玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

100年目が終わる

2011年12月14日 | 日記
「越後タイムス」創刊百年の年が暮れていく。今年は、創刊百年記念事業として、柏崎育ちの獄中歌人・島秋人の生涯を描いた語り芝居「鬼灯」の柏崎公演を実現できたし、フランス文学者・美術批評家、さらには柏崎の「痴娯の家」の名付け親であった巖谷小波の孫である巖谷國士氏の講演会を開くこともできた。
 百周年を記念したパーティーを開くことも、年の初めには考えていたが、三月十一日の東日本大震災の発生と、三月二十日の「越後タイムス」前主幹・吉田昭一さんの死去で、そんなもくろみも吹っ飛んでしまった。百周年記念の年は、私にとって喪中の年となってしまった。
「越後タイムス」百年を全うすることができてよかったと思う反面、大きな目標を失ってしまった虚脱感もある。これから何を目標にして、この小さな新聞を続けていけばいいのか分からなくなることもしばしばある。
 しかし、次の目標を『越後タイムス百年史』を書くことと、自分の中で決めることができた。そのための作業は数年前から始めてはいるが、遅々として進んでいない。まだ創刊から十四年の、大正十三年までを辿ってきたにすぎない。
 週刊の新聞をほぼ一人で発行し続けることは、それほどたやすいことではない。吉田昭一さんは、それを半世紀続けたのだったが、それが吉田さんの健康を害する結果になったとも言える。
 来年から、「越後タイムス」の発行形態を変えることを考えている。新年号でそのことについてお知らせしたいと思っている。

越後タイムス12月9日「週末点描」より)

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まだ早すぎる

2011年12月14日 | 日記
 六十歳の誕生日を二日過ぎたある日、郵便受けにチラシの束が入っているのを見つけた。中に「会員手帳」がはさまっているので「何の会員だろう」と思ってよく見ると、それは「全年連」(全国年金受給者団体連合会)の手帳であった。「そうか“全年連”の会員になったのか」と思い納得した。
 いろんなチラシがあったが、どれも高齢者向けの商品の宣伝チラシである。絹の毛布や絹の靴下のチラシ、防寒用衣類のチラシ、保温健康ベルトや、補聴器のチラシまである。「まだ早いわい!」と思い、ごみ箱に捨てることにした。
 極めつけは、葬儀費用割引の案内で、会員になると家族に遺言を書き残す「エンディングノート」なるものが無料プレゼントされるという。いくらなんでも、今の六十歳に、それは早すぎるだろう。まだ八十歳を超えた母親や叔母が元気でいるというのに、どうして自分の葬儀のことなど考えることができよう。
 六十回目の誕生日は、普通にやってきて、普通に去っていった。特別に還暦を迎えたという意識もなく、おめでたくもなければ、寂しいことでもない。それほど体力や気力の衰えを感じてもいないし、二カ所の骨折以外、体調がおもわしくないということもない。
 ただ年金がもらえるということは、人を老けさせる要因とはなり得る。だから淡々と書類を書き、淡々と必要な証明書を用意し、年金事務所に行って、淡々と手続きを済ませてきた。
 その前に銀行間の振込口座獲得の争奪戦があったが、最もよい景品をいただけるところを、淡々と選んだにすぎない。

越後タイムス12月2日「週末点描」より)

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災厄だ

2011年12月14日 | 日記
 雨で濡れたベランダにスリッパを履いて出て、スッテンコロリというよりは、ズデンドンと仰向けにひっくり返ってしまった。尾てい骨を強打した。しばらく立ち上がれなかったが、ようやく立ち上がると、尾てい骨に激痛が走るのを覚えた。骨折したに違いない。
 土曜日だったので一日我慢して、整形外科に行ってレントゲンを撮ってもらうと、案の定骨折していた。尾てい骨骨折は治療の方法がないのだそうで、自然に固まるのを待つほかないという。あきらめて三カ月ほど痛みに耐える覚悟をした。
 しかし、あまりの激痛にすぐには気が付かなかったのだが、寝ていて起き上がる時に、尾てい骨ではないところに重い痛みが走るのを感じていた。“打撲だろう”と思い、しばらくほっておいたが、治る兆しがない。再び整形外科に行くと、背骨の圧迫骨折もあることが判明した。
 これも治療の方法がないので、コルセットをつけて、三カ月しのぐことになる。重傷だが、それほど生活に支障はない。もともと痛みには強い体質のようで、あまり音を上げない。六年前、それで失敗して死にかかったことを思い出す。多少の拷問にも耐えられそうだが、拷問されても自白することがない。
 まだ一年回顧には早すぎるが、人生最悪の年のひとつが暮れていく。三月十一日の東日本大震災による精神的ショックに始まり、三月二十日の吉田昭一さんの死、五月三十一日の吉岡又司さんの死と続いて、七月の橈骨神経麻痺、さらに自らの不注意で二カ所も骨折してしまうという災厄に見舞われてしまった。痛みが薄らいでいく頃、新年を迎えることになるだろう。来年は痛くない年にしたいものだ。

越後タイムス11月25日「週末点描」より)

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本は自分の魂

2011年12月14日 | 日記
 出来たての本『シェイクスピアはどのようにしてシェイクスピアになったか』をお届けに、長岡市にお住まいで早稲田大学名誉教授の大井邦雄先生のご自宅におじゃました。ハーリー・グランヴィル=バーカー(一八七七│一九四六)というイギリスの演出家、劇作家の『Shakespeare's Progress』という講義録の翻訳に詳細な注を付けた極めつけの労作である。縁あって発行者となり、製本屋さんから本が届いたので納品に伺ったのである。
 玄関に入って驚いた。とても一般住宅とは思えない。なぜなら、玄関の下駄箱の上にまで、ぎっしりと本が積み上げてあり、まるで神田の古本屋に足を踏み入れたかのようであったからだ。
 蔵書家はたくさん知っているが、玄関にまで本がはみ出している家は見たことがない。玄関を入ると廊下があり、そこにも天井までびっしりの本が書棚に納められている。左手に、本来は別の用途をもっていたと思われる部屋があり、そこにも足の踏み場がないほどに、おびただしい本が積み上げられている。
 二階にもたくさん本があるのだそうで、家一軒まるまる図書館と思ってもらえればいい。そこで、自分のことも含めて、亡くなった後、この膨大な本はどうなるのだろうと考えた。故高橋源治さんも多くの蔵書をお持ちだったが、源治さんは「本は自分の魂だ」と言っておられた。
 だから“魂の記憶”として、蔵書家の本を散逸させたくないという気持ちがある。しかし、それらの本を次世代の誰がどのように利用するのかということになると、難しい問題が立ちはだかってくる。いったいどうしたらいいのだろう。

越後タイムス11月18日「週末点描」より)

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二度と行けない

2011年12月14日 | 日記
 友人の案内できのこ採りに行ってきた。きのこの採れる場所は親にも教えないと言われるが、なかにはこんな奇特な精神の持ち主もいるのだ。この時期だから、目的はナメコ。今年はキノコが大不作だったが、地面でなく木に生えるきのこに影響はないという。
 本格的なきのこ採りである。山の麓から分け入って、どんどん奥に向かう。入口付近でクリタケを発見。立派なクリタケで、久しぶりの遭遇だったので夢中になって採る。友人はナメコ原理主義者なのでクリタケは採らない。
 十五分ほど道沿いに進むと、クリタケの畑のような場所に出る。大きな袋がすぐに一杯になる。友人は「帰りに通るから、そこに袋を置いていけ」と言う。ナラの木の根元に袋を置いて、さらに奥へ。そこからは道なき道を進むことになる。
 しばらく行くと、立ち枯れの木にナメコを発見。大きなナメコがびっしりとついていて、手の届かない所もある。友人は尖端に鎌をつけた棒にもう一本の棒をガムテープでつなぎ合わせ、ナメコを掻き落としていく。プロの技だ。
 尾根づたいにきのこを探しながら、本命の目的地に向かう。道のない所を進むので行軍は厳しい。脛は打つは、転ぶは、を繰り返しながら、一時間半かけて目的地に到着。そこで、かなりの量のナメコを収穫した。倒木に生え、開いた傘にぬめった光を反射させているナメコは大変美しくて、採るのがはばかられるほどだった。
 そこで、自分がいったいどこに居るのか分からなくなっていることに気づいた。友人とはぐれたら絶対に帰れない。もう一度、一人で行けと言われても、決してそこに到達できないだろうし、到達できても生還できるかどうか分からない。

越後タイムス11月11日「週末点描」より)

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