玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

「北方文学」第77号発刊

2018年06月26日 | 玄文社

「北方文学」77号が発行になりましたので、ご紹介します。先々号が338頁の超大冊になり、先号も330頁となりましたが、今号は少し落ち着いて244頁のボリュームです。新しい連載も数本あり、同人たちの意欲を感じさせるものとなっています。
 巻頭を飾っているのは先号に引き続いて、館路子の詩「蛾が(記憶に)停まる、今も」。このところ動物をモチーフにした作品が続いていますが、今回は嫌いな人も多い蛾です。蛾は群がって朝に大量死を迎えたり、火に飛び込んで死んだりする習性があり、それを人間の滅亡への意志と重ねています。
 大橋土百は評論「井月やーい」。長岡藩の武家の出身で、信州伊那谷に客死した俳人・井上井月の生涯をたどっています。大橋自身が伊那谷の旧宮田村出身であり、井上井月を温かく迎えた人々の末裔にあたるわけで、これを書くに誠に適任と言うべきでしょう。井月を論じて大橋の望郷の歌となっているところを、味読したいものです。
 山内あゆ子訳、スティーヴン・マクドナルド作の戯曲「ノット・アバウト・ヒーローズ」の第二幕が先号に続いての掲載で、これで完結です。第一次世界大戦時のイギリスを代表する戦争詩人、シーグフリード・サスーンとウィルフレッド・オーウェンの詩を通した友情を描いた作品。二人の日記や書簡をもとに、二人の友情を克明に描きます。本邦初訳。
坪井裕俊が六年ぶりに作品を寄せています。同人の米山の小説を論じた「米山敏保論(1)―地方主義の止揚をめぐって」です。第11回新潟県同人雑誌連盟小説賞を受賞した、米山の「笹沢」をはじめ、初期の作品を中央文壇の堕落した作品と対峙させて論じています。若竹千佐子の「おらおらでひとりいぐも」などに対する批判は激烈を極めます。
評論が続きます。三番目は柴野毅実の「ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(一)」。タイトルは今回論じている「メイジーの知ったこと」から来ています。難解で退屈と言われるヘンリー・ジェイムズの小説に、新しい視点を導入すべく奮闘しています。一回目で「メイジーの知ったこと」しか論じていないので、途方もなく長くなりそうな予感がします。
 鎌田陵人の「アギーレ――回帰する神の怒り」はヴェルナー・ヘルツォーク監督の「アギーレ――神の怒り」について論じた映画論です。16世紀スペインによる南米侵略の中で、ペルー独立を宣言した狂気の人、ローペ・デ・アギーレを描いた問題作です。ベネズエラの作家オテロ・シルバの『自由の王――ローペ・デ・アギーレ』を参照しながら、最後にニーチェの「大いなる肯定」に結びつけるところが独自の視点。
 昨年、玄文社からハーリー・グランヴィル=バーカーの訳述書『シェイクスピア・優秀な劇作家から偉大な劇作家へ』を上梓した、大井邦雄の次の対象はグランヴィル=バーカーの「シェイクスピア序説」シリーズの一冊「『オセロー』序説」の訳述です。これが大井が続けてきたグランヴィル=バーカー訳述の本命ということになります。今号はまだ取っかかりに過ぎません。
 鈴木良一が書き継いでいる「新潟県戦後詩史」も、現在も活躍中の詩人たちが登場してきて、面白みを増しています。今号は1971年から1975年までの前半。「北方文学」の展開と吉岡又司の『北の思想』についての記述もあり、70年代前半の「北方文学」について知ることもできます。
  新村苑子の「迎え火」は、 人間関係のトラブルで休職を余儀なくされている教師が、幼なじみと出かけた田舎の送り火の行事に、社会復帰のきっかけを見出すという話。たった二人の登場人物なのに、興味を最後までつないでいく手法のさえはさすが。
魚家明子の「眠りの森の子供たち(四)」がラストです。活劇的な展開が待っています。暴力沙汰あり、火事あり、新しい人物の登場もあって、波乱含みの回です。連載はあと一回で終了です。


目次を以下に掲げます。
館 路子*蛾が(記憶に)停まる、今も
米山敏保*旧街道
大橋土百*井月やーい
スティーヴン・マクドナルド・山内あゆ子焼く*ノット・アバウト・ヒ-ローズ(2)--シーグフリード・サスーンとウィルフレッド・オーウェンの友情--
坪井裕俊*米山敏保論(1)
柴野毅実*ヘンリー・ジェイムズの知ったこと(一)
鎌田陵人*アギーレ--回帰する神の怒り--
ハーリー・グランヴィル=バーカー 大井邦雄訳述*『オセロー』序説(1)/鈴木良一*新潟県戦後詩史 隣人としての詩人たち〈11〉
鎌田陵人*ミツメ「エスパー」を聴く
榎本宗俊*歌人について
新村苑子*迎え火
魚家明子*眠りの森の子供たち(四)

お問い合わせはgenbun@tulip.ocn.ne.jpまで。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(23)

2018年06月21日 | ラテン・アメリカ文学

 寺尾隆吉は次に「魔術的リアリズムの新展開」として、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』を取り上げていくが、その語り口はルルフォやガルシア=マルケスを論じるときほど滑らかとは言い難い。
『夜のみだらな鳥』のあらすじ紹介(この小説のあらすじを書くことにどんな意味があるかということを、寺尾自身が知っていながらもなお)に終始し、この小説の構造についての分析に至らない。苦し紛れに『夜のみだらな鳥』における方法のことを「負の魔術的リアリズム」などと呼んでみせるが、そんなものがあり得るとは私には信じがたい。
 寺尾が言うところの『夜のみだらな鳥』への評価を見ると、ことごとく『百年の孤独』とは逆方向を向いていて、それでも「魔術的リアリズム」を言い立てるなら〝負の〟という形容詞を付加するしか仕方がないのである。

「『百年の孤独』の語り手が物語と一体化するのに対して、ムディートは自分の作り出したカオスに飲み込まれて自己崩壊する。前者は線上に前進する小説の動力に乗ることで物語の進展と共に自己を形成するが、ムディートは小説の動力に逆らって物語の形成を妨げる。」

あるいは

「ここまで支離滅裂な言葉を発して物語を紛糾させるケースは珍しい。自分の発する言葉が物語を形成しそうになるたびにムディートはこれを壊さずにはいられず、断続的に「すべてはでたらめ」、「自分は存在しない」、「こんな人物はいない」などの言葉を発して、芽生えかけた物語を覆す。『百年の孤独』が小説の動力を正方向に利用するのに対して、『夜のみだらな鳥』はこれに逆らうところから生まれる負の力で作品世界を作り上げている。」

 このような文章を読んで、私は寺尾が素直に『夜のみだらな鳥』は魔術的リアリズムによる小説ではない、と結論づけたら楽になれるだろうにと、心底思う。私はラテンアメリカ文学をむやみに魔術的リアリズムで括る必要はないと考えているので、寺尾の議論に賛成できないのだ。
 では、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』には」何があるのか? それこそが私の今回のテーマであって、これまで23回にわたって書き継いできた原動力になっている。まとめて言えば次のようになるだろう。
『夜のみだらな鳥』は閉所恐怖と相続恐怖を特徴とするゴシック小説であり、二つの恐怖を極限にまで推し進めた、ラテンアメリカ文学最大のゴシック小説である。一方『夜のみだらな鳥』は、執拗な繰り返しと取り替え可能性の偏在、そして多くの矛盾を孕んでいる。
 それはこの作品が伝統的な小説のディスクールによって書かれているのではなく、むしろ詩のディスクールによって書かれているからである。小説のディスクールは表象を必要とするが、詩のそれは表象を拒否するのであるから。
 だから『夜のみだらな鳥』は幻想小説ですらない。それはドノソ自身の分裂症的気質がもたらす多くのオブセッションに形を与えようとする妄想の物語である。畸形とはそのようなオブセッションに与えられた表現形に他ならない。
『夜のみだらな鳥』の大きな特徴は、歴史や社会からの逸脱であり、そのことによってこの小説を律するものが魔術的リアリズムなどではないことも理解される。ドノソはラテンアメリカ文学の中でも最も社会性の薄い作家であったかも知れない。
 しかし、『夜のみだらな鳥』のもつ世界観や歴史認識というものはこの小説の言葉の中に歴然と刻み込まれている。そのようにしてドノソは歴史や世界というものに近づこうとする。それは、ある意味文学の宿命でもある。

『夜のみだらな鳥』の終盤で「毒々しい色の小さな椅子に腰かけて、音楽の刺戟にも、訴えにも、嘆きにも無感動な客を相手に、ローリング・ストーンズが泣きわめいている」との一節がある。『夜のみだらな鳥』が完成したのが1969年だから、ここで流れているストーンズの曲は同年のアルバムLet It Bleedに入っているMonkey Manではないかと思われる。ジャンキーを歌った曲で、歌詞は自虐的、まさに泣き叫ぶという感じの曲だ。『夜のみだらな鳥』に最も相応しい曲である。ドノソと親密だったカルロス・フエンテスの『脱皮』という小説にも、カーラジオからストーンズの曲が流れてくる場面がいくつかある。ドノソもフエンテスもストーンズが好きだったに違いない。
 最後に畸形たちのイメージを示しておこう。ローリング・ストーンズの1972年のアルバムExile on Main Streetのジャケット写真である。このアルバムジャケットを見て、ホセ・ドノソがにやりと笑わなかったはずがない。


(この項おわり)

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(22)

2018年06月20日 | ラテン・アメリカ文学

 寺尾隆吉が次に取り上げるのは、フアン・ルルフォの『ペドロ・パラモ』である。『ペドロ・パラモ』はメキシコ革命の混乱を「生者と死者が混交し、現実と過去が交錯する」幻想的な物語として描いた作品である。寺尾は〝『ペドロ・パラモ』と死の共同体〟ということに触れて、「魔術的リアリズムの特質は、非理性的視点が個人レベルを越えて、一つの共同体を作り出すところにある」と書いている。
『ペドロ・パラモ』における非理性的視点とは、まさしく墓の下で眠る死者の視点そのものであり、それが個人レベルを越えて、死の共同体を作り出すのだと寺尾は言いたいのだろう。
 寺尾の言う「魔術的リアリズム」は定義が多すぎて、適用範囲がむやみと広がってしまう傾向があるが、たとえば「小説の虚構性を前提に、架空の物語に説得力を与えるためにリアリズムを用いる」というような定義ならば受け入れることができる。
 この定義は幻想文学の虚構とリアリズム(表象性)をめぐる定義にも近づいていて、『ペドロ・パラモ』はまごうことなき幻想文学の傑作でもあるから、それを適用できるし、さらにはガルシア=マルケスの『百年の孤独』にも適用できる。
 しかし、『ペドロ・パラモ』もまた『夜のみだらな鳥』とどのような共通性を持つというのだろう。『ペドロ・パラモ』には『この世の王国』に見られるような、土俗的信仰に対する盲目的な讃美もなければ、楽観的な政治主義もない。しかし、『ペドロ・パラモ』がメキシコの現実と歴史とを描き出していることは紛れもない事実であり、ドノソの『夜のみだらな鳥』にそうしたものを見ることはとてもできない。
 前に言ったように『夜のみだらな鳥』は現実や歴史からの逸脱を示しているのであって、参画を示しているのではない。『ペドロ・パラモ』が幻想文学的手法をもって、メキシコの現実や歴史を描いたのだとすれば、それこそ「魔術的リアリズム」と呼ばれるべき方法であって、ほかの定義など必要ないのではないか。
 ガルシア=マルケスの『百年の孤独』もまた、幻想文学的手法をもってコロンビアの現実と歴史を、ひいてはラテンアメリカ全体の現実と歴史を描いたものだと言えるだろう。そこに〝語り〟の問題が、ルルフォの場合もガルシア=マルケスの場合も絡んでくることになり、それが魔術的リアリズムにとって重要な要素となることは間違いないが、その〝語り〟とドノソの『夜のみだらな鳥』における〝語り〟が同質のものだとは、私は思わない。
 寺尾隆吉は『百年の孤独』について、魔術的リアリズムと関連させて次のように言う。

「『百年の孤独』の最大の特徴は、共同体の建設と「歪曲」された視点の獲得が、物語自体の動力のなかで、新たな登場人物の絶え間ない参加とともに実現されてくる点にある。」

 この文章で「共同体の建設」というものと「「歪曲」された視点の獲得」というのが、寺尾の言う「魔術的リアリズムの二本柱ということになるのだが、いかにも苦しげな定義である。もう少し分かりやすい文章を引けば、

「ルルフォとまったく違った仕方ではあるが、ガルシア・マルケスも、超自然的(とされる)事象の発生を可能にする独自の視点を、物語の進行と共に無理なく完成させることに成功した。これによって、架空の世界であることを意識させぬまま、マコンドの共同体全体を読者に受け入れさせることができるのである。」

 いいだろう。これで魔術的リアリズムをめぐって、フアン・ルルフォとガルシア=マルケスを結びつけることができる。しかし、『百年の孤独』と『夜のみだらな鳥』の間に、どのような共通項があるというのだろう。
『夜のみだらな鳥』は最初のアスコイティア一族の物語の部分を除いて、超自然的事象を扱うことはないし、それを読者に〝あり得ること〟と説得させることもない。ましてやコマラやマコンドのような架空の共同体(それはそこに住む住人の時間的、空間的帰属意識の共同性を前提とする)が、『夜のみだらな鳥』のどこにあるというのだろう。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(21)

2018年06月19日 | ラテン・アメリカ文学

『夜のみだらな鳥』が含まれる水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズの編者である寺尾隆吉が、この作品の解説を書いている。その中で寺尾はドノソのこの作品をガルシア=マルケスの『百年の孤独』とともに「魔術的リアリズムを代表する二作」と規定している。しかし、私にはこのドノソの『夜のみだらな鳥』が「魔術的リアリズム」を代表する作品とはとうてい思えないのである。
 寺尾隆吉自身の著書『魔術的リアリズム――20世紀のラテンアメリカ小説』によれば、魔術的リアリズムの原型はキューバの作家アレホ・カルペンティエールの『この世の王国』に求められるという。そのことは私自身の読書体験からしても素直に頷ける事実である。
カルペンティエールの『この世の王国』には、マニフェストとしての序文が付いている。それは彼がこの小説の舞台となったハイチを訪れたときに、それまでパリで暮らしシュルレアリスムの影響下にあった自身に訪れた、認識の転換点について述べたものである。
「驚異的なものを捉えるには、何よりもまず信じることから始めなければならない」とし、それがないところには衰弱したシュルレアリスムしかあり得ないと、カルペンティエールは言う。配置には未だヴードゥー教も生きている。それを信じること、そうしなければ驚異的なものを作品化することはできない。そしてハイチだけでなく、ラテンアメリカ世界は驚異的なものに溢れているのだ。
『この世の王国』はハイチの黒人の視点に立って、ヨーロッパの白人に対する抵抗や反逆を描いた。それも超自然的現象がまるで史実であるかのように描いた。カルペンティエールはフランス人の父とロシア人の母のあいだに生まれた、れっきとした白人で、『この世の王国』での方法には様々な矛盾があり、すぐに行き詰まってしまうのだが、それはまた別の話である。
 魔術的リアリズムの原型として『この世の王国』があるということは、それが西欧世界と対立するラテンアメリカ的価値観によっていること、そしてラテンアメリカ世界にあっては現実そのものが魔術的であること、さらにはそこに現実変革的な意志が存在するということを意味している。
 いったいホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』のどこに、カルペンティエールの『この世の王国』と共通するものがあるというのだろう。故国チリの現実に嫌気がさして国を出て放浪したドノソには、ラテンアメリカ的価値観を至上とする考えもなかったし、『夜のみだらな鳥』で魔術的な現実世界を描いているわけでもない。ましてや政治的には無関心を貫いたドノソに、革命への志向などあり得るはずもなかった。ドノソは自作について次のように言っている。

「『夜のみだらな鳥』は迷宮とも分裂症とも言えるような小説で、そこでは現実と非現実、睡眠と覚醒、夢と幻覚、これまでの体験とこれからの体験など、様々な局面が混ざり絡まりあって、何が現実なのか決して明かされません。(……)私としてはただ、何度も手を加えて直したいくつかのオブセッションやテーマや記憶を小説化する可能性を模索しただけです。最も手に負えものにまで絶対的な現実性を与えることで、三五とも八〇とも言える数の現実を生み出す分裂症の世界を小説化したわけです。」

 このドノソの言葉は『夜のみだらな鳥』発表直後のインンタビューに答えた内容で、寺尾隆吉の『魔術的リアリズム』殻のまた引きである。
 確かにドノソの語っているとおりで、そこには分裂症的な要素がたくさんあるし、むしろ、ドノソ自身の分裂症的気質のただ中から生起してくるオブセッションに形を与えようとした作品と言うべきだろう。だからカルペンティエールの作品が持っているような、社会性もなければ政治性もない。
 魔術的リアリズムの原型が『この世の王国』にあり、その後メキシコのフアン・ルルフォやコロンビアのガルシア=マルケスに受け継がれていくのだとしたら、さらに『夜のみだらな鳥』の方法に相応しくないものと思わざるを得ない。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(20)

2018年06月18日 | ラテン・アメリカ文学

 そのような自伝的記述もおそらくは虚構ではない。時に『夜のみだらな鳥』の中に現れるそうした部分は、この小説全体が持っているある性質をかいま見せるものとなっているように思う。
 この小説全体を貫く幽閉のイメージ、より詳しく言えば、自分自身の内部に閉じこめられていくイメージは、決して虚構ではありえない。この小説は最後に、老婆たちによって包みの中に縫い込められていく《ムディート》の場面で終わっているが、その執拗さと衝迫力はそれがホセ・ドノソ自身が自分自身に対して抱くイメージに還元されることを示している。
 近いうちに取り壊しになるであろう修道院の喧噪の中で、《ムディート》は包みにされていながらも、ひとたびは平静を回復し、安心を得る。

「もはや誰もいない。おれは無傷のままの明晰さを回復した。おれの思考はふたたび秩序だったものになり、透明な意識の底へと下降して、その光によって究極的な不安を隠蔽された曖昧なものをあばき出す。」

「このなかにいれば、おれは安全なのだ」と《ムディート》は考え、自分には外部などは存在しないと思うのだが、と近くで咳の音や息遣いが聞こえてくる。《ムディート》は好奇心に駆られてあがき始める。

「なんとしても見たい。ぜひ、ぜひ見てみたい。だが、この欲求と一緒に恐怖も生まれる。すぐ横で呼吸をし咳をしているその影の顔を見たいという欲求。視覚と外部とを回復したいという欲求。おれは歯を立てる。口をふさいでいる袋を噛む。外部にいるその影の表情を見るためにかじる。かじり続ける、太い糸を、結び目を、当て布を。ロープに歯を立てる。おれは引き裂く。だが、それで終わりということはない。さらに別の袋がある。征服するのに百年、貫通するのに千年はかかりそうな層がある。」

 自己閉塞のさなかにあっても外部への好奇心は消え去ることはない。それがドノソ自身の歴史への認識であるかのように。あるいはまた、人間にとっての自己意識はそれぞれ外部というものを持たず、孤独の中に閉じこめられているにも拘わらず、外の誰かを求めて閉塞の袋を食い破ろうとするのだという、ドノソの世界認識のように。
 しかし、ようやく出口を求め、袋から抜け出すことができると思われたその時、別の手が……。

「もう一度、穴を開けるのだ。おれの爪は出口を求めて、袋の地層を掻きまわす。爪が割れる。指から血が流れる。指先が裂け、節が赤く染まる。もう一枚、もう一枚、そしてもう一枚、やっと穴が開く。ところが外の手が、おれという包みをひっくり返し、ひとことも口をきかずに、再び口を縫いふさぐ。」

 再び《ムディート》を袋に閉じこめようとする〝外の手〟とはいったい誰のものなのだろうか。ここで〝外の手〟は象徴性を帯びてくるが、もともと老婆たちによって包みに縫い込まれる《ムディート》の存在自体が象徴的なものであった。
『夜のみだらな鳥』全体は、それを事件の連鎖としてではなく、そのような象徴性のもとで読まれなければならない。それはホセ・ドノソ自身の自己意識と抜き差しならぬ形で絡み合っていて、この小説を異常に内向的で内面的なものにしている。
 小説全編は悪夢のような閉塞状態に置かれた自己意識が、妄想の中で外部をデフォルメし、内部をデフォルメし、人間をデフォルメする、グロテスクな世界と化す。バルガス=リョサが言うようにホセ・ドノソは、ラテンアメリカ文学ブームの中にあって、もっとも〝文学的な〟作家であった。〝文学的〟ということの意味はそこに求められる。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(19)

2018年06月17日 | ラテン・アメリカ文学

 ツヴェタン・トドロフは『幻想文学論序説』で、詩と虚構ということについて次のように言っている。

「詩と虚構の対立にあっては、その構造特性がディスクールの本性そのものにかかわっている。つまり、ディスクールが表象的であり得るか、ありえないかという対立なのである。」

 詩と虚構とはディスクールの表象性において対立する。虚構のディスクールはテクスト以外のものを表象するが、詩はそうではない。トドロフはそこのところを次のように言う。

「表象的性格は、文学のうちでも、虚構という用語で示すのが適当な部分を支配するのに対し、詩と呼ばれるべき部分は、何らかの対象を喚起し表象するというこの能力を拒否している。」

 幻想小説について言えば、幻想小説は表象的な虚構なしには成り立たない。それは幻想小説というものがリアリズム小説以上に、幻想の生起する場というものを現実的に設定しなければならないということ意味している。
 幻想の生起する場と言うよりも、怪奇と驚異が生起する場と言った方がいいだろう。たとえば幽霊屋敷譚を書くとすれば、その屋敷のリアリティ、出現する幽霊のリアリティ、あるいは幽霊に遭遇する者の恐怖のリアリティは、確固としたものになっていなければならない。それが幻想小説における虚構のディスクールが果たすべき役割である。
 しかし詩にあっては事情はまったく違う。〝幻想詩〟というものを想定するとすれば、それは用語矛盾であって、詩は虚構と対立するが故に幻想的ではあり得ない。詩は言葉の表象作用によって、虚構のリアリティを生成していく必要がない。詩はテクストそのものを表象すればよいのであって、虚構であることもできなければ、幻想的であることもできない。
 私は『夜のみだらな鳥』は虚構でさえないと言ったが、その意味するところは以上のようなものである。『夜のみだらな鳥』はありもしない虚構に満ちているではないかと言われるかも知れないが、そうではない。『夜のみだらな鳥』には明らかに、虚構のリアリティを補完するようなディスクールがない。
『夜のみだらな鳥』に虚構があるにしても、その虚構に真実性を与えようとする意図が、ドノソにはまったくない。私がそれを妄想小説と呼ぶ理由である。しかし、真実性を与えられない、もっと言えば表象性を欠いた虚構などというものはありえないのであって、だから『夜のみだらな鳥』には虚構というものがないのである。
では、ドノソの妄想とは何か? 私は妄想的であることを幻想的であるということよりも、劣ったものと見なしているわけではない。ドノソが虚構の真実性などというものをまったく意図的に放棄しているのは明白なことであって、幻想小説にいたり得ぬものとしての妄想小説があるのではなく、積極的に妄想小説であろうとする姿勢がそこにはある。
 そして注目すべきなのは、『夜のみだらな鳥』には、ホセ・ドノソの自伝的要素がたくさん出てくることである。ウンベルトの青年時代における父親との関係、学生時代にいきつけのバーの女との付き合い、作家としての読書体験まで書いてある。


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(18)

2018年06月16日 | ラテン・アメリカ文学

 さらに、妄想の非論理とは何か? 
・意図的あるいは意図せざる矛盾……前に触れた《ムディート》のペニスとドン・ヘロニモのペニスとの解きがたい矛盾。聾唖になったりそうでなかったりする《ムディート》の矛盾。《ヒガンテ》の仮面をかぶったヘロニモがイリスに対して不能に陥るのを《ムディート》が見ることができるかという矛盾。第10、第11章のヘロニモの視点から語られる取って付けたようなリアリズム的叙述の矛盾。ドン・ヘロニモの畸形の館構想の矛盾。60歳を過ぎてなお月経のあるイネス夫人の事実としての矛盾。《ボーイ》を産んだはずのイネス夫人が、その後気配を消してしまうことの矛盾。聖なる子を産むはずのイリス・マテルーナがいつまでも子供を産まず、いつの間にかインブンチェにされた《ムディート》が置き換わっていることの矛盾。5日間外へ出ていただけの《ボーイ》が、何もかもを知り、あろう事かヴィリエ・ド・リラダンの『アクセル』まで読んでしまうことの矛盾。
 以上のように、妄想の非論理性はいくらでもあげることができるが、非論理的妄想の典型的な場面がこの小説にはあって、その部分を読むと私などは「ああ、これだったんだ」と思わず膝を打ってしまうのである。それは修道院に帰ってきたイネス夫人が老婆たちとドッグ・レースのゲームをやっているとき、彼女の常勝の黄色い犬が、突然荒野を走り出す場面である。

「黄色い牝犬は、ほかの犬に追われながら逃げる。銀色に輝く月夜に土煙だけを残して駆け抜ける。復讐の念に燃えた騎手たちに追われて逃げる。毛の脱けた皮膚をひっ掻く茂みのなかに身を隠す。水たまりや湖を、何百年もの歳月や川を渡る。しかし、胃が痛くなるような飢えを満たすことはできない。口にする残飯や、かじる骨が十分ではないのだ。苦労して盗んだ餌をくわえて、しょっちゅうそんな目に遭っているが、どやされないうちに逃げ出す。共犯者の星が指さす方角に向かって逃げる。山を駆けのぼり、谷に駆けおりる。」

 こんな調子で一頁半続くのである。ゲームの犬が本当に動き出す。それは詩的想像力の論理によっているのであって、妄想の非論理性とは、すべて詩的想像力の論理を意味していることがここで理解されるのである。
 この黄色い犬は最初のアスコイティア一族の乳母の身体である、黄色い牝犬のイメージ、イネス夫人と《ムディート》が交わる夜に出現する黄色い犬のイメージを孕んで、想像力の荒野を走り抜けるのである。
 私がたくさんあげた執拗な繰り返しも、詩に特有の表現形態であり、イメージの増殖もそうだ。取り替え可能性とは、観念連合の中にあるものを隙あらば結びつけようとする、詩的論理を意味しているし、ふしだらと聖性のようなまったく逆の観念を逆転させるのも、詩的表現でしか可能にならないものだ。
 そして多くの矛盾。小説はそれを許容しないかも知れないが、詩はそうしたものを創造の領野において乗り越える。そんなことはイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』を読んでみればすぐに分かることだ。近代詩やシュールレアリスム詩では当たり前であった、隠喩の飛躍がここでは小説の言語として導入されているのである。
 つまり『夜のみだらな鳥』の説話の構造は、詩の領域のそれを利用しているとも言えるし、詩における説話の構造を小説として成立させようとしているとも言える。『夜のみだらな鳥』は幻想小説ではなく、詩の説話構造を借りた妄想小説なのである。
 そしてツヴェタン・トドロフは詩を幻想文学の世界から除外する。なぜなら「幻想は虚構の中でしか存続しえない。つまり、詩は幻想的ではありえないのだ」から。『夜のみだらな鳥』は虚構ですらない。それはホセ・ドノソ自身の内実を詩的妄想として構築したものに他ならないからだ。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(17)

2018年06月15日 | ラテン・アメリカ文学

『夜のみだらな鳥』の中で幻想文学的と呼べるのは、最初のアスコイティア一族の物語のみである。この物語は典型的な恐怖譚であり、トドロフの言う「幻想文学」の枠組みを堅持している。それは魔女のもたらす災禍の物語であり、アスコイティア一族の父親もその九人の息子たちも「娘も魔女、乳母も魔女」という噂話を決して信じようとしない。彼らは超自然的な現象を信じるほど蒙昧ではないからである。
 しかし、ひとりの作男の讒言によって「黄色い犬と化け物」を探しに出掛け、農園に帰ろうとする黄色い犬を発見し、娘の部屋で父親は何かを目にするのである。しかし、ここで父親が見たものについて語られることはついにない。なぜそれが語られないのかと言えば、それが「怪奇」でもなく、「驚異」でもなく、その境界域にある「とまどい」をもたらすものであることを、読者に納得させるためである。
 アスコイティア一族は黄色い犬(魔女の身体である)を捕まえ、木に縛り付けて川に流し、海へと放擲するのだが、その途上で魔女にまつわる「現在の、過去の、そして永遠の恐怖すべきものについて」語り合う。そこに出てくるのがインブンチェの話である。

「魔女たちの狙いは、娘をさらって、そのからだの九つの穴を縫いふさぎ、インブンチェ(アラウコ族の俗信で生後半年の赤児をさらい、洞窟の中で怪物に変えるという妖怪)という化け物にしてしまうことだった。」

 とあるが、これも伝聞であって、真偽の定かならぬ物語である。この真偽が定かでないということもまた恐怖譚の重要な要素であって、幻想文学はそのようなものをこそ素材として成立する。
 またアスコイティア一族の物語には後日談があって、兄弟の数が九人ではなく七人、いや三人だったという話や、本物の黄色い犬は逃げ延びたはずだという話、あるいは父親が娘を隠すことによって、罪を乳母の一身に負わせようとしたのだという話が追加されてくる。こうした説話の曖昧性もまた、出来事の自然的現象への還元としての「怪奇」と超自然的理解としての「驚異」とのどちらにも付くことのできない、「とまどい」として、「幻想」の要素を強化していく。
 しかし、幻想文学と言えるのはそこまでであり、自余はこの幻想譚をめぐる《ムディート》ことウンベルト・ペニャローサの妄想に他ならない。しかもその妄想は膨大かつ執拗きわまりないものであり、壮大な実験と言いたくなるほどの性質を持っている。
 幻想の論理とは違う妄想の論理とは何か。しかしそれは言葉の矛盾であろう。我々は『夜のみだらな鳥』の中に妄想の非論理をこそ、探さなければならない。いや、探す必要などない。それらはすべてそこに顕わにさせられている。幻想の論理がいつでも隠されてある(恐怖譚の中ではプロットの論理的構造はいつでも隠されている。そうでなければ恐怖は発生しない。)のとは逆に、すべてはそこに露見している。
・執拗な繰り返し……閉鎖する、閉じこめるということへの執拗な言及。ドン・ヘロニモが誕生した《ボーイ》に初めて合う場面はほとんど同じ文章で、少なくとも三回繰り返される。イネス夫人と《ムディート》の性行為にまつわる回顧的言及は十回以上繰り返される。インブンチェのイメージもまた、包みに縫い込まれるイメージを含めて、最初から最後までオブセッションのようについて回る。黄色い犬もイネス夫人のゲーム、ドッグ・レースにまで絡んで数回登場する。
・取り替え可能性=互換性……イネス夫人と最初の物語の娘イネスとの。イネス夫人の乳母ペータ・ポンセと娘イネスの乳母との。イリス・マテルーナと聖女イネス(最初の物語の娘イネスを聖女とみなすのはイネス夫人)との。《ムディート》とドン・ヘロニモとの。《ムディート》の能力とドン・ヘロニモの不能との、あるいは逆に《ムディート》の不能とドン・ヘロニモの能力との。娘イネスのふしだらと聖性との。イリス・マテルーナのふしだらと聖性との。《ムディート》と《ボーイ》との。エンカルナシオン修道院とリンコナーダの屋敷との。


 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(16)

2018年06月14日 | ラテン・アメリカ文学

 ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』は、一般的には幻想小説の一種とみなされていて、ゴシック小説が幻想小説の一ジャンルだとするなら、そういうことも言い得るのかも知れないが、現実的には必ずしもそうではない。ゴシック小説が幻想小説というものを一部として取り込んでいる場合もある。
 ゴシック小説のすべてが幻想的であるわけではない。私が「ゴシック論」で取り上げた作品群のいくつかは、幻想的な性格を欠いているし、世の中にはメアリ・シェリーの父親であるウィリアム・ゴドウィンが書いた『ケイレブ・ウィリアムズ』のような、社会派サスペンスと言われるような作品さえある。
 ならば幻想小説とは何か、ということを『夜のみだらな鳥』に即して考えていったらどうなるのか? 『夜のみだらな鳥』に幻想的な場面がたくさん出てくることは確かである。しかしそれは現実にはありそうもないこと、あるいは現実とは思えない怪異なことがそこでは起きているということを意味しているに過ぎない。
 たとえば《ムディート》がアスーラ博士の手術によって、血液や臓器を摘出され、体の80パーセントを失ってしまう場面、これを現実にはあり得ないことであるから〝幻想的〟と呼ぶことに一理はありそうである。しかしその手術を《ムディート》もアスーラ博士も事実として受け止め、誰もそのことを疑っていないとしたらどうだろう。
 それを〝幻想的〟と呼ぶことは可能だろうか。作中人物の誰もがそれを事実として受け止めているものを〝幻想〟と呼ぶことはできない。だからリンコナーダの屋敷の物語は〝幻想的〟な要素からまったく除外される。
 いかに現実には存在しないような畸形たちがたくさん登場しようが、《ボーイ》がそこで王子のように育てられていくという話がいくら現実離れしていようが、ドン・ヘロニモがそこで奇態な死を遂げようが、作中人物達にそれらの事実に対する〝疑い〟がなければ、それは〝幻想的〟と呼べるようなものではない。だから『夜のみだらな鳥』の主要な部分は幻想小説から除外されてしまう。
 幻想文学に対して斬新な定義を行ったのは、ツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』である。トドロフはこの本の中で、「幻想」とは「怪奇」と「驚異」との境界域にあるものだと述べている。「怪奇」は超自然というものがあることを認めず、起きた出来事を自然的現象へと還元する認識であり、「驚異」は超自然的現象を認め、起きた出来事を超自然に由来するものと判断する認識である。「幻想」はその二つの認識の境界域にある「ためらい」にあるというのがトドロフの議論である。
 だからあらゆる恐怖小説(あらゆると書いたが正確ではない。肉体に対する暴力への恐怖をテーマにした小説は除外する。しかし、それが対象とするのはhorrorでなくterrorではないのか)は、幻想小説であると言える。ある奇怪な出来事に対して、作中人物はそれを自然的現象に還元したらいいのか、超自然的現象と受け止めたらいいのか、判然としなくなるが、そこにこそ〝恐怖〟が生まれてくるのだからである。
 一方怪奇小説という概念がより恐怖小説と対立的なものであると想定した場合(実際にはそうではないが)、作中人物(特にその事件の謎を解く人物)が超自然的と思われる現象をさえ、自然的現象に還元するのだとすれば、それはミステリー(推理小説)につながるジャンルとなっていくだろう。
 作中人物だけではなく、読者もまたそこで重要な役割を果たさなければならない。つまり幻想小説にあっては、読者も作中人物と同時に「怪奇」と「驚異」との境界域にある「ためらい」のうちに留まっていなければならないということである。読者もまた作中の事件に対して、それを自然的に解釈したらいのか、超自然的に解釈したらいいのか、判断できないという状況に置かれていなければならないのだ。
『夜のみだらな鳥』においてはどちらの要素もないし、したがってその境界域にある「幻想」さえも存在しないと言わざるを得ない。またここでは作中人物と読者とは立場を異なるものにしている。作中人物は『夜のみだらな鳥』の中で生起する事件に対して疑いを持っていない。つまりは超自然的現象を超自然的なものとして受け止めているのに対して、読者は『夜のみだらな鳥』自体を〝虚構〟としか受け止めることができない。作者が「これは虚構に過ぎない」といっている以上それは当然のことで、そこにもこの小説が〝幻想小説〟としての条件を満たさない要因がある。
 小説の最後に《ムディート》が老婆たちによってインブンチェにされ、それによって彼女たちが聖なる存在としてのインブンチェに救いの奇跡を求める場面でも、老婆たちはそれを奇怪な行動とも考えないし、それによって起きるであろう奇跡を驚異なものとも考えていない。彼女たちに〝ためらい〟はない。
 老婆たちには奇怪な出来事を自然的現象に還元する認識もなければ、超自然的なものとする認識もない。まるで近代以前の超自然譚を読むかのようにである。一方読者の方はどちらの位置からもずれた場所に立たされている。それが『夜のみだらな鳥』の説話的構造であり、それがトドロフの言う「幻想文学」に該当しない原因となる。

 


ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(15)

2018年06月12日 | ラテン・アメリカ文学

 生きることへの興味を失った《ボーイ》は、アスーラ博士の手術を受けてリンコナーダの屋敷の外にいた五日間の記憶と、父親の記憶を消去され、再び冥府へと帰っていくだろう。「いまでは、ぼくは何でも知っているんだ」と言った《ボーイ》は再び無知の暗闇の中に戻っていく。
 リラダンの戯曲『アクセル』の主人公アクセルの言葉が、生への拒絶と現実世界の否定を意味しているならば、それは生と死の価値の転倒でもあって、リンコナーダの物語全体は退嬰と転倒の物語としての姿を現すのである。
 しかしそれは本当にドン・ヘロニモによって計画され、転倒の美学と教育方針によって実践され、失敗に終わるという物語なのだろうか。エンペラトリスによれば、それはヘロニモの考えではなく、ウンベルト・ペニャローサの考えによっていたというのである。

「私は欺されません。ここを作ったのはヘロニモの考えじゃないわ。間違いなく、あのウンベルトの思いつきよ。ウンベルトは自分だけのサーカスを持って、わたしたちをおもちゃにしたくなったのよ。このイカサマにヘロニモは気づかなかったらしいけど、ウンベルトはそのサーカスの人間のひとりに彼を、ヘロニモをちゃんと入れていたのよ。そう言えばヘロニモは、みんなの中でもいちばん化け物みたいですものね。でも、あれね。種類のちがった残酷な人間たちの世界が外にあることを《ボーイ》に知らさないという、いちばんの目的はいまも果たされているわ。あとはどうでもいいことよ。みんな、あの大嘘つきのウンベルトが思いついたことよ。」

 エンペラトリスのように考えればつじつまが合う。ドン・ヘロニモは「調和の美の模範」とさえ言われた存在であり、前から言っているように彼が怪異の美学を打ち立て、それに則ってリンコナーダの屋敷を設計したと考えることには無理がある。ウンベルトが、小説家であるウンベルトが、畸形たちの集団を妄想し、ヘロニモの力を借りてそれを現実のものにしたのだと考えてもよい。
 しかもヘロニモを「いちばん化け物みたい」だとすることは、《ボーイ》によって化け物のように見られるヘロニモの姿を予兆している。畸形たちにとっては「調和の美の模範」ほどに自分たちと違う化け物はないからだ。
 またヘロニモを畸形たちの仲間のひとりとすることは、ヘロニモの詩を予見することにもつながる。ヘロニモを事故死に至らしめたのは直接的には《ボーイ》だが、間接的にはウンベルトであったとも言えるからだ。
 リンコナーダの物語も、エンカルナシオン修道院の物語も、すべてはウンベルト・ペニャローサの妄想の中で生起する。なぜならリンコナーダではウンベルトと呼ばれ、修道院では《ムディート》と呼ばれる彼こそは〝小説家〟なのであるから。
 そして〝小説家〟こそは〝大嘘つき〟と呼ばれるべき存在に他ならない。ウンベルトも《ムディート》も小説家であるホセ・ドノソ自身の退嬰的で、転倒した妄想から産まれた存在であるのだから。
 ウンベルトはドン・ヘロニモの秘書として、リンコナーダの記録を書き残す役目を負わされていた。しかし一字も書くことはなかった。書きたいことは頭の中に入っていたらしい。エンペラトリスはそれについて直接に分析する。

「そうなのよ。いつもそこから話を始めたわ。でも、すぐにすべてがデフォルメされちゃうの。彼には簡潔平明に書くという素質がなかったわ。普通のこともひとひねりせずにはいられないのよ。復讐と破壊の衝動みたいなものを感じていたのね。最初のプランをやたらに複雑にし、ゆがめるものだから、しまいには、彼自身が迷路に踏み込んでしまったような感じだったわ。彼が築いていく、闇と恐怖に塗り込められたその迷路の方が、彼自身よりも、またほかの作中人物よりも強固でしっかりしていたんじゃないかしら。作中人物はいつも不明瞭で、決して一個の人間としての形をとらなかったわ。いつも変装か、役者か、くずれたメーキャップとかいった……そうなのよ、現実よりも彼自身の妄想や憎悪のほうが大切で、現実は、彼にとっては否定すべきものだったと……」

これはもうホセ・ドノソによる自作解説以外のものではない。