玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『別荘』(12)

2015年11月30日 | ゴシック論

⑤―4
 しかし実際に子供達に与えられるものは人肉ではない。人肉の正体は"隠花植物"とされているが、それは地下の迷宮にうち捨てられた隠花植物園に繁殖する人肉に似た味の隠花植物なのである。料理長はこれを支配の道具として利用するのである。料理長は言う。
「実は、我々が子供たちに与えているのは隠花植物であり、そのなかの硬い種類を調理すると、人肉の味のように偽装することができる。というのも、吐き気を催すような得体の知れない臭みがあって、これが人肉料理の味だと子供たちに吹き込んでやれば、簡単に信じ込んで吐き気を催さずにはいられないのだ。だから、隠花植物をすべて塞いだりすれば、子供たちに罰を与える術がなくなって、我々に与えられた最大の使命たる秩序の維持が困難になってしまうことだろう」
 コスメが「僕は自由だ」と言うのに対して侯爵夫人が人肉を与えるように、料理長は子供達の自由を剥奪するために、人肉に似た隠花植物を与えるのである。ここでそれは選択の余地なく与えられる禁断の食料であり、なおかつ"罰"を与えるものとされている。
 支配者が被支配者に対して、彼らを一瞬喜ばせるが、やがて自分たちが自由ではないことを再確認させるための装置であると考えれば、それが偽装された温情であり、偽装された自由であることは明らかであろう。ただし、それを具体的に何と限定することはできない。人肉というものもドノソは象徴として扱っているからである。
 さて次は、料理長の"贅沢な"人肉食に対置される"やむを得ない"人肉食の場面である。第11章「荒野」にその場面はある。
 地下の迷宮から脱出したウェンセスラオとアガピートは、アラベラ、アマデオと途中合流してグラミネアの荒野へと逃亡を続ける。アガピートは脱出時に負傷し、アラベラは使用人軍団によって拷問を受け傷ついている。アマデオは5歳であり、あまりにも幼い。食料もなければ水もない。まず、アマデオに限界がやってくる。アマデオは自分の死を覚悟して三人に言う。
「僕は食べてしまいたいほどかわいいのだろう? ずっとそう言われてきたもの」
「空腹で胃が痛むほどになって、山並みへ辿り着くまでどう生き延びたらいいのかもわからないのなら、僕を食べればいいよ、(中略)僕が食べてしまいたいほどかわいいなら、誰かに食べてもらうことが僕の運命じゃないか。仲間に食べられるのなら本望さ」
 アマデオの許しを得て、彼の死後、ウェンセスラオ、アガピート、アラベラの三人はアマデオの肉を食べ、生き延びることになる。この三人の食人行為は決して汚らしくも、衝撃的にも、恐怖の相のもとにも描かれることはない。極めて自然な行為としてそれは描かれているので、読者は三人の食人行為に共感すら覚えるだろう。
 ここでは「食べてしまいたいほどかわいい」という言葉が最後の変奏を聴かせるのであるし、食人ということが初めて肯定的に描かれるのである。その後ウェンセスラオに、食人を行ったことに対する罪悪感などというものが訪れることは決してないだろう。

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ホセ・ドノソ『別荘』(11)

2015年11月28日 | ゴシック論

⑤―3
 人肉食のテーマは即物的な意味から象徴的な意味へと変貌していくと書いた。人食い人種と人肉食のテーマはさまざまに変奏され、さまざまな像を結んでいく。
 第5章「金箔」で、一族の財産を一手に握るベントゥーラ家の長男エルモヘネスは、倉庫の中に傷物の金箔の包みを見つける。金箔は原住民によって加工され、エルモヘネスがそれを買いたたくことによって、一族の財産は保証されているのだ。彼は傷物の金箔を見てそれを原住民の仕業だと言い立てる。
「恥知らずの泥棒め。こんなことをするのは人食い人種だけだ。見ろこのひどい包みを」
と、エルモヘネスはののしり声を上げる。つまりここで人食い人種とは、ベントゥーラ一族の財産を盗む者という意味を持つのである。だから、親達の出発の後金箔を盗み出すグループの首謀者カシルダ(エルモヘネスの長女)を出し抜き、金箔を奪って逃走するマルビナもまた、後に"人食い人種"と呼ばれるだろう。
 第8章「騎馬行進」で帰還してくる親達に発見されるカシルダは、エルモヘネスに「何も変わってなどいない。何かが変わったとすれば、それは邪悪な人食い人種の仕業だ」と言われ、次のように父親に反駁する。
「人食い人種なんていないわ」「悪徳と暴力を正当化するためにあんたたちがそんな話をでっち上げただけよ!」
 カシルダはマルビナに騙され、置き去りにされ、ファビオと一緒に一年間「飢えと恐怖を凌いできた」経験によって、"人食い人種"などいないということ、さらには本当の人食い人種とは誰なのかということを正しく知るのである。
 第2部で使用人達の軍団が別荘と子供達を支配した後で、人肉食に言及される場面が2カ所ある。一つは使用人軍団の料理長が軍団のボスである"執事"に、人肉食への好奇心について語るところ。料理長は言う。
「クルド料理、ブッシュマン料理、コプト料理、エスキモー料理、これほどあらゆる料理を味わい尽くしてきた人間はごくわずかです。あらゆるグルメ体験の可能性を網羅し尽くした百科事典の編纂をもう少しで終えるところまできているほどです。しかし、その私ですら食べたことがないものが一つあり。それについては、今後も食べることはないと思いますが、好奇心だけはどうしても禁じ得ないのです。そう、人肉です」
 料理長は執事に対して、人肉食の許可を得ようとしているのだが、執事は「この人食い人種め! 怪物め!」と怒声を上げて追い払う。好奇心から、あらゆるものを食べ尽くした飽食からの好奇心によって、人の肉を食うことが許されるはずもないのである。
 この料理長の"贅沢"としての人肉食は、第11章「荒野」でのウェンセスラオ達の"やむを得ぬ"人肉食と対置させられているのだが、そのことには後ほど触れよう。
 もう一カ所は、「侯爵夫人は5時に出発した」ごっこの中の一場面においてである。邪悪な侯爵夫人=フベナル(自称本当のオカマ)は、コスメに言い寄り、夕食に招待する。コスメは料理を平らげた後求愛を拒否するが、公爵夫人は次のように言うのだ。
「薄情者! このアガペーの間、私は果物を少し食べただけだったでしょう? なぜか教えてあげるわ。私につれなくした仕返しに、人肉、そう、人肉を準備させたのよ、人食い人種特製の料理を食べさせてあげたから、これであなたも人食い人種の仲間入りね、そう、そうよ、裏切り者として処刑されたどこかの気色悪い人食い人種の肉を貪り食ったあなたは、今日から人食い人種よ…… 本当のことを教えてあげようか? 実はあなたたちはこれまでも毎日人肉を食べてきたのよ、だから、上の階の住人でない者は、皆人食い人種なのよ……」
 ここで人肉食は、支配の道具としての象徴性を持つ。そして階級を分かつ手段としての意味をも……。

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ホセ・ドノソ『別荘』(10)

2015年11月27日 | ゴシック論

『別荘』の導入部では、原住民達がかつては人食いの習慣を持っていたが、今はそれを完全に捨て去っているということを、きちんと理解しているのはアドリアノ・ゴマラだけということになっている。
 アドリアノはベントゥーラ一族の末娘バルビナと結婚するのだが、「医者ではあっても上流階級とは縁遠い男」とされ、一族に対して違和感を覚えている。その大きな現れが、アドリアノが行う原住民に対する医療行為であり、原住民への親和性なのだ。
 そのことはベントゥーラ一族の許容範囲を超える部分であり、だから彼が娘ミニョンの引き起こした悲劇によって発狂するために塔に幽閉されるのだとしても、その理由はそれだけではない。原住民と通じていること自体が幽閉の罪に値する。
 だから大人たちがハイキングに出掛けた後、アドリアノが塔から下りてくるという話を聞いたメラニアは次のようにそのことに対する恐れを口にするのである。
「一家の罪人と人食い人種が手を組んだらどれほど危険なことになるか分からないの?……」
 アドリアノの原住民への親和性を引き継ぐのは、その息子ウェンセスラオである。だからこそわずか9歳でしかないのに、彼は最も危険な存在とみなされるようになる。
 ところで、人食い人種に擬せられるのは原住民達だけではない。『別荘』では"人食い人種"への言及が至るところでなされるが、その言及が指し示すのは原住民だけとは限らない。
 小説後半で重要な役割を果たすアマデオ(5歳、リディアの末息子)が第3章「槍」でウェンセスラオに次のように言う場面がある。
「エスメラルダ(13歳)の間抜けに、食べちゃいたいとか言われてベタベタつきまとわれたもんだから、なあ、ウェンセスラオ、本当の人食い人種は原住民じゃなくて従姉たちだよ、絶対」
 ドノソはこの言葉を、アマデオが幼さ故に食人習慣と「食べちゃいたい」という愛情表現とを混同しているのだと言っているが、しかしアマデオはウェンセスラオの母バルビナにさえ「食べちゃいたいほどかわいいわよね、あの子…… 本当にいい子」と言われるくらいなのである。
 この「食べちゃいたいほどかわいい」という表現は『別荘』の中で、複数の親達から複数の子供達に対して繰り返されるので、アマデオでなくてもそこに何かの仄めかしを感じないわけにはいかない。アマデオにとっては従姉達だけでなく、母親と叔母達も人食い人種ということになるだろう。人食い人種とはいったい誰なのか、アマデオはよく知っていたのである。
 少なくともドノソがここで「食べちゃいたい」という愛情表現の中に、文字どおり食人への嗜好につながるものを仄めかしていることは間違いない。
 人肉食のテーマは②―3で述べた悲劇的事件によって一挙に物語の前面に浮上し、それは即物的な意味から徐々に象徴的な意味へと変貌していくのであるが、その間の橋渡しとしても、この「食べちゃいたい」という愛情表現が繰り返されることの意味は大きい。

 

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ホセ・ドノソ『別荘』(9)

2015年11月26日 | ゴシック論

⑤―1
 ③④は後回しにする。多分最後に触れることになるだろう。
 人肉食のテーマは『別荘』を貫く最も重要なものであるとも言える。第1章「ハイキング」の冒頭から、我々は「別荘の周りに出没するという人食い人種」についての噂を聞かされるのであり、このテーマは最終の第14章「綿毛」におけるウェンセスラオの感動的な演説まで連綿とつながっている。
 ウェンセスラオは最初の章からこんなことを言っていとこ達をからかうのである。
「真っ先に食べられるのは、メラニア、君さ! その胸、その見事な尻…… 人食い人種たちに犯され、大切なものを奪われた挙げ句、生きたまま食べられるのさ……」
 メラニアはいとこの女子のうちの最年長者(16歳)であり、男子の最年長者フベナル'(17歳)とともに「侯爵夫人は五時に出発した」ごっこの中心メンバーをつとめる。ウェンセスラオはこの"ごっこ遊び"から疎外され、以降この遊びに加わることはない。
 人食い人種に対する大人達の見解はどうなのか? それを代表するのが一族のリーダーとも言うべきリディアであり、彼女は毎年別荘で過ごす時期になると、使用人達に次のように訓辞するのである。
「破壊者たる子供たちは諸君の敵であり、彼らは規則に異議を唱えて秩序を破壊することしか考えていない。まだ大人たるに必要な叡智を備えていない子供は、極めて残忍な生き物であり、批判や疑問にかこつけて何かと難癖をつけ、反抗し、汚染し、要求し、破壊し、攻撃し、平和と秩序を掻き乱し、やがては、いかなる批判も寄せつけぬこの偉大な文明という秩序の監視者たる諸君を打ちのめすに至る。この点をよく肝に銘じておいてほしい。これに勝る脅威といえば人食い人種の存在だけであり、下手をすると子供たちは。無知なまま何の悪気もなく、いや、まったく気づくこともないまま、彼らの手先になってしまうかもしれない」
 このリディアの訓辞は、人食い人種というものを秩序の紊乱者=子供の延長上に位置づけるものである。子供というものと人食い人種とは密接に関連づけて捉えられている。
 この訓辞は小説後半の子供達と原住民との共闘を予告するものであるばかりでなく、次の章におけるミニョンの残酷な食餌行為をも予告するものである。ミニョンの行いは「まだ大人たるに必要な叡智を備えていない子供は、極めて残忍な生き物」であることを証し立てているのだから。
 さて、もう一度あの凄惨な場面に戻ってみよう。原住民によって豚が生贄として捧げられる場面、豚と戯れる三人の子供達……。
「白い服を着た三姉妹のように見える子供たち――(略)――が豚と戯れ始め、ウェンセスラオはその上に跨った。
「もうすぐ殺されるぞ!」彼は脅しの声を上げた。「もうすぐ殺されるぞ!」
 アイーダは豚の尻尾を伸ばそうとし、ミニョンは金切り声を上げながらその耳を引っ張った。そして二人は叫んだ。
 「あと数分の命よ!」
 「私たち人食い人種がもうすぐ食べちゃうから!」」
 この最後の言葉が、アイーダとミニョンによって発せられるということに注目しなければならない。ミニョンはこの後実際に、人肉食を実行に移すのであるから。
 ここにも人食い人種と子供とが同類であることが語られる。無知と無邪気の故にそうであることが……。

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ホセ・ドノソ『別荘』(8)

2015年11月25日 | ゴシック論

②―3
 ウェンセスラオ(9歳)もまた、親の溺愛に応えることのできない子供である。彼はバルビナとアドリアノ・ゴマラの息子で、妹にアイーダ(8歳)とミニョン(6歳)の二人がいる。二人とも生まれつき醜くかったため、バルビナはウェンセスラオに女の子の恰好をさせ、女の子として育てるのである。
 アイーダとミニョンは第2章「原住民」で、悲劇的な死を遂げることになるが、バルビナは二人の娘の代償として、ウェンセスラオに一層盲目的な愛を注ぐだろう。
「すくすくと彼は成長したが、バルビナは息子が成長しているという事実はもちろん、相変わらず彼が男であることすら受け入れようとはせず、リボンやバラの花冠、そして、刺繍やギャザーで派手に飾り立てたスカートを穿かせていたばかりか、相変わらず巻き毛を丸めてイギリス風の髪型をさせていた。今や気兼ねすることなく生活を送れるようになった彼女は、すべての義務を忘れて楽しく無邪気な幼年期へ退行し、生身の人形をあやす少女さながら、ウェンセスラオの世話、とくにその衣装と髪の手入ればかりに専念するようになった」
 女の子の恰好をさせられたウェンセスラオは、いとこ達に"小悪魔"と呼ばれて軽蔑されるが、彼は「わずかに繋ぎ止められた母の正気を壊してしまわぬため、ひたすらいとこたちの愚弄に耐えるよりほかはなかった」とドノソは書いている。
 ここには逆転した親子関係を見ることが出来る。母であるバルビナは少女へと退行し、子であるウェンセスラオは子供と化した母のために大人として、いとこ達の侮蔑に耐えるのである。しかし、親達がハイキングに出掛けた後、ウェンセスラオは自らの意志で髪を切り、女の子の衣装を脱ぎ捨てて、男として生まれ変わるだろう。
『別荘』という作品の中で、最も成熟の過程を示していくのがウェンセスラオであり、そのことによって主人公としての資格を与えられている。なぜかと問うならば、第2章「原住民」における悲劇的なエピソードに触れないわけにはいかない。『別荘』は多くのエピソードから成り立っているが、このエピソードほどに衝撃的なものはない。
 父アドリアノは妻と息子、二人の娘を連れて、原住民の居住地に出掛けていく。原住民から絶大な崇拝を受けていたアドリアノは、妻と子供達に原住民が決して危険な"人食い人種"などではないことを教えようとしたのである。
 そこで彼らは原住民達による豚の生贄の供応を受ける。最も尊い豚の頭を感謝の気持ちを込めて頂くのだ。アドリアノと3人の子供は竈で焼かれた「口に林檎をくわえ、頭に香草の冠を被って盆の上に載った」豚の頭を目の当たりにする。
 いささか刺激が強すぎたのだろうか、その後ミニョンは原住民達の真似をしてしまうのである。ミニョンはアドリアノに訊ねる、
「お父さん、お腹空いてる? 原住民たちの準備したものは、男たち専用で、私は食べさせてもらえなかったから、お父さんと私、二人だけのために特別な食事を準備したの」
 ミニョンが用意したものとは何だったのか?
「ミニョンは出し抜けに竈の蓋を開けた。内側の地獄に見えたのは、口に無理やり林檎を詰め込まれて笑顔を浮かべ、カーニバル用の冠の上にパセリやローレル、ニンジンやレモンの輪切りで額を飾られたアイーダの顔だった。(中略)世界全体が恐ろしい地獄となって崩れ落ちた……」
 アドリアノは発狂し、ミニョンを殴り殺す。一部始終を見ていたのはウェンセスラオであった。
 すべてを見ていたウェンセスラオが、いつまでも子供でいることはできないのであった。

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ホセ・ドノソ『別荘』(7)

2015年11月24日 | ゴシック論

②―2
『別荘』の第1章「ハイキング」は、親たちがなぜハイキングに行くことになったのかの理由を明らかにする章であると同時に、ドノソの子供というものに対する考え方を、何人かのいとこ達の姿を借りて表明する章ともなっている。だから第1章はこの作品にとってだけでなく、ドノソが子供を登場させる他の作品にとっても重要な意味を持つことになる。
 まずは、テレンシオの長女アラベラ(13歳)である。アラベラは小説後半でも重要な役をつとめる、この小説においては準主人公と言ってもいい存在である。
 アラベラは母ルドミラの溺愛の儀式に耐えきれず、「アラベラの成長は止まり、彼女は巧みに自分の気配を消す術を身に着けた」とドノソは書いている。さらにドノソは詳しく書くだろう。アラベラは……。
「立派な両親、テレンシオとルドミラに喜びを提供することのできない苦しみのせいで、彼女のすべてが縮んでいったのだ。その意味では、アラベラの運命も他のいとこたちの運命と何ら変わるところがなかったが、それが彼女には耐えられず、縮みゆくうちに、苦しみの旗印となった怨念にすがりつくようになった。(中略)アラベラは大人たちがいなくなればいいのにと思い始め、殺すのではなく、どこかへ遠出させるという形で彼らの存在を消し去ろうと目論み始めた」
 両親の愛情に素直に応えることのできない子供、しかもその愛情が強ければ強いほどそうであってしまう子供というモデルをここで提起することができるだろう。「夜のガスパール」のマウリシオも、母親がステレオやバイクなど普通の子供なら喜びそうなものを買ってあげると言われても、素っ気なく「いらない」と応えるだけであった。
親に愛するという喜びを与えることのできない子供というものは存在するし、マウリシオの例を見ればドノソ自身がそんな存在であったことは間違いないだろう。しかし、それは親自身の責任でもあるのであって、子供達は親たちの溺愛に虚偽を読み取っているがゆえに、親たちの愛に応えることができないのだ。それが33人のいとこ達の運命なのである。
 アラベラは自分の気配を別荘の膨大な本を収めた図書室の中に消し去るだろう。彼女はそこで一日中本を読みふけり、ほとんど誰とも接触することのない少女となるだろう。アラベラはそのようにして世界に参入していくのである。
 ところで、ハイキングの発案者はアラベラではなかったが、アラベラはその豊富な知識を活かして、屋根裏部屋におかれていた古地図を偽装し、そこに理想郷を描いてみせ親たちをハイキングへと誘導する。それは次のように書かれている。
「ウェンセスラオの手を借りて、黴の染みが山脈に見えるよう、白蟻の食った穴が確かな道程を示す偶然の手がかりに見えるよう、入念に細工を施した」
 この時からアラベラとウェンセスラオの共謀関係は始まっている。小説の後半で二人の関係はさらに深まるだろう。

 

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ホセ・ドノソ『別荘』(6)

2015年11月22日 | ゴシック論

②―1
 ホセ・ドノソの1960年の短編に「アナ・マリア」という作品がある(白水社『現代ラテン・アメリカ短編選集』所収、中川敏訳)。初期の作品で、まだドノソが手探りで小説を書いていた時代の作品である。
 この「アナ・マリア」に"三歳になっているかどうか"という女の子が登場する。アナ・マリアはその子の名前である。アナ・マリアは両親に虐待され、いつもひとりで裸のような恰好で公園で遊んでいる。ある老人がアナ・マリアを哀れに思い親切に声をかけると、彼女は老人に「わたしの恋人(ミ・アモー)」とか「めんこい(デインド)」などと呼び掛けるようになる(三歳だからまだ覚えたての言葉なのだ)。
 その老人もまた妻から無視されていて、彼女はある日家を出て行く。老人は寂しくひとり公園にアナ・マリアに会いに行く。最後の場面は、
「手を取って女の子は柳の木の陰から夏の真昼の炎暑のなかへ老人を連れ出す。女の子が手を引いて連れて行く。女の子は言った。
『行きましょ、行きましょ。』
老人は女の子についていった。」
虐待される無垢な女の子と、疎外される純朴な老人との奇妙な共感を描いたこの作品は、早い頃からのドノソの子供へのこだわりを証拠立てている。
『この日曜日』では「私」のいとこ達がおばあさんの家でする「マリオラ・ロンカフォールごっこ」と、スラム街の子供達の大人の偽善に対する戦いが描かれていた。
 そして、「夜のガスパール」ではドノソ自身の少年時代を思わせるマウリシオの、純粋であるが故の大人達への侮蔑と、ラヴェルの「夜のガスパール」のような一種異常な音楽に惹かれていく姿が描かれていた。
「夜のガスパール」を読めば、それは子供達へのこだわりというよりは、純粋であった子供時代を失いたくないというドノソの真っ直ぐな気持ちの表れであることが分かる。ドノソは子供のままでいたいという強い思いを持っていたのに違いない。それは彼の最高傑作『夜のみだらな鳥』にも顕れてくるだろう。
 しかしドノソの子供達は、無垢なままでいることができない。純粋であろうとするマウリシオが、ラヴェルのゴシック的な曲に惹かれていくように、大人達のようにはなるまいとする意志は、無垢な子供達を無垢とは無縁な世界に連れて行く。
 それが『この日曜日』における「マリオラ・ロンカフォールごっこ」であったり、『別荘』における「侯爵夫人は五時に出発したごっこ」であったり、「夜のガスパール」におけるラヴェルの曲であったりするのだ。
 いや、そうではなく、子供自身がもともと決して無垢で純粋な存在ではあり得ないということを、ドノソは言いたいのかも知れない。ドノソが影響を受けたヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』では、姉弟は無邪気であるが故にこそ邪悪な幽霊に取り憑かれてしまうのだから……。
 しかしいずれにしても"子供対大人"という対立軸が、ホセ・ドノソにとって揺るぎないものであることは間違いない。「アナ・マリア」で両親に背を向ける女の子、『この日曜日』でチェバの偽善に対して闘うスラム街の子供達、「夜のガスパール」で母親と対峙するマウリシオにそれを見ることが出来る。もちろん『ねじの回転』でも、姉弟は大人としての女家庭教師に徹底的に歯向かうだろう。
『別荘』ではそのような対立軸がはるかに複雑なものとして描かれる。なにしろ35人のいとこたちがそこに集い、大人達との戦いの場に投げ込まれてしまうのだから。

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ホセ・ドノソ『別荘』(5)

2015年11月21日 | ゴシック論

① ―2
もうひとつのゴシック的仕掛けは地下の迷宮である。こちらには槍の柵のような象徴性はやや弱いと言わなければならない。物質性が強すぎるし、古典的なゴシック小説の中核をなす仕掛けでもあり、むしろ物語を推進する装置としての働きの方が強いかも知れない。
 地下の迷宮は第二章「原住民」の章に早くも登場してくる。この章で語られるのは、ウェンセスラオ一家五人を襲う恐怖の物語であり、父アドリアノ・ゴマラがいかにして発狂し、別荘の塔に閉じ込められるに至ったかの顛末である。そのことに原住民の存在が深く関わっている。
 原住民に対して深い敬意を抱いていた医師のアドリアノは、毎晩のように原住民達のところを訪れて彼らの面倒を見ているが、ある日一家で原住民の居住地を訪れる(アドリアノが一家の理解を得るための行動)。
 その時、アドリアノが一家を率いて通過するのが地下の迷宮なのである。そしてその地下の迷宮には、食料庫や調理室、ワインセラーや使用人達の居室などが複雑に入り組んで点在していた。とりわけウェンセスラオが驚嘆するのが、ある部屋に収納されていた原住民達の豪華絢爛たる衣装や装飾品、仮面や陶器などだった。
 この地下の迷宮は原住民達の居住地に通じる通路でもあるので、その時も一家は原住民のひとりに鄭重に迎えられる。その後、豚を生贄にする儀式によって、あまりにも恐ろしい事件が引き起こされることになるのだが、今は言わない。
 ここで言っておかなければならないのは、ウェンセスラオの記憶がそこで封印され、地下の迷宮の記憶が失われてしまうということなのだ。それはベントゥーラ一族と原住民との間の細くつながっていた回路もまた、封印されてしまうということを意味している。
 しかし小説の後半で、使用人達の軍団に捕らえられ、原住民のひとりアガピートとともに地下に閉じ込められたウェンセスラオは、記憶を甦らせて脱出経路を発見し、逃亡に成功する。
 この地下の迷宮に象徴的な意味があるとすれば、それがベントゥーラ一族と原住民との間をつなぐ経路であるということ、もうひとつベントゥーラ一族の記憶の迷宮であるということになるだろう。ウェンセスラオは一族を代表してその記憶を甦らせ、父がそうしたように原住民達との回路を取り戻すのである。
 ただし、小説の後半でこの地下の迷宮は、古典的なゴシック小説が持っていた地下の主要な機能、いささか御都合主義的な機能を持たざるを得ない。ウェンセスラオが逃亡に成功するのは、この地下の迷宮があればこそなのであるから。
"物質性が強すぎる"と言ったのは、そのような意味からである。多くのゴシック小説は御都合主義的である。そのために使われる装置の代表的なものこそ地下の迷宮なのである。主人公は危機が迫れば、そこに隠れて逃亡のチャンスを窺うのであるし、そこを通って人知れず逃げ去ることもできるのだから。
 ホセ・ドノソはゴシック小説の持つ御都合主義を否定していない。むしろ『別荘』にあっては、それを積極的に利用さえしている。ドノソはこの章の冒頭でこう言っている。
「私がこうしたこと(作中に作者が顔を出すこと)をするのは、この文章があくまでも作り物にすぎないことを読者に示すというささやかな目的のためだ」
 さらに次のようにも言っている。
「フィクションでありながらフィクションでないように見せかける偽善は、私に言わせれば唾棄すべき純血主義の名残であり、私の書くものとはまったく無縁であると確信している」
 このように言うドノソにとって、多少の御都合主義は許されて当然なのである。このことは③の虚構の問題にも大きく関わってくるので、後ほど再度課題としなければならない。

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ホセ・ドノソ『別荘』(4)

2015年11月20日 | ゴシック論

① ―1
18,633本の槍でできた柵は、親たちがピクニックに出掛けた後も、33人のいとこ達を別荘とその敷地内に幽閉しておくための仕掛けである。
 しかもその槍の柵は、ベントゥーラ一族と原住民とを画然と仕切る境界であり、そこから出て行くことは子供達の秩序からの逸脱を意味している。
 これはゴシック小説に頻出する牢獄の役割を担っているのに他ならない。そしてそこから脱獄することが、主人公の運命というより使命なのであるから(なぜなら、そうしなければ物語が進行しないからである)、柵もまた切り開かれて子供達に脱出の機会が与えられなければならない。
 だからこそ、第3章「槍」で、シルベストレの四兄弟、マウロ、バレリオ、アラミロ、クレメンテは、槍を一本ずつ引き抜くことを試みるのである。変革の始まりである。
 18,633本という槍の数は、幽閉の威圧感を示すためのものであって、特別の意味を持ってはいない。マウロは最初に「マルランダのせわしない空を背景に黄金の先端を輝かせた、最も完璧な一本だけを選び出し、これにメラニアと名づけて愛を注ぐことに」する。
 先端が金でできた槍の一本を、マウロが思いを寄せるメラニアと名づけることには、当然性的な含意があるが、そのことにたいした重要性はない。むしろ、一族のエリートとしての四兄弟が、ベントゥーラ一族の規則に違反する行為を行うことに意味がある。四人は「秘密を育みたい。そして、たとえ外見上何も変わらずとも、一家の堅固な柵を打ち倒したい」とういう猛烈な欲求に従ってやり抜きに精を出すのである。
 しかし、33本目(別荘に残される子供達の数と一致している)までは苦労しなければ引き抜けなかったのに、34本目からは簡単に抜けることを四兄弟は発見する。なぜだろうか? マウロは考える。
「ひょっとしたら大人たちも、子供の頃は柵の槍抜きに精を出していて、それでこんなにたくさんの槍が外れているのだろうか?」
と。つまり子供達による槍抜きは、何代も前から続けられていて、18,633本の槍は見かけとは裏腹に簡単に抜けるようになっていたのだ。
 このことが意味しているのは、槍の柵というベントゥーラ一族にとっての秩序を構成する規範が、まったくの擬制の上に成り立っているものでしかないということである。ドノソはここで、槍の柵というゴシック的な閉鎖装置について、それが象徴しているものを明らかにしているのである。
 またその擬制を成り立たせているものが何かといえば、それは子供達の自由への希求とそれに対する断念、そして子供達が大人になっていくに従って秩序を維持する側に移行していくという、永遠の宿命そのものなのである。
 これこそゴシック小説における牢獄が持っている強固な物質的イメージに対して、ドノソが対置させる新しいゴシック的装置の象徴的イメージなのである。
 また、柵が槍でできているということ、そのこと自体にもある意味が込められている。槍は本来武器であり、武器は権力の象徴でもあれば、権力に対する抵抗の象徴でもある。実際に子供達や原住民達はこの槍を武器として使用することになるだろう。槍はこのような両義性を暗喩してもいるのである。

 

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ホセ・ドノソ『別荘』(3)

2015年11月19日 | ゴシック論

⑧ ⑦とも関連してくるが、ベントゥーラ一族の親たちは、なにか自分の存在が脅かされるような話題になると、決まって「もうこの話にも分厚いベールを掛けることにしましょう……」などと言って、その話題を打ち切ることを習性としている。「分厚いベールを掛ける」という言葉も何回も出てきて、この言葉はベントゥーラ一族の現実回避の姿勢を象徴しているのだと思われる。このことにも触れておきたい。

⑨『別荘』という小説で何をおいても最もショッキングなことは、親達がたった一日、ピクニックに出掛けた間に、別荘に残された子供達の間では一年間という長い時間が経過しているという驚くべき設定にある。
 第一部と第二部の大きな断絶がそこにある。第一部では親たちと子供達はまがりなりにも一定の時間を共有しているのに、第二部ではそうではない。このような現実離れした時間構造をドノソはいったい何のために仕掛けたのかという問題は、『別荘』を読む上で最も重要な問題であるのかも知れない。
 しかし、この途方もないギャップの仕掛けがなければ、この小説のダイナミズムは失われてしまうので、これは小説構成上の仕掛けとしての重要性に止まるということもできる。実際にどうなのか、そのことも問うてもよい。

⑩主人公は誰か? ということも、この小説を読む上で重要なテーマである。9歳のウェンセスラオが、この小説ではもっとも出演時間が長く、しかも魅力的な人物に仕上げられているが、ドノソは小説の途中で顔を出して、「ウェンセスラオが小説の主人公というわけではない」とまで言っている。
 本当だろうか? ドノソは「この本の基調、この物語に独特の動力を与えているのは、内面の心理を備えた登場人物ではなく、私の意図を達成するための道具にしかなりえない登場人物なのだ。私は読者に、登場人物を現実に存在する者として受け入れてもらおうとは思っていない」と書いている。
 このような論理からすれば、主人公など存在しなくてもかまわないということなのだろうか。あるいは、こうした議論からドノソの小説に対する基本的な考え方が窺えるのであり、主人公は誰か? ということよりももっと重要な問題が出てくるような気がする。③とあわせて考えるべきであり、この問題に答えることが『別荘』への最終的な結論となるだろう。

 以上十のテーマを整理してみたが、これらのテーマは複雑に絡み合っていて、お互いに干渉しあっているために、すべてを解明することができるかどうかおぼつかない。しかも別に隠されたテーマがあるのかも知れない。
 しかし、私のゴシック論の最終的なゴールのひとつは、この『別荘』に他ならないのだから、やれるところまでやってみるしかないだろう。

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