はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

恋と革命の味

2007年09月02日 | はなし
 長野・安曇野に相馬愛蔵という男がいた。明治時代のおわりごろ、その愛蔵が嫁をもらうことになった。星良という名で、明治女学校を卒業した文学の才女であった。良は「黒光(こっこう)」というペンネームをもっていた。それでこの嫁は、後に、相馬黒光という名で知られている。
 愛蔵と黒光は安曇野で養蚕業を営んだ。ところが、この田舎暮らしが黒光に合わなかった。黒光は娘と息子を出産するが、その後、心を病んできた。それで愛蔵は東京へ出ることを決める。なにか新しい商売をしよう、ということで始めたのがパン屋である。本郷東大赤門前にあった「中村屋」を買い取って、その3年後に売り出したクリームパンがヒット商品となる。これはシュークリームをヒントに中村屋が発明したものだそうだ。 (ちなみに、アンパンを発明したのは銀座の木村屋ですね)
 そして中村屋は、1907年、新宿駅前に店を出す。これが「新宿中村屋」である。当時の新宿は、交通の要所ではあったが、「東京のはずれ」で、賑わいは見られなかった。

 1915年、その中村屋、ひょんなことから二人のインド人をかくまうことになった。そのうちの一人は、パン屋の裏の小さな部屋でじっとしている生活に耐えきれずに出て行った。残ったインド人は、名をラス・ビハリ・ボースといった。英語の話せた黒光は、しだいにこのボースに親愛と尊敬を抱くようになる。ボースも相馬夫妻を「オトウサン、オカアサン」とよぶようになり、日本語を学びはじめる。
 そこでのボースの生活は退屈なものであったが、気晴らしは、インド料理をつくることであった。黒光も中村屋の使用人たちも、それを見てインド料理を覚えた。その経験が、後に「中村屋インドカリー」として商品化される。パン屋なのにカレーを売っている理由がここにある。

 R・B・ボースという男は「革命家」であった。
 インドの革命家といえばガンジーがいるが、ボースはガンジーの「無抵抗主義」には賛成できなかった。武力なしに革命ができるとは思えなかったのである。ボースは爆弾造りの技術ももっていた。
 そう書くと、ボースという男が恐ろしく思えてくるが、インドの置かれたその時代の状況を考えてみないといけない。当時、インドはイギリスの植民地であった。そういう政治状況を体験したことのない私達は、彼らの考えや行動を理解するには、ちょっと想像力を必要とする。イギリスからの「独立」は、彼ら(インド人)にとって、悲願であった。「革命家」ボースは、いったん日本へ逃れて、そこから独立運動への道を探ろうとしていた。そしてイギリス政府は、ボースが日本に逃れたことを知って、日本政府へ引き渡すよう要求したのである。
 ボースにとって、敵は「イギリス帝国主義」であった。だから、それに抵抗するものは「仲間」であった。そういうわけで彼は、ナチス・ドイツも応援していた。そして、日本と中国とインドは、手を取り合うべきだ、という考えを主張している。しかし同時に、日本の、中国に対する態度には疑問も投げかけている。イギリス的な「帝国主義」と似ているところを感じていていたのだろう。そして日中戦争がはじまるのだが、ボースは「日本の敵は中国ではなくイギリスである」と主張。さらに太平洋戦争になると、ボースは「これでインド独立の夢がかなう」と思ったという。なにしろ帰化した国日本が、自分と一緒にイギリスと戦うというのだから。ボースは、最後まで「インド革命家」であった。

 相馬愛蔵・黒光夫妻は、一度味方をすると決めた以上は、いのちを賭して、という姿勢で接した。そして、ボースは、人間的に魅力的な人物だったようである。日本人の中にある、インドに対しての印象に、ボースの人柄の果たした影響は大きいようで、たしかに日本人は、なんとなく、「インド人」が好きだ。
 ボースは相馬夫妻の長女、俊子と結婚することになる。ボースは日本へ帰化し、息子と娘をもうけた。娘は哲子と名づけた。これは夭折した相馬夫妻の3番目の子供の名前である。

 新宿中村屋は新宿駅前の顔になっていたが、そこへ三越百貨店が進出してきた。現在のアルタの場所である。それに対抗し、中村屋は1927年6月、喫茶部を開設した。この時に、看板メニューとして売り出されたのがボース直伝の「インドカリー」である。
 もともとカレーは、日本へは西洋経由で入ってきていた。しかしそれを口にしたボースは「カリーはあんなものではない」と言っていたという。イギリス人によって作り変えられたカレーの味を、インド本来の味へと取り戻そうとしていたようだ。ボースの革命という仕事は、そのような意味をもつものだったのだろう。
 ボースと中村屋のことは、当時の新聞や雑誌の記事となり、カリーもヒットしてその味は、「恋と革命の味」とよばれた。

 ボースの死後、2年後の、1947年8月、インドは独立を果たした。
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