ケイの読書日記

個人が書く書評

山田風太郎「戦中派不戦日記(昭和20年7月~12月)

2009-07-28 10:48:58 | Weblog
 風太郎の通っている医学校は東京にあるが、東京一帯焼け野原で、学校もかなりの部分焼けたので、昭和20年6月下旬より、長野県飯田へ全員が疎開し、そちらで授業を行なう事になる。

 しかし、その飯田にも、戦闘機B29がやって来て爆弾を落とすのである。
 飯田って軍需工場あったっけ?無いよね。果物畑ばかりのような気がするが…。
 都市部はあらかた焼き払ってしまったので、こういった畑ばかりの田舎にも空爆していくんだろう。爆弾がいっぱいあるんだ。

 8月8日、広島に新型爆弾(原爆)が投下される。「相当の損害あり」「威力、侮るべからざるものなり」という、かつてない表現の大本営発表があったようだ。


 そして8月15日 運命の日。「帝国ツイニ敵ニ屈ス」
  
 
 正午に政府から重大発表があるということで、風太郎たちは皆「ソ連に対する宣戦布告」と信じて疑わなかった。
 しかし…聞こえてきたのは「…その共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨…」  

 その後の日本の大混乱はすざまじい。いままで黒だった物が白に、白だった物が黒に、すべてひっくり返ったのである。
 ただ当初信じられていた「日本が戦争に負けると、男はすべて殺され、女はすべてレイプされる」という話はデタラメで、上陸してきた進駐軍(主にアメリカ兵)は比較的軍規に乱れが無く、きちんとしていたので、子ども達は米兵に群がりチョコレートを貰い、女達の一部は進んで米兵と腕を組んだ。
 いつの時代も、女や子どもは勝者が好きなのだ。

 しかし、中国北東部に進入してきたソ連兵の狼藉は本当に酷かったようだ。


 風太郎は、この日記を昭和45年に発表している。「現代のような時代が訪れようとは、まったく想像を絶したことであった」と前書きに記して。

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2 コメント

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Unknown (たか@ヒゲ眼鏡)
2009-07-29 03:25:55
またまたTBさせて頂きました!
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たかさんへ (kei)
2009-07-29 10:47:33
 いつも律儀にありがとうございます。

 かなり根気が要りましたが、やっと読み終えました。
 こういった本があることを教えてくださってありがとうございます。

 新刊ミステリ紹介のブログは多いようですが、もう亡くなった作家の古い作品を紹介している人は少ないです。
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