玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

『言語と境界』出版

2017年06月30日 | 玄文社

 玄文社主人としてこのほど、『言語と境界~自然科学的理解を超えて』を出版しました。本来であれば昨年のうちに発刊の予定だったのですが、腸閉塞による長期入院と自宅療養のため果たせませんでした。今年に入って体調も戻り、準備を進めてきましたが、ようやく出版の運びとなりました。
 今度の本は「北方文学」64号から71号まで、4年半にわたって書き継いできた論考をまとめたもので、一貫して言語をテーマに追究した内容になっています。しかし言語論から直接入るのではなく、自然科学とりわけ分子生物学の議論を導入部として、リチャード・ドーキンス、ジャック・モノー、エルヴィン・シュレーディンガー等を論じています。
 シュレーディンガーの議論を導きの糸として、文学と言語というものの本質的な関わりについて思索をめぐらし、最後はヴァルター・ベンヤミンの言語論を結語として締めくくるという構成になっています。期せずして時代を遡ることになっていますが、それは言語や人間についての自然科学的理解の限界を指摘したかったからで、こんな書き方をした言語論は今までなかっただろうと思っています。
 読みやすい本では決してありませんが、時間をかけて読んでいただければ、人間の言語とは何か、言語は世界の中でどのように機能しているのかについて、私なりに考えたことについて理解していただけるものと信じています。
 本書の中核をなすテーマは、シュレーディンガーの次のような文章に負っています。この一文との出会いが決定的であったように思います。カバーにもその文章を使っています。

「つまり意識が複数形で体験されずに、単数形で経験されるという経験的事実によって、この教理は裏付けられているということなのであります。私たちのうちの誰一人として、一つ以上の意識を経験したことはないのですし、これまで世界のどこにもそのような状況証拠の跡すら見つかってはおりません。」
 
「自然科学的理解を超えて」というサブタイトルにしましたが、私は闇雲に自然科学を否定して、文学的価値観を称揚するものではありません。かつての「近代の超克」のような議論をするつもりはないのです。自然科学の論理を認めた上で、言語に深く関わる文学の原理にアプローチしたつもりです。導入部として自然科学者の議論に沿いながら考えていったことは、結果的によかったのではないかと思っています。

よろしかったら、言語や文学、哲学について興味をお持ちの方々に読んでいただきたいと思っています。お問い合わせは下記のメールアドレスへ。四六判、上製本、272頁、定価(本体3,000円+税)です。

genbun@tulip.ocn.ne.jp

 


「北方文学」75号発刊

2017年06月29日 | 玄文社

「北方文学」75号が発行になりましたので、ご紹介したいと思います。今号は338頁。長編が多く、前回お休みだった同人も健筆を振るったので、こういう結果になりました。このページ数は1999年の50号記念号の時の420頁に次ぐものとなりました。同人の意気盛んなところを見せることが出来たのではないかと思っています。もとより厚ければいいというものではありませんが、全国の文学同人雑誌が低迷を続ける中、質量ともに自信の一冊であります。
 巻頭を飾っているのは館路子さんの「名付け得ない鳥、その行方に」という長詩です。不在の鳥は「鳩」と明示されていますが、平和の象徴としての鳩のメタファーとしてだけでは語れない奥行きがあります。鳩とは何の象徴なのか、そんなことを考えさせる作品です。
 もう一編の詩篇は、2016年度の読売文学賞を受賞したジェフリー・アングルスさんの作品「赤い赤い生姜」。40年ぶりに再会した母親とのハワイ旅行という、私小説的なモチーフによった作品ですが、ハワイ原住民の創世記神話と自らの存在を交錯させた、短いけれど強い印象を残す作品です。
続く大橋土百の「幻影のコスモロジー」は、昨年秋にタクラマカン砂漠周辺を旅した時の詩的紀行文です。このてのものを書かせたら他に追随するもののない、大橋の独壇場ですね。
 評論が続きます。最初は柴野毅実の「山尾悠子とゴシック」。山尾悠子の初期の作品についてそのゴシック性を論じたものです。日本にはなぜゴシック小説が根付かないのか、その理由を解明し、ゴシックというものへの言語論的アプローチを敢行した、挑戦的論考です。
 石黒志保は久しぶりに「和歌をめぐる二つの言語観について」の2回目を書きました。日本の古典文学と仏教思想をとおして、言語論を展開するという未開の荒野に挑んでいます。だんだん面白くなってきました。
 斉藤直樹さんと若林敦さんの作品は寄稿です。どちらもハムレットを論じたものですが、いかにも対照的な書き方になっています。一方はシェイクスピアのテキスト以外のなにものも読まないというスタイルをもち、もう一方は映画作品をも参照して、ハムレットの本質に迫ります。
 松井郁子の「高村光太郎・智恵子への旅」は11回目で、これで完結です。鈴木良一の「新潟県戦後五十年詩史」はまだまだ続きます。
 小説が久しぶりに3本。新村苑子の「満願日」は、最近書くたびに新しいプロットに挑戦する作者の、切れ味鋭い短編です。久しぶりの板坂剛の「ある夏の死」は、母親の死の秘密に関わる謎を父親の不可解な生き方と、フラメンコの暗い情念に託して描く、愛憎の物語です。
 魚家明子の長編「眠りの森の子供たち」は連載2回目となりました。ストーリーも佳境に入ってきました。それにしてもこの人の登場人物を生き生きと描き分ける力量はすごい。
 今号から表紙絵の担当が弥彦村の北條佐江子さんに変わると同時に、デザインも一新しました。まるで違う雑誌に生まれ変わったかのようです。

 以下に目次を掲げさせて頂きます。

館 路子*名付け得ない鳥、その行方に/ジェフリー・アングルス*赤い赤い生姜/大橋土百*幻影のコスモロジー/柴野毅実*山尾悠子とゴシック/石黒志保*和歌をめぐる二つの言語観について(二)/斉藤直樹*揺れるハムレットは何をもとめたのか?--To be, or not to beにいたる狂態と確信のはざまをめぐる考察--/若林 敦*ハムレットの謝罪/大井邦雄*優秀な劇作家から偉大な劇作家へ(4)--シェイクスピアの一大転換点のありかはどこか--/松井郁子*高村光太郎・智恵子への旅(11)--智恵子の実像を求めて--/鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史-隣人としての詩人たち--(9)/新村苑子*満願日/板坂 剛*ある夏の死/魚家明子*眠りの森の子供たち(二)

一部送料込みで1,500円です。ご注文は玄文社までメールでお申し付けください。
genbun@tulip.ocn.ne.jp

 


若松英輔氏が新村苑子さんの著書について講演

2017年06月08日 | 玄文社

 7月8日新潟日報メディアシップ2階日報ホールで、批評家の若松英輔氏の講演会「水俣病は終わらない~水俣病患者のコトバに耳をかたむける」が開かれる。主催は新潟水俣病阿賀野患者会。午後1時30分~3時30分(開場午後1時)。入場無料。問い合わせは025-244-0178。
 演題は「石牟礼道子『苦海浄土』から新村苑子『葦辺の母子』へ」。『苦海浄土』は言わずと知れた、水俣病の現実を熊本弁を駆使して書いた日本の文学史上に残る大傑作である。『葦辺の母子』は『苦海浄土』に触発されて、新潟水俣病について、差別と偏見に翻弄される患者たちの運命を描いた連作短編集である。
 新村苑子は「北方文学」の同人であり、2010年から新潟水俣病に関連する短編を「北方文学」に書き続けてきた。2012年に『律子の舟』を「新潟水俣病短編小説集Ⅰ」として刊行、2015年には続編の『葦辺の母子』を刊行した。『律子の舟』は2014年度、第17回日本自費出版文化賞で小説部門の部門賞に輝き、同じく第7回新潟出版文化賞では選考委員特別賞(新井満賞)を受賞した。
 玄文社としては新村苑子の本が若松氏によって、石牟礼道子の傑作と並べて紹介されるということが、とにかく光栄なことである。どちらの本にも帯文に「新潟弁で書かれた『苦海浄土』」との言葉を使った者として、若松氏の講演を楽しみにしている。