本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

春も老いも感じる

2009-02-23 12:28:16 | Weblog
 先日、フキノトウを摘んだと書いたが、今、水辺にクレソン、川岸に菜の花が出揃いはじめた。早速、摘んできた。クレソンは肉料理の添え物に、菜の花はおひたしやパスタの具に使う。
 クレソンはシャキシャキとした歯ざわりとほのかな辛みに早春が詰まっている。もちろん、菜の花も若いみずみずしい茎だから淡白ながらエネルギーが沢山詰まっているような気がする。
 そろそろ、ツクシも頭を出したかどうか様子を見に行こうと思っている。

 気が向けば、畑を耕耘機で掘り起こしている。有機肥料を混ぜてしばらく土を寝かせ、先ずはジャガイモを作るつもりだ。先に植えたタマネギの苗は順調に生育している。
 畑仕事は一日40分程度。それ以上はくたびれる。腰を曲げて雑草を取り除くのがやっかいである。農作業に体の節々は経験がないから音を上げる。
 それにしてもほんのちょっとの土いじりで一気に老いを感じることでした。

講義(その12)

2009-02-22 09:46:00 | Weblog
 本日は用字のお話です。
 言うまでもなく、日本で使われる文字は、数字を含めると7種類もありますね。漢字、ひらがな、カタカナ、ローマ字、数字では漢数字、アラビア数字、ローマ数字です。まことに多様で、「パソコンS-Ⅲ格安7万円三日間に限る」の広告文では7種類の文字のオンパレートとなります。

 カタカナは外国の地名、人名、外来語に用いますね。漢字で亜米利加、英吉利と充てますが、日米安全保障条約や日英同盟、あるいは米国、英国と略語にする場合を除いて漢字を使用しませんね。
 他にカタカナは擬態語、擬音語、感嘆詞などにも使いますね。フラフラ歩く、バリバリと破く、ワァーオといった言葉です。また、顰蹙にひんしゅくとルビを振ることはありますが、ヒンシュクとカタカナ語にしてもよいですね。滑稽、憂鬱もそうですが、要するに字画の多い漢字に用いるわけです。
 
 漢字だけの国は、外来語がどんどん入ってくる時代に代用の言葉がないと不便でしょう。北京、上海の街には「的士」と書かれた車が沢山あります。タクシーですね。バスは「巴士」とある。「索尼」はソニーのようです。中国に行けばソニーさんは尼さんになるのですな。これらは音感でわかりますが、「麦当労」はハテナです。マイダンラオと発音するそうですが、これはマクドナルドでした。
 
 余談ですが、McやMacは息子の意味ですね。したがって、マクドナルドはドナルドの息子、マクルーハンはルーハンの息子です。名前の下に付くソンも息子ですから、ジャクソンはジャックの息子、ニクソンはニックの息子ですな。名前の頭に付くOも息子です。オニールは二―ルの息子になりますな。

 ハイ、この続きはまたにします。

日本語基礎講義(その11)

2009-02-21 12:48:54 | Weblog
 前回はいくつかレトリックの話をしました。その最後の畳語法で重言に触れて、これを今回の話題にすることにしました。

 さて、その重言ですが、もっともポピュラーなものに「後で後悔する」がありますね。後悔とは後で悔やむことです。それなのに、さらに「後で」を重ねて言う。畳語法的に「後、後悔やむ」ならばよいのですが、後で後悔は文章表現としては間違いです。

 よくみられる重言の例をざっと挙げれば「一番最初」、「二度と再び」、「ただ今の現状」「およそ1時間ほど」、「期待して待つ」、「未だ未達成」、「決心を決める」、「発売を開始する」、「伝言を伝える」いやァ、あるものですね。野球の実況放送を聴くと「後続が続きませんねぇ」とか「後ろへバックしました」とか「ここで得点を取りたいですねぇ」とか言う。そうそう「最後のラストスパートです」、「あッ、転びました。思いがけないハプニングです」と言うマラソン中継もありました。

 幸い、これらの重言は話し言葉にしか出ますから、文章上の欠陥になりませんが、つい、しゃべるように書けば、文に紛れ込むこともあります。
 では、どうして重言が話し言葉で頻繁に出るのでしょう。それは、話し手にとって口調がよい、聞き手には耳に残りやすいということです。
「ただ今の現状」を「今の状態」では言いにくいし、言い足りない感じにもなります。言われたほうも耳にもスーッと入りませんね。「一番最初」を単に「一番」や「最初」では調子が高まらない。類語の反復は言葉を強調でき、理解を深めるのに好都合です。こうしたメリットがあるのですね。しかし、何度も言いますが、文章ではいけませんね。

「引き続き講義を続行」したいのですが、いや、これは重言ですね。本日はお終いにしましょう。


論語の一説

2009-02-20 10:18:54 | Weblog
 客間に書の額を掛けている。「まっ直ぐら ゆけば 届きぬ 華の山」とある。
 数年前に筆の立つ人に書いてもらったものだが、文言が平易でかつ、なかなか味のある筆捌きで気に入っている。

 それはさておき、時に私はノートに片言隻語をメモっている。その中に「成事は説かず、逐事は諌めず、既往は咎めず」とある。論語にあるものだ。
すんだことはとやかく言わない。やってしまったことは批判しない。過去の過ちは非難しない、といった意味のようだ。
 首相は財務大臣に対し、この論語を踏まえて寛大ぶりを示したかったか。もしかして「政治は説かず、飲酒は諌めず、会見は咎めず」だったのかも。
 しかし、政治家にはノブレス・オブリージがより求められる。結果として辞任となったが、どちらも体たらくの極みだ。


パチンコ

2009-02-19 10:00:51 | Weblog
 この地には、競輪、競艇、オートレースといった公営のギャンブルがない。むろん、競馬もない。そのせいかパチンコ店が繁盛している。射幸心は人間の本性ですかな。 
 商店街シャッター通りでも変哲のない郊外でも活況があるのはパチンコ店だけですわ。聞けば、市内の人は郊外の店に、郊外の人は市内の店に行くらしい。顔を会わせたくないのでしょうねぇ。断わっておけば、私はパチンコをまったくしません。

 ところで、賭博とは賭け事と博打ですね。ではこの二つの違いは何だろう。
 賭け事とは、法に触れるかどうかはともかく、麻雀やゴルフなどで当事者同士がゲームに金銭を賭けることだ。つまり、胴元はいない。麻雀屋やゴルフ場はショバ代を取るだけ。 
 一方、博打は胴元がいて寺銭を取る。となれば、公営のギャンブルも宝くじも博打ですな。寺銭と言わないけれど、経費としてピンハネしますもの。ヤクザと違って公認だが、胴元であることに変わりない。

 では、パチンコはなんだろう。玉代が寺銭なら博打、遊戯利用のショバ代ならパチンコ屋と客による賭け事になるのかな。
 まァ、どちらにしても熱くなれば、金を掏ってしまいますね。