ひとこと・ふたこと・時どき多言(たこと)

〈ゴマメのばーば〉の、日々訪れる想い・あれこれ

『私には夢がある』

2023-02-27 08:06:26 | 日記
誕生日でもありましたし、暫くぶりに教会での主日礼拝に出席しようと昨日から準備をしていました。
ところが朝起きてみたら一面の雪。
数センチの雪が積もっていたのです。
バスで行くには足元に若干不安を覚えます。
風も強く、こうした日はタクシーも思う通りの予約ができません。
迷いましたが、先週に倣って自宅で、一人での礼拝をいたしました。
その後、九州の東八幡教会での礼拝にネットで参加させていただきました。

東八幡教会・奥田知志牧師の説教テーマは、
  『ちゃんと夢みてますか。喜びがあふれますよ』
        (ヨハネによる福音書16章24節)※
     ※今までは、あなたがたはわたしの名によっては
      何も願わなかった。
      願いなさい。
      そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。

1964年にノーベル平和賞を受賞したマーティン・ルーサー・キングの言葉『私には夢がある』を引用されて、私たちも、ウクライナの戦火が止まない現在、「夢」をしっかり持って、絶望の山から希望の石を切り出そう。
そうした祈りを主のみ名によって祈っているかと、と問いかけて下さいました。
私にとって心に沁みる説教でした
キング牧師の「言葉」の一部を掲載させていただきます。

「私には夢がある」
1963年8月28日
今日私は、米国史の中で、自由を求める最も偉大なデモとして歴史に残ることになるこの集会に、皆さんと共に参加できることを嬉しく思う。
100年前、ある偉大な米国民が、奴隷解放宣言に署名した。今われわれは、その人を象徴する坐像の前に立っている。この極めて重大な布告は、容赦の ない不正義の炎に焼かれていた何百万もの黒人奴隷たちに、大きな希望の光明として訪れた。それは、捕らわれの身にあった彼らの長い夜に終止符を打つ、喜び に満ちた夜明けとして訪れたのだった。
しかし100年を経た今日、黒人は依然として自由ではない。100年を経た今日、黒人の生活は、悲しいことに依然として人種隔離の手かせと人種差別 の鎖によって縛られている。
・・・・・・中略・・・・・・
絶望の谷間でもがくことをやめよう。友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。
私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。
今日、私には夢がある。
私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。
これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができ るだろう。この信念があれば、われわれは、この国の騒然たる不協和音を、兄弟愛の美しい交響曲に変えることができるだろう。この信念があれば、われわれ は、いつの日か自由になると信じて、共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄に入り、共に自由のために立ち上がることができるだろう。
・・・・・・後略・・・・・・
        ☆下線は筆者
      (「国務省出版物」ネットからお借りしました)


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