はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

押川春浪 『海島冒険奇譚 海底軍艦』

2009年11月28日 | はなし
 この絵は東宝映画『海底軍艦』(1963年)より。 映画のこの「海底軍艦」は「轟天号(ごうてんごう)」と命名され、空を飛ぶこともできるし土中を進むこともできる万能巨大兵器である。デザインは小松崎茂


 さて、僕がこの稿で述べたいのは、その原作の『海島冒険奇譚 海底軍艦』のほうで、これが書かれたのは1900年。
 こっちは空は飛ばない。 「潜水艦」であることが、最新未来兵器だった時代、である。
 1900年といえば、まだ日露戦争も始まっていないし、夏目漱石もまだ小説を書いていない。日本にはまだ潜水艦などないし、ディーゼルエンジンもないし、ラジオもない。ライト兄弟はまだ世界初の飛行テストを行っていない。ラザフォードの「原子核の発見」も10年あとだ。
 映画のほうはといえば、1960年代だから、すでに“原子力”というものが厳然として在り、日本は敗戦の苦しみを経験している。
 つまりこのように、映画版と原作小説とでは時代状況がまったくちがう。だから内容もまた、まったく別のものであることをまず記しておく。 映画『海底軍艦』は、原作のタイトルと潜水艦のイメージだけを借りてつくったべつの物語なのである。


 押川春浪(おしかわしゅんろう)が『海島冒険奇譚 海底軍艦』の作者である。

 この話は、伊太利亜(イタリア)から始まる。 主人公は柳川という男(私)で世界一周の旅の途中、イタリアで旧友と偶然に会う。その旧友の妻と息子(日出男少年)が、母子だけで日本に帰国するという。主人公柳川も同じ汽船に乗って日本に帰るところだったので、柳川は友人に頼まれてその母子と船の旅を共にすることになる。
 ところが出港前、白髪の老女がなぜか「今夜は不吉な夜だから行くのをやめよ」と泣く…。

 船(弦月丸、げんげつまる)は、イタリアを出発。 地中海からスエズ運河を通り、紅海、そしてインド洋へ。
 そこで謎の怪しい船‘海蛇丸(かいだまる)’におそわれる。
 弦月丸は沈没――!!

 いろいろあって、柳川と日出男少年は二人で海を漂流、その後無人島に漂着。
 インド洋に浮かぶその無人島は、なんと日本の秘密海軍基地だった!!


 そこで建造中だったのが、「海底軍艦」だったのである。この小説中では、“電光艇”と名付けている。

 この「海底軍艦 電光艇」の動力源はなんだろうか?

 〔「此倉庫には前申した、海底戦闘艇の動力の原因となるべき重要の化学薬液が、十二の樽に満されて納められているのです。実に此薬液こそ、海底戦闘艇の生命ともいうべき物です。」〕

 なるほど、「12の化学薬液」が「海底軍艦」の秘密の動力源なのだ!!




 押川春浪は、1876年愛媛県松山市生まれ。(つまり正岡子規や秋山真之と同じだ。)
 彼の「年譜」がべらぼうに面白いので、その一部を以下に書き出してみる。


 明治二十三年(1890) 14歳
  上京して明治学院に入る。勉強はそっちのけで野球に熱中したので、父は目のとどく東北学院普通部に転校させた。 (中略)  ミッション・スクールの洋風な点が性に合わず、西洋人の教師と大喧嘩したり、犬を殺して教室のストーブで煮て食べたり、長髪の同級生の髪に石油をかけて放火したりしたため、父の厳命で北海道に渡った。札幌農学校の入試に落ち、私費で同校の実習科に入学。原野を開拓するつもりだったが、いたるところ大木の林の一本一本を手作業で切る手間にうんざりして上京、水産講習所に入所。南氷洋で捕鯨事業にたずさわる夢があったが、次第に鯨の数も減少し、容易に捕らえることができないと知ると、それも嫌になった。(以下略)

 明治三十一年(1898) 22歳
  七月、東京専門学校(いまの早稲田大学)英文科卒業、引きつづき政治科に入学。この頃、借馬にまたがって意気揚々と神楽坂をのぼって交番近くまできたところ、馬が突然暴れ、とっさの気転で交番へ乗り入れた。内部は目茶苦茶になったが、巡査の力で馬をとめることができた。また、寄宿舎の屋根にとまっていた山鳩を、柔道三段の山田敬行と二人で鉄砲で撃ち落したのを渡せ渡せぬと争って舎監にしかられると、逆に舎監にくってかかり、逃げ出した舎監に向かって…(以下略)

 明治三十三年(1900) 24歳
  処女作『海島冒険奇譚海底軍艦』を執筆。 認められ、文武堂より出版。



 どうです? ‘たいへんな男’でしょう? (ぜったいに友達になりたくない男、であるな。)
 とほうもない豪傑であり、とほうもない駄目人間である。
 押川春浪、どうやら実際に外国には行ったことがないようだ。 その後もずっとこのような冒険小説を書いたが、やはり一番面白いのがこの処女作の『海底軍艦』のようだ。 1916年、38歳没。

 古典SF研究家横田順彌氏は、「押川春浪『海底軍艦』こそ、日本のSFのルーツである」としている。 ‘日本のSFは海底軍艦からはじまる’というわけだ。
 押川春浪がこれを執筆し始めた時、「デュマのような面白いものを」という意識があったらしい。「デュマ」とは、19世紀フランスの作家アレクサンドル・デュマのことで、『三銃士』『モンテ・クリスト伯』などが代表作。ジュール・ベルヌは若い時にこのデュマの下で学んだことがある。


 ところで、押川春浪『海底軍艦』には、「竜」とか怪物とかは出ません。 敵は、‘国籍不明’のなぞの海賊組織です。
 日本帝国海軍と海賊軍は、インド洋にて大決戦! 7隻の海賊船団はいずれも撃沈! しかしその正体にはなにも触れず…。(それでいいのか? だいたい「海蛇丸」って日本語なのでは…??)
 まあとにかく、大勝利した船団は意気揚々と日本へ向かう…。
 そしてこの物語の最後は、
 〔…右手に高く兜形の帽子を揚げて、今一度、諸君と共に大日本帝国万歳! 帝国海軍万歳を三呼しましょう。〕
 と、締めくくられている。
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伊号潜水艦

2009年11月24日 | はなし
 日本の潜水艦は「伊号第1潜水艦」からはじまるようだ。 これは第一次世界大戦末期にドイツで製造中だった最新型の「U142型」の設計図を日本が手に入れて、ほぼその設計図どおりに造られたものらしい。主要部品もほとんどドイツ製。1923年着工、24年進水、26年竣工。


 いま、僕は、映画『ローレライ』を観ながらこれを書いているが、これは第二次世界大戦末期の話で、ドイツ製の「伊号第57潜水艦」がその主役として登場する。 ただしこれはフィクションであるし、どうやら「伊号第57潜水艦」なるものは現実には存在しなかったようだ。 (ただし、「伊号第58潜水艦」は存在し働いた。)


 潜水艦の発想は数千年前の昔からあったようだが、なかなか実用化はむつかしかった。19世紀においてさえ、潜水艦の動力は、「手動」であった。 海上の船とちがって「空気の問題」があって、蒸気機関をそのまま使うわけにはいかなかったからだ。(『海底二万マイル』のノーチラス号はネモ船長発明の新電池だったわけだが。)
 それは当然で、蒸気機関は(SLを見ればわかるように)大量に「空気」が必要だし、「排気ガス」も捨てなければいけないが、それを海中にボコボコ出していたら、敵に居場所を知らせるようなもので、それでは潜水艦の意味がない。
 Wikipediaによれば、「内燃機関を搭載した最初の潜水艦は、1900年に米国で建造されたホーランド潜水艦(水中排水量74t)である」ということである。そしてその後、潜水艦を大きく発達させたのはドイツである。第一次世界大戦後、世界各国は敗戦国ドイツの潜水艦を手に入れ、その技術を吸収した。日本もそれに遅れまいと機敏に動きドイツ潜水艦「U142型」の設計図を入手したわけである。
 19世紀後半から20世紀前半にかけて、ドイツの「技術」は多くの面でたしかに世界トップにあったように思われる。(たとえば鉛筆がそうだった。)

 とはいえ、当時の潜水艦は基本的には海上を進み、潜る時にはディーゼルエンジンは停止して電気に切り替える。ディーゼルだってやっぱり「酸素」を必要とするし「排気ガス」も出るからだ。
 つまり、(ノーチラス号のように)海の中を自由にすいすい、というわけにはいかない。 「潜ることもできる戦艦」というのがほんとうの姿だろう。


 さて、現代の潜水艦は無限に(ほんとうの無限ではないとしても)潜っていられると聞いたが、「空気の問題」はどう解決しているのだろうか?


 (追記: 『ローレライ』の潜水艦は、「伊507」でした。)


追追記: 大きなまちがいを書いてしまったようです。どうやら日本初の潜水艦は1905年にアメリカから分解輸入した「第一潜水艦」が正しいようです。
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『大野の振飛車』

2009年11月22日 | しょうぎ
 『大野の振飛車』 大野源一著 弘文社 
 表紙をよく見ると「‘振飛車’を売りにしている本なのに、表紙の図は居飛車じゃん!」というツッコミがまずできます。悪型だし。なんでこんな図にしたのでしょうか?


 今週の『週刊将棋』新聞に、「棋士・この一冊」のコーナーで久保利明棋王がこの本を採り上げていました。僕は「おお! おれも持っているぜ!」と嬉しくなったのでここに書くことにしました。
 しかも僕のは「表紙カバー付き」です! 久保さんの本はどうやらカバーがないようです。(←小っちゃ~な優越感)
 久保棋王、この本を小2のときに父に買ってもらい、何度もこの中の将棋を並べたそうです。
 僕は高校時代に将棋にはまり、将棋の本は30冊くらい買ったでしょうか。でもその後将棋から離れ、そのうちの7、8冊程を残してあとは処分したのですが(今は後悔しています)、その7、8冊の中にこの本『大野の振飛車』があったというわけです。これは捨てたらソンだ、というカンが働いたんですね。


 大野源一九段
 1911年(明治44年)東京生まれ、1979年没。タイトルは獲っていないがA級で16期活躍した華のある棋士である。その振り飛車のサバキは天才と呼ばれた。木見金次郎門下で、升田幸三、大山康晴の兄弟子として有名である。


 それではその中身をすこしご紹介しましょう。
 大野源一VS升田幸三戦から。
 対局日は昭和38年2月28日。大野52歳、升田45歳。A級順位戦です。

 〔 私は元来口が悪く、のちに名人になった二人をつかまえ、お前の将棋は弱い、ものにならんから荷物をまとめ、田舎に帰れとか、お前は馬鹿だとかよく言ったが、非凡な二人はその間に私の弱点をみつけ、晩年私に容易に勝たせてくれなかった。特に升田は、私の棋界随一のニガ手である。 〕

 序盤。後手番大野は3二飛と三間飛車。升田は5七銀左の急戦。


41手目▲3五歩まで

      △3五同歩  ▲同 飛 △4五歩  ▲3七桂 △4六歩  
 ▲同 銀 △4四金  ▲3三飛成 △同 桂  ▲5七銀左 △5五歩
 ▲4二角 △3六歩  ▲5一角成 △同 金

 
 大野は4三金と左金をあがり、5二飛と中飛車に。升田は3八飛から攻めをねらう。
 升田は▲3五歩から開戦。
 大野、△4五歩。振飛車らしい反撃。
 升田、3三飛成。飛車を切って攻める。



56手目△5一同金まで

 ▲3一飛 △6二角  ▲3三飛成 △3七歩成 ▲同 龍 △4五桂
 ▲3九龍 △5七桂成 ▲同 銀 △2六飛  ▲5五歩 △5六歩
 ▲6六銀 △2七飛成 ▲8六桂 △5三角  ▲7七桂 △4五金
 ▲4九龍 △4六銀  ▲5四歩 △3五角  ▲4七歩 △5五銀引
 ▲同 銀 △同 金  ▲7四桂打 △同 歩  ▲同 桂 △9二玉
 ▲8五桂 △7一銀

 升田は攻める――と思いきや、受けにまわる。

 〔 ▲3七同竜と引いたあたり、むかしの彼の粘り強い棋風が十分によみがえっている。 升田の棋風は、内弟子時代に、私の攻めに対抗するため、非常に粘り強い受けの棋風になったが、最近は卓越する実力により、本来の豪放な攻めに戻ったようである。〕

 〔 ▲3九龍は升田特有の粘い手で、こういう場合、力に自信のない人は、ほとんど3一竜ととびこむのである。 しかし升田は、竜を受けに使って粘る。私はこれまで、升田のこの粘りに何度も、好局を落としている。 〕


88手目△7一銀まで

 ▲3九龍 △6八角成 ▲同 金 △5七歩成 ▲同 金 △6五桂
 ▲5八金 △2六龍  ▲4四角 △7六龍  ▲7七歩 △7四龍
 ▲7一角成 △6一金打 ▲8二銀

 ここでは大野優勢。△6八角成から決めにでる。
 しかし升田も▲4四角から反撃。
 だがそれも大野源一の読み筋。 升田の▲7一角成に対し、△6一金「打」としたのが読みの入った手だった。



103手▲8二銀まで

       △7一金  ▲同銀不成 △8二桂  ▲3一龍 △6一金
 ▲6二銀打 △同 金  ▲同銀成 △9五角  ▲6八金打 △6二角
 ▲1一龍 △5七歩  ▲5九金 △8五龍  ▲1二龍 △7五桂
 ▲9八金 △5六金  ▲6二龍 △6七桂成 ▲同 金 △同 金
 ▲同 玉 △6六銀  ▲同 玉 △7五龍
                        まで130手で後手の勝ち

 升田、食いつくが、△9五角と攻防の好手があって勝負は決した。
 (それにしても升田さんの▲9八金は、ひどい手だ…。)


投了図

 大野源一の勝ち。「ニガ手の弟弟子」升田からA級順位戦でのうれしい1勝である。

 升田幸三はこの対局に負けたが、この期は8勝2敗で名人戦挑戦者になった。しかし升田の大山康晴名人との名人戦は、弟弟子の大山が4-1で防衛。大山名人最強の時代であった。
 強烈な個性をもつ大阪・木見門下の三兄弟――。 昭和の「振り飛車ブーム」は彼ら三人が中心となって巻き起こした大竜巻であった。 今はみな、故人である。



本の紹介ついでに、これは児玉孝一著『カニカニ銀』
 クラムボンはカプカプ笑ったよ―――、あれれ?



 将棋とまったく関係ないですが、先々週金曜ロードショウでやっていた映画『舞妓Haaaan!!!』の録画を昨日、観ました。 大爆笑。おもしろかった~。 こういう日本の「笑い」が世界で受け入れられる日がいつか来るのでしょうか?
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ノーチラス号は電池で動くの~♪

2009年11月18日 | ほん
 イギリスのチャレンジャー号(深海探査船)のことを書いたので、それでは海の底へ潜る旅にでかけよう…ということで、『海底二万マイル』である。作者はフランスの作家ジュール・ベルヌ

 上の画はノーチラス号。 これは1954年公開の映画を観て。この映画はディズニーの最初の長編映画である。
 ベルヌがこの世界中の海底を潜水艦で大冒険するこのダイナミックな小説を書いたのは、1870年。 世界の深海を調べてまわるというチャレンジャー号探検の出発は1872年。 「深海」という未知の世界への空想の飛翔――ジュール・ベルヌの夢想と、イギリスの学者達の壮大な探査計画とが、ほぼ同じ時期に重なっていることを、僕はたいへんおもしろいと思うのである。 両者の共通項は‘科学’である。


 この最新の潜水艦ノーチラス号の船長はネモ船長だ。 「ネモ」と名乗ったその男は、国籍不明で大金持ちの発明家、海を愛し、陸のものは決して食さないというへんな奴である。そもそも「ネモ」というのは「だれでもない」(ラテン語)の意味なのだ。




 1867年11月8日、ノーチラス号のその旅は始まった。

 〔 …船長はふたたび言った。「パリの子午線で東経137.15度、北緯は30.7度、すなわち日本の海岸から約50キロほどのところです。本日、11月8日の正午より、われわれの海底探検旅行は、はじまります。」 〕


 1867年といえば、日本では幕末である。(坂本龍馬が暗殺されたのがこの年だ。)
 その日本の近海がこの旅の出発点となっている。


 ノーチラス号は、太平洋の海の底を泳ぎ、サメの群れに会い、オーストラリアでは珊瑚、インド洋セイロン島では真珠を観る。そして紅海に…。


 この小説には、ノーチラス号の旅の地図が付いている。 それによれば、この潜水艦は1868年2月にインド洋から紅海に入りそこから地中海へと進んでいる。 …あれ? するとスエズ運河を通ったわけ? いやそうではない。 というかそもそも1868年にはスエズ運河はまだ工事途中で未完成なのである。ではノーチラス号はどうやって地中海へ行ったのか? 実はネモ船長はここを抜ける秘密のトンネルを海底に見つけていたのだ!


 さらにこの鉄製巨大オウム貝(ノーチラス号のことだ)の旅は続く。
 スペイン沖で沈没船の財宝を見つけ、そこから南下して南極をめざす。途中マッコウクジラに会い、南極大陸の地を踏みアザラシやセイウチと遊び、氷に閉じ込められるという絶体絶命のピンチを切り抜けたあとは、大西洋を北上…。 そして――カリブ海。


 〔 4月18日、約50キロをへだてて、マルティニーク島とグアドループ島とが見えた。ちらっとわたしは、それらの島々の高峰を望んだのである。 〕

 そしてその2日後に、ノーチラス号の旅のクライマックス、あの大ダコとの闘いになるのである。
 

 〔 4月20日のこの恐ろしい光景を、われわれはだれしも、忘れてしまうことはできなかったろう。わたしはこれを、はげしい感動をもって書いた。 〕


 巨大潜水艦の物語といえば、欠かせないのがこの「大ダコとの闘い」のシーンである。(ただし、映画版ではイカだった。なぜだろう?)
 その原型はここにあるわけだが、なぜベルヌはこれを思いついたのか? 
 おそらくは、ジュール・ベルヌはそういう『絵』をどこかで観ていたのだ。どうやら船が巨大なタコに襲われて沈んだという話はむかしからあり、そういう伝説が『絵』になっているのを彼ベルヌは子どもの頃にみていたようである。

 そして上にあるように、ノーチラス号と大ダコの闘いの場所というのは、あのマルティニーク島の近海だったのである。
 マルティニーク島については、このブログではすこし書いた。 ラフカディオ・ハーンが興味をもって訪れ(1887~1889年)、画家ゴーギャンがスケッチに行き(1889年)、「クーロンの法則」の発見者シャルル・ド・クーロンが軍人として赴任した(1760年代)というフランス領の小さな島である。 この島は、火山の爆発とラム酒でも有名なようだ。


 ノーチラス号はメキシコ湾流にのって北海にすすみ、ノルウェーの大渦「メールストルム」に捕まる。それは捕まったらゼッタイに脱出不可能な伝説の大渦巻きなのだ!!
 この「メールストルム」のアイデアは、エドガー・アラン・ポーの小説『メールシュトレームに呑まれて』によるものである。

 そしてこの海底の壮大な20000マイルの旅はついにここで終焉をむかえる。

 だが、この物語を記した「わたし」たちは、たすかる。どうやってたすかったのか、それはわからない。
 気がつくと、自分達は生きていて、しかし、ノーチラス号とネモ船長はどうなったか、だれも知らない。 まるで海底の旅は、夢だったかのように…すべては記憶の中にのみ…。
 そして玉手箱を開けると中から煙が出てきて白髪に… え?




 さて、続けて、ノーチラス号の動力源(電池である!)の話を書こうと思っていたのだが…、すでにずいぶん長文になってしまったので、ここまででやめておこう。




[追記]  原題では『海底二万マイル』ではなくて「二万リュー」だそうです。「リュー」(フランス語)って距離の単位は英語では「リーグ」、これは「マイル」の約3倍の距離で、約5.5キロほど。ですから原題にしたがうと正しくは『海底11万キロメートル』となるはずのところ。つまり『海底二万マイル』の日本版の題名では、距離的にでたらめになっているようです。いつのまにかそれが定着してしまい、「間違っているけど、ま、いいか、」ということでしょうね。
 「11万キロメートル」というのは、地球の直径がおおよそ13万キロなので、そうとうな距離ですが、もちろんこれは海の深さではありません。ノーチラス号の、日本近海からノルウェー沖までの推進距離です。(でも本の地図をみると11万キロよりもっと長い気がするのですけど。)

[さらに追記]  ↑ まちがい!  地球の直径は「13万キロ」ではなく、「1.3万キロ」でした!
 そうするとノーチラス号の旅「11万キロ」は、地球を約3周ほどの距離となります。 (いやいや、恥ずかしい間違いでした。)  
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ノーチラス号(書きかけ記事)

2009年11月17日 | はなし
ノーチラス号とは?

  19世紀にネモ船長がつくった潜水艦。(上の絵は映画版より)
 

では、その動力源は? 

  んー、んー、なんだっけ…??


 というわけで、『海底二万マイル』(ジュール・ベルヌ作)を借りてきた。

 きっと「蒸気力」だろうと思っていたら、違った。 「電池」だった!!
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カギムシと「モーズリーの法則」

2009年11月08日 | はなし
 カギムシ、という。
 この生物は日本ではお目にかかれない。ミミズに足がはえたような妙な生物らしい。南半球にいるらしい。
 この生物はどうやら「生きた化石」であるらしい。進化のカギを握り、太古の姿のままでその姿を保存してきた。 (だから日本名が「カギムシ」なのか…それはどうだろう? 興味のある方は自分で調べてください。)

 カギムシの参考ブログ → http://umafan.blog72.fc2.com/blog-entry-740.html
              http://ameblo.jp/oldworld/entry-10005755849.html

 上の絵は、深海探査船チャレンジャー号の調査に参加したヘンリー・ノティッジ・モーズリーがケープタウン(南アフリカ)で見つけ研究したもので、ケープカギムシ(和名)である。この時のものは体長8cmだった。

 このH・N・モーズリー(モーズレーと表記されることもある)ももちろん日本にやってきたことになるが(1875年)、彼らは神戸港に船を停泊した時、人力車に乗って京都まで行っている。 そしてこのモーズリーは京都で仲間とわかれ、単独で陸路東海道を旅している。あとで横浜で合流してチャレンジャー号に乗ることになるのだが、その東海道の旅路でモーズリーがおおいに感心したのが、同行した「田中」という名の書生だった。気の利くさっぱりした男で、夕方旅館に着くと、その日にあった体験などを俳句に読んでさらさらと帳面に筆記するのだった。モーズリーの目にはそれがとてもかっこよく映ったのだった。



 さて、すでに前回記事に書いたことの繰り返しになるが、このH・N・モーズリーはイギリスに帰ってこのチャレンジャー号体験を『チャレンジャー号上の一博物学者の記録』として本にした。そして1891年帰らぬ人となる。
 その時に3歳だった息子が、後に物理学者となり、「モーズリーの法則」を発見し、科学史に大きな貢献をすることになる。 名前は、ヘンリー・グウィン・ジェフリーズ・モーズリーである。


 20世紀の初頭――。 アルゴンやネオンなど希ガスの発見。 キュリー夫人のポロニウム、ラジウムの発見。「新元素」が次々と現われ、メンデレーエフの周期律表の大部分が埋まってきた。 そうなると、残りの空白を埋める「新元素」を発見したいと化学者たちが考えるのは当然の成り行きといえた。
 しかし、だれかが「新元素を発見しました!」と言っても、それが正しいのかどうか、それを判定するのがまた難しい。フクザツに混じり合っている物質の中から「それ」だけを分離し、性質を調べ、重量を測る――しかし、そのような新元素は元々微量にしかないものだから(それで発見に苦労しているのだから!)、スペクトルを調べるほどの量もとりだせないのだった。
 なにか他にそれが何の元素であるか調べる便利な方法がないものか――。

 あったのである。
 それが「モーズリーの法則」である。


 物質にエネルギーをあたえると「励起状態」というものになる。これは「反応しやすい状態」のことだが、その時にその物質の「電子」が軌道を移動しやすい状態になる。その「電子」がの軌道から軌道に移動するとき、その物質に特有の周波数の「X線」が発生することがわかってきた。それを「特性X線」というのだが、モーズリーはそれを研究した。そして直感と粘り強い研究の成果が「モーズリーの法則」という関係式となって表れたのだった。


 この「モーズリーの法則」によって、「特性X線」の波長さえ調べればその物質の原子番号が判る、ようになったのだ!


 つまり物質が発する‘特性X線’の波長は、「私の原子番号は○○です」と自己申告してくれているようなものだった。 (もっとも、私たちが今使っている「原子番号」というものは当時の化学の世界にはなく、これより50年後に正式に採用されたらしい。)
 「モーズリーの法則」は、混乱していた物理・化学の世界を整理するのに多大な貢献となった。これを使えばその物質が何であるかを確認するための様々な分析作業がすべて省けるのである。
 H・G・J・モーズリーがこの法則を発見したのは1913年、弱冠26歳の時である。 これはノーベル賞級の発見であったが、ノーベル賞委員会もそれは認めつつ、しかしまだ発表されたばかりであったし、それに若いモーズリーにはまだ未来がある。モーズリーほどの優秀な物理学者ならさらに重要な発見をする可能性もある。そう、いつだってノーベル賞は授与できるのだし、と思っていたようだ。
 ――ところが、そうではなかった。 翌年、モーズリーは死んでしまう。

 モーズリー自身は、自分の発見した法則を使えば、まだ発見されていない「新元素」が発見できると意欲を燃やしていた。  いまだ未発見の元素は(これもモーズリーの法則のおかげではっきりしてきたのだが)、原子番号43、61、72、75が残っていた。


 1914年、第一次世界大戦が始まる。 彼は陸軍に志願する。
 そして27歳H・G・J・モーズリーは戦場に散った。 トルコ・ガリポリの戦い――彼の加わったイギリスの部隊は全滅だった。
 ノーベル賞委員会は彼にノーベル賞を与えておかなかったことを悔やんだという。(この賞は死者に贈ることはできないのだ。)


 モーズリーの戦死の報を聞き、彼の物理学の師であったアーネスト・ラザフォードは、大声を出して泣いたという。
 3歳の時に父を亡くしたH・G・J・モーズリーと、A・ラザフォードの関係は仲の良い父子のような関係だったかもしれない。戦争が始まったその瞬間、ラザフォードとモーズリーはイギリス科学振興協会の会議のため海のむこうオーストラリアにいたのだった。
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犬吠埼灯台とチャレンジャー号

2009年11月06日 | はなし
 犬吠埼灯台は関東の最東端千葉県銚子市にある灯台です。 1874年11月初点灯。
 犬吠埼灯台を描いて、それだけでは物足らないので何か船を描こうと思い、それでチャレンジャー号を描いてみました。


 「チャレンジャー号」と聞くと、あのフロリダの空に砕けて散ったNASAのスペースシャトルを思い浮かべる人が多いだろう。でも、それではない。
 このイギリスのチャレンジャー号が日本にやってきたのは1875年4月のことで、今から134年前のことになる。(つまり犬吠埼灯台が点灯した半年後だ。) この船は、「世界の深海の生物相を調べよう!」という壮大な計画の途中、日本に立ち寄ったのである。
 先の9月、しょこたん中川翔子がしんかい6500に乗って海にもぐったらしい。僕はそのTV番組を見損ねてしまって残念に思っているが、この深海探査船チャレンジャー号は、そのしんかい6500のルーツともいえる船なのである。


 さてチャレンジャー号の色々なことは後にまわして、まず、犬吠埼灯台の話をしよう。


  いやなんです
  あなたのいってしまふのが――


 これは高村光太郎智恵子抄』のいちばん最初にある詩「人に」のその冒頭の部分である。「あなた」というのはもちろん智恵子のことで、後に光太郎と結婚し、さらには精神をくずしていく…。 そんな妻智恵子のことを詩に綴ったものを集めた本が『智恵子抄』である。
 上の「人に」の詩を書いたのは明治四十五年(1912年)七月、その場所というのが、この犬吠埼灯台のある場所なのである。この夏、二人はそこでデートをしたらしい。
 「いやなんです」というのは、この時、実家のほうから智恵子に見合いの話が来ていて、それを光太郎が気にして、「どうか見合いを断ってほしい」とお願いしているのである。なんともカッコわるい、しかし、ストレートでわかりやすい詩である。

 高村光雲の息子高村光太郎がアメリカ、ヨーロッパを旅した(アルバイトもしたようだ)のは1906年から1909年。 光太郎の芸術の友である萩原守衛(碌山)が死んだのが1910年。 そして1912年に長沼智恵子と出会う。長沼智恵子という人も芸術家で、日本女子大卒業後も実家(福島県)に帰らず画の勉強をしていたらしい。この当時28歳だった。
 この犬吠埼での二人のデートは、“写生旅行”だったようだ。


 犬吠埼に僕は行ったことがありませんが、灯台のある岬は“石切の鼻”と呼ばれ、付近には“幌掛岩”という奇怪な岩があるようです。 僕の描いたこの絵の向こう側は砂浜になっています。
 そしてこの灯台は、135年の風雪に耐えてここに立っています。
 犬吠埼灯台の施工者はリチャード・ヘンリー・ブラントン。 スコットランド(イギリス)からやって来ました。文献では彼のことはしばしば「日本の灯台の父」と紹介されています。


 11月1日は灯台記念日なのだそうです。
 それは日本ではじめて(洋式の)灯台の工事が着工された日が11月1日だったから。 日本の最初の洋式灯台は、東京湾の入り口の横須賀にある観音崎灯台で、1869年2月初点灯。 施行したのはフランス人F.L.ヴェルニー。 ただし観音崎灯台は今は3代目となっています。

 アメリカの黒船来航によって、江戸幕府は強引に「開国」をすることになり、その時に交わした条約の中に、いくつかの場所に「灯台」を造るという約束があったのです。それで江戸幕府は、洋式の灯台を建築する技術者を派遣してもらうよう、フランスとイギリスにお願いしました。フランスからやって来たのがF.L.ヴェルニーでした。
 それで、イギリスへの灯台技師派遣の話はスコットランドの「スティーブンソン兄弟社」のところに行きました。 そう、あの伝説の灯台技師ロバート・スティーブンソンの息子たちデヴィッドトマスの会社です。(このトマス・スティーブンソンの息子が作家ロバート・ルイス・スティーブンソンで、『宝島』の作者。) トマスは、日本から灯台技師を送ってほしいという願いがくると、「それならこの男がいい」といって派遣したのがスコットランド人R・H・ブラントンというわけです。
 そういうことで、ヴェルニーとブラントン、「日本の灯台の父」は、二人います。
 彼らは明治時代に日本にやってきたいわゆる「お雇い外国人」ということになりますが、それらの外国人の中でも多かったのがスコットランド人だったようです。スコットランドは技術の輸出国だったんですね。(そういえば蒸気機関の発展はスコットランドで起こりましたね。)
 
 

 さてそれでは、チャレンジャー号の話。
 
 この深海探査船の大計画の団長としてやってきたのがやはりこれもスコットランド人のチャールズ・W・トムソン。エディンバラ大学教授。エディンバラ大学がこの学問調査の中心地となったのでした。


 「海の底の生物相はいったいどうなっているのだろうか」

 それが彼らの知りたいことだった。 地中海、北海、大西洋の海を調べた彼らは深まる謎をさらに調べるために、いっそ世界中の海の深海調査をしたらどうかと考えたのである。そして、実行した。さすが19世紀の世界の海を制覇していたイギリスだからこその発想と実行力であった。

 世界の深海を調査する――その使命を担って、1872年12月イギリス・ポーツマス港を出港したチャレンジャー号は、大西洋、カリブ海を調べ、アフリカ南端ケープタウンを廻り、インド洋、南極海へ行く。 そこからオーストラリア、ニュージーランド、ニューギニア近郊の海を調査、そして次の目的地が日本であった。
 この船には軍事的な目的はまったくなかったから、日本でも歓待を受けた。1875年4月11日、東京湾入りしたチャレンジャー号は、横浜でしばし休日を過ごし、その後、相模湾、瀬戸内海、そして最後に房総半島沖を調査した。
 調査団メンバー達は日本が大変に気に入り、「ここにもう一度来たいと思わない人はいないだろう」と書いている。彼等は人力車の人夫に驚いた。どれだけ走ってもまったく疲れた様子をみせず、声をかければいつでもサワヤカに返事が返ってくるのである。
 日本での最後の調査、房総半島沖でも彼らはたくさんの収穫(生物標本)を得ることになったが、その中でももっともインパクトのあるものが、巨大ヒドロポリプの発見であった。これは2メートルを越す巨大な生物で、このように海の底はワンダーにあふれた世界だったのだ。

 そして1875年6月16日、チャレンジャー号はハワイに向けて出発したのであった。



 深海探査船チャレンジャー号がイギリスに戻りついたのは1876年5月。じつに3年半の航海であった。
 出発時、調査団、士官、一般水兵総勢243人――帰ってきた時には144人になっていた。その内6人が航海中に病気や事故で死亡、26人が不健康となって下船、そして61名の水兵が逃亡した。逃亡した水兵の多くは、南アフリカでのダイヤモンドラッシュ、オーストラリアでの金鉱ラッシュに飛びついた男達であった。


 チャレンジャー号の深海調査団のメンバーには、団長のトムソン(博物学者)の他に3名の博物学者と1名の化学者がいた。そのうちの一人は、航海中に太平洋で病気になり命を落とした。
 彼らが持ち帰った標本を記録しまとめる仕事が残っていたが、それは膨大なもので、彼らだけでは無理だった。イギリスだけでは人手が足らず他国の学者の協力も仰ぐこととなり、エディンバラ大学は海洋学の国際センターのようになった。その『チャレンジャー・レポート』が完成するまでにはなんと19年かかった。
 C・W・トムソンは、しかし、その途中で亡くなった。1882年、52歳であった。

 チャレンジャー号のメンバーの一人に博物学者ヘンリー・ノティッジ・モーズリーがいる。彼はこの海洋探検を『チャレンジャー号上の一博物学者の記録』として記し好評を得た。モーズリーがこの探検調査に参加したのは28歳の時、しかしこのモーズリーも1891年、47歳の若さで亡くなった。あとに三人の幼い子を残して。
 そのうちの一番下の子どもは、まだ3歳だったが、やがて成長して物理学者となる。オックスフォード大学を出て、さらにアーネスト・ラザフォードのもとで学び、科学史における重要な発見をする。
 それを、「モーズリーの法則」という。




 ふーッ。 書きつかれたよ…。 (なにしてんだ、オレ?)
コメント
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