はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

ノーチラス号は電池で動くの~♪

2009年11月18日 | ほん
 イギリスのチャレンジャー号(深海探査船)のことを書いたので、それでは海の底へ潜る旅にでかけよう…ということで、『海底二万マイル』である。作者はフランスの作家ジュール・ベルヌ

 上の画はノーチラス号。 これは1954年公開の映画を観て。この映画はディズニーの最初の長編映画である。
 ベルヌがこの世界中の海底を潜水艦で大冒険するこのダイナミックな小説を書いたのは、1870年。 世界の深海を調べてまわるというチャレンジャー号探検の出発は1872年。 「深海」という未知の世界への空想の飛翔――ジュール・ベルヌの夢想と、イギリスの学者達の壮大な探査計画とが、ほぼ同じ時期に重なっていることを、僕はたいへんおもしろいと思うのである。 両者の共通項は‘科学’である。


 この最新の潜水艦ノーチラス号の船長はネモ船長だ。 「ネモ」と名乗ったその男は、国籍不明で大金持ちの発明家、海を愛し、陸のものは決して食さないというへんな奴である。そもそも「ネモ」というのは「だれでもない」(ラテン語)の意味なのだ。




 1867年11月8日、ノーチラス号のその旅は始まった。

 〔 …船長はふたたび言った。「パリの子午線で東経137.15度、北緯は30.7度、すなわち日本の海岸から約50キロほどのところです。本日、11月8日の正午より、われわれの海底探検旅行は、はじまります。」 〕


 1867年といえば、日本では幕末である。(坂本龍馬が暗殺されたのがこの年だ。)
 その日本の近海がこの旅の出発点となっている。


 ノーチラス号は、太平洋の海の底を泳ぎ、サメの群れに会い、オーストラリアでは珊瑚、インド洋セイロン島では真珠を観る。そして紅海に…。


 この小説には、ノーチラス号の旅の地図が付いている。 それによれば、この潜水艦は1868年2月にインド洋から紅海に入りそこから地中海へと進んでいる。 …あれ? するとスエズ運河を通ったわけ? いやそうではない。 というかそもそも1868年にはスエズ運河はまだ工事途中で未完成なのである。ではノーチラス号はどうやって地中海へ行ったのか? 実はネモ船長はここを抜ける秘密のトンネルを海底に見つけていたのだ!


 さらにこの鉄製巨大オウム貝(ノーチラス号のことだ)の旅は続く。
 スペイン沖で沈没船の財宝を見つけ、そこから南下して南極をめざす。途中マッコウクジラに会い、南極大陸の地を踏みアザラシやセイウチと遊び、氷に閉じ込められるという絶体絶命のピンチを切り抜けたあとは、大西洋を北上…。 そして――カリブ海。


 〔 4月18日、約50キロをへだてて、マルティニーク島とグアドループ島とが見えた。ちらっとわたしは、それらの島々の高峰を望んだのである。 〕

 そしてその2日後に、ノーチラス号の旅のクライマックス、あの大ダコとの闘いになるのである。
 

 〔 4月20日のこの恐ろしい光景を、われわれはだれしも、忘れてしまうことはできなかったろう。わたしはこれを、はげしい感動をもって書いた。 〕


 巨大潜水艦の物語といえば、欠かせないのがこの「大ダコとの闘い」のシーンである。(ただし、映画版ではイカだった。なぜだろう?)
 その原型はここにあるわけだが、なぜベルヌはこれを思いついたのか? 
 おそらくは、ジュール・ベルヌはそういう『絵』をどこかで観ていたのだ。どうやら船が巨大なタコに襲われて沈んだという話はむかしからあり、そういう伝説が『絵』になっているのを彼ベルヌは子どもの頃にみていたようである。

 そして上にあるように、ノーチラス号と大ダコの闘いの場所というのは、あのマルティニーク島の近海だったのである。
 マルティニーク島については、このブログではすこし書いた。 ラフカディオ・ハーンが興味をもって訪れ(1887~1889年)、画家ゴーギャンがスケッチに行き(1889年)、「クーロンの法則」の発見者シャルル・ド・クーロンが軍人として赴任した(1760年代)というフランス領の小さな島である。 この島は、火山の爆発とラム酒でも有名なようだ。


 ノーチラス号はメキシコ湾流にのって北海にすすみ、ノルウェーの大渦「メールストルム」に捕まる。それは捕まったらゼッタイに脱出不可能な伝説の大渦巻きなのだ!!
 この「メールストルム」のアイデアは、エドガー・アラン・ポーの小説『メールシュトレームに呑まれて』によるものである。

 そしてこの海底の壮大な20000マイルの旅はついにここで終焉をむかえる。

 だが、この物語を記した「わたし」たちは、たすかる。どうやってたすかったのか、それはわからない。
 気がつくと、自分達は生きていて、しかし、ノーチラス号とネモ船長はどうなったか、だれも知らない。 まるで海底の旅は、夢だったかのように…すべては記憶の中にのみ…。
 そして玉手箱を開けると中から煙が出てきて白髪に… え?




 さて、続けて、ノーチラス号の動力源(電池である!)の話を書こうと思っていたのだが…、すでにずいぶん長文になってしまったので、ここまででやめておこう。




[追記]  原題では『海底二万マイル』ではなくて「二万リュー」だそうです。「リュー」(フランス語)って距離の単位は英語では「リーグ」、これは「マイル」の約3倍の距離で、約5.5キロほど。ですから原題にしたがうと正しくは『海底11万キロメートル』となるはずのところ。つまり『海底二万マイル』の日本版の題名では、距離的にでたらめになっているようです。いつのまにかそれが定着してしまい、「間違っているけど、ま、いいか、」ということでしょうね。
 「11万キロメートル」というのは、地球の直径がおおよそ13万キロなので、そうとうな距離ですが、もちろんこれは海の深さではありません。ノーチラス号の、日本近海からノルウェー沖までの推進距離です。(でも本の地図をみると11万キロよりもっと長い気がするのですけど。)

[さらに追記]  ↑ まちがい!  地球の直径は「13万キロ」ではなく、「1.3万キロ」でした!
 そうするとノーチラス号の旅「11万キロ」は、地球を約3周ほどの距離となります。 (いやいや、恥ずかしい間違いでした。)  

NEWTON 3月号

2009年01月31日 | ほん
 『NEWTON 3月号』を買いました。
 1000円でした。 むむ、ちょっと高いか。
 しかし写真はおもしろいぞ。




↑顕微鏡の世界





これは先週買った『週刊西洋絵画の巨匠1ゴッホ』 


190円! 安い!
ゴッホの代表作がほとんど載っていました。しかもふろく付き。

美女と野獣のひしめく宇宙へ行こう!

2009年01月13日 | ほん
 宇宙に「絶世の美女」が存在する…? 
 …かどうかそれは判らないが、いたほうが素敵だ。いてほしい。それがSFファンの願いというものだ。
 そして「美女」とくれば、「野獣」がいる、これもお決まりのようなもの。そして、野獣に手篭めにされそうになる美女をたすけるために現われる、「英雄」。
 英雄、美女、野獣、これがスペース・オペラの黄金の公式である。


 今日はそんな、美女と宇宙怪物の登場する、二つの宇宙活劇小説をご紹介。
 『火星のプリンセス』(火星シリーズ)と、それから、『生け捕りカーライル』シリーズ。


 『火星のプリンセス』のほうは有名だ。作者はエドガー・ライス・バローズで、彼の書いたものでは、『ターザン』シリーズ(これはSFではないが)がもっと有名。 他にも<金星シリーズ>、<月シリーズ>、<地底シリーズ>などたくさんある。
 僕はこども版の『地底のペルシダー』をワクワクしながら読んだことを記憶しているが、その内容はすっかり忘れてしまった。そのうち、(今度は大人版で)読んでみるつもりだ。「地球空洞説」というものが、かなり古くから伝説としてあって、そこには地底人が住んでいて、地底の太陽もあって、やっぱり美女もいるのである。

 『火星のプリンセス』をはじめ、バローズの日本語版文庫シリーズの表紙や挿絵を描いているのは武部本一郎である。少年時代に彼の絵に魅了された人は多い。なんといっても「美女」が素晴らしい。

        

 この『火星のプリンセス』を、僕はこのブログを書き始めた頃、4年前に、図書館から借りてきて読んだ。その頃、火星が大接近していたのだ。 E・R・バローズの小説は、ストーリーもアイデアも生き生きしているので、人気が高い。食べ物にたとえて言えば、食べれば食べるほど食欲が増す食べ物なのである。
 ただし、「これがSFか?」となると、いやSFとはいえない、ファンタジーだなどと、定義にうるさい人は言う。 というのも、この『火星のプリンセス』の場合、主人公ジョン・カーター大尉は、どうやって地球から火星にまで行ったかといえば、「幽体離脱」というまったく科学的でないやり方で火星にまで飛んでいったのである。

〔…わたしの関心はすぐさま、かなたの地平線のきわにある一つの大きな赤い星に釘づけにされた。じっとみつめていると、圧倒されるような、恍惚状態に引きこまれるのを感じた___あれはマース(Mars、火星)、軍神だ。わたしのような軍人にとっては、常に抗しがたい魅力を秘めている星である。過ぎ去った遠い昔のあの夜のこと、わたしがじっとみつめていると、あの星は想像を絶する空間を越えてわたしを誘い、磁石が鉄片を吸いよせるように、わたしを招きよせているるように思えた。〕

 そして、ジョン・カーターは(1866年3月3日のことだった)、火星へと飛んだのである。 火星に、「吸いよせられた」のだ。

 すると火星には、緑色人という腕が四本ある化け物のような乱暴な種族と、赤色人という穏やかな種族がいて、その赤色人の王女が「絶世の美女」なのである。この火星のプリンセスの名前は、デリジャー・ソリスという。
 たしかに、科学的ではないかもしれない。 まあしかし、大目にみようではないか。ここに描かれた火星人はタマゴから生まれる単性生殖だし、空を飛ぶ船は出てくるし、「大気製造工場」なんてのもある。宇宙活劇にはちがいない。 大事なことは、「面白い」ということ。
 そう、とにかくこのE・R・バローズの書くものは面白いので、大人気だったのである。

 

 E・R・バローズが一番最初に書いた小説が<火星シリーズ>の第一作目『火星のプリンセス』なのである。ただし、初めは『火星の月の下に』というタイトルだった。
 1911年、35歳の時に、バローズはこの小説を書いた。元々は軍人になりたくてしかたがない、という人だったようだが、その夢は実現せず、結婚して家庭をもつが、色々な事業をしてみるがどれも上手くゆかず…。そんな時にバローズは新聞小説を読み、それがあまりにつまらないので、「これなら自分が書いたほうが面白いのでは?」と思い、それで書いてみた。 それが『火星の月の下に』である。
 この<火星シリーズ>が掲載されたのは、<オール・ストーリー>という雑誌で、まだSFという概念もない時代である。 (史上初のSF専門誌<アメージング・ストーリーズ>の創刊は1926年である。)





 次は、『生け捕りカーライル』シリーズ。作者はアーサー・K・バーンズという。
 一番上に掲げた絵は、僕が描いたものだが、この物語の日本語版である『惑星間の狩人』(創元推理文庫)の中のBEM(怪物)の挿絵を見て描いた。美女(ゲーリー・カーライル)のほうは、僕の想像で描いたもの。
 「ゲーリー・カーライル」というのがこの物語の主人公の名前で、これも宇宙を駆け巡る英雄なのだが、これは女性、ヒロインなのである。 もちろん、もの凄い美女であることは言うまでもない。 (当然である。宇宙のヒロインなのだから。) 性格は姐御肌、男にナメられようものならとことん闘う、こうと思い込むとテコでも動かない。
 ゲーリー・カーライルは、宇宙船箱舟号に乗り、太陽系を駆け巡り、ありとあらゆる宇宙生物を捕獲して「ロンドン・惑星間動物園」に送り込む、それが彼女の仕事である。彼女はその「動物園」の専属スタッフなのだ。 そして、なにより、変わった宇宙生物を捕獲することが、ゲーリーは大好きなのだった。
 「生け捕りカーライル」 …それが彼女につけられたニックネームである。
 その宇宙生物の捕獲が難しければ難しいほど彼女は嬉しい。そんな生物がいるとわかったら彼女はいてもたってっもいられない。なんとかしてそいつを生け捕りにしようと秘術をつくす。ゲーリー・カーライルとは、そのような美女である。
 たとえばこんな生物。タバコの煙が大好きで紫煙の香りをかぐとスピードに乗って体当たりをかけてくるので、愛煙家を怖れさせている金星のカブト虫。首が三つあるゴリラみたいな顔の怪獣。クリスマスツリーのような生物。

 このシリーズが書かれたのは、1937年から。<スリリング・ワンダー・ストーリーズ>誌に掲載された。
 僕がいま、こういう話を紹介しているのは、20世紀の前半のSFというものは、このように、「宇宙は生命で満ちている」という感覚であったということを言いたいためだ。宇宙には様々な珍妙な生き物が生息していて、絶世の美女だっていたのである。 (だって美女がいなきゃ、宇宙はつまらないですからね!)

 もうすこし、この『ゲーリー・カーライル』を紹介しよう。第4話では、カットナーという作家の<月のハリウッド・シリーズ>と合流する。『月のハリウッド』は、フォン・ツォーンという月で映画撮影所「九惑星映画株式会社」を持っている男が主役なのだが、そのフォン・ツォーンがゲーリー・カーライルの美貌とスター性に目をつけ、金にものを言わせて彼女を映画に出させようとする。 が、もちろん、ゲーリーはそんなことに興味はないし、「ナメタラアカンゼヨ!」な性格であるから、猛烈な肘鉄砲をフォン・ツォーンに食らわせる。 あの女は金では動かない、こうなりゃ、エサが必要だ、つまり「珍生物」だと、大金を投じて水星にロボットを送り込んで、珍種の生物を手に入れた。それをエサに、ゲーリーをくどく。さすがのゲーリーもこれにはちょっとグラッとくるが、思いとどまる。
 フォン・ツォーンが月に持ち帰ったこの生物、実は電気エネルギーが大好物。そいつがどんどん増殖しながら、ルナ・シティの発電所の電気をすべて食ってしまう。さあ、たいへん。 ルナ・シティは破滅寸前。
 そこにさっそうと現われたのが、宇宙ヒロイン、ゲーリー・カーライル。 その電気生物どもをみんなショートさせて退治した。
 ところが、転んでもただで起きないフォン・ツォーン氏、そのゲーリーの活躍の一部始終をこっそり撮影していたのだった。結果、この世紀の大作を映画公開して大もうけ。
 ゲーリー・カーライルは、くやしくて地団駄を踏んだのであった。
 ___というような話。

 さて続いて第5話「アルマテッセン彗星」。
 太陽系に巨大な彗星がやってきた。どうやらその彗星には生命が住んでいる様子がある。
 ゲーリーはウキウキとして出かけた。そこで見つけたのは、「青い球」…。 どうやらこれは知的生命体らしい。(プロテアンと命名された。) よし、まずお友達になって、あとで宇宙船に引っぱりこもうとゲーリーは考えた。「ヨロシク」と友好の証し右手を差し出したゲーリー。するとその生命体、青い球は風船のようにふくらんで、あらら、その中にゲーリーを飲みこんでしまった。
 「生け捕りカーライル」が、生け捕られてしまったのだ!!
 ゲーリー・カーライルが戻らないので心配した「動物園」のスタッフが行ってみると、そこにはいくつかの「青い球」が浮かんでいる。なにやら話をしているようだ。ゲーリーはそのうちの一つの球の中で気を失っている。助けに行った仲間も捕まってしまい、さあたいへん。
 そこへうじゃうじゃと別の怪物が現われてきた。よく見ればその怪物たち、どこかで見たことがあるものばかり。実はその怪物たちは、ゲーリー・カーライルが過去に捕獲した怪物なのである。ゲーリーの意識の中からそれらの怪物のイメージを、あの「青い球」が読み取り、実体化させていたのだった。にせもののゲーリー・カーライルまで出現した。
 おっと、そこに今度は「赤い球」の一群が出現。「青い球」と「赤い球」がケンカをはじめたようだ! そのどさくさにまぎれて、ゲーリーは救出され、逃げ出すことに成功。
 しかしまだ、捕らえられたままの仲間がいる。救出しなければ。
 「青い球」4つ、「赤い球」3つ、これがどうやらこのアルマテッセン彗星の全住民のようだ。かれらはお互いにイメージを実体化させて、闘っている。さらによくよく調べてみると、彼らの「ケンカ」は、終わりのないチェスゲームのようなもので、退屈なあまりに遊んでいるようなものらしいと判明。
 すったもんだがあったのち、ゲーリーたちは仲間を救出、その生命体とは仲直り。
 そして… 



 …こりゃ、きりがない。 そろそろこのへんで、やめておこう。
 しかし…、「へんな生物」の棲む宇宙の、なんと楽しいことか!


 
 これはE・R・バローズ『地底のペルシダー』の武部本一郎氏による挿絵。この美女はダイアナ。 僕は火星のプリンセス・デリジャー・ソリスよりだんぜんこっちのほうが…。



 月を眺めてきた人類は、どうやら月に生物はいなさそうだと、実はずっと前から気づいていた。月には、空気も水もないようだ。望遠鏡でみれば、ますますそれははっきりする。
 というわけで、火星である。金星、木星、ガニメデである。20世紀前半のSF創世記の作家達は、火星や金星などに、生き生きした「生命」という夢の花を咲かせたのである。

 ところで、宇宙の怪物は、SF世界では「BEM(ベム)」という。これは、なんとなくそうなったようだが、語源は「Bug-Eyed Monster」の略。 (直訳すると「昆虫の眼をした怪物」となる。)




 次回はいよいよ『宇宙のスカイラーク』について、書きます。 E・E・スミスによるこの作品は、SF史を語るならば必ず触れなければならない、そんな重要なもののようです。

ケアル ―黒い破壊者―

2008年12月28日 | ほん
 ケアルである。 SFファンでありながら、ケアルを知らないなんてことはあるはずがない、ていうくらいに有名な猫型宇宙怪物、それがケアルである。
 この怪物はヴァン・ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』に登場する。この本は、僕が「SF」というものを読むようになったきっかけをつくってくれた本でもある。(そのことは、以前に述べた。)
 この『宇宙船ビーグル号の冒険』はいくつかの宇宙怪物(ベム)が登場するが、その最初に出てくるのが「ケアル」。


 〔 … 巨大な前脚がおののいて、かみそりのように鋭い爪の一本一本がむき出しになった。肩から生えた太い触手が、緊張してゆれている。猫に似た大きな顔を左右に揺ゆすると、ケアルは耳の代りにある毛のような巻きひげを必死に震わせ、…〕

 これは創元SF文庫のものから。 ところが今では早川書房からも出ていて、そっちでは「クァール」となっている。原文は「Couerl」らしいから、クァールが近いのだろうけど、昔読んだ人は皆「ケアル」で慣れ親しんできていると思う。こういう大事なところは統一してほしいものだ。「ケアル」と「クァール」では、別の生き物のように感じるよ。


〔遠い地平線のはるか上空に、一つの小さな光る点が現われたのである。その点はみるみる大きくなり、巨大な金属の球となった。超大型の、球状をした宇宙船だった。磨きあげた銀のように、光る球体は、ケアルの頭上を風を切って通過したが、減速していることがはっきりわかる。 … 〕

 これが宇宙船ビーグル号だ。科学者、軍人を1000人乗せて、宇宙探査をしている。
 ビーグル号は、下の文庫本のカバー絵を見てもわかるように、球形、つまり真ん丸のカタチをした宇宙船なのだ。


〔ケアルののどは激しいかわきに息づまり、イドの振動を発散する、このいかにも弱々しい生物たちに襲いかかって、叩きつぶしてやりたい衝動が、彼の目をくらませた。〕

 「イド(細胞原形質)」というのが、唯一のケアルの食料で、この惑星の生き物がほとんどすべて息絶えてしまったので、ケアル自身も飢えて死んでしまうところだった。そこに、宇宙船がやってきた。その宇宙船から「いかにも弱々しい生物たち」が出てきた。彼らのイドを食いたい! (ケアルの食料になるイドは殺したばかりの生物にしか存在しないのだ。)
 ケアルには知性もあった。おとなしい大きな猫のふりをして人間に近づいて宇宙船に入りこむ。
 知性があるというのは、しかし、その程度ではない。宇宙船を乗っ取って運転することだってしちゃうのだ。肩の触手で、機械の改造だってできちゃう。
 ケアルの能力はそれだけじゃない。物質の、原子の配列だって変えてしまう。壁を溶かしたり、逆に、超金属に変質させたり…。

 そんな、すご~い、黒猫ちゃんなのだ。

    

 このケアルの話が、ヴァン・ヴォークトのデビュー作にして出世作『黒い破壊者』(『Black Destroyer』)なのだ。これは<アスタウンディング・サイエンスフィクション>1939年7月号に載った。しかもこの雑誌の表紙絵もこの話を元に描かれた絵になっている。SFファンはこのかつていなかったタイプの宇宙猫に興奮し、この年、ヴォークトは人気NO.1作家となった。
 つまりケアルは、夏目漱石においての、あの「名前のない猫」のようなフシギ猫なのである。それはSF黄金期の幕開けを告げるためにやってきた宇宙怪物であった、ともいえる。
 ずっと後で、ヴォークトの宇宙怪物のこのシリーズが、『宇宙船ビーグル号の冒険』として一冊の本になった。日本語でこれが読めるようになったのは、1960年代のことになる。




 さて、野田昌宏というSF作家がいる。今年6月に74歳で死んでしまったから、いた、というべきところだが。 元々本職はTVプロデューサーで、『開けポンキッキ』を創ったのがこの人。麻生太郎現総理のいとこでもある。
 この野田昌宏さん、SFファンの間では「野田大元帥」などと呼ばれていたが、彼の書いた『スペースオペラの読み方』という本の中に、アイザック・アシモフと会った時のことが書かれているので以下に紹介しよう。


 1969年7月27日、アポロ11号によって遂に人類は月面に到達した。その時、ニューヨークの新聞紙に載ったアイザック・アシモフのコメントは次のようなものだったそうだ。
 「ゴダードよ、今、われわれは月にいる!」
 これを知ったときは涙が出そうになった、と野田さんは書いている。
 ゴダードとは、アメリカのロケットの父とよばれる人で、少年時代にウェルズのSF小説を読んでロケットを月まで飛ばすことを夢見てそれを実現することを生涯の目的とし、1926年に液体燃料によるロケットの最初の打ち上げ実験をした。わずか10数メートルの飛行だが、これが始まりだった。その後、マスコミからの批判もあったが、彼はロケット打ち上げへの情熱を失うことはなかった。しかし、宇宙への夢は実現することなく、1945年にその生涯を閉じた…ゴダードとはそういう人である。
 それで、野田昌宏さんのTV番組の制作会社テレワークが、その人類月面到達の特集番組を作ることになったとき、そのメインキャラとしてアイザック・アシモフを使いたい、と野田さんは考えたのだ。アシモフ氏との交渉の結果、その仕事の了解は得られた。
 SFの熱烈なファンでもある野田さんは、仕事とは別に、あのアシモフと会えるというだけでも感激だ。しかし…、この仕事が始まる時、制作本部長がこう言ったという。

 「アイザック・アシモフ氏は煙草が嫌いです。服に残っている煙草の煙も嫌がるそうです。スタッフ全員、明日は本番終了まで絶対禁煙を守ってもらいたい。アシモフはとても神経質な人で…」

 野田昌宏は緊張しながらアシモフ邸へ向かった。チャイムを押してドアが開くと、そこには、あの写真で見た通りのアイザック・アシモフが立っていた!
 そして居間に通され、さっそく打ち合わせ。 野田さんは資料を取り出した。
 その時である!
 「おッ!」
 アシモフは鋭い声を挙げた。
 「君はその雑誌まで持っているのか!」

        

 「その雑誌」とは、<アスタウンディング・サイエンスフィクション>1939年7月号であった。そう、アシモフの『趨勢』が初めてジョン・W・キャンベルに認められて載り、ヴァン・ヴォークトの『黒い破壊者』のケアルと宇宙船が表紙絵を飾ったあの号である!
 それをきっかけとして、アシモフと野田さんは、一気にうちとけた関係になったのである。野田昌宏さんは、それほどの筋金入りSFマニアなのだった。野田さんは、巨匠アシモフに向かって、言葉をほとばしらせた。もちろん英語で。自分たち日本のSFファンは、大戦後、腹をすかせた毎日の中で、アメリカ兵が読み捨てた紙くずの中から、SF雑誌を拾って読み、そうやって私はあなたのSF小説も知ったのですよ! 『われはロボット』や『宇宙気流』を! アシモフは、しみじみと頷きつつ、黙って野田さんの話を聞いてくれたという。
 野田さんは心が震え、そして後でこう思ったそうだ。

 “SF”しといてよかった…。

 それからアシモフは、野田さんらを相手に、30分ほど、いろいろな話をしてくれた。そして「妻は若い時からずっと日本へ行きたいと言い続けているんだよ」とも言った。 野田さんが、それはいいですね、是非来てくださいと言うと、アシモフ 「それが君、私は飛行機が嫌いだし…」
 アシモフは飛行機に乗れないのだ。高所恐怖症なのである。
 そのことにアシモフ自身が気づいたのは、あのアイリーンとのデートの時である。恋に破れたアシモフは、口ひげを生やし、そして海に行った。ちなみに、アシモフは、ブルックリンに住んでいながら、この時20歳になって初めて海を見たのだという。自由の女神像のある港の風景は眺めていたが、広々とした外洋(大西洋)の海をそれまで見たことがなかったと。世間知らずのアシモフ青年にとって、それも「冒険」だったようだ。初めて海の水につかり、「大人になった気分」(←笑)を味わった。だが、彼は、その後も泳げるようにはならなかった。足を大地から離すことが恐かったから。

 『アシモフ自伝』の中にも、<アスタウンディング>1939年7月号こそ、SF黄金時代の幕開けであったとはっきり書かれている。



 ところで、ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』はケアルに始まって、ほかにも地球には存在しえないような不思議な生命体が登場する。子どものときに僕がいちばん恐かったのが「イクストル」という怪物である。これは赤い怪物で、人間に卵を産みつけようとする。後の映画『エイリアン』の原型のような話である。

 40年代のアメリカのSFの人気は、1にヴォークト、2にハインラインであったようだ。ところが、ヴァン・ヴォークトは、ハインラインやアシモフのように後に「巨匠」とはあまり呼ばれない。なぜか?
 ヴォークトのSFは、そのSF的設定や心理描写が細やかなところが人気だった。そして発想が普通じゃない。
 ヴォークトは『黒い破壊者』でデビュー後もその才能をいかんなく発揮、傑作を書き続けた。ところがだんだん「普通じゃない発想」がさらに加速して、わけがわからなくなり、本人も「科学」の枠を跳び越して、妙な「超科学」のような世界にはまり、そして偉大なSF編集長キャンベルまでそういうインチキ科学(超人類の誕生とか反重力の発明とかを本気で実現させようと考えていたのかも)にはまり、読者を宇宙の辺境に置き去りにしてしまったのである。 つまり、ヴォークトとキャンベルは、どうやら、「才能があふれすぎてしまった」ようである。脳みそが溶けかけてしまったのだろう。
 この二人、存在自体が、まるで「遊星からの物体X」の怪物のようではないか。



  ◇      ◇      ◇      ◇

 今年はこれでおしまい。また来年。
 では、皆様、よいお年を。

ガニメデのクリスマス

2008年12月23日 | ほん
 今日はアイザック・アシモフの『ガニメデのクリスマス』という愉快なSF短編をご紹介します。これは『アシモフ初期短編集2 ガニメデのクリスマス』に収録されています。初期の作品ということで、それまでの作品集から漏れた作品を集めたものの一つで、ですから代表作ではなく、あまり読まれておらず、僕も先月に初めて読みました。
 読んだ感想は、「おお、これは楽しい!」でした。


 まず「ガニメデ」についてご説明。ガニメデとは、木星にある衛星の一つで、この名前はギリシャ神話からとったもの。木星は「ジュピター」ですが、これはローマ神話の神で、この神はギリシャ神話ではゼウスに相当するのだそうです。ガニメデというのはそのゼウスの(数多い)愛人の一人。
 1610年にガリレオが、木星の4つの大きな衛星(小さいものは50くらいある)を見つけました。のちにその衛星はイオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト、と名づけられ、まとめてガリレオ衛星と呼ばれています。ガリレオは、イタリア・ピサの生まれ。ここはトスカーナ地方といって、ルネサンスの中心地です。もっともこの時代はすでにルネサンス時代は過ぎて、大航海時代の幕が開き、宗教戦争の激しい時代でした。ガリレオのこの発見は、当時のイタリアやドイツやオランダのレンズ職人らの技術がもたらした発見と言ってよいでしょう。「科学の芽」がこの時代に芽吹いてきています。 (しかし… オレってほんと説明ズキだなあ… ←ちょっとおちこむ)

 そして人類は宇宙に出た! 月に行き、火星に行き、木星のガニメデにも!

 それでは『ガニメデのクリスマス』の話をご紹介しよう。


 ガニメデ物産で働くオラフという男がこの小説の主人公。オラフは、クリスマスが近づいてきたということで、樅(もみ)の木をながめつつ、鼻歌と歌いながら、デコレーションの準備をしようとしていた。すると、突然、上司であるペラム隊長から呼び出しがあって、オラフはどなりつけられたのだった。その理由はこうだった。
 「オラフ、オストリ人に地球のクリスマスの話をしたのはお前か!?」
 「はい」
 「ばか者! そんな話をするから、オストリ人どもは、自分たちにもサンタクロースが来てほしい。もしサンタクロースが来てくれないなら仕事はしないとこう言うんだ! つまりストライキだ! おまえが余計なおとぎ話などするからだ!」
 オストリ人というのは、ガニメデの現地人である。オラフやペラム隊長はガニメデ物産の社員で、彼らは地球からやってっきて、ガニメデの鉄マンガン重石、カレンの葉、オキサイト等を地球に送る仕事をしていた。その下で働くのが、現地人のオストリ人。その彼らが、地球にはクリスマスというものがあってサンタクロースが…などとオラフが話したために、サンタが来なきゃ働かないと言い出した。これでは、ノルマが達成できない! このままでは、会社は存亡できなくなる!
 ペラム隊長は吼えた。 「いいか! なんとしても、サンタクロースとトナカイとプレゼントを用意するんだ! 急げ!」
 トナカイのかわりに、ガニメデに生息する「トゲウマ」という動物をオラフは8頭つかまえることにした。橇(そり)は反重力装置を利用してつくった。反重力技術は、すでに開発されてはいたが、まだ飛行に応用するには効率悪く実用化には至っていなかったが、こんなところで役に立った。
 こうして、オラフや社員たちが苦労してオストリ人たちのためのクリスマスを準備した。オストリ人たちは大喜び。プレゼントはボールだ。それをくつしたに入れると、オストリ人たちは「タマゴだ、タマゴだ!」とさらにおおよろこび。彼らは、そのタマゴから「小さいサンタクロース」が生まれるのだと大騒ぎ。ペラム隊長は「ちがう!」というが、どうにもならない。「ちっさいサンタコース、いつ生まれるか? ちっさいサンタコース、なに食べるか?」

 とにかく、クリスマスは大成功だった。
 「よし、では仕事だ! 急げ!」
 というわけで、気分よく、オストリ人たちも働いて、めでたしめでたし、というのがペラム隊長の予定だったのだが…
 オラフは、オストリ人たちに「サンタクロースは毎年くる」と教えていたのだった。「おれたちも毎年キスメス(クリスマス)来てほしい」とオストリ人がいう。それなら働くと。「大変です!」と、社員の一人がそれをペラム隊長に伝えると、ペラム隊長は「それがどうした? 来年はまだ先じゃないか」
 「わかっていませんね。ガニメデの公転周期は7日と3時間です。つまり彼らは…毎週サンタをよこせといっているんです!」
 「毎週だと!!  …オラフ!!」
 サンタの格好をして「みなさん、メリークリスマス!」と叫んでいたオラフは突然逃げ出した。それを追っかけてゆくのは、怒り狂った顔のペラム隊長の姿であった。



 アシモフの作品は、どこかほのぼのしていて、明るい。
 オストリ人が働いてくれない、それで会社は大変なことになるのですが、だからといって力ずくで脅して働かせるという発想にならないところが、アシモフの明るさです。
 アイザック・アシモフがこの短編を書いたのは、1940年12月だそうです。クリスマスシーズンの中、アシモフは、来年のクリスマスの時期に使ってもらえたらと、この話を書いたらしい。 <スタートリング・ストーリーズ>という雑誌に掲載されました。
 この1940年という時期は、日本は中国と戦争中で、1年後には太平洋戦争に突入するのですが、アメリカ・ニューヨークには、なんと20を越える数のSF雑誌がタケノコのようにぼんぼんと生まれてきていた時期なのでした。この時期こそ、アメリカSFムーブメントの絶頂期なのです。 (日本より30年早い!)
 アシモフは20歳。すでに幾つかの作品を雑誌に載せていましたが、半分はボツになりました。彼のSF作家としての名前が、アメリカのSFファンの間で輝く特別な名前となるのは、『夜来たる』からなのです。 (それまでは、アシモフ本人が言うには、三流作家だった。)

 それは1941年3月17日のこと。 (『ガニメデのクリスマス』を書いた3ヶ月後です。)


 その日、アシモフは、SF雑誌<アスタウンディング>の編集長ジョン・W・キャンベル・ジュニアのオフィスにいて、あるアイデアを話していた。が、キャンベルは即座にそのアイデアを拒否。彼、キャンベルには別のアイデアがあった。
 キャンベルはエマーソンの詩の一節を読み、それを考えることに夢中になっていたのである。

〔もし星が千年に一度、一夜のみ輝くとするならば、人々はいかにして神を信じ、崇拝し、幾世代にも渡って神の気持ちを保ち続ければよいのだろうか〕

 キャンベルはアシモフにこう言った。「どう思う? ぼくは人間たちは気が狂うと思うんだが」
 アシモフとキャンベルはそれについてしばらく語り、それを小説として書くためにアシモフは帰途についた。


 彼は振り返って、このように書いています。

〔まあ、わたしはよく不思議さに打たれて身震いするのですが、あの1941年3月17日の晩になにが起きたのでしょうか。どこかの天使的な霊がわたしの耳にこうささやいたのでないとしたら。
「アイザック、きみはこれからわれわれの時代の最高のSF短編を書こうとしているのだよ。」〕

 『夜来たる』。
 アイザック・アシモフはこの作品で、初めてキャンベル編集長の雑誌<アスタウンディング>の巻頭となりました。1941年9月号です。アシモフのほとんどの作品をそれまでキャンベルはボツにしてきたのですが、この作品の出来には大いに満足したようです。 (『ガニメデのクリスマス』も、初めにアシモフはキャンベルに見せたが受けとってもらえず。)
 ジョン・W・キャンベル・ジュニアこそ、アメリカのSFのグレードを飛躍させた男といえるでしょう。
 このSF短編は、星空を一度も見たことのない(太陽が6個もあるので夜になることがない)惑星に住む人々に、初めて夜が訪れる日の「てんやわんや」を描いたものです。
 上のアシモフとキャンベルのエピソードはSFファンにはよく知られたものですが、『夜来たる』をちゃんとを読んでいる日本人は案外少ないのでは? 僕も昨日、初めて読んだところです。

 
    吾妻ひでお『メチル・メタフィージック』より       ↑アシモフ

Arkadia

2008年12月07日 | ほん
 「Arkadia(またはArcadia)」が今日のタイトルである。

 アーカディア(創元推理文庫版では「アーケイディア」だった)という名の少女が、アシモフの『銀河帝国の興亡』三部作(ファウンデーション・シリーズ)の最終話『第2ファウンデーション』のヒロインとして登場する。彼女は、14歳で、小説家になることが夢だった。だから、大人たちが数人集まって、謎とされる「第2ファウンデーション」の探索を密かに計画したとき、それを知った彼女は、こっそり宇宙船に乗り込んだのだ! (つまり「密航」である!)


〔 「あら、まーあ、学問的評価なんて、だれが問題にして?」 彼女はかれが気に入った。なぜなら、もう間違いなく彼女をアーカディと呼んでくれているからである。 「わたしはおもしろい小説を書くつもりよ。そして、たくさん売れて、有名になるの。売れて有名にならなければ、本なんか書いても意味ないでしょう。年寄りの大学教授に知ってもらうだけでは不満だわ。みんなに知ってもらわなければね。」 〕


 ということから連想して、松本零士の漫画『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』のアルカディア号を描いてみた。

 「Arkadia」とは、ギリシャにある地名であるが、それ以上の意味を含んでいる。ギリシャの詩の中で「アルカディア」といえば、「理想郷」という意味になる。ここに、「牧歌的な」「純朴な」というような意味も含まれている。するとアシモフの小説の14歳の少女アーカディアは、「純朴な乙女」というような意味のネーミングであろう。
 松本零士氏が、キャプテン・ハーロックの駆る船に「アルカディア」とつけた理由は、僕は知らない。

 ところで、昨日僕はシービスケットという馬について書いたが、この馬は、サンタアニタ競馬場での劇的勝利を花道にして引退した。そうして1947年まで生きて、14歳で死んでいる。その馬の遺骨はリッジウッドという山(サンタアニタの北にある)に埋められ、そこにシービスケットの馬主ハワードは樫の木を植えた、というようなことが書いてあったので、僕はその山の位置を確認したくて、地図を調べてみた。その時に、おもしろい偶然(僕はこの言葉を何度使っただろう)を見つけた。サンタアニタ競馬場は、ロサンジェルス郊外にあるが、その都市の名前は「Arkadia」なのである。

   


 さて、もう一度、『銀河帝国の興亡』の少女アーカディアにもどるが、「小説家になりたいの」という彼女の「銀河の端から中央へ」と駆け巡る大冒険の物語を再読しているうちに、僕は、アンネ・フランクのことを思いうかべたのである。
 以下は『アンネの日記』の1944年5月11日木曜日の日記から。

〔 さてここでべつの話題。あなたもとうからご存じのとおり、わたしの最大の望みは、将来ジャーナリストになり、やがては著名な作家になることです。はたしてこの壮大な野心(狂気か?)が、いつか実現するかどうか、それはまだわかりませんけど、いろんなテーマがわたしの頭のなかにひしめいていることは事実です。いずれにせよ、戦争が終わったら、とりあえず『隠れ家』という題の本を書きたいとは思っています。うまく書けるかどうかはわかりませんが、この日記がそのための大きな助けにはなってくれるでしょう。 〕

  彼女はこのとき14歳だった。 13歳の誕生日から日記をつけはじめたアンネ・フランクは、15歳でその生涯を閉じた。もし彼女が生きのびていたら(もう少しだったのに!)どんな本を書いただろうか、どんな冒険をしただろうかと、アシモフのSF小説を読みながら僕は思ったのである。
 上の文中で、「あなた」というのは、アンネの架空の友人キティのこと。『アンネの日記』は、キティへの手紙のような形で綴られている。


 アンネ・フランクがアムステルダムの隠れ家で、このように日記を書いていた時、オードリー・ヘップバーンも同じオランダ国の別の街アルンヘムに棲んでいた。オードリーとアンネは同じ年に生まれたので同じ年齢だ。
 イギリスがドイツとの戦争に踏み切ったとき、イギリスにいたオードリーと家族は母の決断でオランダへと移住する。オランダが中立国であったので、オランダのほうが安全だと思い、そしてオランダはオードリーの母にとってなじみの国であったから。 だが、その判断は間違っていた。1940年5月、ドイツは宣戦布告なしにオランダを占拠した。
 オードリーの家族はユダヤではないので、隠れる必要はなかったけれど、被占領だから何事も不自由だった。子供であるオードーリーは、レジスタンスの地下組織の「連絡係」として働いた。靴底にメッセージを隠して。子供は大人より自由度があったから。
 この時期にオードリーはバレエに夢中になった。バレエを習うには少し年齢的には遅かったが、才能の輝きは十分にあったようだ。1944年1月、少女はアルンヘム市立劇場での初舞台で優雅に踊った。14歳。


 1944年6月6日、連合国はノルマンディー上陸作戦を開始した。(ノルマンディーはフランスの北の一地方) ドイツに奪われたヨーロッパを取り戻すために練られた大作戦である。
 『アンネの日記』のこの日の日記には、彼女たちがイギリスのラジオ放送で「This is the Day」(今日がその日だ!)と放送されたのを聴いて、開放される時への期待をふくらませ、その喜びが綴られている。

〔 《隠れ家》はいまや興奮のるつぼです。いよいよ待ちに待った開放が実現されるのでしょうか。 〕
  
〔 いつも喉もとにナイフをつきつけられて暮らしてきました。ですがいまや、味方の救援と開放が目の前まで迫ってきているのです。もはや問題はユダヤ人だけのものではありません。オランダ全体の問題なんです。オランダ全体と、そしてヨーロッパの被占領地域全体の。ひょっとするとマルゴーの言うように、うまくゆけばわたしも、九月か十月にはまた学校へ行けるようになるかもしれません。 〕

 ほんとうに、あと少しだったのに。



 アイザック・アシモフは14歳のとき、高校生だった。(翌年は大学生になる。) 新聞配達と家のキャンディーストアの店番で忙しく働いていたので、外交的な性格にもかかわらず、親しい友人はいなかった。図書館で本を借りて読むのがアシモフの楽しみだった。図書館で3冊借りて、読みながら帰った。問題は読んでいない残りの2冊をどうするかだが、それは1冊ずつ両脇にはさむことで解決した。その姿を見て、母親が「みっともないからなんとかしなさい」と言った。母としては、そんなみっともない姿を見せては、不快に思った店の客が逃げていくと心配したのである。 だが、アシモフはやめなかった。
 アシモフの言い分はこうである。
 自分は、本を読まないときも、道を歩く時には空想にふけりながら歩いている。これはやめることができない。そういうときには、何も見ていないから、道ですれちがって誰かが挨拶をしてきても、自分は気がつかない。そういうことがよくあるのだ。そうなると相手に失礼だし、それで怒る人もいる。客商売だから、これはまずい。けれども、本を読んでいて、挨拶を返さないからといって怒る人はいないだろう。だから、キャンディーストアの商売のためには、本を読みながら帰ったほうがいいのだ。
 家でも学校でも〔自分は変わり者だったらしい〕とアシモフは書いている。



 僕は12~13歳の頃、『週刊少年マガジン』を熱中して読んでいた。『あしたのジョー』の矢吹丈がカーロス・リベラやホセ・メンドーサと闘っていたころの『マガジン』である。
 この中に『男おいどん』があった。これが松本零士の出世作である。「タテかヨコかわからない(ほどの分厚い)ビフテキ」を食べるシーンが妙に印象深く残っている。(今はビフテキと言わずステーキと言うが。)
 『男おいどん』が終了して、そのしばらく後に、特別版読みきりとしてこの漫画は登場し、主人公大山昇太のアパート上空に巨大宇宙船が現われたりして驚いたものである。零士氏が、四畳半サルマタケ世界から宇宙へ飛び出た瞬間である。(『宇宙戦艦ヤマト』より少し前だったのではないかと思うが、定かではない。)
 14歳の僕はといえば、そろそろ漫画を読むのに飽きはじめていた頃だった。

  
    吾妻ひでお『不条理日記』から

ピカユーン

2008年11月30日 | ほん
 『ティファニーで朝食を』(カポ-ティ作、村上春樹訳)が気に入ったので、その「英語版」とを合わせてネット書店のアマゾンで購入。便利だねぇ、アマゾン。この値段だと送料はいらないし、夜中に注文してその2日後には届くんだから。 (でもなんで「アマゾン」っていうの?)


 〔…を観察することによって、彼女の読書がおおむねタブロイド新聞と旅行パンフレットと星占いの天宮図によって占められていること、吸っている煙草がピカユーンという謎めいたブランドであること、コテージ・チーズとかりかりのトーストで生命を維持しているらしいこと、いろんな色合いの入り混じった髪は自分でそめているらしいということを発見した。〕


 この小説は、ニューヨークに住んで小説を書き始めた「僕」が、ホリー・ゴライトリーという20歳の女性と同じアパートに住むことになり、やがて親しくなり(しかし恋人関係になることはなく)、そして彼女はニューヨークを去っていく…、という話である。 (オードリー・ヘップバーン主演の映画版では、最後は「僕」と結ばれる、同じ設定だがまったく別の話になっている。)


 〔やがて彼女はピカユーン煙草を一本求めた。一口吸って「ひどい味だけど最高だわ」と言った。そして手紙を僕に投げた。〕


 いったいこの「ピカユーン」という銘柄の煙草は、あるのか、ないのか? なぜか気になる「ピカユーン」。

 …などと思っていたら、僕はラフカディオ・ハーンのアメリカ・ニューオリンズ時代を調べていたときに、この「ピカユーン」の言葉に出会ったのである。 「おっ、ピカユーン?」
 『ザ・タイムズ・ピカユーン』という名称の地方紙が現在のニューオリンズにあるようなのだ。元をたどれば、この地方紙、『ザ・ピカユーン』紙と『アイテム』紙が合併したものらしい。 なに、アイテム紙だと?
 『アイテム』紙といえば… これは、ラフカディオ・ハーンが勤めていて、つぶれそうになり、そこでハーンが漫画入りコラムを書いて持ちなおしたという新聞である。 (じつに130年前の話だけどね。)


 『ティファニーで朝食を』の作者トルーマン・カポーティは、もともとルイジアナ州ニューオリンズの出身である。とすれば、「ピカユーン」という銘柄の煙草は、このあたりにあったのかもしれない。いや、まるっきりカポーティの創作で、そんな煙草はないのかもしれない。
 どうでもいいことだが、妙に記憶に残る言葉、「ピカユーン」である。
 『ザ・タイムズ・ピカユーン』の「ピカユーン」は、Wikipediaによれば、スペインの通貨で、この新聞が1ピカユーンで買えるというところから付けられたということだ。


 あるかないかわからない「ピカユーン煙草」…だから、上の絵のようなデザインの煙草は実在しない。僕の創作だが、この少女と猫の絵には元絵があって、19世紀末にスタンランというパリに住んだ画家の描いた「殺菌牛乳のポスター」を模写したもの。



 ところで、この小説の中で(これも映画にはないが)、「僕」はホリーに、ティファニーで買った「聖クリストフォロスのメダル」をクリスマスに贈る。 小説にはそのことについて説明がないので、これも気になって調べてみた。
 「聖クリストフォロスのメダル」というのは、旅行者の安全のお守りなのだそうだ。(実際に今のティファニーがこのメダルを売っているかどうか、それも知りたいのだが…調べた限りでは売っていないようだ。)
 ホリーは、「ティファニーのような場所」が世界のどこかにある(あってほしい)と思っている。それはでもティファニーではないのだ。そんな場所をさがして、ニューヨークを出ていった。聖クリストフォロスのメダルをもって…。
 彼女は、ニューヨークで共に暮らした猫に名前をつけていない。


 ホリーがニューヨークを去った後、残された「僕」は、猫を探してみる。

 〔でもある日曜日、明るい日の差す冬の午後、ようやく僕はその猫に巡り会った。鉢植えの植物に両脇をはさまれ、清潔なレースのカーテンに体のまわりを縁取られ、いかにも温かそうな部屋の窓辺に猫は鎮座していた。猫はどんな名前で呼ばれているのだろう、と僕は思った。〕


 数ヶ月後に、ホリーから「僕」に、鉛筆書きの葉書が届く。南米のブエノスアイレスからだった。 その後(10年以上経って)、同じアパートに住む日本人カメラマンのユニオシ氏(映画版にも登場)が、アフリカで彼女の消息を発見したというあやしいうわさも入ってきた。 しかしほんとうかどうかわからない。

『ティファニーで朝食を』

2008年11月13日 | ほん
 トルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』を読んでいます。


 麻生太郎総理が、「未曾有」が読めなかったとは…。
 それはまあ、いいけど、「定額給付金」はもうやめたほうがいいですね。いまさら「やめた」って麻生総理も言えないでしょうが、本音はそういいたいかもね。
 「世界同時株安」って、結局のところ、世界をめぐっている「お金」という血液がうまくめぐらなくなって、つまり、脳梗塞みたいなことと思っていいんでしょうか。お金だけの問題にかぎらず、人間が沢山いてそれが動けばどうしても「渋滞」する箇所ができてくる。それをすばやく見つけて、あるいは予測して、渋滞がおこらないでスムーズに「血液」等が流れるようにするのが、政治家のおしごとではないのかなあ。
 ところが、今、政治家、官僚、マスコミ、そして私たちが、みんなで、「渋滞」をひきおこすように動いている気がする。渋滞を起こすのが政治家なら、政治家の数は少ないほうがいい。「政治家」が多くて渋滞しているよ。それをいっそう渋滞させている人もたくさんいて…。 どうしたらいいんだろうね。

 インドの人口が11億人! 何年か後には中国(13億人、ただししっかりとは数えていない)を抜いてしまう勢いだとか。
 世界一の高さのビルを建設中なのは、あれは、カタールだっけ? 「アジアの時代」がくるのかなあ。
 だとしても、日本は脇役でしょ。 それでいいよ、静かにしときましょ。 めだたないけど、あんがい芯はしっかりしてる、そういう国をつくろうよ。


 麻生太郎氏のイトコに野田昌弘(SF作家)がいる。野田さんは今年6月に亡くなられた。
 僕は中学高校時代にはほとんど本を読んでいなかったので、小学生の時に大好きだった「SF」からもずっと長いこと遠ざかっていたのだけど、大学生になって「さあ、SFを読もう」と、手にとって最初に読み始めたのがハインライン『銀河市民』だった。わりとおもしろかったけど、でも、なぜか最後までは読んでいないんだよね。(おもしろくなかったってことか?) この『銀河市民』が、野田昌弘氏の翻訳なのだと、つい最近(一昨日)わかったよ。
 この野田さん、『ひらけ!ポンキッキ』のガチャピンのモデルなんだってね。

月へ

2008年11月03日 | ほん
 1835年×月×日、オランダ・ロッテルダムの上空に、その奇妙な「物体」はあらわれました。見たこともない、妙な形をしています。ロッテルダムの市民は大騒ぎ。どうやらそれは軽気球でした。それにしても妙なかたちです。
 軽気球はゆっくり下降してきます。乗っているのはだれか? …小男でした。灰色の髪を後ろだ束ね、ゆるやかなフロックコートを着てズボンを履いていました。鼻はおそろしく長く曲がっていて、目はぱっちりしてよく光り、しかし、耳らしいものはどこにもありませんでした。 
 気球が地上100フィートのところまでくると、小男は、モロッコ革の包みを、ロッテルダム市長の前にドサッと落とし、それから、砂袋を6つドサドサと落とし、すると軽気球はまた上昇をはじめました。

 〔そのうちに、軽気球は雀のように空にのぼり、市のはるか上のほうへ翔けって、ついにさっき妙な風で出てきたあの雲と同じような雲の中に静かに漂い入り、ロッテルダムの市民のびっくりしている目から永遠に消えてしまった。〕

 軽気球の小さな紳士は空に消え、市民の興味は彼が落としていった「包み」に移った。
 「包み」の中身は手紙だった。その手紙は、ロッテルダム天文台大学総長に宛てられたものだった。
 差出人は、ハンス・プファール。 ハンス・プファールは、元ロッテルダムの市民で3年前に姿を消したふいご職人であった。
 その手紙よると、なんと、彼は月に住んでいるという。その天文台総長への手紙は、彼が、どのようにして月へ行ったかを記録したものだった。
 ふいご職人であったハンスは、仕事が多い時には幸福であったが、時代のながれで突然に仕事が少なくなり、毎日を飲んだくれて暮らしていた。そういう時に、酒場で、天文学の本に出会う。それを読んで以来、ハンスは「月へ行って暮らす」ということを実現させることに熱中する。
 軽気球で空をずっと上昇するとどうなるのか。気球は、その中に空気よりも軽いガスが入っているから、上昇する。宇宙は空気がないという。ほんとうに何もないのか。「エーテル」というものがあるという。宇宙にある「エーテル」と地球と月の引力との関係はどうなっているのか。 気圧の問題もある。気圧が薄くなってくると、人間は苦しくなるという。それをどう解決するか…。
 お金がないハンスは借金をして、宇宙船(軽気球)をつくり始めた。どうせ自分は月で暮らすのだ。 絶対儲かるといってできるだけの金を借りて、あとは踏み倒せばいい…。


 これはアメリカ作家エドガー・アラン・ポーの小説『ハンス・プファールの無比の冒険』の話。それを書いたのは、まだ電灯も飛行機もない時代である。
 ポーは、猫が好きだったようで、この小説の中でも、ハンス・プファ-ルが宇宙船(軽気球)に乗り込む際、一匹の猫も連れて行っている。この猫は、雌猫だった。月へゆく旅の途中で、三匹の仔猫を産んでいる。
 やっぱり司馬さんが言うように、猫は航海に必要なパートナーということか。


 ポーがこの小説を書いた1835年はどういう時代だったか。

 電気が実用化されるのは、19世紀後半のことで、この時代には、まだない。
 鉄道は、1825年にイギリスで最初に開通し、アメリカでも1827年に開通。
 船が、帆船から蒸気船に変わってゆくのは、1810年頃から。
 つまりこの時代、ようやく蒸気機関と石炭が欧米で実用的になってきた時代なのである。
 だから、「飛行機」など、まだ影もない。飛行機が発明されるのは20世紀になってから。

 そういう時代で、もし宇宙船を造って月まで行こうと真面目に考えるなら、一番実用的なのは「気球」ということになるのだろう。まだ27歳のポーは、真面目に考えたのだ。「どうやったら月に行けるか」と。
 この小説では、月に着陸するまでをこまかく書いているのだが、月に住んでいた小人たちとハンス・プファールがどのように暮らしたかは触れていない。 「どうやったら月に行けるか」 それがポーの関心事だった。 その着想に夢中になったハンスの姿は、ポー自身だったのだ。 できることなら、本気で行きたいと願っていたのかもしれない。

 しかしそれにしても、アメリカに住むポーは、なぜこの話の舞台をオランダ・ロッテルダムに設定したのだろう? ロッテルダムは今でこそ大都市だし、世界有数の貿易量(欧州第1位)を誇る港なのだが、19世紀の前半ではそれほどでもなかったはずだ。オランダは「技術」の国、というイメージが、ポーの中にあったのかもしれない。
 ロッテルダムは、以前僕が書いたキンデルダイク村と近い。ここで咸臨丸がキンデルダイクの造船所で建造されたのは1857年だった。
 オランダは、「技術」(つまり工夫)なしには生きていけない国だ。キンデルダイクのあの風車群も、何のためにあるかというと(今は観光用だが)、水をかき出すためである。常に排水をしていないと、土地が水没してしまうのだ。だから、地球温暖化問題でもっとも真剣なのは、オランダだとか。
 オランダは、このように、国自体が「技術」に支えられて海に浮かんでいる船のような国なのだ。 僕は、ああいう国に生まれて住んでいる人は、仮にどこかに移り住むことになっても、「海」に囲まれた場所でないと落ち着かないかもしれないなあ、などと思ったりする。長崎の「平戸」もそういうところだし、アメリカのニューヨーク(マンハッタン島)に最初に住み始めたのは、オランダ人だそうだ。(だから昔は、ニューアムステルダムだった。)
 ニューヨークは、ポーが暮らした街でもある。


 ポーの小説を読んだフランス作家ジュール・ベルヌは、1865年に『月世界旅行』を書いた。これは、アメリカ人が「人間の入った砲弾」(しかも一人じゃない)を飛ばして月まで行くという話である。


 ゴッホの『ドビーニー庭』の消えた黒猫も、宇宙船に乗って、月へ行ったのかも。

エドガー・アラン・ポー

2008年10月19日 | ほん
 西暦1900年__といえば、19世紀末であるが、その年の9月、ロンドン留学を命じられた夏目漱石は、横浜よりドイツ汽船プロセイン号に乗り南洋へ向けて出港。途中、シンガポールから妻鏡子へ手紙を送っている。その手紙の中にこういう文をみつけた。

〔其許(そこもと)は歯を抜きて入歯をなさるべく候。只今の儘にては余り見苦しく候。〕

 鏡子よ、おまえは歯並びがわるい、だから入歯にせよ、と漱石は言っているのである。
 なんというか… 僕には20代の妻に入歯をすすめるこの漱石のセンスがわからない。 … が、おもしろい。

 さらにプロセイン号はインド洋を西へ行き、紅海を通り地中海へ。漱石は。イタリア・ジェノバで汽船を降り、列車でパリへ。
 1900年、パリ万国博覧会が開かれていた。漱石はこれを見学。

〔今日は博覧会を見物致候が大仕掛にて何が何やら一方向さへ分り兼ね候。名高き「エフエル」塔の上に登りて四方を見渡し申し候。是は三百メートルの高さにて人間を箱に入れてこう鋼条にてつるし上げつるし下す仕掛けに候。〕

 つまりエレベーターに乗って漱石は、エッフェル塔に登ったのである。



 以上は前置き。今日のテーマは、まず、フランス・パリ。(あとで、ボルネオ島)
 「パリ」といえば、凱旋門。それから僕はピカソとかモジリアーニとかの画家を思い浮かべるのだが、その次に出てくるイメージは、山口百恵主演のTVドラマ『赤い疑惑』の、「パリのおばさま」(←岸恵子)。 ただし、今はそれらの話がしたいのではない。


 今、将棋竜王戦七番勝負がパリで開幕したのである。 (ということで今回はパリのネタを書こうとオモイマス。)
 先手渡辺明竜王に対し、後手挑戦者羽生善治は、今流行の(といってももう流行りだして4年くらいになるが)「一手損角換り戦法」。 2日制で、時差があるので、決着は月曜日の早朝になりそう。
 


 さて、話はまた漱石へ。漱石のあの「黒猫」___これは黒にちかいトラ縞猫なのだけど___このブログでは、そこから話を色々とつなげて展開してきた。
 「黒猫」というもの、日本ではもともとは「福猫」であったらしい。病気をなおす力があるとされていた。ところが、欧米のキリスト教文明では、白は善、黒は悪、というイメージが強くあって、黒猫は不吉だとされていた。それに加えて作家エドガー・アラン・ポーの『黒猫』が日本に入って来て、これがとても怖くて強烈な話だったので、黒猫のイメージが日本でも不吉のほうへ傾いてきたようだ。
 エドガー・アラン・ポーはアメリカの作家で、19世紀前半の人(1809-1849)。 ポーが『黒猫』を書いて発表したのは1843年。
 日本でその『黒猫』を最初に翻訳したのは饗庭篁村(あえばこうそん)という人で、1887年。おもしろい偶然だが、これを翻訳した時にこの人、根岸に住んでいたらしい。根岸御隠殿という場所で、ここは子規の住んでいた家(=子規庵)のすぐそば(数百メートルの距離)なのである。(ただし、篁村が『黒猫』を翻訳した明治20年、子規はまだ学生で本郷あたりに下宿していたが。)
 そして饗庭篁村はポーの『モルグ街の殺人事件』も翻訳している。

 じつは今回の記事では、『モルグ街の殺人事件』の話をしたいのである。
 が、その前に『黄金虫』のことを書いておく。

 僕が小学校の図書館で、最初に読んだ本がポーの小説『黄金虫』だった。この本は借りたのではなく、図書館で全部読んだ。それはたぶん授業の中の、「読書の時間」か何かで、僕は三年生か四年生だったと思う。図書館で本を借りるということを、僕はまだこの時、したことがなかった。周りの友達らも、そういう人があまりいなかったので、わざわざ行き慣れていない三階の図書館(教室は二階だった)まで行くという習慣がなく、本を読むという面白さもまだ知らなかった。
 『黄金虫』は、「おうごんちゅう」とも「こがねむし」とも読めるが、僕としては、「おうごんちゅう」と読みたい。これは「宝さがし」の話だから。
 今読むと、ポーの『黄金虫』はけっこう(子供には)むつかしい。だから僕が読んだのは子供向けにやさしい文章で翻訳したものだったと思う。『黄金虫』は、カリブ海の島に海賊が埋めた宝をさがしあてる話だが、その宝の場所を示す「暗号」の解読をするという展開になる。その「暗号」は、おそらく英語をカモフラージュしたものであり、英語では最も多く使われる文字が「e」であることからその暗号解読を解いていく、というところをよく憶えていた。英語を習ってもいない小学生が、よくこれを選んで最後まで読んだもんだと、今では思うが、でもたしかに読んだのだ。
 僕が図書館で本を何冊も続けて借りることに熱中するのは、もっと後で、小学5、6年生の頃である。読む本は、SFと、『江戸川乱歩・少年探偵シリーズ』(「江戸川乱歩」のペンネームは「エドガー・アラン・ポー」からとったもの)、それから『シャーロック・ホームズ』のシリーズなど…

〔 シャーロック・ホームズは立ちあがって、パイプに火をつけた。
 「もちろん君は褒めたつもりで、僕をデュパンに比べてくれたのだろうが、僕にいわせればデュパンはずっと人物が落ちる。 … 」 〕 
     (コナン・ドイル 『緋色の研究』)

 シャーロック・ホームズといえば超有名なロンドンの名探偵で、生みの親は作家コナン・ドイル。イギリス作家のドイルがこのホームズのシリーズの最初の作品『緋色の研究』を発表したのは1887年。
 ということは1900年にロンドンへ行った夏目漱石も、この名探偵ホームズのシリーズを読んだだろうか。たぶん、読んだだろう。漱石の興味を惹いたかどうかはともかく。
 このコナン・ドイルがこの推理小説を創作するにあたって手本にしたのが、エドガー・アラン・ポーの小説なのである。というわけで、ポーは推理小説の元祖ということになっている。
 こうしてみると、僕の中でのエドガー・アラン・ポーの影響度は相当なものだとわかる。いや、本好きだった小学生なら、みんなそうかもしれない。


 エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人事件』は、パリを舞台とした推理小説であり、これが史上最初の探偵もの推理小説とされている。パリ・モルグ街で殺人事件が起こった。それを解決したのが、探偵C・オーギュスト・デュパン__もちろんポーの創作上の架空の人物である。ホームズよりも46年早く小説界に登場した「名探偵」、それがデュパンである。

 モルグ街に住むある母娘が誰かともみあって殺されるという事件が起こった。不可解な殺され方で、そのときに「声」を聞いたという住人も、何語なのかわからなかった。
 と、そういう事件を名探偵デュパンが鮮やかに解決するのである。
 実は、僕はこれを数週間前にはじめて読んだのだが。前置きが長くて、短編のわりに読みにくい印象だ。(これに比べるとホームズはすごく読みやすい。)

 ええ~と、推理小説の結末をばらすなんてのは、エチケット違反というもの。ですよね~、それが常識。でも、いまさらこの小説を読む人もいないだろう、なんて勝手に決めて、ええーい、オチをばらしちゃえ! (ていうか、もうばらしちゃっている…のだけれ…ど… )

 「モルグ街の殺人事件」、この事件の犯人は____!!  それは…


 それは、オランウータンなのでした!

 翻訳によっては「猩々(しょうじょう)」となっています。猩々というのは中国に伝えられる伝説の怪物なのですが、日本でこの怪物の名前がこの熱帯産の動物オランウータンにつけられたようです。
 『モルグ街の殺人』に犯人として登場したこの大型のオランウータンは、ある船員がお金儲けのために、ボルネオ島からパリまで連れてきたのだった。それが逃げ出してモルグ街に紛れ込み殺人を犯してしまったのである。
 デュパンは、「オランウータン買います」というような広告を新聞に載せ、すると犯人であるオランウータンの持ち主(船員)がノコノコとデュパンのところにやってきたのであった。


 さて、では、話題は、真犯人君の故郷、「ボルネオ島」へ。
 日本の南、赤道のあたりのある大きな島、それがボルネオ島。ただしボルネオという呼び名は欧州のもので、地元の呼び名は「カリマンタン島」。 国でいうと、この島はマレーシアとインドネシア共和国、それとブルネイになる。
 オランウータンは、「森の人」とも呼ばれ、このボルネオ島とその隣にあるスマトラ島と、この2つの島の熱帯雨林にしか生息していない。森林破壊がすすんできてオランウータンもその個体数が減少しており、ワシントン条約でペットとしての輸出入は禁止になっている。ところが1998年に日本のペットショップで違法に4頭売られていて騒ぎになったことがあるようだ。


 さて、話はまた「次」へとぶ。僕の子供時代の思い出話。

 「ボルネオ島」という名前を、小学生の時に、僕は、近所のともだちのヨウちゃんから聞いた。
 ヨウちゃんとはよく遊んだ。歳がひとつちがうので、あそんだのはおもに幼時から小学生時までだけど。
 ヨウちゃんのお父さんは、「船乗り」なのだった。 僕の田舎は、山に囲まれた盆地で、海はないのだが、でも、だからこそ、ヨウちゃんのお父さんは海に強く憧れて「船乗り」になったのかもしれない。ヨウちゃんのお父さんは、普段はだから、家にはいなかった。いつも船に乗って外国に行っているのだ。2年ぐらいずっと海の上にいて、休みがもらえると帰ってきて半年くらい家にいる。海賊の出てくる小説の船長と同じように、アゴヒゲ(ジョージルーカスのような)を生やしていた。おまけにパイプでタバコを吸っていて…。ベタな人だったなあ…と振り返って今は思うのだけど、そんなふうにヨウちゃんのお父さんは、近所のほかの大人と見かけがちょっと違っていた。「異国の雰囲気」があったのだ。パパって呼びたくなるような。だけどヨウちゃんたち子供は「お父さん」と呼んでいたし、家はふつうに土間があって畳のあるありふれた田舎の小さな家だったし、お母さんもまわりの人と変わらない感じだったけど。パイプにヒゲのお父さんだけが、微妙に「異国」だった。
 ヨウちゃんのお父さんは、子供達のためによく外国の「おみやげ」を買ってきた。それは、日本の店では見たことがないような形をしたチョコレートだったり、モデルガンだったり、かわった植物(食虫植物とかサボテンとか)だったり。たぶんお父さんは、普段は家にいなくて子供にさみしい思いをさせているので、その代わりにとおもしろいものを選んで買って来ていたのだ。俺は海の男で外国に行っているんだぜ、という自慢でもあっただろう。
 ヨウちゃんの「ヨウ」は太平洋の「」なのだ。もちろんお父さんがつけた名前だ。



 そうそう、「ボルネオ島」の話をするんだった。
 ヨウちゃんのお父さんはよくオウムやインコをおみやげに買って帰った。それで僕は、ヨウちゃんの家で、インコがひまわりの種を食べるところをよく見たものだ。田舎にはペットショップなどないので、そういう鮮やかな色の鳥は僕らにはとても珍しく感じた。でも、インコにとってはかわいそうだったかもしれない。というのは、僕らの田舎は冬は雪が積もる寒冷地だったから。当時はどの家もエアコンなどなかったし、インコたちも冬を越せず死んでしまうこともあったようなのだ。
 「このインコは、ボルネオ島のインコなんじゃ。」
とヨウちゃんが言ったので、僕はそれ以来、学校の壁に貼ってある世界地図を見ながら、「ボルネオ島の形」をしっかり意識したのだった。たぬきが服を着ているような形の島だと思った。(この島にオランウータンも住んでいるわけだ。)


 船乗りのお父さんとは関係がないと思うが、それ以上に、ヨウちゃんの家には僕が羨ましく思うものがあった。
 「なつめの木」だ。 なつめの木は秋になると実がなって、それが欲しいだけ食べられるヨウちゃんの家がとても羨ましかったのだ。
 「なつめを食べよう」と、ヨウちゃんはよく僕をさそってくれた。ヨウちゃん家のなつめの木は大きくて、屋根よりも高く、僕らは屋根に登って、その実をとって食べた。


 小学生の時、僕は、仔猫を拾ったことがある。結局、その子を飼うことにはならなかったのであるが…。
 その仔猫に「なつめ」と名前をつけたことを、最近、思い出した。そう、なつめの木のなつめの実からとった「なつめ」である。この「なつめ」は、夏目漱石の「夏目」とは全然関係がない。…なのだけど、偶々に「夏目」と「なつめ」とが、いまここで「猫」を間に置いて僕の中でつながって、それでその仔猫のことを思いだしたわけで…。
 仔猫の「なつめ」のこと、これはまた、別のときに話すとしよう。



 ヨウちゃんはまた、僕が図書館で本を借りたいと思いはじめたキッカケをつくった人でもある。
 小5の夏のある日、ヨウちゃんが、図書館で借りてきた本を僕に見せた。その本には挿絵があり、それを見せつつヨウちゃんはストーリーを説明しはじめたのだった。それがとっても面白そうだったので、僕も読みたくなったのだった。
 その本の題名は、『宇宙船ビーグル号の冒険』(ヴァン・ヴォークト著)。
 「SF」という言葉もその時に知った。「SF」…「えすえふ」…なんだかかっこいいぞ! 「えすえふ」にときめいて、僕は小学校舎三階の図書館へ(勇気をもって)一人で行ったのである。
 「SF小説」の元祖をたどっていくと、19世紀後半のフランス作家ジュール・ヴェルヌにたどり着く。SFの父などと呼ばれる人物でこの人もフランス生まれ。そのヴェルヌがSF小説を書く上で大いに参考としたのが、実はエドガー・アラン・ポーなのであった。なるほど、アイデアとして似ている作品がある。たとえば、ヴェルヌの出世作は『気球に乗って五週間』だが、気球に乗って旅をするという物語はポーがすでに1835年に書いている。それが『ハンス・プファールの無比な冒険』である。ハンスは気球に乗って、ついに月にまで飛んで行く…。
 wikipediaで知ったのだが、ジュール・ヴェルヌが1863年に書いて未発表のままの『二十世紀のパリ』という近未来小説が、1991年になって発見されたそうだ。なんと100年以上も誰にも知られず眠っていた本なのだ。 これ、読んでみたい!


 ___ということでこの稿もぐるっとひと回りして「パリ」へ帰着。 (いや~色々と詰めこんだなあ…)
 「モルグ街」ってのをパリの地図の中でさがしてみても、見つからず。それもそのはず、どうやら架空の「街」らしい。


 竜王戦は一日目終了、羽生名人が封じました。羽生さんの封じ手はきっと△2四同歩、これは間違いないですね。2日目は、日本時間で今日午後4時開始です。
 パリの名探偵デュパンのように、鮮やかに頭脳の切れ味を示すのは、さあどちら? (俺のほうが凄い、とロンドンのホームズ氏は言うのだけれどね。)

『坂の上の雲』

2008年10月14日 | ほん
 夏目家には、四人の女子の後に二人の男子が生まれ、その次に女児が生まれた。この子は、桃の節句の前の晩に生まれたので、雛子(ひなこ)と名づけられた。
 〔知恵も早く、非常なおしゃまっ子でございました。一年半もたったこの年の秋ごろには、よちよち遊んでいては、自分も見よう見まねで猫の墓にお水を上げにいって、ついでに自分もその水を飲んでしまうという按配でちっとも目が離せません。それがまたなかなかの癇癪持ちの意地悪でございました。〕
   (夏目鏡子述『漱石の思い出』)

 ところが、この雛子は、生まれて一年半ほどで急死してしまう。ある日、御飯を食べているときに、急にキャッと言ってあおむけに倒れた。
 ただ、そのころの子供というのは、よくこういうことはあったらしい。ひきつけなどは日常的なことで、顔に水をかけて息をふきかえさせるというようなことに皆なれっこになっていて、あわてることもしなかった。ところが揺すっても水をかけても雛子には反応がなく、そのまま死んでしまった。

 〔子供の死因はとうとうわからずにしまいました。その時私は解剖でもしみたらとふと思いましたが、それも残酷なような気がしてそのまま黙っておりました。ほどへて何もかもすんだ後でその話をしますと、ほんとうに解剖すればよかった。そうすれば死因もよくわかっただろうに、ちっとも残酷なことなんかないよ。自分はまるでそんなことに気がつかなかったと惜しそうに申しておりました。夏目が亡くなりました時に、私が進んで解剖していただくように申し出ましたのは、その時のことを思い出したからでございます。〕

 〔口に出してこそ何も申しませんでしたが、これは相当にこたえた様子で、ずいぶんと心のうちでは悲しんでもいたようでした。子供に逝かれるというのはいやなもんだなあと、何かの拍子につくづく思いつめたように言っていたこともありました。〕 (『漱石の思い出』)

 その夏目漱石が死んだのは、1916年12月9日である。
 上にあるような夏目家の体験から、鏡子夫人は漱石の遺体の解剖を申し出たという。それで、翌10日、遺体は東大病理学教室にて解剖に附された。

 さらに、
 〔脳と胃とはおすすめにより大学のほうへ寄付いたしました。〕とある。すると今も東大のどこかに「漱石の脳と胃」は保存してあるのだろうか。(たぶん、あるのだろう。)


 じつは僕は若い時に、東大病院であるバイトをしたことがある。雇い主は大学病院ではなく、葬儀屋である。
 1ヶ月のバイトだった。夕方の5時から、翌日の朝7時までだから、拘束時間は長い。なんの仕事をするかというと、病棟のベッドで亡くなった遺体を、1F(半地下)の霊安室へ運ぶのを手伝うのである。それだけである。つまり、だれも亡くならない日は、仕事がない。その間は自由である。寝ていてもよい。仕事が入ると、つまり死人がでると、となりの部屋で同じく待機していた葬儀屋の社員が呼び出しブザーで起こしてくれる。その社員と二人で病室へ行く。その時の実働は長くみても2時間くらいのもので、むつかしいことは何もない。死者のでない日の方がほとんどで、そういう日は、なにもせず、寝て、朝になって、簡単に掃除をして終了である。もちろんそれで1日分のバイト代は出る。バイト後、東大の食堂へ行って朝食を食べたこともあった。
 ほんとうは、死んだ人の遺体を霊安室に運ぶのは病院のしごとなのだが、それを葬儀屋が「やらせてください」と割りこんで手伝うのは、場合によっては、葬儀屋に「ほんらいの仕事」が回ってくる可能性があるからである。亡くなった方の家族の側にいて、「ところで葬儀屋はもうお決まりでしょうか。もしまだお決まりでなかったら…」と話かけるのである。ただしそれは葬儀屋の社員の仕事で、僕は遺体運び要員として雇われたバイトなので、そこまではしないでよい。
 葬儀屋としては、病院で寝て待っているだけで「仕事」がやってくるわけだから、こんな良いポジションはない。だからこの役目を一社が独占するわけにはいかず、葬儀屋同士で取り決めがあって、1ヶ月ごとに順番でまわしているとのこと。それで、その手伝いとして雇われた僕のバイトも、1ヶ月の短期契約なのだった。
 遺体を運ぶといっても、車つきのベッドに載せてエレベーターを使うのだし、カンタンなものだ。ラクなバイトではあったが、これを長期続けるのは、やはり精神的には健康によくない気がする。1ヶ月でよかったと思う。夜、犬が吼える声が聞こえていたが、あれは多分大学病院の実験用の動物だろう。
 1ヶ月の間に、実際に「しごと」は5件くらいだったと思う。(あまりよく憶えていないのだが。) そのうちの2件は、遺族の理解を得て、「解剖」へ回された。そのケースの場合、朝になって、冷房の効いた霊安室から、「解剖室」へと遺体を運ぶ(車で移動)のも我々のしごととなっていた。服を脱がせて、解剖台へ横たわらせるまでがお役目だ。そんなわけで僕は、東大病院の解剖室にも2度入室しているのである。

 待機しているのは、葬儀屋の社員1名(ずっと同じ人ではなかった)とバイト1名(僕)。 社員とは別の6畳ほどの広さの部屋があって、そこで僕は一人で待機。ということで気楽だったが、拘束時間が14時間もあると、いくら自由に寝てもいいといっても、そんなには眠れない。TVもなかった。それで僕は図書館で本を借りてきて読んだ。
 その時に読んだ本が、司馬遼太郎の『坂の上の雲』である。
 長い長い小説である。 だから、ちょうどよかった。 9月だった。


 『坂の上の雲』は、日露戦争を中心に据えて、司馬遼太郎が、「明治時代の人間」というものを描こうと構想した物語である。この物語の主人公として、司馬さんが選んだのが、正岡子規、秋山好古(よしふる)、秋山真之(さねゆき、好古の弟)の三人。かれらは三人とも、伊予松山の出身なのである。
 正岡子規と秋山真之は同い年であり、親友であり、東大予備門へともに通った。ということは、実は、夏目漱石と秋山真之も同級生なのである。ただ、秋山真之は、家の経済的事情から、予備門をやめ海軍への道を進むことになる。 それで、子規が漱石との会話中に、秋山真之の話をしたときに、漱石が真之のことを憶えていないというので、「写生能力の不足じゃな」と漱石をからかった__という場面が『坂の上の雲』に描かれており、僕はそれを切り取って前回記事に入れた。


 日露戦争は1904年2月にはじまった。ロシア軍が「旅順」を占拠したことに反発した日本が、とうとう戦争に踏み切ったのである。(子規が死んで1年半後のこと)
 夏目漱石の家に例の「福猫」が現われるのは、この戦争のさなかであった。
 日本陸軍は「旅順」を奪うのに苦労をした。沢山の犠牲の上に、1905年1月、ついに「旅順」陥落。といってもこれで「勝ち」というわけではない。
 漱石の『吾輩は猫である』の第1回が発表されたはその時期である。これが好評だったので、漱石はどんどん『猫』の続きを書いた。生活が苦しくそれまで借金をしていた夏目家だが、東大の講師の給料のほかに、原稿料が入るようになって徐々にラクになった。つらかった漱石の神経症症状もやわらいでいった。
 その『吾輩は猫である』のその第5話の中では、猫がこんなことを言っている。

〔先達中(せんだってじゅう)から日本は露西亜(ロシア)と大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本贔屓(びいき)である。出来得べくんば混成猫旅団を組織して露西亜兵を引っ掻いてやりたいと思う位である。〕(『吾輩は猫である』)

 「混成猫旅団」というのが、可笑しい。


 日本海軍連合艦隊の司令長官は東郷平八郎である。参謀長は加藤某であるが、その作戦を実質的に担当していたのは、秋山真之であった。正岡子規の友人の、秋山真之である。 
 日本の陸軍は「旅順」を獲った。海軍は、ロシアの太平洋艦隊を壊滅させた。しかし、ロシアには、まだ、バルチック艦隊があった。バルチック艦隊が日本海にやってきて、これに日本海軍が敗れることになれば、日本の陸軍の補給路も分断され、これまでの頑張りもすべて水泡に帰す。さいごの決戦だ。世界の列強もこの海戦を前にさあ始まるぞと注目して待っていた。
 秋山真之は、もてる限りの知恵をしぼって対策を考えていた。敵=バルチック艦隊は、インド洋を渡り、南からやってくる…。 



 司馬遼太郎の少年時に、家には、徳冨蘆花全集と正岡子規全集があったそうだ。司馬さんはそれらを読み、どちらも好きだけれども、しかし、蘆花の小説の「重苦しさ」にはつらくてやりきれないところもあったという。それに対して子規は「あかるい」という。この「あかるさ」に魅かれて、司馬さんは、こつこつと正岡子規の資料を集めていた。そのうちに、子規と秋山真之とが、同郷であり同じ塾に学び、東京では大学予備門へともに通っていたことを知り、彼らを描きたくなったという。日露戦争の勝利も、明治時代の、子規のような、「素朴な人々のあかるさ」に支えられた上での勝利だったということを、描きたかったのではないかと思う。
 僕はこの物語を、あの東大病院の半地下で読みながら、その時には、戦争に関わらない正岡子規がどうしてこの小説に出てくる(しかも主人公として)のか不思議だったが、いまは、わかる気がする。ああいう「あかるさ」が、いいのだ、ということが。戦争が主題ではなく、子規の「あかるさ」が主題なのだと。

 そして今、東大と漱石と『坂の上の雲』と僕とが、ふしぎな形でつながった。司馬さんの描いた正岡子規の「あかるさ」は、子猫を通して、漱石の『猫』の中にも受け継がれたと考えるいうのはちょっと強引すぎるか。(混成猫旅団…)


 「坂の上の雲」というタイトルは、明治時代の、坂をゆっくり登って行く人の前方に、ぽっかりと浮かんだ雲のことのようである。


 この小説のエンディングには、戦争後、秋山真之が、東京根岸の正岡子規の住んでいた家(子規庵)を訪ねるシーンが描かれている。途中、その根岸の「芋坂(いもざか)」とよばれるあたりの茶屋(藤の木茶屋)でひとやすみし、真之は団子を食う。 …
 漱石の『猫』の中にも、僕はいま、「芋坂」を見つけて喜んでいる。
 多々良という男が苦沙弥先生(猫の主人)をたずねてきて話をするのだが、しばらく話して先生は「多々良、散歩をしようか」という。
 多々良「行きましょう。上野にしますか。芋坂へ行って団子を食いましょうか。先生あすこの団子を食った事がありますか。奥さん、一返行って食って御覧。柔らかくてやすいです。酒も飲ませます」…
 これも第5話中にある。 漱石はこれを書く時に、あるいは子規庵を意識していたかもしれない。いや逆か? 司馬遼太郎が漱石の『猫』を意識して、芋坂の団子屋を書いたのか。

記憶の底の‘黒い子猫’

2008年10月02日 | ほん
 この画は、岩合光昭氏の写真集『ニッポンの猫』から、沖縄竹富島の猫を模写。 このネコ、ずいぶんとこのシーサーが気にいっています。一緒の写真に撮られて、嬉しそう。


 思い出した記憶かいくつかあります。
 それを思い出してみると、僕は、ほんとうは猫が大好きだったのではないか…
 と、そんなふうに思えてきました。



 小学生の、四年生の頃だったと思います。父が、僕と妹に、「本」を買ってやろうと思ったようで、家族で電車に乗って街へ出た際に、本屋に入り、それぞれ好きな本を自分で選んで買ったのです。
 その時に、僕が選んだ本の題名が、『びりっかすの子ねこ』。 これが僕が買ってもらった、はじめての本です。いまになって思うのは、これを選んだのだから、僕はきっと猫というものにすごく興味があったにちがいない、ということです。
 でも、そのわりに、僕はこの本をなんどもくり返し読んだ、という記憶がありません。なぜだろうか… ということを、いま、考えるのです。

 『びりっかすの子ねこ』を読み終えたあと、あそんでいたら、父が、「本はおもしろかったか」と僕に聞き、僕は「おもしろかった」と答えました。そのあと父はこう質問したのです。
 「‘びりっかす’とはどういう意味だ?
 僕は、(どういう意味だろう?)と思いました。主役のこの黒い子猫には名前がないのか、「びりっかすの子ねこは…」と、そのように書かれています。でも、‘びりっかす’とはどういう意味か、説明は書いてありません。それで僕は、
 「わからない」
と父に答えました。すると父は「そんなことはないだろう。読んだのなら、‘びりっかす’の意味はわかるはずだろう」というのです。
 でも確かに、それは、本の中には書いてなかったのです。
 「びり」という意味は僕は知っていました。その、僕が知っている「びり」と‘びりっかす’とが、まったく同じなのかどうか僕は自信がありませんでした。それでも、だいたい同じ意味なのではないか、そう推測しながら僕はその『びりっかすの子ねこ』を読んだのです。 
 父とすれば、僕へのその質問は、自分が買いあたえた「本」によって、僕とのコミュニケーションを図ろうとしたのだと思います。でも、その質問は、まるで僕がその本をよく理解して読んだかどうか、そのテストをしているようにも思えてしまいます。いくぶんか、このときの僕は緊張したでしょう。
 僕は、「この子ねこは、7人兄弟のいちばん末っ子で、母ねこの乳を飲みに行くのが一番遅い。それで…」 それで「‘びりっかす’の子ねこ」というのだと思う、と説明しました。でも、これは、本に書いてあったのではなく、僕の「考え」です。
 「そうか。それで‘びりっかす’というのか。」
 と父はそれで納得したようでしたが、本の話はそれで終わりになりました。僕のほうは、いいかげんな返事をしてしまったような、へんな感覚だけが残りました。なにより、この本の内容のおもしろさをちっとも父に伝えられなかったという結果になったことが、子どもながらに、(たぶん、ですが)すごく残念だったろうと思われるのです。
 そうした父とのやりとりだけが、僕の「記憶」に保存され、この本の内容はすべて消えてしまっていたのです。ですから、『びりっかすの子ねこ』がどういう内容の物語なのか、大人になった今ではもう、憶えていなかったのです。


 どんな話だったのだろう…

 漱石先生や『グーグーも猫である』等によるマイ猫ブームのおかげで、そのことにふと気づき、僕は図書館でこの本を借りてきて、そして読んでみました。



 … 
 とても、いい話でした。

 ‘びりっかす’の子ねこは、7つ並んだ家のいちばん端の「犬屋さん」に生まれます。その中で、一番どんくさいこの子ねこが、7つの家を順番に歩いて冒険し、最後はべつの端っこの家にたどり着いて、やさしい男の人に気に入られて幸福をつかむ、という話です。
 自分がいちばん最初に選んだ本、父に買ってもらった本が、こういう楽しくてあったかい話で、ほんとうによかった。

「びりっかすの子ねこ」でブログ検索してみました。 →ヒット1ヒット2


 『びりっかすの子ねこ』の原題は『THE LAST LITTLE CAT』。 著者は、デイヤングという作家です。1906年オランダに生まれ、8歳のときに両親とアメリカに渡りました。国際アンデルセン賞も受賞しています。 (この賞は、日本人では安野光雅も受賞している。)
 訳者は中村妙子さん(1923年生まれ)で、この中村さんが、‘LAST’を‘びりっかす’と訳したんですね。
 この本のおわりには、中村妙子さんのあとがきがあります。その文末は、こういう文章でしめくくられています。

 〔なんべんもくりかえしよんで、おとなになっても、おもいだしてひらいてみたくなる、そんな『びりっかすの子ねこ』を、だいじにしてくださいね。〕

吾輩ハ猫デアル

2008年09月23日 | ほん
 …先ず手初めに吾輩を写生しつつあるのである。吾輩は既に十分寝た。欠伸がしたくて堪らない。然し切角主人が熱心に筆を執っているのを動いては気の毒だと思うて、じっと心棒しておった。彼は今吾輩の輪郭をかき上げて顔のあたりを色彩っている。
  
 …これは仕様がないと思った。然しその熱心さには感服せざるを得ない。なるべくなら動かずにおってやりたいと思ったが、さっきから小便が催している。身内の筋肉はむずむずする。最早一分も猶予が出来ぬ仕儀となったから、やむをえず失敬して両足を前へ存分のして、首を低く押し出してあーあと大なる欠伸をした。さてこうなると大人しくしていても仕方がない。 
  
 すると主人は失望と怒りを掻き交ぜた様な声をして、座敷の中から「この馬鹿野郎」と怒鳴った。この主人は人を罵るときは必ず馬鹿野郎というのが癖である。外に悪口の言い様を知らないのだから仕方がないが、今まで辛棒した人の気も知らないで、無暗に馬鹿野郎とは失敬だと思う。
 それも平生吾輩が彼の背中へ乗る時に少しは好い顔でもするのならこの漫罵も甘んじて受けるが…     〕

     ( 夏目漱石 『吾輩は猫である』 )

アムステルダムの猫

2008年09月08日 | ほん
[ 海洋博物館に行った。
 受付に猫がいた。
 台上にねそべっている。黒っぽいシマ猫で、巻貝を置いたような形でうずくまり、まぶたを持ちあげて私どもを見たが、すぐ閉じた。
 この光景は、猫がつねに船乗りとともにあったことを象徴している。
 十七世紀のオランダの大航海時代には、この国の猫も地球のあちこちに行っていた。猫がいなければ航海がなりたたないといっていいほど、当時の船にはネズミが多かった。

 ヤマネコはべつとして、イエネコがヨーロッパにやってきたのは八世紀だそうである。自信のない想像だが、アラビア人による地中海貿易と関係があるのではないか。アラビアは猫を飼うことの先進国なのである。
 日本に猫(ヤマネコでなく)がきたのは、伝説では仏教伝来のときとされている。仏教伝来は、通説では五五二年である。日本の船に経巻を積むとき、ネズミに食いあらされないように、という配慮からだったといわれる。
 とすれば、猫は遠洋航海につきものだったといっていい。
 ついでながら、猫を飼う習慣の起源ははるか前のエジプトにあるようで、中国にもたらされたのも、遠い古代ではない。古くはと書いた。古代は、田にはびこるネズミをとらせるために“”を飼ったらしい。 ]

   (司馬遼太郎 『街道をゆく三十五・オランダ紀行』 より)

碌山美術館

2008年05月20日 | ほん
 きのうのこと。3冊の本を持ってコーヒーショップへ。3冊の本とは__
  ①『日本橋異聞』 荒俣宏著 (書店で買ったもの)
  ②『旧石器の狩人』 藤森栄一著 (図書館で借りたもの)
  ③『スワンソング』 大崎善生著 (同じく図書館で借りた)


 僕はこのように3冊くらいの本を持ってコーヒーショップに入るのが好きだ。どれを読むかは決めていない。

 ①『日本橋異聞』を買ったのは、日本橋(本所深川)に興味があるので。
 僕はTBSラジオをよく聞くが、木曜深夜のおぎやはぎの深夜放送もわりとよく聞いている。とりわけおもしろいのは、小木の嫁の霊感力の話。ご存知と思うが、小木サンの嫁さんは歌手森山良子の娘である。ナホというこの娘が、どうも霊感力が強いらしく、いろんなものが見えたり聞こえたりするらしい。夜に寝ているとポルターガイスト現象が起きるらしい。はじめはこの嫁だけが聞こえていたのが、そのうち一緒に寝ている小木サンにも、となりや階下の部屋から、ラップ音など霊が騒ぐのが聞こえるようになったという。はじめは「怖い」とおもっていた小木サンだが、毎日のことなので段々と慣れてきて、ある日、あんまりラップ音がやかましいので小木サン、「うるさーい! 何時だと思っているんだ!!」と大声で一喝したら、とたんに騒霊がやんだという。そういう具合に霊感の強い小木氏の嫁サンであるが、彼女が最も会いたい有名人というのが、荒俣宏なのだという。(←爆笑)
 荒俣宏氏の書いたこの本によると、『四谷怪談』というのは、四谷ではなくて、「深川」を舞台にした物語なのだそうだ。
 荒俣さんは、杉浦日向子(江戸風俗にくわしい漫画家、故人)と突然結婚して世間を驚かせたことがある。美女と妖怪、と僕らは思った。ところが、結婚して一週間でこの二人はわかれたらしい。

 ②『旧石器の狩人』、この本は3週間前に借りて、とても面白いので、期限を延長して借りてじっくり読んでいる。著者の藤森さんは長野県諏訪市生まれの人で、この本は諏訪湖の湖底にある「曽根遺跡」の謎の解明について書かれている。その中に、前に僕が書いた、相沢忠洋さんの「岩宿遺跡の発見」のことにも触れられている。

 ③『スワンソング』…これは大崎善生さんの小説だが、僕は初めて手にとった。これを借りたのは、別のある本に「藻岩山」という札幌にあるらしき山が出てきて、「藻岩山…どこかで聞いたことがあるな…大崎さんの小説じゃなかったかなあ…」と思って、図書館で大崎善生の本をざっと眺めてみたが、藻岩山の件はわからず、その時に『スワンソング』を、これはまだ読んでいない、と借りてきたというわけ。

 ところで、そのきっかけになった「ある本」というのが、三浦綾子著『道ありき』。そう、このブログの中で星野道弘さんについて書いたときに(→「水草」)、三浦綾子が出てきたので読んでみようと思ったのだった。『道ありき』は、三浦さんが20代のときの闘病生活を描いたものである。この時三浦綾子さんが入院していた病院から、「藻岩山」が見えたと書いてあったのである。この本は、彼女をふかく信仰に導いてくれた恋人が死に、その後、その恋人とそっくりな男性が現われて(三浦光世氏)、その男性と結婚するところまでを書いている。
 その『道ありき』を読んでその後、その続編である『この土の器をも』を読んだ。三浦綾子自伝「結婚編」である。
 三浦綾子さんは、ただの主婦(小さな雑貨屋もやっていた)だったが、『氷点』を書いて1000万円の賞金を得て、作家になった。当時の1000万円は今でいうと1億円ほどに相当するビッグな賞金である。その頃の生活が描かれているのがこの『この土の器をも』なのである。さて、この本の書き出し__、最初の1行目はこうなっている。

 〔青春とは自己鍛錬による、自己発見の時だと、臼井吉見氏は言っておられる。〕

 臼井吉見! うすい、よしみ!
 うおっ、またまた出たか…。 小説『安曇野』の作者である。(←何度も書いて恐縮だ)
 この『この土の器をも』を読んでわかったのだが、臼井吉見氏は、三浦綾子が大賞に選ばれたその朝日新聞の賞金1000万円の小説新人賞の審査員の一人なのだった。
 (それにしても、いきなり1行目から出てくるとは…!)

 というわけで、今回のブログ記事は、<安曇野偶然シリーズ>なのであります。(そんなシリーズ作った覚えはないのだがなあ。)

 さーて、それでは大崎善生『スワンソング』のこと。
 またまた出ました、偶然マジック!
 この小説、冒頭の場面は諏訪市の「諏訪湖」から始まるのである! そう、『旧石器の狩人』のテーマである、「諏訪湖」である! そして読みすすめると、やはり、安曇野も出てくるし、ユーミンの「中央フリーウェイ」も出てくるではないか! しかも主人公の恋人は「鬱病」で、そのために病院めぐりをしているシーンなのだった。
 (おいおいおい、なんじゃこりゃ)
 それにしてもこの偶然にはあきれてしまう…。

 この本を僕は3時間で読んだ。内容は「恋愛と死と憂鬱」という、いつもの大崎調。主人公の男は、二人の女性と恋愛する。はじめの女性と別れ、べつの女性と恋をする。この後のほうの女性が諏訪市の生まれなのだった。
 そして(やっぱり)その二人とも死んでゆく。(大崎小説では定跡手順だ。) 一人は自殺、もう一人は(主人公とわかれたずっと後に)ガンで。はじめから終わりまでほぼ全編、「ゆううつ」に包まれている小説だ。
 もし諏訪や安曇野という僕にとっての「偶然」がなかったら、このようなウツウツとした小説など、10分読んでやめていただろう。
 大崎善生氏の小説に限らず、恋愛が小説になる場合、恋愛のウキウキした部分は描かれず、うっとおしい部分が主に描かれる場合がほとんどだ。きっとそういうのが、読者に求められているんだろう。恋愛小説好きというのは、実は「ゆううつ」好きな人々なのではないか。というか、「ゆううつ」を抱えて生きている大人が世の中に多いってことだろう。

 『スワンソング』は、まあ、そういう憂鬱な話だ。
 その憂鬱も、少し「明るい兆し」が見える場面が最後のほうで描かれている。そのシーンは、主人公がある美術館のベンチに座っているシーンである。この美術館というのが、(なんと!)安曇野にある「碌山美術館」なのである!(ろくざんびじゅつかん、とよむ)

 なぜ、僕は驚いているのか。
 「碌山美術館」とは、萩原碌山(守衛)の美術館であり、碌山=萩原守衛(ろくざん、おぎわらもりえ)は安曇野出身の芸術家で、小説『安曇野』の主人公の一人なのである。



 相馬黒光(そうまこっこう)が、安曇野の相馬愛蔵の元へ嫁いで来たところから小説『安曇野』は始まる。黒光が嫁入り時に持っていったものの一つに一枚の画がある。それが『亀戸風景』(長尾杢太郎作)という絵画作品で、萩原守衛は、その絵を見てショックを受ける。そして、芸術家への道を進むことになる。その後、萩原守衛は、ヨーロッパへ行き絵の修行をし、そこでロダンの彫刻、とくに『考える人』に感動し、彫刻を始める。日本へ帰り、相馬夫妻のパン屋「新宿中村屋」に住み込み、芸術活動を行う。そしてその場所で、ある日、喀血し、この世を去る。30歳であった。
 碌山(萩原守衛)の代表作は『女』という彫刻作品だが、このモデルは、相馬黒光である。萩原守衛は、黒光が安曇野へ来たときから、ずっと彼女のことを慕っていたようで、人妻である黒光に結婚(つまりダンナとわかれて俺と結婚してくれ)をせまっている。そうした萩原守衛の生涯が臼井吉見の『安曇野』に描かれている。傑作といわれるその『女』を僕も見てみたいのだが、たぶん、「碌山美術館」に行けば見られるのだと思う。
 相馬黒光という女性は、「芸術家を刺激するなにか」を持っていたのだと思われる。「刺激」とは、恋であり、狂気である。芸術家という人々は、平凡をつきやぶるような狂気を求めているところがある。萩原守衛の友人高村光太郎は、彼を死に至らしめたのは黒光であると、相馬黒光のことをひどく嫌っていたという。そのことも『安曇野』に書かれている。
 萩原守衛が死んだのは、明治43年4月。萩原は、新宿中村屋の裏庭にアトリエを建設中だった。ここに友人の中村彝(なかむらつね)を呼んでともに芸術活動に励む予定であった。大正時代に入って、このアトリエに、インド革命家R・B・ボース(のちに相馬夫妻の長女俊子と結婚)を匿うことになる。
 明治43年4月(1910年)といえば、ハレー彗星が夜空に見えていた頃である。その年の8月には関東は大雨となり、利根川も、多摩川も氾濫した。岡本一平が多摩川を渡ってかの子に求婚したのが、この時である。そしてこの時期、70歳の川の聖・田中正造は、利根川一帯の治水について調べていた。
  あ、そうだ、荒俣宏『日本橋異聞』には、高村光太郎は明治43~44年に、日本橋に住んでいたと書いてある。それは、荻原守衛が死んだ後…かな?


 上の写真は僕が20数年前に撮ったらしいもの。写っている(マンガ化している)のは僕で、どうやら穂高駅前らしい。確かに上高地には行ったことがあるが、この写真を撮ったことは覚えていない。この写真が出てきたのは、今年の1月に、「与論島の孵化したウミガメの写真」をさがしていた時である。その時に、気がついた! この写真の中に、「碌山美術館」という案内板が写っているではないか!
 僕は碌山美術館に行ったことがない。なにしろ萩原碌山という人物を、僕は1年前でさえまだ、知らなかったわけだから。なのに、偶々(たまたま)、20数年前に僕はこの案内板と一緒に並んで写真に写っていたというわけだ。

 ジンセイって、ふしぎだなあ…。
 僕は、ジグソーパズルでも、やっているのだろうか。


 ところで、この写真の案内板の「碌山美術館」の下には、「井口喜源治記念館」というのがみえる。この井口喜源治という人も、『安曇野』の主人公のうちの一人で、教育者だそうである。