はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

8・30詰将棋の解答

2007年09月09日 | つめしょうぎ
8月30日発表の自作詰将棋の解答です。

▲2四金△同玉▲3四金△同玉▲2五金△4四玉▲3五金△5四玉▲4五金△6四玉▲5五金△7四玉▲6五金△8四玉▲7五金△9四玉▲8五金まで、17手詰

〔解説〕初手は▲2四金です。ここを▲2五金とか▲3五金では△1三玉と逃げられて詰みません。
初手▲2四金に、△同歩は、▲4一馬以下詰み。それで2手目は△同玉と取りますが3手目▲3四金と捨てるのがこの詰将棋のハイライト(これがすべて笑)。ここで玉方の応手が2通りあります。
 A.△同玉
 B.△同歩
このAコースが「正解手順」となり、Bコースが「変化」です。このB△同歩以下を解説しましょう。
 △同歩に、▲4二馬と角を取ります。これに対し玉方3三に合駒をしますがこの時に飛金以外の駒で合いをするのは、▲2三と△同玉3二角以下詰みます(これは15手詰)。なので▲4二馬には3三金(飛でも同じ)が最強の応手で、これには▲同馬とします。以下、△同玉▲3二金△2四玉▲3三角△1四玉▲2五金△1三玉▲1二と△同玉▲2二角成で詰みます(17手詰)。このとき、「歩」が持駒として余ります。

 さてここがコメントをくださったMさんご指摘の問題点です。(Mさんどうもありがとう。) このBコースの変化も17手詰です。Aコースの「正解手順」も17手、Bコースの「変化」も17手ということになります。「これでは答えが2つになるではないか」という問題が生じるのです。
 詰将棋は「玉方は最長手順で逃げる」というルールがあります。このルールは昭和の初期に、詰将棋の中心メンバーでもあった塚田正夫名人あたりがそのように定めたと聞いています。雑誌などに解答を送るときに、そういうことを決めておかないと困るからそうしたのです。ところが、じゃあ「本手順」と「変化」と同じ手数が2つ以上ある場合はどうする、という問題が残りました。今回の17手詰のような場合です。これを「変同」(変化同手数)とよびます。「変同」は、できれば避けたい。答えが2つある場合、回答者(特に雑誌での懸賞の場合)がどっちを書いていいかわからないからです。
 ところが。
 同じ「変化同手数」でも今回のように、
  Aコース = 駒が余らない
  Bコース = 駒が余る
という場合、駒の余らないAを正解手順とする、と(僕は)聞いています。だから問題ないのだ、と。(ほんとなのでしょうか?)

 それを僕が聞いたのは、僕の詰将棋友達T君からです。
 T君は、僕が詰将棋をつくりはじめた時に知り合った15歳以上年下の詰将棋友達なのですが、彼と出会えたのは僕にとってとても幸運なことでした。T君は中学の時から『詰将棋パラダイス』を購入している詰将棋マニアで、『将棋世界』誌の「詰将棋サロン」で入賞もしています。
 「変同」はだめだ、というのもT君におしえてもらいました。
 あるとき僕は、T君を相手にこう言いました。
半「だめなんだよな、この詰将棋、きのう作ったんじゃが… どねえしても変同が解消できんのじゃ…」
T「それ、見せてください… なるほど… あ、でも、これは大丈夫ですよ、変同じゃないです」
半「え? 変同じゃろう? ほら、どっちも13手…」
T「この場合はいいんですよ。変化のほうは駒が余るでしょ」
半「えーっ! そうなん?」
T「そうなんです。駒が余らない方が正解とはっきり判るからいいんです。変化の方が長くて駒余りの場合はモンダイじゃけど」
半「あれ、そうなんかあ、へー!」

 と、そんな感じで知ったのです。これは詰将棋マニアでないと考えない問題です。ただ、このT君の発言が間違っている可能性もあり、ホントのところはどうなんでしょうね? 僕は、T君を信用して「これでOK」ということにしています。

 さて、今回の詰将棋、内容自体は単純です。マニアックな自己批評をすれば、玉方の角(4二)がただの質ゴマの役目しかないところが「はづかしい」ところ。まあ、こんなのが僕らしい感じもする。



 ところで、さきに話したLPSAの「日めくり詰め将棋カレンダー2008」、選考が終わったんですって。応募総数600かあ! 採用確率60パーセント! ドキドキ…、です。
       

王座戦   羽生善治 1-0 久保利明

古武道、アインシュタイン、そして部活

2007年09月07日 | はなし
 甲野善紀(こうのよしのり)さんを描いてみました。古武道の人で、最近はよくテレビにも出ていますね。このブログ内では竹内敏晴氏のことを書いたときに名前だけ出てきます。僕がこの人を知ったのは、14年くらい前かな、光文社カッパサイエンス『古武術の発見』という本を買って読んだのですが、これは甲野さんと、養老猛司(解剖学の専門家)の対談本です。
 この本によると、甲野さんは、20歳のころ、「運命というのは最初から決まっているのか否か」について、ノイローゼになるほど悩んだとのこと。その結果、『無関門』という禅の本の中にあるヒントを得て「運命は初めから完璧に決まっていて、しかも自由だ」と自分なりの結論を得たのだそうです。それが、同時に読んでいたアインシュタインの「光は波であって、同時に、粒子である」という話とぴったり重なって、それまでの鬱がスーッと消えた。で、原理としてはこれで一応はわかった、あとは、このふつうの理論では矛盾している二重性を、どうからだで実感するかだ、と考えた。それで、
 「よし、武道をやろう」
と、甲野さんは、決めたのだそうです。

 こういう話を聞くと、男ってバカだな~、って思う。イイ意味でネ。

 この本には、実在した古い時代の武術の達人の話も出てきます。たとえば、松林左馬之介無雲。(サマノスケムーン …いい響きだ) 「へん也斎」(変野菜?)という名も持っていますが、この人は信州松代の出で、白土三平のマンガのキャラとしても登場しているんです。(そのマンガ、探してみたのだが…わからなかった、押入れのどこかにあるはずだが)

 時々ですが、僕も「ナンバ走り」練習してます。甲野善紀の「井桁崩し」、ナマで観てみたいナ~。


 僕の手元に6年前に録画したNHKの番組のビデオがあります。甲野善紀の名前が新聞TV欄にあったので録画したのですが、それは桐朋学園のバスケットボール部の先生の話でした。
 桐朋学園のバスケットボール部の「奇跡」についてご存知ですか。桐朋学園は東京の学校ですが、ここは、音楽や演劇に力を入れていることで有名ですが、かなりの進学校でもあります。
 元実業団リーグの選手だった金田伸夫さん。この先生がこの桐朋の中・高のバスケットボール部の監督になり、金田先生はガンガン熱血指導をして、このバスケット部を都内ベスト4まで導きます。進学校なので練習時間は1日80分だけ、平均身長172cm、それでこの成績ですから、たいした指導力です。
 生徒たちは受験勉強になれています。要領よく先生の指導にあわせて処理していきます。金田先生はもともと選手としては背が小さい方なので、背の小さなチームが大きなチームと戦うための戦術を教えて、成功したのです。
 ところが金田先生は「へんだなあ」と思います。生徒たちが、それほどの成績でも期待したほど喜ばず、負けてもそれほど悔しそうではない。手ごたえがありません。そんなふうに感じているうちに、部内での「いじめ」が発覚しました。強いチームになったのに、ちっともうれしそうでなく、いじめがある… 「なんのための部活なのか…」と金田先生はすっかり自信を失います。
 そこで考え方を変えよう、という思いから、なにかのきっかけになればと、近くに住んでいる古武術の甲野善紀さんをよんで、その動きを生徒にみせました。
 甲野さんの動きは、すごい。(これを見るために、僕はこれをビデオに撮ったのだ。)
 古武術家の、そのスゴイ動きを目の前で見た生徒たちは、「この動きを練習に生かしたい」と言い始めます。先生は、よし、じゃあやってみようということになりました。でも、具体的にどうやっていいかわからない。わからないところから、先生と生徒が工夫して一緒に考えるようになった、というのです。それまでの金田先生は、生徒たちにとって「なるべく接触したくない先生」でしたが、そのイメージも変わってきました。
 動きの並列処理、ナンバ走り、捻らない動き、テイクバックをとらないスローイング… 甲野さんは教えません。「私の動きを見て、自分なりに学んでほしい」という姿勢です。
 自分で工夫して考えるようになった生徒たちは、生き生きとしてきました。自分が見つけた知恵を、同僚や先輩、後輩、先生に教えていきます。このビデオを見ていると面白いですよ。座布団を頭にのせて歩いたり、壁に向かって肩甲骨を動かすトレーニングをしたり… そして編み出した「桐朋オリジナル空中パス戦術」。マンガみたいです。
 そんなふうにして生まれたチームが、インターハイ全国ベスト16になったのです。平均身長172cmの進学校チームが、です。 この話は、今ではずいぶん有名なようで、けっこうみんな知っていますが。
 この時に最も有効だったのが「ナンバ走り」だそうです。これは極端にいえば、右手と右足を同時に出す走り方で、「体を捻らない」ことで体力のムダな消耗を減らせるというわけ。小さな選手たちの変な動き、減らない体力、それに翻弄される巨人チーム… おもい浮かべると愉快になりますね!


 アインシュタイン博士が、「光は波である」という意見が主流となっていた物理界に、「いや、波であると同時に、粒子でもあるよ」という論文(光量子仮説)を発表したのが1905年。これがその後、「量子力学」の基礎となりました。
 またこの年にア博士は「特殊相対性理論」も発表しました。これは「時間って、縮んだり伸びたりするよ」という驚くべき内容でした。1905年、これは日本では、明治時代(38年)のことです。

久保利明八段

2007年09月05日 | しょうぎ
 久保利明八段、32歳、A級棋士、兵庫県出身、タイトル獲得経験なし。

 久保八段が、明日6日から始まる王座戦5番勝負の挑戦者として登場する。相手は羽生善治だ。
 王座戦の挑戦者を決める対局は去る7月31日に行われた。相手は名人・森内俊之。この将棋がすごい将棋だった。どんなふうにすごいかと言えば「笑いたくなるような相居玉戦」だったということだ。「居玉戦」というのは、「玉」が初めの位置から動かないまま戦うということで、シロウトにはよくある。しかし挑戦者決定戦で出るなんて! しかも名人森内は取った飛車を自陣に打ちすえ、玉の上に二段重ねの飛車が…。(僕はリアルタイムでネット観戦していました)
 『将棋世界』で先崎学八段はこの将棋をその面白い内容から「棋史に残る一局」と書いている。この将棋を見た棋士たちが「皆、頭を抱え、そして必ず笑う」「今、並べ返しても愉快な気持ちになる」とも。
 この将棋は、森内名人の得意の「金の前進」も出たのだが、久保八段は、飛角歩だけの攻めで勝ちきってしまった。久保さんは3度目のタイトル戦登場だ。
                 →棋譜はこちらで見れます

 久保八段は「さばきのアーチスト」とよばれている。純粋振り飛車党がタイトル戦に出るのは久しぶりだ。王座戦はどんな将棋になるだろうか。
 羽生善治王座は、現在タイトル3冠だが、王位戦では深浦に追い詰められているし、名人戦の「永世名人争い」では森内に先を越されてしまったし、「一番強いのは羽生」という羽生神話がぐらつきはじめている。久保、チャンス!! ここは久保さんもしっかり初タイトルを獲りたいところだろう。ところが羽生さんは、この王座戦、なんと15連覇しているのである。
 さあ、どうなるのだろう?

◇王位戦  羽生善治 2-3 深浦康市
   第6局は9月10日、神奈川県の陣屋旅館で。 
   この王位戦は(中央で戦っていた森内・郷田の名人戦と対照的に)「端攻め」がやたら多い。
   羽生はこのピンチをしのげるのか?

◇竜王戦挑戦者決定3番勝負  第1局は佐藤が勝ち
   佐藤康光 1-0 木村一基

◇女流王位戦  挑戦者決定戦
   石橋幸緒が矢内理絵子女流名人に勝って挑戦者に。(女流王位は清水市代)

◇女流新棋戦が誕生! 「マイナビ女子オープン
   すばらしい! 優勝賞金500万ですって。(オレがもらえるわけじゃないけどサ)

八雲

2007年09月04日 | ほん
 世界妖怪会議というのがあって、熱心に毎年開かれているらしい。日本で。その第8回が2003年青森県むつ市で開かれた。(青森には恐山があるしね。) その時に参加メンバーの中に佐野史郎がいる。「冬彦さん」で有名になった俳優だ。佐野さんは妻と娘をつれてこの会議に参加した。娘の名前が「八雲」なのだという。これは佐野さんが子どものころから、小泉八雲が大好きだからなのだと。そして今では家族ぐるみの妖怪ファンなのだそうだ。 佐野史郎は、小泉八雲が住んでいた島根県松江の出身である。


 小泉八雲の代表作といえば「雪女」「耳なし芳一」だろうか。今回は「耳なし芳一」をとりあげる。

 「耳なし芳一」___この話は、山口県下関市赤間神宮が舞台である。赤間神社は平家が源氏に滅ぼされた壇ノ浦にある。そのときに母である建礼門院(平清盛の愛人)とともに死んだ幼い子安徳天皇を祀ったのが赤間神宮である。
 僕の、山口県の山陽にある都市で暴走族だったパチンコ好きの知人が「暴走族は正月には単車に乗って赤間神社に集まる」と言っていたので、僕の赤間神宮への印象はそういうものだったのだが。
 さらに余談だが、九州に住む人がドライブして山口県に来ると「あ、ガードレールが黄色い!」といって面白がるそうである。僕はそれを聞くまで気にしたことがなかったが、山口のガードレールにはたしかに黄色いものがある。それはたぶん「山口県の花」が夏みかんの花だから。(どうでもいいことだけど)

 「芳一」の話は、たいがい子供の時に絵本などで知ることになるが、子供にとっては、恐ろしい、やな感じの話である。お墓が出てくるし、耳がちぎれるしね。
 ところが、今、はじめて小説版を読んでみたのだが、大人になってみると、印象がかわる。確かに、芳一はおそろしい目に遭ったし耳もちぎれて痛い思いをした。しかし、その後は「裕福に暮らしてめでたし」というオチなのである。

 芳一は盲人であった。そして琵琶の名手であった。そしてその芳一の音楽の才能を認めてくれたのが、阿弥陀時の和尚だった。(この和尚が、全身に般若心経を書いてくれた人)
 芸術家が「飛躍」するときに、いったん心の奥深くに潜ろうとする時期というものがあると思う。そのときに、そのまま心の奥の沼に沈んだまま出てこれないということもある。この状態を「ノイローゼ」という。だからはじめから潜ったりするな、というのが一般の発想だが、もし芸術家がさらに「一皮むけたい」とするならそうするしかないこともあるのである。芳一には、音楽の才能があった。それをさらに飛躍させるものを持っていた。そして、信頼できる和尚がそばにいてくれた。条件はそろっていたのである。
 そうやって痛み(耳がちぎれる)をくぐりぬけた芳一の琵琶の音は、一段と凄みと透明感を増し、その不思議な体験とともに人気となり、遠くから沢山の人が訪れるようになったわけだ。というわけでこれは、ある芸術家の成功譚だったのだ。



 小泉八雲=ラフカディオ・ハーンは、1850年、今のアイルランドに生まれた。子供時代は、あまり良い思い出がなさそうな人である。そのうえ16歳の時に左目の視力を失った。
 成人してアメリカに渡った。黒人の女性と結婚するが、それが理由で会社を辞めさせられたり、その後離婚して、職を転々としたりする。アメリカでもあんまり幸せそうじゃない。
 そして40歳のときに日本へやってきた。この日本が、彼に、合っていた。すべてのことが面白くてしかたがない。ハーンは、やっと、自分の居場所を見つけたのである。日本人と結婚し、4人の子供をもうけた。

 ハーンはたくさんの本を書いた。
 日本のことを紹介した本は、ヨーロッパでもよく読まれ話題となっていった。地球の反対側にある「小さな人たち」の暮らしはどのようなものだろう… と、そんなふうに好奇心をくすぐられたのだろう。
 アルバート・アインシュタイン博士もその一人で、日本のある出版社が「日本に来て物理学の講義をしてくれないだろうか」と打診したら、「ぜひ行きたい」とア博士は言った。こうしてアインシュタインの訪日が実現したのである。
 アインシュタイン博士は船でやってきた。下関・壇ノ浦をかれも通ったはずだ。

恋と革命の味

2007年09月02日 | はなし
 長野・安曇野に相馬愛蔵という男がいた。明治時代のおわりごろ、その愛蔵が嫁をもらうことになった。星良という名で、明治女学校を卒業した文学の才女であった。良は「黒光(こっこう)」というペンネームをもっていた。それでこの嫁は、後に、相馬黒光という名で知られている。
 愛蔵と黒光は安曇野で養蚕業を営んだ。ところが、この田舎暮らしが黒光に合わなかった。黒光は娘と息子を出産するが、その後、心を病んできた。それで愛蔵は東京へ出ることを決める。なにか新しい商売をしよう、ということで始めたのがパン屋である。本郷東大赤門前にあった「中村屋」を買い取って、その3年後に売り出したクリームパンがヒット商品となる。これはシュークリームをヒントに中村屋が発明したものだそうだ。 (ちなみに、アンパンを発明したのは銀座の木村屋ですね)
 そして中村屋は、1907年、新宿駅前に店を出す。これが「新宿中村屋」である。当時の新宿は、交通の要所ではあったが、「東京のはずれ」で、賑わいは見られなかった。

 1915年、その中村屋、ひょんなことから二人のインド人をかくまうことになった。そのうちの一人は、パン屋の裏の小さな部屋でじっとしている生活に耐えきれずに出て行った。残ったインド人は、名をラス・ビハリ・ボースといった。英語の話せた黒光は、しだいにこのボースに親愛と尊敬を抱くようになる。ボースも相馬夫妻を「オトウサン、オカアサン」とよぶようになり、日本語を学びはじめる。
 そこでのボースの生活は退屈なものであったが、気晴らしは、インド料理をつくることであった。黒光も中村屋の使用人たちも、それを見てインド料理を覚えた。その経験が、後に「中村屋インドカリー」として商品化される。パン屋なのにカレーを売っている理由がここにある。

 R・B・ボースという男は「革命家」であった。
 インドの革命家といえばガンジーがいるが、ボースはガンジーの「無抵抗主義」には賛成できなかった。武力なしに革命ができるとは思えなかったのである。ボースは爆弾造りの技術ももっていた。
 そう書くと、ボースという男が恐ろしく思えてくるが、インドの置かれたその時代の状況を考えてみないといけない。当時、インドはイギリスの植民地であった。そういう政治状況を体験したことのない私達は、彼らの考えや行動を理解するには、ちょっと想像力を必要とする。イギリスからの「独立」は、彼ら(インド人)にとって、悲願であった。「革命家」ボースは、いったん日本へ逃れて、そこから独立運動への道を探ろうとしていた。そしてイギリス政府は、ボースが日本に逃れたことを知って、日本政府へ引き渡すよう要求したのである。
 ボースにとって、敵は「イギリス帝国主義」であった。だから、それに抵抗するものは「仲間」であった。そういうわけで彼は、ナチス・ドイツも応援していた。そして、日本と中国とインドは、手を取り合うべきだ、という考えを主張している。しかし同時に、日本の、中国に対する態度には疑問も投げかけている。イギリス的な「帝国主義」と似ているところを感じていていたのだろう。そして日中戦争がはじまるのだが、ボースは「日本の敵は中国ではなくイギリスである」と主張。さらに太平洋戦争になると、ボースは「これでインド独立の夢がかなう」と思ったという。なにしろ帰化した国日本が、自分と一緒にイギリスと戦うというのだから。ボースは、最後まで「インド革命家」であった。

 相馬愛蔵・黒光夫妻は、一度味方をすると決めた以上は、いのちを賭して、という姿勢で接した。そして、ボースは、人間的に魅力的な人物だったようである。日本人の中にある、インドに対しての印象に、ボースの人柄の果たした影響は大きいようで、たしかに日本人は、なんとなく、「インド人」が好きだ。
 ボースは相馬夫妻の長女、俊子と結婚することになる。ボースは日本へ帰化し、息子と娘をもうけた。娘は哲子と名づけた。これは夭折した相馬夫妻の3番目の子供の名前である。

 新宿中村屋は新宿駅前の顔になっていたが、そこへ三越百貨店が進出してきた。現在のアルタの場所である。それに対抗し、中村屋は1927年6月、喫茶部を開設した。この時に、看板メニューとして売り出されたのがボース直伝の「インドカリー」である。
 もともとカレーは、日本へは西洋経由で入ってきていた。しかしそれを口にしたボースは「カリーはあんなものではない」と言っていたという。イギリス人によって作り変えられたカレーの味を、インド本来の味へと取り戻そうとしていたようだ。ボースの革命という仕事は、そのような意味をもつものだったのだろう。
 ボースと中村屋のことは、当時の新聞や雑誌の記事となり、カリーもヒットしてその味は、「恋と革命の味」とよばれた。

 ボースの死後、2年後の、1947年8月、インドは独立を果たした。