玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(14)

2015年08月27日 | ゴシック論

『耶路庭国異聞』に含まれる「黒金」という作品がある。この作品はアラン・ロブ=グリエの「秘密の部屋」という作品に触発されて書かれたものだという。ロブ=グリエのこの作品は『現代フランス幻想小説』というマルセル・シュネデール編集によるアンソロジーに収められていて、白水社版で読むことが出来る。
 サブタイトルに「ギュスターヴ・モローに捧げる」とあるように、モローの絵画作品を言葉で再現したような作品で、ロブ=グリエはそこで、ひたすら放埒な描写の夢に浸っているように思われる。
 もちろんモローの作品が静的なものである以上に、動きをまったく欠いた文章であり、ひたすら絵画の細部を執拗に描いていくことによって、ほとんど時間は静止している。

ギュスターヴ・モロー〈ヘラクレスとレルネのヒュドラ〉

「まず最初に見えるのは赤い斑紋、鮮烈な、きらきら光っている、しかしくすんだ赤の、ほとんどくろい影をたたえている斑紋である」という一文が最初に置かれている。この一文は山尾悠子の「黒金」のエピグラフともなっているが、こんな調子が6頁にわたって続く短い作品である。
 赤い斑紋とは裸の女の死体に残された傷口の血痕であり、そこから流れ出て凝固した血液の葉脈までが克明に描かれていく。
 その女を殺したと思われる男が現れるが、現れるのではなく、最初からそこに、死体から少し離れた階段の3段目に右足を乗せているのである。絵画では描かれたものは一挙に現前するのだが、言葉で書く時にはひとつずつ描写していかなければならない。
 顕在的にはそこで時間は停止しているのだが、書くことにおける潜在的時間は静止していない。絵画にあってもひとつずつ描いていくのに違いはないのだが、絵画が絵画として示される時には、すべては一挙に現前する。
 小説もそうだと思われるかも知れないが、小説のテクストは一挙に現前することが出来ない。そこに"読む"という行為が介在するからである。ここに絵画と言語テクストとの本質的な違いを見ることも出来る。書くことと描くことの違いだけでなく、受容の側の読むことと見ることの本質的な違いにそれは帰せられることだろう。
 また絵画を言語によって再現することの意味についても考えさせられる作品である。言語は絵画を模倣するかも知れないが、絵画が絵画を模倣するように模倣するのではない。同じ絵画を言語によって再現しても、違う作者が書けばそこにはまったく違った言語世界が開かれることだろう。
 ところで山尾悠子の「黒金」の方は「秘密の部屋」の2倍くらいの作品であり、ロブ=グリエに倣って放埒な描写の夢に浸っているだけではない。山尾はそこに静止する時間とともに、遡行する時間をも導入している。ロブ=グリエと同じことをするわけにはいかない。その上を行かなきゃという山尾の挑戦的精神が見て取れる作品である。
 部屋(山尾もまた「秘密の部屋」の内部を描く)には巨大な柱時計が置かれている。その時計が最初深夜零時を告げ、以降11時50分、11時25分、11時5分、11時、10時50分、10時45分、10時15分、10時というように時間が遡行していく。
 そのたびに登場する女と少年、そして一匹の狼は互いにその位置を変え、その姿勢を変え、その生死の状態をすら変えていく。描写のスタイルはロブ=グリエにそっくりだが、山尾は遡行する時間を導入することで、作品をより複雑なものにしている。
 しかし、そこで時間は逆行などしていない。時計の針が10分ないし15分おきに、戻されていくたびに、時間はそこから再びリニアーなものとして流れ出すのであり、本質的に時間は逆行などしていない。言葉は当然時間を遡行することは出来るかも知れないが、時間を逆行させることは出来ないのだ。
 しかし、そんな不可能に挑んだのが、キューバの作家・アレホ・カルペンンティエールの「時との闘い」であった。

『現代フランス幻想小説』(1970、マルセル・シュネデール編)アラン・ロブ=グリエ「秘密の部屋」平岡篤頼訳

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(13)

2015年08月26日 | ゴシック論

 言語による時間停止作用、あるいは時間減速作用、さらには時間加速作用を駆使した作家はこれまでにもいた。それは日本における最も偉大な幻想文学作家・泉鏡花である。泉鏡花による時間停止作用は、その独特な服飾描写によって行使される。鏡花は作品中に美女を登場させるたびに、緻密でマニアックな服飾描写を繰り返す。それまでリニアーな時間の中で進行していた物語が、そこで突然中断されるのである。
「紺地に白茶で矢筈の細かい、お召し縮緬の一枚小袖。羽織なし、着流しですらりとした中肉中脊。紫地に白菊の半襟。帯は、黒繻子と、江戸紫の麻の葉の鹿の子を白。地は縮緬の腹合、心なしのお太鼓で。白く千鳥を飛ばした緋の絹縮の脊負う上げ。しやんと緊まつた水浅葱、同模様の帯留めで。……」(原文総ルビ)
 このような描写が延々と続く。今では和服についてよほど造詣の深い人でなければ、何のことか分からない用語が繰り返され、読者はそこで時間の停止した保留状態に置かれるのである。
 それは怪異なものの出現の場面でも同様であって、「草迷宮」で主人公の葉越明の前に現れる母の知己の女が登場する場面も、過剰な服飾描写に彩られている。次のような描写は幽霊の出現を描いているのに等しい。
「唯見ると、房々とある艶やかな黒髪を、耳許白く梳って、櫛巻にすなおに結んだ、顔を俯向けに、撫肩の、細く袖を引合はせて、胸を抱いたが、衣紋白く、空色の長襦袢に、朱鷺色の無地の羅を襲ねて、草の葉に露の玉と散った、浅緑の帯、薄き腰、弱々と絲の艶に光を帯びて、乳のあたり、肩のあたり、其の明りに、朱鷺色が、浅葱が透き、膚の雪も幽かに透く」(原文総ルビ)
 鏡花の服飾描写がいつでも怪異に直結してしまうのは、その過剰な描写が時間を停止させ、停止した時間の中に怪異を呼び込んでくるからである。そこには怪異な時間が実現されているのである。
 時間減速作用については、鏡花の代表作「春昼」の冒頭の場面を参照して欲しいし、時間加速作用については能で言う「序破急」の「急」で終わる鏡花の多くの怪異譚のラストを参照して欲しい。ここでは例を挙げている余裕がない。
 このような時間に対する変速作用は、もともと言語の叙述構造が持っているものであって、それを意識的に使ったのが鏡花だったと言えるだろう。山尾悠子もまた、そのような作家であり続けている。
「夢の棲む街」の「7〈禁断(あかず)の部屋〉の女」で山尾は、時間の停止(あるいは極端な時間減速)そのものの場面を描いている。山尾は「……女は、部屋の空中に引っ掛かったように静止している」と書いているが、泉鏡花の女もまた「空中に引っ掛かったように静止している」のである。
 女の描写の前に〈禁断の部屋〉自体の描写がある。微細な描写の後次のような一文が置かれている。
「そのため、戸口に立って眺める部屋の光景は、古びて色の褪せた一葉の写真のように見えた」
 写真こそが究極の時間停止装置である。写真のように描く、あるいはストップモーションを捉えた写真をなぞりながら描写していくというのが、言語による時間停止の要諦である。山尾悠子の作品の至るところにそのような描写を見ることが出来る。
 しかし、〈禁断の部屋〉の女については、山尾は時間停止を公言しているので良いサンプルではない。我々は、より本格的な時間停止のケースを探さなければならない。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(12)

2015年08月24日 | ゴシック論

「夢の棲む街」のカタストロフは街の中心にある劇場の崩壊として訪れるのだが、崩れ去るのではなくて、崩壊の時間が凝固するのである。次のように……。
「……人々は奈落の底へなだれ落ちようとする姿勢のまま凝固した。物の影は壁一面に散乱した一瞬のかたちに静止し、崩れ落ちる硝子の破片、また桟敷から落ちてくる無数の人影が空中に静止した。煽りを喰って算を乱した羽毛は、乱れた動きの瞬間に凍結し、すべての光は流れるのをやめ、崩壊した場内の空間は粒子の荒れた微妙な薄明かりに満たされた」
 この一節を読んで我々は、モンス・デジデリオが描いた崩壊のストップモーション〈偶像を破壊するユダ王国のアサ王〉を思い起こすことが出来る。


 山尾悠子がデジデリオのこの作品を参照しているのは明らかである。山尾は円柱の崩壊する場面も描いているし、「崩壊した場内の空間は粒子の荒れた微妙な薄明かりに満たされた」の部分も、デジデリオの作品右下方の光とも埃ともつかぬ薄明かりの部分に対応しているように思われる。
 しかし、なぜデジデリオのこの作品は、静止した時間の内にあるように見えるのだろうか。デジデリオは崩壊する建築物を執拗に描いたが、多くは崩壊が終わってすべての動きが静止した状態で描いている。デジデリオが廃墟を愛したのであれば、崩壊の過程にあるものは廃墟ではあり得ないから、描く対象とはならなかったのではないか。
 しかし、この作品だけはリアルタイムな崩壊の過程を描いて例外的である。なぜこの作品はストップモーションのように見えるのか。デジデリオは廃墟ばかりを描いたから、当然多くの作品は動きというものを欠落させている。
 しかし、本当の理由は細部への尋常でないこだわりにこそ求めるべきだろう。未だ崩壊を始めていない部分、左側の円柱の装飾部分、そして人像柱、さらには正面奥に広がるドーム、そして右側の崩壊を始めた像の部分を見れば、いかにデジデリオの細部へのこだわりが異常であるかは一目瞭然である。 
 壊れつつある円柱の上部に見えるドームの罅割れから、円柱の装飾部分にかけての細部描写を見ていると、この崩壊を終わらせたくないのだというデジデリオの意志を感じとることができる。時間をかけて細部を描写していく時、そこで時間が凝固するのである。
 時間を止めてしまうというあり方は、言語表現の方により特徴的に現れる。言語表現はもともとリニアーな時間の進行とともにあるわけだが、時に時間を止めることも出来る。細部に異常にこだわれば、そこでリニアーな時間がストップし、その時間の静止は言語表現全体の中で、際だった印象を与えることになる。
 山尾悠子は先に引用した部分の前に延々と崩壊の細部を描いていく。
「漆黒の硝子天井の頂点から発した白い亀裂は、円天井の周囲に向かって最初は静かに、そして徐々に速度を増してキラキラ輝きながら走っていく。葉脈状の細かい罅は、見るみる広がって最後に大ドームの縁に達し、」
 この部分に続くのが、「そして一瞬すべての動きが静止した」という一文である。この部分がほぼ正確にデジデリオの〈偶像を破壊するユダ王国のアサ王〉のイメージをなぞっているのは明白であり、それと同時に「すべての動きが静止した」と書くのも必然的である。山尾は言語の時間停止機能についてよく知っていたのである。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(11)

2015年08月23日 | ゴシック論

『耶路庭国異聞』のラストは眩暈がするほどに美しいが、もっと美しいイメージに溢れた場面がある。虚空に黄金の鍵を投げ上げ、天蓋に穴を穿ったあとに皇女が死を迎える場面である。耶路庭国に蔓延していく疫病の端緒となる皇女の死は次のように描かれる。
「やがて我に帰った侍臣の群が部屋に駆け込んで露台の人影を助け起こした時、高熱を発したその両の眼の眼底が白濁し全身に夥しい薔薇疹が顕れているのを彼らは見た」
 皇女の死の過程はこれだけでは終わらない。さらに……。
「侍臣たちの腕に亡骸の重みが加わり、それと同時に薔薇疹に覆われた躰は豊かな白光に巻かれて色を変え始めた。眩さに耐えられず後ずさった侍臣たちの前で、溢れだす光に浸された亡骸の皮膚からは見るみる薄紅の瘡が消えていき、いよいよ眩しく透明に透きとおっていった。すべての変化が終わった時、そこには全身ことごとく無色の玻璃に変じた一体の躰が残っていた」
 まるでシュルレアリスム絵画の世界のような幻想美が達成されている。これほどに美しい死の過程を言葉で描いた作家が、日本にいただろうか。しかもその死は疫病によるものであり、疹や瘡などのやまいだれのついた漢字に彩られている。
 前に絵画と言葉だけが現実にはあり得ないものを現前させることが出来るということを言った。ここでも山尾悠子が繰り出す言葉のイメージは極めて絵画的である。眼底が白濁し、全身に薔薇疹が顕れ、疹が瘡へと変わり、やがてその瘡も消え、全身が水晶のように透明になって死に至るというようなイメージを描くことが出来るのは、言葉の他には絵画しかあり得ない。
 このような山尾悠子の美質は、彼女の実質的な処女作「夢の棲む街」でも遺憾なく発揮されている。この十の章で構成された連作短編とも言える作品は、それぞれの章ごとに息を呑むほどに美しい場面が置かれている。
「1〈夢喰い虫〉のバクが登場する」では、広場にある劇場を中心とした漏斗状の街が、デジデリオの描く廃墟の街のように美しく描写されている。「2〈薔薇色の脚〉の逃走と帰還及びその変身」には、下半身だけが発達し上半身が萎縮した畸型の踊り子たちが登場する。このグロテスクなイメージを持つ畸型たちも、言葉の魔術によって美しいものへと姿を変える。
「4屋根裏部屋の天使の群に異変が起きること」では、単性生殖で増殖する白い翼の生えた天使たちが、増えすぎたために自己中毒で死んでいくという途方もないエピソードが語られる。「7〈禁断の部屋〉の女」は、顔を弾丸で撃ち抜かれた女が時間の流れの止まった部屋で、10年かけて45度の角度まで倒れていくといった、これまた途方もない奇想に満ちた章である。
 中でもとりわけ美しいのは「8浮遊生物の下降と羽根の沈澱」で描かれる、風のない深夜に降りしきる純白の羽根のイメージである。上方に棲息する透明な浮遊生物に由来するこの羽根は、人を死に至らしめることもあるのだが、言葉のイメージはどこまでも美しい。
「10カタストロフ・崩壊と飛翔」は、いつものようにすべてが崩壊するカタストロフである。デジデリオが無数の荘厳な建築物を描き、最後にそれらを崩壊に導くように、山尾悠子もまた、言語による構築物を崩壊に導く。と言うよりも、崩壊させることを目的に、デジデリオの建築物も山尾の構築物も造られているのである。
 絵画にあってそれは否定の身振りであり、山尾の作品にあってそれは否定そのものであるのに違いない。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(10)

2015年08月22日 | ゴシック論

 

ピラネージ『牢獄』第2版より〈大きな塔、渡り橋、二つのはね橋〉

 モンス・デジデリオは閉鎖空間を描いていないが、閉鎖空間を好んで描いたのはジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ(1720-1778)である。ピラネージはローマの遺跡シリーズの他に、牢獄シリーズを描いているが、これこそがゴシック小説の教典となった作品である。
 現実の牢獄ではない。ある歪んだ想像力によって創造された牢獄のイメージである。下方には拷問に使うさまざまな器具があり、犠牲者の苦悶を欲している。牢獄であるのになぜか渡り廊下やはね橋が上方に展開していて、巨大な塔が上へ上へと伸びていく。それにからみつく螺旋階段もまた上方へ昇っていく。
 この牢獄が何処まで展開していくのか計り知れないが、石造りのアーチや屋根が上方への展開を妨げている。巨大な閉鎖空間なのだ。この犠牲者の希望を打ち砕くかのような閉鎖空間こそは、ゴシック小説の原点である。そこから脱出することの出来ない世界をこそ、初期のゴシック小説の作者は好んで描いたし、ゴシック小説の最大の特徴は、そうした空間の持つ重苦しい閉鎖性であるのに他ならない。
 山尾悠子の『耶路庭国異聞』もまた巨大な閉鎖空間を描く。もうひとつの(三つ目の)閉鎖空間はその名も〈宇宙館〉というのであり、「総ガラスの閉鎖空間」と呼ばれている。この〈宇宙館〉と〈耶路庭国〉との往還の物語がこの作品の主軸をなしている。
 二つの閉鎖空間は、どうやら上下で隣接しているらしい。〈宇宙館〉で唯一生き残った〈私〉はこの世界の終焉を次のように予測するのである。
「――そして光と影の中を前進し続けるうちに、いつか〈私〉は行く手に小さな黄金の輝きを認めることがあるかも知れない。馬を降りてそれを拾いあげた〈私〉は、手の中に一個の黄金の鍵を見出すだろう。と同時に〈私〉は眼の前にある継ぎ目のない半球型の黒硝子の物体に気づくだろう」
 そしてさらに、その半球型の先端近くには、罅割れた小さな穴が空いているのである。耶路庭国の皇女が投げ上げた黄金の鍵と、黄金の鍵が天蓋に空けた穴がそこにあるだろうと〈私〉は予測しているのだ。
 最後の一節は、もし〈私〉がその小さな穴を覗いたらどうなるかという予測によるものだが、眩暈のするようなラストシーンとなっている。
「そこには蟻よりも微細な〈私〉の後ろ姿が、やはり半円球の黒硝子の覗き穴に眼を当てているのが見えるだろう。と同時に〈私〉の背後の彼方からやはりひとつの視線が〈私〉の背を刺し貫くだろう。その時あらゆる空間は〈私〉の視線で満ち、〈私〉は呪縛されたようにその姿勢のまま永劫に動けなくなり、そして無数の〈私〉は無数の空間に視線のこだまを増殖させ続けていくのではあるまいか」
 ここに描かれているのは、ある閉鎖空間をもう一つの閉鎖空間が包み込み、その閉鎖空間をさらにもう一つの閉鎖空間が包み込み、さらに……という連鎖的な包含のイメージに他ならない。
〈私〉がある閉鎖空間の罅割れた穴を覗き込む時に、無数の閉鎖空間が無数のリフレクションを〈私〉において発生させるのである。"視覚のこだま"という言葉を山尾は使っているが、それは単に視覚にのみ関わるものではない。だからリフレクションという諸感覚に共通する言葉を私は使ったが、山尾が"こだま"という言葉を使うのはそれが音声や言葉に関わる反射としての意味を持っているからだろう。
 山尾悠子は、ピラネージの限定された巨大閉鎖空間を、無数の巨大閉鎖空間の重なりへと増殖させる。山尾はしかし、"無限の"とは書かず、"無数の"と書くのである。言葉が無数の語彙と無数のリフレクションを持つことは出来ても、無限のそれを持つことは出来ないからである。
 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(9)

2015年08月21日 | ゴシック論

『山尾悠子作品集成』には、ちくま文庫版の『増補 夢の遠近法: 初期作品選』には収載されていない作品がたくさんあって、どれも興味深く読むことができる。
 中でも山尾の特長がよく出ている作品として、「耶路庭国異聞」(えるにやこくいぶんと読む)を挙げておきたい。山尾が子供のころ読んで影響されたというC・S・ルイスの『ナルニヤ国ものがたり』を意識したタイトルだが、私は読んだことがないし、映画化されたものも見ていない。
 ファンタジーは意識しているのだろう。だからそれを暗黒のファンタジーと呼んでもいいし、世界崩壊の幻想譚と呼んでもいい。「耶路庭国異聞」という作品を何と呼んでもいいが、この作品もまた言葉の本質に関わるメタファーとしての性質を持っている。
 二つの閉鎖空間がある。いや三つの、あるいは無数のと言ってもいいだろうか。
耶路庭国の内に初代皇帝の手によって成った地下の〈庭〉があり、そこに世継ぎの皇女が幽閉されている。〈庭〉は世界の模型であって、そこでは天体の運行を初め〈庭〉の外の世界が忠実に再現されている。
 当然この〈庭〉には天蓋があり、物を投げればそこに当たるはずである。つまり……。
「白布の尾を曳いて一直線に飛んだ盃は、月球をわずかに外れ、その背後の闇に消えた。と、硝子の煌めきがちらと目を射た時――、玻璃盃の砕け散る音が中空に響いた」
 皇女は〈庭〉の外に出て、外の世界には〈庭〉と違って外縁というものがないのかどうか、知らずにはいられない。皇女は実際に外に出て、〈黄金の鍵〉を虚空に投げ上げる。〈黄金の鍵〉は上空の闇に吸い込まれ、そして……。
「遠くかすかに、しかし精緻な反響を伴って、玻璃の砕け散る音が虚空から零っってきた。地表に立ちつくす人々の肩に、やがてさらさらと砂の零るような音を立てて微細な粉が震え積もり、そこに手をやった人々はそれを黒硝子の破片と知ったのだ」
 これまでに二つの閉鎖空間が描かれている。二つのというより二重のと言った方がいいだろう。我々の宇宙には外縁がないが、山尾の描く宇宙には外縁がある。外縁があるということは、造物主が存在するということを証明するはずなのだが、しかし後にこのことも否定されるだろう。
 外縁を持った宇宙というものがもし造物主によって創造されたのではないとしたら、何によって創造されたのか? 〈天蓋〉という言葉があり、山尾もまた〈天蓋〉という言葉に"ドーム"とルビを振ってこれを使用している。
 勿論〈天蓋〉という言葉はメタファーなのだが、山尾はこの"蓋"(ふた)という言葉を字義通りに使うことによって、そのメタファーとしての機能を外し、実体化してみせるのである。つまり外縁を持つ宇宙の存在は、"天の蓋"ということばに根拠を持っている。「世界は言葉でできている」のである。
 そして言語もまた外縁を持っている。辞書が有限であるように、言語は無限に膨張することは出来ないし、普遍的に流通することも出来ない。どのように普及した言語であろうと、それは流通の境界線を、つまりは外縁を持たざるを得ないのである。
 山尾悠子が描く閉鎖空間は、言語のメタファーとして閉鎖的なのである。さらに、山尾が言語に対して意識的であることにおいて、彼女が描く宇宙は閉鎖空間として提出されざるを得ないのである。

 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(8)

2015年08月20日 | ゴシック論

 世界が言葉でできているとすれば、《神》もまた言葉でできているのである。だから言葉の宇宙の崩壊に際して、宇宙の崩壊よりも先に《神》は死ぬのでなければならない。「遠近法・補遺」では《神》が先に死に、次に《天使》が死ぬ。
「雲に棲む一族のうち、真先に墜落したのは最も体重のある《神》自身であり、次いで他の一族も墜ちた。《天使》と呼ばれる生物はその翼のためにわずかな猶予を得たが、それでも当惑げに思案した後、じきに墜ちた。落下物のすべては高熱のガスである太陽が呑みつくし、後には雷鳴も閃光も、小爆発さえも残ることはなかった」
 山尾作品にはよく神や天使が出てくるが、山尾がそんなものを信じているわけではないし、そこには宗教的な意味すらない。図体の大きい獣と翼のある鳥のように、《神》が先に墜ち、《天使》がその次に墜ちるのである。ここでも神や天使は言葉に過ぎないのであり、《神》にまつわる言葉の重力がいささか大きすぎたということなのである。
「遠近法・補遺」は次の一文で終わるのだが、そこには山尾の言葉と神についての考え方がよく示されている。
「従って、《蝕》の瞬間の太陽と月を呑むべく終末の蛇が墜ちてきた時、《神》はすでに死んでおり、この宇宙のどの空域にも存在してはいなかった」
《神》は宇宙の崩壊以降に存在していてはならないし、言葉の終焉以降に存在していてもいけない。なぜなら神が言葉を造ったのでもないし、神が世界を造ったのでもないからである。逆に言葉が神を造ったのであり、言葉が世界を造ったというのが真理だからである。
 我々には自明の原理を、ではヴァルター・ベンヤミンはどう考えていたのだろう。「言語一般および人間の言語について」の後半は、旧約聖書の「創世記」についての考察に費やされていて、ベンヤミンはそこで「創世記」の記述を通して、言語というものの本質に迫ろうとしている。
 ベンヤミンは神に至上権を置き、"神の言葉"を至高のものとはするのだが、言葉に対する権利を人間自身に与えている。次のような一節において……。
「神は人間を言葉から造らず、神は人間を名づけなかった。神は人間を言語に従属させようとはせず、創造の媒質として彼に仕えてきた言語を、自身のうちから人間の中に解き放ったのだ」
「創世記」はもともと、旧態依然とした言語観の根拠とされてきたのだが、ベンヤミンはそこに人間中心主義的な言語観を読み取るのである(ここで人間中心的ということの意味は、言語中心的ということと同じことを意味している)。そのような画期的な言語理論をベンヤンミンは創造することができた。
山尾悠子はベンヤミンとは違って「創世記」などを参照することはしないだろう。《腸詰宇宙》の崩壊の物語はむしろ「黙示録」そのものであって、山尾は始源よりも終末をテーマとするだろう。 
 山尾はデジデリオの絵画の黙示録的世界を、言葉の黙示録的な世界に移行させることを試みているのである。神なき時代の黙示録的世界を。


 

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(7)

2015年08月17日 | ゴシック論

 ベンヤミンは「言語一般および人間の言語について」の中で、「事物の言語」ということを頻繁に言っている。言語は人間だけが持っているもので、事物の言語などあるわけがないと思われるかも知れないが、そうではない。ベンヤンミンは次のように言う。
「言語は事物の言語的本質を伝達する。だが、言語的本質の最も明晰な現われは言語そのものである。それゆえ、言語は何を伝達するのかという問いに対する答えはこうなる――どの言語も自己自身を伝達する。たとえば、いまここにあるランプの言語は、ランプを伝達するのではなくて(なぜなら、伝達可能な限りでのランプの精神的本質とは決してこのランプそれ自体ではないのだから)、言語-ランプ、伝達のうちにあるランプ、表現となったランプを伝達するのだ。つまり言語においては、事物の言語的本質とはそれらの事物の言語を謂う、ということになる」
 まるで判じ物のような文章だが、ここで語られていることは、世界に所属する事物は、物そのものではあり得ないということ、そして、事物が伝達されるのは言語-事物としてであって、事物それ自体においてではないということである。そこでは事物と言語が一体化されているから、事物の言語は言語自体を伝達するということになる。
 山尾悠子の詩句に戻れば、「太陽と月と欄干と回廊」は物そのものではあり得ず、事物の言語として伝達される。山尾は「遠近法」の中で、しきりに太陽と月、欄干と回廊を描いていくのであるが、それらは事物の言語として伝達されるのであり、事物が世界を構成するのである限り、世界もまた言語によってしか伝達されないのである。
 だから山尾が正しく予見するように、言語が終焉する時に世界は崩壊しなければならない。言語なしに世界に所属する事物は存在できないし、言語なしに世界そのものも存在できないからである。
 ベンヤミンはさらに「事物の言語の人間の言語への翻訳」ということも言っているが、そこには事物と人間との関係についての基本的な認識がある。ベンヤミンは次のように言う。
「事物の言語を人間の言語に翻訳することは、たんに黙せるものを音声あるものへ翻訳することだけを謂うのではない。それは名なきものを名へと翻訳することを謂う。したがってそれは、ある不完全な言語を完全な言語に翻訳することである」
 事物は人間によって名づけられることによって初めて言語として存在するのである。事物が自ずから語り出すことは出来ないのだし、事物に名を与えるものは人間以外にはいないから。だから、太陽も月も欄干も回廊も、人間によって名づけられることによって初めて事物の言語として存在を始めるのだと言っても良い。
 ベンヤミンのこのような汎言語主義は、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(1857-1913)の思想とも共通している。ソシュールもまた人間社会の中心に言語を据えたのであり、それこそが"コペルニクス的転回"と呼ばれるものなのである。二人とも「世界は言葉でできている」ということを究極的には言ったのである。
 山尾悠子は言語に対して極めて自覚的な作家であるということは前に言った。そのことの意味は、単に作家として言語を大切にしているとか、丁寧に言葉を使っているとかいうことを意味しない。そうではなく、山尾は言語の本質に対して自覚的なのであって、そのような作家こそソシュール、ベンヤミン以降の存在として高く評価できるものなのである。
「世界は言葉でできている」という詩句は以上のように理解されなければならないし、そうでなければ山尾悠子の作品を読む資格はない。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(6)

2015年08月16日 | ゴシック論

「世界は言葉でできている」とは、いかなることを意味しているのであろうか。絵画が絵の具で描かれるように、小説は言語で書かれるという作品内的な意味なのだろうか。
 確かに山尾悠子の作品は、特に「遠近法」は《腸詰宇宙》を詳細に描いていくことにおいて"人工的"であり、小説が言葉による構築物であることを強く感じさせる世界を持っている。
「遠近法・補遺」のラストはまさに、言葉の世界が終わるところを建築物の崩壊のイメージに暗喩させている。言葉で造られた世界がまるで建築物のように崩壊していくカタストロフィーとして展開されているのである。次のように。
「相対的な無気力化が進む中、それども間歇的に一人の男が立ち上がっては、世界の果てへと出発していく。が、その召命者の数もついに尽きた。あとは何もない。何も起きない。この言葉の宇宙が崩壊する時、鏡の破片や砂の形をした言葉のかけらが落下していくだけだ」
 そしてこの後に、「誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると」の詩句が続くのである。さらに、誰かが私に言ったことがもう一つある。神の運命についてである。
 太陽と月と欄干と回廊
 昨夜奈落に身を投げたあの男は
 言葉の世界に墜ちて死んだと
「あの男」が神であることは小説の最後に言明されているので、神は言葉の世界に墜ちて死ぬのだということが理解される。ここには言葉と神をめぐる形而上学的な思考が認められる。
 太陽も月も欄干も回廊も実体ではなく、言葉に過ぎない。つまりは「世界は言葉でできている」のであるから、言葉の終焉とともに世界も終わるのであり、真っ先に死ぬのは神なのでなければならない。だから「世界は言葉でできている」という詩句の意味は、作品内的なものに止まることはない。
 私は「世界は言葉でできている」という詩句がいささか有名になりすぎたと書いた。この詩句はあまりに切れ味が良すぎて、山尾作品のキャッチコピーのようになっていて、それに対する深い追究を妨げる要因とさえなっている。きちんと考えなければならない。
「世界は言葉でできている」という意味のことを最初に言ったのは、おそらくヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)である。ベンヤミンは彼が25歳の時に書いた「言語一般および人間の言語について」を次のような宣言から始めている。
「人間の精神生活のどのような表出も、一種の言語(Sprache)として捉えることが出来る」
さらに以下のような文章でその宣言を補完していく。
「言語の存在は何らかの意味でつねに言語を内在させている人間の精神表出の、そのすべての領域に及ぶのみならず、文字通り一切のものに及んでいる」
そして
「われわれはどのような対象にも言語のまったき不在を表象しえない」
 つまり、言語の存在は人間の精神だけではなく、世界に所属するあらゆるものに及んでいるというのである。

ベンヤミン・コレクションⅠ「近代の意味」(1995年、ちくま学芸文庫)久保哲司訳

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

山尾悠子『山尾悠子作品集成』(5)

2015年08月15日 | ゴシック論

 言語について考えた機会に、ここで山尾悠子が言語に対していかに自覚的であるかを証明するであろう作品「遠近法」と、その続編である「遠近法・補遺」について触れておこう。両作品については以前にも書いたが、私はこの言語によって構築された宇宙の年代記ともいうべき傑作について、十分には語っていない。
 まず「遠近法」の最初に、それがある男が書き残した「未完に終わった小説の草稿」であることが示されていることを言っておかなければならない。こうしたことはゴシック小説や恐怖小説にはよく見られるもので、マチューリンの『放浪者メルモス』も古びて欠落の多いスタントンの残した草稿を発見する場面から始まるし、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』にしても女家庭教師の書き残した手記として提出されるのである。 
 しかし、山尾悠子はある男の手記ではなく、「小説の草稿」として作品を提出する。何が違うのかと言えば、ゴシック小説において奇跡的に残された手記は、奇跡的に残されたという事実そのものによって、手記の真実性を保証するのに対して、山尾悠子の「小説の草稿」は「遠近法」という作品の真実性をではなく、その虚構性をこそ最初から明示するのである。
 なぜそのようなことを山尾が行うのかと言えば、それはこれから読まれて行くであろう作品世界が、"小説"という言葉で造られた世界に過ぎないというか、言葉によって構築された世界そのものであることを明示したいがためなのである。
 山尾は自分が書く世界の真実性などにはまったく無頓着なのであって、多くのゴシック小説の作者がそうしてきたような"書かれたものの真実性"を補強しようという意志などまったく持ってはいない。
 むしろ「遠近法」にあっては、この作品の中核をなす《腸詰宇宙》なるものが、言語によって造られているのであることを最初から言っておかなければならない理由があるのだ。
「遠近法」の最後に、「私」が「作者」から聴いた話として、《腸詰宇宙》の中に落下してくる「一匹の巨大な蛇」が登場する。蛇は頭から落下してきて、次第に尾の先端部も姿を現し、その尾を追うようにして「合わせ鏡の奥から蛇の頭部」が再び出現してくる。
 そして「正確に《中央回廊》の真横で蛇の頭は自らの尾に追いつき、口をあけ、呑み込む」のであり、その結果として予想されることは「蛇が自らの胴体をすべて呑み終えた時、この宇宙ははたして崩壊するか否かということ」なのである。
 このウロボロスのイメージは、間違いなく言語の持つ否定性と虚構性から導き出されたものである。言語の否定性は自らの尾を呑み込む蛇のイメージに暗喩されているし、言語の虚構性は蛇が自らを飲み尽くした時に世界が崩壊するというイメージに暗喩されている。
「遠近法」は言語をめぐる小説なのであり、だからこそ山尾悠子は「遠近法・補遺」であのいささか有名になりすぎた詩のようなものを追加しなければならなかったのである。つまり、

 誰かが私に言ったのだ
 世界は言語でできていると

コメント
この記事をはてなブックマークに追加