はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

九九のできない男

2007年09月12日 | ほん
 彼女と彼は、名古屋の少林寺拳法の道場で、出会った。

 彼女は、黒帯だった。大学時代に少林寺拳法に励み、社会人になってやめていたのだが、仕事が落ち着いてきたのでまた始めたくなって道場の門を叩いた。同じ時期に彼も、かつて熱中した少林寺をやりたくなって入門してきた。二人は気が合い、つきあうことになった。
 つきあい始めて、彼女は、「彼、計算がニガテらしい」と気づきはじめた。
 彼は、建築会社に勤めている。会社でもかわいがられ、意欲的だ。その会社の仕事で彼は「玉掛け」の試験を受けることになる。それで勉強をはじめたのだが、かんたんな計算がわからないらしい。
 困った彼は彼女に聞いてきた。「この分数の計算、教えて。」
 やっぱりそうだったのね! 「そこはこうして…」 彼女は分数を教えはじめる。するとどうやら、九九さえも知らないことが判明した。 2×3ができないのだ! 2×3が!! 
 九九のできない23歳の男…。 〔別れよう!〕と、そのとき彼女は思った。


 九九さえできないその男、宮本延春さんは、小学生のときずっといじめられっ子だった。転校しても、先生に言っても、父に言っても、中学になっても、それは続いた。母は、働きっぱなしで毎日食事をつくってくれる。その母に心配をかけたくないので、母にだけは、相談しなかった。勉強もダメ。中学での成績は、ほとんど「1」ばかり。
 ある日、父が酔った勢いで「お前はおれたちの本当の子じゃないんだ」と言う。そして、冗談のようだが、それは本当だった。(←ビックリ!)
 高校へ行く学力もないので、建築の専門学校へ行き、大工見習いの職に就く。しかし親方との相性もわるく、やる気も出ない。
 父と母は毎日のようにケンカ。働かない父。ある時、またケンカして母が家出した。いつもなら数日して帰ってくるのに、今回はまだ帰らない… それで動揺した父は、なんと店の権利(母がきりもりしていたラーメン屋)を売ってしまった。その直後、母が戻ってきたが、もう遅かった…。
 母が、病気に。しかも2年のいのち。(←オイオイ、どんだけ不幸に…!)
 母、死去。その後、父も元気がなくなり、病気に。そして、父、死去。(←ひー!! まだ10代だよ!)

 天涯孤独になった宮本延春は、考えた。 「好きなことをやって生きていこう、やらない後悔だけはしない」と決心して、イヤだった大工見習いをやめ、アルバイト生活を始める。好きなことは音楽。バンド活動を始め、それを中心のアルバイト生活。お金がなくて、公園のイタドリを食べたこともあるというから、泣けてくる。

 ここまでの彼の人生を聞いたら、大人なら「ああ、だめ人生だな」と思うところ。いいところがまったくない。
 ところが宮本さんの人生はここから変わっていく。音楽仲間に紹介してもらった建築会社に入ったことで、宮本さんの運命が初めて好転していく__。
 この建築会社でうまれて初めて、「親切な大人たち」に出会うのだった。宮本さんは、音楽はもう趣味でもいい、この会社でずっと働きたい、とさえ思うようになる。社長が「銭湯に行こう」と誘ってくれるのがうれしい。
 こころの余裕ができた宮本さんは、やめていた少林寺拳法をまたやりたくなって道場へ行った。少林寺拳法は、なにもいいことのなかった宮本さんの10代の、ただ一つの「誇り」だったものだ。「こづかいはいらないから少林寺を習いたい」と親に言ってはじめたのだった。
 そして職場の人に紹介してもらった道場へ行くと、ある黒帯の女性に出会った。それが「彼女」だ。


 彼女は彼をみて、ふしぎに思うことがあった。彼は、九九ができないというのに、数字のパズルを独自のやりかたで解くのである。
 ある日彼女は録画していた「アインシュタイン理論の特集」の番組を観たが、よく意味がわからない…。その時彼女は、彼ならどうなのだろう、と思った。それで彼女は、宮本さんに「このビデオ観ておいて。面白さがよくわからないんだけど、わかったら教えてね」と言った。 
 それで宮本さんはその「アインシュタイン」の番組を見た。そして、そのビデオが、宮本さんの人生を変えた。
 宮本さんは、アインシュタインの「時間が伸び縮みする」という考えに仰天し、惹きこまれた。「もっと物理学を知りたい!」と思うようになる。それで物理の本を読み始めた。しかしそのうち、物理を本格的に理解するには「数学」が必要だ、とわかってきた。計算のまったくできない宮本さんは本屋へ行った。小学生用の計算ドリルを買ってきて、勉強をはじめた。宮本延春、23歳。

 そんな宮本さんを見ていた彼女は、またひらめく。
 定時制高校のパンフレットをとってきて、ここに行ったらどうかと勧め、宮本さんはそうすることにした。そして、「学校」というものに一切の幸福なイメージのなかった宮本さんが、ここでは、年下の同級生に慕われ、尊敬できる先生に出会う。宮本さんは、ますます、物理の勉強に熱中する。それで、物理をもっと勉強するために、大学進学を考えはじめた。だが、宮本さんの住む名古屋で物理を勉強するとしたら、名古屋大学しかないことがわかった。宮本さんは、彼女に聞いた。
 「ぼくががんばって勉強すれば、名古屋大学に入れるかな?」
 彼女は即答「それは無理。」 そりゃそうだろう、だれだってそう思う。先生に聞いても同じ答えだった。宮本さんは逆に燃えてきた。「よし! もし、ぼくが受かったら100万円くれる?」 すると彼女「いいよ。100万円で受かるなら、安いものだよ」
 それから宮本さんは、勉強のために、職場をやめてアルバイトに切り替え、1日最低でも10時間は勉強したという。それが、楽しくてしかたなかったのだという。あまりに楽しいので、もし受からなかった時には…なんてことは考えなかったそうだ。

 そして。
 宮本さんは、名古屋大学に合格した。物理学を勉強し、さらに大学院にまで行き9年間勉強した。もちろん、彼と彼女は結婚した。もう、九九だってできる。

 宮本さんは、物理が好きで大学に行ったのだが、9年の大学生活の後、高校の教師になった。「自分の経験を生かす職業は、学校の先生なのでは」と思ったからだという。数学の教師だ。23歳で、九九もできなかった男が、数学教師になるという、フシギさ…!!


 こんなことがあるんですね!
 この話は『未来のきみが待つ場所へ』(宮本延春著)の内容です。この本の初めの3分の2は、読んでいて沈んでいくような気分でしたが、最後の3分の1は、爽快なサクセスストーリー!
 この話を、だれか作家が小説として書いたとしたら、「こんな安易な、リアリティーのないサクセス話、だめだよ」と言われてしまいそうです。


 アインシュタインは「天才」とよく言われます。その理論がすごいのでしょうが、こういうエピソードを聞くときこそ、「うん、天才だなあ。」と僕は納得するのです。天才というのは、死んだあともふしぎな仕事をする人のこと、と思います。
 アインシュタインは数学が苦手だった、という俗説があります。でも、それはウソです。数学と音楽の得意な人でした。それから、くつしたをはくのが嫌いでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする