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ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(19)

2018年06月17日 | ラテン・アメリカ文学

 ツヴェタン・トドロフは『幻想文学論序説』で、詩と虚構ということについて次のように言っている。

「詩と虚構の対立にあっては、その構造特性がディスクールの本性そのものにかかわっている。つまり、ディスクールが表象的であり得るか、ありえないかという対立なのである。」

 詩と虚構とはディスクールの表象性において対立する。虚構のディスクールはテクスト以外のものを表象するが、詩はそうではない。トドロフはそこのところを次のように言う。

「表象的性格は、文学のうちでも、虚構という用語で示すのが適当な部分を支配するのに対し、詩と呼ばれるべき部分は、何らかの対象を喚起し表象するというこの能力を拒否している。」

 幻想小説について言えば、幻想小説は表象的な虚構なしには成り立たない。それは幻想小説というものがリアリズム小説以上に、幻想の生起する場というものを現実的に設定しなければならないということ意味している。
 幻想の生起する場と言うよりも、怪奇と驚異が生起する場と言った方がいいだろう。たとえば幽霊屋敷譚を書くとすれば、その屋敷のリアリティ、出現する幽霊のリアリティ、あるいは幽霊に遭遇する者の恐怖のリアリティは、確固としたものになっていなければならない。それが幻想小説における虚構のディスクールが果たすべき役割である。
 しかし詩にあっては事情はまったく違う。〝幻想詩〟というものを想定するとすれば、それは用語矛盾であって、詩は虚構と対立するが故に幻想的ではあり得ない。詩は言葉の表象作用によって、虚構のリアリティを生成していく必要がない。詩はテクストそのものを表象すればよいのであって、虚構であることもできなければ、幻想的であることもできない。
 私は『夜のみだらな鳥』は虚構でさえないと言ったが、その意味するところは以上のようなものである。『夜のみだらな鳥』はありもしない虚構に満ちているではないかと言われるかも知れないが、そうではない。『夜のみだらな鳥』には明らかに、虚構のリアリティを補完するようなディスクールがない。
『夜のみだらな鳥』に虚構があるにしても、その虚構に真実性を与えようとする意図が、ドノソにはまったくない。私がそれを妄想小説と呼ぶ理由である。しかし、真実性を与えられない、もっと言えば表象性を欠いた虚構などというものはありえないのであって、だから『夜のみだらな鳥』には虚構というものがないのである。
では、ドノソの妄想とは何か? 私は妄想的であることを幻想的であるということよりも、劣ったものと見なしているわけではない。ドノソが虚構の真実性などというものをまったく意図的に放棄しているのは明白なことであって、幻想小説にいたり得ぬものとしての妄想小説があるのではなく、積極的に妄想小説であろうとする姿勢がそこにはある。
 そして注目すべきなのは、『夜のみだらな鳥』には、ホセ・ドノソの自伝的要素がたくさん出てくることである。ウンベルトの青年時代における父親との関係、学生時代にいきつけのバーの女との付き合い、作家としての読書体験まで書いてある。

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