ぐずついたお天気が続いた2月中旬でしたが、22日は北陸にしては曇り空ながら安定したお天気の日でした、いつもは自宅近くの市街地をウォーキングをしていますが久し振りに大乗寺山丘陵公園へウオーキングに行きました。
いつもながらこの丘陵地から見る金沢市、白山市、野々市市から日本海まで望める景色はすばらしくて私の大好きな光景です。
いつもながらこの丘陵地から見る金沢市、白山市、野々市市から日本海まで望める景色はすばらしくて私の大好きな光景です。
マンサクの枝には前年の枯れた葉が落ちない時に花目が花を咲かせます。
このシーズンの先がけに彩りを添えるマンサクの花です、周りの樹木が目覚める前に咲く花です。
梅林の梅のつぼみは硬く未だ開花していませんでしたが、陽だまりの白梅が咲いていました。
丘陵公園の反対側の斜面は野田山墓地で一般市民の墓地が並ぶ霊園になっています、その一角に石川県戦没者墓苑が有ります、大きな忠霊塔を中心に広い芝生になっていています。
その戦没者墓苑の片隅にロシア人墓地が有ます、日露戦争が1904(明治37)年2月に始まり1905(明治38)年の9月に日露講和条約がアメリカ東部のポースマスに於いて締結されるまでの1年半ほど続きました。
日露戦争でロシア人が捕虜となって79.000人ほど日本に送還されてきましたが、その内6.000人が金沢に収容されました、陸軍の兵舎や寺院、小学校などに分散されて収用されていたようです。
1905(明治38)年の7月ごろから金沢に連行された捕虜も9月に日露講和条約が結ばれたその年の年末までには本国に帰されました、しかし金沢に収容されている間に10人が病に倒れて本国には帰ることが出来ませんでした、ロシア人墓地は異国の地で亡くなったロシア人を慰霊する為に当時の陸軍により建立されました。
当時の金沢には陸軍第9師団が有りました、第9師団は日露戦争で日本を勝利に導いた旅順攻囲戦で乃木希典将軍の配下で参画しています、その関係でロシア人捕虜が金沢に収容されたのだと思います。
ロシア人捕虜は居留地においては外出などある程度の自由が認められていたようです、その様子は作家五木寛之の「朱鷺の墓」では、日露戦争下の城下町金沢を舞台にした美貌の芸妓とロシア貴族出身の青年将校の恋の物語などでも紹介されています。
此処へ墓参に訪れた駐日ソ連大使が記念植樹をしたことを示す標識が立っていました、植樹された樹木が大きく茂っていました、ソ連が崩壊してから20数年を経ています、記念植樹された樹木がその経年を物語っていました。
異国の地で無念にも病で倒れて故郷に帰れなかったロシア人の10名が祀られています.
最後に祖国の為に散っていったこの戦没者御苑に祀られているすべての御霊の御冥福をお祈りします。
ウォーキングの途中で立ち寄った野田山のロシア人墓地のことを書きました、最後まで読んで頂いて有難うございます。 (本文はWikipediaの一部分を参考にしました)