はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

ケアル ―黒い破壊者―

2008年12月28日 | ほん
 ケアルである。 SFファンでありながら、ケアルを知らないなんてことはあるはずがない、ていうくらいに有名な猫型宇宙怪物、それがケアルである。
 この怪物はヴァン・ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』に登場する。この本は、僕が「SF」というものを読むようになったきっかけをつくってくれた本でもある。(そのことは、以前に述べた。)
 この『宇宙船ビーグル号の冒険』はいくつかの宇宙怪物(ベム)が登場するが、その最初に出てくるのが「ケアル」。


 〔 … 巨大な前脚がおののいて、かみそりのように鋭い爪の一本一本がむき出しになった。肩から生えた太い触手が、緊張してゆれている。猫に似た大きな顔を左右に揺ゆすると、ケアルは耳の代りにある毛のような巻きひげを必死に震わせ、…〕

 これは創元SF文庫のものから。 ところが今では早川書房からも出ていて、そっちでは「クァール」となっている。原文は「Couerl」らしいから、クァールが近いのだろうけど、昔読んだ人は皆「ケアル」で慣れ親しんできていると思う。こういう大事なところは統一してほしいものだ。「ケアル」と「クァール」では、別の生き物のように感じるよ。


〔遠い地平線のはるか上空に、一つの小さな光る点が現われたのである。その点はみるみる大きくなり、巨大な金属の球となった。超大型の、球状をした宇宙船だった。磨きあげた銀のように、光る球体は、ケアルの頭上を風を切って通過したが、減速していることがはっきりわかる。 … 〕

 これが宇宙船ビーグル号だ。科学者、軍人を1000人乗せて、宇宙探査をしている。
 ビーグル号は、下の文庫本のカバー絵を見てもわかるように、球形、つまり真ん丸のカタチをした宇宙船なのだ。


〔ケアルののどは激しいかわきに息づまり、イドの振動を発散する、このいかにも弱々しい生物たちに襲いかかって、叩きつぶしてやりたい衝動が、彼の目をくらませた。〕

 「イド(細胞原形質)」というのが、唯一のケアルの食料で、この惑星の生き物がほとんどすべて息絶えてしまったので、ケアル自身も飢えて死んでしまうところだった。そこに、宇宙船がやってきた。その宇宙船から「いかにも弱々しい生物たち」が出てきた。彼らのイドを食いたい! (ケアルの食料になるイドは殺したばかりの生物にしか存在しないのだ。)
 ケアルには知性もあった。おとなしい大きな猫のふりをして人間に近づいて宇宙船に入りこむ。
 知性があるというのは、しかし、その程度ではない。宇宙船を乗っ取って運転することだってしちゃうのだ。肩の触手で、機械の改造だってできちゃう。
 ケアルの能力はそれだけじゃない。物質の、原子の配列だって変えてしまう。壁を溶かしたり、逆に、超金属に変質させたり…。

 そんな、すご~い、黒猫ちゃんなのだ。

    

 このケアルの話が、ヴァン・ヴォークトのデビュー作にして出世作『黒い破壊者』(『Black Destroyer』)なのだ。これは<アスタウンディング・サイエンスフィクション>1939年7月号に載った。しかもこの雑誌の表紙絵もこの話を元に描かれた絵になっている。SFファンはこのかつていなかったタイプの宇宙猫に興奮し、この年、ヴォークトは人気NO.1作家となった。
 つまりケアルは、夏目漱石においての、あの「名前のない猫」のようなフシギ猫なのである。それはSF黄金期の幕開けを告げるためにやってきた宇宙怪物であった、ともいえる。
 ずっと後で、ヴォークトの宇宙怪物のこのシリーズが、『宇宙船ビーグル号の冒険』として一冊の本になった。日本語でこれが読めるようになったのは、1960年代のことになる。




 さて、野田昌宏というSF作家がいる。今年6月に74歳で死んでしまったから、いた、というべきところだが。 元々本職はTVプロデューサーで、『開けポンキッキ』を創ったのがこの人。麻生太郎現総理のいとこでもある。
 この野田昌宏さん、SFファンの間では「野田大元帥」などと呼ばれていたが、彼の書いた『スペースオペラの読み方』という本の中に、アイザック・アシモフと会った時のことが書かれているので以下に紹介しよう。


 1969年7月27日、アポロ11号によって遂に人類は月面に到達した。その時、ニューヨークの新聞紙に載ったアイザック・アシモフのコメントは次のようなものだったそうだ。
 「ゴダードよ、今、われわれは月にいる!」
 これを知ったときは涙が出そうになった、と野田さんは書いている。
 ゴダードとは、アメリカのロケットの父とよばれる人で、少年時代にウェルズのSF小説を読んでロケットを月まで飛ばすことを夢見てそれを実現することを生涯の目的とし、1926年に液体燃料によるロケットの最初の打ち上げ実験をした。わずか10数メートルの飛行だが、これが始まりだった。その後、マスコミからの批判もあったが、彼はロケット打ち上げへの情熱を失うことはなかった。しかし、宇宙への夢は実現することなく、1945年にその生涯を閉じた…ゴダードとはそういう人である。
 それで、野田昌宏さんのTV番組の制作会社テレワークが、その人類月面到達の特集番組を作ることになったとき、そのメインキャラとしてアイザック・アシモフを使いたい、と野田さんは考えたのだ。アシモフ氏との交渉の結果、その仕事の了解は得られた。
 SFの熱烈なファンでもある野田さんは、仕事とは別に、あのアシモフと会えるというだけでも感激だ。しかし…、この仕事が始まる時、制作本部長がこう言ったという。

 「アイザック・アシモフ氏は煙草が嫌いです。服に残っている煙草の煙も嫌がるそうです。スタッフ全員、明日は本番終了まで絶対禁煙を守ってもらいたい。アシモフはとても神経質な人で…」

 野田昌宏は緊張しながらアシモフ邸へ向かった。チャイムを押してドアが開くと、そこには、あの写真で見た通りのアイザック・アシモフが立っていた!
 そして居間に通され、さっそく打ち合わせ。 野田さんは資料を取り出した。
 その時である!
 「おッ!」
 アシモフは鋭い声を挙げた。
 「君はその雑誌まで持っているのか!」

        

 「その雑誌」とは、<アスタウンディング・サイエンスフィクション>1939年7月号であった。そう、アシモフの『趨勢』が初めてジョン・W・キャンベルに認められて載り、ヴァン・ヴォークトの『黒い破壊者』のケアルと宇宙船が表紙絵を飾ったあの号である!
 それをきっかけとして、アシモフと野田さんは、一気にうちとけた関係になったのである。野田昌宏さんは、それほどの筋金入りSFマニアなのだった。野田さんは、巨匠アシモフに向かって、言葉をほとばしらせた。もちろん英語で。自分たち日本のSFファンは、大戦後、腹をすかせた毎日の中で、アメリカ兵が読み捨てた紙くずの中から、SF雑誌を拾って読み、そうやって私はあなたのSF小説も知ったのですよ! 『われはロボット』や『宇宙気流』を! アシモフは、しみじみと頷きつつ、黙って野田さんの話を聞いてくれたという。
 野田さんは心が震え、そして後でこう思ったそうだ。

 “SF”しといてよかった…。

 それからアシモフは、野田さんらを相手に、30分ほど、いろいろな話をしてくれた。そして「妻は若い時からずっと日本へ行きたいと言い続けているんだよ」とも言った。 野田さんが、それはいいですね、是非来てくださいと言うと、アシモフ 「それが君、私は飛行機が嫌いだし…」
 アシモフは飛行機に乗れないのだ。高所恐怖症なのである。
 そのことにアシモフ自身が気づいたのは、あのアイリーンとのデートの時である。恋に破れたアシモフは、口ひげを生やし、そして海に行った。ちなみに、アシモフは、ブルックリンに住んでいながら、この時20歳になって初めて海を見たのだという。自由の女神像のある港の風景は眺めていたが、広々とした外洋(大西洋)の海をそれまで見たことがなかったと。世間知らずのアシモフ青年にとって、それも「冒険」だったようだ。初めて海の水につかり、「大人になった気分」(←笑)を味わった。だが、彼は、その後も泳げるようにはならなかった。足を大地から離すことが恐かったから。

 『アシモフ自伝』の中にも、<アスタウンディング>1939年7月号こそ、SF黄金時代の幕開けであったとはっきり書かれている。



 ところで、ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』はケアルに始まって、ほかにも地球には存在しえないような不思議な生命体が登場する。子どものときに僕がいちばん恐かったのが「イクストル」という怪物である。これは赤い怪物で、人間に卵を産みつけようとする。後の映画『エイリアン』の原型のような話である。

 40年代のアメリカのSFの人気は、1にヴォークト、2にハインラインであったようだ。ところが、ヴァン・ヴォークトは、ハインラインやアシモフのように後に「巨匠」とはあまり呼ばれない。なぜか?
 ヴォークトのSFは、そのSF的設定や心理描写が細やかなところが人気だった。そして発想が普通じゃない。
 ヴォークトは『黒い破壊者』でデビュー後もその才能をいかんなく発揮、傑作を書き続けた。ところがだんだん「普通じゃない発想」がさらに加速して、わけがわからなくなり、本人も「科学」の枠を跳び越して、妙な「超科学」のような世界にはまり、そして偉大なSF編集長キャンベルまでそういうインチキ科学(超人類の誕生とか反重力の発明とかを本気で実現させようと考えていたのかも)にはまり、読者を宇宙の辺境に置き去りにしてしまったのである。 つまり、ヴォークトとキャンベルは、どうやら、「才能があふれすぎてしまった」ようである。脳みそが溶けかけてしまったのだろう。
 この二人、存在自体が、まるで「遊星からの物体X」の怪物のようではないか。



  ◇      ◇      ◇      ◇

 今年はこれでおしまい。また来年。
 では、皆様、よいお年を。
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ロビイ、R.U.R、電気栗鼠、フランケン…

2008年12月27日 | はなし
 映画『遊星からの物体X』とともに借りてきたDVDが『アイ、ロボット』。 僕はこれ、以前にレンタルVで観た『A.I.』(監督スピルバーグ)とかん違いしていた。今の今まで。
 この映画『アイ、ロボット』(2004年公開)は、ウイル・スミスが主役(刑事役)だが、映画の冒頭で彼が眠りから目覚め、起き上がって身仕度をするそのときに流れていた曲というのが、スティービー・ワンダーの「Superstition 」。(迷信という意味なんだね。) これはアルバム『Talking Book』の中に収められたノリの良い名曲で、昔僕もよく聞いたものだ。面白かったのは、一昨日見た『遊星からの物体X』でも、南極の基地の隊員がラジカセでやはりこの曲「Superstition 」を聴いていたことである。(こういう小さな偶然が僕にはほんとよく起こる。)
 さて映画『アイ、ロボット』だが、これは暗くていけない。(予想通りではあったが。) 僕は、スピルバーグの『A.I.』もやっぱり好きじゃない。ロボットと未来を暗く描くというのは、「陳腐」だと思うんだよね。昔からあるSFの基本イメージなんだけど、こういうストーリーに触れると「SFってもういらない」と感じてしまう。
 アイザック・アシモフの『ロビイ』に始まる<陽電子ロボットシリーズ>は、そういうSFにつきものの「暗さ」を吹き払ってしまったところに、その素晴らしさがあったと思うのだ。1940年代、50年代に書かれた彼のロボットものは、『われはロボット(I、Robot)』として一冊の本にまとまったわけだけど、これが映画『アイ、ロボット』の原案になっている。 けど、この内容では…。 まったく、これは、「あかるいアシモフ世界の破壊」だよ。 それこそ、大切なものなのに。

 アシモフは1992年に亡くなっている。本業は化学者だった。

 ところで、「陽電子(ポジトロン)脳」というのが、アシモフ型ロボットの基礎になっている。もちろんこの人工脳はアシモフの作り話だけど、「陽電子」は1932年に発見されたもので、架空のものではない。真空にガンマ線を当てるとマイナスの「電子」が生まれる。何もないところから、「電子」が生まれる(無から有が生まれる!)のはおかしい。だから、「陽電子」というものがきっと存在するはずだ…と、ディラックというイギリスの物理学者がそれ以前に予言していた。ディラック自身も半信半疑だったのだけれど、自分の書いた計算式を信じるなら、そう考えるしかない。 その「陽電子」が1932年に宇宙線の中から見つかったのだ。発見者はアメリカ物理学者アンダーソン。それで二人ともノーベル賞を受賞した。 「陽電子」は、思ったとおりに動かないので、最初は「ロバ電子」と呼ばれたとか。 発見される前、この「陽電子」は、質量もマイナス(!)であろうと考えられていたのである!

 「ロボット」という語は、カレル・チャペック作『R.U.R』で使われたのが世界で最初である。チャペックはチェコの作家で、彼は「ロボット」の語は、兄ヨゼフ(絵を描いていた)が考えてくれた造語だという。 戯曲『R.U.R』(ロッサム・ユニバーサル・ロボット社の略)は、1921年に発表された。 これは今読んでもわかりやすくしかも抜群に面白い作品(僕はこの舞台を見たことがないけれど)だが、ここに、「ロボットの反乱→暗い未来」という図式がすでにみられるのである。
 そのチャペック以来の、ロボットの暗いイメージの未来を、からっとした明るいものに変えたのがアシモフなのである。

 アシモフの『ロビイ』では、女の子とロボット(ロビイ)の交流を描いている。
 女の子は、ロビイを抱き上げて肩に乗せてくれと言う。が、ロビイは(わざとなのか)反応しない。それならと、女の子は泣いてみせるが、それでも(感情のない)ロビイは反応しない。
 ところが、女の子には最終手段があった。女の子は、「肩にのせてくれないのなら、いいわ、もうお話を聞かせてあげないから!」という。すると、ロビイは困った顔(?)をして、女の子を抱き上げる。女の子は大満足。
 そのあと、女の子はロビイに「お話」をしてあげる。もう何度もした話「シンデレラ]。 ロビイはこの話が大好きなのだ。何度聞いても、この「シンデレラ」をロビイは女の子から聞きたがる…。
 そのとき、女の子のお母さんが声をかけた。お母さんは、女の子がロボットとばかり遊んで、友達をつくろうとしないことを心配している。それで、おかあさんは、ロビイをお払い箱にすることを決めた。
 ロビイがいなくなった…そして、女の子は…

 というような話です。 ぜひ読んでみて下さい。

 『アシモフ自伝』の中に、1939年に開かれた第一回世界SF大会のこと書かれている。アシモフも参加したのだが、このとき大会で上映された映画が、1927年制作のドイツの無声映画『メトロポリス』。 アシモフもこれを観た。そして、
 〔ひどいものだった。〕
 と感想を、そのひと言だけ書いて切って捨てている。このような情緒のない、殺伐としたストーリー(100年後の未来都市の階級闘争を描いたもの、ロボットも登場する)は、アシモフの好みとは相容れないものなのである。




 ところで、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』には、「電気リス」というものが出てきますが、御存知ですか。物語の終わりのほうです。
 僕は『銀河鉄道の夜』はいつも途中まで読んでわけわからなくなって、それで最後のほうは読み飛ばしてしまっていたので、昔はこの「電気リス」の存在に気がつかなかったのですが。

 〔ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち黄金(きん)の円光をもった電気栗鼠(でんきりす)が可愛い顔をその中からちらちらのぞいているだけでした。〕

 これは、なんなのでしょうか? ロボットなのでしょうか?
 賢治が、科学というものに期待をしていたということになるのでしょうか? (彼も科学者でしたからね。)
 それにしてもやっぱり謎だ、電気栗鼠。 こういう謎のところががおもしろいんだよね、賢治の書いた本は。



 「物語」のなかのロボットの歴史を遡っていくと、フランケンシュタイン博士の造った「怪物」に行き着く、とされている。この物語はアルプスのレマン湖畔で誕生した。1816年。作者はイギリスの女流作家メアリー・シェリー。




 さて、私事。
 ブログを書くことは、たのしい。 こんなたわ言(近況雑記と読書感想文)を読んでくれる人がいて、ほんとうに感激です。
 でも(あと数回書いて)やめようと決めました。その理由の第一は、「目が悪くなるから」です。いつの間にか、パソコンのバックライトの光を見ることに慣れてしまって、日常生活に暗さを感じるようになりました。きっと、これは身体も徐々に変になっているに違いありません。もともと僕はテレビ画面を観ることにも疲れを感じるほうですから、おそらく体質的に合わないのです。 (パソコンはブログ書くのと将棋のネット観戦ぐらいしか使っていませんが、それでも多すぎるようです。)
 心身がきっと、サイバーパンク化してきてますねー。
 人間の「神経」の伝達も電気信号ですが、これも「0」か「1」かの、デジタル信号です。きっと、パソコンに長時間向かっていると、身体の中も、「電気信号でいっぱい」になるんです。それで、「考える」という、神経の運動は活発になる。だから元気になったようになるけど(きっとそれは錯覚)、身体は神経細胞だけでできているわけじゃないですからねえ。
 パソコンを見る時間を減らして(一日15分ぐらいが適当か)、心身をニュートラルに戻そうと思うのです。
 あと2回は書く予定です。 「ケアル」と、それから、「宇宙船スカイラーク」について。 がんばろう!



 1948年にアメリカでトランジスタが発明されました。このトランジスタの進化が、現在のコンピューターの世界を実現しました。1980年代に、サイバーパンクというのがSFの中で主流になりましたが、これは、人間(神経細胞)と機械(演算素子)との融合化をアイデアの柱としたもの。しかし、それもすでに現実の世界では「あたりまえ」のことのようになってきて、もはやSFにこのテーマを採り上げるのは、むしろ古いという感じ。
 …といっても僕は最近のSF小説のことはさっぱり知らないのですけど、きっと新しいもの(未来に希望をもたらすもの)は、出ていないような気がします。読んでしあわせな気分にならないようなものなら、読んでも仕方ありませんね。
 というわけで、SFは古典がいい。 古典SFを読もう! たのしくていいですよ!

 真鍋博の(懐かしい)SF画も見たいなあ。
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SF編集長キャンベルX

2008年12月25日 | はなし
 映画『遊星からの物体X』(1982年)をレンタルしてきました。
 この映画を僕は映画館で観ました(30年ちかく前になるんですね…)が、封切当時はたいして期待もされていなかったと思うが(同じ年に制作された『E.T.』に比べれば屁のようなもの)、まあそれで、僕もそれほど期待はして行かなかったけれども、案外面白かったな、というのが印象だった。その後、この映画はけっこう評判が良かったようだ。(もちろん『E.T.』ほどではないが。)
 この映画、原作はジョン・W・キャンベル・ジュニアなのである。そう、アメリカSF雑誌<アスタウンディング・サイエンスフィクション>の名編集長であり、アシモフやヴァン・ヴォークトやハインラインを育てた男である。じつはそのこと(この映画が彼の原作であること)に僕が気づいたのは、(迂闊にも)つい最近なのであるが。
 キャンベルが<アスタウンディング>の編集長になるのは、1937年、彼が27歳の時であるが、それまで、キャンベルはSF小説を書いていたのだ。映画『遊星からの物体Ⅹ』の原作は、『Who Goes There?』という題名の小説で、日本では『影が行く』となっている。
 南極に、謎の生命体が、初めは犬(シベリアンハスキー)に寄生して、やがて人間に接近して、猛威をふるう…というストーリーである。この生命体というのは、10万年前に地球にやってきて氷づけになって眠っていた宇宙の生命体なのであった!


 さて、僕は今日、河合隼雄著『猫だましい』の中の「鍋島猫騒動」の解説をおもしろく読んだ。この話は「講談」の有名な化け猫騒動の話である。ある人間の恨みを「化け猫」が代りにはらそうとして大暴れする話だが、この猫は、人間(なぜか女ばかり)の心身を乗っ取ることができる。
 それで、いま思ったのだが、この化け猫、遊星からの物体Xだったのではないか?  …まあ、それは、余談。


 SF作家としてのキャンベルは、1930年代に活躍している。1932年『ガニメデの漂着者』という作品がある。宇宙船がガニメデに漂着してしまう。ガニメデには、犬ほどの大きさのバッタが棲んでいて、これを焼いて食うとステーキのような味でなかなかいける…というような内容らしい。
 『遊星からの物体X』の原作『影が行く』が<アスタウンディング>に載ったのは、1938年8月号である。すでにキャンベル自身が編集長だった。
 この『影が行く』を読んで刺激を受けて、SF小説を書いてみよう思ったのが、A・E・ヴァン・ヴォークトである。ヴォークトは書き上げた作品を、キャンベルのもとに持っていったが、この作品はボツ、書き直しを命じられた。しかし、ヴォークトが次に書いた作品は、キャンベルの満足するところとなり、翌年の<アスタウンディング>紙7月号の表紙を飾った。この作品は、熱狂的なSFファンの拍手喝采を浴びることとなった。「無名の新人」ヴァン・ヴォークトは、一気にトップの人気作家となった。この作品こそ、後に『宇宙船ビーグル号』の第一話となる、『黒い破壊者』である。


 10代後半のアイザック・アシモフは、<アスタウンディング>に一読者として投書を送っていた。そこに自分の書いた文章と名前が載るのを見て、天にも昇る気持ちだった。 作家としてのキャンベルも、アシモフのお気に入りだった。
 17歳の夏からアシモフが書き始めたSF小説があった。題名は『宇宙のコルク抜き』というものだった。途中まで書きかけのまま、机の中にあった。アシモフはこれを1年後の1938年6月に完成した。これが彼の書いたはじめての小説だった。
 さて、出来上がった小説をどうしたらよいのだろう? 18歳で世間知らずのアシモフは父に相談した。父はまずその原稿を見せろといったが、それは拒否した。父は、では地下鉄で出版社に行って、直接編集長(キャンベル)に手渡せと言った。アシモフはビビッた。ビビッたが、意を決して、父の言う通りにした。受付の女性に面会を申し入れると彼女は電話をした。そして、「キャンベルさんがお会いになるそうです」。 アシモフは仰天した。ほ、ほんとうに会ってくれるのか! 
 アシモフ18歳。キャンベル28歳。その時、二人はSFについて1時間以上話をしたという。キャンベルは非常な話好きだったのである。アシモフの処女作『宇宙のコルク抜き』は預かることになったが、これは結局ボツとなった。ボツにはなったが、キャンベルと1時間も話ができたという喜びは大きく、アシモフは次の作品への意欲を燃やすこととなった。
 次の作品の題は『密航者』。 これもボツ。 ボツになったが、キャンベルに会って家に帰るまでの間に、アシモフは次の作品のストーリーを組み立てていた。キャンベルは不思議な男だった、とアシモフはふりかえっていう。彼に作品をボツにされても苦にならないのだ。それどころか、彼に会うと、もっと書こうと情熱が湧いてくるのである。
 アシモフの第3作目『真空漂流』もキャンベルはボツにしたが、これは別の雑誌<アメージング・ストーリーズ>に売れた。初めての原稿料をアシモフは受け取ったのだった。

 このように何度も書いてはボツとなり、アシモフの作品がはじめてキャンベルに採用されたのは、『アド・アストラ』という題の作品である。なんとアシモフの10作目になる。この小説をアシモフはいつ活字となって掲載されるのかと待った。それが掲載されたのは1939年7月号で、キャンベルはこの作品のタイトルを『趨勢』(『Trends』)と変えて載せていた。そしてこの号は、あのヴァン・ヴォークトの『黒い破壊者』が(新人にもかかわらず)巻頭を飾っていた号なのである。
 この次の号、8月号には、ロバート・A・ハインライン『生命線』が載った。さらに9月号では新人シオドア・スタージョンがデビュー。
 J・W・キャンベルの育てたこれら「未来の巨匠SF作家たち」が、生き生きと巣立っていく時代であった。アメリカSF黄金時代の始まりを予感させるものであった。


 1939年7月2日には、“第1回世界SF大会”がニューヨークにて開催された。
 この時、手塚治虫はまだ10歳、小松左京は8歳である。SF雑誌などもちろんまだ日本には存在していない…。(てゆうか、中国と戦争中。)



 アシモフには、<陽電子(ポジトロン)ロボットシリーズ>という作品群がある。その第1作となる『ロビイ』は、1939年に書かれているが、これもキャンベルはボツとした。他に似ている作品が前例としてあったためだ。とはいえ、この『ロビイ』はたいへんに愛らしい作品で、僕は大好きだが、おそらくはアシモフもお気に入りのものだったと思われる。
 さて、アシモフが『ガニメデのクリスマス』を書いてそれをキャンベルに見せたのは、1940年12月23日。前に書いた通り、これもキャンベルの満足は得られなかった。(他の雑誌で採用された。) 
 しかしこの12月23日、アシモフにとって、もっと重要な出来事が起こった。アシモフが自分のロボットものについてのアイデアを話していたとき、キャンベルはおおいに興味を示し、考え、やがてこう言った。
 「いいかね、アシモフ、この話を組み立てていく場合に、ロボットが従うべき三つの原則があることを頭に入れておく必要があるぞ。第1に、ロボットは人間にいかなる危害も加えられない。第2に、ロボットは… 」

 有名な、アシモフの、ロボット工学三原則、その誕生の瞬間である。
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ガニメデのクリスマス

2008年12月23日 | ほん
 今日はアイザック・アシモフの『ガニメデのクリスマス』という愉快なSF短編をご紹介します。これは『アシモフ初期短編集2 ガニメデのクリスマス』に収録されています。初期の作品ということで、それまでの作品集から漏れた作品を集めたものの一つで、ですから代表作ではなく、あまり読まれておらず、僕も先月に初めて読みました。
 読んだ感想は、「おお、これは楽しい!」でした。


 まず「ガニメデ」についてご説明。ガニメデとは、木星にある衛星の一つで、この名前はギリシャ神話からとったもの。木星は「ジュピター」ですが、これはローマ神話の神で、この神はギリシャ神話ではゼウスに相当するのだそうです。ガニメデというのはそのゼウスの(数多い)愛人の一人。
 1610年にガリレオが、木星の4つの大きな衛星(小さいものは50くらいある)を見つけました。のちにその衛星はイオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト、と名づけられ、まとめてガリレオ衛星と呼ばれています。ガリレオは、イタリア・ピサの生まれ。ここはトスカーナ地方といって、ルネサンスの中心地です。もっともこの時代はすでにルネサンス時代は過ぎて、大航海時代の幕が開き、宗教戦争の激しい時代でした。ガリレオのこの発見は、当時のイタリアやドイツやオランダのレンズ職人らの技術がもたらした発見と言ってよいでしょう。「科学の芽」がこの時代に芽吹いてきています。 (しかし… オレってほんと説明ズキだなあ… ←ちょっとおちこむ)

 そして人類は宇宙に出た! 月に行き、火星に行き、木星のガニメデにも!

 それでは『ガニメデのクリスマス』の話をご紹介しよう。


 ガニメデ物産で働くオラフという男がこの小説の主人公。オラフは、クリスマスが近づいてきたということで、樅(もみ)の木をながめつつ、鼻歌と歌いながら、デコレーションの準備をしようとしていた。すると、突然、上司であるペラム隊長から呼び出しがあって、オラフはどなりつけられたのだった。その理由はこうだった。
 「オラフ、オストリ人に地球のクリスマスの話をしたのはお前か!?」
 「はい」
 「ばか者! そんな話をするから、オストリ人どもは、自分たちにもサンタクロースが来てほしい。もしサンタクロースが来てくれないなら仕事はしないとこう言うんだ! つまりストライキだ! おまえが余計なおとぎ話などするからだ!」
 オストリ人というのは、ガニメデの現地人である。オラフやペラム隊長はガニメデ物産の社員で、彼らは地球からやってっきて、ガニメデの鉄マンガン重石、カレンの葉、オキサイト等を地球に送る仕事をしていた。その下で働くのが、現地人のオストリ人。その彼らが、地球にはクリスマスというものがあってサンタクロースが…などとオラフが話したために、サンタが来なきゃ働かないと言い出した。これでは、ノルマが達成できない! このままでは、会社は存亡できなくなる!
 ペラム隊長は吼えた。 「いいか! なんとしても、サンタクロースとトナカイとプレゼントを用意するんだ! 急げ!」
 トナカイのかわりに、ガニメデに生息する「トゲウマ」という動物をオラフは8頭つかまえることにした。橇(そり)は反重力装置を利用してつくった。反重力技術は、すでに開発されてはいたが、まだ飛行に応用するには効率悪く実用化には至っていなかったが、こんなところで役に立った。
 こうして、オラフや社員たちが苦労してオストリ人たちのためのクリスマスを準備した。オストリ人たちは大喜び。プレゼントはボールだ。それをくつしたに入れると、オストリ人たちは「タマゴだ、タマゴだ!」とさらにおおよろこび。彼らは、そのタマゴから「小さいサンタクロース」が生まれるのだと大騒ぎ。ペラム隊長は「ちがう!」というが、どうにもならない。「ちっさいサンタコース、いつ生まれるか? ちっさいサンタコース、なに食べるか?」

 とにかく、クリスマスは大成功だった。
 「よし、では仕事だ! 急げ!」
 というわけで、気分よく、オストリ人たちも働いて、めでたしめでたし、というのがペラム隊長の予定だったのだが…
 オラフは、オストリ人たちに「サンタクロースは毎年くる」と教えていたのだった。「おれたちも毎年キスメス(クリスマス)来てほしい」とオストリ人がいう。それなら働くと。「大変です!」と、社員の一人がそれをペラム隊長に伝えると、ペラム隊長は「それがどうした? 来年はまだ先じゃないか」
 「わかっていませんね。ガニメデの公転周期は7日と3時間です。つまり彼らは…毎週サンタをよこせといっているんです!」
 「毎週だと!!  …オラフ!!」
 サンタの格好をして「みなさん、メリークリスマス!」と叫んでいたオラフは突然逃げ出した。それを追っかけてゆくのは、怒り狂った顔のペラム隊長の姿であった。



 アシモフの作品は、どこかほのぼのしていて、明るい。
 オストリ人が働いてくれない、それで会社は大変なことになるのですが、だからといって力ずくで脅して働かせるという発想にならないところが、アシモフの明るさです。
 アイザック・アシモフがこの短編を書いたのは、1940年12月だそうです。クリスマスシーズンの中、アシモフは、来年のクリスマスの時期に使ってもらえたらと、この話を書いたらしい。 <スタートリング・ストーリーズ>という雑誌に掲載されました。
 この1940年という時期は、日本は中国と戦争中で、1年後には太平洋戦争に突入するのですが、アメリカ・ニューヨークには、なんと20を越える数のSF雑誌がタケノコのようにぼんぼんと生まれてきていた時期なのでした。この時期こそ、アメリカSFムーブメントの絶頂期なのです。 (日本より30年早い!)
 アシモフは20歳。すでに幾つかの作品を雑誌に載せていましたが、半分はボツになりました。彼のSF作家としての名前が、アメリカのSFファンの間で輝く特別な名前となるのは、『夜来たる』からなのです。 (それまでは、アシモフ本人が言うには、三流作家だった。)

 それは1941年3月17日のこと。 (『ガニメデのクリスマス』を書いた3ヶ月後です。)


 その日、アシモフは、SF雑誌<アスタウンディング>の編集長ジョン・W・キャンベル・ジュニアのオフィスにいて、あるアイデアを話していた。が、キャンベルは即座にそのアイデアを拒否。彼、キャンベルには別のアイデアがあった。
 キャンベルはエマーソンの詩の一節を読み、それを考えることに夢中になっていたのである。

〔もし星が千年に一度、一夜のみ輝くとするならば、人々はいかにして神を信じ、崇拝し、幾世代にも渡って神の気持ちを保ち続ければよいのだろうか〕

 キャンベルはアシモフにこう言った。「どう思う? ぼくは人間たちは気が狂うと思うんだが」
 アシモフとキャンベルはそれについてしばらく語り、それを小説として書くためにアシモフは帰途についた。


 彼は振り返って、このように書いています。

〔まあ、わたしはよく不思議さに打たれて身震いするのですが、あの1941年3月17日の晩になにが起きたのでしょうか。どこかの天使的な霊がわたしの耳にこうささやいたのでないとしたら。
「アイザック、きみはこれからわれわれの時代の最高のSF短編を書こうとしているのだよ。」〕

 『夜来たる』。
 アイザック・アシモフはこの作品で、初めてキャンベル編集長の雑誌<アスタウンディング>の巻頭となりました。1941年9月号です。アシモフのほとんどの作品をそれまでキャンベルはボツにしてきたのですが、この作品の出来には大いに満足したようです。 (『ガニメデのクリスマス』も、初めにアシモフはキャンベルに見せたが受けとってもらえず。)
 ジョン・W・キャンベル・ジュニアこそ、アメリカのSFのグレードを飛躍させた男といえるでしょう。
 このSF短編は、星空を一度も見たことのない(太陽が6個もあるので夜になることがない)惑星に住む人々に、初めて夜が訪れる日の「てんやわんや」を描いたものです。
 上のアシモフとキャンベルのエピソードはSFファンにはよく知られたものですが、『夜来たる』をちゃんとを読んでいる日本人は案外少ないのでは? 僕も昨日、初めて読んだところです。

 
    吾妻ひでお『メチル・メタフィージック』より       ↑アシモフ
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Once Upon a Time in America

2008年12月21日 | はなし
 映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』から。これは、1930年時代のニューヨークの少年ギャングの(とその後の)話ですが、彼らはユダヤ人です。
 過越(すぎこし)祭というのがユダヤ教にはあるようで、上のシーンはその日のためにユダヤの人々が出かけている風景です。男の紳士は白いケープのようなものを肩にかけています。この祭日は、モーセの時代にできたものだとか。つまり3200年の歴史があるということ。(すごいなあ、ユダヤ。このすごさが、他民族の嫉妬を招くのかもしれないな。)
 この映画を僕は昔、映画館で観ました。3時間以上の映画なのですが、僕はこの映画の途中で眠ってしまいました。僕は、その内容にかかわらず、映画館でよく眠ってしまいます。たいていエンドロールが流れて、他の客が立ち上がっているときに、目覚めます。このときもそうでした。それで、もう一度観ようと思います。で、観るのですが、やっぱり同じところまで観て、また眠ってしまうのです。結局この映画を、10年後くらいにレンタルビデオで観たのです。でも、この時も、ユダヤ人ということを意識して観てはいませんでした。
 僕がこの映画を今回借りてきたのは、これが1930年のニューヨークの様子を描いているからです。ですから今回は、背景に注目しながら観ました。ほおォ、アシモフはこういうところで少年時代を送ったのか、などと思いながら。

 
 SFの巨匠アイザック・アシモフもユダヤ人なのです。アシモフは1920年ロシアに生まれ、3歳の時にニューヨークに移民としてやってきました。この当時のロシアは、革命後ですからソビエト連邦なのですが、大変住みにくくて、それに比べるとアメリカは天国でした。とはいっても、成功するのはごくわずかの人々で(そのことは民族にかかわらず同じですが…)、多くの人々は貧しかったのですが。 (ユダヤ人はお金持ちのイメージがありますが、それはごく少数のユダヤ人です。)
 この時代、ニューヨークには、被服工場があって、この工場で働く人々のほとんどはユダヤ人でした。99パーセントです。アシモフの父ユダもこの工場で働いていました。やがてお金を貯めてキャンディーストアを始めたことは、以前に書いた通りです。
 アシモフはコロンビア大学へ15歳で入学したわけですが、伝統的にユダヤ人には優秀な人が多い。この時代のニューヨークの大学は、その半分がユダヤ人で占められていたそうです。とはいっても、皆が皆、そのように優秀というわけではありませんから、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のように、悪行に走る人も多くいたのです。
 WASP(ワスプ、白人プロテスタントのエリ-ト)の支配の強い東海岸地区から西海岸へと移動して、ハリウッドに映画産業を作ったのもユダヤ人たちで、それを創業した人々も、元はだいたい貧乏でした。ハリウッドの映画産業は、1910年代から、大いに流行りはじめました。


 1922年にアインシュタイン(ドイツ生まれのユダヤ人)は、日本へやってきましたが、その前年にアメリカへ旅行しています。この旅行には目的がありました。彼は、「シオニスト」への協力者としてアメリカに行ったのです。
 「シオニズム」というのは、シオンの丘、これはイスラエルにあるのですが、そこにユダヤ人の国家を建設しようという運動のことです。この運動は19世紀末に高まってきたのですが、1917年に第一次世界大戦が終わり、中東からオスマントルコ帝国が消滅したことで、やや現実味を増してきました。戦争の結果イスラエルの地に勢力をおよぼす権利を得たイギリス(フランスと中東を分け合った)の理解を得ることができれば、それは実現するかもしれません。ということで、熱心なシオニストたちが努力して、イギリスの大物政治家と、国家を動かすほどの資金を持っている有力な人物ロスチャイルド家の応援を得ることが出来ました。これが有名な「バルフォア宣言」です。1917年のことです。イスラエル国家の承認をしたのです。この段階ではまだ、国家はできていませんでしたが、これからつくってもよい、という承認です。
 ロスチャイルド家については、以前も少しこのブログで採り上げたことがあります。もともとはドイツ・フランクフルトのユダヤ人(アンネ・フランクと同じですね)で、ドイツでは「ローストシツト(赤い盾)」という名前でしたが、イギリスに渡って聞き間違えられて「ロスチャイルド」になったそうです。
 ところで、「ユダヤ人」という人種はありません。「ユダヤ人」というのは、ユダヤ教という宗教と習慣を持っている人々のことをいいます。ですから、ドイツのユダヤ人といっても、その人がユダヤ教を捨てて改宗してしまえば、もはやユダヤ人ではなく、ただのドイツ人になるのです。ですが、「ユダヤ人」といっても、その宗教心はさまざまで、戒律をきっちり守っている人もいれば、そういうことはなにもせず、ただ、仲間としてつきあっている人もいるわけです。さして宗教心がなくても、きっぱりと「キリスト教に改宗した」と宣言するのでなければ、それもやはり「ユダヤ人」なのです。
 イギリスのロスチャイルド家は、キリスト教に改宗しました。ですから、もうユダヤ人ではないのですが、それでも、世間は「昔はユダヤ人だった」のでそういうイメージで見られたりします。シオニストたちが、ロスチャイルドにはじめに接触したときに、ロスチャイルドはほとんど関心がなかったそうです。本人たちはもうユダヤ人ではありませんし、イギリスで成功しているわけですから、そういうややこしいことに首をつっこんでしまう必要がないのです。ところが、ロスチャイルド家といっても、一人二人ではありませんから、何十人もいる一族の中に、「自分は元ユダヤ人である」ということに強い何か(誇りとか使命感とか)を持っている人もいるわけです。シオニストたちは、そういうロスチャイルドに何度も働きかけ、ついに協力を得たわけです。
 イギリスとしては、政治的な思惑があります。シオニストたちに新しくできるイスラエル国家への恩を売っておけば、中東を自分たちのために有利な状況に維持しやすいだろうということです。イスラエルの地の隣り、エジプトにはスエズ運河がありますから。エジプトでは当時何度も住民の独立運動が起こり、イギリスはそれを力で抑えていました。
 しかし結局はこのイギリスの思惑(イスラエルが自分の思い通りに動いてくれるだろうということ)は、アメリカやソ連からの非難があって、うまくはいかなかったのですが。
 アインシュタインは、シオニストというわけではなかったのですが、一時期、彼らに協力していました。アインシュタインは1919年以降世界中で大人気の人物となりましたから、彼が行けば、人とお金が集まったのです。イスラエル建国のための資金です。アインシュタインのこの募金協力は、イスラエルの地に建てる予定のヘブライ大学医学部の建設資金への協力というものでした。ユダヤ人である彼は、同じユダヤ人で、優秀にもかかわらず欧州では条件に恵まれない研究者がいることを知っていて、そういう人のためになるならと思ったようです。とくに東欧などでは、「ユダヤ人枠」という人数制限などがありましたから。ヘブライ大学は1925年に開校しています。


 
 ちょっと時間を遡ります。
 1904年2月に、日露戦争が始まりました。始まると同時に、日銀副総裁高橋是清が、資金調達に走りまわりました。
 朝鮮半島の旅順にまで南下してきていたロシア軍を追い出す、というのが日本のこの戦争の目的です。実際に追い出すことになるのですが、それですぐ「勝ち」とはなりません。戦争というのは結局はお互いが「もうやめよう」というまで終わらないのです。ロシアは、いったんは退却させられても、あきらめなければ、兵力と財力の上では日本より上なのです。そういうぐあいに戦争が持久戦になってきたら、最後にものをいうのは、兵器(実弾)と食料の供給ということになります。つまりは、お金がいつまで続くか、ということです。ところが、当時の明治政府はお金がまったくありませんでした。
 僕は前に田中正造の足尾鉱毒問題を採り上げましたが(これもまだ半分しか書いていないのですが…)、あの鉱毒があれほどの悲惨な状況でありながら、あの銅山の創業を止めなかった、古河鉱業の味方を政府がした、ということの背景には、こういう戦争などの非常時のために「お金が欲しい」という事情がありました。本当に日本にはお金がなかったのです。にもかかわらず、無理をして戦艦を買っていた。そして戦争を挑んだ。当時の国家予算の50パーセントが、軍備費でした。田中正造は、戦争などせずに、その金を民のために使えと言っていたわけです。国あっての民(国家主義)という考え方と、民あっての国(民主主義)という考え方の二極の対立の構図がここにもあります。(どっちも正しいんですがね。)
 田中正造の最後の10年間はクリスチャンでした。洗礼は受けていませんでしたが。彼は『新約聖書』のうちのマタイ伝のみを明治憲法とともに持ち歩いていました。そこに、「知恵」を見いだしていたようです。人間、あそこまでボロボロになって、それでやっと見えてくるものが聖書の中の「言葉」にはあるのでしょうか。
 それで、高橋是清ですが、お金を調達するために、外国へ行きました。お金貸してくれ~、ということです。高橋はまずアメリカへ行きました。断られました。次にヨーロッパへ行きました。これも断られました。
 ロシアと日本。どうやらイギリスなどは、日本が勝てばいいのに、と思っていたようです。司馬遼太郎『坂の上の雲』には、ロシアのバルチック艦隊が、アフリカなど立ち寄る港でその燃料である石炭の調達に、イギリスの意地悪のために苦労したことが描かれています。そのようにイギリスはロシアが苦労するのを期待はしていたが、日本が勝てるとは思っていなかった。そういうことなので、日本にお金を貸しても、返してもらうお金がないという状況は困るのです。それに日本には、担保となるような資源(鉱山とか)が乏しい。そういうことで、高橋是清の資金調達はうまくいきません。

 ところが、貸してあげるよ、という男が現われました。ヤコブ・シフです。ヤコブ・シフもまた、ドイツ・フランクフルト生まれのユダヤ人で、アメリカに渡り、古着商からはじめた金融家であり、全米ユダヤ人協会の会長にまでなっていた人です。
 広瀬隆著『赤い盾』の中に、高橋是清がイギリスのロスチャイルドに資金調達を頼んだところ断られ、ところが表向きには断られつつ、ヤコブ・シフのところへ行ってみよと紹介したと書いてあります。広瀬氏は、ロスチャイルドとシフとのつながりを調べていて、その家系図等が『赤い盾』には載っていました。広瀬氏は、シフから借りたこのお金は、ロスチャイルドから借りたことと同じことだといいます。
 そんなわけで、シフにお金を借りて、高橋是清の資金調達は成功しました。結局、日露戦争は日本が勝利しました。が、イメージとしては日本の「勝利」なのだが、戦後交渉では、ロシアから日本は戦費を引き出すことができませんでした。(お金くれなきゃやだ~と交渉をごねていたら、アメリカやイギリスから早く調印せよ文句がでてきたから。) なのでシフに借りた借金を、日本はせっせと自力で返すことになりました。 その後、第一次世界大戦がヨーロッパで起こったので、日本の産業は潤いました。ということで、日本のその、日露戦争での重い戦費は、結果的に日本人にのしかかることにならずにすみました。運がよかった、というしかない。
 なんだかんだで、戦争というものが起こると、他の誰かが儲かるというカラクリがありますね。(憂鬱になるが、それが現実です。) 貧しいフランクフルトの住民だったロスチャイルドの一族が、イギリスとフランスで大成功したのも、ナポレオン戦争があったからなのです。国家がその戦争に必要な資金を、ロスチャイルドは、魔法のように集めてきたのです。

 ヤコブ・シフはなぜ、日本に戦費を貸してくれたのでしょうか? 
 『坂の上の雲』にそれは書いてある。シフは、ロシアでのユダヤ人の迫害(1881年以後ひどくなった)を憂いていたのでした。シフはロシア政府にも金を貸し「お金を貸すから、どうかユダヤ人を虐殺しないでくれ」と頼んだ。が、金を貸した直後は迫害の手はゆるめられたが、すぐに元に戻ってしまう。やがてシフは、「革命が起こらねばだめだ」と思ったのです。日露戦争が始まったとき、シフは、少しでもロシアの帝政が衰弱すればと考え、そのために日本を資金援助したのです。

 日露戦争の終結は1905年ですが、その12年後にロシアでは革命が成立しました。指導者はレーニンです。レーニンはロシア人ですが、彼の率いるボリシェヴィキの多くはユダヤ人だったといいます。
 そういうふうに革命が起こってロシアの帝政が終わって、その指導者の中にユダヤ人が沢山いた、にもかかわらず、民衆レベルでのユダヤ人の生活は改善することがなかったのでした。
 もともと帝政ロシアでは、ユダヤ人は受け入れていなかった。ところが、隣国のポーランドなど東欧にはユダヤ人が多く住んでいた。時代の政治状況と共に、「国境線」が変化した。そのためにロシアの領土が広がった際、そこにユダヤ人が含まれていたのである。帝政ロシアはユダヤ人をすぐに追い出すことはしなかったが、ユダヤ人に関しての多くの制限を課した。



 さて、アイザック・アシモフは、そのような地域で生まれました。ロシア・ユダヤ人としての彼の名前はイザク・アジモーといいます。彼が3歳、妹が生まれたばかりの時、1922年の暮れに、彼ら家族4人は、ニューヨークへ向けて出発しました。
 この時、アインシュタイン博士は、日本にいました。1922年12月29日、ア博士は夫人とともに九州門司の港にいて、日本との最後の別れを惜しんでいました。博士とエルザ夫人の眼には、涙があったそうです。
 翌1923年2月、アシモフ一家はニューヨークへ到着。

       

 ロシアでのユダヤ人への迫害を「ポグロム」という。
 第一次世界大戦後の、イスラエルへのユダヤ人の入植者の多くは、ロシアからのものであった。彼らのほとんどは、シオニズムという思想とは関係がなく、ただロシアのポグロムを避けて、住みよい場所を求めてイスラエルにやってきたのである。彼らは、土地をアラブ人から買った。アラブ人は、良い値段で買ってくれるのならと、土地を売った。その時期、ユダヤ人とアラブ人との対立などなく、もともとそれまで国家をつくっていたのはアラブ人ではなく、トルコ人(オスマントルコ帝国)であるから、「国」という概念が希薄だった。住民と住民として、アラブ人はユダヤ人に土地を売ったのである。
 ところがそこに突如、「イスラエル」という国家が出現した。アラブ人(パレスチナ人)からすれば、そんなの聞いてないよ、である。


 ユダヤ人の迫害といえば、第二次世界大戦におけるヒトラー・ドイツのそれが想起されますが、もともとドイツでは、それまで、ドイツ人とユダヤ人は、比較的うまくやっていたのです。ユダヤ人にとって住みやすい土地だったようです。ドイツやオーストリアにたくさんのユダヤ人が住んでいるのはそのためです。ドイツという国を、他の先進国に負けないようにすすんだ国にするために、ユダヤ人もドイツ国民として働き、信頼関係も築いてきました。 それが、ヒトラーが政権を取ると、とたんにあれですから…。 



 ところで、アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人と聞いていたのに、三浦綾子(プロテスタント)の著書『光あるうちに』の中に、「アインシュタインもキリストが神であると信じていた」と書いてあるんです。どうなってんの~?
 それと、○○シュタインの「シュタイン」は、「石」という意味らしいけど、じゃあ、アインシュタインの「アイン」って何? フランケンシュタインの「フランケン」って何? (気になるワー。)
 三浦綾子さんは、また、題名は忘れたがその著書(エッセイ)の中に、講演の仕事で東北にその夫(三浦光世氏)とともに行った時に、将棋のほかにはほとんど趣味のない夫が、天童で将棋の駒(それほど高価な値段ではなかった)を買ったときのうれしそうな夫の描写があります。そういう印象もあってそれである日、三浦綾子さんは、夫に将棋というものを習ってみようと思いました。小説に利休を書くことになったのですが、将棋を習えば何かヒントが得られるかと思ったのがその動機です。将棋を習い始めた三浦綾子は、驚いて、こう言ったそうです。
 「こんなに面白いもの、なんで今まで女に教えてくれなかった!」

 三浦綾子さんは、晩年はパーキンソン病だったそうです。モハメド・アリ、岡本太郎も晩年はそうでした。
 映画『レナードの朝』を思い出す。これはパーキンソン病とは違う病気のようだが、パーキンソンのために開発されたL-ドーパという新薬を投与することによって起きた奇跡(実話だそうだ)を映画にしたもの。主演はロバート・デ・ニーロで、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の主演も同じ、デ・ニーロです。


 なお、天童(山形県)は、今期竜王戦第7局の決戦の場でした。
 今日届いて読んだ『週刊将棋』には、この戦いの記事とともに、鈴木宏彦氏の、最近の序盤の勝率についての特集がありましたが、それによると、先手▲7六歩に対し、後手の2手目は、
 △8四歩=勝率.437
 △3四歩=勝率.515
とある。これが今年の勝率だという。2手目△8四歩は居飛車の「王道」のはずなのに…!
 今は居飛車党でも△3四歩(一手損角換り、ゴキゲン中飛車)が大流行りなのだ! こんな時代が来ると、だれが予測できただろうか!
 そういう中で、第7局、渡辺明竜王は、羽生善治名人の▲7六歩に、(いま流行りでない古風な)△8四歩で闘ったのだ。そのガンコさに、神様も微笑んだのだろうか? …などと僕は思いました。(で、今発見しましたが、天童の対局場は「ほほえみの宿 滝の湯」です。おお!)




 乱筆乱文、まことに失礼しております。
 しかも長い! 書き散らかしました。
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ユダヤの神様

2008年12月18日 | はなし
 将棋竜王戦は、渡辺明竜王が4-3で羽生善治の挑戦を退け、防衛! 僕はリアルタイムでは観ていませんでしたが、羽生玉の「遊泳」にはらはらさせられる将棋でしたね。渡辺竜王は、羽生さんに5連勝!(朝日オープンでも対戦しています。) これで次のこの両者の対決がまた楽しみになりました。
 将棋のあと、TVのサッカー中継で、遠藤選手のコロコロPKにも、(どういうわけか)はらはら。



 映画『モンパルナスの灯』から。この映画には美女が沢山登場する。はじめはモディリアーニと女の2ショットを描くつもりだったのが、気が変わって、パリの風景ショットを描いた。向こうの丘はモンマルトルだろうか? モンマルトルとモンパルナスは、大阪でいうキタとミナミみたいなものか?(ちがうと思うけど。) モンマルトルの丘というのは、ずっと昔イエズス会が結成された場所なのであるが、フランシスコ・ザビエルもそのメンバーの中にいたわけだ。
 画家モディリアーニは映画の中で「酒をやめられぬ駄目な男」として描かれるが、顔がいいからか、それとも駄目な性格が女心をくすぐるのか、美女にばかり愛される。が、絵は売れず、肺を悪くし、それでも酒はやめられず、35歳で死んだ。早く死んだこともあって、特徴のある美人画が、死後になってもてはやされている。

 モディリアーニについては、数年ほど前までは、僕はまったく知らなかった。ある友人との話題の中にでてきたのがきっかけで知ったが、その後に、絵画展でその画を観たり、瀬川昌司(プロ棋士)さんの『泣き虫しょったんの奇跡』(瀬川さんは小学生の時モディリアーニの絵を模写して先生に誉めてもらった)に中にでてきたりして、いまはもうなじみのある画家になってきた。首の長い美人画が特徴的だ。
 しかし、彼、モディリアーニがユダヤ人だということにはずっと気がつかなかった。イタリア生まれのユダヤ人なのである。
 それを知ったのは、先々週に読んだ『ムーンレディの記憶』という、カニグズバーグの新刊本の中に書いてあったから。カニグズバーグもまた、(ニューヨーク生まれの)ユダヤ人なのである。 この本を、僕はこの前、メトロポリタン美術館と『クローディアの秘密』について書いたその記事の後に、図書館で予約して読んだのだが、これはニューヨークからフロリダに引っ越してきた男の子(13、4歳くらいだろう)が、ある老女の大きな屋敷で「モディリアーニの(ほんものと思われる)ヌード画」を見つける、という話。この絵画が『ムーンレディ』というわけ。子ども、老女、絵画、秘密、というカニグズバーグのとくいな展開のストーリー。
 この話の中で、この「モディリアーニのヌード画」の謎(なぜほんもののモディリアーニの画がここにあるのか)を追求すると、それが1942年9月にアムステルダムで写されたある写真に結びついてゆく、という展開になる。 そしてその場所というのが、アンネ・フランクの「隠れ家」のあるプリンセン運河沿いにあるギャラリーという設定になっている。1942年9月なら、アンネは13歳、「隠れ家」にもぐって数ヶ月という頃だ。念のために書いておくが、アンネ・フランクはドイツ生まれのユダヤ人。
 僕がこの本を読んだタイミングにびっくり。僕が『アンネの日記』を、十何年ぶりかで読んだその直後だったから。(こういう小さな偶然にはもう慣れてきたが、とはいってもやはり…。)


 さて、今日は、ユダヤの神様と絵画について書こうと思う。
 この神様と「言葉」とは、とても相性がいい。ところが「絵画」との相性はといえば、これがとてもフクザツなのだ。
 ユダヤ民族が最初にこの「神」と出合ったのは、紀元前13世紀だということである。今から3千年以上前のことである。キリストより千年以上古い話である。映画『十戒』の主人公としても知られるモーセが「神」の声を最初に聴いた。旧約聖書にはもっと前の創世記の時代にアブラハム(ユダヤ民族の始祖)やノア(ノアの箱舟でおなじみ)が神と接していることが書かれているが、その神がモーセに言葉を送った「神」と同じかというと、どうもあやしい。ユダヤの様々な古文書や伝説が整理されて一冊の『聖書』(旧約)としてまとまるのはもっと後、紀元前4世紀の頃である。そのときに、ひとつの「神」として、物語を統一するために、そのように書かれている。
 とにかく、最初に「神」と出合った(発見した?)のは、研究によれば、モーセということになっている。
 モーセひきいる集団は、エジプトにいた。この時代、世界的に大飢饉がおそって、しかし、エジプトだけが食料に困らなかった。「ナイルの恵み」のおかげである。それで、人々はエジプトに集まった。その中にユダヤの祖先たちもいたのである。ところが、ある時期にエジプトの支配者がモーセに、出て行ってくれと言った。理由は(いろいろ研究がなされているが)わかっていない。あるいは、自分たちから、「こんなエジプトなんかでやってられるか!」と、出て行くことにしたのかもしれない。とにかく、彼らは出て行った。これが「出エジプト」の物語である。
 そしてモーセは「神」の声を聞いた。この場所はシナイ半島で、これは現在のスエズ運河から東の、逆三角形の形をした半島である。ここで「神」から「言葉」をもらい、励まされた彼らは、「約束の地」エルサレムへと向かったのである。
 彼らが最初に住んだ(攻め落とした)のがエリコという町だったという。

 このユダヤの「神」はヤーヴェという。
 この「神」は、ほかの神とは全然ちがう性質をもっている。『旧約聖書』では、神は自分に似せて人間を創造した、ということなので、姿形は人間のようであるらしい。だが、姿はみえない。現わさない。姿はそのように人間のようかもしれないのだが、人間とはまったくちがう全知全能の存在なので、人間といっしょに並んで座るというようなことはしない。その姿を描いてはいけない。不完全な人間ごときに描けるわけがない、というわけだ。かれは、天高いところから「声」という光を時にくれるのみである。
 「言葉」こそ、この「神」と人間をつなぐ唯一のものである。その「言葉」を受けとることのできる者を「預言者」という。(予言者ではない。) 「神」に「言葉」を預かる者というわけである。モーセをはじめ、ユダヤ民族代々のそういう預言者たちの聴いた「神の言葉」を整理してまとめたものが『聖書』である。
 そういうわけで、ユダヤ民族にとって、『聖書』は生まれたときから、中心に在るものである。
 どんな民族の神も、神の物語を持っている。しかし、ユダヤのように、それをきっちりと「文字」として、一冊の「書物」として、まとめている古代民族はあまりいない。僕は、アンネ・フランクやカニグズバーグが、あれほどまでに深い問題を、きっちりと「文字」に変えて表現しているのをみると、「物語を書く」というのは、ユダヤ民族ゆえの、受け継がれてきた特性なのだろうか、などと考えてしまうことがある。『アンネの日記』は、20世紀の聖書のようなもの、ともいえる。

 ところで、エジプトの神々はといえば、これは実にいろいろある。ユダヤ神のように唯一ではないし、複数の神々が合体したりもする。(そこは日本もおなじだ。)
 猫の姿をした神もいる。バテスト神という。エジプトではスカラベ(コガネムシ)も神聖な生き物だったし、ハヤブサの姿の神やマントヒヒやチーターの頭をもった神もいる。スフィンクスの像などをみても、エジプトの神々が、動物と近いところにあり、しかも沢山の神様がいて、エジプトではそれを絵に描いたし、像にした。そのことは、本や博物館で僕らはよく知っている。見て、面白い、と思う。
 ところが、古代のユダヤの人たちは、そういうエジプトの神々の像や絵を見て、「オエーッ、気持ち悪いッ!」と思ったようなのだ。それにひきかえ、俺たちの「神」は素敵だぞ、あんないびつなものじゃないぞ、と。
 ユダヤの神「ヤーヴェ」は、その姿を、絵や像に描いてはいけない。それがこの「神」の教えである。偶像崇拝を禁じたのだ。全知全能の「神」を、人間ごときが描けるわけなどない、この「神」はそれほど高いところに住んでいる。(日本の場合は、かまどにまで住んでいたりする。)

 ユダヤ教の宗教改革で生まれたのが、キリスト教である。ユダヤ教では律法(トーラー)を守ることを大事としているが、キリストはそれを守るだけでは意味がない、「愛」がないといけないと、「愛」を説いたらしい。ご存知の通り2千年前のことだ。キリスト教もはじめはユダヤ人改革派だけの宗教だった。やがてキリスト教は、他の民族にも受け入れられるようになり、広がっていった。しかし、ユダヤ教もキリスト教も、その「神」は同じ「神」である。「神」からもらった「言葉」とその解釈と、日々の慣習は異なるけれども、「神」そのものは同じなのである。
 6世紀になると、アラブ人ムハマンドのもとでイスラム教が生まれたが、この宗教の「神」も、やはり、ユダヤ教、キリスト教と同じ「神」である。 (であるから、エルサレムはこの3つの宗教にとって、同様に聖地なのである。)
 おなじ唯一の「神」から、それぞれの宗教は「言葉」を預かった。くり返すが、この「神」さまは、「言葉」をくれる、そして姿のみえない(絵に画くことのできない)神様なのである。

 そういうことなので、本来、キリスト教も、イスラム教も、「偶像崇拝禁止」であり、だから、「神」の姿を絵にしてはいけないのである。
 ところが、人間というのは、「神の姿」を拝みたいらしい。そういうことで、キリスト教は、キリストは神でもあり人間でもある、というような解釈をしつつ、人間でもあるキリストならばとキリストを描くようになった。あるいは、聖母マリアや、沢山の聖人たち…彼らを描くならば人間なのだから問題はない。そんなわけで、カトリックでは宗教画が描かれるようになった。とくにイタリアでそれは発展をとげた。
 「言葉は光」なのであるから、『聖書』を読むのが、この宗教の基本である。ところが、印刷機が発明される以前の「本」というのはたいへんに貴重なもので、だれでも入手できるものではない。だから、「神の言葉」を勉強した神父が教会で信者に話してきかせる。そのうちに、かれらが教会で話をし説明するのに“宗教画”が便利だとわかってきた。便利なだけではなく、宗教としての人気をかためるためにも、“宗教画”が教会の「華」となっていったのである。画のなかの聖者たちは物語を演じるスターである。そのようにして、中世の絵画は徐々に発展していった。
 イタリア・フィレンツェにジョット(ルネサンスのさきがけと呼ばれる画家)が現われ、つぎの時代には遠近法が発見され、華麗な‘ルネサンス時代’がやってきた。ミケランジェロやダ・ヴィンチが活躍した。彼らは、人間や風景や空間を「リアル」に描いた。 この「リアルに描く」というのは、古代ギリシャの彫刻にみられる特徴である。 ルネサンスは、過去の遺物(1500年以上)となっていたギリシャ・ローマ文化をもう一度掘り起こし、キリスト教の「神」のもたらす「愛」に、古代の文化を融合調和させたのである。というわけで、‘ルネサンス’にはキリスト教の聖人たちばかりでなく、ギリシャの哲人たちも描かれ、また、肖像画も発達した。
 このギリシャの文化(書物)は、実はヨーロッパ(ローマカトリック圏)にはもはや残っていなかった。ところが、そのギリシャの知恵の本(プラトンとか)は、イスラム圏の図書館に保存されていたのだというから面白い。アレキサンドリア(エジプト)やコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)の図書館に。それらの書物はアラビア語に翻訳されていたので、それに興味を抱いたイタリア人たちが、スラブ語に翻訳し始め、それがルネサンスの花の種となった。
 ところで、ギリシャの神は多神教なので、そのキャラも色とりどりである。その頂点に座すのは全能の神ゼウスであるが、この神は全能ではあるが、性格的には自己中心的であり、その意味では、完全とは程遠い。日本の神様もだいたいそうだが、神といっても欠点だらけなのである。(欠点だらけだけど神様なんだからしょうがないかあ、というのが日本の感覚?)
 ところが、ユダヤの「神」は、ほんとうの「完全」なのである。こんな「神」はそんじょそこらにはいない。そういう「神」を、モーセは、最初に見つけた。ユダヤ民族に言わせれば、いにしえから、「神」はすべての民族に話しかけてきた。ただその声をまともに受け取った最初の民族が、ユダヤ民族だったということだ。
 イスラム教では、「神」の偶像崇拝の禁止が固く守られ、その代わり建築などの装飾美術が発達した。キリスト教でも、東ローマ帝国の流れを汲む東方教会(ロシア正教など)では、「イコン」と呼ばれるものがつくられた。偶像崇拝はいけないというはじめの原則と、像を「拝みたい」という民衆の願望との間をとったような形となっている。

 15世紀にドイツのグーテンベルグにより印刷機が発明された。そのおかげで聖書が以前よりも容易に手に入るようになると、宗教改革の大津波が押しよせた。「神」である『聖書』はここにあるのだから、ローマ教会などいらない、という新しい考え方だ。危機感を感じたカトリックからは「イエズス会」が生まれた。そして、“宗教画”はその時代の大きなうねりを感じとり、ダイナミックに、動きを描くようになった。これがルーベンス、ベルニーニなどに代表される‘バロック時代’である。


 19世紀になって、写真の技術が実用化されてくると、今度は「リアルな絵」を描く意味がなくなってきた。写真がその役目を奪ってしまったのだ。肖像画を主な仕事にしてきた沢山の職人的な画家たちは不必要になってきた。
 そこで生まれたのが、印象派をはじめとする芸術、“近代絵画”である。これはパリを中心として生まれた。「リアルな絵」から、一歩前進し、新しい意味を見出そうとしたのである。
 “近代絵画”は、19世紀後半から、20世紀にかけて発展し、世界の画家達はパリに集まった。
 ヒトラーは“近代絵画”を“退廃芸術”としてにくみ、没収した。このことが小説『ムーンレディの記憶』のモディリアーニ謎の絵のゆくえに関わってくる…、という設定である。



 モディリアーニはイタリア・トスカーナ地方に生まれた。フィレンツェ生まれではないが、その近くである。フランス・パリに出たのは1906年。イタリアで生まれ、パリで絵を描くなら、これは画家として「王道」だ。しかもユダヤの「神」もついている。宗教心はあまりもっていなかったかもしれないが。
 没したのは1920年。35歳。墓はパリ、ペール・ラシューズ墓地にあるが、ここには沢山の有名人が眠っているようだ。たとえば、マリア・カラス(歌手)、プルースト(作家)、コロー(画家)、ショパン(作曲家)など。


 アンネ・フランクは、「絵ごころ」はもっていなかったようだ。ただ、『アンネの日記』の中の架空のともだちの「親愛なるキティ」は、小学校の時の友達のキティという説もある。(アンネの父はそう考えていたようだ。) このキティは、絵を描くのがとくいだった。アンネが話を書いてキティが絵をつける、そういうことをやっていたという。


   ◇     ◇     ◇     ◇

 さて、そろそろ、この「はんどろやノート」、幕引きを考えています。 あと少し、書きます。
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ハイネケン

2008年12月11日 | はなし
 「Heineken」はオランダのビール。 1863年にハイネケン氏により創設された。
 オードリー・ヘプバーンの母(エラ)はオランダの貴族の娘で、アルフレート・ハイネケン三世とおともだちだったらしい。


  アンネ・フランク『アンネの日記』より

〔 きのうのことでした。マルゴーとペーターとわたしでジャガイモの皮むきをしているとき、なんのはずみか話が猫のモッフィーのことになりました。「ねえ、モッフィーが雄だか雌だか、まだ知らないわよね、わたしたち」わたしは言いました。
 するとペーターが即座に、「ばかだな、わかってるさ、雄だよ」と言います。
 わたしは笑いだしました。「えーっ、じゃあ雄のくせにおなかが大きくなるの?不思議ねえ! 〕

 モッフィーはただの肥満猫だったらしい。この猫はペーターが飼っていた。
 ペーター(ペーテル)はとても内気な青年なので13歳のアンネとはなかなかうちとけなかったが、やがて話すようになり、アンネは、思春期のめざめとともに1944年1月のこの日記の頃(14歳)になると、ぺーターにつよく恋心を抱くようになる。ただしそれはほとんど表にはあらわず、日記の中でのことである。 (彼、ぺーターも戦後を生きることはできなかった。)

〔 …彼は無造作にモッフィーを抱きあげると、仰向けにひっくりかえし、起用に頭と前足を押さえながら講義を始めました。「いいかい、これが雄の生殖器だ。こっちのこれは、べつになんでもない、ただの毛。そしてここが肛門」
   (中略)
 「ねえペーター、ゲシュレヒツタイル(生殖器、ドイツ語)はヘスラハトスデール(生殖器、オランダ語)でしょ。でも、男性の場合と女性の場合とじゃ、呼びかたがちがうのよ」
 「それぐらい知ってるさ」
 「女性の場合はワギナっていうの。そこまではわたしも知ってる。でも、男性の場合はなんて呼ぶのか知らない。」
 「ふーん」
 「とにかくね」わたしはつづけました。「いくら躍起になってこういう言葉を知ろうとしても、出くわすときって、たいてい偶然なのよね」 〕


 アンネ・フランクはドイツ・フランクフルト生まれのユダヤ人。
 1933年、ヒトラー政権が誕生した年にこの家族はオランダ・アムステルダムに移住した。まだナチスによるユダヤ狩りは行われてはいなかったが、住みづらくなる予感が充満していたのだろう。 アムステルダム「隠れ家」での生活は1942年7月6日から始まる。




 オードリー・ヘプバーンの母、エラ・ヘームストラは1920年に結婚をして、南米のギニアに行っている。その相手とは二人の息子(オードリーの異父兄になる)をもうけたあと離婚、その後エラは再婚するが、その結婚式はパタヴィア(現在のインドネシア・ジャカルタ)で行われた。この夫婦はやがてオランダに戻り、そこで娘オードリーが生まれたわけである。



 1944年6月6日のノルマンディー上陸の後、本格的な連合国とドイツ軍とのたたかいが始まった。 ヘプバーンの一家(オードリーの父はすでにイギリス時代に家を出ていった)がこの時期オランダ・アルンヘムにいたことは前に述べたが、このアルンヘムはこの年の9月、激しい戦場になった。この戦いはマーケット・ガーデン作戦とよばれ映画(『遠すぎた橋』)や戦場ゲームになっているようだ。 この戦火の中にオードリーはいたのである。
 住居の75%は破壊された。ドイツ軍は強く、連合国の作戦は失敗に終わった。ドイツ軍はじゃまな住民(連合国に協力するから)をアルンヘムから立ちのかせた。
 アルンヘム(アーネム)にはクレラー・ミューラー美術館があり、現在ここにはゴッホの『アルルの跳ね橋』の画がある。

 戦争が終わると、「餓え」が待っていた。そのときに運び込まれたUNPRA(国際復興機関、のちのユニセフ)の救援物資、そしてカナダ軍が市の広場で行ったハリウッド映画の戸外上映が、15歳の少女のオードリーに希望をあたえたという。 晩年のオードリー・ヘプバーンが、ユニセフ親善大使として積極的に活動していたことは、よく知られている。 オードリーの母エラは、オードリーに、「(愛を)あたえる人間になりなさい」と言われて育ったそうである。
 オードリーの家族は、アムステルダムへ出た。これはオードリーのバレエの才能をのばすために母がそうしたという。 やがて家族はイギリスへ行く。



 アンネ・フランクも映画が大好きだった。映画スターの写真をコレクションし、映画のストーリーや俳優や評判を、映画をまだ観ていないのにぺらぺらとしゃべったりするので、それじゃあ映画を観る必要もなさそうだと言われたと、これも日記に書いてある。



 追記:  僕は、おもいちがいをしていたようです。『アンネの日記』の中で「ペーテル」にアンネは恋をしているのですが、これは同じ「隠れ家」に住んでいるペーターとは別人のようです。「ペーテル」とは、アンネの夢の中の(つまり記憶の中の)、小学校時のクラスメイトの男の子でした。 (この本を僕は拾い読みしているために、こういうかん違いが生じます。) ただし、口かずの少ないペーターともっと話したいとアンネが思っているのはたしかなようです。
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ムーン・リヴァー

2008年12月09日 | はなし
〔 彼女はまた猫を一匹飼っており、ギターも弾いた。日差しの強い日には髪を洗い、茶色の雄の虎猫と一緒に非常階段に座って、ギターをつま弾きながら髪を乾かした。その曲が聞こえると、僕はいつもそっと窓際に行って、耳をすませた。 〕
    (トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』)

 映画『ティファニーで朝食を』の名シーンはといえば、やはり、オードリー・ヘプバーンが窓辺でギターを弾き「ムーン・リヴァー」を歌うシーンだろう。あの映画を観ると、ずっと後になっても、あのシーンが映像としてうかんでくる。そういうシーンが一つあるだけで、その映画の価値は永遠である。
 カポ-ティにとっては不満足な映画だったが、オードリーはたしかに魅力的だった。

 世界を見るために流れゆく私たち
 未知の世界がこんなに広がっている
           …       ♪♪   ♪    

 「ムーン・リヴァー」は映画のために作られた曲である。作曲したヘンリー・マンシーニ(映画『ピンクパンサー』や映画『ひまわり』のテーマ曲でも有名)は、「あのメロディーには苦労しました」と、そして、「オードリーがいなかったらこの曲は生まれなかったろう」と話している。 試写会の後、パラマウント社長が「あの歌は削ったほうがいいな」と言った。普段は自己主張の少ないオードリーが立って言った。「絶対、削らせません。」
 小説版では、ホリーの歌う場面は、次のようになっている。

〔 こんなのもあった。「眠りたくもない。死にたくもない。空の牧場をどこまでもさすらっていたい」。どうやらこの歌が彼女のいちばんのお気に入りのようだった。というのは髪がすっかり乾いてしまったあとでも、いつまでもこの曲を歌い続けていたからだ。太陽が沈んで、薄暮の中で家々の窓に明かりが灯り始めるころになっても。 〕

 ホリー・ゴライトリー(この小説の主人公の女性)は、「僕」に向かってこう聞く。

〔 「ねえいやったらしいアカが心に染まるときってあるじゃない」 〕

 それはブルーになるみたいなことかと「僕」が聞くと、ホリーはそうではないという。「もっとぜんぜんたちが悪いの」と。
 このいやったらしいアカ」というのは村上春樹の訳だが、原文では「the mean reds」となっている。
 彼女はthe mean reds」に染まりかけたとき、どうしたらよいのかと考えた。お酒ではだめだった。恋人のラスティーがマリファナが効くというのでためしてみたが、「ただ意味もなくくすくす笑ちゃうだけ」。

〔 いちばん効果があったのは、タクシーをつかまえてティファニーに行くことだったな。そうするととたんに気分がすっとしちゃうんだ。その店内の静けさと、つんとすましたところがいいのよ。そこではそんなにひどいことは起こるまいってわかるの。隙のないスーツを着た親切な男の人たちや、美しい銀製品やら、アリゲーターの財布の匂いの中にいればね。 〕

 彼女は、ダイヤモンドが欲しいわけではない。ほしいのは… 「ティファニーのような場所」…。 そんな場所が…

 〔 現実の世界のどこかに見つかれば、家具を揃え、猫に名前をつけてやることもできるのにな。 〕



 オードリー・へプバーンにとっては、バレエを踊ること、スクリーンの中で生きることが、「いやったらしいアカ」に染まらないでいるための、「ティファニーのような場所」だったのかもしれない。

 映画『ティファニーで朝食を』は1961年の作品だが、その前年にオードリーは待望の赤ちゃんを出産している。(オードリーはその前に一度流産を体験している。)
 オードリー・へプバーンは1954年にメル・ファーラー(俳優・映画監督)と結婚した。彼女はミュージカル映画『リリー』を観て、その主役のメル・ファーラーをとても好きになり、それがきっかけで友人を通じて親しくなった。メルがオードリーに初めて電話したとき、彼女ははしゃいで、「ああ、『リリー』のあなたはすてきでしたわ!」といった。



 映画『リリー』の原作はポール・ギャリコである。この物語は『七つの人形の恋物語』という題の小説として読むことができる。ほかに類をみないユニークなかたちの恋の物語で、傑作である。
 ポール・ギャリコは1897年ニューヨークに生まれ、1921年にコロンビア大学を卒業した。(アシモフもコロンビア大学だ!) その後、スポーツライターとして活躍した後、いろいろな小説を書いた。 映画『ポセイドン・アドベンチャー』といえば、だれも聞いたことがあるだろう。原作は彼の作品である。

    ←黒いほうがジェニイ、白は「ぼく」ピーター

 また、ギャリコは猫が好きだったことでも有名で、『猫語の教科書』なんてのも書いている。僕の持っている文庫版『ジェニイ』(猫が主役の物語)のうしろの解説に、「意を決して1936年、すなわち39歳のとき、『デイリィ・ニューズ』から退社して、イングランドの海峡に面したサムカムという小さな漁村にコティジを借り、グレート・デーン1頭と、24匹の猫といっしょにしばらくそこで暮らした」とある。ここで小説を書きはじめた。

 1940年5月、ドイツ軍はオランダ・ベルギー・ルクセンブルク、そしてフランスに進攻。新兵器新戦術を駆使するドイツ軍の勢いに潰走したフランス軍イギリス軍の兵士たちはダンケルク(フランス北部の港)に追い詰められた。ポール・ギャリコはこの報を聞いていてもたってもいられなくなり、海軍に志願するも、入隊かなわず。  (この頃20歳アシモフは女性とジェットコースターに乗って恐怖で絶叫。)
 その体験が後にギャリコの名作『スノー・グース』を生むことになる。せつなく、美しい物語である。
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Arkadia

2008年12月07日 | ほん
 「Arkadia(またはArcadia)」が今日のタイトルである。

 アーカディア(創元推理文庫版では「アーケイディア」だった)という名の少女が、アシモフの『銀河帝国の興亡』三部作(ファウンデーション・シリーズ)の最終話『第2ファウンデーション』のヒロインとして登場する。彼女は、14歳で、小説家になることが夢だった。だから、大人たちが数人集まって、謎とされる「第2ファウンデーション」の探索を密かに計画したとき、それを知った彼女は、こっそり宇宙船に乗り込んだのだ! (つまり「密航」である!)


〔 「あら、まーあ、学問的評価なんて、だれが問題にして?」 彼女はかれが気に入った。なぜなら、もう間違いなく彼女をアーカディと呼んでくれているからである。 「わたしはおもしろい小説を書くつもりよ。そして、たくさん売れて、有名になるの。売れて有名にならなければ、本なんか書いても意味ないでしょう。年寄りの大学教授に知ってもらうだけでは不満だわ。みんなに知ってもらわなければね。」 〕


 ということから連想して、松本零士の漫画『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』のアルカディア号を描いてみた。

 「Arkadia」とは、ギリシャにある地名であるが、それ以上の意味を含んでいる。ギリシャの詩の中で「アルカディア」といえば、「理想郷」という意味になる。ここに、「牧歌的な」「純朴な」というような意味も含まれている。するとアシモフの小説の14歳の少女アーカディアは、「純朴な乙女」というような意味のネーミングであろう。
 松本零士氏が、キャプテン・ハーロックの駆る船に「アルカディア」とつけた理由は、僕は知らない。

 ところで、昨日僕はシービスケットという馬について書いたが、この馬は、サンタアニタ競馬場での劇的勝利を花道にして引退した。そうして1947年まで生きて、14歳で死んでいる。その馬の遺骨はリッジウッドという山(サンタアニタの北にある)に埋められ、そこにシービスケットの馬主ハワードは樫の木を植えた、というようなことが書いてあったので、僕はその山の位置を確認したくて、地図を調べてみた。その時に、おもしろい偶然(僕はこの言葉を何度使っただろう)を見つけた。サンタアニタ競馬場は、ロサンジェルス郊外にあるが、その都市の名前は「Arkadia」なのである。

   


 さて、もう一度、『銀河帝国の興亡』の少女アーカディアにもどるが、「小説家になりたいの」という彼女の「銀河の端から中央へ」と駆け巡る大冒険の物語を再読しているうちに、僕は、アンネ・フランクのことを思いうかべたのである。
 以下は『アンネの日記』の1944年5月11日木曜日の日記から。

〔 さてここでべつの話題。あなたもとうからご存じのとおり、わたしの最大の望みは、将来ジャーナリストになり、やがては著名な作家になることです。はたしてこの壮大な野心(狂気か?)が、いつか実現するかどうか、それはまだわかりませんけど、いろんなテーマがわたしの頭のなかにひしめいていることは事実です。いずれにせよ、戦争が終わったら、とりあえず『隠れ家』という題の本を書きたいとは思っています。うまく書けるかどうかはわかりませんが、この日記がそのための大きな助けにはなってくれるでしょう。 〕

  彼女はこのとき14歳だった。 13歳の誕生日から日記をつけはじめたアンネ・フランクは、15歳でその生涯を閉じた。もし彼女が生きのびていたら(もう少しだったのに!)どんな本を書いただろうか、どんな冒険をしただろうかと、アシモフのSF小説を読みながら僕は思ったのである。
 上の文中で、「あなた」というのは、アンネの架空の友人キティのこと。『アンネの日記』は、キティへの手紙のような形で綴られている。


 アンネ・フランクがアムステルダムの隠れ家で、このように日記を書いていた時、オードリー・ヘップバーンも同じオランダ国の別の街アルンヘムに棲んでいた。オードリーとアンネは同じ年に生まれたので同じ年齢だ。
 イギリスがドイツとの戦争に踏み切ったとき、イギリスにいたオードリーと家族は母の決断でオランダへと移住する。オランダが中立国であったので、オランダのほうが安全だと思い、そしてオランダはオードリーの母にとってなじみの国であったから。 だが、その判断は間違っていた。1940年5月、ドイツは宣戦布告なしにオランダを占拠した。
 オードリーの家族はユダヤではないので、隠れる必要はなかったけれど、被占領だから何事も不自由だった。子供であるオードーリーは、レジスタンスの地下組織の「連絡係」として働いた。靴底にメッセージを隠して。子供は大人より自由度があったから。
 この時期にオードリーはバレエに夢中になった。バレエを習うには少し年齢的には遅かったが、才能の輝きは十分にあったようだ。1944年1月、少女はアルンヘム市立劇場での初舞台で優雅に踊った。14歳。


 1944年6月6日、連合国はノルマンディー上陸作戦を開始した。(ノルマンディーはフランスの北の一地方) ドイツに奪われたヨーロッパを取り戻すために練られた大作戦である。
 『アンネの日記』のこの日の日記には、彼女たちがイギリスのラジオ放送で「This is the Day」(今日がその日だ!)と放送されたのを聴いて、開放される時への期待をふくらませ、その喜びが綴られている。

〔 《隠れ家》はいまや興奮のるつぼです。いよいよ待ちに待った開放が実現されるのでしょうか。 〕
  
〔 いつも喉もとにナイフをつきつけられて暮らしてきました。ですがいまや、味方の救援と開放が目の前まで迫ってきているのです。もはや問題はユダヤ人だけのものではありません。オランダ全体の問題なんです。オランダ全体と、そしてヨーロッパの被占領地域全体の。ひょっとするとマルゴーの言うように、うまくゆけばわたしも、九月か十月にはまた学校へ行けるようになるかもしれません。 〕

 ほんとうに、あと少しだったのに。



 アイザック・アシモフは14歳のとき、高校生だった。(翌年は大学生になる。) 新聞配達と家のキャンディーストアの店番で忙しく働いていたので、外交的な性格にもかかわらず、親しい友人はいなかった。図書館で本を借りて読むのがアシモフの楽しみだった。図書館で3冊借りて、読みながら帰った。問題は読んでいない残りの2冊をどうするかだが、それは1冊ずつ両脇にはさむことで解決した。その姿を見て、母親が「みっともないからなんとかしなさい」と言った。母としては、そんなみっともない姿を見せては、不快に思った店の客が逃げていくと心配したのである。 だが、アシモフはやめなかった。
 アシモフの言い分はこうである。
 自分は、本を読まないときも、道を歩く時には空想にふけりながら歩いている。これはやめることができない。そういうときには、何も見ていないから、道ですれちがって誰かが挨拶をしてきても、自分は気がつかない。そういうことがよくあるのだ。そうなると相手に失礼だし、それで怒る人もいる。客商売だから、これはまずい。けれども、本を読んでいて、挨拶を返さないからといって怒る人はいないだろう。だから、キャンディーストアの商売のためには、本を読みながら帰ったほうがいいのだ。
 家でも学校でも〔自分は変わり者だったらしい〕とアシモフは書いている。



 僕は12~13歳の頃、『週刊少年マガジン』を熱中して読んでいた。『あしたのジョー』の矢吹丈がカーロス・リベラやホセ・メンドーサと闘っていたころの『マガジン』である。
 この中に『男おいどん』があった。これが松本零士の出世作である。「タテかヨコかわからない(ほどの分厚い)ビフテキ」を食べるシーンが妙に印象深く残っている。(今はビフテキと言わずステーキと言うが。)
 『男おいどん』が終了して、そのしばらく後に、特別版読みきりとしてこの漫画は登場し、主人公大山昇太のアパート上空に巨大宇宙船が現われたりして驚いたものである。零士氏が、四畳半サルマタケ世界から宇宙へ飛び出た瞬間である。(『宇宙戦艦ヤマト』より少し前だったのではないかと思うが、定かではない。)
 14歳の僕はといえば、そろそろ漫画を読むのに飽きはじめていた頃だった。

  
    吾妻ひでお『不条理日記』から
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マリリン・モンロー

2008年12月06日 | はなし
 マリリン・モンローにみえない? 口が大きく開いていないからね。 元の写真の彼女が若いということもあるけれど、やはり口が大きくないと、彼女ではないみたいに思えますね。 あの「大きな口」も、彼女の考えた演出だったのかなあ。


 『ティファニーで朝食を』をトルーマン・カポーティが発表したのは1958年。カポーティはその映画化権をパラマウント映画に6万5千ドルで売った。

 〔 マリリン(モンロー)は、わたしが考えたホリーゴライトリー役の第一候補だった。ある映画で彼女を見ていて、彼女なら完璧だと思った。ホリーにはどこかしらいじらしいところ__未完成な感じがなくてはならなかった。マリリンにはそれがあった。 〕 

 マリリン・モンローも大乗り気であった。だが結局それは実現しなかった。
 カポーティはこう言った。

 〔 パラマウントはあらゆる点でわたしを裏切って、オードリーにこの役を与えた。 彼女はこの役にまったく向いていなかった。 〕

 しかし映画はヒットした。オードリー・ヘップバーンの演技も評価され、ペットショップでは、オレンジ色の猫の需要がかってないほど高まった。
 しかしカポーティとすれば、「この小説はむしろ苦い味をもっていた」のに、「映画は甘ったるいヴァレンタインの贈り物になってしまった」のである。


 小説『ティファニーで朝食を』を読むと、ニューヨークに来る前に、ホリー・ゴライトリーがどこにいたかがわかる。ハリウッドにいたのである。ハリウッドでホリーは女優として映画デビューの予定だった。その寸前、ホリーはその仕事を放り投げて、ニューヨークへと出ていったのである。
 もともとはサンタ・アニタ競馬場でうろついていたホリー・ゴライトリーを、O・Jという俳優エージェントの男が、こいつは掘り出し物だと思って女優として育てようとしたのである。
 彼は、ニューヨークへ行ってしまったホリーに驚き、追いかけ、戻るように説得した。しかし彼女の返事は、「でも私はそういうの求めていないの」というものだった。
 「ほう、じゃあお前さんはいったい何を求めているんだ」
 「それがわかったらあなたにまっさきに知らせてあげるわね」


 この話を僕がしているのは、じつは、「サンタ・アニタ競馬場」に反応したからなのだ。 サンタアニタはハリウッドの近くにある。


 このブログではもう何度か書いたが、昔アメリカにシービスケットという馬がいた。
 その馬は、信じられないほどの「強力エンジン」を搭載していたが、体格は小さく、脚は曲がっていて、だれもそのことに気づかなかった。シービスケットはしかも真面目に走らなかった。「競争」というものを「あそび」としか思っていなかったので、全速力で走らず、じゃれて面白がっていた。眠るのが大好きな馬だった。
 小説『シービスケット』、映画『シービスケット』は、その馬の「すごいエンジン」に最初に気づいて、育て、1930年代の全米を熱狂させた男達の物語である。物語といっても、シービスケットは実在したし、その馬の走りが大興奮を呼んだことも事実である。アメリカ競馬史上最大の興奮を。
 1938年、無敵のウォーアドミラルとの一戦を前に、調教を見るだけのために4万人の群集があつまった。場所はボルチモア・ピムリコ競馬場。 「どちらが勝つと思うか」だれもがその話題をした。「いい勝負になるだろう。でも最後はウォーアドミラルだろう。」 シービスケットが勝てるとはほとんど誰も思っていなかった。条件はウォーアドミラルに有利なものであったし、その馬は負けたことがなく、見栄えも完璧だった。 ただ、シービスケットのキャラには、夢を見させてくれる何かがあった。
 決戦の日が来た。 勝ったのはシービスケットだった。
 小さな馬シービスケットは相手をもてあそぶように、走りながら相手の目をにらみ(それがシービスケットのくせだった)、「無敗の提督」ウォーアドミラルを突き放したのであった。 当時のアメリカでは、だれもがこの小さな脚の曲がった強い馬の話題を口にした。



 そのシービスケットが脚を折り、しかしその復活の時が2年後に来た。 サンタアニタ・ハンデ戦。 「復活? うそだろう? でも、勝てるわけないよな…」と、だれもが思った。だが、「勝てる」と思っていた者がいた。シービスケットと、その騎手ポラードである。ポラードも骨折をし、馬と騎手は、ともに坂道をゆっくりと登ってきたのである。この日の復活のために。ポラードはこの馬のほんとうの強さを知っていた。
 シービスケットは自分のホームグラウンドであるサンタアニタで勝ったことがなかった。だからこそ勝ちたいサンタアニタ・ハンデ戦であった。ファンも、勝たせたいと思っていた。でも、無理だろう、とも。
 映画『シービスケット』では、サンタアニタ競馬場をトップで駆け抜ける彼らの姿がラストシーンとして描かれている。どの馬も、シービスケットの敵ではなかった。彼ら(馬と騎手)は走り抜け、7万8千人の観客は狂ったように叫び声をあげた。 1940年3月2日のことである。


 アイザック・アシモフがアイリーンとニューヨーク博覧会のジェットコースターに乗って絶叫したのは、その2ヶ月後のことになる。



 『ティファニーで朝食を』の設定は、(よく読むと書いてあるが)1943年のようである。 前に僕は、「たぶん、(アメリカが)まだ日本とは開戦していない」と書いたが、それは間違いだった。
 日本とアメリカの戦争が始まったのは、1941年12月8日である。だからこれは、日米が戦争中の時期の、ニューヨークでの物語なのである。 しかしこの小説は、「戦争中」であることを微塵も感じさせない。そのことにもまた、この小説のかくされた意味があるかと思う。
 「ティファニーのような心の落ち着ける場所」をホリーは求めていたのだから。
 この小説の「ホリー・ゴライトリー」という女性そのものが、読者にとっての「ティファニーのような場所」なのだ。戦争というようなごちゃごちゃした現実とははなれた、静謐な…。ホリーは、テキサス生まれの田舎娘ではあったけれど。 「ティファニー」の店は現実に在るけど、そこで「朝食を」食べることはできない。棲むことはできないのだ。


 アイザック・アシモフはこのとき(日米開戦時)、21歳。 彼は大学院生で、SF小説も書いていた。
 1941年9月、アシモフは『ファウンデーション』を書き上げた。これが彼の代表作となる<ファウンデーション・シリーズ>の第1作目である。
 このときヨーロッパ戦線では、ドイツがソ連のモスクワに迫っていて、どうなるのかとアシモフはそれを気にしていた。その場所は、彼が生まれた地域なのである。3歳までだから、記憶のかなたではあったが。
 同年12月7日、夜。 アシモフは『時の猫(Time Pussy)』という短い小説を書いていた。これは、猫の体の内部(消化器官)が、現実よりも3時間ほど未来にずれている、そういう猫を飼っている男の話である。その小説を書き終え、ラジオをつけたアシモフは、その後、びっくりして、寝ている父を起こす。
 「パパ、パパ!」
 「何事だ?」
 「戦争だよ。日本が爆撃したんだ」
 アシモフは、日本と戦争になるとは、その時までまるで思っていなかったのだった。(そういううわさもあるにはあったけれど。)
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