玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(9)

2024年01月31日 | ラテン・アメリカ文学

 以上のように『パラディーソ』には、「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ」の中で、歓喜に打ち震える比喩表現が無数に散りばめられている。前回引用した部分でいえば、「呪われた花飾り」や「浮氷の塊」、「電解質のコイルの黄金プレー卜」、「パンヤの木の精」や「笛吹く影」がそれに該当する。
 しかし、「本来の土地から引き離され」た単語たちは、必ずしも「歓びに満ちた動き」だけを見せているわけではない。それに続くセミーの反応がそのことを明らかにする。それらの単語は「彼の暗い、不可視の、名状しがたい通路に入って来る」のであり、〝彼〟がアルベルト伯父を指すのだとすれば、アルベルトの存在の暗部に入ってくることによって、それらの単語は不吉な様相を呈していくことになる。
 レサマ=リマはここで、漁師によって引き上げられた魚の直喩を使っているが、これほど見事な譬えを見たことがない。魚たちはぴちぴちと跳ね回って、生のエネルギーを悦びのうちに発散しているかのように一見見えるが、そうではなく、それは海中から引き上げられ、大気中に放たれて「身をよじりながら、死に抱き止められていく様子」に他ならないのである。つまり、「本来の土地から引き離され」た言葉たちは、自由の悦びと同時に、死の恐怖に抱きとめられ、もがいているのでもある。
 レサマ=リマはマルドロール的な直喩、あるいは隠喩の中に、言葉の生と死のアンビヴァレントな両義性を見て取っているわけだ。それはしかも、イジドール・デュカスの存在の暗部を潜り抜けることによってもたらされる両義性でもある。このような読みは『マルドロールの歌』を読む読者に対して基本的に求められる態度なのに他ならない。そこにアルベルトの比喩表現がそのようなものであるだけでなく、レサマ=リマの比喩表現もまた生と死の両方の側に接する両義性を持っていると言えるのである。そのことを私が前々回に引用したセミーの二つ目の反応についての、直喩と隠喩を組み合わせた比喩表現が語っている。もう一度引用する。

「彼はことばが浮き彫りになってくるのを感じ、また、頬の上で、軽やかな風がそうしたことばを震わせて前進させるのを、さらには、そのそよ風がパンアテナィア祭に集まった群衆の長衣をなびかせるのを感じるようになり、ことばの意味は揺れ動いて徐々に見えなくなっていくのだったが、波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱としてふたたび姿をあらわしてくるのだった」

 この一節は比喩表現に関わる言葉が、爽やかな歓喜の中に打ち震えながら、次第に意味そのものを失っていきつつも、結果として新たな意味を文章の中に刻印していくあり方を鮮やかに表現しているのである。
 この辺でレサマ=リマの隠喩表現について見ていく必要があるだろう。今再度引用した文章の後半部分は、隠喩だけで構成されているが、「波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱」という表現は、言葉=魚という直喩を前提としていて、それほど唐突でも、奇っ怪なものでもない。
 先に言ったように直喩は「~のように」という指標によって、比喩するものに対して強力な重力を発動するから、直喩がいかに奇態なものであっても、比喩するものは比喩されるものに結局は回帰する。ただそこで、直喩表現がどのような放物線を描くかが問題なので、そこで隠喩がどのような役割を果たしていくのかを検証しなければならない。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(8)

2024年01月30日 | ラテン・アメリカ文学

 この二つの文章から、セミー少年のではなく、レサマ=リマの言語的体験がどのようなものであったか、そして具体的に言えば『マルドロールの歌』の衝撃がどのようなものであったかを推測することができる。第一に「単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわしてきて」の部分は、まさに『
マルドロールの歌』における、直喩と隠喩、とりわけ直喩のあり方を正確に表現している。そうした直喩はメルヴィンヌ少年の美しさを形容する直喩の場面(ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように、の部分)をはじめとして『マルドロールの歌』には無数に存在するが、もう一つ「単語がその本来の土地から引き離されて」いる極めつけを挙げておこう。

「他者の肉の愛好者であり、追跡の有効性の擁護者である、アーカンサス州のパノッコの葉を摘む骸骨たちのように美しい猛禽類の一群が一列になって、従順な公認の召使のようにおまえの額のまわりを飛び回っている」

 ここに登場しているのは「美しい猛禽類の一群」なのだが、それを奇矯なイメージで修飾する長大な直喩表現を読むときに、一瞬、あるいはより持続的に我々は「美しい猛禽類の一群」を見失って、「アーカンサス州のパノッコの葉を摘む骸骨たち」の方をより視覚的なイメージとして受け止めてしまうことにさえなるだろう。比喩するものが比喩されるものを我々の現前から駆逐してしまうのである。こうした現象は『マルドロールの歌』では隠喩の場合よりも、直喩の場合の方が際立っていて、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように」という直喩が「本来の土地」=メルヴィンヌの美しさから遠く離れて、直喩の現前性が直喩されるものの存在感を駆逐していくのである。
 そのことにセミー少年は「歓びに満ちた動き」を読み取っているわけだが、当然レサマ=リマ自身の詩的体験も同一のものであったと見なしてよい。『パラディーソ』でもまた、そのような直表現が、アルベルトの手紙をより洗練した形で頻出してくるのである。レサマ=リマの直喩が直喩対象を駆逐していく例をいくつか挙げてみよう。セミーの同級の悪童たちを描いた場面にその様な例はよく見られる。

「ちょっとした地獄のようなその室内、その地表を流れる大河の上で、彼はまるでサルのように、見たこともない呪われた花飾りを乗せているような浮氷の塊を乗りこなしているみたいだった」

「フィーボは虹色の棒へのエネルゲイアの放出が処罰されずに見逃されたことに驚き勇んで熱狂していき、基地を移動しつつ、電磁化された尖端を突き刺しながら、まるで電解質のコイルの黄金プレー 卜の指示を読めるヵエルのように跳ねまわった」

「その猫というのは百日政権の将軍たちの悪夢の中に立ちあらわれるような巨大化した、若干怪物的でさえある猫であり、その毛は長く伸びて、発生したばかりの乳首のような無数の小さな出っぱりになっていて、大食堂の端からら端まで這いずりまわっていくのだった。海からあらわれてきて、ふくれあがるパンヤの木の精に飲みこまれて消える笛吹く影のように」

 最後の引用では、私の指摘は「百日政権の将軍たちの悪夢の中に立ちあらわれるような」でも、「発生したばかりの乳首のような」でもなく、「海からあらわれてきて、ふくれあがるパンヤの木の精に飲みこまれて消える笛吹く影のように」の部分にこそ当てはまる。

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(7)

2024年01月29日 | ラテン・アメリカ文学

『パラディーソ』は直喩と隠喩、それも奇っ怪極まりない直喩と隠喩に彩られた、というよりもそれらが充満した作品であり、そうした特徴はこの場面でのアルベルト伯父の手紙=散文詩に凝縮して表現されている。『マルドロールの歌』に見られる、比喩されるものから意図的に遠ざかろうとする長大な直喩は、「まるで、爪でフルートを握りしめているつもりのコンゴウインコが穴ぼこを絞るが、虹に運び去られるみたいだ」の部分に表れてくるし、海洋動物を大量に隠喩に動員するという『マルドロールの歌』の特徴も、「硬骨魚類―タツノポトシゴーえらー鱏」の部分で踏襲されている。
 アルベルトの手紙は、デュカスの『マルドロールの歌』へのオマージュに満ちた模倣なのだ。〝模倣〟と私が言ってしまうのは、アルベルトの手紙が『マルドロールの歌』の突飛さや暴力性を再現しているとしても、いささか滑稽すぎるし、下品のそしりを免れず、『マルドロールの歌』の高い完成度に達していないからだ。私はそこにレサマ=リマの作為を見る。アルベルトの手紙がいかに『パラディーソ』全体の修辞的構造を凝縮したものであっても、『パラディーソ』そのものを超えてはならないからである。アルベルトの手紙は質的に『パラディーソ』そのものよりも劣っていなければならない。
 そしてまた、この部分から読み取れることは他にもたくさんある。『パラディーソ』全体は、それが修辞的な比重があまりにも高すぎるために、物語的な構造を欠いているのだが、本質的にこの作品は少年ホセ・セミーの成長の過程を描く、ビルドゥングス・ロマン(教養小説)として読むことができる。物語性を欠いた教養小説というのは、言ってみれば脱構築された教養小説だということになる。〝脱構築〟などという用語を安易に使うべきでないというならば、ジャック・デリダが井筒俊彦に宛てた書簡を翻訳した丸山圭三郎が、déconstructionの訳語として提唱している「解体構築」という用語を使ってもよい。
 デリダはその書簡「DECONSTRUCTIONとは何か」の中で、déconstructionの構造主義的な挙措と反構造主義的な挙措の両義性について語っているからである。『パラディーソ』が教養小説でありながら、反教養小説でもあるということは、déconstructionの持つ両義性と相即だからである。レサマ=リマは教養小説の文脈において、それをdéconstruireすると同時に、新たな小説の文脈をconstruireしていると言えるのである。
 それはともかく、アルベルト伯父の手紙を読んで聞かせられるホセ・セミー少年の姿を借りて、レサマ=リマは自身の詩的体験について語っているのである。そしてそれが具体的には、イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』との出会いの体験であったと読んでも、決しておかしなことではないだろう。
 ここで、セミー少年がアルベルト伯父の手紙に触発されて、どのような言語的体験をするのかを示す、二つの文章を引用しておくのも無駄なことではないだろう。そこにはレサマ=リマ自身の言語的体験そのものが反映されているはずだからである。

「海中の部族の名前を次々と耳にしながら、彼の記憶の中では、魚のことを勉強した小学校予科の授業が浮かび上がってきただけでなく、単語がその本来の土地から引き離されて、独自の人工的な組み合わせ、歓びに満ちた動きをもって姿をあらわしてきて、彼の暗い、不可視の、名状しがたい通路に入ってくるのをありありと感じとっていた。このことばの行進を耳にしながら、彼は海岸通りの突堤にすわって漁師たちが魚を引きあげるのを眺めているのと同じ感覚を味わっていた。魚たちが本来の場所の外に引き出されて身をよじりながら、死に抱き止められていく様子を見ているような。しかし、その手紙の中では、外に引き出されたことばの魚たちは、同じように身をよじっていたものの、それは新しい合唱が生まれたことの歓喜に身をよじっていたのであり、(後略)」

「彼はことばが浮き彫りになってくるのを感じ、また、頬の上で、軽やかな風がそうしたことばを震わせて前進させるのを、さらには、そのそよ風がパンアテナィア祭に集まった群衆の長衣をなびかせるのを感じるようになり、ことばの意味は揺れ動いて徐々に見えなくなっていくのだったが、波の合間に、魚に咬まれた目に見えないほどの小穴でいっぱいになった柱としてふたたび姿をあらわしてくるのだった」

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(6)

2024年01月28日 | ラテン・アメリカ文学

 レサマ=リマの『パラディーソ』における『マルドロールの歌』の影響についてみてきたが、第7章には〝動かぬ証拠〟とでも言いたくなるほど、その影響が明白に示されている部分がある。伯父アルベルトの友人デメトリオの家に連れていかれたホセ・セミーが、友人アルベルトから受け取った手紙をデメトリオに読んで聞かせられる場面である。
 デメトリオは読み始める。それは言葉遊びに始まり、比喩されるものから遠く離れ、長くて奇態な直喩を経て、詩的な隠喩に至る一節である。この部分を読んで、イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』を思い浮かべない読者は存在しないだろう。

《ジムノオイコどもが、裸苦行者(ジムノソフィスタ)みたいに、サティのジムノペディを聞いている。まるで、爪でフルートを握りしめているつもりのコンゴウインコが穴ぼこを絞るが、虹に運び去られるみたいだ。充?せよ、裸形が歯金を詰めていく》

 デメトリオはここまで読むと、セミーに次のように言って聞かせ、アルベルト伯父に対する偏見と誤解を払拭するよう教え諭すのである。アルベルトはセミーのクオリーリョ・ブルジョワジー的な家族の中で、異質な存在であり、これまで数々の不行跡を重ねてきたことから、一族の中の「悪霊的存在」と見なされてきたのであった。しかし、友人デメトリオはアルベルトという人間の真実を知っていたのである。

「もっとこっちにおいで、アルベルト伯父さんの手紙がよく聞こえるように。伯父さんのことをよく知って、歓びに満ちた人であることを見抜くようにならないといけないよ。これから君は生まれて初めて、自由自在にあやつられたことばを聞くことになるんだ、そこにはほのめかしや可愛らしい博学気取りの仕掛けが縦横に張りめぐらされている、けれども、島にいたときの私は、これを受け取ってどれほどうれしかったか、というのも、不在のうちに思い出させてくれたからだ、ずっと年上の私が、君の伯父さんと一緒に勉強していたころのことを。馬鹿にしたような、街学的な外見の下に心の優しさが隠れていて、泣かされたさ」

 手紙の朗読は続いていく。かなりの長文で、ほとんどマルドロール的散文詩のような、直喩と隠喩で織りなされた刺激的で、過激な表現が続いていく。

「骨の王国である硬骨魚類は、タッノオトシゴがそうだが、気管支(ブロンキオ)をえら(ブランキア)に変え、喘息(サンスクリット語で窒息のこと)患者の口から滝が流れこんで、あとで脇腹から激しく流れ出すようにした。しかし最後には、黄金の薄片が霊安室にあらわれ、そこでは鱏(エイ)の仲間が紫色の合間に青をちらつかせながら、猫の尾のように艷めかしい尻尾を振る。
 肺魚類の世界には繊細な注意を。そこは両生類と蛇類の中間の、寓意譚のマクロコスモス。彼らは沼の中で、緊急脱出のために火のついたアパートメントが、誘拐犯とエレベーターの爪楊枝によって認識されるようにと祈りを上げる」

これを聴いた時のセミーの反応は次のようなものである。

「しかし、根源的な何かが起こって、彼のもとへと押し寄せたことは確かだった。あたかも光輝の銛で刺されたかのように、アルベルトが悪霊的であるという一家の固定観念は彼の中から消え去った」

 セミーはアルベルト伯父の手紙=散文詩を読んで聞かせられて、伯父に対する考え方を決定的に変えるのである。

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(5)

2024年01月27日 | ラテン・アメリカ文学

『マルドロールの歌』には、様々な動物が登場するが、とくに海洋生物が多く直喩や隠喩のために動員されている。リストを挙げれば、タコ、オットセイ、マッコウクジラ、サメ、シュモクザメ、エイ、アザラシ……ということになる。それらすべてが喩のために動員されているわけではないが、タコとサメが特に重要な役割を果たしている。第2歌で、マルドロールは「自分に似た者」あるいは「自分の生き写しの存在」としてのサメと海中で交合するのだし、同じ第2歌で彼は、タコに変身して「四百の吸盤をやつの脇の下にぴったり押しつけて、恐ろしい叫び声をあげさせ」るのである。ここで「やつ」とは〈創造主〉のことを意味している。
 デュカスはマルドロールのサメとの交合や、タコに変身して神を締め上げる様子を〝描写〟しているのだが、誰もそれを単なる描写とは読まないだろう。サメが「自分に似た者」であるということは、サメがマルドロールの隠喩として召喚されていることを意味しているのだし、タコの悪魔のような姿が、〈創造主〉と対峙するのに相応しい存在であるがゆえに、それもまた隠喩として呼び出されているのである。
 レサマ=リマの『パラディーソ』にもまた、様々な動物が登場し、その中で海洋生物が占める割合は『マルドロールの歌』の場合よりもかえって多いかもしれない。『パラディーソ』のボリュームは、『マルドロールの歌』の数倍はあるので、動物の種数も多くなり、海洋生物の数も多くなる。したがってリストは、イルカ、サケ、マナティ、タチウオ、クジラ、タツノオトジゴ、小ザメ、イカ、アザラシ、イソギンチャク、キノボリウオ、ハゼ、タコ、ウミヘビ……のように長くなる。これらが『マルドロールの歌』の場合と同じように直喩や隠喩のために動員されるのである。
 ホセ・セミーが軍人だった父親の面影を求めて、カバージョの要塞の軍馬に思いを馳せる場面がある。その部分は夢とも幻想ともつかぬ奇怪なシーンに満ちているのだが、ここで海洋生物が直喩と隠喩の素材として動員されてくるのだ。

「馬たちは要塞内を駆けめぐりはじめ、兵士たちと混じりあい、すると兵士たちはバロック的な水盤で手を濡らしてから彼らをなでさすった。膨れあがっていく四匹の小魚は、イルカほどの大きさになって四頭の馬を乗りこなしていた。その四頭の馬は、魚たちが膨張を続けてついには破裂してしまうのを避けるために、タツノオトシゴに変容しなければならなかった。 最後には湾の中央で、一頭のクジラが、植物的な鈍速でのたうちまわるのが見えた。」

 海洋生物で『マルドロールの歌』の場合と『パラディ-ソ』の場合で共通しているのは、そう多くはなく、タコとサメくらいなものなのだが、タツノオトシゴに関しては複数回登場するので、レサマ=リマのこだわりが強く感じられる。馬がタツノオトシゴに変身するのは、スペイン語でタツノオトシゴがcaballo de mar(海の馬=英語でもseahorseという)というからで、変身は語の類縁性から来る隠喩の役割を果たしているのである。このことも『マルドロールの歌』における変身の持つ意味との共通性を窺わせる。
 ここで直喩と隠喩のもたらす、それぞれの結果について触れておかなければならない。直喩はいかに奇態なものであれ、「~のように」という指標によって、比喩するものは比喩されるものの方向へと回帰していくが、隠喩の場合はそうではない。隠喩は比喩の指標を持たないために、比喩するものが比喩されるものから離れたきり帰ってこないこともある。比喩するものの遠心力が一定程度より大きければ、それは比喩するものの重力から逃れていくことができる。その例としてマルドロールの変身や『パラディーソ』における馬の変身を挙げることができるだろう。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(4)

2024年01月25日 | ラテン・アメリカ文学

 たとえば第6章には、主人公ホセ・セミーの曾祖母メーラばあさんが、キューバ分離独立運動での武勇伝を語る場面で、次のような一節に出くわすことになる。

「その口には、時間の配置も、食堂でトランプ遊びをしている者たちの沈黙も入ることがなかったが、すぐに例のごとき亡霊的な対話が彼らのことまで亡霊に変えてしまい、タロットの図表盤に近々やってくる自らの不幸の嘆きを読みとったり、黄泉川の小舟の上で自らが鞭打たれる音を聞くことになる日の近さを解読したりしている豪華絢爛たる封建領主のような姿をまとわせるのだった。」

このような比喩するものが比喩されるものと密着するのではなく、比喩されるものから自由に遊離していく直喩表現に出会ったときに、私はレサマ=リマが『マルドロールの歌』の影響下で書いているのに違いないという確信を抱いたのだった。イジドール・デュカスの奇態な直喩がある種感覚的な精度を持っていて、イメージとしては分かりやすい特徴(それを評価することができないにしても、誰もが「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というものを視覚的に捉えることはできる)を持っているのとはやや違って、視覚的なイメージだけでは追い切れないところがある。
 比喩するものと比喩されるものとの距離が、より観念的な精度によって確保されているという風に読めるところには、明らかにデュカスの直喩表現とは違った部分がある。それとここでは〝時間〟といったものが重要な要素となっていて、それは空間的な情景に対する感覚的なイメージ喚起力では追い切れないものだという事実である。もう一か所、時間的なものが直喩の対象となっている一節を読んでみよう。第8章、ホセ・セミーが叔母の住む田舎に寝台車で出かける時の不眠の一夜を描いた部分である。

「夜じゅう一番気になったのは時間が実体化したことだった。時間は距離を覆う灰色の、途切れめのない一本の線に変容することによって、目に見えるものとなったのだった。目を閉じても灰色の線が追いかけてきて、それはまるで水平線に姿を変えたカモメみたいに、真夜中の中を横切っていきながら甲高い鳴き声を立てて彼を勢いづけるのだった。すると、その線が、揺れ動いたり再びあらわれたりしながら、鳴き声をたてているみたいに感じられるのだった。」

 実体化した時間を、「真夜中を横切って甲高い声で鳴く水平線となったカモメ」などというものの視覚的イメージとして捉えることはほとんど不可能である。こうした部分については、レサマ=リマの直喩表現がデュカスのそれを進化させているのだと理解するのが正しい見方であろう。
 セミーが叔母の田舎で砂糖農園を訪問し、その農園主の暮らし方が紹介される場面では、より穏当な直喩表現が読まれるだろう。

「これはまったくエデンの園のようなところで、そこではカモメのように眠り、小ぶりなサメのように食らい、涅槃に暮らす齧歯類のように退屈して過ごした。」

 どうということのない直喩と思われるかもしれないが、ここでカモメとサメ、齧歯類という動物たちが登場することに注目したい。動物を使った直喩は先に引用した「ミシンと雨傘の出会い」の部分に出てくる齧歯目や鼠、もう一つの引用に出てくるマッコウクジラの直喩に見られるように、『マルドロールの歌』の最大の特徴かもしれないからだ。

 

 

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(3)

2024年01月23日 | ラテン・アメリカ文学

 イジドール・デュカスの『マルドロールの歌』は、最終第6歌に出てくる「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように(美しい)」という一節によって有名であり、それがシュルレアリスムの先駆的な表現とみなされたのだったが、この部分の全体を読めば、それが奇態な直喩の連続の中にあって、最後のとどめを刺す役割を果たしていることが理解される。こうである。

「彼は美しい、猛禽類の爪の伸縮性のように。あるいはまた、後頸部の柔らかい部分の傷口における、筋肉の動きの不確かさのように。あるいはむしろ、捕獲された鼠によって絶えず仕掛け直されるので、この齧歯目の動物を自動的に際限なく捕らえることができ、藁の下に隠されていても機能できる、あの永久鼠捕り器のように。そしてとりわけ、解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように!」

 ここに見られる直喩の連投は、マルドロールの犠牲となる14歳と4か月の少年メルヴィンヌの美しさを形容しているのだが、人間の美しさとは全くかけ離れた、それどころか美しさ一般とは何の共通項もない比喩が執拗に積み重ねられ、比喩するものは比喩されるものからどんどん離れていく。そして「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」というイメージが、少年美の概念を揺さぶりながら、comme(のように)という統辞によって着地に至るのである。
  直喩の連投は、この一節に極まっているが、奇態な直喩は『マルドロールの歌』の第1歌から第6歌までの至るところに仕掛けられている。たとえば、次のような第4歌の直喩を読んでみよう。

「しかしただちに夢のことに移るとしよう、こらえ性のない連中が、この種の話が読みたくてじりじりするあまり、妊娠した雌をめぐってたがいに喧嘩する巨頭マッコウクジラの群のように吠えはじめるといけないからな。」

 この直喩は情景に対する比喩として使われているのではなく、マルドロールがこれから変身の夢を語ろうとしているのに、いつまでもじらされて待ちきれない読者の苛立ちに対する比喩として使われている。一般的に直喩は人間の五感に与えられる情報を形容するために、それに直接関係しなくても、似たような情報を持ったものを持ち出してくることによって成立するが、ここではそうした一般的な慎みの範疇は越えられている。あらゆるものが直喩の対象となり、ありとあらゆるイメージが直喩のために駆り出されてくる。『マルドロールの歌』の基調はそうした直喩の上に成り立っている。いや、直喩だけでなく隠喩もまた直喩と共同して『マルドロールの歌』の独特の世界を形成していくのだが、隠喩についてはもう少し後で分析することにしよう。
 では、『パラディーソ』におけるレサマ=リマの直喩の使い方を見て行くことにしよう。

 

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2)

2024年01月22日 | ラテン・アメリカ文学

 このような溢れんばかりの直喩と隠喩によって構成された、濃密でスピード感に満ちた文章世界を、私は既に経験している。それはラテンアメリカ文学においてではなく、南米ウルグアイの首都モンテビデオで生まれ、13歳で父母の故郷であるパリに渡った青年イジドール・デュカスが、22歳から書き始めた散文詩『マルドロールの歌』の世界である。
 まず、デュカスの『マルドロールの歌』における特徴的な直喩表現についてみていこう。直喩の特異性はこの作品の冒頭からいかんなく発揮されている。第1歌(1)から引用する。

「踵を返せ、前進するな、母親の顔をおごそかに凝視するのをやめ、崇敬の念をこめて顔をそむける息子の両眼のように。あるいはむしろ、瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように。それは冬のあいだ、沈黙を横切り、帆をいっぱいに広げて、地平線のある一点に向かって力強く飛翔していくのだが、そこから突然、異様な強風が卷き起こる。嵐の先触れだ。最長老の、一羽だけで群れの前衛をなしている鶴は、それを見ると分別ある人物のように頭を振り、その結果くちばしも振ってかちかちと音を立て、嬉しくなさそうな様子を示すのだが(私にしても、この鶴の立場だったら嬉しくないところだ)、他方、羽根がすっかり脱け落ちた、三世代の鶴と時代を共にしてきたその老いた首のほうも、いらだたしげに波打って動き、いよいよ接近してくる雷雨の到来を予告する。経験を宿した眼で四方八方を何度か冷静に見回してから、慎重に、この先頭の鶴は(というのも、知力に劣る他の鶴たちに尾羽根を見せる特権をもっているのはこの鶴なのだから)、憂いがちな哨兵ならではの用心深い叫び声をあげると、共通の敵を撃退すべく、この幾何学的な図形(それはおそらく三角形と思われるが、これらの奇妙な渡り鳥が空間に形作っている第三辺は目に見えない〕の先端を、熟練の船長よろしく、面舵、取舵と、自由自在に方向転換しながら進んでいく。そして雀の羽と同じくらいにしか見えない翼を操って、この鶴は、なにしろ愚かではないのだから、こうして賢明な、より確実なもうひとつの道をとるのである。」

 ここに見られるのは、奇態な直喩と直喩の野放図な展開である。直接的な直喩は「瞑想にふける寒がりの鶴たちが形作る、見渡す限りのV字角のように」の部分に明示されているが、この部分が比喩している比喩内容は、これから『マルドロールの歌』を読もうとする臆病な読者が、この作品から撤退していく有様である。しかし、鶴のV字形編隊の直喩は、まるで鶴の隊列そのものを描写していくかのような文章に引き継がれていく。
 前回引用したレサマ=リマの一節と同じように、どこからどこまでが比喩で、どこからどこまでが描写なのか分からなくなるという点において、この文章は一致している。言ってみれば、比喩表現において比喩するものが比喩されるものの束縛を離れて、自由にさまよい出るのである。これはほとんど小説における文章というよりも、詩における詩文の持つ特徴であって、詩人にしか可能ではないし、このような文章を自在に駆使したのは、19世紀のデュカスと、20世紀キューバのレサマ=リマだけかもしれない。
 そうした意味で、レサマ=リマの『パラディーソ』は20世紀ラテンアメリカ文学において、極めて特異な作品であると同時に、ブームの時代を代表するいくつかの作品に充分比肩し得る優れた作品であったと私は思う。『マルドロールの歌』は多くの詩人や作家に影響を与えたが、レトリックの面で正統的な後継作品を生んではいない。『マルドロールの歌』に近い作品がほとんど存在しないのだ。しかし、20世紀キューバにそうした作品が例外的に存在したということを私は言っておきたい。
 以下、私はそのことの証拠をいくつか挙げていこうと思う。

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ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(1)

2024年01月19日 | ラテン・アメリカ文学

「ラテンアメリカ文学不滅の金字塔」というキャッチコピーに乗せられて、キューバの作家、ホセ・レサマ=リマの『パラディーソ』を購入し、読んでみることにした。レサマ=リマがいわゆる「ブームの時代」より前の世代の作家であることも知らずに読んだのだが、読み進むにつれて、これまで読んできたラテンアメリカ小説の、どの作品とも似たところのない作品だということを了解した。
 私にとってのラテンアメリカ小説の代表作を挙げるとすれば、チリの作家、ホセ・ドノソの『夜のみだらな鳥』であり、コロンビアのガブリエル・ガルシア=マルケスの『百年の孤独』であり、メキシコのカルロス・フエンテスのゴシック長篇『テラ・ノストラ』であり、ペルーのマリオ・バルガス=リョサの歴史小説『世界最終戦争』であり、キューバのアレホ・カルペンティエールの『光の世紀』であり、といったところになるだろう。
 どの作品も長篇であり、得難い読書体験を与えてくれるユニークな作品であるが、『パラディーソ』の独自性には及ばない。『パラディーソ』には『夜のみだらな鳥』のような幻想文学的な要素は少ないし、『テラ・ノストラ』や『世界最終戦争』のような歴史小説的な要素もない。架空の村の年代記である『百年の孤独』のような、一族の歴史を語って南米の普遍性に迫るような小説とも明らかに違う。同じキューバの後輩作家、カルペンティエールの『光の世紀』のような端正な語り口などどこにもない。
 ではどこに『パラディーソ』のユニークさがあるかと言えば、それはレサマ=リマが根っからの詩人であること、生涯に残した小説作品がこれ一作しかないことに拠っているように思う。この作品はほとんど小説とは思えないような文章で書かれており、散文詩的な作品とさえいえるのであって、ラテンアメリカ文学を代表する多くの傑作に、このような作品はないと言ってもよい。読者はこの小説の第2章で、早くも次のような文章に突き当たるのである。

「ルーバがアルコールに浸した紙束を激情をこめて振るうので、アルコ?ル精気の微粒子は震える小鼻に打ちつけてかすかな刺激をあたえた。彼女のひとつひとつの動きに従って鏡の縁の動植物の配置が変化するように見え、まるでタペストリーに描かれた楽園の光景を激しく揺さぶる雹まじりの嵐のようだった。その腕は船客を桟橋に運ぶランチのように鏡の水面を横断していき、握りしめた紙の棍棒は、明暗法によるマホガニーの反映の間で草を食んでいるカモシカの尾にぶつかった。その勢いでルーバは腰をたわませて腕をアーチ状に掲げたまま後退したので、危険なほどベンチの端に接近するとともに、彫り物細工の枝葉の繁みの間から覗くような機動的な視角を得ることになったが、カモシカの尻尾を放したのでカモシカは岩の間を跳ねたり蹄でなでるようにスイレンに触れたりしながら姿を消した。彼女は体勢を持ち直してふたたび一歩前に進み、再度ナポリの朝の踊りのようなアーチを出現させ、ポケット版のヘレスポント海峡をあらためて横断しようとして、アルコールの浸透によって預言者のマントと化した紙束で海峡を覆いつぶしたが、それから額縁の岩からも手を放したので小川に突発的な大波が起きて、カモシカはもう二度と姿をあらわさなくなった。」

 この一節は使用人のルーバとトランキロが屋敷で二人きりとなり、一緒に掃除をする場面であり、ルーバ(女)がトランキロ(男)にすり寄って来るので、トランキロがシャンデリアの上の方へと逃げていく喜劇的な場面に過ぎないのだが、どこまでが描写でどこまでが直喩なのか、あるいはどこまでが隠喩でどこまでが描写なのか判然としないために、そこで何が起きているのか読者に理解する余裕が与えられないという性質を持っている。
 この一節を読んで、まだA5判9ポ2段組600頁の大冊の5%しか進行していないのに、私は「この小説は読み通すことができる」と確信するに至ったのだった。何が書かれているかよりも、どう書かれているかの方に比重がかかり、そこに文章を読んだ時の悦楽を見出すことができると判断したからである。
 著者が断続的に30年以上の歳月を費やして完成させ、そして訳者の旦敬介がこれも断続的に20年かけて翻訳した『パラディーソ』を超高速で読んでいくことができた。旦はこの小説にはゆっくりとした時間が流れていると言っているが、濃密でスピード感あふれる表現に溢れているのも事実であって、読者がそれにつられてじっくりとではなく、早いスピードで読んでいくのも流儀として認めてもらってもいいだろう。

ホセ・レサマ=リマ『パラディーソ』(2022、国書刊行会)旦敬介訳

 

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