ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

【逃げ・隠れ】

2013-09-25 08:07:50 | 日記
「3.11の震災による津波で被災した宮城・岩手両県の住宅再建計画で、浸水区域内に再建する住宅が、1万6000戸と、44%、およそ、半数に迫る……」と、新聞で報じられていました。
この記事を読んで、私は、個人的な事情はいろいろあるにせよ、
「どうして、浸水区域になど建てるの? また、津波に遭ってしまうんじゃないの」
などと思っていました。

ところで、昭和8年、三陸沿岸をおそった大津波について、吉村昭は、著書『三陸海岸大津波』の中に、こんなことを記録しています。
【……しかし、この高所移転も、年月がたち津波の記憶がうすれるにつれて、逆もどりする傾向があった。漁業者にとって、家が高所にあることは日常生活の上で不便が大きい。……つまり、稀にしかやってこない津波のために、日常生活を犠牲にはできないと考える者が多かったのだ。……】

また、柳田国男も、著書『雪国の春』の中で、こう記しています。
【……もとの屋敷を見捨てて高みへ上がった者は、それゆえに、もうよほど以前から、後悔をしている。これに反して、つとに経験を忘れ、またはそれよりも食うが大事だと、ずんずん浜辺近く出た者は、漁業にも商売にも大きな便宜を得ている……】

こうした過去の津波災害からの復興に関する記録・記述を、平成の今に適用して、元の居住地に住むことを是とするわけにはいかないでしょうが、人間の考えることは、あまり変化はしていないのかもしれないと実感したのです。
などと、津波の被災者でもない私ですが、いろいろと考えさせられました。

しかし、まことに無責任な部外者の発言、と、お叱りをいただくことを承知で言わせていただくと、吉村昭や、柳田国男が記録している津波被害に対する被災者の対応が、誤っているとばかりは言いきれないのような気がします。
人は『まず、今日を食べていかなくてはならないのです』
【百年の計】も大切ではありますが。
それに、どんな備えをしたとしても、自然災害にせよ人災にせよ、想定外の災害は起こることでしょう。

私は、三陸の海が大好きです。
時に、自然は厳しい刃を剥くことがあっても、豊かで、美しく、いのちの源です。
再度、お叱りを覚悟で言わせてもらえば、
災害からは、『逃げる』。
津波や地震がきたら、とにかく、『逃げる』。
これは、一つの知恵なのではないでしょうか。

地球上で、人間よりはるかに長く、その【種】を生きてきた昆虫類は、生き伸びるためには、まず、『逃げる』『隠れる』ことを第一義にしてきたとか。
G・ウォルドバウアーは、著書「食べられないために」のなかで、そんなことを述べています。

災害に遭ったら、とにかく『逃げる』『隠れる』
「逃げ・隠れ」は卑怯者などでは決してありません。
                            〈ゴマメのばーば〉
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『カシャッ!』

2013-09-24 08:45:54 | 日記
古い農機具に『ゆり板』というものがあるそうです。
「風土記」の講座で学びました。
籾と玄米を選り分けるために使われた機具とのことです。

この『ゆり』と言う意味は、ゆり動かすの『ゆり』、つまり、稲の魂をゆりうごかして実を選り分ける機具なのだそうです。
なるほどと感じいりました。
昔の人たちの農耕にむかう姿勢・こころのあり方とは、こういうものであったのか、と深く感動しました。
単に、生産物を、収穫物としてとらえるのではない、この自然とのかかわり方、その営みの豊かさに感動したのです。

しかし、古い時代の生産性は低く、時に、干ばつや冷害に見舞われ、いのちの存続さえ危ぶまれることも多かったことを考えますと、単に「昔は良かった」などとの賞賛はできかねます。
また、生産のあり方を昔に戻せなどと言うつもりも、まったくありません。
でも、この、「実り」とのかかわり方は、生産性が高くなった現在でも忘れてはいけない大切な事がらなのでしょう。

講座を終えての帰り道、色づきはじめた田んぼの稲を、クルマの窓から眺めていましたら、
何だか稲穂に挨拶したくなってきましたので、クルマから降りました。
農道に立ち、空に向かって背伸びと、深呼吸を一つ。
「稲穂さん、おいしいお米になって下さい」と、呼びかけましたら、風が、涼やかに通り過ぎて行ったみたいです。
『魂をゆりうごかす』
いい言葉です。
カメラを持参しませんでしたので、磐梯山をバックに、色づきはじめた稲穂を、心のシャッターで、『カシャッ!』
いい写真が撮れました。
あたたかい色合いの映像を持ち帰りました。
しばらくの間は、ゆっくりと楽しむつもりです。
                           〈ゴマメのばーば〉

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お墓参り

2013-09-23 10:54:32 | 日記
晴れの日が続いていましたが、やはり、季節は移っていくようです。
日中の気温は高くても、日没を過ぎると、秋の気配が濃くなりました。
お彼岸なので、墓参りに行ってきました。
祖父・父・母・姉などが彼岸の住人ですが、もう他界してから半世紀ほど経っていますので、手を合わせても、悲しみは伴ないません。
マッチもライターも忘れて行きました。
火をつけない線香を数本、お線香台に手向けて合掌。
「いつでも、どこか、空気が抜けてるみたいだね……」と、亡母の声が聞えました。
よく叱られていた私には、そうした声は懐かしさだけが響いてくるのです。
「私たち夫婦も年齢なみに元気。子ども達も、孫もグーです」と報告します。
月並みな報告に、ご先祖様は、
「それは、良かった、何よりですよ」と応えてくれているはずです。
若い頃とは違って、お墓参りは心が安らぐので、ゆっくりと、墓参りをします。

余談ですが。
安倍首相は、たしか今年のお盆の頃、地元の山口県長門市を訪れ、父・晋太郎さんの墓参りをし、自身の後援会の会合で、次の様に話されたとのこと。
『将来に向かって、憲法改正に向けてがんばって行く。これが私の歴史的使命だ』
また、支持者らを前に、童謡「ふるさと」の一節を引き、
『私は、まだ志を果たしたわけではない。これからが、私の仕事の正念場になってくる』
と強調したことを、新聞で読みました。
多分、父・晋太郎さんの墓前でも、〈憲法改正が私の使命〉と言ったことでしょう。
墓前で、子や孫の近況報告をする私などに比べれば、人種が異なっている感がします。

一休さんは、言っています。
『親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ』は、めでたいと。
戦争が無くて、順番に、生まれたり、亡くなったりを繰り返し、喜び、悲しみを繰り返すことができる社会こそが、生きやすい世の中のような気が私はいたします。

『志』とも言えない私の「願い」。
福島原発の事故による、放射能の危険が無くなること。
お彼岸には、それぞれの故郷で、ご先祖様の墓参りができること。
今日の日の『今』を大切に生きられること。
「願い」をこめての合掌です。
                              〈ゴマメのばーば〉

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『白河以北……』と、でも。

2013-09-22 07:33:40 | 日記
やっぱり、さびしいです。不愉快です。ひがみたくもなります。
19日、安倍首相が福島第一原発にやってきました。
『汚染水の影響は、湾内の0.3平方キロメートル以内の範囲において完全にブロックされているわけであります』
と、またまた、IOC総会での発言と同じアピールをしました。
トレンチから漏えいしている汚染源の実態もつかめない、対策も立てあぐんでいるという実状なのに、です。
また、視察にあたっては、海外メディアの同行は許可しましたが、県内報道陣には公開しませんでした。
原発事故が起きてからこの二年半、地方紙メディアは、県民の立場に立った地元紙として、いろいろな情報を県民に報道してくれたのです。
原発内という特殊な場所のため、多人数での取材は不可能、との理由だそうですが、福島県に住む一県民としては、何とも釈然としない思いです。

自虐的かもしれませんが、『白河以北一山百文』という文言を思い出してしまいました。
これは、戊辰戦争以来、新政府軍を率いる薩長土肥側が東北を侮蔑した表現だとのことですが、この度の首相の発言も、まったく、県民を、愚弄したものにしか思えないのです。

それに、福島原発5・6号機の廃炉決定を東電に要請したことも、シビアな現状から、私たちの目をそらすためのパフォーマンスにしか思えません。

20日未明、いわき市を震源とする震度5強の地震がありました。
久々に、聞きたくもない、ケイタイの緊急地震警報が鳴り、同時に、ぐらぐらっと揺れが来て飛び起きました。
揺れが治まって、周囲を確かめ、次に心配するのは、原発の状況なのです。
原発に異常は……と、ラジオ報道に耳を傾けます。
これが、福島県に住む私たちの実態なのです。

安倍首相、もうアピールだけなら、しないで下さい。
東電に指示するだけなら、誰にでもできることです。指示だけなら。
具体的にしっかりした工程を指示して下さい。
「汚染水対策は、政府直轄に」という特措法は、まだ試案の段階です(20日の段階で)。

猪瀬都知事は、IOC総会での首相発言は、「今後への決意だった」と解釈しているとのことです。
いろいろと、あとで、解釈しなければいけないような発言は困ります。
「黒を白」と言っておいて、後になってから、「白にさせたい決意だった」などと言うことは、無責任そのものです。それも他の人が。
私は、怒っています。きりきりと怒っています。

〈ゴマメのばーば〉

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【……残す月影】

2013-09-21 07:57:31 | 日記
九月十九日。仲秋の名月。
「お月見」と、呼ぶほうが私は好きです。

今日、『八重の桜』のヒロイン、新島八重のふるさと、会津若松へ行ってきました。
ついでに、所用が早く片づいたので、鶴ヶ城の周辺を、ぶらりと散歩。
お城の庭には、八重が詠んだ歌の碑が立っていました。
【明日の夜は 何国の誰か ながむらん 慣れし御城に 残す月影】
明治元年(1868年)会津藩降伏の日の夜、鶴ヶ城三の丸、雑物蔵の壁に、八重は涙を流し、かんざしで刻んだということです。
お城の辺りを、ゆっくり散策してから、観光者のための小さなバスに乗せてもらい、JR会津若松駅まで来たのですが、途中、原発事故のため、避難している方たちが住む「仮設住宅」のすぐ脇を通りました。
外壁は会津産の木材を使用したとか、どこか、柔らかい質感の感じを持つた佇まいでしたが、避難生活の困難さは、いずれの仮設住宅に住む方たちも同じであることでしょう。
早く、ふるさとに戻ることができれば、と念じて通り過ぎました。

九月も半ばを過ぎると、日足はめっきり速くなって、夕方5時を回ると、辺りは、もう日暮れの色あいを帯びてきます。
高速バスに乗り、帰路につきました。
座席は一番前、フロントガラスを通して、東の山から登りはじめた月、丸くて大きな「お月様」と呼びたい月が見えました。
お天気良し、空良し、磐梯山良し、樹々のたたずまい良し、レストランのコーヒーとケーキ良し、日暮れ良し……と、バスの中で、今日の一日を、味わいなおしてみたのです。

高速バスを降り、我が家に戻る途中で〔お月見だんご〕を買いました。
少し、お月様は昇りすぎていましたが、庭のすすきと一緒に、お供えしました。

遅めの夕飯を済ませ、少し早めに寝ることに。
早く床についたせいか、夜半に、ふと、目覚めてしまいました。
窓のカーテンが、月の光に染まっています。
カーテンを開け、天頂を少し回ったお月様を、しばらく眺めました。
会津若松の仮設住宅から、独り暮らしの高齢者が、目覚め、あるいは寝つかれず、この月を見ているかもしれないと思うと、切なくなりました。

九月十九日。仲秋の名月。
八重さんが見た月、私が見る月、仮設住宅で見る月。
さまざまな思いで、見上げるお月様。

20日、毎日新聞朝刊、一面に載っていた小さな写真。
【中秋の名月五輪祝福】と。
さまざまな月。さまざまな……。
〈ゴマメのばーば〉

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