はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

森vs谷川  1988王位戦の横歩取り

2012年11月30日 | 横歩取りスタディ
 今日の主役は森けい二九段。切られ役は谷川浩司名人。1988年のタイトル戦王位戦七番勝負の第4局です。
 「横歩取り△2三歩型」で現在最有力とされている「▲1六歩」の“森新手”が出たのが1987年の森‐谷川戦。(→『横歩定跡のことだけど、飛車を切って有利って、ねえ、それホント?』
森‐谷川戦 1987年
 これです。この時は「無冠」だった谷川浩司九段は、1年後には名人・王位・棋王の三冠王になっていました。
 その谷川三冠のもつ「王位」のタイトルに1988年夏、挑戦したのが森けい二九段。谷川26歳、森42歳。と、このたび調べてみて発見したことが一つあります。それは、「この二人、誕生日が同じ」ということ。二人ともに4月6日が誕生日です。
 さて、この第4局の前までのスコアは、谷川名人の「2-1」。
 そしてこの第4局で、森九段は「5五歩位取り横歩取らせ」を戦法として選びました。先手谷川名人が3四飛と‘横歩’を取りました。その飛車を「2四飛」とすれば例の“超急戦”の可能性もあります。しかし谷川名人は「3六飛」と指しました。


谷川浩司王位vs森けい二九段 1988年王位戦第4局」
初手より▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5五歩 ▲2四歩 △同歩
▲同飛 △3二金 ▲3四飛 △5二飛 ▲3六飛

△6二玉

 森九段の予定はもし谷川浩司が「2四飛」ならば、「5六歩、同歩、同飛」だったと思われます。「5六歩、同歩、8八角成、同銀、3三角」と行くのが、“超急戦”の型で、これまでに別記事で解説してきた通りこれは“先手良し”が確定しています。(また、「2四飛」に穏やかに2三歩などもある。その選択権は後手にある。)
 谷川さんの「3六飛」も古くからある手で、1845年の「大橋宗民‐天野宗歩」戦がその原型。
大橋宗民‐天野宗歩戦 1845年

 谷川‐森戦は、「6二玉」。



▲4八金 △4四角 ▲6八玉 △7二玉 ▲7八玉 △3三桂 ▲6八銀 △4二銀 ▲4六歩

 図の、森さんの14手目「6二玉」が、工夫の“新手”。
 ここでも先手は2筋に飛車を戻したいのですが、2六飛とはできません。2六飛だと、5六歩、同歩、8八角成、同銀、4四角から例の“超急戦”の筋があり、その際、後手は「6二玉」としているため一手多く指していて、これは後手が良い。
 戦前までの「5五歩位取り横歩取らせ」は、何度も申している通り、“居飛車の作戦”でしたが、森九段の場合はもともと「中飛車」が得意戦法ですので、「6二玉」と玉を右に囲うのはごく自然なことでしょう。(天野宗歩は「居玉」でした。)
 だけど、それだけではないんですね、この「6二玉」の味わい深さは。ちょっとそれを説明します。
板谷四郎‐升田幸三戦 1952年
 これは先後立場が逆になっていて後手の升田幸三が7六飛と横歩を取って7四に引いた形。今、先手の板谷四郎が4八玉と玉を右に移動させようとしたところ。
 このタイミングで後手の升田さんは、6五歩。以下、7七角、8四飛、8七歩、7二銀と進みます。後手は、角を7七に追ったので飛車を8四飛と元の筋に戻すことができました。これがもし、4八玉としたタイミングでなかったら、先手は4八角と引いてあくまで後手の飛車を8四飛とさせないことができたのです。しかし先手は右に玉を囲うつもりなら、いつかは4八玉としなければならない―――そういうジレンマがここにあるのです。それをわかっていて上手く利用して序盤巧者の升田幸三がすかさず優勢を築いたのです。
 ところが“森新手6二玉”はそのジレンマを解決しています。飛車封じの4四角の前に、先に玉を移動すればよい、というわけ。
 (4四角とする指し方は、天野宗歩が最初に指した手ですね。明治以後のプロ棋戦で最初に指したのは土居市太郎。)



△6二角 ▲4五歩 △5四飛 ▲3八金 △2三金 ▲9六歩 △5一金
▲4八銀 △3四金

 森九段は先に玉を移動してここで△6二角。
 次の谷川名人の4五歩はできれば突きたくはないのですが、飛車を使うためには仕方がない。
 そして森さんは、その不安定な「4五歩」を目標としてここからの戦術を組み立てます。2三金~3四金。



▲4四歩

 「4五歩」は守りようがない。先手谷川名人、4四歩。以下、決戦に。



△4四同飛 ▲5五角 △4五金 ▲4四角 △同角 ▲6六飛

 後手は4四同飛でしたが、ここ 4四同金なら、2六飛、2五歩で先手満足の展開になる。ということで、4四同飛、5五角から“飛角の取り合い”に。
 


 封じ手がどの手かわからないのですが、王位戦は2日制なのでこのあたりで1日目が終わりました。



△1二角  ▲2四飛 △5六歩 ▲5六同歩 △同金 ▲4四飛

 「1二角」が、森けい二が「寝ないで考えたんだ」と後で言って、評判になった手。(ただし、『将棋年鑑』の解説には「善悪は微妙」とある。)
 この将棋は森さんが勝ったのですが、「寝ないで考えた」甲斐がありましたね。寝ないで考えて終盤で眠くなってポカをしていたら大失敗となっていましたが。
 「1二角」は、先手の2一飛の打ち込みを消しつつ、遠く先手谷川玉を睨んでいます。こういう角打ちは、勝てば「名角」と言って誉められます。

 谷川浩司の次の手は「2四飛」。 これもまた、かっこいい応手。



△4四同歩 ▲6五飛 △5七歩 ▲5九歩 △7四歩 ▲4三歩 △同銀 ▲2二角 △7三桂

 森九段の7四歩~7三桂がまた力強い。先手の飛車をどかして6筋を攻めようと。
 


▲3五飛 △6四飛

 将棋年鑑解説〔▲3五飛=チャンスを逃した。▲3三角成△6五桂▲5一馬ならやや有利だった。〕
 △6四飛。森はここに飛車を打つ。



▲8八玉 △3二歩 ▲1一角成 △4五角 ▲6六香 △5四飛 ▲4六歩 △同金
▲2一馬 △5二金 ▲3一馬 △5六角 ▲4七歩 △2六歩 ▲5八歩

 「6四飛」で、後手は6七の突破をねらう。数の攻めだ。



△2七歩成 ▲5七歩 △4五金 ▲3三飛成 △同歩 ▲3九金 △3八と
▲同金 △4九飛 ▲5九銀右 △2九飛成 ▲4八金 △5三歩

 後手は △2六歩と垂らし、先手は5八歩。“捻じり合い”という感じで、見ていて楽しい。



▲5六歩 △8四桂

 「△5三歩」が良い手だった。▲8六馬となると、先手が厚くなって優勢になるところ。これで先手は馬の使い方が難しくなった。
 


▲7八玉 △7六桂 ▲7七銀 △5六金 ▲5七歩 △同金 ▲同金 △同飛成
▲5八金打 △4八金

 ここからは森けい二九段の華麗な寄せ。 


▲5七金 △5九金 ▲7六銀 △6九金 ▲5五桂 △5九龍 ▲6三香成 △8一玉
▲9五角 △7九金 ▲7七玉 △8五銀 ▲7三角成 △7六銀 ▲同玉 △7五金
まで112手で後手森の勝ち

 「△4八金で寄り」と読み切っている。


投了図


 これでスコアは「2-2」。
 この後、森けい二九段は、「4-3」で谷川浩司からタイトル奪取。森けい二王位となったのでした。

 森さんは将棋を覚えたのが16歳とのことで、そういう人がタイトルホルダーにまで駆け上るというのは、本当に夢のある話と思います。



 この戦型で「3六飛」(13手目)と引くのはこういう将棋になります。互角なのでしょうが、後手(中飛車)がのびのびと指せる感じです。先手がこの戦型を指すなら、しっかり準備して作戦を練らないと、おもしろくならない気がします。



 
先手:谷川浩司
後手:森けい二
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5五歩
▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △3二金 ▲3四飛 △5二飛
▲3六飛 △6二玉 ▲4八金 △4四角 ▲6八玉 △7二玉
▲7八玉 △3三桂 ▲6八銀 △4二銀 ▲4六歩 △6二角
▲4五歩 △5四飛 ▲3八金 △2三金 ▲9六歩 △5一金
▲4八銀 △3四金 ▲4四歩 △同 飛 ▲5五角 △4五金
▲4四角 △同 角 ▲6六飛 △1二角 ▲2四飛 △5六歩
▲同 歩 △同 金 ▲4四飛 △同 歩 ▲6五飛 △5七歩
▲5九歩 △7四歩 ▲4三歩 △同 銀 ▲2二角 △7三桂
▲3五飛 △6四飛 ▲8八玉 △3二歩 ▲1一角成 △4五角
▲6六香 △5四飛 ▲4六歩 △同 金 ▲2一馬 △5二金
▲3一馬 △5六角 ▲4七歩 △2六歩 ▲5八歩 △2七歩成
▲5七歩 △4五金 ▲3三飛成 △同 歩 ▲3九金 △3八と
▲同 金 △4九飛 ▲5九銀右 △2九飛成 ▲4八金 △5三歩
▲5六歩 △8四桂 ▲7八玉 △7六桂 ▲7七銀 △5六金
▲5七歩 △同 金 ▲同 金 △同飛成 ▲5八金打 △4八金
▲5七金 △5九金 ▲7六銀 △6九金 ▲5五桂 △5九龍
▲6三香成 △8一玉 ▲9五角 △7九金 ▲7七玉 △8五銀
▲7三角成 △7六銀 ▲同 玉 △7五金
まで112手で後手の勝ち



・森けい二の中飛車関連記事
  『森vs谷川  1988王位戦の横歩取り
  『平野流(真部流)
  『2012.12.2記事補足(加藤‐真部戦の解説)
  『森内新手、5八金右
  『谷川vs森 ふたたびの横歩取り 1989王位戦
  『横歩を取らない男、羽生善治 1
  『横歩を取らない男、羽生善治 2
  『戦術は伝播する 「5筋位取り」のプチ・ブーム

京須新手4四桂は是か非か

2012年11月28日 | 横歩取りスタディ
 今回の記事は『続・横歩取りは生きている』をネタ本として書いています。これはアマチュア愛棋家の沢田多喜男氏の労作です。青森の将棋天国社より1989年発行。
 この本によって、僕は上図の「4四桂」が京須行男(きょうすゆきお)八段の指した手だと知りました。

 この、上図の「4四桂」。
初手より▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5五歩 ▲2四歩 △同歩
▲同飛 △3二金 ▲3四飛 △5二飛 ▲2四飛 △5六歩 ▲同歩 △8八角成 ▲同銀 △3三角
▲2一飛成 △8八角成 ▲7七角 △8九馬 ▲1一角成  △4四桂(上図)

「後手5五歩位取りvs先手横歩取り」の形で、先手が横歩を取った後飛車を3四から2四へと戻した瞬間をねらって後手が「5六歩」と決戦して“超急戦”となり、24手目に「4四桂」としたのが京須行男の“新手”。

 この手で「5七桂」とするのが従来からの手で、これには5八金左、5六飛、6八桂が最善で、以下第6期名人戦第7局で現れた塚田正夫の新手5五馬(35手目)が決定版となって、「先手良し」が確定している。(前々回記事前回記事、参照)
 「5七桂」は市川一郎が1935年に最初に指した手で、以下はどうでもいい余談ですが、市川一郎は、千葉県市川市に引っ越して、住所を「市川市市川1の1」として喜んでいたというエピソードあり。

 “京須新手4四桂”が最初に指されたのは1947年ということなので、つまりそれは「5七桂」を塚田正夫が打ち破って名人になった対局と同じ年。
 ちなみにプロ棋戦でこの「4四桂」が現れたのは次の4対局。

 (カ)1947年 五十嵐豊一vs京須行男戦  五十嵐勝ち 
 (キ)1954年 熊谷達人vs京須行男戦  熊谷勝ち
 (ク)1962年 有吉道夫vs内藤国雄戦  有吉勝ち
 (ケ)1970年 山田道美vs内藤国雄戦  山田勝ち

 このうち、(カ)と(ク)は、僕の手元に棋譜がありませんが、いまここで判る範囲でこれらの内容を以下に紹介します。



(カ)1947年 五十嵐豊一vs京須行男

 24手目「4四桂」が“京須新手”。この手の狙いは、先手の馬の利きを遮断すると同時に、6七馬、5六桂、5七銀などの手を組み合わせて、一気に先手玉を捕えようという手。
 先手の五十嵐豊一(関根金次郎門下)は、対して、5五桂。
 以下、6二玉、3五香、5一金と進んだ。(下図)

 これは後手優勢なのだそうだ。
 しかしこの後逆転して、五十嵐さんが勝った。

 また、この京須さんの5一金のところで、「5四銀で後手面白い」というのが、升田幸三の当時の著書には書いてあるという。



(キ)1954年 熊谷達人vs京須行男

 “京須新手”に、前局の五十嵐の手は5五桂だったが、熊谷は「2四歩」という攻め合いを選んだ。

△3八歩 ▲同 銀 △6七馬 ▲6八香 △5七馬 ▲5八金左 △同 馬
▲同 金 △5七歩 ▲同 金 △5六桂
 『続・横歩取りは生きている』には、「これも後手有利の分かれになったが、逆転して熊谷六段が勝った」とある。とすると、ここでは後手有利か。

▲5五歩 △6八桂成 ▲同 玉 △2二歩 ▲5四桂
 このあたりが勝敗を分けた?

△4一金 ▲2三歩成 △同 金 ▲2四歩 △3三金 ▲4五桂 △3二金引
▲2三歩成 △同 金 ▲2四歩 △3四金 ▲1二馬 △3三歩
 図で、5三銀(または香)ではどうだっただろうか。

▲3四馬 △同歩 ▲3三桂不成 △3二銀打 ▲4一桂成 △同玉 ▲1一龍 △3三角
▲2一金 △同銀 ▲同龍 △3二金 ▲1二角 △5五角 ▲5三歩 △同飛
▲3二龍 △同玉 ▲2三銀 まで73手で先手熊谷の勝ち
 図の3三歩の局面では、これはもう先手の勝ちになっていそうだ。
投了図


 このように、“京須新手4四桂”は2連敗。
 しかし内容的には悪くない。ということで、プロの間でも、「4四桂で後手良さそう」というムードだったようです。
 ただ、この戦型「5五歩位取り横歩取らせ」自体がだんだんと指す棋士がいなくなってきていました。その時期は、矢倉、ひねり飛車、振り飛車等の新しい戦術の波が押し寄せてきていたからです。そもそも「先手にだけ飛車先の歩交換を許すなんて、ダメだよ」ということかと思われます。昔ほど「5五歩の位」の価値が高く認められなくなってきていました。


 京須行男八段は1960年、46歳で亡くなりました。孫の森内俊之(現名人)がこの世に生を受けるのはその10年後、1970年のこと。(→『京須八段の駒』)

 その“京須新手”を受け継いだのが、内藤国雄です。(内藤さんはこの型でも“横歩を取らせる側”に立つんですね。面白い。)



(ク)1962年 有吉道夫vs内藤国雄
 この棋譜は残念ながらありません。『続・横歩取りは生きている』には、「内藤六段が△4四桂と打ち、▲5五桂△6二玉▲3五香△5一金と京須・五十嵐戦と同一手順に進行これまた逆転、先手有吉七段の勝ちになった」とあります。

 “京須新手”、嗚呼、3連敗です。


 しかし、プロの中でも、アマトップ棋士の中でも、“4四桂で後手有利”が定説になりつつありました。
 とはいえ、「横歩取り派」としては簡単に納得できない。やっぱり「横歩取り派」としては、自信を持って‘横歩’を取りたいですからね。「スカッとさわやか」に取りたい。
 なにか“4四桂で後手有利”説を覆す手はないものか。そう考えた人は少なからずいたらしいのです。しかしなかなか見つからない。
 このあたりの事情は『続・横歩取りは生きている』に詳しい。実は「“4四桂で後手有利”説を覆す手」は存在していて、それを見つけていたアマ棋士が何人かすでにいたのでした。
 この本の著者沢田氏によれば、1965年の大学将棋のリーグ戦の棋譜の中に「その手」があって、記録上はそれが「第一号棋譜」なのだそうです。明治大学将棋部の学生が最初に「その手」を指しました。(後にご本人からの自己申告で判明したのだとか。)

 プロの将棋で、「その手」が初めて現れたのは、1970年です。
 では、それを見ていきましょう。



(ケ)1970年4月13日 山田道美vs内藤国雄
 (ちなみにこの対局の数ケ月前の棋聖戦中原誠-内藤国雄戦で「横歩取り空中戦法」が誕生しました。)

 内藤国雄は24手目「4四桂」。 “京須新手”です。
 さあ、注目は山田道美の「次の一手」です。



 「2三桂」。 これが“京須新手4四桂”を破る「必殺の一手」でした。
ここから、▲2三桂 △4二銀打 ▲3五香 △3三歩 ▲同香不成 △同銀 ▲3一桂成 △2二金
▲同馬 △同銀 ▲4二金  と進みます。

△4二同玉 ▲3二成桂 △5三玉 ▲6一龍 △3二飛 ▲7一龍 △5六桂

▲4五銀 △5四香 ▲5一龍 △5二歩 ▲6五金 △6二桂 ▲5五歩

△7七角 ▲6八銀 △5五角成 ▲同金 △同香 ▲5六銀 △同香 
▲5七歩 △2八歩 ▲同銀 △7八銀 ▲同金 △同馬 ▲6九銀 △5七香不成
▲同銀 △7七馬 ▲6八銀上 △9九馬 ▲4一角 △4二金 ▲3二角成 △同金
▲3四飛 まで73手で先手山田の勝ち
投了図


 「ついに出たか、2三桂!!」
 『続・横歩取りは生きている』の著者沢田氏は、山田道美がどういう経緯で「2三桂」を指したのか(自分の研究か、それとも誰かから聞いたのか)、それをぜひ確認したいと考えていました。ところが―――。


 山田道美(やまだみちよし)八段はこの対局で「2三桂」を指した後、その2か月後、1970年6月18日、突然に病気で他界したのです。36歳の若さ、A級在位のままでの急死で、九段が追贈されました。

 6月6日の大山康晴名人との棋聖戦挑戦者決定戦が、山田道美九段最後の対局となりました。
大山-山田戦
 先手大山名人の三間飛車に、後手山田道美は棒銀戦法。山田、7五歩と仕掛ける。以下6五歩、7七角成、同飛、9八角、6一角で図の局面。
 ここから6二飛、5二角成、同金、8八金と進む。9七香と上がって、9八角と打つ手を大山は誘ったか。この将棋は138手、大山勝ち。(大山康晴名人が振り飛車を多用するようになるのは1963年からのようです。) この後、挑戦者になった大山は内藤国雄から棋聖位を奪取。「五冠王」(当時のタイトル戦は5つ)に返り咲く。


 1970年―――羽生善治、森内俊之が生まれたのが山田九段の亡くなったこの年でした。



 以上、「後手5五歩位取りvs先手横歩取り超急戦」の将棋で、24手目「4四桂」には「2三桂」があって先手良し、が現在の結論



・「後手5五歩位取りvs先手横歩取り超急戦」の関連記事
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫
  『京須新手4四桂は是か非か
  『森vs谷川  1988王位戦の横歩取り
  『平野流(真部流)
  『2012.12.2記事補足(加藤‐真部戦の解説)
  『森内新手、5八金右
  『谷川vs森 ふたたびの横歩取り 1989王位戦
 

・その他の“戦後”の「横歩取り」記事(一部)
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)

新名人、その男の名は塚田正夫

2012年11月26日 | 横歩取りスタディ

 これは塚田正夫作5手詰の詰将棋。
 こういうシンプルな詰将棋は“新風”を感じさせ、「塚田流」と呼ばれました。
 僕もこの詰将棋本は持ち歩いて解きました。おかげて本はボロボロです。


 1947年、塚田正夫が、1938年から9年間、名人位に座していた木村義雄を降し、新しい名人となりました。その決定局、第6期名人戦第7局を前回記事より紹介している途中です。
 戦型は「後手5五歩位取りvs先手横歩取り 超急戦」です。

 初手より▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲2五歩 △5五歩 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △3二金 ▲3四飛 △5二飛 ▲2四飛

 3四飛と横歩を取った飛車を、13手目「2四飛」と戻したことによって、ここから「5六歩」と後手が決戦するのが“超急戦”。(2四飛のかわりに3六飛なら別の展開になるが、できれば先手は2四飛としたい。)

上図より△5六歩 ▲同歩 △8八角成 ▲同銀 △3三角 ▲2一飛成 △8八角成 ▲7七角 △8九馬 ▲1一角成  △5七桂


<5七桂図>


 さてここまでが前回の記事で進めたこと。今日はここからです。
 24手目「5七桂」がこの当時最有力手とされました。
 この<5七桂図>と同じに進んだ将棋は、名人戦第7局の「塚田-木村戦」の前に、5つほどあります。
  (ア)1935年 加藤治郎-市川一郎戦 61手、加藤勝ち
  (イ)1942年 加藤治郎-木村義雄戦 74手、木村勝ち
  (ウ)1942年 加藤治郎-木村義雄戦 68手、木村勝ち
  (エ)1942年 加藤治郎-木村義雄戦 59手、加藤勝ち
  (オ)1946年 塚田正夫-木村義雄戦 38手、木村勝ち
 この5つ。(他にもあるかもしれません。) さすがに“超急戦”、すべて短手数で決着していますね。(ア)加藤治郎-市川一郎戦は前回すでに紹介しました。
 (イ)(ウ)(エ)は、すべて1942年の12月に行われています。これは朝日番付戦の東西決戦三番勝負。これは初めの2つを木村名人が勝利したのにもかかわらず、第3戦が行われています。(なぜなのか。) それと、3戦ともに加藤治郎先手になっています。(相手は名人だからでしょう。加藤治郎は七段。) このあたりの正確な事情は不明です。ともかく、加藤治郎は、木村名人を相手に、3度続けてこの戦型での戦いを挑んでいるのです。
 余談ですが、加藤治郎は「ガッチャン銀」の命名者ですね。真部一男の師匠でもあります。

 この5つの棋譜は、全て24手目「△5七桂」までは同一に進んでいます。これらの将棋を一つ一つ見ていきます。


 さて、それでは(イ)から――。



(イ)1942年 加藤治郎-木村義雄戦 朝日番付戦決勝第1局
 1935年の加藤ー市川戦で、先手の加藤は「5八金左」として勝っているのだが、その加藤が手を変えました。
 
<5七桂図>より、▲6八金 △4九桂成 ▲同玉 △7九馬 ▲7七馬 △6二玉 ▲5九香 △7二玉 ▲2八龍 △6九金となって下図。

 「6八金」が加藤の工夫。しかしこれは後手の△7九馬の金取りが先手になる。加藤は▲7七馬。後手の攻めに、先手は馬と竜を引っ張って防戦。

 後手は3二の金を進出させる。先手は7五桂から攻め味をつくる。力のこもった中央での勢力争い。△5六銀▲6三桂成△同玉▲7五桂△7二玉▲5六馬△同金▲同龍△5五馬…。
 このあたり、印象としては互角の戦いかと見えるが…。 

 ▲8四銀に、△7二金▲同金△同銀▲6三金△3六香▲7二金△同玉▲6三銀となって――
投了図。
 △6一玉まで74手で、木村名人の勝ち。
 この展開になると、後手の「金銀」の多さが最後には生きてくるようです。先手の攻めは息切れしました。

 25手目「6八金」は、先手が受け身になる。後手の3二金まで働かせることになり、先手あまり面白くない。



(ウ)さて、加藤治郎-木村義雄の第2戦。またしても同じ“超急戦”に。
<5七桂図>より、▲5八金左 △5六飛 ▲4八銀

 ▲5八金左△5六飛までは「加藤-市川戦」と同じ。そこで加藤は「▲4八銀」と指した。この手はどうか? 4九桂成、同玉となれば先手玉は自然に右に逃げられる。
  加藤治郎は、後手の次の手を7九馬として読んでいた。7九馬、5七銀、同馬、6八桂。木村義雄名人もそれを読んだが、どうもそれでは後手が負けになると感じた。「何か良い手はないか…」
 木村義雄名人、ここで「6九桂成」とただで捨てる手をを発見した。

 △6九桂成 ▲同玉 △7八銀。
 「△6九桂成」は加藤もまったく読んでいない手だった。7八銀に5九玉は7九馬で負けだ。加藤は6八玉~7七玉と逃げた。

 図の6九馬は8七銀成の1手詰。加藤はこれを▲7九桂△同銀成▲5七歩と凌ぐ。
投了図
 しかし結局、捕まった。 加藤治郎、木村義雄に“横歩取り超急戦型”で2連敗。

 27手目「4八銀」は、6九桂成~7八銀で後手の勝ち。


(エ)加藤治郎-木村義雄、第3戦。
 またしても加藤は“横歩取り超急戦”を木村に挑みました。
 <5七桂図>より、▲5八金左  △5六飛 ▲6八桂と進んだ。

 これは1935年「加藤治郎-市川一郎戦」に初めてこの“超急戦”が現れたときに指された手順と同じ。加藤は「原点」に戻ったのである。そもそもこれで勝っていたのだから。
 以下、△4九桂成 ▲同玉△5七歩▲5六桂△5八歩成 ▲同玉△6二玉▲5三歩△7二玉▲6六馬で下図。

 こうなってみると6六馬が攻防によく働いている。次の先手の狙いは8六香である。
 しかし先手は見かけほど安全ではない。なにしろ8枚の金銀の内、7枚までは後手のものになっているのだから。 △7九馬▲8六香△5一歩▲4九玉…

 どうやら先手勝ちになった。図以下△6四金打▲同桂△同金▲8六香△8四歩▲同香
まで59手、先手加藤治郎の勝ち。
 この将棋でも「加藤-市川戦」と同じく、27手目に打った「6八桂」が「5六桂」と飛車をとり、最後には寄せに働いている。

 どうやら25手目「5八金左~6八桂」が最善手らしい。 すると“横歩取り超急戦”は先手良しなのか?



(オ)さて、戦争が明けて1946年。塚田正夫-木村義雄戦。
 今度は塚田正夫が、名人木村義雄に“横歩取り超急戦”を挑みました。
 ところで、塚田正夫の師匠は花田長太郎です。花田は、第1期の名人戦のレースで木村に迫ったが敗れ、また1941年に前回記事でお伝えしているように、木村名人を相手にこの型の将棋を挑み、21手目「2四桂」と新手を指したが、名人の対応がそれを上回っていたという経緯があります。その花田の弟子の塚田が、木村相手にこの“超急戦”の将棋を挑んだのです。 
 塚田は27手目、「6八桂」とは指さなかった。

 塚田の手は、27手目「4八金上」だった。
 以下、7九馬、5七金直、同馬、4九玉、5八金、同金、同馬、3八玉、2六歩、2七歩、4八銀まで、
投了図
 38手、木村の完勝だった。あまりにあっさりと、塚田は土俵を割った。

 27手目「4八金上」は7九馬以下、後手の勝ち。



■ところで、この「塚田-木村戦」より前、戦時中1943年に『将棋世界』誌にこの「後手5五歩位取りvs先手横歩取り 超急戦」の研究が掲載され(誰の研究かわからないのですが)、過去に指されたこの型での手順(加藤-市川戦、加藤-木村戦第3局)を再検討し、30手目に△5七歩と指していたが、これは△5八飛成の方がよいことを指摘していたようです。その方が同じ飛車金交換なら、「1歩」を渡さないで得だし、6八の桂を5六に跳ばさせない方が良いという。
研究図
 つまり、<5七桂図>より、5八金左、5六飛、6八桂、4九桂成、同玉、5八飛成、同玉、6二玉、5三歩、7二玉、6六馬 、7八馬(研究図)で「後手良し」ではないか、というのがその研究の結論だったらしいのです。この研究図で、もし先手が8六香と前例のように攻めると、6九銀、5七玉、6八馬、これに同玉なら、5八金、7七玉、7八金で、なんと詰んでしまう。
 そういう「研究発表」があって、さらには1946年の「塚田-木村戦」の後手木村勝利があり、この形はどうやら後手が勝ちなのではないか、というのが1947年の大勢だったようです。
 とはいえ、将棋はそんなに簡単に結論が出せるゲームでないことは皆さんも知っている通り。一度この型で38手で破れている塚田が、もう一度同じ型の戦いを望んで飛び込んでいるのですから木村名人も不気味だったことでしょうね。決戦の「5六歩」(14手目)に4時間以上考えたというのも無理のないことだとも言えます。 



――というような長い前置きを終えて、ではその、第6期名人戦第7局塚田正夫vs木村義雄」の棋譜の続きに進みましょう。(ようやく‘本線’に戻りました。)


▲5八金左 △5六飛 ▲6八桂

 やはり、5八金左。 


△4九桂成 ▲同玉 △5八飛成

 そして、やっぱりこの手、「6八桂」。
 6八桂に、後手飛車を引いたりする手はいけません。5二飛には、5六香や5三歩があります。


▲5八同玉 △6二玉 ▲5三歩 △7二玉 ▲5五馬

 なので飛車を切る。(△5七歩よりこの方が優るというのが先ほどの「研究」。)
 先手の5三歩という手は加藤治郎が最初に指した手。ここでもやはりこの手がいいらしい。
 後手7二玉に、そこで塚田八段の新手が出ました。


△5四歩 ▲同馬 △6四金 ▲3六馬 △5七歩 ▲同玉 △8二玉 ▲6六香

 5五馬。これが塚田正夫の指したい手でした。この手に1時間半を消費しました。
 5五馬の狙いは、中央を安全にしつつ、次に8六香や7五桂をねらうこと。
 名人もこれは読んでいなかったようです。同じく約1時間半苦吟して、5四歩、同馬、6四金。


△5九銀 ▲6四香 △同歩 ▲7五桂 △7二銀 ▲6三金 △同銀
▲同馬 △7二金打 ▲5二歩成


 6六香と先手に打たれてみると、しかし6四金は逆用された感がある。
 木村名人も5九銀と先手玉に迫る。だが塚田八段の攻めがより激しく… 


△6三金 ▲6一と △3五角 ▲4六歩 △7九馬 ▲3二龍 まで59手で先手塚田の勝ち

 塚田、押し切る。

投了図

 こうして、1947年6月7日、新しい名人が誕生しました。
 塚田正夫は、“横歩取り”で名人位奪取を決めたのです。32歳、木村義雄が名人になったのと同じ年齢でした。
 この第6期名人戦、最初塚田は2連敗したのですが、その頃に木村名人から「君、将棋は勝たなくちゃだめだよ」と言われ、その言葉に刺激されたという。塚田正夫が自分の揮毫する色紙に『勝つことはえらいことだ』と書くようになったのは、数年後、ちょっと勝てなくなっていた時期からのことだったようです。


 第6期名人戦木村義雄名人vs塚田正夫八段に関する記事。
  『「端攻め時代」の曙光 2』 第1~5局
  『「端攻め時代」の曙光 3』 第6局
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り』 第7局(24手目まで)
  『新名人、その男の名は塚田正夫』 第7局(本記事)




 この対局により、この将棋「後手5五歩位取りvs先手横歩取り 超急戦」は、「先手横歩を取って良し」の認識になりました
 24手目5七桂に対しては、この塚田正夫の対応で先手良しが今でも結論のようです。

 しかし「本当にそうだろうか?」。 そう思ったかどうかはわかりませんが、5七桂の代わりに別の有力手を発見し、試した棋士がいました。
 京須行男(きょうすゆきお)。  森内俊之現名人のおじいさんです。(→『京須八段の駒』)

 京須行男は24手目「4四桂」を2度、指しているようです。その2つの対局に京須行男が敗れたことでこの“京須新手”は目立ちませんでしたが、「これで後手良しなのではないか」、そういう意見がじわっと広がっていたのでした。実際、その二つの将棋は京須行男が途中まで優勢でしたから。 
 しかし、本当にそうなのでしょうか? これは重大な問題です。もしそうならば、この「5五歩位取り型横歩取り超急戦」の戦型は、“横歩をとってはいけない”ということになるのですが――。

 この話は次回に。
 


・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
  『高野山の決戦は「横歩取り」だった
  『「錯覚いけないよく見るよろし」
  『「端攻め時代」の曙光 1』 
  『「端攻め時代」の曙光 2
  『「端攻め時代」の曙光 3
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫

・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
  『京須新手4四桂は是か非か
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)

超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 

2012年11月23日 | 横歩取りスタディ
 前回、前々回と第6期名人戦「木村義雄名人vs塚田正夫八段」その第1局~第6局を紹介してきました。その星取りは挑戦者塚田正夫から見て●●△○○○(△は持将棋)となっています。あと一番、塚田八段が勝てば、ついに9年間「名人位」に君臨した「不敗の木村」が倒れ、かわりに新しい名人が誕生するのです! 
 塚田正夫、東京小石川生まれ、32歳、花田長太郎門下。

 さて、第7局は「後手5五歩位取りvs先手横歩取り」の戦型となりました。塚田が先手、後手が木村名人です。

 上のこの図は、現代では「ゴキゲン中飛車の出だし」という認識になると思いますが、この当時は違います。これを指す後手の考えは、“居飛車の5五歩位取り”なのです。(ちなみに、平手戦での振り飛車ブームが来るのはこの時より15年以上も先のことになります。)

 初手より▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩、と4手指してこの図になるのですが、この4手目の「△5四歩」がたいへん味わい深い手でして、先手が「ど素人」だったなら、2二角成、同銀、5三角から“成角”をつくりたいと考えそうなところ。ところがそれはうまくいかない。5三角に、4二角とすれば、先手は同角成とするしかない。角を成る場所がどこにもない。もし3手目に先手が指した▲2六歩が突いていなかったならば、2六角成とできるのだが…。
 つまり先手が3手目に▲2六歩とした瞬間は“成角”をつくる手がないので、そのタイミングでの4手目「△5四歩」ということです。(このあたりはゴキゲン中飛車の基本知識。)

 さて、その4手目「△5四歩」(と次の△5五歩)というこのオープニングを将棋棋譜の歴史上、最初に指した人物は、どうやら天野宗歩(あまのそうほ)らしいんですな。内藤国雄著『棋聖 天野宗歩手合集』の棋譜第23局の解説にこう書いてあります。
 〔△5四歩-△5五歩 宗歩師が編み出した新手法で、現代でも力将棋が得意な棋士に好まれている。〕
 この内藤さんの本が出版されたのは、1992年なのでゴキゲン中飛車など全然流行しておらず、それで「力将棋が得意な棋士に好まれている」という地味な表現になっています。僕はこの『棋聖 天野宗歩手合集』を買いたいけれど、どうしようか、と迷っているところ。なにしろ値段が4,725円。図書館で読めるしなあ…。でも、欲しい。


 それで上図から▲2五歩 △5五歩と指して

 こうなるわけです。ここで「ゴキゲン中飛車」の定跡と離れました。

 ゴキゲン中飛車の場合は、6手目△5五歩で、5二飛と指すのが定跡の手順です。もし先手が2四歩、同歩、同飛とくれば、8八角成、同銀、3三角(または2二銀)で後手がやれる、というのがゴキゲン党の言い分。その言い分はたぶん正しいので、だいたいはここで2四歩とは行かない。行かないが、ただし、ここで5八金右として、後手の5五歩に、そこで2四歩と行く手はあって、これは優劣不明の戦いになる。これがゴキゲン中飛車の“超急戦”で、その定跡は常に変化してきている。プロでも数多く指されており有名なのは2年半前の王将戦の第6局、羽生善治-久保利明戦。これは久保さんがついに羽生さんからタイトルを取った一局です。(陣屋での対局でした。)
2010年王将戦第6局 羽生善治‐久保利明戦
 図の、久保の5九金の発見が勝利を呼び込んだ。羽生の6五香に、6九金が、6八銀、6七玉、7七銀成からの詰めろになっており、そして後手玉は詰まない!


 ゴキゲン中飛車では5二飛とするところを、「△5五歩」としたのが、1947年の第6期名人戦第7局であり、また、大橋宗民-天野宗歩戦(1845年)である。
 「なぜ、5二飛じゃないのか?」って、そりゃ、後手は「居飛車のつもりで△5五歩と位を取っている」からです。場合によっては応急的に5二飛とすることもあるけれど、基本的には「居飛車」で行きたいのです。


 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △3二金 ▲3四飛、と指して下図。

 この戦法では、先手は▲2四歩と飛先の歩交換ができます。(ここがゴキゲン中飛車とはっきり違う。)そして、先手塚田正夫は「▲3四飛」と、‘横歩’を取りました。塚田八段は‘横歩取り’が好きなのでした。(ここは横歩を取らない指し方の方が当時は多い。)

 この名人戦七番勝負、塚田が先手の1、3、5局は、初手より▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀という出だしで「矢倉」の戦いになっています。この第7局でも、もし後手の木村名人が△8四歩を選択していたら、やはり「矢倉」になっただろうと思われます。矢倉でたたかって名人が負けているというわけでは全然ありませんが(木村○△●)、名人はちょっと矢倉はもういい、と思ったのかもしれません。当時の観戦記には、「名人はそれまで横歩取りを避けて、2手目△3四歩とはしなかったのだろう、なぜなら塚田八段の得意戦法で研究が深そうだから」というようなことが書かれています。

 しかし、実際には‘横歩取り’の戦型は、先手でも後手でも、木村名人もまた「得意戦法」なのですが。


 ここで名人、△5二飛
<基本図>
 この12手目までの図を<基本図>とします。
 先ほど、当時の後手のこの「5五歩位取り」戦法は、「居飛車」の戦法なのだ、と書きました。しかし、木村名人は「△5二飛」。これは、“非常事態宣言”のようなもので、塚田八段が「▲3四飛」と、横歩をかすめ取った手を“後悔させてやろう”という意味も含む手なのです。もし塚田が横歩を取らないで2八飛と引いていたなら、これは「穏やかな展開に」なりました。そう進む将棋の方が当時は多い。でも、塚田は、横歩をとった。木村が△5二飛としたのは、次に先手から5四飛などという手があるのでそれを防ぎつつ、しかし△5六歩からの「超急戦」の攻め合いを見せて脅かしているのです。
 問題は、塚田の「次の手」です。

 塚田八段は13手目「▲2四飛」。 これが“問題の手”なんですね。いちばん、“突っ張った手”です。

 でもここでも後手が穏やかな道を選ぶならそれもできます。△4一玉や、△2三歩もあって、むしろそう指すのが当時としては“ふつう”。しかし、先手の「▲2四飛」には、“挑発”の意味もあってですね、「来れるものなら‘5六歩’とやって来い!」という意思が含まれているんです。というのは、この1年ほど前に、この二人は同じ将棋を指しているのです。先後も同じ。その時は後手の名人が、なんと38手で完勝しています。それと同じ道をなぞって、塚田はもう一度木村名人に挑んでいるわけです。「今度は負けないよ」と。
 その挑発に名人が、乗るか、やめとくか…。 それで名人は長考に沈みました。

 木村義雄、行きました、14手目「△5六歩」。 “超急戦”!


△5六歩 ▲同歩 △8八角成 ▲同銀 △3三角

 「△5六歩」は、木村名人が4時間13分を使って指した決断の一手。何しろこれに「名人位」の行方が懸っています。この将棋を負けたら、ずっと保持してきた名人位を明け渡さねばならないのですから。それでも、持ち時間8時間の内の4時間13分ですので、これは相当の消費です。
 一見、「ゴキゲン中飛車」の「超急戦」とも似ていますが、違いもあります。先手は金を動いていない、後手は3二金を上がっている、先手は‘横歩’を取ったので歩が3枚、という点です。するとかなり違いますね。

 さあ、これはどうなるのでしょう!?





 などと煽っておいて、ここでちょっと脇道にそれて、過去のいくつかの例を見てみましょう。この「後手5五歩位取りvs先手横歩取り、超急戦」のお勉強のために。(自分的にはどっちかというとこっちがメインのつもりで書いています。)


■まず、天野宗歩の将棋から。
 1845年、大橋宗-天野宗歩戦。(浦賀の黒船来航の8年前です。)

 <基本図>から、大橋宗民(八代目宗民)は、2四飛とせず、3六飛と引いた。こうすれば一応、穏やかな展開になります。だけどちょっと飛車が使いににくくなるんですね。すかさず天野宗歩4四角。こうなると2筋に飛車が戻れない。だから3六飛では、“できれば2四飛と指したい”というのがあるわけです。(だけども2四飛はリスクがある。)

 ということで、先手は飛車を7六に。ひねり飛車ですね。宗民、ここで3七桂として桂馬の交換を先手から迫ります。この後宗民はあばれようとしますが、宗歩にすべて読み切られ――。

 でました、「角使いの名人」宗歩の角打ち。以下、3九飛、3八歩、2九飛、7六歩から宗歩が攻めて寄せきりました。

 大橋宗民の指した13手目「3六飛」は、一応現代でも「ある手」となっています



■近代になって、この形が現れたのは1935年(昭和10年)、加藤治郎-市川一郎戦。
 13手目2四飛。(名人戦と同じです。) 以下、5六歩、同歩、8八角成、同銀、3三角、2一飛成、8八角成、7七角、8九馬、1一角成、5七桂、5八金左、5六飛、6八桂と進んだ。

 図から、4九桂成、同玉、5七歩、5六桂、5八歩成、同玉、6二玉、6六馬。 6六馬と引いた形が先手の守備をぐっと引き締めている。加えて6八桂と打った桂馬が5六桂と飛車を取り、さらにはこの桂が最後は敵玉の詰みに一役担うこととなる。
投了図
 先手加藤治郎、勝利。61手。 投了図からは、8二玉、7二金、同玉、6四桂打と‘つなぎ桂’で詰み。

 この将棋が、この型の基本定跡となる。この勝負は先手が勝ったが、後手に有望な手が見つかれば、結論はひっくりかえる可能性がありそう。 1947名人戦第7局もこの将棋がベースになっている。

 



■1935年、山本樟夫-小泉兼吉戦。

 名人戦第7局と同じに進んで、 2四飛、5六歩 同歩、8八角成、同銀、3三角、2一飛成、9九角成、7七角、8九馬、1一角成。ここまでは誰もが読める展開で、問題はこの後。小泉は「6七馬」。以下6八金、7六馬、7七歩、7五馬、6七桂…

 これは先手盤石。8八竜とまわって、後手陣を押しつぶし、山本樟夫(くすお、と読む)勝ち。

 どうも後手、「6七馬」(24手目)では勝てそうもない。 

 


■1936年、坂口允彦-平野信助戦。
 先手坂口は2四飛。 5六歩、同歩に、平野は、△8八角成とせず、新手を出した。「5六同飛」。
 対して、先手は、「5八歩」(17手目)。

 以下駒組みとなり――

 ここから後手の2四金に、先手が5八飛と飛車交換を迫る展開となり、結局飛車を交換したが、飛車打ちに弱い後手は飛車を5一飛と自陣に打たねばならず、先手が指しやすくなり、先手坂口允彦(のぶひこ)の勝ち。

 後手平野信助の14手目からの「5六歩、同歩、同飛」は現代でも通用する手
 対する先手坂口允彦「5八歩」(17手目)は、ないことはないが、つまらない、と評価されている



■1941年、塚田正夫-渡辺東一
 これは「宗民-宗歩戦」と同じ13手目「▲3六飛、△4四角」の将棋に。

後手の4四角が好位置なので、4六歩から4五歩で角を追う。以下、3三角、4八金、6二銀、2六飛、5三銀、… 


 進んで、ここから猛烈な展開に。後手渡辺が6四角としたので、塚田がチャンスと見て、攻めた。2二飛成、同金、4三歩成、5四飛、7七桂、7六銀、6五銀…。 しかし結局、うまく対応した渡辺が「居玉」のままで、勝利。

 13手目「3六飛」の展開は面白い将棋になる。「宗民-宗歩戦」も「塚田-渡辺戦」も先手の攻めがいなされた。先手が勝つには何か工夫が必要かも




■1941年、花田長太郎-木村義雄戦。
 この形を研究し、13手目2四飛以下の展開に自信のあった花田長太郎、名人木村義雄を相手に先手番でその研究手を披露した。
 2四飛、5六歩、同歩、8八角成、同銀、3三角、2一飛成、9九角成、そこで、「2四桂」(21手目)。 これで先手有利と花田は見ていた。

 花田八段の自信の「2四桂」だったが、木村名人の応手に空を切ることになる。

 木村は、「6二玉」。
 これには、「4一角で先手良し」と花田は思っていたようだ。ところが4一角、5六飛、5八歩に、4二金。これが花田の意表を突いた。以下、3一竜、4一金、同竜、8九馬となってみると、「角と金銀の二枚替え」ではあるのだが、2四に打った桂馬が空振りになっている。竜と持駒の金銀だけでは後手玉は寄らない。というわけで、3二桂成とこの桂を使おうと考えたが、木村の攻めの方がずっと速かった。

 9八飛と、こんなところに飛車を打つようでは、もう勝ち目はない。図以下、4八銀成、同飛、2八金まで、わずか52手の短手数で、後手木村名人の勝ち。

 花田長太郎の「2四桂」(21手目)は、木村の6二玉でつぶれた
 この時点でこの型の「超急戦」は、「後手優勢なのか」とささやかれ始めたが…。まだ実戦例が少ない。



■1942年、渡辺東一―神田辰之助戦。(大東亜戦争が前年12月から始まっている。)

 12手目の<基本図>から、渡辺東一は、飛車を動かさず、5八金右とした。 以下、3三角、3六飛、4四角、4六歩、3三金と進み…

 こんなふうに。 ここから、“殴り合い”に。
 2六角、3三角成、同桂、3四金、2五飛、3三金、5一銀、5五桂、1五角、4三桂成、2九飛成…、以下後手神田勝ち。

 5八金右は新手だったが、今では疑問手とされている模様。5八金右に、5六歩、同歩、8八角成、同銀、3三金とする手がある。以下、3六飛、2二飛、2六歩、2七角なら後手良しという。
参考図

 ということで、渡辺東一の「5八金」(13手目)は、今では疑問手となっている


 渡辺東一の関連記事
 『関宿と東宝珠花
 『京須八段の駒



■続いては1942年の暮れ、「加藤治郎-木村義雄戦」朝日番付戦、東西の優勝者同士の決戦ということで、三番勝負が行われました。東の優勝者は木村義雄名人、対して西の優勝者は加藤治郎八段でした。加藤は燃えました。この三番勝負が、3つ共に、「後手5五歩位取りvs先手横歩取り 超急戦」の戦型になったのです!

 その第1局、基本図から2四飛、5六歩、同歩、8八角成、同銀、3三角、2一飛成、9九角成、7七角、8九馬、1一角成、5七桂と指しました。ここまでは先の1935年「加藤-市川戦」と同じ進行です。(これまでの実戦例はこれのみ。)ここで「市川戦」では加藤は5八金左、5六飛、6八桂と指して、そして勝ったのですが、その加藤が「木村戦」では手を変えました。

 この続きは次回に。


 実は「1947年第6期名人戦第7局 塚田正夫vs木村義雄戦」もここまではまったくこれと同じ進行です。下にその図を掲げておきます。
<基本図>より、▲2四飛 △5六歩 ▲同歩 △8八角成 ▲同銀 △3三角
▲2一飛成 △8八角成 ▲7七角 △8九馬 ▲1一角成 △5七桂
 

 図は△5七桂(24手目)まで。 さあ、あなたなら、どっちを持ちますか?



・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
  『高野山の決戦は「横歩取り」だった
  『「錯覚いけないよく見るよろし」
  『「端攻め時代」の曙光 1』 
  『「端攻め時代」の曙光 2
  『「端攻め時代」の曙光 3
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫

・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
  『京須新手4四桂は是か非か
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)

「端攻め時代」の曙光 3

2012年11月20日 | しょうぎ
 昨日の記事の続き、戦後最初に行われた名人戦、第6期名人戦「木村義雄名人vs塚田正夫八段」の内容をお伝えします。これまでのスコアは「2-2、1持将棋」です。七番勝負ですので4勝した方が次期名人にということです。お互いに「あと2つ」です。
 それでこの第6局は「指し直し局」です。初めの「第6局」は、“千日手”になりました。千日手は無勝負ですから、「指し直し」となるわけですが、現代では千日手の場合は特別な場合を除いては、その場で1時間くらいの休憩後にすぐに、という規定ですけども、この当時は「日を改めて」ではなかったかと思います。おそらく「持ち時間」も初めに戻して。
 この名人戦の持ち時間は、8時間です。
 戦前までの名人戦の「持ち時間」は15時間で、三日制でした。木村名人はこれに慣れていたので、この新しい「8時間制」に合わせるのが大変だったことは想像に難くありません。しかも1日制ですよ! 各8時間の持ち時間で、1日制! ちょっと無茶ですよねえ。終局は絶対、明け方になる…。(休憩をどれだけ入れたのか、わかりません。)
 この「持ち時間各8時間、1日制」は、挑戦者塚田正夫が強く主張してそれが通った結果だそうです。名人の意見は従来通りの「15時間、3日制」だったが、塚田の意見が採用された。これはおそらく、塚田の意見と言うよりは、設営サイド(毎日新聞社)がそれを望んでいたのだろう。経費削減になるし。
 そういう持ち時間の変更は、これは確実に木村名人に不利に働きました。

 さて、上図は先手の木村名人が2九飛とひとつ飛車を引いたところ。後手からの3九角打を警戒した手です。ここは動きにくい…。
 これは「角換わり」の将棋ですが、先手の木村名人が、生角を打って、ちょっと無理気味に仕掛けてこうなりました。(千日手を避ける意味も大いにありました。) 後手が「角」を手駒として持っているため、やや後手が指しやすい局面かと思います。
 後手の塚田正夫八段は、9五歩と仕掛けました。以下、
△9五歩 ▲同歩 △8六歩 ▲同歩 △同飛 ▲8七歩 △8一飛 となって下図です。


▲3七角 △6三歩 ▲6五銀 △同銀 ▲5七桂 △7六銀 ▲同金 △6四桂
▲7七金引 △8八歩 ▲同玉 △7五歩
 この、「端の歩を突っかけといて、飛先の歩交換をして相手に手を渡す」、という指し方は、どこかで見たことがありませんか? 「角換わり相腰掛銀同型」の仕掛けの定跡にありますね、こういうの。もしかしたら、塚田正夫のこの時がオリジナルかもしれないですね。
 実際は▲3七角△6三歩▲6五銀△同銀▲5七桂と進みましたが、個人的な感想を言えば、▲3七角△6三歩の後、先手が▲1五歩と攻めるとどうなるのかな、ということが知りたい。
変化図
△1五同歩なら、1二歩、同香、1三歩、同香、4六角がねらいですが、実際には△同歩とはすぐに取らず、9七歩、同香(これは取らないと9六角が厳しい)、1五歩(歩の補充)、1二歩、同香、1三歩、9六歩、同香、8四桂、1二歩成、9六桂…、こうなるとどっちがいいの?


▲6七銀 △7六銀 ▲7八金引 △9七歩 ▲7七歩 △6七銀成 ▲同金直 △9五香 
 塚田八段、じっと△7五歩。しかしこの歩は先手にとって「脅威」です。木村は▲6七銀と受けを強化しますが、塚田ガツンと△7六銀。(大山康晴推奨はここで8五銀。次に7六桂をねらう。)


▲8六銀 △9八歩成 ▲同香 △同香成 ▲同玉 △8三香 ▲6五歩 △9六銀
▲6四歩 △同 歩 ▲9三桂
 △9五香。ついに香車を走りました。
 しかしこの後手の攻めを受け切れば先手の勝ちになります。先手木村、▲8六銀。
 塚田は△9八歩成から香を手にして、「8三」に打つ。 


△8六香 ▲同歩 △9七歩 ▲同桂 △8三飛 ▲8八桂 △9五銀
▲9六桂 △同銀 ▲8七銀 △9五歩 ▲9九香 △7四桂
 塚田の攻めと、木村の受け。 図の▲9三桂に、△8二飛などとすれば、▲6四角があります。


▲8五桂 △8六桂 ▲同銀 △8五銀 ▲同銀 △8六桂 ▲8七玉 △8五飛
▲7四銀 △9六銀 ▲同香 △9八角
 △9六銀!  ▲同香に、 △9八角。 こんなうまい手があったのか。これは…、攻めきったか?


▲8八玉 △7八桂成 ▲同玉 △8七飛成 ▲6八玉 △8八龍 ▲7八桂 △8九角成
▲7九銀 △9九龍 ▲6四角 △4八金 ▲4五桂 △4七金 ▲5七金 △4五歩
▲4七金 △3八銀 ▲6七玉 △2九銀成 ▲6六玉 △7九馬 ▲6三金 △8八龍
▲8六歩 △7七龍  まで144手で後手塚田正夫八段の勝ち

投了図
 攻めきりました!!! 塚田の“端攻め”が炸裂した一局。
 かつて木村義雄を相手にして平手で3連勝した者はいませんでしたが、塚田正夫がそれをやりました。(升田は香平平で3連勝したが。)塚田八段、3勝2敗、ついにあと1勝で「名人位」に。

 終えて、朝の食事の時に、名人が、「どうもいけない、悪い癖がついた。千日手にしたくないばかりに無理を指すようになった」と皆の前で愚痴ったが、すぐに、「いや、自分より強い者が出てくれて私は本望だ。名人戦の意義がそこにあるんだからなあ」と言ったそうです。
 愚痴った後に、強がる名人が愛らしい。


 このように、この第6期名人戦はその内の3対局が、相居飛車戦における“端攻め”の威力をまざまざと示すものとなったのです。「端攻め時代」の幕開けです!
 ただ、まだ世間はそれほど「矢倉の端攻めの重要性」には気づいていなかったと見えます。それは他にも有望そうな試したい戦術――角交換腰掛銀、新式相掛り、銀矢倉、平手戦の振り飛車など――が色々とあったからでしょう。
 升田幸三が「すずめ刺し」をひっさげて嵐を巻き起こすのは、これから6年後、1953年のことになります。昭和の「第1次矢倉ブーム」はその頃から後のことになりますが、その“先駆け”として、この名人戦における塚田正夫の「矢倉」があったことを、ここで強調しておきたい。(本局は「角換わり」でしたが。)
升田幸三のすずめ刺し(先手原田泰夫vs後手升田幸三、1953年)



 さて、そして、この年(1947年)の名人戦の続きですが、第7局は「横歩取り」になりました。




 
先手:木村義雄
後手:塚田正夫
第06期名人戦七番勝負第6局千日手指し直し局
▲7六歩 △8四歩 ▲5六歩 △8五歩 ▲7七角 △5四歩
▲2六歩 △3四歩 ▲7八銀 △3二金 ▲2五歩 △6二銀
▲5八金右 △7七角成 ▲同 銀 △2二銀 ▲4八銀 △3三銀
▲6八玉 △4一玉 ▲7八玉 △7四歩 ▲6六歩 △5二金
▲6七金 △6四歩 ▲3六歩 △4四歩 ▲6八金上 △7三桂
▲3七桂 △6三銀 ▲4六歩 △8一飛 ▲1六歩 △1四歩
▲4五歩 △同 歩 ▲同 桂 △4二銀 ▲4四角 △3三桂
▲同桂成 △同 金 ▲2六角 △4四歩 ▲9六歩 △9四歩
▲4七銀 △6五歩 ▲同 歩 △同 桂 ▲6六銀 △6四銀
▲2九飛 △9五歩 ▲同 歩 △8六歩 ▲同 歩 △同 飛
▲8七歩 △8一飛 ▲3七角 △6三歩 ▲6五銀 △同 銀
▲5七桂 △7六銀 ▲同 金 △6四桂 ▲7七金引 △8八歩
▲同 玉 △7五歩 ▲6七銀 △7六銀 ▲7八金引 △9七歩
▲7七歩 △6七銀成 ▲同金直 △9五香 ▲8六銀 △9八歩成
▲同 香 △同香成 ▲同 玉 △8三香 ▲6五歩 △9六銀
▲6四歩 △同 歩 ▲9三桂 △8六香 ▲同 歩 △9七歩
▲同 桂 △8三飛 ▲8八桂 △9五銀 ▲9六桂 △同 銀
▲8七銀 △9五歩 ▲9九香 △7四桂 ▲8五桂 △8六桂
▲同 銀 △8五銀 ▲同 銀 △8六桂 ▲8七玉 △8五飛
▲7四銀 △9六銀 ▲同 香 △9八角 ▲8八玉 △7八桂成
▲同 玉 △8七飛成 ▲6八玉 △8八龍 ▲7八桂 △8九角成
▲7九銀 △9九龍 ▲6四角 △4八金 ▲4五桂 △4七金
▲5七金 △4五歩 ▲4七金 △3八銀 ▲6七玉 △2九銀成
▲6六玉 △7九馬 ▲6三金 △8八龍 ▲8六歩 △7七龍
まで144手で後手の勝ち



・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
  『高野山の決戦は「横歩取り」だった
  『「錯覚いけないよく見るよろし」
  『「端攻め時代」の曙光 1』 
  『「端攻め時代」の曙光 2
  『「端攻め時代」の曙光 3
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫

・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
  『京須新手4四桂は是か非か
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)

「端攻め時代」の曙光 2

2012年11月19日 | しょうぎ
これは戦後初の名人戦(第6期名人戦1947年)その第1局で、挑戦者塚田正夫八段が木村義雄名人を相手に披露した矢倉における“新型端攻め”です。
 若い人の目にはこれ、あるいは珍しい形に見えるかと思われます。しかし昭和の「矢倉」の教科書にはよく載っていた気がします。僕はつい最近までこの形も「すずめ刺し」と思っていましたが、どうやら違うようですね。「すずめ刺し」と言うのは1953年に升田幸三が初めて用いた「2五桂」と跳ねる形だけを言うのですね。
 その升田さんの「すずめ刺し」に6年先駆けてこのような“端攻め”を示して見せたのが、この時32歳で名人戦初挑戦の塚田正夫(つかだまさお)でした。花田長太郎門下。東京都小石川生まれ。(「小石川」と聞くと『大岡越前』の小石川療養所の榊原伊織医師、帯刀無我さんを思い出します~。)

 この「銀型すずめ刺し」と言ってもよいような“塚田式矢倉端攻め”は、しかし、やろうと思ってもいつもできるものではなく、この対局では、後手番の木村名人が上の図の数手前に「1四歩」と端歩を受けたために、この“塚田式”を誘発したのです。
 こういう「2六銀」からの“端攻め”があるので、「矢倉の端歩は受けるな」という常識があって、今もそれは有効ですし、この1947年の時点でも、木村名人はそれをわかってて「1四歩」を突いたのです。
(上の図より11手前の局面)
 木村名人は「やってこい」という気持ちでいたのかもしれません。
 前回記事で、戦前は、「相掛り」が主流で、しかも「中央での戦い」がほとんどだった、ということを書きました。そういうことで、「矢倉」の将棋そのものが少なめでしたし、相掛りでも「銀」は中央へ進むので、端攻め自体も少なかった。それが戦後になって、この塚田正夫が、矢倉を武器に戦い始めた。そういう状況なので、「矢倉で端歩は受けるな」という格言はあっても、実戦例が少なく、それがどれくらい有効なのか、具体的にはプロ棋士もまだ理解できていなかったと思われます。
 それで、木村名人が「さあ、端攻めに来るなら来い」ということで、先手塚田の1六歩に、「1四歩」と受けた。そこから▲3七銀△6四角▲4六歩△3一玉▲1七香△2二玉▲1八飛△5三角▲2六銀△6四歩▲1五歩と進んで、いちばん上の図となります。

 物凄い破壊力を持ったこの戦術“2六銀型塚田式端攻め”は、最近はほとんど見られません。それは、破壊力がありすぎるがために、相手がそれを食らわないように避けるべく定跡が組み立てられているからです。最近のプロ対局に表われないため、最近の『矢倉の定跡本』には、この“端攻め”の攻防は、今ではほとんど書かれておりません。
 簡単に言うと、「矢倉の端歩は受けるな」の格言通りに従えばよい、ということです。後手が「1四歩」を受けなければよい。それだけのことなのです。だけど、2、30年前までは、敢えて受けて「やってこい」とする指し方もあったんですね。(玉を入城させず2二銀型の菊水矢倉で待つなどです。) でもやっぱりあまりに強力なので、そういうことはしなくなった。
 参考図として、次の図を掲げます。
参考図a
 これは先月行われた将棋です。羽生善治vs渡辺明の王座戦第4局(千日手指し直し局)ですが、この将棋が最近の矢倉の王道の、いわゆる「4六銀3七桂戦法」です。『定跡書』によく書かれているそのまんまの形。
 先手の羽生さんが1六歩と突いたところですが、対して後手の渡辺さんはここで「1四歩」と受けました。「矢倉で端歩は受けるな」じゃなかったのかと言われそうですが、この場合はいいのです。何故かと言えば、先手の「右銀」が「2六」には来られないから。先手は「3七桂」と跳ねていますね。だから「1四歩」と受けてよい。
 仮にこの桂馬が跳ねてない場合は端歩は受けてはいけません。先手の右銀が4六にいても、3七銀~1七香~1八飛~2六銀とすれば“塚田式端攻め”が可能となります。それよりも早い攻撃手段が後手にある時には話は別ですが。
 もう一つ参考図を。
参考図b
 これは1982年の第40期名人戦第8局加藤一二三vs中原誠、加藤新名人誕生局の、その序盤です。
 ここで「1六歩」と突くのが“加藤流”と呼ばれる形。ここでは決して後手は「1四歩」とは受けません。もちろん中原名人も別の手を指しました。(7三銀でした。)
 もし後手が端歩を受けると、“塚田式端攻め”、2五歩~1七香~1八飛~2六銀が待っています。端歩を受けるなら、それを覚悟の上でどうぞ、ということです。
 この参考図では、もちろん先手も9六歩と安易に突いてはいけません。突くと、9四歩の後、後手の「6二銀」がするすると8四までやってきて、「さあ大変!」となってしまいます。
 以上、「初段になるための矢倉講座」みたいなくどい説明でしたが、確認のために書きました。


 さあ、それで6期名人戦第1局、「塚田正夫八段vs木村義雄名人」戦。

▲1五歩の図から、
△1五同歩 ▲同銀 △6三銀 ▲4五歩 △同歩 ▲3七桂 △1五香
▲同香 △1七歩 ▲2八飛 △6五歩 ▲同歩 △同桂 ▲6六銀 △4四角
▲4九香 △8六歩 ▲同歩 △8五歩 ▲同歩 △8六歩

と進みました。ちょっと塚田八段が甘い手を指して、木村名人の攻めも厳しく迫っています。

 こんな感じで、攻め合いに。
 それでどちらかと言えば先手塚田八段やや有利かというような、しかし激しい内容で終盤となり、ついにクライマックス。 お互いに時間を使い切り、これを詰めれば塚田、名人戦初登場初勝利という場面が次の図。


 その終盤。ここでは詰みがありました。4三銀成、同金、5二金、同玉、6二飛、5三玉、6五桂、5四玉、4五銀まで。最初の4三銀成に同玉なら、6三飛、5三銀合、3三金以下の詰み。
 ところが、塚田八段の指し手は▲6五桂。
 木村の△5四玉に――――詰まない! 塚田八段、勝利を逃しました。

▲6五桂 △5四玉 ▲5三桂成 △同金 ▲5五飛 △同玉 ▲4五飛 △6四玉
▲6五銀 △6三玉  まで164手で後手の勝ち

投了図
 この将棋は序盤の“新型端攻め”から戦いが始まり、全体的には挟撃体制で木村玉に迫っていた塚田八段がリードしていましたが、とどめを刺すことができず、木村名人の逆転勝ちとなりました。投了図の「木村玉」は、いかにも木村義雄の華麗で巧みな玉捌きを表していますね。しかし大熱戦でした。


 
第2局
 「角換わり」の戦型に。先手木村が「筋違い角」を打つ。83手の短手数で木村名人の快勝。2連勝。
 「角交換」の将棋も、戦前では少なかった。それを名人が積極的に採用しています。

 

第3局
 塚田八段の先手で相矢倉に。お互いが4枚の金銀で守備を固める「総矢倉」の同形になった。この形は仕掛けが難しく、“千日手”になりやすい。しかし塚田は敢然と仕掛けた。やがて塚田玉は敵陣へと進み、「入玉」模様に。塚田優勢。

 木村が△1九飛成と角取りに香車を取った図の手に対し、塚田は▲2八角打。これが疑問手だった。(木村は持ち時間をほぼ使い切り、塚田にはまだ時間があったのだが…。)
 ここは4四角、同金、6四角打で先手の勝ちだった。塚田八段は他にも疑問手を連発し、ついにこの将棋は相入玉の「持将棋」となる。“引き分け”である。162手。



第4局
 木村名人の「2-0、1持将棋」で迎えた第4局の対局場は、奈良三笠山の料亭。「升田君がここで勝ったのですね。」と塚田正夫は言ったという。4カ月前に、この場所で升田幸三が木村名人に3連勝を成し遂げたことを言ったのです。(前回記事『「端攻め時代」の曙光1』参照)
 戦型は「角換わり相腰掛銀」となった。先手の木村が仕掛ける。中盤で一度は塚田がリードするも、木村も押し返す。優劣不明の終盤に突入。
 時間に追われた名人が、何度か「勝ち」を逃し、ついに逆転。 162手にて、塚田勝ち。塚田正夫が名人戦初勝利!!!
 
 

第5局

▲3九角 △9五歩 ▲同 歩 △同 香 ▲同 香 △同 飛 ▲9七歩 △同角成
 この名人戦では塚田正夫が先手だと「相矢倉」に誘導、木村義雄先手の時には「角換わり」になっている。この第5局は塚田八段が先手なので、「相矢倉」に。
 そして図のようになりました。後手の名人が、第1局での「お返し」をするかのような“新型端攻め”の構えです。
 この将棋は、先手の序盤失敗の図です。先手から仕掛ける手がなくなり、「待つだけ」の状態になっています。後手が仕掛けるか、「千日手」にするか、その権利を握っています。木村名人は悠々と攻めの準備を組み立てます。守備の駒だった「金」を、5三~6四と移動し、△7五歩から歩の交換をして、それから図のように「9一飛」と端攻めを見せたところ。“あとは攻めるだけ”です。
 名人は△9五歩から攻めを開始しました。


▲9七同桂 △9六歩 ▲9九香 △9七歩成 ▲同香 △9六歩 ▲同香 △同飛
▲9七歩 △9五飛 ▲8三角 △8四金 ▲7二角成 △9一香
 木村名人の“端”からの猛攻。


 「端攻め」は大成功。 木村名人優勢です!


 しかし塚田八段も必死で頑張って――

投了図
 なんと、逆転! 177手、塚田八段の勝ち。
 塚田「この将棋は拾わせてもらいました。」と謙虚に言い、
 名人は、「いや、ぼくの将棋も愚に返ったかなあ」と言って、眼を閉じた。
 スコアは2-2(1持将棋)。 塚田正夫、追いついた。 



 熱い闘いです。まあこのように、塚田正夫は1、3、5局を「矢倉」で戦い、木村義雄の先手番2、4局では名人の誘導で「角換わり」となっています。「相掛り」中心の戦前の将棋とはっきりカラーの変わった将棋となりました。
 次の第6局は木村名人先手で「角換わり」ですが、これまた“端攻めの猛攻”という将棋になります。これを少し詳しく紹介したいのですが、長くなりましたのでそれは「続きは次回に」、ということで今回はここまでとします。



・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
  『高野山の決戦は「横歩取り」だった
  『「錯覚いけないよく見るよろし」
  『「端攻め時代」の曙光 1』 
  『「端攻め時代」の曙光 2
  『「端攻め時代」の曙光 3
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫

・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
  『京須新手4四桂は是か非か
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)

「端攻め時代」の曙光 1

2012年11月17日 | しょうぎ
 今日紹介する棋譜は1946年の升田幸三七段vs木村義雄名人戦。「木村・升田五番勝負」の第3局です。

 それまでの木村と升田の対決は
  1.1939年 香落ち 升田勝ち(→『無敵木村美濃伝説とはなんだったのか 3』)
  2.1943年 平手  木村勝ち
 戦前はこの2回しかありません。(たぶん、ですが。) この2回目の対決はあとで触れますが、これに勝っていれば升田幸三は八段になれた、という勝負でした。ここで八段になれなかったので、戦後1946年に新しく創られた順位戦のA級に所属できず、升田さんは悔しい思いをしていました。ブッチギリでB級で勝ちまくって翌年にはA級に上がりそこでも1位になるのですが。1940年から45年までの6年間で、升田幸三が将棋を指せたのは1943年の1年間だけです。升田22歳~27歳の時です。20代の升田幸三は勝率8割はあたりまえ、くらいの勢いで勝っていますから、実力はとうに八段だったのは確かなことです。
 こんなに自信満々な若い才能が、はやる気持ちを押さえられないというのは当然のことですが、それでどうしても木村名人と思う存分将棋を指したい升田さんは、新聞社に「対戦させてくれ」と話を持ちかけます。升田さんも“だめもと”で言ってみたようですが、これが思わず実現したんです。手合いは一応、「半香」(まだ駒落ち制度は完全には廃止になっていなかったようですね)ということで。しかも五番勝負。主催は毎日新聞社。
 で、その第1局は、香落ちで升田幸三の勝ち。
 第2局は、平手で、相掛りの戦型になりました。先手の升田は浮き飛車、後手の木村は5五歩と位を取り、5二飛とまわる形。中盤で木村名人に失着が出て、それを捉えて升田七段、勝利。名人は「馬鹿な手だった」とつぶやいていたらしい。 これが升田幸三が、平手で木村名人に勝った最初の将棋となりました。
 それで、じゃあ第3局の手合いはどうする?、ということで揉めました。(決めてなかったんですね…。) 木村名人がもし負けたら名人の権威が失墜する…という例のやつです。2勝3敗とかならともかく、3連敗ということがあったらこれは…、という心配ですが、「中止だ」という声もありました。升田はじっと静観していました。
 そこで木村名人がこう発言しました。「半香を負けたのだから今度は平手で指しましょう。」その一言で、将棋界の幹部などの反対を退けて、第3局が行われました。男ですね、木村義雄!

 1946年12月6・7日。(二日制ですね。) 持ち時間は各9時間。 対局場は奈良三笠山の料亭。


初手より▲2六歩 △8四歩 ▲2五歩 △8五歩 ▲7八金 △3二金 ▲2四歩 △同歩
▲同飛 △2三歩 ▲2六飛 △3四歩 ▲7六歩 △8六歩 ▲同歩 △同飛
▲8七歩 △8二飛 ▲4八銀 △6二銀 ▲1六歩 △1四歩 ▲5八金 △9四歩
▲9六歩 △4一玉 ▲3六歩 △7四歩 ▲6九玉 △5二金 ▲4六歩 △7三銀
▲4七銀 △8四銀 ▲4五歩 △6四歩 ▲3五歩 △同歩 ▲1五歩

 後手木村名人が△6四歩と指して、先手升田七段が▲3五歩△同歩▲1五歩と攻めを開始したところ。
 名人の△6四歩はどういう意味かというと、本当はここで9五歩と端攻めに出たいのです。でもそれが先手から5五角と打たれる手があるためにどうもうまくいかない。それで△6四歩として、次に9五歩という意味です。

 ところで、戦後になって、将棋が次々と変わりました。その大きな変化の中心は、「5筋の歩を突かない」ということです。この将棋、先手升田も後手木村も5筋の歩を突いていませんね。先手升田の4七銀型は以前から指されている型ですが、「5六歩を突かない」ままというのが新しいのです。升田幸三はこの時期、この形を試していたようです。今ならばすぐに5六銀と上がりそうですが、(相掛りで)それを始めたのは、小堀清一です。当時は「小堀流」と呼ばれました。
 後手の木村名人は棒銀。これも当時はめずらしい。戦争が終わって、「新しい時代」を二人とも感じ取っていたのかと思えます。
 大正時代、昭和初期という時代の将棋は、相居飛車で、ほとんどが相掛り。「相掛りにあらずば将棋にあらず」とさえ言われていました。で、お互いが5筋の歩を突く。先手は5七銀、後手は5三銀として、そこからどう指すのがよいか、これが盛んに試され、研究されました。そこで生まれた「銀歩三定跡」や「花田定跡」というような、今はほとんど知る人のいない定跡も、戦前までは「王道」なのでした。
 5筋を突くのが好きなので、角交換将棋には基本的にしません。(「角交換将棋に5筋はつくな」です。) 銀が中央に出るので、端攻めもほとんどありません。棒銀ももちろんしない。そういう特徴が「戦前の将棋」にはありました。(例外はあります。)
 ところが、“戦後”。 升田は「5六歩突かず4七銀型」を試み、小堀は「5六銀型」を披露。あの5三銀型を得意とした木村名人までも、本局では「5三歩」のまま「棒銀」に出て「端攻め」を狙っている。(この木村・升田五番勝負の第2局の後手番の木村名人は5四歩から5三銀とする、“古い型”でした。)――新しい風が吹いてきていました。「5筋を突く」という古い“常識”から解き放たれ、その結果が棒銀や端攻めや腰掛け銀、角交換将棋、銀矢倉といったそれまではマイナーな指し方だった戦法が試され掘り下げられていったのが“戦後”です。5筋を突かない相掛りを「新式相掛り」と呼ぶようになります。
 とはいっても、この対局ではまだ“戦後”の将棋はまだ始まったばかり。手さぐり状態です。


△1五同歩 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 △2三歩 ▲6四飛 △6三歩 ▲3四飛
 「端攻め」自体は古くからあり、知られていましたが、上でも述べた通り、明治、大正、昭和初期という時代は、「中央指向」だったことで、端攻めが少ないです。それが“戦後”になって、急に進化を始める。


△8八角成 ▲同銀 △2二銀 ▲1三歩 △7三銀
 先手升田幸三は、3筋、1筋を突き捨て、▲2四歩から▲6四飛と歩をかっさらい、「▲3四飛」と歩の裏に飛車を持っていきました。新手法の攻めです。かっこいいこの指し方、升田幸三が始めたんですね!
 升田幸三〔当時としては経験のない形であるから、非常な勇気を必要とした。〕


▲3五飛 △1三銀 ▲1五飛 △2八角 ▲3三歩 △2二金 ▲1二歩 △同香 ▲1一角
 木村名人は△2八角、升田七段は▲1一角と角を手放す。
 ▲3三歩を同金なら、2二歩、同銀、1二歩、1四歩、同飛、1三歩、1八飛で先手勝ちというのが升田の読み。名人もそう読んで△2二金とかわした。


△1四歩 ▲3五飛 △3四歩 ▲同飛 △1九角成 ▲3七桂 △3三桂 ▲2五桂
 銀を使わない攻めですが、攻めきれるんでしょうか? ▲3七桂~▲2五桂と桂馬を参戦させます。
 ▲3七桂の手で、▲2二角成、同銀、3二金、5一玉、2二金には、△3三香があってダメ。これは木村名人の罠にはまった形。


△2五同桂 ▲2二角成 △同銀 ▲3二金 △5一玉 ▲2二金 △6一玉
▲3一飛成 △5一香 ▲4四歩 △3七桂成 ▲5六銀 △2五角
 飛車を成りこんだが、攻めきれるのか。升田は、「4四歩があるので指し切りの心配はない」と見ていた。「と金」作りの錬金術がある。 


▲3四銀 △5八角成 ▲同玉 △4四歩 ▲4二歩 △6四桂 ▲6五銀 △2九馬
▲6六歩 △3九馬 ▲4一歩成 △4八馬 ▲6八玉
 升田解説〔かまっちゃおれんと名人は△3七桂成だが、▲5六銀に△2五角が失着。私の俗手▲3四銀を見て顔色が変わった。悪くても▲4四歩を同歩と取り、私の3二金から4三歩にはじっと耐えるよりなかったのである。△5八角成と切って、△4四歩と手が戻るようでは調子がおかしかろう。〕
 ところが升田にも失着が出る。


△5八金 ▲7七玉 △5九馬 ▲6八角
 升田解説〔 ▲4一歩成で勝ちが見えたと思ったが、△4八馬にひょいと▲6八玉とやったのがひどい落手だった。△5八金を見落としていた。△6七玉なら勝ちである。〕
 逆転したらしい。 ▲6八角と、角を合駒に使わされた。これは痛い。


△6八同金 ▲同金 △4九角 ▲7九銀 △8八歩
 ここで木村の残り時間は9分だったという。(もうちょっと残しとけよ、と僕らは思う。)
 升田解説〔一分で△4九角。こう打たれてはたしかに負けなんだが、対局中はなぜか負ける気がしなかった。もし弱気になっていたら負けていたろう。〕
 そういう時ってあるよね、たまに。
 升田は7五歩と突かれるのがいやだったが、木村は△8八歩。


▲5一と △同 金 ▲8六香
 升田解説〔残り五分――名人△8八歩。ここで初めて私は香を取って、▲8六香。「あっ」と言った名人。▲8六香はポカのお返しだったのである。〕
 「あっ」と言う名人、かわいいぞ~。


△8九歩成 ▲8二香成 △同 銀 ▲3二飛 まで111手で先手の勝ち
 ▲8六香に、後手は8八歩を打ってしまっているので、飛車先に歩が打てない。勝負は決着した。
 「君とやると、どうも見落としをする。闘志に押されるんかなあ」と局後の名人が升田に言ったそうです。(木村名人って、もしかしてイイヤツなんじゃね?)
 
 長らく「不敗の名人」と呼ばれた木村義雄名人が升田七段に0-3のストレート負け。これは棋界に衝撃を与えました。と同時に「新たな時代の幕開け」を予感させるものでもありました。
 このようなことがあって、翌年には「駒落ち制度の全廃」が実施される流れとなっています。これでやっと、重要な勝負で「手合いをどうする?」「もし名人が負けたら権威が」などといちいち揉めなくてすみますね。

 このように、1946年の木村・升田五番勝負は12月に升田の3連勝で幕。
 年が明けて、升田は順位戦をB級優勝で、八段に昇進。
 A級の優勝は塚田正夫で、木村義雄は春から始まる名人戦で塚田八段との闘いがまっていました。

 塚田正夫は32歳(升田さんより4歳上)、この時期、「矢倉」を得意戦法として指していました。矢倉戦法自体は古くからある戦法ですが、明治からからずっとこの頃までの主流は「相掛り」であり、塚田のように連続して「矢倉」を用いるものはいませんでした。塚田自身も矢倉を主流戦法として指し始めたのはやはり“戦後”です。戦後の「矢倉ブーム」の先端を切ったのは塚田正夫だったのです。塚田は、その名人戦で、矢倉での新しい「端攻め」を披露します。(それは次回にお贈りします。)





 さて、時を遡って、1943年の木村・升田の初の平手戦を以下に紹介します。
 これは朝日番付戦という棋戦で、関東では木村義雄名人が、関西では升田幸三六段が優勝したということで実現した東西の激突する日本一決定戦です。升田さんは関西で優勝したことで七段への初段が決まっていまして、しかも木村名人に勝つとなると八段になれるというそういう勝負でもあったのです。「二段跳び」ですね。


 この将棋は初手より▲7六歩△8四歩▲7五歩△8五歩▲7七角△7二金となって図のように木村名人が金を上がるんですが、升田六段の3手目を早くも「疑問手にしてやる!」という闘志を見せた手です。
 この時代(終戦より前)、平手での振り飛車自体が疑問視されていましたし、それを敢えて先手で、しかもこんな重要な一戦でやって来ようとしている升田幸三――。しかも素人戦法とされている「早石田」です。木村名人、「このやろう!」と思ったに違いありません。

 で、こうなって――

 こうなりました。見てください、後手木村陣の金銀のと玉の位置を! これはまさしく、「駒落ち上手」の指し方ですね。
 でもこれは振り飛車優勢ですよね。▲7七桂に、△7五金とかできたらいいんですけど、後手は飛車に弱い形なので――。それで木村名人、△6一飛。
 升田六段の次の手は▲6四歩。このあたりでは「もう必勝」と升田さんは思っていたそうですが、僕などでもそう見えます。

 ▲6二金△8三歩▲6一金△8四歩と進みました。結果、飛角の交換ですが、先手は「金」で飛車を取り、後手は「歩」で角を取った。先手の「金」はあんなところ(6一)にいて、後手は次に8五歩と桂が取れる。駒の効率でいえば断然後手に得な取引だったのですが、それ以上に後手の玉は“飛車に弱い形”なのです!
 ▲6九飛△7七歩成と、升田、銀を質駒にしておいて――

 その取った「飛車」を「▲2一飛」と打ったのが上図。
 ところが△2二角打と木村に打たれてみると、あれあれ? 先手が苦しそう…。「しまった!!」と升田六段、後悔したのでした。

 升田解説〔▲2一飛が手拍子で、△2二角打を全くうっかりしていた。▲6三歩成△同銀▲4一飛で、以下△3二玉なら▲3一飛成△同玉▲5三歩成で必勝だった。〕
 しかしあれですね、△2二角打をうっかりするようでは、そりゃ「甘い」と言われてもしようがないですね。(ちなみに持ち時間9時間です。) でも、凄い強いのに、こんなのをうっかりしてそれを素直に告白するところが親近感を誘う…、それが升田幸三。人気者の秘訣です。
 それでこの続きは、以下のように進みます。
▲5三歩成 △同銀 ▲6三歩成 △5四銀直 ▲5三と △同角 ▲5一飛成 △3一角左 ▲5五歩 △同銀 
▲5四歩 △4二角引 ▲6二龍 △4六歩 ▲5七金 △8五歩 ▲6三龍 △3二銀 ▲6七金 △同と
▲4三銀 △同銀 ▲同龍 △3二銀 ▲3四龍 △同玉 ▲3五銀 △4三玉 ▲6七飛 △6六歩
▲7七飛 △7六歩 ▲同飛 △7五歩 ▲6五金 △1七歩 ▲5五金 △1八飛 ▲3九玉 △7六歩
▲2九銀打 △4七桂 ▲4八玉 △6七歩成 ▲4五桂 △同桂 ▲同金 △3九桂成

▲4四銀 △5二玉 ▲5三歩成 △6一玉 ▲1八銀 △4九成桂
 これはいかにも「木村調」という終盤の図ですね。玉を舞わせたら木村名人に勝るものなし。
投了図。
 154手で木村義雄名人の勝ち。
 というわけで、25歳升田六段、二段跳びの昇段成らず。この年(1943年)の暮れ、召集令状が来て、升田幸三は戦地へ。
 3度目の木村名人との対戦が、上に紹介した、終戦後の1946年の木村・升田五番勝負というわけです。
 「この時に勝っておけば八段だったのに…!!」と、くり返し悔しがることになるわけです。

 「先手の振り飛車と美濃囲い」の升田幸三と、「三段玉と四段目の金銀」の木村義雄。結果的には、木村名人が勝利したというのは、その時代の空気がそうさせたのでしょうか。やはり若い升田さんの方が、‘現代的’なセンスであったことは確かなようですが、でも、勝ったのは木村名人なんですよ。ここに何やら、「理」だけでは割り切れない「妖しさ」があるように感じます。
 これが‘戦後’になると、木村名人の「妖しさ」が通用しなくなって、升田さんと立場がくるっと入れ替わった気がします。



・“戦後”、木村・塚田・升田・大山の時代、の記事
  『高野山の決戦は「横歩取り」だった
  『「錯覚いけないよく見るよろし」
  『「端攻め時代」の曙光 1』 
  『「端攻め時代」の曙光 2
  『「端攻め時代」の曙光 3
  『超急戦! 後手5五歩位取りvs先手横歩取り 』
  『新名人、その男の名は塚田正夫

・“戦後”の横歩取りの記事(一部)
  『京須新手4四桂は是か非か
  『小堀流、名人戦に登場!
  『「9六歩型相横歩」の研究(4)

無敵木村美濃伝説とは何だったのか 3

2012年11月15日 | しょうぎ
初手より△3四歩 ▲2六歩 △3二銀 ▲2五歩 △3三角 ▲4八銀 △4四歩
▲3六歩 △4二飛 ▲1六歩 △1四歩 ▲5六歩 △6二玉 ▲6八玉 △7二玉
▲7八玉 △8二玉 ▲9六歩 △9四歩 ▲6八銀 △7二銀 ▲7六歩 △4三銀
▲5八金右 △6四歩 ▲5五角

 升田幸三六段vs木村義雄名人 香落ち

 これは1939年、関西社交クラブに木村義雄名人が東京から招かれ、関西代表として升田幸三六段が香落ちで対戦した時の将棋。升田幸三21歳。おそらくこれが木村・升田の初対局と思われますが定かではありません。
 この時、木村義雄は名人になって2年目で、「無敵の名人」の呼び声が高まってきた時期です。升田さんは燃えました。


 図のような序盤になりました。升田の5五角が新手です。

 升田解説 〔高段同士の対局で、香落ちは下手の必勝と、これが私の信念である。だから私は天下無敵の木村名人だろうと、この将棋は、絶対勝つと宣言していた。そのためには上手に「3四銀型」を許してはならん。つまり△3五歩と突かせないことがポイントなので、飛車先を早く伸ばす。もし上手が△4四歩のところで△3五歩と突いてくれば、6八銀から5六歩そして5七銀左から7九角と「鳥刺し戦法」で3五歩を狙うわけだ。〕

 升田幸三は、香落ちの定跡に関して疑問をもっていました。「3四銀型をつくらせてはいけない」、「二枚銀はだめだ」ということ。


△6三銀 ▲3七角 △7二金 ▲7七銀 △5二金 ▲1五歩 
 新手5五角は、前からの研究ではなく、その場で、木村名人の「△1四歩」を見て思いついたのだそうです。角を5五~3七と持ってきて、1五歩の仕掛けが狙いです。
 この5五角はどこかで――そう、対藤井システムの攻略の手として出てくる5五角に似ていますね。振り飛車側がまだ4一金型なので、6三銀という形を強要できる。まあしかし、木村名人とすれば、6三銀型は得意の「木村美濃」なので、むしろ嬉しいくらいかもしれないですが。


△1五同歩 ▲同香 △4五歩 ▲1八飛 △4四角 ▲1六飛 △5四歩 ▲1二香成 △4一飛
 ▲1五歩とねらい通りに仕掛けました。▲1二香成となって「よし、優勢だ」と升田は思いましたが、木村名人は△4一飛で平然としています。(2一成香、同飛、1二飛成には、1一飛と応じるのでしょうか?)
 前回紹介した対花田長太郎戦の場合は3一金としましたが、5二金を上がっていますのでここではその手はできません。


▲6六歩 △7四歩 ▲6七金 △7三桂 ▲6八金上 △8四歩 ▲5七銀
 ここから、攻めを焦らず、升田は自陣を整備します。木村名人は得意とする「中央での戦い」を常にねらっていますから、それにどう対応するか、そこが勝負の分かれ目になります。


△3五歩 ▲同歩 △3一飛 ▲4六歩 △3六歩 ▲2六角 △4六歩
▲同銀 △6五歩 ▲同歩 △同桂 ▲6六銀 △6四歩 ▲5五歩 △4一飛
▲4五歩 △3三角 ▲1四飛 △2四歩

 さあ、升田陣は四枚の金銀で固めました。ここに序盤で5五角から角を右に移動させた手が対木村香落ち戦にはかなり有効であることがわかります。いつものように8八角のままだと、その角を使いたいのでなかなか下手側は堅陣が作れません。(当時は穴熊の発想もなかったわけですし。) 木村の中央攻めに万全に備えておいて、それからゆっくり1、2筋から攻めたらいい。

 ということで、木村名人の方は、ここで動かないと完封されてしまいますから、動きます。△3五歩▲同歩△3一飛。 ついに本格的な戦いに突入。


▲2四同歩 △5五角 ▲同銀左 △同歩 ▲5三歩 △6二金左 ▲2一成香 △同飛
▲6六歩 △5四銀左 ▲5二歩成 △同金 ▲6五歩 △同銀 ▲5三歩 △6二金左 ▲4八角
 木村名人の△2四歩。これはどういう意味なのか?
 升田六段の▲同歩に、△5五角。(このとき「えい、やっちゃえ」と名人は言ったそうだ。これが名人の口癖らしい。) 木村の△2四歩は、下手に同歩と取らせて、「2五」の空間をつくり、そこに次の△5五角で角と銀とを交換して、その銀を「2五」に打とうというもの。
 升田はその手に乗って、▲5三歩と一本効かしておいて▲2一成香。もし2五銀と打って来れば1三飛成、2六銀、3一成香で下手良し(4三銀が取られてしまうので3一同飛と取れない)と読んだ。
 このあたりから、「実は受けが大好き」という升田幸三の真価が発揮される。ここは受け切ってしまえば下手勝ち。とはいえ、やはり7八玉型というのは、振り飛車の8二玉型と較べて、囲いが崩されやすいようだ。下手優勢だが、正念場である。
 升田、▲4八角。


△5六銀打 ▲1二飛成 △6七銀成 ▲同 金 △2四飛 ▲2六歩 △6六香
 僕は最初、解説を読まずに棋譜だけを並べて、この「▲4八角」にずいぶんと感心しました。これは6六の地点に利かすと同時に▲8四角(1二飛成~6二角成のねらい)があり、下手が▲1二飛成としたとき、2四飛に、2六歩と相手の飛車の捌きを止められるというわけです。
 しかし、後で読んだ升田解説では、特にこの手は自慢していませんでした。
 それよりも、「▲1二飛成は短気だった。若い私は、正直なところ焦っていた」と反省している。▲1二飛成では▲7七金寄が安全でよかったという。形勢はちょっともつれてきました。
 さあ、木村名人、△6六香。


▲5一角 △6七香成 ▲同玉 △4二歩 ▲同角成 △1一歩 ▲同龍 △5四飛 ▲8四角
 ▲5一角で勝ちだと思ったのが、升田六段の「焦り」。 △6七香成▲同玉のあとの「△4二歩」が好手で、升田の読みにない手だった。同竜なら、6一金打で危険なことになる。(金を上手に渡してしまったためにこの手が生じた。)
 それで、升田▲4二同角成。 冷静に後で見ればわずかにまだ先手良しのようですが、対局中の気持ちとしてはほぼ互角でしょう。
 升田ねらいの▲8四角が実現。しかし、上手△8三歩で、次にどうするのか。角を切るのか。


△7三金左 ▲8五桂 △7六銀 ▲同玉 △7五歩 ▲6七玉 △7六金
▲5八玉 △8四金 ▲7三銀 △同金 ▲同桂成 △同玉 ▲7一龍
まで114手で下手の勝ち
 升田解説 〔△7三金左が最後の大失着。▲8五桂の一発で決まった。△8四金なら▲7三銀△8三玉▲8一龍で詰む。△8三歩とされたらまだまだわからなかった。〕

投了図
 升田解説 〔冷や汗をかきながらともかく名人の首級をあげた。〕
 投了図以下は、7二金、5一馬、7四玉、7三金、6五玉、7七桂打、同金、同桂、7六玉、6七銀、8七玉、7八金、8六玉、8七香まで。


 この将棋を見て、ずいぶんと参考になります。
 香落ち下手では「3四銀型」をつくらせないために3六歩を早めに突く。角を5五から右に転換すると、6六歩から玉を堅く囲いやすい。
 さらには、やはり玉の位置が7八だと、やはり5筋からの反撃が厳しくなる。本局も、仮に玉が8八ならばかなり余裕があった。
 結局、「中央の闘い」に全力を注いでくる木村の陣形に対抗するには、玉を8八か、できれば穴熊にするのが良さそうですね。まあ、実際には、それは許さんと、上手から先に攻めてくるかもしれませんが。居飛車は8八の角をどうするか、これが永遠の課題ですね。
 しかし、調べてみて、面白かったです。「木村不敗の陣」、うすくてダメだと言われている「木村美濃」もアマでなら通用しそうな気がしてきました。平手の対局で、使ってみようかと思います。
 今は「香落ち」の真剣勝負は奨励会(将棋界のプロ棋士養成制度)の中だけで行われていますけれども、どんな戦い方になっているんでしょうかねえ。是非とも、奨励会対局棋譜集のようなものを出して欲しいですね。僕が香落ち下手で指すとしたら、やはり相振り飛車ですかね。これが一番、下手の有利なポイントを生かしやすい。


 この対局時、升田幸三は六段で21歳でしたが、次の年からは3年間、軍務に就きます。で、任務を解かれてまた1年将棋を指すのですが、ここで七段になります。しかし戦局(大東亜戦争)が厳しくなり、再び召集されます。南方のポナペ島へ行きます。
 そして戦争が終わり帰って来るのですが、当然ながらすぐには将棋界も復活できず、しばし待つことになります。ここで新制度として順位戦が創設され、「駒落ち」制度は廃止されてプロ棋士の対局はすべて「平手」になります。この順位戦の制度をつくるのに先頭に立っていたのが木村義雄名人でした。
 順位戦は1946年に始まりますが、この時升田さんは七段ですので、名人への挑戦者を決めるA級リーグには参加できません。1期目B級で優勝して、翌年にA級で優勝し、そして大山康晴七段との挑戦者決定戦「高野山の戦い」に敗れ――という流れになります。このときは升田幸三29歳です。
 将棋界において、戦争でいちばん割を食ったのが升田幸三なんじゃないかなあ、と僕は思うのです。22歳から27歳まで、将棋を指せたのは1年間だけです。でも、将棋については愚痴の得意な升田さんですが、戦争に関しては一切愚痴も恨みも言っていませんね。戦争がなかったら、20代の升田幸三名人が誕生していたのではないかなあ。ちょっと、泣けてきます。



 
手合割:香落ち 
下手:升田幸三
上手:木村義雄
△3四歩 ▲2六歩 △3二銀 ▲2五歩 △3三角 ▲4八銀
△4四歩 ▲3六歩 △4二飛 ▲1六歩 △1四歩 ▲5六歩
△6二玉 ▲6八玉 △7二玉 ▲7八玉 △8二玉 ▲9六歩
△9四歩 ▲6八銀 △7二銀 ▲7六歩 △4三銀 ▲5八金右
△6四歩 ▲5五角 △6三銀 ▲3七角 △7二金 ▲7七銀
△5二金 ▲1五歩 △同 歩 ▲同 香 △4五歩 ▲1八飛
△4四角 ▲1六飛 △5四歩 ▲1二香成 △4一飛 ▲6六歩
△7四歩 ▲6七金 △7三桂 ▲6八金上 △8四歩 ▲5七銀
△3五歩 ▲同 歩 △3一飛 ▲4六歩 △3六歩 ▲2六角
△4六歩 ▲同 銀 △6五歩 ▲同 歩 △同 桂 ▲6六銀
△6四歩 ▲5五歩 △4一飛 ▲4五歩 △3三角 ▲1四飛
△2四歩 ▲同 歩 △5五角 ▲同銀左 △同 歩 ▲5三歩
△6二金左 ▲2一成香 △同 飛 ▲6六歩 △5四銀左 ▲5二歩成
△同 金 ▲6五歩 △同 銀 ▲5三歩 △6二金左 ▲4八角
△5六銀打 ▲1二飛成 △6七銀成 ▲同 金 △2四飛 ▲2六歩
△6六香 ▲5一角 △6七香成 ▲同 玉 △4二歩 ▲同角成
△1一歩 ▲同 龍 △5四飛 ▲8四角 △7三金左 ▲8五桂
△7六銀 ▲同 玉 △7五歩 ▲6七玉 △7六金 ▲5八玉
△8四金 ▲7三銀 △同 金 ▲同桂成 △同 玉 ▲7一龍
まで114手で下手の勝ち

無敵木村美濃伝説とは何だったのか 2

2012年11月14日 | しょうぎ
 無敵木村美濃伝説についての第2回、花田長太郎八段vs木村義雄名人の棋譜を見ていきます。1941年の対局で、「木村・花田三番勝負」と銘打った対局だったようで、その第2局です。

 花田長太郎八段は実力制での第1期名人位を決める争いで好敵手だった相手。木村義雄が名人になったので、花田が下手での木村名人との香落ちの対局も何局も指されているわけです。
 花田長太郎は24手目に仕掛けました。「速攻」型です。
 ▲1四歩△同歩▲同香△3一金▲1八飛△1六歩、と進んで次の図の局面となります。

 前回の萩原淳戦では、下手萩原がじっくりとまず中央で形を整える将棋を紹介しました。その場合は、木村名人にも十分に戦型を整えることができるので、例の「木村美濃」を組んで7三桂とこれを攻めに使える形にして、そこから木村先攻ということになりました。そういう「中央での決戦」になってしまうと下手は「香落ち」のストロングポイントである1筋の利を生かせないことになりがちです。
 そういう意味では、この将棋の花田八段のように「速攻」というのも、理にかなった指し方と言えます。しかしうまくいくのでしょうか。


 △1六歩。こういう手が用意されているんですね。取れば△2五銀でしょう。香落ちならではの面白い攻防ですね。
 ところで、上手の右銀の形、「6二銀型」は、木村名人が愛用した形で、これが機を見て「木村美濃」に発展することになります。これはとても勝率がよく、「木村不敗の陣」などと恐れられたわけなんですが、木村名人はこの6二銀ばかり用いていたわけではないです。8二玉として7二銀とする普通の「美濃囲い」と半々くらいで使い分けていました。その場合は大体手がすすむとよく見られる「高美濃」になります。でもたぶん勝率では、6二銀型の方がよかったのではないでしょうか。なんとなくの印象ですが。
 “相手に研究の的を容易に絞らせない”というのはプロ棋士の常用手段ですね。とくに名人のような「狙われる立場」では。単純に“同じ将棋ばかりでは飽きる”ということが、あるいは真実かもしれませんが。

 それと、「3四銀型」が木村名人の特徴です。
 升田幸三の講座や解説を読むと、香落ちの将棋の話になると必ず触れていることが、「上手に3四銀型をつくらせてはいけない」ということです。心の中心に「打倒木村義雄」がずっとあった若き日の升田幸三は、木村の「3四銀型」を打倒のために研究してそういう結論になったのかと推察します。角落ちや香落ちでまず勝たないと平手では格上の強者とは対局できない時代ですからね。 

 上の図の局面ですが、下手花田の香車は1一に成りこみましたが、まだ戦果は得られていません。それで花田、元気よく▲4五歩と行きました。しかしそれだけで攻め切れるはずもなく、遅れて右銀を進出させます。下手としては、タイミング良く2一成香と桂馬を取りたい。それをいつ取るかは下手の権利で、そこが「1筋速攻」の主張点。
 (このあたりの棋譜は省略していきます。)

△6四歩 ▲3五歩 △4四飛 ▲6四銀 △5六歩 ▲7五銀 △7四歩
▲6六銀 △6五歩 ▲同銀 △5七歩成 ▲同銀 △同香成 ▲同金 △7三桂
 木村名人、△6四歩と突き上げました。これを前から狙っていたんですね。これは意表を突きますよね、まさかこんなあっぶなっかしいことを読みに入れているなんて。「読み」の自信がなければできない。
 ですが、指されてみれば、「なるほど」の一手。▲6四同銀と取らせて、△5六歩とすれば、5一の香車と、3七馬とが同時に働いてくる。そしてよく見れば先手の飛車(竜)は1三にいて、この瞬間はものすごく働きが悪い。そういうタイミングでの「6四歩突き」です。うまいもんです。
 ここで予告しておきますと、上手の6二の銀、これを木村名人は最後に捨てて下手花田玉を詰上げることとなります。木村名人にとっては振り飛車の「右銀」は“攻め駒”なのかもしれません。その発展型が「木村美濃」ということです。

▲5六銀 △同銀 ▲同金 △4八歩成 ▲1二龍 △5八と ▲3二龍 △6九と
 さあ、名人は銀取りに7三桂と跳ねました。大好きな玉側の桂跳ねです。(ここが大山将棋との大きな違いですね。) このあたりは上手駒得で馬も守備に効いているし、上手優勢かなあと私でも感じますが、さて。
 花田▲1二龍。飛車を働かせたい。対して木村が3二金をすんなり取らせて△5八とと攻め合いを選んだのは、「これで勝ち」というはっきりした自信があったからなのでしょうか。そうでなければいったんは3一歩と、金取りを防ぎますよ、普通は。△3一歩には▲同角成があるのでしょうか。(いやあ、ないよね。) たぶん、木村名人は△3一歩で手を渡すと下手花田の何か‘好手’を見つけて、それを嫌ったのかと僕は思いました。

▲6三銀 △同玉 ▲6四香 △同馬 ▲同角 △7九と ▲同玉 △4九飛成
▲6九桂 △5四歩 ▲4六角 △6四香 ▲2七角 △4六龍 ▲同金  △6七香成
▲7八金 △6六銀 ▲6八歩
 ▲6三銀△同玉▲6四香から、花田八段猛攻するのですが、その攻めが1手あくと△7九と▲同玉△4九飛成と名人、飛車を成りこむ。で、△5四歩。これは受けの手で、2七角からの王手飛車取りの防ぎ。花田が▲4六角と角を引いて次の6四香をねらうが、木村は逆に△6四香と打って攻防にきかす。
 このあたりから最後まで、ものすごく面白い応酬です。ぜひ盤に並べて鑑賞されることをおすすめします。
 だけどこれを木村名人とはいえ、さすがに「これで勝ち」と読み切っていたとは思えません。やっぱりここはたぶん、優劣不明なんだと思います。(この棋譜のプロの解説は残念ながら手元にありません。)

△7八成香 ▲同玉 △5八銀 ▲6七香 △同銀上成 ▲同歩 △5三香 
▲5五金 △6四金 ▲同金 △同玉 ▲4三龍 △5六金 ▲6八金 △4七角
▲8八玉 △6九銀成 ▲4四飛 △3六歩 ▲7八金 △5八角成 ▲5九歩 △5七馬 
▲3六角 △7九銀 ▲9八玉 △8八金 ▲9七玉 △8五桂 ▲8六玉
 力強い、迫力のせめぎ合いが続きます。名人の△5三香が参考になる受けですね。ここでは「5四」を守ることが大事なんですね。続く△5六金、△4七角など玉を安全にしながら攻め味をつくっていく。
 花田八段も、三枚の大駒で上手玉に迫っていく。
 木村名人は、持駒の金銀を全部使って花田玉を追う。

△7三玉 ▲5四飛 △5二歩 ▲6五銀 △7八金 ▲7四銀 △8二玉
▲8五銀 △6八馬 ▲7七桂打 △5四香 ▲同龍 △8八銀不成
 で、こうなった。この時代の木村名人の香落ちの将棋はこんなのばっかり。「裸玉vs裸玉」。
 ここで木村名人は△7三玉と玉を早逃げした。もしこの手で△7八金としたらどうなっていたか考えて見ました。これは次に△7五金からの詰みの狙いですが、名人がそう指さなかったというのは、そう指すとこれは上手が負けになるんでしょうね。僕なりに出した結果は、△7八金には、▲5四飛△7三玉▲6四銀△8二玉▲5三飛成で下手勝ちというもの。
 ということで名人は△7三玉と早逃げをして、▲5四飛には△5二歩。花田の▲6五銀に、このタイミングで△7八金と金を取る。

▲5六龍 △7七銀不成 ▲同桂 △同馬 ▲7五玉
 木村は△8八銀不成から7七地点の強行突破をはかる。
 花田、▲5六龍。持駒の少ない花田は角筋を通しながら金を取る。
 ▲7五玉と花田八段が指した手は、なんと170手目。 さあ、結末は―――?


△7四歩 ▲6五玉 △7三桂 ▲7四玉 △4四飛 ▲5四香
△6三銀 ▲同玉 △5三金 まで179手で上手の勝ち
 ここで下手花田玉は詰んでいるんですね。持駒の「飛金桂桂桂歩」をぴったり使って木村名人は玉を詰めます。
 △7四歩を同銀は、8四金、6四玉、7四金、同玉、8四飛以下の詰み。
投了図
 △6三銀▲同玉△5三金、で花田長太郎、投了。

 先に予告した通り、最後に△6三銀と捨てる手が出ました。これまた美しい手順で収束です。
 投了図以下は、7四玉、6二桂、7五玉、6三桂までの詰み。6二銀が消去されたことで、そこに6二桂と打てて詰むのですね。いやあ、凄い。名局だ。
 ところで、木村名人の△4四飛に花田八段は▲5四香合いとしたのでこの詰み手順になりましたが、“▲5四銀合い”だったらどう詰めればよいのか? 僕はそれを10分考えて頭が疲れてギブアップ、ソフトにかけて答えを教えてもらいました。興味があれば考えてみてください。これも駒が余らず詰みになります。それほど難しくはないんですが、本譜よりやや長くなりその分複雑です。


 このように、木村名人の香落ちは、とにかく強い。結局のところ、読みぬく力がダントツにすごかったのだと思いますが、しかし挑戦する七段、八段のプロ棋士たちは平手対局以上に悔しいことでしょう。いくら名人が強いとはいえ、理論的には下手が初めから有利なはずの香落ち下手で勝てないのですから。
 香落ち下手の、わずかな有利を、実質の「勝ち」に結びつけるにはどうしたらよいのか。そういうことで、研究好きの高段者は打倒木村のために香落ちをとことん研究したのです。


 花田さんに関しては、たまたま木村義雄との対局で3つ負け将棋ばかりを紹介して申し訳ない。この対局は「木村・花田三番勝負」の第2局ですが、その第1局は「平手」戦で相掛りの戦いを花田長太郎八段が勝っています。残念なことに、その第3局についてはまだ情報がありません。
 それと、木村名人との「香落ち」戦でも、花田さんが木村さんに勝った将棋もわりと多くあります。花田長太郎は、才能があることは認められていて、相掛りでは花田定跡というものもあるのです。ただお酒が好きだったのと、身体が丈夫でなかったことで、木村名人ほど成績が安定しなかったようです。
 花田長太郎の名人への夢は叶いませんでしたが、1947年、花田の弟子塚田正夫がついに木村義雄から名人位を奪取することとなります。また、この年1947年から、プロ棋士の「駒落ち」対局の廃止が実施されることとなったようです。


 次で「無敵木村美濃伝説」の記事は最後ですが、升田幸三対木村義雄の香落ち対決を紹介します。

  

手合割:香落ち 
下手:花田長太郎
上手:木村義雄
△3四歩 ▲7六歩 △4四歩 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩
△3三角 ▲1六歩 △3二銀 ▲1五歩 △4三銀 ▲4八銀
△3四銀 ▲6八玉 △4二飛 ▲7八玉 △6二玉 ▲9六歩
△9四歩 ▲5八金右 △7二玉 ▲4六歩 △6二銀 ▲1四歩
△同 歩 ▲同 香 △3一金 ▲1八飛 △1六歩 ▲2八飛
△1五角 ▲2七飛 △2二金 ▲1七歩 △同歩成 ▲同 飛
△3三角 ▲1一香成 △1五歩 ▲4五歩 △同 銀 ▲1四歩
△4一飛 ▲2四歩 △3四銀 ▲1五飛 △2四角 ▲1八飛
△1二歩 ▲2一成香 △同 金 ▲4七銀 △3二金 ▲5六銀
△4五歩 ▲1六飛 △5四歩 ▲6八銀 △5一香 ▲1七桂
△4六歩 ▲4八歩 △5五歩 ▲6五銀 △4五銀 ▲7七角
△4四飛 ▲8六角 △3四飛 ▲1三歩成 △同 歩 ▲4七歩
△3六歩 ▲4六歩 △同 角 ▲3六歩 △3七角成 ▲1三飛成
△4七歩 ▲4九歩 △6四歩 ▲3五歩 △4四飛 ▲6四銀
△5六歩 ▲7五銀 △7四歩 ▲6六銀 △6五歩 ▲同 銀
△5七歩成 ▲同 銀 △同香成 ▲同 金 △7三桂 ▲5六銀
△同 銀 ▲同 金 △4八歩成 ▲1二龍 △5八と ▲3二龍
△6九と ▲6三銀 △同 玉 ▲6四香 △同 馬 ▲同 角
△7九と ▲同 玉 △4九飛成 ▲6九桂 △5四歩 ▲4六角
△6四香 ▲2七角 △4六龍 ▲同 金 △6七香成 ▲7八金
△6六銀 ▲6八歩 △7八成香 ▲同 玉 △5八銀 ▲6七香
△同銀上成 ▲同 歩 △5三香 ▲5五金 △6四金 ▲同 金
△同 玉 ▲4三龍 △5六金 ▲6八金 △4七角 ▲8八玉
△6九銀成 ▲4四飛 △3六歩 ▲7八金 △5八角成 ▲5九歩
△5七馬 ▲3六角 △7九銀 ▲9八玉 △8八金 ▲9七玉
△8五桂 ▲8六玉 △7三玉 ▲5四飛 △5二歩 ▲6五銀
△7八金 ▲7四銀 △8二玉 ▲8五銀 △6八馬 ▲7七桂打
△5四香 ▲同 龍 △8八銀不成▲5六龍 △7七銀不成▲同 桂
△同 馬 ▲7五玉 △7四歩 ▲6五玉 △7三桂 ▲7四玉
△4四飛 ▲5四香 △6三銀 ▲同 玉 △5三金
まで179手で上手の勝ち

無敵木村美濃伝説とは何だったのか 1

2012年11月13日 | しょうぎ
 今日は「木村美濃」について。

 上の図は、これから紹介する棋譜、萩原淳八段vs木村義雄名人の香落ち戦(1941年)です。

 1938年に木村義雄新名人が誕生したのですが、この時代は段位に差があると「駒落ち」がふつうに適用されていましたので、「名人」と「八段」とではやはり“格”に差がありますから、「香落ち」対局の棋譜も多く残されているわけです。このあたり、僕は詳しくは知りませんので、正しくはないかもしれませんが、おそらく、「名人」と「八段」とでは、“半香”の差になるかと思います。「平手」と「香落ち」の中間が“半香”です。つまり2対局に1局が「香落ち」となる手合いです。ですから、木村名人と各棋戦で対戦する場合、それまでは同じ「八段」として木村と「平手」で指していた花田長太郎、土居市太郎、萩原淳という強豪棋士たちも、みな名人木村義雄との対局では、その半分は「香落ち」下手で指すことになりました。
 ところがこの「香落ち」で負けないんですね、木村名人が。木村名人の相撲の双葉山と並び称された“不敗伝説”は、「八段が香落ちでぶつかっても勝てない!!」という驚きが根底にあった気がします。

 上の図の上手の構えが「木村不敗の陣」などと呼ばれた構えです。
 そういう“木村無敵伝説”が、振り飛車の囲いの、「6三銀、7二金」の金銀の形を「木村美濃」と呼ばせるようになりました。これ自体はもともと数百年前の昔からある平凡な囲いですけれど。

 数年前『将棋世界』誌の勝又清和六段の講座のなかの振飛車党座談会で、佐藤和俊五段が「木村美濃は囲いじゃない!」という発言をしていたと僕の記憶にありますが、これは、「木村美濃はうすすぎて勝ちにくい」ということを表現したものと思います。現代では、「木村美濃」という囲いについての評価はそのようになっています。平たく言えば「うすいからダメ」と。
 同じ金1枚銀1枚ということで振り飛車の囲いをつくるなら、銀冠美濃(ぎんかんむりみの、「ぎんかん」と略して呼ぶことも多い)の方が堅い、と。
 実際にそれを理屈で示すと下のようなことになります。

木村美濃     銀冠美濃

 左が「木村美濃」。 先手に攻める手がまわって「5三と」とすればもう、美濃囲い側は困っています。銀が取られますし、先手に飛車でもあれば、「5三と~4二飛~6三と」で詰めろがかかります。こうなると受けなし近い。(後手の持ち駒によるが)
 右の「銀冠美濃」。 同じように「5三と」としてもなんてことない。もう1手指して「6三と」と指しても、後手は「同金」でもよいし、放っておいて、次に「4二飛」と打たれてもまだ詰めろじゃない。

 このような戦いになったときには、明らかに「銀冠美濃」が堅い。「堅さ」では圧倒的に「銀冠美濃」が優るわけです。
 ところが案外、このことが認知されて実戦されるようになったのはここ10年くらいのことで、角交換型の中飛車系の将棋になった時、2枚の金銀で玉を囲うのに、佐藤康光さんや山崎隆之さんというところが頻繁にこの「銀冠」を使うようになってその優秀性が広まった、と僕は理解しています。(この場合の「銀冠」はあくまで金銀2枚での囲いの場合です。)


 それじゃあなぜ木村十四世名人は「木村美濃」を使ってあれほど、「無敵」(実際には負けもあるけれど)と呼ばれるほどに勝てたのか。どういう将棋だったのか、ということを見ていきたいと思います。


 ということで、まず、萩原淳八段vs木村義雄名人の香落ち戦(1941年)

▲5五歩 △同 歩 ▲同 角 △4三金 ▲5六銀直 △5二飛 ▲8八角 △6五歩
▲5五歩 △5一飛
 香落ち将棋は、上手に左香がないのだから、その弱点を突いて1筋を攻めるのが基本。しかしそううまくはいかないので、この将棋は速攻しないで、下手がまずじっくりと組み上げようとした場合。1筋から攻める前にまず中央を厚くするという考え。
 というのは、1筋から攻め込んでも、その反動で中央からやられると、振り飛車の攻めの方が下手の玉に近い場所なので、結局やられてしまうということになりがちだから。
 ここで下手5五歩。5筋の歩を交換して、▲5六銀直から▲5五歩と中央位取り。このあたりは定跡手順のようです。 

▲5七金直 △5四歩 ▲同 歩 △同 金 ▲5五歩 △6四金 ▲1六飛
 この下手の形というのは江戸時代から伝わっている形。とても美しいですね。
 この局面、あなたはどちらを持ちたいですか?
 僕が木村名人の香落ち上手の将棋を約20局くらい並べて思ったことは、ここではすでに上手が優勢なのかもしれない、ということです。少なくとも、木村義雄はそう思っていたと感じました。
 そして5筋の位を取った下手側も、「これならいける!」と自信があったと思います。けれども結果はほとんど上手勝ち。これはつまり、「下手もこれでやれる」という目測が誤りだったのではないかということです。この下手の中央に位を張った姿は美しく堂々としています。でもだからその美しさに惚れすぎていて、実際にはそれほど堅くないのではないか。
 “相性”の問題なんです。上手の木村名人の陣形は、「木村美濃」で玉がうすく見えるし、3四の銀は遊んでしまうかもしれない。下手はそう思っているかもしれませんが、実際には下手の5筋位取りの陣形は木村義雄の手にかかるとあっという間に崩壊してしまいます。とにかく上手の木村の陣形がこの下手陣を崩すのに、抜群の相性を発揮する。

 さて、上手木村名人は△5四歩と歩を合わせ、△6四金と金を移動させました。

△4五歩 ▲同歩 △5四歩 ▲4四歩 △同角 ▲5八金引 △5五歩
▲4五銀 △同銀 ▲同桂 △6六歩 ▲同角 △6五金
 下手萩原淳八段は▲1六飛としました。いよいよ1筋から攻めようということです。
 しかしその機先を制し、△4五歩▲同歩△5四歩と、木村の方から仕掛けました。
 この「木村不敗の陣」は、超攻撃的布陣なのです。飛車角はもちろんですが、3四の銀、6四の金、7三の桂を使って襲いかかる、そういう布陣です。中央で戦いになってその闘いを制すれば、左香がないことなど、まったく関係ない勝負になります。
 じつは「木村美濃」の特徴の「6三銀」は、そういう中央の闘いのバックアップとしての役割も演じていまして、場合によってはこの銀までも「攻め」に使おうというのが「木村美濃」の意味なのです。「銀冠」にはない「木村美濃」の特性がここにありました。

▲5三歩 △6六金 ▲同 歩 △2七角 ▲4六飛 △3七銀 ▲5二銀 △4六銀成
▲同 銀 △4九飛 ▲6三銀成 △同金 ▲5二銀 △4六飛成 ▲3四銀
 木村名人は、前線の銀と金を鮮やかにさばき、ついに飛車を奪って打ち込みます。
 萩原八段も▲5二銀から攻めます。しかし△4五角成と桂取りで王手になると下手いけないので、萩原、▲3四銀。これはしかし――。

△6七歩 ▲同金右 △5二飛 ▲同歩成 △5六銀 ▲同 金 △同 歩
 しかし3四銀しかないのでは苦しいですね。
 この図で、2七の角が遠く6三にまで利いていることに留意。これが後で受けに効いてきます。(こういうのが‘名人芸’なんですね。)
 木村名人は勝ちをおそらくここで読み切ったのでしょう。△6七歩~△5二飛で決めにきます。

▲7二銀 △同玉 ▲4二飛 △5七歩成
 ▲7二銀という手は、いかにも工夫した手ですね。僕には意味がよくわかりません。取っていいのかどうか…。(いや、取らないと8一飛から詰みますね)
 名人は、これを△同玉。これで1手勝ちということでしょう。萩原、▲4二飛。木村名人、平然と△5七歩成。

▲5三と △6二金打 ▲6三と △同玉 ▲5三金 △同金 ▲同桂成 △同玉
 なんという怖い形。
 この局面になるずっと前に「これはだいじょうぶ」なんて名人は読み切っているんだと思うけど、それでもこんな形は避けそうなところ。現代ならもっと安全な勝ち方を選択する方が多い気がします。


▲5七金 △6八金 ▲同玉 △5七龍 ▲同玉 △6五桂 まで113手で上手の勝ち
 一見、4三飛成で上手玉は詰まされそうだけれど、2七の角がしっかり守ってくれている。
 萩原八段、▲5七金。ここは5七同竜でも上手勝ちのようですが、名人は緩みません。△6八金からわかりやすく詰め上げます。 
投了図
 最後は「木村美濃」の7三の桂馬が跳ねて、詰み。後は並べ詰――とはいえ、なんと美しいフィニッシュでしょう。


 要するに木村名人は、こういう玉のうすい、いわば「裸玉と裸玉の闘い」を勝ち抜く自信があって、実際に勝ってきたのです。
 現代の「まず玉を固める(安全にする)」という思想が、戦前まではあまりなかったのですね。穴熊ブーム以前ですから。
 それと、戦前までは、「駒落ち」対局が棋士の半分以上を占めていたというのも影響があると僕は見ました。今は「駒落ち」というと、アマチュア相手の練習将棋ですが、昔はそうではありません。下手には自分の出世がかかっていますし、上手にとっても「勝負」の場なのでした。若手になめられないためにも。角落ちや飛車落ちになると、上手は金や銀をフルに使って攻めなければ強い下手相手には勝てません。ですから金銀が気合よく前に出て行く。必然、玉はうすくなる。そういう駒落ち将棋で鍛えられた将棋指しの男たちの中から、木村十四世名人のような「うすい玉」を平気で指しこなす名人が現れたのは、そう考えれば自然なことと思えてきます。
 あと、時間のこともあります。戦前の対局は、八段くらいの対局では持ち時間10時間以上の2日制、名人戦になると持ち時間15時間の3日制でした。こういう長い持ち時間があればこそ「うすい玉」同士の複雑な終盤を、もし(木村名人のように)その能力があればですが、きっちり読み切って指せていたのではないでしょうか。今の順位戦は持ち時間各6時間ですが、そうなるとさすがのプロでも終盤は時間がなくなり読み切るのは難しいということで、逆王手などの複雑な技のかかりにくいような形、「穴熊」等の堅い玉型が勝負術としては好まれ、有効になってきているのかもしれません。アマチュアにとってもその方が真似しやすい。


 第1回目はここまで。この木村名人の香落ち将棋についての記事は、全部で3回の予定です。次回は、花田長太郎八段戦をご紹介します。


 
手合割:香落ち 
下手:萩原淳
上手:木村義雄
△3四歩 ▲7六歩 △4四歩 ▲2六歩 △3五歩 ▲2五歩
△3三角 ▲1六歩 △3二銀 ▲1五歩 △4三銀 ▲4八銀
△3四銀 ▲6八玉 △4二飛 ▲7八玉 △6二玉 ▲9六歩
△9四歩 ▲5八金右 △7二玉 ▲4六歩 △6二銀 ▲6八銀
△5二金左 ▲5六歩 △5四歩 ▲5七銀左 △6四歩 ▲4七銀
△6三銀 ▲3六歩 △同 歩 ▲同 銀 △3五歩 ▲4七銀
△7四歩 ▲3七桂 △8二玉 ▲2六飛 △7二金 ▲6八金上
△7三桂 ▲5五歩 △同 歩 ▲同 角 △4三金 ▲5六銀直
△5二飛 ▲8八角 △6五歩 ▲5五歩 △5一飛 ▲5七金直
△5四歩 ▲同 歩 △同 金 ▲5五歩 △6四金 ▲1六飛
△4五歩 ▲同 歩 △5四歩 ▲4四歩 △同 角 ▲5八金引
△5五歩 ▲4五銀 △同 銀 ▲同 桂 △6六歩 ▲同 角
△6五金 ▲5三歩 △6六金 ▲同 歩 △2七角 ▲4六飛
△3七銀 ▲5二銀 △4六銀成 ▲同 銀 △4九飛 ▲6三銀成
△同 金 ▲5二銀 △4六飛成 ▲3四銀 △6七歩 ▲同金右
△5二飛 ▲同歩成 △5六銀 ▲同 金 △同 歩 ▲7二銀
△同 玉 ▲4二飛 △5七歩成 ▲5三と △6二金打 ▲6三と
△同 玉 ▲5三金 △同 金 ▲同桂成 △同 玉 ▲5七金
△6八金 ▲同 玉 △5七龍 ▲同 玉 △6五桂
まで113手で上手の勝ち

坂田三吉の横歩取り

2012年11月11日 | 横歩取りスタディ
 今回紹介する棋譜は、坂田三吉の68歳の時の棋譜。


 木村義雄新名人が誕生し、1938年2月11日紀元節にその襲位式が行われました。

 そして第2期名人リーグがスタートしました。そこに「南禅寺の決戦」で棋界カムバックを果たした老雄坂田三吉も参加したのでした。
 この時期の名人位の任期は2年で「1期」でした。2年間をかけて次の名人戦の挑戦者を決め、その第1位者が木村名人との七番勝負に挑むという形です。「名人リーグ」は総当たりで先後各二局づつ行います。
 老将坂田三吉の一年目の成績は2勝6敗でした。「やはり坂田も老いた…」という評価になるのはこれでは当然です。伝説の男とはいえ、16年将棋を指していなかった67歳の老人ですから。ところが二年目、68歳の坂田は将棋感を取り戻したか、勝ち始めます。

 本棋譜はそんな坂田将棋の晩年の輝きを記録するものです。
 相手の棋士は、金易二郎(こんやすじろう)、中原誠十六世名人の師匠の師匠に当たる人。中原さんは、あの「中原囲い」と今名付けられている囲いを、「昔、金先生に教わったんだよ」と言っています。また、坂田三吉と金易二郎とはとても気が合い、親しい友人関係にあったそうです。


1939年10月12日、第2期名人戦リーグ
先手:阪田三吉  後手:金易二郎
▲2六歩 △8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △3四歩 ▲6八銀 △3二金
▲7八金 △5四歩

▲2五歩 △6二銀 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △5三銀 ▲3四飛

 図のように先手が7七角と上がった場合、現代ならば7七角成と後手から角交換するところ。なぜそうするかといえば、2二の角を置いたままだと先手に飛車先の歩を先手にだけ切られてしまうから。
 ところが江戸時代からずっと戦前までの棋士は、あまりここでは角を交換したがらない。角交換将棋そのものも、どうもあまり好まれなかったみたいだし、「飛車先の歩交換? それくらいは許す」という感覚もあった。 
 先手の飛先歩交換の代償に、後手は5五の位を取りにいく、それが「5筋位取り横歩取らせ」戦法です。横歩を取るかとらないかは相手次第だが――坂田は?


△5五歩 ▲2四飛 △4一玉 ▲4八銀 △2三歩 ▲2八飛 △4二銀上
▲4六歩 △5四銀 ▲6六歩 △6四歩 ▲6七銀 △5二金 ▲5八金 △6五歩
▲同歩 △同銀 ▲6六歩 △5四銀 ▲4七銀 △3三銀 ▲3六歩 △3一角
▲6九玉 △7四歩 ▲5六歩 △7五歩 ▲同歩 △同角 ▲7六銀 △4二角
▲7五歩 △7四歩

 先手の坂田三吉、3四飛。‘横歩’を取りました。
 金八段はやはり、△5五歩。5筋の位を取りました。

 この将棋の持ち時間は各13時間(2日制)。
 坂田八段の▲5六歩に、金八段、2時間以上の長考で△7五歩。▲5六歩を同歩と取ると、同銀右、5五歩、4五銀となって、これはよくないと判断したようです。
 坂田も慎重に時間を使って考えます。

 『9四歩の謎』には、この名人リーグに参加した当初、坂田三吉は時間の使い方がわからず苦労したことが記されています。金子金五郎戦では、一日目、長考派の金子がしっかり時間を使ったのに、坂田はわずか3分の消費だったという。この対局は持ち時間13時間です。
 また、斎藤銀次郎戦では、大山康晴(当時15歳)が記録を務めたが、その大山に 「英語で記録を書かんといてください、わからん。参考にするんやから」と言ったという。なんのことかというと、時間の数字のことである。こうも言った。「将棋は日本のものや。英語なんかで書いて、あんた、そんな心がけでは強うなれまへんで。」
 


▲7四同歩 △6三金 ▲5五歩 △同銀 ▲5三歩

 そしてこのようになりました。中央での小競り合いが始まっています。こういう押したり引いたりの中盤は坂田三吉の得意とするところ。

 ▲5三歩と手裏剣を放ちます。横歩を取ったこともあって、歩は沢山持っています。
 


  △8六歩 ▲同 歩 △5三角 ▲5四歩 △4二角 ▲3七桂 △7五歩
▲8七銀 △5二飛 ▲4五桂 △5四飛 ▲5六歩 △4四銀引 ▲3三桂成 △同桂
▲2二歩 △同金  ▲7二銀

 ▲5四歩に、後手は同金とは取れません。取ると、7三歩成、同桂、7四歩です。
 △7五歩に、(6七銀でなく)8七銀と逃げた手が好手でした。
 うまく立ち回って、坂田さん、右桂をさばいて銀と交換しました。

 ところで、銀を取る前に、▲5六歩△4四銀引と交換したのが大変難しい手です。後手が△5六同銀と応じていたならどうなっていたか。

 坂田さんは手にした銀を7二に打ちましたが…



△7四金 ▲8一銀成 △6四角 ▲2四歩 △同歩 ▲6五歩 △同金 ▲5七桂

 7二銀と打って、8一の桂馬を取りに行く…。
 それでいいのだろうか。銀が遊んでしまうのでは…? しんぱいになります。  



△7六歩 ▲4四角 △同飛  ▲6五桂 △3一角 ▲5三銀 △7四飛
▲7三桂成 △9四飛 ▲6三成桂 △5一歩 ▲9一成銀 △3九角 ▲2九飛 △6六角成

 ▲6五歩△同金▲5七桂、なるほど、この桂打ちが目的だった!
 (▲6五歩に、角を逃げるのは▲6六桂が両取りで打てる。)

 ここから一気に攻めが激しくなります。



 先手の坂田三吉は、たっぷりあった「歩」をすべて使って攻めました。‘横歩’を取ったことを目いっぱい生かして戦っています。

 いま、金八段が6六角成としたところ。勝負どころです。
 玉の安定度で先手優勢ですが、下手をすると指し切ってしまいます。
 ここでどう指す?

 坂田三吉、ここで長考しました。50分考えて次の手を指しました。



▲4四香 △同 馬 ▲同銀不成 △同 飛 ▲7六銀 △6二歩 ▲4五歩 △同桂
▲5五金 △6三歩 ▲4四金 △同歩 ▲2四飛 △3三銀 ▲4二歩 △同角
▲2九飛 △2三香 ▲5九飛 △6六桂 ▲8四角

 「▲4四香!」と打ちました。同歩なら、4三金で寄せる意味です。これが良い手でした。
 先手は飛車角を取りました。▲4二歩、同角という効かしも入れました。あとで4三歩を先手で打てるようにしています。
 しかし、金さんも鬱陶しい先手の成桂を処分して、まだ頑張ります。さらに囲いの再構築。△6六桂の攻め。


  △7八桂成 ▲同玉 △7七歩 ▲8七玉 △8五歩 ▲4三歩 △8六歩
▲7七玉 △8七歩成 ▲同銀 △6四角 ▲7一飛 △7三歩 ▲6五歩 △3七角成
▲3九飛 △2八馬 ▲7九飛 △8五金 ▲7二飛成 △3二金 ▲9三角成 △8四歩
▲8六歩 △7五金 ▲8八玉

 
 △6六桂に▲8四角。この角は受けの手です、5七にも利いています。同時に5一をにらんで攻めもねらう。
 角打ちで敵の攻めを凌ぐのは、坂田将棋のお約束のようなもの。

 後手金八段、△8五金で先手玉頭にプレッシャーをかけつつ、角取りです。
 しかし坂田さんのうまさは、それを逆用します。 ▲8八玉と引いて飛車筋を通し、次に7五飛の金取りになっています。


△6五金 ▲6六歩 △6四金 ▲7三飛成 △3一玉 ▲6二龍上
まで149手で先手の勝ち

 △6五金に、▲6六歩。貴重な一歩を使います。これを△6四金と引かせて(取ると8四馬となって調子がよい)、それで7三に後手の馬の利きがなくなったので、▲7三飛成。うまいですねえ!

 ▲6二竜上。二枚竜が実現してしまっては後手いけません。
 金易二郎八段、投了。


投了図

 坂田三吉の歩の使い方が光る一局でした。
 2日制といっても、持ち時間13時間ですから、2日目には徹夜の勝負になりますよね。やはりこの対局も、終わるのは3日目の夜明けだったようです。


 この年、坂田三吉は「名人リーグ」を5勝2敗。前年と合わせ、結局トータル7勝8敗で「第2期名人リーグ戦」を終了。68歳。堂々とした戦いぶりを世に示し、これを最後に将棋界を引退したのでした。




 ここからは、おまけです。
 前回記事中で、木村義雄vs大崎熊雄の対局を紹介した時に、坂田三吉vs大崎熊雄についても触れたのですが、その対局の内容をもう少し図を使って紹介します。1920年の対局で、坂田さんは50歳くらいで八段、大崎さんは36歳、七段です。

 有名な「角頭歩突き」です。香落ちの将棋で、△3二銀▲7六歩△2四歩というオープニング。
 この将棋はしかし、この後がまた面白いんです。

 
 2、3筋で銀冠をつくった後―――、なんと、坂田さんは袖飛車から、浮き飛車棒銀に。

 そこからひねり飛車に。 玉は、8二へ囲う。

 でもって、下段飛車にして、こんどは中飛車に。

 さらに浮いて、逆ひねり飛車。
 まーしかし、これだけ無駄な動きをすれば、一方的に相手の陣形だけ堅くなりますよね。
 いくら「苦しめな形勢」が大得意の坂田三吉でも、これは形勢に差が開きすぎ(笑)。大崎七段にここで飛車を召し取られ、その飛車で攻められます。 
 とはいっても、遊びそうな左の金銀桂をなんとか使おうとするのはやはりプロの将棋。

 8三角! やっぱり出た、「坂田の角」―――ですが、これはもう無理、逆転できるわけありません。このまま大崎熊雄七段の快勝。
 面白いけど、勝ち味のない作戦でした。後手の飛車、動きすぎ~。しかし坂田さんは、大真面目でやっていたと思います。そこが坂田三吉の魅力ですよね。

1937 木村新名人誕生の一局

2012年11月09日 | 横歩取りスタディ
第01期名人決定大棋戦千日手指し直し局
「木村義雄八段」vs「花田長太郎八段」
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △5四歩 ▲5六歩 △6二銀 ▲2五歩 △3二金
▲6六歩 △5三銀 ▲2四歩 △同歩 ▲同飛 (上図)

 これは坂田三吉との「南禅寺の決戦」(坂田・木村戦)、「天竜寺の決戦」(坂田・花田戦)の行われた年、1937年暮れ12月の対局。
 当時の最高段「八段」者9名によるリーグ戦がその2年前から行われており、それもいよいよ大詰め、これに勝てば成績1位の木村義雄が名人位に決定、という一局。
 この将棋は、どうやら「千日手指し直し局」のようです。双方慎重な駒組みで仕掛けることなく千日手成立、だそうです。当時の千日手指し直しは日を改めての対局で、1週間後に再対局。それが本棋譜です。持ち時間は各12時間、二日制。


 この将棋は、先手の木村義雄が2六歩と飛先の歩を突きながらも、後手花田長太郎の5四歩に対し、「5六歩」と突っ張ったオープニングに。もし花田が8八角成~5七角なら、先手も5三角と打ってお互いに成角(馬)をつくることになる。が、花田はそれを選ばず6二銀。以下、上図のようになって、先手が飛車先の歩を切って、さらに後手の望む「5五歩」の形をつくらせないという…。それはちょっとムシが良すぎる…?
 「なんだとっ!!?」
 こうなると後手は黙ってはいられません。5筋から反撃、と思うのは当然です。序盤から熱い闘志がぶつかり合います。

(上図から)△5五歩 ▲同 歩 △2三歩 ▲2八飛 △4四銀 ▲6八銀 △5二飛
▲5八飛 △5五銀 ▲6七銀 △5六歩 ▲4八銀 △3三桂 ▲4六歩

 と言うわけで花田、5五歩、同歩から△4四銀~5二飛で中央から先手陣へ襲いかからんとします。
 この場合は中央の玉頭付近が危険で、さすがにこの上に3四飛などと横歩をとる余裕は先手にもないでしょう。したがって木村八段は2八飛から5八飛。
 花田八段は3三桂。さらに桂馬を攻撃に加えようと。もちろん次は4五桂があります。そうなると相当の破壊力。先手は大丈夫なのか?
 木村八段はどう受けたか? ―――と、「4六歩」がその答え。



   △4六同銀 ▲5六飛 △5五銀 ▲2六飛 △5六歩 ▲5八歩 △1四歩
▲6八金 △1三角 ▲6九玉 △4二銀 ▲4七銀 △4一玉 ▲6五歩 △3一玉 
▲4八金 △5四飛 ▲4六歩 △3五角 ▲2八飛 △4四角 ▲7八玉 △6四歩

 4六同銀に「5六飛」が木村の予定の受け。 飛交換は先手に有利と見て、花田は5五銀。これで5筋の争いは治まった。なるほどこれで受かるのか、参考になる受けですね。

 〔4六歩の一手で先手は早くも、後手の3三桂の意図をうち砕いたということができる。 後手の4六同銀で、1四歩と突き、4七銀、1三角、5六銀左、同銀、同銀、4六角(参考図)と角を捌く手もあった。参考図となれば、先手は、5七歩と辛抱する一手となるだろう。〕と大山康晴の解説。
参考図

 花田の△4六同銀はわずか1分で指した手。次の△5五銀は約2時間の長考。
 木村の▲5六飛を花田が軽視していたとはっきりわかる。

 序盤は木村ペースとなった。序盤からリードして、中終盤でもゆるまず前に出て、そのまま一気に押し出すのが木村将棋。

 花田長太郎も、△6四歩から第2次の攻めを開始。



▲4五歩 △7一角 ▲6四歩 △同銀  ▲5六銀右 △5五歩 ▲4七銀 △4四歩
▲6六銀 △4五歩 ▲6五歩 △5三銀引 ▲5五銀 △7四飛 ▲6七金 △2二玉
▲5六銀 △9四歩 ▲5七金上 △9五歩 ▲3六歩 △5四歩 ▲6六銀 △9四飛
▲3七桂

 しかしこの△6四歩から攻めは、木村にすっかり逆用されてしまった。
 もっとも、この図ではもう、あるいは仕方ないのかもしれません。長引くと序盤の「3三桂」がねらわれて負担になってきます。(大山名人の解説は、6二角~3五歩~3四飛という石田流の構えを推奨している。) とはいっても、勝負はやはり“我慢”が必要でした。


 この最初の実力で名人位を決定する「名人位決定リーグ」の仕組みは、八段全員の総当たりで、其々の相手と先後二局づつ指していきます。それがすべて「持ち時間12時間二日制」ということなので、それは大変なものです。持ち時間12時間2日制って、大概終局は3日目の夜明け前後ですよ、きっちり時間を使えば。
 ここまでの木村義雄の成績は11勝2敗。敗れた2敗は、花田と、萩原淳に負けたものです。
 一方の花田の成績は、12勝1敗。(この1敗も萩原戦。萩原淳、つええー。)
 つまりこのようにダントツに強い二人だったのですが、実はこの毎日新聞社主催の「名人位決定のリーグ」だけの成績で名人位が決定されるわけではなかったのです。そこは他のスポンサーへの配慮ということでしょう。他棋戦の成績も加味されることになっていました。
 それで、花田長太郎という人は勝ち星にむらの多い人だったらしく、他棋戦の成績は12勝8敗、ところが木村義雄のほうは、27勝7敗で圧倒的。
 そういうわけで、総合ポイントとして木村義雄が1位で、花田が2位という成績でした。
 ただ、木村は最初の花田との「名人戦リーグ」の対局を落としていますから、ここでもまた花田に負けることになると直接対決で0-2、それで名人位に就くわけにもいかない。それで当時の規定は、もしこの対局で花田が木村に勝てば、あらためて両者による「六番勝負」が行われるというものでした。その半分、三つを1位の木村義雄が勝利すれば木村が名人に、4つ花田が勝てば花田が名人に、ということです。
 つまりこの1937年12月5日の対局は、木村が勝てば名人決定、花田が勝てばさらに「六番勝負」に突入、とそういう勝負対局なのでした。花田の崖っぷち対局ですね。


 しかし――、手が進むにつれ、これは木村新名人の誕生が明らかになってきました。 



   △4四銀 ▲4六歩 △同歩  ▲4五歩 △5五銀 ▲同銀左 △同歩
▲同銀 △3五歩 ▲4四銀 △4七歩成 ▲同金 △9三角 ▲3四銀 △6六歩
▲同角  △同角 ▲同金 △3九角

 こんな感じで金銀が前に前にと出るのが木村義雄の将棋。序盤での花田の中央からの攻めを逆用して、中央を圧倒的に支配しています。

 花田八段、△3九角。飛金両取りに攻めますが――、これは形づくり。



▲2三銀成 △同金  ▲同飛成 △同玉 ▲4一角 △3二銀 ▲2四歩 △同玉
▲3二角成 △2八飛 ▲2五歩  まで105手で先手木村義雄の勝ち

 2三銀成、同金、同飛成から、いつもながらのわかりやすいフィニッシュです。
 花田長太郎は、「奇麗に負けました」と言って投了しました。


投了図

 木村義雄新名人誕生!!!  
 
 名人になった木村は家に帰ってそれを父に報告すると、寡黙な父は、「そうか、俺も鼻が高いな。」と言ったそうです。木村義雄、32歳でした。




 この名人決定局の将棋は「後手5五歩位取り横歩取らせ戦法」の類似型ですが、実際には横歩取りにはなりませんでした。

■ 次に、若き日の木村十四世名人が「5五歩位取り横歩取らせ戦法」を用いて、がんがん攻めた将棋を2つ紹介します。

 これは1926年、木村義雄の21歳の時の将棋。相手は大崎熊雄。
 先手が「5筋位取り」をできるのは、初手から▲7六歩△8四歩▲5六歩△8五歩のとき。(2手目△3四歩または4手目△5四歩ならできない。)
 見てください、あの5段目の二枚の銀!
 後手の大崎さんが横歩を取ってきたので、木村さんはするすると銀を進めて、飛車を左右に振り回し、超攻撃的布陣が出来上がりました。そして5四歩から仕掛けます。以下、2、3筋から怒涛の攻めを開始します。
投了図
 が、届かず。 この図で投了となりました。
 ま、こういうこともある。しかし、若者らしい突進ですね。
 でももうこの時は木村さん、最高段の「八段」だったんですよ。戦後でいえば加藤一二三、谷川浩司並のスピード出世です。この将棋はちょっと自分の力を過信しすぎでしたかね。

 ひとつ余談を。この大崎熊雄八段は、坂田三吉が後手番(香落ち上手)で「角頭歩突き戦法」を指した時の相手でした。

 これです。大崎さんが勝ちました。


■ もう一つ。溝呂木光治戦。1927年、木村義雄22歳の時の将棋。
 
 後手の木村さんがやはり「5五歩位取り横歩取らせ戦法」で、先手の溝呂木さんが横歩を取りました。やっぱり銀2枚が攻めに出動。木村将棋の特徴は、どうやら2枚の金銀が攻めに出るというところにあるように思います。
 ここから7六同銀、同金、同飛、8二銀、と進みます。
 木村さんは4五歩~5六歩と攻める。(それはいいけど、後手玉はうすいなあ。)

 さらに7七飛成と飛車を切って猛攻をかけます。(飛車渡してだいじょうぶ~?)
 図から6七金、5七歩成、同金、7七飛成、同銀、3九角、3八飛、5七角成、同銀、4七歩成、
8三角、5八歩…(以下略)

 駒を渡して攻めると、当然反動が来ます。激烈な攻め合いに。

 溝呂木氏、微妙な所に香車を打った。取ると…? ああ、あの角(8三)が利いている…。取ると、ヤバイ…か??
 木村さん、その罠にあえて乗る。同飛成!
 4七同飛成、5三竜、5五玉、5四竜、同玉、5三桂成、同玉、4七角成、やっぱり飛車は取られた…が?

 木村7五香。 
 これで詰んでいるらしい。以下6七玉、7七香成、5八玉、6八飛、5七玉、4五桂、4六玉、3五銀、同玉、4四角。
投了図
 すごい攻め合いでした。どこまで読んでいたのやら。最後に、じっと戦況を見つめていたような角がスッと動いて、それで投了というのが、お洒落。
 この時代(戦前まで)の将棋はこんなふうにとにかく「中央」での戦いになります。

南禅寺の決戦 6  名人位の返上

2012年11月07日 | しょうぎ
 写真は、本所相生町にある本法寺。ここに将棋御三家伊藤家の墓があるらしい。(僕は前を歩いただけ。中に入って尋ねる勇気がこの時はでなかった。残念!!)
 伊藤家といえば、伊藤宗看、伊藤看寿という詰将棋の神様ともよばれる人々の家。そのお墓です。本所にあるんですね。ですから伊藤家もこのあたりに存在しました。

 関根金次郎少年は11歳の時、関東平野の東宝珠花村(現在は野田市の一部)から出てきて、この伊藤家の門を叩いて、伊藤宗印十一世名人の門下生となりました。
 関根もまた、本所に十年以上、住んでいたのです。
 23歳で四段となりました。宗印の指示で西方への武者修行の旅に出ます。静岡では清水の次郎長にも会いました。
 そうした旅の途中、大阪の坂田三吉と出会うのです。関根金次郎が25、6歳の時ということです。


 さて、前回の図面から。「あなたなら、ここでどう指す?」と問いましたが。
     
▲4六銀 △同金右 ▲3三歩成 △2四飛 ▲3二と △3四飛 ▲4二と

 よく見ると、これはアマには相当難しそうな局面ですね。間違えそうな局面。いや、きっと間違える(笑)。
 パッと見、僕なら▲3三銀か、▲2六銀が浮かびます。でも▲3三銀は素人っぽいし、▲2六銀で相手に攻めの手を渡すのが怖い。というわけで「他に良い手はないか」と探して、でも見つからず、結局「えい」と▲3三銀なのでしょうね。
 ▲3三銀と実際に指すと後、どうなるのでしょう? ▲3三銀に3一金なら2二歩、同金、同飛、3三歩成、これは先手有望。でもきっとこうなりませんね。▲3三銀に、1七桂成ですか。同香に、2七歩成、3二銀成、2五飛、これで後手ペース? でも1七桂成に同桂ならば? 3三金、同歩成、3七角…という感じ? これ以上はもう読めません。
 僕の読みはそんな感じです。


 正解は「4六銀」でした。

 木村義雄は▲4六銀△同金右▲3三歩成と指しました。これは読みやすい手順ですが、しかし僕はあまり読みませんでした。これでいいのかなあと、心配になるような順でもあります。居飛車の気持ちとしては、後手振り飛車の飛車を捌かせたくないんですよね。
 でも木村義雄八段はこれを選んだわけです。それはつまりその次の次まで、展開が読めていたからなのですね。
 木村名人の手の続きを見てみましょう。
 
 「△2四飛▲3二と△3四飛▲4二と」です。ほらね後手坂田の飛車を捌かせてしまったように見える。しかも手番は後手。どうも僕などには選びにくい手順でしたが。

 このあたりからは木村さんはあまり時間を使っていません。
 坂田翁は苦吟していますが。


   
△7四歩        

 △3四飛に▲4二ととしたところ。
 
 ここで後手△3九飛成があります。これには▲3八金が木村の用意した手で、飛車交換は先手良し、という読みです。


 対して、坂田「△7四歩」と指した。

 大山解説 〔ここでは苦しくとも、3九飛成、3八金、5九竜、同銀、5六金入の形にして、つぎに、6七金、同玉と先手にきびしく迫る指し方をしたかった。このほうが、同じ負けるにしても将棋もきれいだし、形作りにもなっている。〕

 大山康晴の感性はそうなのでしょう。でも、僕は本譜の順を大変美しいと思うのです。

 坂田三吉の手は、△7四歩。玉のふところを広げた手です。でも、大山解説がこの手に否定的なのは、勝利の可能性が全くありそうにないからでしょう。
 僕はこう感じました。坂田さんは「あんたの好きなように指しなさい」と、次の名人になるであろう木村義雄に、「形づくり」を委ねたのだと。勝負はもう着いた、あとはあんたの寄せの腕を見るよ、と。(ロマンを抱き過ぎですかね。)



▲2六飛 △3九飛成 ▲6一銀

 木村の答えは、▲2六飛。
 それなら坂田は飛車を成れます。△3九飛成。

 このタイミングで、いきなりの、▲6一銀!!


  
△6一同玉 ▲8二金 △7一銀 ▲4六飛 △8二銀 ▲4五飛 
△7二玉 ▲5二と △7一銀打 ▲6二金

 ▲6一銀はハッとするような手です。が、わかってみれば「なるほど」とアマでもすぐ理解できる平易な手順です。△6一同玉 と取らせて▲8二金。
 これは将棋の「初段をめざすための本」等に書いてあるような、「必至」の図ですね。
 しかしその場合は持駒に金があと一枚あるはずですが、▲8二金としたときには持駒はもう歩以外にありません。どういうことか…と、よく見れば空中に「金が二枚」落ちています。あれを取ろうというのです。ねらいは4六飛の金入手。後手が単にそれを防げば、▲2五飛で、次の飛車成りがきびしいので寄り。
 というわけで坂田は、△7一銀から8二の木村の金を消しにかかる。その間に、木村、4六飛~4五飛で二枚の金をさらってしまう。木村はこの寄せを描いていたのです。たぶんずっと前から。わかりやすい手順を、一本の線にきれいに自然にまとめる、職人芸だなあと僕は感じるのです。
 あまりに必然の順なので坂田も怪しい力を出しようがない感じです。
 

  
△7三玉 ▲2五飛 △5六金 ▲6六金

 木村の飛車は次に桂馬を手にします。これは次に▲8五桂△8四玉▲6六角の王手飛車の狙い。それを防ぎつつ攻め味をつくる坂田の△5六金。それも読み筋と、▲6六金。
 ここで坂田が△4七角などとしても、▲8五桂△8四玉▲7一金で後手玉は必至。 


△8四歩 ▲5六金 △4七角 ▲6五飛 △6二銀 ▲同と 
△5四銀 ▲7二金 △8三玉 ▲5五角 まで95手で先手の勝ち

 そこで△8四歩と坂田。次の△4七角には△6九銀からの攻めの狙いがあります。
 木村は▲6五飛、そして最後はふわっと▲5五角で仕上げ。

 坂田三吉翁、投了。

 
     投了図


 なんというか、ありふれた日用品を、想像以上のなめらかな肌触りに仕上げてくれる職人、そんなイメージを、僕は本局の棋譜から、木村名人に抱いたのです。

 この当時、「序盤の金子、中盤の木村、寄せの花田」と言われたといいます。木村義雄の将棋は、序盤―中盤―終盤と流れるようにつながっている印象を受けます。「中盤」というより、最初から最後までゆるみがない。相撲でいえば、立ち合いでさっと廻しをつかみ、軽やかに投げ飛ばすような。あまりに簡単に鮮やかに相手を投げ飛ばすので、「勝負」としては面白みがないとさえ感じさせる。
 坂田三吉の好物の「長い長い中盤」とは逆の、「シンプルで短い無駄のない中盤」ですね、木村名人の将棋は。
 そういえば、升田幸三は坂田三吉翁から「あんたの将棋はおおきな将棋や」と誉められ、一方で「木村の将棋は小さい将棋や」と言ってたと自伝で語っていますね。本当に坂田さんがそう言ったかどうかは怪しいですが。
 ただ、僕はこの南禅寺の棋譜を見て、木村将棋の「強さ」と「美しさ」をたしかに感じたのでした。序盤から坂田の新手「9四歩」に全力でぶつかろうとダッシュする力強さ、そして確かな読みに裏付けされたシンプルな寄せ。

 あの、寄せの、飛車の2六→4六→4五→2五→6五という優雅な舞い。


 『9四歩の謎』(岡本嗣郎著)の中で羽生善治が、「実際あの将棋は端歩で出遅れたのが響いてるってところがありますから。」と言っています。 坂田が△2四歩と仕掛けたとき、後手の陣形が9四歩の代わりに7二玉となっていたら、その後の景色も変わっていたということでしょうか。
 個人的に思うのは、坂田さんが1四歩(42手目)と待った手で、もっと有効な手はなかったのだろうかと考えるのですが。4三金上とか。でも1四歩は坂田三吉らしい怪しさを含んだ手なのかもしれません。ただ、木村にはまるで通用しなかった。
 まあ、一言でこの対局を言い表すなら、木村義雄は完璧に強かった、となるでしょう。坂田に「得意の自陣角」を出すような隙を与えませんでした。

 この対局は1937年2月でしたが、木村義雄は、この年の12月、花田長太郎との対決を制し、翌年の2月21日の紀元節に名人就位式が執り行われ、正式に名人襲位となりました。

 「坂田は、“大阪名人”をしっかり返上するためにカムバックし、木村、花田と闘った」というのが、『9四歩の謎』の結論のようです。いい話です。関根が名人返上したなら、自分も返上すると。その翁の思いを、関根の弟子の木村義雄がきっちり受け止めたと。「連盟を脱会してでも坂田さんとの対局は受ける」と周囲の反対を押し切って、それほどの強い気持ちで指したかった対局だったのです。



 

 関根金次郎も坂田三吉も大東亜戦争が終わるまで生きました。関根は、晩年を故郷の東宝珠花村で過ごしました。
 坂田三吉は「南禅寺の決戦」の後も2年間将棋を指し、そして引退。終戦時の玉音放送を聞き、その内容を友人に説明してもらうとこう言ったそうです。「天皇陛下、気の毒でんな。うちの息子(長男)もまだ帰って来まへんにや。」
 面白いことに、坂田の長男の名前は、木村新名人と同じ「義雄」という名前なのでした。

 関根が死んだ4か月後、坂田もそれを追いました。どこまでも関根を追いかける坂田でした。
 「鯨の肉にあたったんです。祖父はお肉に目がなかったですからね。十日ほど寝込んで亡くなりました。」(坂田の孫吉田陽子の話)

 

南禅寺の決戦 5  あなたならどう指す

2012年11月06日 | しょうぎ
 今回は棋譜の続きを追うことをストップし「ここであなたならどう指す?」として、先手木村の次の手を考えて見てほしい。

 持ち時間は10分としましょう。あなたは何か指さなければなりません。
 さあ、どう指す?

 先手良しの局面ですが、あまりのんびりした手だと、後手には△6四角とか、△4七角のような手があって逆転されますよ。 
 だからここで決めなきゃ。



 「南禅寺の決戦」、この図は、先手木村義雄が▲5三歩とし、後手坂田三吉が△5一歩と受けたところです。
 実をいうと、すでにほぼ勝負は決着がついています。(終盤の捻じりあいを期待している方には申し訳なにのですが、これが事実なので。)
 ▲5三歩に△同銀では浮き駒になって勝てないので、△5一歩ですが、これではもう後手は勝てないのです。▲5三歩が決め手でした。
 すると坂田のどの手が悪かったのかということになりますが、26手目△2四歩の仕掛けまで戻って、「仕掛けが悪かった」としか、解説の余地がなさそうなんですよね。それくらい、序盤から終盤までの「木村の指し手に隙がなかった」ということなのです。
 この後の棋譜は次回に見てもらいますが、坂田は△5一歩を打たされているために、5筋の歩の攻めがない。これが大きいのです。△5八歩とか、△5七歩とか、そういう攻めができなくなっている。

 と、まあ、解説を読んで解釈するとそういうことになります。木村・坂田の勝負の決着はここで終わった。
 でも、それは先手が「木村義雄」というこの当時の“最強者”だからであって、この対局の対局者が“私たち”であるとしたら、全然別の話ですよね。

 ということで、もしこの先手が私だったら、あなただったら、ここでどう指して優勢を拡大していくか、上のこの図はそういう問題とみて考えてください。解答は次回、木村名人の指し手を見ることで明らかになります。



本所から見たスカイツリー。どっからみても同じたたずまいに見えるねえ、この塔は。


 坂田三吉(66歳)と木村義雄(32歳)は、この「南禅寺」以前にも一度将棋の手合わせをしたことがあるのです。その話を――。

 20年、遡ります。ですから木村義雄は12歳、まだ、「本所小僧二世」の時です。
 坂田が1917年に、東京に出てきて、関根金次郎を倒し、その1週間後に関根の弟子の土居市太郎に惜しいところで敗れたという話はすでにお伝えしました。(→『南禅寺の決戦2』)
 坂田三吉47歳のこの時が、坂田の将棋の絶頂期でした。その東京での二つの対局は、東京田町の柳沢という伯爵の屋敷で行われました。坂田は柳沢に大変世話になっており、その家のお嬢さんのことを「お姫様」と言っていたそうです。
 それで、すでにその時関根金次郎の弟子となっていた木村義雄少年が、実はその柳沢邸で書生として住み込んで働いていました。9歳で将棋を覚えた木村少年は、12歳になって関根門下生と認められました。関根にその仕事を紹介されたのです。坂田三吉のその二つの重要な対決が行われたのは10月でした。対局中、書生の木村はお茶運びなどをしました。
 柳沢伯爵はあるとき木村少年を呼び、坂田三吉と将棋を指してもらいなさいといいました。木村は喜び、「はい、お願いします」と答えました。
 坂田の飛車落ちで2番指しました。1局目は坂田勝ち。2局目はかろうじて木村が勝ったが、これは坂田がゆるめてくれたのかもしれない。木村は「なんて強い人なのだろう」と思ったそうです。
 そして20年後、京都南禅寺で対決したのですね。

 この1917年の坂田との飛車落ち対局の後、1か月後に木村義雄の母が38歳で亡くなったそうです。父の家業の下駄屋も左前で、弟や妹を養子養女に出さねばならぬような貧乏のどん底に苦しむこととなった木村義雄。柳沢邸で働きながら学校へも通っていたのですが、翌年、両方やめています。木村名人も10代では苦労したのです。
 ところで、この時期になんと義雄の妹あかり8歳は、あの松井須磨子のところに養女として出て行ったんですって。その後どうなったんだ~!? 気になりますね。女優松井須磨子にまともに子育てができるのかい??、ですよ。日本で一番人気の、気の強い女優だったという女ですからね。
 この人、たしか自殺したのではなかったかなあ、と思って調べてみたら、やっぱり。演出家の島村抱月(妻子あり)がスペイン風邪で死んだのを悲しみ、後追い自殺、1919年1月5日。ということは木村義雄の妹が養女に行って1年後くらいじゃないですか!


 さて木村と坂田のことで、面白いことに僕は気づきました。木村の生まれた家は上に述べた通り東京下町の「下駄屋」だったのですが、坂田三吉の親は何をしていたと思います?
 「下駄の表を作る仕事をしていた」と、『9四歩の謎』にあります。「表」とは、下駄や草履に張り付けるもののようです。飾りか何かですか。



 さてだらだらと続けてきた「南禅寺の決戦」シリーズ、次回「6」で〆です。
 (「南禅寺の決戦」って字面、「南海の大決戦」みたいですね。そりゃゴジラ・モスラ・エビラですよ。) 

南禅寺の決戦 4  本所小僧二世

2012年11月05日 | しょうぎ
 
 

 こんな具合に、少年時代「本所小僧二世」と呼ばれた木村義雄十四世名人の誕生の地の痕跡が墨田区にあるわけですが、隅田川駒形橋のすぐ近くです。墨田区の昔の名称が本所区だったわけで。このあたりが駒形という町名なのは、将棋とは関係がないようです。全くの偶然。
 ついでに、このすぐ近所に本所中学校があるのですが、そこには王貞治の記念碑があるらしいのです。王さんも少年時代をこの辺で過ごしたのですね。



(図は▲5八金左まで) △3四銀 ▲7八玉 △6二金 ▲6八銀上

 「▲5八金左」は木村義雄の「これで勝ちますよ!」という気合の入った一着。左の金でこの将棋を支配しようと企んでいます。
 その前の坂田三吉の「△3二金」が、「振り飛車だけど攻めまっせ」という構えで、それに応えて木村がグイッと前に出たというところ。今も昔も、振り飛車に対してこのような金上がりは見られません。木村オリジナルです。

 「6八玉」のままで玉の移動を後にして先に「5八金左」というのが機敏な動き。これは坂田の早い△2四歩に備えたもの。飛交換になっても王手(△2八飛)にならないようにした。


 今ではポピュラーな、この向かい飛車で3二金として2四歩と後手から攻める形、僕はこれ以前の棋譜では見たことがないのですが、この時代にはアマチュア等がすでに指していたのでしょうか。当時の観戦記もそれほど驚いた様子でもないんですよね。どうも明治大正期は残っている棋譜が少なくて残念です。(この対局は1937年、昭和13年です)
 「棋譜でーたべーす」でちょっと探してみましたが、するとこんな棋譜が。
参考図1
 先手斎藤平八と後手磯部林蔵という人の将棋で、1821年のもの。江戸時代ですね。これが「攻める向かい飛車」のルーツかも。ただしその後は3二金とはせず、5二金左としていますが。

 ついでに「坂田流向かい飛車」の話を。
 前回記事でもその図面を載せましたが、のちに「坂田流向かい飛車だ!」と大うけしたこの後手番の指し方は、坂田三吉オリジナルではありません。もっと前に指した人が記録にあるようですし、坂田三吉が指したのは1919年の土居市太郎戦のみ。この時の対局の場所は関西の宝塚で、もしかしたらギャラリーの多いところで指したのかなあと思います。だから、うけたのでは、と。
 それでその将棋ですが
参考図2
 こんなふうになりまして…、つまり私たちがすぐ想像するような「攻める向かい飛車」の展開ではないんですね、その時の坂田流向かい飛車は。3三の金は3二に引いて、桂を跳んで2一飛とする受け身の形。
 このあと、図のように土居市太郎が▲5五歩とつっかけまして中盤となり、例によって坂田が得意の「自陣角」を打つんです。ところがそれがすぐに歩で取られてしまって坂田不利に。ところがごちゃごちゃやっているうちに逆転、坂田勝ちという将棋。
 その将棋も結局、後々の解説では「坂田の打った角が悪い手で…」という解説になるのですが、全体的な流れで見ると、角を犠牲に坂田三吉の得意な力のねじり合いに持ち込んで勝った、と見られなくもないんですよ。
 なんにせよ、当時最強者だった土居市太郎に勝ったわけですから、大阪のファンはそれは歓喜したでしょう。


 「南禅寺の決戦」に戻りましょう。



△6一玉 ▲4七金 △2四歩

 
 さて上図は23手目▲6八銀上まで進みました。

 このあと△6一玉▲4七金となって、そこで△2四歩と坂田は仕掛けたのですが、この図で、居玉のままで△2四歩▲同歩△同飛と仕掛けるのはどうなのか、と素人の僕が考えました。飛車交換になるなら、居玉のほうが飛車の打ち込みがない、という理由で。△2四歩▲同歩△同飛に、先手が▲2六歩なら、これは後手が得だ。
 でもこれはたぶん、△2四歩▲同歩△同飛▲同飛△同角にたぶん▲5四歩で先手優勢になるのでしょうね。以下△5四同歩▲4四角に、△2二歩なら▲6二角成で、結局これは飛車を打ち込まれてしまう。駄目ですね。

 しかし、では△6一玉のときに坂田さんが仕掛けたのはなぜだろう。それがわからない。もう一手△7二玉と玉を移動してから攻める方が良さそうなのに。
 この疑問は専門家でも同じのようで、大山康晴の解説も、ここでの仕掛けを否定している。常識的に考えてそうだよなあ、と思う。
 ということは、先手木村の24手目▲4七金が来たから、坂田は△2四歩と仕掛けたということか。もし坂田が仕掛けず、△7二玉としていたら、やはり木村は▲3六歩だろうか。だとしても、それで後手坂田がすぐに不利になる順があるのだろうか?
 △7二玉▲3六歩△同歩▲同金△3五歩▲2六金でしょうか? その後▲3八飛(▲37桂かも)とする…、 それが坂田さんは嫌だった?
 それとも、▲4七金の状態をチャンスとみたか。
 このあたり、僕にはわかりません。
 大山解説も詳しくはなく、「△7二玉がまさる」とし、そのまま(3二の)左金を玉に近寄せるのが正しいとなる。大山名人なら、勝負はまだ先、としてそれでいいのでしょう。「木村の金を上ずらせた」と考えて、仕掛けずに戦機を先送りにする。
 でも坂田三吉はたぶん違うのでしょうね。 

 そこで無理矢理、僕なりに解釈してみました。
 坂田将棋は攻めの棋風というわけでもない。しかし序盤から何かしら動きを見せることが多い。そしてそれでたびたび不利になって、そこから耐える展開が続く。そして逆転、というのが坂田三吉のよくある勝ちパターンだ。
 つまり、坂田さんが得意なのは、「中盤」ではないか。延々としぶとく小競り合いの続く中盤戦、それが坂田三吉の名局には多い気がする。だから坂田さんは「早く中盤にしたい」というそういう将棋なのではないか。多少不利でも、「中盤の小競り合いが続けば最後には勝つ」それが坂田将棋なのでは? 1980年代の谷川浩司は「早く終盤になればいい」と言ったが、坂田さんは「早く中盤に…」と思っている、それが誰が見ても一手早そうに見える△2四歩の仕掛けではないだろうか。ミスではなく、坂田独特の勝負術。
 理屈から言えば「△7二玉」が絶対正しい。でも坂田流は「△2四歩」だ。



▲2四同歩 △同角 ▲5四歩 △3三桂 ▲3六歩 △2六歩 
▲3五歩 △同角 ▲3六金

 まあとにかく、坂田は△2四歩から仕掛けたのです。
 △3三桂(30手目)は6時間の長考だったそうだ。(長いね~。)

 持ち時間が各30時間なので、一手に6時間などあっても不思議ではないが、それにしても…、まるで苦行だよなあ。
 木村義雄も、このあたりは1手に2時間とか使って慎重に指している。ここが勝負所と言ってもよい。

 この対局の記録係は、ずっと後に中原誠(十六世名人)の師匠となる高柳敏夫。彼はこの時の坂田三吉翁の姿を「映画の中の殿様のようで、実に絵になっているんですよ」と振り返っている。
 二月の対局で、戦前の、寺の中だから、寒い。対局場には金属製の火鉢が置いてあり、坂田は一手指すとその火鉢に手をかざす。それがさまになってかっこよかった、という。
 この時、高柳敏夫16歳。
 



△7二玉 ▲5三歩成 △同金 ▲2五歩 △6二銀 ▲5九金 △1四歩

 それでこうなりました。
 木村は3五金と角を取れますが、すぐには取りません。

 この将棋は本来は守備に使う先手の左金、そして坂田の右金が五段目まで出てくるという将棋になります。他にも印象的な金打ちがあり、こうしてみると木村名人の駒使いをよく表す駒は「金」なのかもしれないなあ、と思いました。(大山名人の「金」とは違う種類の。)
 それと5七の銀も注目です。これは前回記事でお伝えしたようにこの位置の銀が居飛車の攻守の要と考えられていた、その銀です。これを木村がどう活用するか。


 坂田△6二銀。木村▲5九金。お互いに守備を引き締めます。
 坂田△1四歩。これは次に△1三角という手も選択できます。さあ、やって来い、という手。

 ということで、木村、ここで▲3五金と行った!
 


▲3五金 △同銀 ▲3四歩 △2五桂 ▲4五歩 △2四飛 
▲4四歩 △5五歩 ▲同角 △4四金 ▲4六銀

 ほら、ついに後手の左金が四段目に出てきました!
 この辺は自分らでもこう指す、という流れ。
 …いや、そうではない、▲4六銀は指せない。角逃げるか、角切るかだよね、私らは。
 (大山解説では、4六銀を「好手」とし、「7七角と引いても悪くはないが、5五歩と角道をとめる手を許すと…」という感じで書いている。)

 このあたり、僕は木村義雄の手に、“小気味いい流れ”を感じるんですよね。
 ▲4六銀となって、面白い形が出現しました。この構図を木村名人は描いていたのです。
 序盤に「▲5八金左」とした金が「3五」まで駆け上がり、今度は角を犠牲に「5七銀」がやはり「3五」に駆け上がる。なんとも素晴らしい! すばしっこい天才少年が盤上を走り回るようではないですか! (木村はすでに32歳でしたが。)

 この辺で木村さんには心の余裕も生まれてきたようで、晩飯には少しの酒を付けるということもしたそうです。自分の優勢を確信できたんですね。
 (思い出してもらうために書きますが、この将棋は1週間かけて指しています。)


 
△5五金 ▲3五銀 △2一飛 ▲7七角 △4五金打   ▲5三歩 △5一歩

 さて、「坂田の右金」はついに5五に。
 その角をねらう木村の▲7七角に、△4五金打。 ここに打ったもう一つの金は、元々は「木村の左金」だったあの金です。さて、この二枚の金の行方は、どうなる!? (そういうゲームじゃないんですが。)




 ここであなたなら、どう指します?


「南禅寺の決戦5」につづく