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寺島蔵人(てらしまくらんど)邸を訪ねて

2015年11月28日 | インポート
11月19日の新聞に寺島蔵人邸のドウダンツツジの紅葉の記事が出ていました、以前より行きたかったのですが機会が無く一度も行っていませんでした、今年の春もドウダンツツジの花を見にゆく計画をしていましたが機を逸して行けませんでした。
そんな訳でこの機会にドウダンツツジの紅葉を見に出掛けることにしました、寺島蔵人邸は市街地の裏通りに位置しているので駐車場がありません、地図で調べたら兼六園の近くですので兼六園下の県営駐車場に車を停めてそこから約10分ほど歩くことにしました。
城下町独特の大手町の細い裏通りを歩いて向かいましたが、この辺は古い町家が並んでいる金沢の街並みらしい通りでした。
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町家造りの通りの中に周囲の街並みと違った長い土塀の武家屋敷が見えました、土塀の腰は石垣でしっかりと組まれていて創建当時そのままに往時が偲ばれます。
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寺島蔵人(1777~1837)は、禄高450石の中級武士として加賀藩に仕え、改作奉行など主に藩の農政、財政方面の実務を歴任した。
12代藩主の前田斉広(まえだなりなが)の信任も厚く、有能な藩士として高く執りたてられていました。

ところが文政7年(1824)に藩主斉広が急逝しました、もともと蔵人は手腕家であると同時に生来、思いやり深く正義感の強い人であったため、藩主斉広死後の藩の重臣の政治に納得がゆかず、これと対立し、文政8年役儀指除(やくぎさしのぞき=免職)になり、天保8年(1837)に能登島流刑となり、その年にここで波乱に満ちた生涯をとじた、蔵人は画家としても知られ、王梁元(おうりょうげん)、応養(おうよう)と号し、秀作を多数遺している。(蔵人邸パンフレット参照)
寺島蔵人邸 パンフレット 表紙を飾る「牡丹折枝図 寺島応養(蔵人)筆
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寺島邸の建築年代は、蔵人の祖父にあたる五郎兵衛恵叙(ごろべえまさつぐ)が安永6年(1777)、現在地に邸地を拝領し、邸宅を新築したという記録により、18世紀後半の中頃考えられる。
一階に13畳半の座敷、5畳の茶室、寺島邸を訪れた浦上玉堂が琴を弾いた部屋の4畳間の他数室がある。
二階8畳の間は蔵人の画室「白雲深処」と伝える。(蔵人邸パンフレット参照)

一階の13畳半の座敷
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座敷より庭園を見る
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庭園には蔵人が四国から北前船に乗せて取り寄せたというドウダンツツジの紅葉が始まっていて、これから日毎に赤い彩りを濃くして行くようです、紅葉と合わせて春はドウダンツツジの白い花が咲いて素晴らしい眺めになるようです。。
ドウダンツツジは金沢に来てから200年余り経て、樹齢が300年ほどの古木のようです。
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庭園内中ほどの池、蔵人が造らせたという三重九輪の塔を中心に拡がる池泉回遊式庭園です、池には水が無く、これに因み蔵人の書斎を「乾泉亭」と名付け、浦上玉堂が「乾泉」の扁額を残しています。
手前が水のない池で、その奥にドウダンツツジの古木の陰に三重九輪の塔が見える。
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現在では珍しい跳ね上げ式の窓と庭園に面した蔵
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茶室と茶室から庭を望む
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浦上玉堂の揮毫により「乾泉」の額と展示されていた当時の書道具など
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浦上玉堂が琴を弾いた「玉琴」の間
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蔵人邸は江戸時代に南側小路には長屋門があったが現在は失われ、家屋も一部縮小改築されているが、現存する家屋、土蔵、土塀は中級武士の家屋敷の旧態ををよく伝えており、庭園ともに昭和49年に金沢指定史跡となり保存されています。
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市街地にありながらこのような武家屋敷が現在まで保存されているのには驚きました、その訳の一つとしてこの地区はあまり開発がなされていない地区だったためでしょうか、周辺は古い町家が並ぶ裏通りが幾筋もあります。
今日はドウダンツツジの紅葉を見せて頂きましたが、春のドウダンツツジが咲くころには再度訪れたいと思います。

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