあるのだ。
ここで後手が<e>2四歩(次に2三銀の狙い)なら、この角の利きが有効に働いて先手が勝つ。すなわち、2四歩に、3一銀、同玉、4一金、2二玉なら3一角、1一玉、2三香(次の図)となり――
9一竜図4
この図は先手勝ちになっている。
この変化の途中、4一金を同銀なら、後手玉は“詰み”がある。それも確認しておこう。
4一同銀、同桂成、同玉、3二銀、同玉、2三角、4二玉、2二飛で次の図になる。
9一竜図5
5三玉、5二飛成、同玉、6二金、同玉、6四香。 以下、後手玉は詰みとなる。
これは9一竜と香車を取った手と、3六角と打った手が最大に効果を発揮して先手がうまくいった。
9一竜図6
よって、3六角の図では、後手は<f>4四歩とこちらの歩を突くのが考えられる。これは後手有望かと思われるが、はっきり後手勝ちとも言い切れない変化となる。
4四歩に、3一角、同玉、4一飛、同銀、同桂成、同玉、2三玉、4二飛、3二歩、同飛、4三香(次の図)というのがその変化。
9一竜図7
この香打ちがある。これを同金だと、5一竜、同玉、3二玉で先手良しとなる。
したがって4三香には、後手は4二銀または4二桂という手になるが、同香成と取って、まだまだ大変な勝負である。
9一竜図8
ということで、先手3六角に対する後手の最善は、<g>3一歩(図)と、我々(終盤探検隊)は判断している。これは3一歩とここを受けておいて、次に2四歩や4四歩とすれば、後手の勝ちが確定する、という考えだ。
それを上回る手段が先手にあるかどうかが勝負となる。なにもないなら、先手が負けだ。
4一銀と打ち、同銀に、2六香とする。後手は3二銀だが、そこで4一角(次の図)
9一竜図9
9一で取った「香車」を2六に打って、先手はなんとか攻める形をつくった。
この図は次に2三香成から後手玉の詰みがあるが、しかし狙いが単純なのでちょっと先手の攻めは届かない。
ここは1四銀と受けられても先手が悪いが、後手にはもっと華麗な決め手がある。「2五桂」だ。
「2五桂」は3三の空間を開ける手で、2五同香なら3三銀で先手玉が詰み。
「2五桂」に1五歩(2五玉~1六玉の逃げ込みを狙う)は、2四銀、2五香、3三銀打、4五玉、5三金で後手良し。
なので「2五桂」に、先手は5二角成で勝負してみる(次の図)
9一竜図10
これを5二同歩なら、3三歩と打つ。同銀に、4三玉と入って、これは先手良しになる。
しかし図で、5二の馬を取らずに、3三銀打、4五玉、6五銀として、次の図。
9一竜図11
これで「後手勝ち」が確定である。
2五角なら、4四銀、3四玉、5四銀で先手玉は“必至”となる。
図で4七角も同とで、先手は指す手がない。
以上の調査により、先手の〔六〕9一竜には、[B]3三桂打で「後手勝ち」。
(また、解説は省くが〔六〕9一竜に[A]4二桂でも後手勝ちになる)
〔七〕8二飛
8二飛図1
この〔七〕8二飛は後手の [B] 3三桂打 と [A] 4二桂、その両方に対応できている。
8二飛図2
[B]3三桂打には、3一銀(図)から攻めていく。
同玉に、5一竜、同金、4一金で後手玉は“詰み”。
8二飛図3
「8二飛図1」から、[A]4二桂なら、2五玉、3三桂、2六玉、3四桂、1七玉、3八金でこの図である。
ここで後手玉に詰みがある。3一銀、同玉、4二金(次の図)
8二飛図4
4二同玉、5二飛成、同玉、6一竜、5三玉、7一角、6二歩、同竜、5四玉、3六角(次の図)
8二飛図5
詰み。
このように、8二飛は、後手の [B] 3三桂打 と [A] 4二桂 の両方に対応している。
だが、問題がある。
8二飛図
8二歩に、6二歩(図)。
これで飛車の横利きを封じられ、ここでは後手からの[B]3三桂打と、[A]4二桂、その両方の手段が再び有効になっている。いや、この図になってみると、8二飛と6二歩との交換によって先手が飛車を打ってしまって持ち駒として使えないマイナスのほうが大きく、むしろ状況は先手にとって悪化している。〔七〕8二飛は打った意味がなかった(6筋に後手の歩が打てない状況ならよかったのだが)
ということで、〔七〕8二飛は、6二歩で「後手勝ち」、が結論。
≪月2二玉図≫再掲
〔一〕4一銀 → 後手勝ち
〔二〕2五玉 → 後手勝ち
〔三〕6六角 → 後手勝ち
〔四〕4五玉 → 後手勝ち
〔五〕7三歩成 → 後手勝ち
〔六〕9一竜 → 後手勝ち
〔七〕8二飛 → 後手勝ち
先手、勝ちの見えない闘いとなっている。
勝ちという希望がない、それでも戦いを続けるしかない。たしかにこれは“地獄の闘い”である。
→part31に続く