小学生の頃、もう40年以上も前のことだが、国語の作文の授業が大嫌いだった。
「なんでもいい自由に書いて下さい」と先生に言われると余計書けなくなった。
では「今回はこのテーマで!」と言われたら書けたのかと言うと、そうではなく、やはりだめなのである。
30歳近くなって観世寿夫集を読み、能楽師でこんなに能を学者のように知っている人がいるのに驚き、その文章力にも驚いた。寿夫氏の能は5番ぐらいしか拝見していないのだが、とにかく憧れた。文章への憧れは、身近にもいた。それは父だ。父の温かなウイットがあって、真実がうまく盛り込まれた文章にも惹かれた。私も最近はブログの日記や演能レポートなど積極的に書くように習慣づけているが、真面目な文章は寿夫先生や先代観世銕之亟先生の文章をお手本に、くだけたのは父のイメージを真似している。どちらもまだうまく真似られないでいるのだが・・・。
書くことのきっかけは、ある方から言われたひとことだ。
「本物の能楽師は演じて、そして書けてなんぼだよ。寿夫さんも、あなたのお父上もちゃんと書いていますよ。大丈夫やっていくうちに上達するし、書き残す作業というのは、次世代のため、というよりは自分のためだから。」
これに乗せられた。最初に書いたものは阿吽(粟谷能の会機関誌)に投稿した『松風』だが、今読み返すと稚拙(いまでもたいして変わらないのだが)で恥ずかしい限りだ。
曾野綾子氏は「作文は自分が何をどう感じ取ったかを書く訓練ですから、それに対して他人がどう思うかという葛藤なり衝突が伴います。それで褒められることもあれば、おとしめられたり、馬鹿にされたりもする訳ですが、他者を通した結果を受け止めることで、自分を見つけることが出来る胆力も鍛えられます。作文能力、表現力というのは一種の武器なんですよ。」は、なるほどと感心するばかり。
「なにを書くか自由」というのは、楽そうでそうでもない。だから始終ネタ探しだ。ネタのためにまるでお笑い芸人のように始終探しているのが正直なところ。この作業をしないと身体が落ち着かなくなってきたから、もう投稿症候群という病に冒されていると言っていいかもしれない。ネタ探しは本を読むことが最有力だが、私のやりかたは本を読んで書きとめて、自分の意見を書くこと。これで今も今回もこなしている。今回は曾野綾子著「人間の基本」からの引用だ。
こんなやりかたしているから私の本は赤線だらけで汚い。あ、私の謡本もそう、汚い。汚くなるほど書き込まないと覚えないのだが、これは見られると恥ずかしい。
阿吽に初めて投稿してから、書き続けて17、8年になるだろうか。書くことは確かに自分のためになっている。胆力も鍛えられた気がする。武器になっているかはどうだろうか・・・。とにかく、書くことの筋道はたどっているようなので、しばらくは続けていきたい。というよりは、もう投稿症候群に冒されているからやめられないのだ。みなさま、もう少し、私の投稿にお付き合い下さい。
写真 粟谷明生
文責 粟谷明生
写経とは、「五種法師(ごしゅほっし)」と言う修行の最後の「書写」です。
「受持(じゅじ)」=信仰して、実践する。
「読(どく)」=読む。
「誦(じゅ)」=暗記する。
「解説(げせつ)」=教えを説く。
「書写(しょしゃ)」=書き写す。写経。
身に付けて、それを書き表して、ホントに自分のものになるのかも知れませんね。
あ~、なのに最近ブログでは、写真ネタが多くなってきた・・・。
コメント有難うございます。
写経に似ているんですか!なるほど・・・
能には仏教用語がたくさん出て来ます。
あまり理解しないで謡っていること、お許し下さい。
「読(どく)」=読む。
「誦(じゅ)」=暗記する。
「解説(げせつ)」=教えを説く。
読誦と解脱はよく謡います、よく出て来ます。
「書写(しょしゃ)」=書き写す。
これは出て来ませんね、覚えます。
有難うございました。
ここでも書いて、身に付けてに自分のものに、なるのかなあ~~?
デジカメ考は面白く勉強になりました。
昨日、広角買っちゃいましたよ、シグマがいいんですが、重いのと高いのとキャップが付かないので、迷みましたが、タムロンにしました。