はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

詠う物理学者

2007年09月19日 | はなし
 正岡子規の命日が今日9月19日で、子規の辞世の句が「糸瓜咲て…」で始まるのでこの日を「糸瓜忌」というそうだ。(wikipediaでいま得た知識) 正岡子規という人は、近代の俳句・短歌に大きな影響を与えた(らしい)。子規は明治に没したが、子規の意に賛同した人々が後に「アララギ派」をつくった。
 そのアララギ歌人だった石原純が今日の主役である。石原純は、若い時に子規の「歌よみに与ふる書」を読んで、歌を詠むようになった。しかし本職は別にあって、物理学者である。それも相当立派な…。

 さて、話はちょっと変わる。
 『悲しき口笛』といえば美空ひばりの最初のヒット曲の名であり、彼女の初主演映画のタイトルでもある。 当時12歳の美空ひばりの、シルクハットと燕尾服姿を思い出す。 …って、僕は観たことないのだが、それでも印象に残るほどの有名な作品だ。
 この映画は、戦争の混乱のなかで別れわかれになってしまった兄妹の話で、戦争が終わって兄が「歌の大好きだった妹」をさがす… というストーリーのようだ。妹役はもちろん美空ひばりで、兄の役を演じたのが、原保美という俳優。
 で、この原保美の母が歌人・原阿佐緒である。この人もアララギ派。

 原阿佐緒は絵画を学んでいる。絵画教師の職を得たこともあるが、どうもこの女性は一つの場所に安定できないホシの下にあるようだ。原因は男だ。男がほうっておかない…。
 その美しさのせいだろうか。いや、たぶんそれだけではない、童女的魅力があっって男の保護欲をかきたてたようだ。たくさんの男に求められ、だが、どうも、男運がない。近づいてくる男が妻子持ちばかりなのだ。2度結婚し、いずれも離婚。二人の息子を産んだ。30歳のときにも二人の男が言い寄ってきており、それがまた二人ともにアララギ派で、やっぱり妻子持ち。こまったものだ。
 その男のうちの一人が、物理学者・石原純である。
 石原純はその時、東北帝大の教授であった。物理学者としてあぶらの載りきった充実した年齢であった。その石原教授が阿佐緒への恋にとち狂った。阿佐緒は断り続けたのだが…。


 そんな時、1920年10月のある日、石原純のもとに一人の男がやって来た。改造社社長・山本実夫である。改造社は出版社で、雑誌『改造』を出している。
 山本は石原に言った。西田幾多郎教授(哲学者)からアインシュタインという偉大な科学者の名を聞いた、それで改造社ではアインシュタイン博士を日本へ招きたいと思うがどうだろう、と。
 石原純は、スイス・チューリッヒでアインシュタインと共に半年間仕事をしているのである。石原に出会う前から、ア博士は石原の論文を読んでもいた。「日本で一番アインシュタインを知っている男」が石原なのだった。

  世を絶えてあり得ぬひとにいま逢ひてうれしき思い湧くもひたすら

 これは石原が後にア博士との出会いの喜びを詠った歌である。
 また、こうも言っている。

 「温情のこもったさうして言い知れぬ懐かしみをもった人として私はアインスタインを印象しています。ふさふさとしているその頭髪や、豊麗な瞳や、ふっくらした顔だちなどが、みんな温和などこかに芸術的な彼の素質を偲ばせます。」

 昼休み時など、よくアインシュタインは山の上へと行く広い並木路をゆっくり歩きながら本を読んでいたりした。そこで出会った石原にいきなり「輻射はやっぱり量子的な関係に支配されているよ」と話しかけ、それから空を見上げて「チューリッヒの空は美しいではないか」などと言うのだった。
 ア博士の思考は、この時期(1913年)、特殊相対性理論を拡張し、一般相対性理論を生み出す過程の中にあった。


 1921年、原阿佐緒は、ついに石原の愛を受け入れる。ところがそれがすぐに記者にすっぱ抜かれた。二人とも有名人であったから(石原は物理学者として、阿佐緒は恋多き歌人として)そのために、世間の注目を浴びた。石原は東北帝大に辞表を出した。 記事は、石原が「恋多き女」原阿佐緒の「魔力」に絡めとられたような書き方をしていたが、事実は、石原が押しまくった結果なのである。
 職を失った石原純は、阿佐緒と二人で「愛の巣」で時間をすごすようになる。


 改造社の山本実夫は、石原の話を聞いて帰り、部下に「君、偉大な科学者を一人発見した。日本に呼ぼうじゃないか」と言った。その後、科学界の重鎮・長岡半太郎の賛同も得た。改造社は1921年7月に思想家ラッセルを招いたが、その際に山本の「現存する世界の偉人を三人挙げてくれ」という質問に、ラッセルは「一にアインシュタイン、二にレーニン、あとはいない」と答えた。アインシュタインとはそれほどの偉人なのか…、 この時、山本と改造社の意志ははっきりと固まった。
 改造社がアインシュタイン博士を日本へ招待したのは翌1922年。このとき、「色ボケ」の石原は、しかし、しっかりやった。アインシュタインの友人として同行し、ア博士の物理学の講義を通訳する仕事を果たしている。


 石原純と原阿佐緒の恋愛は5年ほど続き、そして終わった。阿佐緒は、「男はもうこりごり」と思ったようだ。82歳まで生きた。幸せな老後だったようである。

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2 コメント

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原阿佐緒 (Dr.OBOKO)
2007-09-22 19:54:21
久しぶりに覗いたら、原阿佐緒のことを書いていたのでびっくりしました。半泥屋先生が興味があるのは石原センセイの方かも知れないけど。ぼくは『阿佐緒抒情歌集』(1929)を持っていますが、そこに収められている自画像を見るとなかなか魅力的です。当時、二十歳前の女性が東北から東京に出て、画家を志すだけでも大変なのに、恋に破れて子供を連れて田舎に帰ってくるなんて大変なことでしょう。彼女はその頃から歌を詠みだしたらしい。この本は、中川政一が木版画で装丁しており、彼女の歌「かなしくも さやかに」を山田耕筰が作曲した楽譜が掲載されています。

かなしくも さやかに こひとならぬまに すてなんとさへ まどひぬるかな

なかなか他の芸術家をインスパイアする存在だったのでは。

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コメントありがとうございます (han)
2007-09-22 21:02:28
お久しぶりです。
ひゃあ、原阿佐緒の歌集をよんでいる人がいたなんて! シブイっすねえ!
原阿佐緒も石原純も、1ヶ月前には知りませんでした。なんかこの頃「つながり」を発見するのが趣味で。
自分でもどこへ向かっているのか不明です(笑)。 ですがなんとなくどこかで「絵を描く人」にかかわっているんですよね。
原阿佐緒の自画像ですか… 彼女の絵はまだ見たことないです。
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