’96・10・21 撮影
プラタナスの落ち葉を拾いました
黄色を拾おうとかがんだら
茶色いのも素敵でした
緑色のもまた素敵でした。
だから結局
こんなにいっぱい拾ってしまって
骨董の手こね鉢に入れて飾っておいたら
朝陽がさして
とても奇麗でした
古いアルバムの中
こんなメッセージとともに上の写真が収められていました。
もう20年も前。
40になったばかりの私は
まだまだ自分が大嫌いで
生きるのがつらくて
たいへんな頃です。
それでも
「花を生ける」という大好きなことを仕事にし
とにかく
自然の中の植物たちと
毎日かかわって暮らしていました。
おかげで
それぞれの持つ
それぞれの時期の美しさをたくさん見ることができました。
花はもちろん美しい。
でも顔を出したばかりの新芽の輝き
若葉色の鮮やかさ
そして
花が終わり朽ちていくときの満ち足りた表情
枯れ残った姿にさえ命のきらめきは宿っていました。
生きるのが辛いと思っていたこの頃でさえ
わたしは
そういう美しさに気づけていたことを再確認し
「ああ、なんて幸せだったのだろう」
と
いまさら思うのです。
プラタナスの落ち葉を拾いました
黄色を拾おうとかがんだら
茶色いのも素敵でした
緑色のもまた素敵でした。
だから結局
こんなにいっぱい拾ってしまって
骨董の手こね鉢に入れて飾っておいたら
朝陽がさして
とても奇麗でした
古いアルバムの中
こんなメッセージとともに上の写真が収められていました。
もう20年も前。
40になったばかりの私は
まだまだ自分が大嫌いで
生きるのがつらくて
たいへんな頃です。
それでも
「花を生ける」という大好きなことを仕事にし
とにかく
自然の中の植物たちと
毎日かかわって暮らしていました。
おかげで
それぞれの持つ
それぞれの時期の美しさをたくさん見ることができました。
花はもちろん美しい。
でも顔を出したばかりの新芽の輝き
若葉色の鮮やかさ
そして
花が終わり朽ちていくときの満ち足りた表情
枯れ残った姿にさえ命のきらめきは宿っていました。
生きるのが辛いと思っていたこの頃でさえ
わたしは
そういう美しさに気づけていたことを再確認し
「ああ、なんて幸せだったのだろう」
と
いまさら思うのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます