玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(7)

2015年03月28日 | ゴシック論
 脱出作戦が始まる。弟フアンの計らいで助っ人として修道院に送り込まれてくるのは親殺しの大悪党である。アロンソは激しい嫌悪に襲われるが、それでもこの男を頼りにするしかない。
 その間にこの悪党によるもうひとつの説話が挿入される。入れ子構造は徹底的に仕組まれている。修道院内での男女の密会を発見した悪党は、それを院長に密告し、相思相愛の二人を地下牢に閉じこめて餓死させる。この挿話もまた『マンク』からアイディアを借りているのだが、マチューリンの描く残酷は『マンク』のそれよりも酷い。相思相愛の二人が飢えと絶望のあまり、憎みあい、噛みつきあう姿を通して人間の本性を暴いてみせる。
 死んだ女の方が悪党の妹であったというオチもまた『マンク』における、アントニアとアンブロジオの関係をすぐに思い出させるが、とにかく悪党の抱く人間への絶望は“悪の哲学”と言ってもいいようなものである。
 とにかく紆余曲折があって、ようやく脱出成功と思われたときに弟は悪党に殺され、アロンソは異端審問所の牢に押し込められてしまう。アロンソは悪党に対し裏切りを責める。すると悪党はいきなり長広舌をふるい始める。
「裏切りと殺人か、きつい言葉だな。だがな、よっく考えてみな、おまえこそ汚ない裏切り者と違うかい? 誓約を撤回しておいて――神と人の面前で自ら叫んだ言の葉を赤子の譫言と切り捨てて、弟までたぶらかし、神と親とに背かせて――あまつさえ、平穏にして聖徳高き修道院制度への弟の挑戦を黙って見ていた張本人が、どの面さげて裏切りなどと?」
 このようなアロンソに対する難詰が延々と十頁も続いていく。残虐極まりない悪党がいつの間にか理路整然たる言葉を発し始める。
 どこかでこのような議論を読んだことはないか? そう我々はドストエフスキーの小説でこうした議論を読んでいる。『カラマーゾフの兄弟』で大審問官が無言のキリストに対して行う叱責がそうであり、イワンとイワンの分身である悪魔との苛烈な議論がそうである。
 もちろんドストエフスキーは『放浪者メルモス』をフランス語訳で読んでいたはずである。悪と信仰をめぐる悪党の議論は必ずやドストエフスキーの小説に反響しているに違いない。


 
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C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(6)

2015年03月28日 | ゴシック論
『マンク』の場合とは違って、アロンソの修道院生活は具体的に微細なところまで語られ、当時の修道院がどういうものであったかがよく把握できる。
 アロンソは修道院内の腐敗の構造についても語る。修道士がどんな狼藉を働いても、どんな規律違反を犯しても、彼が地位ある僧の血筋にある者であれば、その罪は不問に付される。そうでなければ、どんな小さな規律違反であろうと容赦なく酷い罰が加えられる。
 それに対して同情することすら禁じられている。アロンソは言う。「人の情に発する美徳は、修道院の中では必ず悪徳とみなされます」と。同情を示した修道士は院長の命令で気の狂うまで鞭打たれ絶命してしまう。宗教に名を借りた悪と腐敗の監禁装置でしかないのだ。
 修道院内の生活はこのように極めてリアリスティックに描かれていく。カトリック批判の思惑があるにせよ、そこに誇張はあるにせよ……。ゴシック的道具立ても『放浪者メルモス』が書かれた1820年にはリアリズムの裏打ちがなければ、とうてい読者に受け入れられるものではなかったのである。
 アロンソの幽閉の中で典型的なエピソードがある。「きみは修道院の生活に慣れるとも」と先輩の修道士に言われ、アロンソは「ありえません、絶対に――明日までにこの泉が涸れ、この樹が萎えない限りは」と言ってしまう。すると翌朝、本当に泉は涸れ、樹も枯れるという“奇跡”が起こる。
 しかし、この奇跡は本当の奇跡ではなかった。アロンソの後の話の中でその奇跡はアロンソを馴致させるための先輩修道士による“いかさま”であったことが暴露される。
 実は『放浪者メルモス』では、超自然的な現象はほとんど発生しない。放浪者メルモスが神出鬼没、至るところに出現するというありかただけに超自然的要素は集中していて、それ以外の部分はリアリズム小説となんら変わるところはないのである。

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C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(5)

2015年03月27日 | ゴシック論
 アロンソは抵抗する。激しく抵抗する。父と、とりわけ母がアロンソに修道院に入ってくれるように説得するが、アロンソは猛然と反論する。
「母上、涙を以って叱責されなければならぬ何を私がしたのでしょう? 修道院生活を嫌うこと、それは罪ではないはずです」
と。父母の罪をなぜ自分が負わなければならないのか、そんな理不尽なことはないだろうとアロンソは言うのである。しかしアロンソは母の懇願に負けて「母上のお望み通りに致します」と言ってしまう。
 アロンソは絶望の中で、譫言のように「僕は修道士になるんだ」と繰り返す。このあたりの人物造形が他のゴシック小説には見られないほどにきめ細やかで、『放浪者メルモス』がゴシック・ロッマンスの最高傑作といわれる所以の一つとなっている。
 修道院に入れられてもアロンソはなおも抵抗を続ける。院長に対して「自分は修道士になどなるつもりはない」と言い、宣誓を求められてもそれを拒絶して次のように言い放つ。
「宣誓などするものですか――私を強制した連中には、当然の酬いです――私をこの世に生んだ父が、自分で罪の償いをすればいいんだ――弟の奴なんか、天狗の鼻をへしおられてしまえばいいんだ――なぜ僕が父の罪の犠牲になるんだ? なぜ弟の欲の犠牲に?」
 家門の重圧をものともせず、このように抵抗するアロンソの姿に共感しないわけにはいかない。『マンク』で尼僧院に幽閉されるエルヴィラは、アロンソに比べれば人形に過ぎない。アロンソはゴシック小説の主人公であるよりも、近代小説の主人公としての資格を持っている。
 アロンソはこのように語っていく。放浪者メルモスの子孫たるジョン・メルモスに対して。アロンソの語りは極めて具体的かつリアリスティックであり、そこにゴシック・ロマンスの残滓ではなく、近代小説の特徴を見ないわけにはいかない。『放浪者メルモス』はこのような意味において、ゴシック・ロマンスの掉尾を飾る大傑作なのである。

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C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(4)

2015年03月27日 | ゴシック論
「スペイン人の物語」に始まるアロンソの物語と、「印度魔島奇譚」に始まるイシドーラの物語が『放浪者メルモス』の説話群の中にあってその中核をなすものと言える。時代は18世紀末に設定されている。
「スペイン人の物語」はアイルランドのジョン・メルモスの伯父の館に近い海岸に漂着した難破船の乗客アロンソ・モンサダの語る苦難の物語で、彼の語りが『放浪者メルモス』前半の大部を占めている。
 アロンソは名家モンサダ家の生まれだが、両親の婚姻前の子供であったため、醜聞をはばかって里子に出されている。そして弟がモンサダ家の後継ぎとなり、アロンソは修道院に入れられることが、モンサダ家を牛耳る神父によって決められている。修道院が名家の子女を修道士あるいは修道女として迎えることは、修道院にとって莫大な収入があるということを意味していたのだ。宗教はとうに形骸化されている。
 ところで、この話どこかで聞いたことがある。『マンク』のエルヴィラの話とそっくりである。エルヴィラは迷信深い両親によって尼僧院に入れられてしまうのであり、『マンク』ではそこからの脱出作戦がクライマックスとなるように、「スペイン人の物語」でも、激しい抵抗にも拘わらず修道院に幽閉されてしまうアロンソの脱出作戦が『放浪者メルモス』前半のクライマックスとなっている。
 しかも舞台は『マンク』と同じスペインのマドリッド。イギリスではもちろんない。カトリックの国でなければならない。マチューリンはアイルランドの新教の貧しい牧師であり、『放浪者メルモス』全体がカトリック批判に貫かれている。信仰がもはや形骸と化した時代のカトリック修道院と異端審問所に対する激しい批判の書でもあるのだ。
 それにしても舞台といい筋立てといい『マンク』を意識しているのは明白であり、細かい部分でも『マンク』によく似た設定がたくさんある。でもそれが、マチューリンのルイスに対するオマージュであるのかどうかは定かではない。しかしアロンソの修道院に入れられることに対する両親らへの抵抗や、修道院生活の中での無言の抵抗は『マンク』のエルヴィラの場合よりもはるかに詳しく書かれているし、遙かに論理的に書かれている。
 修道院への幽閉はゴシック的な物語を駆動させているだけではなく、そこに幽閉された人間の苦悩のドラマともなっているし、それこそが『放浪者メルモス』を古色蒼然たるゴシック・ロマンスに止めず、近代小説としても優れた作品としている要素なのである。

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C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(3)

2015年03月26日 | ゴシック論
 よく知られているように『放浪者メルモス』は、いわゆる“入れ子構造”の説話によって構成されている。
 最初の「スタントンの物語」はジョン・メルモスが、伯父の所有していた古びて欠落の多い草稿を読むという設定になっていて、この部分だけは独立している。しかし本作の中心の一つをなす「スペイン人の物語」が始まると、説話の“入れ子構造”が際限もなく重層化していく。
「スペイン人の物語」の中に「印度魔島奇譚」が含まれ、その中にさらに「グスマン一族の物語」が含まれ、さらに「恋人の物語」が含まれるといった具合で、読者は自分がいったいどの説話の位相に現在いるのか、さっぱり分からなくなっていく。
 ゴシック小説や恐怖小説にこのような構造は珍しくはないのだが、マチューリンの場合は度を超しているのである。行ってみればこれは説話の迷路であり、迷宮なのであり、読者をその中に彷徨わせようという作者の仕掛けなのである。
『放浪者メルモス』については、18世紀イタリアの画家ピラネージの影響、特に「牢獄シリーズ」のそれが取りざたされる。それがどこへ続くとも知れず、複雑怪奇な迷宮のような牢獄を描いているからといって、マチューリンがこの小説の中に出てくる修道院の地下牢や異端審問所の牢獄のイメージをピラネージから得ているとは思わない。むしろそれは直接的にはルイスの『マンク』から来ているように思う。
 むしろ説話の迷宮の方がピラネージの描く牢獄の迷宮に、構造的に似ているのだと言わなければならない。マチューリンがピラネージの版画作品に着想を得ているのだとしたら、まさにそれは説話の構造においてであると思う。
『放浪者メルモス』にあっては説話の空間そのものがゴシック的なのだと言えるだろう。“入れ子構造”が深くなればなるほど、読者にとってそこからの脱出の道を探ることが難しくなるからである。
 閉ざされた空間――それがゴシック的な空間であるならば『放浪者メルモス』にあっては、説話の空間そのものが何層にも閉ざされた空間となっているのである。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージ〈牢獄〉
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C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(2)

2015年03月24日 | ゴシック論
 オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は、美しい容姿の主人公ドリアンの隠された悪徳と、その悪徳を引き受けドリアンの替わりに年を取っていく彼自身の肖像画をめぐる物語である。
『放浪者メルモス』の冒頭に出てくる肖像画は、ジョン・メルモスによって「服装や顔貌がどうだというのではない。眼だ。見なければよかった。一度見たら終生忘れられない、とそんな気持のする眼だった」と語られる。しかもジョン・メルモスは伯父の臨終の部屋で、その男の姿を見るのである。ここに謎が集約されている。
“肖像画”というものもゴシックの道具立てとしてはかなり常套的なものであり、ゴシック小説以降の恐怖小説の中で繰り返し恐怖の仕掛けとして利用されることになるが、マチューリンの場合は先駆的と言わなければならない。
 ワイルドがそこに目をつけたのもまた慧眼と言うべきだろう。『ドリアン・グレイの肖像』は、ユイスマンスの『さかしま』の影響などが指摘されていて、いわゆる“世紀末文学”の一作品として位置づけられることが多いが、ゴシックの王道につながる作品でもあるのだ。
 ましてや肖像画がドリアン・グレイの悪徳を吸収して年を取ってゆき、ドリアン自身は全く老いていくことがないというような筋立てこそは、超自然的要素を繰り込んでゴシック的と言わざるを得ない。『放浪者メルモス』のメルモスも、最後に死に至るまで老いるということがないのである。
 坂本光は『英国ゴシック小説の系譜』で『ドリアン・グレイの肖像』について次のように書いている。
「超自然的な出来事が「秘密」を生み出し、その「秘密」が主人公を閉鎖的な非日常の世界へと追い込んでいく。これは十九世紀ゴシック小説に見られる典型的な特徴の一つであり、この作品が単なる世紀末的耽美主義の小説ではなく、ゴシック的な物語構造を持つことを示している」
 この坂本の発言にも全面的に賛成することにしよう。ゴシックの血統のためにも。
『放浪者メルモス』は『ドリアン・グレイの肖像』だけでなく、後続の作品の多くに影響を与えた。それが読んでいるとよく分かってくる。あとでそのことにも触れる予定だが、そんな体験も『放浪者メルモス』を読む上で重要なことであると思う。

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C・R・マチューリン『放浪者メルモス』(1)

2015年03月23日 | ゴシック論
 イギリスのゴシック・ロマンスに腹一杯になったと言ったが、これだけはどうしても読んでおかなければならない作品がある。ゴシック・ロマンスの掉尾を飾るチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』がそれである。
 ゴシック・ロマンスはウォルポールの『オトラント城奇譚』に始まり、ベックフォードの『ヴァテック』、ラドクリフの『ユドルフォの謎』、ルイスの『マンク』、ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムズ』、シェリーの『フランケンシュタイン』と続き、マチューリンの『放浪者メルモス』で終わりを告げると言われている。
 それだけではなく『放浪者メルモス』はゴシック・ロマンスの最高傑作とも言われていることに注意しなければならない。以前に読んだときにも、ウォルポールやベックフォードの作品に比べて、ましてやルイスの『マンク』に比べて、桁違いの重厚さと完成度を持っていることは確かだと思っていた。
 再読するのはそのことの再確認と、いったいどこが優れているのかきちんと見ておこうと思ったからである。読み始めたらやめられないのは『マンク』と同じかも知れないが、『マンク』のようにスカスカの文章ではないことを、まず言っておかなければならない。ラドクリフは読んでいないから分からないが、文章に関してもゴシック・ロマンスの傑作といわれている作品の中で随一だと言っていいだろう。
 小説の舞台はアイルランドから始まる。学生ジョン・メルモスが伯父の死の床に立ち会う場面が最初に置かれていて、ここに多くの謎が凝縮されている。古びた草稿、伯父の何ものかへの怖れ、そして一枚の肖像画。ジョン・メルモスの祖先である男の肖像画。それこそ本作品の主人公・放浪者メルモスの肖像であり、その男は百五十年以上も生き続けているというのだ。
 この導入部がなんとも素晴らしい。老獪で頑固、吝嗇を絵に描いたような伯父の人物像は圧倒的で、小説の最初から引き込まれていく。ここで殺してしまうのがもったいないような人物として描かれている。しかも謎をちらつかせながら、スピーディーに核心に入っていく構成力は他のゴシック・ロマンスには見られないものだ。
 実はオスカー・ワイルドはこの“肖像”から『ドリアン・グレイの肖像』の着想を得た。さらに実はワイルドはマチューリンの姪の子供であった。ゴシックの伝統は血でもつながっていたというわけである。
 坂本光にはこのことくらい書いておいて欲しかった。ちゃんと『放浪者メルモス』の解説に書いてあるではありませんか。
「世界幻想文学体系」5C『放浪者メルモス』(1980・国書刊行会)富山太佳夫訳
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坂本光『英国ゴシック小説の系譜』(2)

2015年03月20日 | ゴシック論
 もうひとつの“旅”の方はもっと複雑なテーマである。『ケイレブ・ウィリアムズ』では主要な登場人物二人が行う旅が重要な意味を持つし、『フランケンシュタイン』でフランケンシュタイン(怪物の名前ではなく、怪物を造った科学者の名前)は自ら造った怪物を追って北極圏まで旅をすることになる。
 初期ゴシック小説の特徴は閉鎖空間とそこへの幽閉をテーマとしていることであり、その意味でウォルポールやルイスの作品は典型的である。そこには“旅”という要素は決して入ってこない。いったい誰が“旅”というテーマを持ち込んだのか、そして“旅”にはどういう意味があるのかということを考える必要がある。
 私はそのためにはまず、マチューリンの『放浪者メルモス』を取り上げるべきと思っているので、坂本が『ケイレブ・ウィリアムズ』と『フランケンシュタイン』しか取り上げないことには不満がある。ましてや坂本が転地療法だとか、「己の心情と目に映る景色とを重ね合わせることによって自己確認し、同時にそれによって心情の働きを増幅する」働きしか見ていないのには「なんて行儀がいいんだ」とさえ思ってしまう。このことについてはマチーュリンの『放浪者メルモス』を取り上げるときに、論じてみるつもりだ。
 ところで坂本が言っていることで、ゴシック小説が18世紀半ばから19世紀初頭までに書かれたものを狭義には意味しているにも拘わらず、20世紀を経て今日に至るまでそれが命脈を保っている、という意見には全面的に賛成する。私が追求したいのも実はそのことなのである。坂本はまえがきで次のように書く。
「おそらくは十八世紀から現在に至るまで、ゴシック小説は何事かを表現するために適切な物語であり続けたのだろうし、また時代に応じた変化に成功してきたのである」
 まさにそのことを私は証明してみたいし、これまで比較的新しい作品を取り上げてきたのはそのためである。私にとって比重はゴシックの伝統が尽きたと言われる現代の作品の方にある。ヘンリー・ジェイムズや山尾悠子まで取り上げてきたのは、狭義のゴシック小説よりも現代的なゴシックの方にこそ興味があるからなのだ。
(この項おわり)

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坂本光『英国ゴシック小説の系譜』(1)

2015年03月19日 | ゴシック論
 たまには研究書にあたってお浚いしておくのもいいだろうと思い、この本を求めた。帯に「世界に氾濫するゴシック的なものとは何か。その源流を英国の怪奇的イメージにさぐる」とあり、それなら私のテーマと共通する部分があると考えたのだったが、失敗であった。
『英国ゴシック小説の系譜』は主に、坂本が勤務する慶應大学の出版会が出版する論文集として刊行された4冊の本の、坂本執筆分をまとめたもので、テーマもまちまち、系統立てて書かれたものでもない。坂本自身は「ゴシック小説の入門書になれば」と書いているが、そのようなものにもなっていない。
 まず取り上げられているのは、ウィリアム・ゴドウィンの『ケイレブ・ウィリアムズ』とメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』である。この二人実は父と娘である。しかし、どちらもゴシック小説として典型的な作品とは言えない。『ケイレブ・ウィリアムズ』には超自然的な要素は全くないし、どちらかと言えば「犯罪小説」であり、探偵小説の源流のような作品だ。『フランケンシュタイン』は今で言うマッド・サイエンティストものであり、SFの源流とも言える(ゴシック的な要素が強くあるのは確かだが)。
 次に取り上げられるのはアメリカのウィリアム・ピーター・ブラッティの『エクソシスト』と、それを原作とした映画『エクソシスト』である。アメリカン・ホラー映画の今日における隆盛の原点となった作品とは思うが、坂本が言うほど優れた作品とは思わない。もっともっとゴシック的で、凄い映画はたくさんある。
 もうひとつはオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』で、坂本はこれをゴシック小説の系譜の中に位置づけている。しかし、そうであるかも知れないがあまりに時代が下りすぎている。だってウォルポールも、ベックフォードも、ルイスも、マチューリンも出てこない「英国ゴシック小説の系譜」っていったいなんなんだろう。
 まあ、いいだろう。参考になる視点がいくつかあったので、そのことに触れておくことにしよう。『ケイレブ・ウィリアムズ』と『フランケンシュタイン』に共通するテーマとして坂本は“旅”と“秘密”を挙げている。“秘密”は極めてゴシック的なテーマであって、どんなゴシック小説もこの“秘密”がなければ成り立たない。謎解きの要素があるからこそ後の推理小説につながっていくのだから。
 ゴシック小説にあってその“秘密”は自ずから隠れているのでもなければ、目に見えないところにあるのでもない。作者こそが秘匿する。作者こそが読者に対して秘匿するのであって、それこそがゴシック小説、恐怖小説、推理小説、SFを貫流する原理である。その視点から書いてほしかったと私は思う。
坂本光『英国ゴシック小説の系譜――フランケンシュタインからワイルドまで――』(2013・慶應義塾大学出版会)
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ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(6)

2015年03月18日 | ゴシック論
 さて、どうか? ヘンリー・ジェイムズはこの『ねじの回転』を、ジッドが言うように、心理的な解釈のみに委ねたのであろうか。ようやく結論を書くときが来た。
 心理的な解釈に反論する根拠はいくつかある。第一に小説の最後の場面、女家庭教師がマイルズに対し必死で詰問し、ようやく真実を聞き出そうとする場面で、主人公に抱きしめられたままマイルズが絶命してしまうところ。
 心理的解釈だけでマイルズの死を説明することはとうていむずかしい。どうしても超自然的解釈がなければ、この場面は成り立たないのではないか。幽霊に取り憑かれたのでなしに、どうしてマイルズは死ぬのであろうか。
 あるいはまた、主人公がクウィントの幽霊の姿形の中に、知っているはずのない彼の特徴を細かいところまで見て取っているところ、さらにはジェスル先生の最初の出現のときに、それが誰の幽霊であるのか主人公が察知してしまうことにも、心理的解釈だけでは追いつかない部分がある。
 一方、幽霊を見るのはいつでも話者である主人公一人だけであり、グロース夫人、マイルズ、フローラが幽霊を見たとの記述は一度もない。というか慎重にそれだけは避けられている。だから主人公だけが彼らが幽霊を見たに違いないと思い込んでいるにすぎないのだと言うこともできる。
 また子供たちの女家庭教師に対する怒りも「秘密を知られてしまった」ことへの怒りではなく、子供としての人格を否定されたことへの怒りと読むこともできる。このような両義性が『ねじの回転』には至るところに潜んでいる。あるいは仕掛けられている。
 こうした両義性に決着をつけるための議論は不毛である。どちらとも読めるなら、どちらとも読めるようにヘンリー・ジェイムズが書いたのである。そこにこそジェイムズの偉大さがある。
 フィクションとはそういうものである。ゴシック小説や恐怖小説を好んで読むのは、必ずしも超常現象を信じているからではない。信じていなくても怖いし、その怖さの中に我々は小説を味わう根拠をみているのだから。
(この項おわり)
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