ケイの読書日記

個人が書く書評

塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」その⑤ 新潮文庫

2022-02-24 10:04:48 | 塩野七生
 度重なる攻撃にさらされ、城壁はついに破壊され、陸から海からオスマントルコ兵がどっと押し寄せる。スルタンは総攻撃の前に兵士たちに「3日間、略奪してもいい」というお触れを出したようで、兵たちは夢中になって金銀財宝を略奪し、抵抗するものは殺し、おとなしく投降するものは紐につなぎ奴隷にして売り飛ばそうとする。
 この人身売買は…どうも日本人には抵抗あるんじゃないだろうか? 『安寿と厨子王』の民話でもあるように、日本でも混乱期に人買いが人間を拉致し売り飛ばす話はあるけど、ここまで広範囲に大々的に人身売買するの?と引いてしまう。気持ち悪いよ。

 しかし、アラビアンナイトの物語にも、奴隷がいっぱい出てくるから、よくある事なんだろう。捕らえられた人たちも、自分が売り買いされるのを仕方ない事と納得しているような雰囲気。トルコではいつまで人身売買が行われていたんだろうね。
 
 東ローマ帝国の最期の皇帝は、捕らえられるより死を選ぶと、戦闘の中に切り込んでいったらしい。筆者は、それを勇敢な事と評価しているようだけど、どうだろう? 戦の前、オスマントルコとの交渉で、献上金をトルコに支払い皇帝がコンスタンティノープルを離れれば、住民の安全と財産は保証するという話だった。(本当にそれが守られるか疑問だが)皇帝が身を引けば住民が助かるなら、その方が良かったんじゃない?
 どこか安全な場所で亡命政権を作って再起をうかがう…とか。まあ、これ以降もオスマントルコの拡大は続くんだから、再起は出来なかったろうけど。

 私の中のトルコ観が、この本を読んで変わった。以前は、欧米にいじめられ気の毒な国と思っていたが、トルコも国力が盛んな時代は、悪い事をいっぱいしていたんだ。
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塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」その④ 新潮文庫

2022-02-12 10:52:33 | 塩野七生
 第7章「最後の努力」というところで気分が重くなって、読み進められないでいる。オスマントルコは馴染みが薄いので、私の気持ちは東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル側。
 周囲を包囲され、未来のない籠城戦を戦っているコンスタンティノープルだが、それでも最初のうちは、海になれないオスマントルコを海上戦で破り、意気が上がった事もあった。
 しかし圧倒的な兵力と物量のオスマントルコに、どんどん追い詰められていく。

 それにしても1453年の戦いだけど、いろんな戦法があるんだね。一番驚いたのは、大型船を陸路で運ぶこと。ボスフォロス海峡から金角湾に入る所に封鎖用の鉄の鎖があるので、戦闘用の大型船は入って来れない。だから海沿いの陸路に木材で軌道を作り、車輪付きの荷台に船を載せ、牛や人に引かせて陸越えし、金角湾の内に入れたのだ。すごいねぇ。この時代にこんなことができるの?と感心していたら、その15年前に、北イタリアでヴェネツィア共和国が艦隊の陸上輸送をやっていたらしい。
 本当に戦争って、ものすごく科学技術を向上させるんだ。

 結局、当時はイスラム教圏の方がキリスト教圏よりも、思考が柔軟なんだ。新しい科学技術を受け入れる素地がある。鉄壁と思われたコンスタンティノープルの城壁を破壊した大砲も、作ったハンガリー人技術者は、最初コンスタンティノープルに行ったのに、相手にされず追い返された。その彼を雇って大砲を作らせたのは、オスマントルコのマホメット2世。
 東ローマ帝国は滅びるべきして滅んだんだ。
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塩野七生「コンスタンティノープルの陥落」その③ 新潮文庫

2022-02-04 16:07:32 | 塩野七生
 
 1453年の春、トルコ軍は数十万の勢力でコンスタンティノープルの城壁を取り囲む。圧倒的に兵力で劣る東ローマ帝国側は、それに対して籠城で応戦。しかし、それ以外の方法はないとはいえ、どこからか援軍がくるなら、まだ耐えることはできるだろうが、援軍の可能性はない。
 とすれば、トルコ内の足並みの乱れを期待するしかないんじゃない? スルタンが戦で都を長期に留守にしていれば、謀反の噂も出てくるだろうし…。

 ただ、このマホメッド2世に関しては、その可能性は低い。なぜなら、この人は自分の父親が急死し、突然スルタンの皇位を継承した時、兄弟を皆殺しにしているから。(可哀そうな金正男さんを思い出す)
 それ以前も、自分のライバルになりそうな兄弟を殺すスルタンはいた。でも、このマホメット2世以降、それが当たり前になり法制化された。すごい法律だよね。長男が世襲するという儒教的な慣例が無いトルコでは、父王が亡くなると、早い者勝ちで周囲の兄弟を殺しまくって、自分が次期スルタンだと宣言した。恐ろしい。
 こういう場合、実母の出自って、あまり関係なかったみたい。西欧では母親の身分が低いと、下方婚と言って正式な結婚とは認められなかった。でもオスマントルコの場合、母親が元キリスト教徒の人質であっても女奴隷であっても、さほど問題にならなかった。父スルタンの血統であればOK。(そういう所は江戸幕府のやり方に似てる。「腹は借り物」といって、かえって身分が高い母親は敬遠された。将軍の母親の身分が高いと、その実家の権勢が大きくなるからだろう。平安時代みたいに)
 だから、トルコの後宮は宦官を重用して、他の血が入らないようにしたんだろう。

 宦官って、どうしてトルコや中国の後宮にたくさんいたのに、日本にいなかったんだろうか? トルコと中国、どちらが先に宦官を採用したんだろうか? 日本は中国からいろんな文化や技術を輸入したけど、どうして宦官を輸入しなかったんだろうか? 輸入したけど定着しなかったんだろうか?
 
 いろんなところで考えが道草くって、本書を読み進められない。
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