日曜日に那谷寺の帰りに少し足をのばして加賀市大聖寺の、「日本百名山」の著者で有名な深田久弥山の文化館に寄ってきました。
深田久弥のプロフィールを山の文化館のパンフレットより抜粋して紹介しましょう。
登山家であり、山の文学者として知られる深田久弥は加賀市大聖寺に生まれました。
昭和38年に発表した「日本百名山」は、読売文学賞を受賞し、登山愛好家だけでなく、多くの人々に愛読され、日本の山の美しさを人々に再認識させるきっかけを作りました。
また、ヒマラヤや、シルクロードの研究の成果は、多くの著述として世に問われています。
しかし、シルクロード研究や「世界百名山」の執筆中、昭和46年3月21日茅ヶ岳登山中、脳卒中でなくなりました。68歳でした。
山の文化館は、大聖寺市街の国道から小路に入り、民家が軒を連ねた細い通りの先、熊坂川の橋を渡った所にありました、周辺は静かな住宅街で車も人も往来が少なく静かな佇まいです。
長い塀に囲まれた屋敷です、明治43年に地元の山長株式会社の絹織物工場として建てられ、昭和50年半ばまで絹織物(羽二重)が生産されていました、その後、改装して山の文化館となっています。
事務所棟および付属する石蔵、門は平成14年に国の登録有形文化財になっています。
門を入ったら樹齢650年と云われる大きな銀杏の木が、二階建ての事務所棟の屋根より高く天に伸びていて、訪れた時は黄色に色付いた葉が散って、一面に黄金色の絨毯となっていました。
中庭には大きな丸テーブルと椅子があり、休憩と読書が出来るようになっています。
レトロな玄関を入ると左側に図書室がありました、深田久弥に関する資料や、山に関する書籍などが閲覧できるようです。
廊下に設けられた本棚にも山に関する書籍が収納されていて、壁には山の写真が幾つか飾られていました。
長い廊下の先から展示室の石蔵に続く廊下があります。
展示室の石蔵への渡り廊下が続いています。
展示室になっている石蔵の扉です、石蔵は生糸の保管庫として使われていたようです、黒く光る漆塗りの蔵の扉が左右に開かれて奥が展示室になっています。
展示室は四方の壁にガラス張りの展示棚と中央に展示ケースが並んでいて、深田久弥のゆかりの品々が展示されていました。
文学者としての久弥が執筆した山に関する書籍や、雑誌へ投稿した記事などが展示されていました。
自筆の原稿が展示されていて読ませていただいた原稿の中に、私が素朴さが気に入って何回か通ったことがある黒部の祖母谷温泉小屋(ばばだにおんせんごや)のことが書かれていて興味深く読ませていただきました。
深田久弥の登山姿の写真です、平成15年(2003)に生誕100年を記念して、白山の山開きの7月1日に発行された切手に使われた写真です、切手のデザインは久弥の故郷、柴山潟から望んだ真白に冠雪した白山がバックに映っています。
ヒマラヤ登山の記録や資料が展示されている棚です。
深田久弥は雅号を「九山」として俳句を詠んでいます、色紙や扇子に書いた俳句が展示されていました。
久弥が登山で実際に使用していた道具が幾つか展示されていました、これは山で湯を沸かしたり調理をする時に使用したコンロです、見た感じでは外国製のようです。
気圧計と腰皮です、腰皮は冬山登山の時に腰からお尻に垂らして付けておいて、腰を下ろす時にお尻の下に敷いて座ります。
コッフェルは山で炊事をする時の鍋釜が幾つかセットになったものです、中にサイズの違うものが幾つか収納されています、随分使い込んだ様子です、このコッフェルとコンロを背負って百名山に登ったのでしょうか。
深田久弥は山の文学者として、世間一般の文学作家と違って、実際に山に登ったり、遠くから眺めたり、その山の特徴やその山の持つ魅力を肌で感じて「日本百名山」を執筆しています、百名山を選ぶ上では150座以上の山に登られているように聞いています、現場主義に徹した作家だったと思います。
石蔵の展示室と渡り廊下の間のビデオ映写室の窓から見た、事務所棟と門の間の庭の景色です。
庭には深田久弥の句碑と山の文化館の館長で深田久弥の同郷の後輩になる作家の高田宏さんの句碑が建っていました。
庭の奥には離れの建物があって、喫茶 聴山房になっていてコーヒーや飲み物を飲んで休憩できるスペースになっていました。
立派なお屋敷の門をくぐって深田久弥の山の文化館を後にしました。
日本人はたいていふるさとの山を持っている、
山の大小遠近はあっても、
ふるさとの守護神のような山を持っている。
そしてその山を眺めながら育ち、
成人してふるさとを離れても、
その山の姿は心に残っている。
どんなに世相が変わっても、
その山だけは昔のままで、
あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。
私のふるさとの山は白山であった。
深田久弥「日本百名山」より
この詩を読んでいると子供の頃に遊んだふるさとの山の姿が脳裏に浮かんで来ました、ふるさとの山はいつまでも心の支えになる存在です、そしていつまでも忘れる事はないでしょう。
深田久弥のふるさとの山、白山 柴山潟より 2011/11/26
私が登った山の中に、百名山に含まれる山は10座だけです、今では少しずつ足の機能が衰えてきて登ってみたい山は沢山有るんですが叶いません、そんな中でどうしてももう一度登ってみたい山が雨飾山でしたが、この秋に登ってきました、今回で5回目の登頂になりました。
今回は短い時間でほんの表面上のことしか得る事は出来ませんでした、今度訪れるときには時間を掛けてしっかりと見たいものです、、山の文化館の近くに深田久弥の生家があると聞きましたが、生家にも寄ってみたいと思います。
ご訪問、感謝します、長い記事を最後まで読んで頂いて有難うございます。
深田久弥のプロフィールを山の文化館のパンフレットより抜粋して紹介しましょう。
登山家であり、山の文学者として知られる深田久弥は加賀市大聖寺に生まれました。
昭和38年に発表した「日本百名山」は、読売文学賞を受賞し、登山愛好家だけでなく、多くの人々に愛読され、日本の山の美しさを人々に再認識させるきっかけを作りました。
また、ヒマラヤや、シルクロードの研究の成果は、多くの著述として世に問われています。
しかし、シルクロード研究や「世界百名山」の執筆中、昭和46年3月21日茅ヶ岳登山中、脳卒中でなくなりました。68歳でした。
山の文化館は、大聖寺市街の国道から小路に入り、民家が軒を連ねた細い通りの先、熊坂川の橋を渡った所にありました、周辺は静かな住宅街で車も人も往来が少なく静かな佇まいです。
長い塀に囲まれた屋敷です、明治43年に地元の山長株式会社の絹織物工場として建てられ、昭和50年半ばまで絹織物(羽二重)が生産されていました、その後、改装して山の文化館となっています。
事務所棟および付属する石蔵、門は平成14年に国の登録有形文化財になっています。
門を入ったら樹齢650年と云われる大きな銀杏の木が、二階建ての事務所棟の屋根より高く天に伸びていて、訪れた時は黄色に色付いた葉が散って、一面に黄金色の絨毯となっていました。
中庭には大きな丸テーブルと椅子があり、休憩と読書が出来るようになっています。
レトロな玄関を入ると左側に図書室がありました、深田久弥に関する資料や、山に関する書籍などが閲覧できるようです。
廊下に設けられた本棚にも山に関する書籍が収納されていて、壁には山の写真が幾つか飾られていました。
長い廊下の先から展示室の石蔵に続く廊下があります。
展示室の石蔵への渡り廊下が続いています。
展示室になっている石蔵の扉です、石蔵は生糸の保管庫として使われていたようです、黒く光る漆塗りの蔵の扉が左右に開かれて奥が展示室になっています。
展示室は四方の壁にガラス張りの展示棚と中央に展示ケースが並んでいて、深田久弥のゆかりの品々が展示されていました。
文学者としての久弥が執筆した山に関する書籍や、雑誌へ投稿した記事などが展示されていました。
自筆の原稿が展示されていて読ませていただいた原稿の中に、私が素朴さが気に入って何回か通ったことがある黒部の祖母谷温泉小屋(ばばだにおんせんごや)のことが書かれていて興味深く読ませていただきました。
深田久弥の登山姿の写真です、平成15年(2003)に生誕100年を記念して、白山の山開きの7月1日に発行された切手に使われた写真です、切手のデザインは久弥の故郷、柴山潟から望んだ真白に冠雪した白山がバックに映っています。
ヒマラヤ登山の記録や資料が展示されている棚です。
深田久弥は雅号を「九山」として俳句を詠んでいます、色紙や扇子に書いた俳句が展示されていました。
久弥が登山で実際に使用していた道具が幾つか展示されていました、これは山で湯を沸かしたり調理をする時に使用したコンロです、見た感じでは外国製のようです。
気圧計と腰皮です、腰皮は冬山登山の時に腰からお尻に垂らして付けておいて、腰を下ろす時にお尻の下に敷いて座ります。
コッフェルは山で炊事をする時の鍋釜が幾つかセットになったものです、中にサイズの違うものが幾つか収納されています、随分使い込んだ様子です、このコッフェルとコンロを背負って百名山に登ったのでしょうか。
深田久弥は山の文学者として、世間一般の文学作家と違って、実際に山に登ったり、遠くから眺めたり、その山の特徴やその山の持つ魅力を肌で感じて「日本百名山」を執筆しています、百名山を選ぶ上では150座以上の山に登られているように聞いています、現場主義に徹した作家だったと思います。
石蔵の展示室と渡り廊下の間のビデオ映写室の窓から見た、事務所棟と門の間の庭の景色です。
庭には深田久弥の句碑と山の文化館の館長で深田久弥の同郷の後輩になる作家の高田宏さんの句碑が建っていました。
庭の奥には離れの建物があって、喫茶 聴山房になっていてコーヒーや飲み物を飲んで休憩できるスペースになっていました。
立派なお屋敷の門をくぐって深田久弥の山の文化館を後にしました。
日本人はたいていふるさとの山を持っている、
山の大小遠近はあっても、
ふるさとの守護神のような山を持っている。
そしてその山を眺めながら育ち、
成人してふるさとを離れても、
その山の姿は心に残っている。
どんなに世相が変わっても、
その山だけは昔のままで、
あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。
私のふるさとの山は白山であった。
深田久弥「日本百名山」より
この詩を読んでいると子供の頃に遊んだふるさとの山の姿が脳裏に浮かんで来ました、ふるさとの山はいつまでも心の支えになる存在です、そしていつまでも忘れる事はないでしょう。
深田久弥のふるさとの山、白山 柴山潟より 2011/11/26
私が登った山の中に、百名山に含まれる山は10座だけです、今では少しずつ足の機能が衰えてきて登ってみたい山は沢山有るんですが叶いません、そんな中でどうしてももう一度登ってみたい山が雨飾山でしたが、この秋に登ってきました、今回で5回目の登頂になりました。
今回は短い時間でほんの表面上のことしか得る事は出来ませんでした、今度訪れるときには時間を掛けてしっかりと見たいものです、、山の文化館の近くに深田久弥の生家があると聞きましたが、生家にも寄ってみたいと思います。
ご訪問、感謝します、長い記事を最後まで読んで頂いて有難うございます。