玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(7)

2016年02月28日 | ゴシック論

 第15章、16章まで進んだ。ところで困ったことがあるので、お断りしておかなければならない。「北方文学」73号用の原稿も仕上がったので、そろそろ以前のペースに戻らなければならないのだが、The Mysteries of Udolphoを読んでいるとほかの本が読めない。この調子でいくとあと一か月は現在のペースで行かざるを得ない。
 まだ全体の3分の1までしか進んでおらず、The Mysteries of Udolphoの連載が長くなりそうで、「ゴシック論」全体の中でバランスを欠いてしまう。しかも私は自分で「小説の要約なんか読みたくもない」と言っておきながら、まさにそれを書いているわけで、自己矛盾に陥っている。
 ただ、あらすじを書いておかないと全て忘れてしまいそうで、メモのつもりで書いているだけなのだ。しかし、ゴシック小説の流れの中でThe Mysteries of Udolfoがどう位置づけられるのかということについての批評的視点は忘れずにいたいとは思っている。
 さて、第15章ではまだ休戦状態が続いていく。アルプスを越え、イタリアに入って半島の付け根を横断し、エミリー一行はヴェネツィアに到着する。そこにモントーニ氏の家があるのである。
 エミリーはしばし苦悩を忘れ、ヴェネツィアの景観に見とれることになる。サン・マルコ広場、グランド・キャナル(カナル・グランデ)とそこを行き交うゴンドラ、サン・ソヴィーノ宮殿(ドゥカーレ宮殿)の描写はまさに"観光案内"そのものである。人の手の加わらぬ大自然にこそ至上の価値を見ていたはずのエミリーなのに、ここでは人工的なヴェネッィアの景観に圧倒されているのである。
 ラドクリフの観光ガイドは、当時流行していた"グランド・ツアー"というものを背景としていることはよく知られているが、このヴェネツィアのくだりを読んだら誰しもそこに行ってみたいと思うのは必定で、ラドクリフの小説はグランド・ツアーへの誘いとしての役割を果たしていたのに違いない。ゴシック小説が観光ガイドとしての役割を持っていたが故に、それが大衆的な人気を博したということも指摘されてよいであろう。

 

カナレットの描くサン・マルコ広場

カナレットの描くカナル・グランデ


 第16章でもしばらく休戦は続く。ヴェネッィアの貴族達は朝まで続くゴンドラ上の歌舞音曲にうつつをぬかしている。エミリーでさえそこでリュートを手に歌を歌い、満場の喝采を得るであろう。
 さてここにヴァランクールの恋敵が登場する。モラーノ伯爵Count Moranoである。彼はエミリーの再三にわたる拒絶をものともせず、執拗に彼女に言い寄るのである。そしてそれは二人の結婚に利益を見出すモントーニ夫妻の認めるところとなり、すぐにそれはエミリーに対する有無を言わせぬ命令と化していく。
 まったく絵に描いたようなメロドラマなのだ。ヴァランクール一人を愛しているエミリーがどうやってこの強制される結婚から逃れていくか、というのが読者にとっての大きな興味の焦点となっていくだろう。また、この結婚に反対し、エミリーの見方となる人間が一人もいない孤立無援の中で、エミリーがどうやって苦境を乗り越えていくかということも読者を虜にするテーマとなるのである。
 ところでそんな苦境の中で、エミリーはヴァランクールから一通の手紙を受け取る。その手紙はヴァランクールの代わらぬ愛情を伝えると同時に、父の義兄である(brother in lawとあり、義兄か義弟かは分からない)ケスネル氏M.Quesnelによってラヴァレの屋敷が、エミリーに何の相談もなく勝手に貸し出されたことも伝える。
 ヴァランクールの手紙はシェロン夫人の屋敷では厳重にチェックされたはずなのに、ヴェネツィアではそんなチェックは行われず、自由にエミリーのもとへ届けられるなどということはあり得ない。
 こんなところにゴシック小説のご都合主義は現れてくるので、それなしにはゴシック小説というものは成り立たないのである。我々は今後も、何度となくそのような場面に遭遇することになるだろう。

 

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Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(6)

2016年02月22日 | ゴシック論

『ユドルフォの謎』も第13章、14章へと進んできた。第13章でエミリーとヴァランクールの二人は、幸せの絶頂から絶望のどん底へと突き落とされる。急転直下の展開である。
 それはシェロン夫人が、かねてから彼女に求愛していたイタリア人のモントーニMontoni氏と結婚することになったことに起因している(シェロン夫人は未亡人であった)。クレールヴァル夫人の財産を目当てに、エミリーとヴァランクールの結婚を容認し、その準備さえしていたシェロン夫人の態度は一変する(またしても!)。
 それもシェロン夫人の強欲による。彼女はモントーニ氏との結婚の方に自身の利益を見出し、エミリーにヴァランクールとの結婚を断念させるのである。それがクレールヴァル夫人の不興を招くことになることをも承知で……。
 ラドクリフはクレールヴァル夫人邸でのパーティの席に、このモントーニ氏とその友人のカヴィーニCavigni氏を登場させていて、二人のやりとりの中にそのことをにおわせている。
 エミリーは二度とヴァランクールに会うことを禁じられ、モントーニ氏の仕事の関係で一緒にイタリアへ行くことを命じられる。ここからまた、エミリーとヴァランクールの愁嘆場が繰り広げられることになる。出発前日の夜シェロン邸に忍び込んだヴァランクールは、エミリーとの最後の別れに臨むのである。
 ヴァランクールは駆け落ちを提案するが、二人の名誉を重んじるエミリーの考えはそれを許さない。エミリーの拒絶にあってヴァランクールは絶望するが、エミリーの「私のために」という言葉によって気を取り直す。
 ヴァランクールは突然、噂に聞いたモントーニ氏の疑惑について話し出す。モントーニ氏は有名な一族の一員であるが、性格的にも問題があり、外国で禁治産者になっているというのである。だとすれば、シェロン夫人は結婚詐欺に引っ掛かってしまったわけだ。この新しい謎もこれから重要な要素となって、いずれ解明されることになるだろう。今はまだ謎を積み重ねていく段階なのである。
 そしてエミリーはヴァランクールに永遠の別れを告げ、イタリアへと旅立つ。今度はアルプス越えである。ラドクリフの筆は自然描写を始めると途端に滑らかになっていって、アルプスの絶景を余すところなく描き出す。しかもその自然描写は、エミリーとヴァランクールの会話のように回りくどくはなく、文章も短くなって非常に分かりやすい。
 まさに、絵に描いたように分かりやすい。日本では「絵にも描けない美しさ」というが、ヨーロッパでは「絵に描いたような美しさ」が絶景に与えられる形容語なのだろう。ピクチャレスクpicturesqueという18世紀イギリスにおける審美観の典型をラドクリフの自然描写に見ることが出来る。
 崇高sublimeという用語とromanticという用語が頻出する。エドマンド・バークはイギリスロマン主義文学に、彼の言う崇高の美学の萌芽を見ていたが、ラドクリフの自然描写にはsublimeなものと、romanticなものとが混交していて、未分化なものとなっている。
 だからエミリーは、アルプスの崇高な山々を見て自らの苦しみさえ忘れ、ロマンッティックな夢に浸るのである。しばらく休戦というわけだ。ラドクリフはここで観光案内に戻り、再びエミリーを絶景の自然の中に送り込む。エミリーはピレネーよりももっと美しい、アルプスへと旅をしなければならなかったのである。
 イタリアへと下っていく場面は、エミリーの思いも含めて次のように描かれている。

As she descended on the Italian side, the precipices became still more tremendous, the prospects still more wild and majestic; over which the shifting lights threw all the pomp of colouring. Emily delighted to observe the snowy tops of the mountains under the passing influence of the day-blushing with morning, glowing with the brightness of noon, or just tinted with the purple evening.

 

ヨハン・クリスチャン・クラウセン・ダール《アルプスの風景》

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Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(5)

2016年02月19日 | ゴシック論

 第1部第11章、12章へと進む。漸く全体の4分の1の地点に近づいてきた。第12章は長い章で、ラドクリフはここでかなり大勢の登場人物を揃えてくる。後半への伏線を着々と準備しているという印象である。
 エミリーの叔母シェロン夫人の、虚栄に生き、財産や地位を何ものにも優先させる俗物としての姿が、執拗に描かれていく。シェロン夫人はラヴァレでのエミリーとヴァランクールの出会いの場に出くわすのだが、彼女はヴァランクールのことをまったく認めようとしない。
 父がヴァランクールの家族のことを知っていて、ヴァランクールのことを高く評価していたことをエミリーが説明しても、はなから取り合おうとせず、シェロン夫人はヴァランクールばかりでなく、彼を評価した弟のサントベールのことまであし様に罵るのである。

He was always so much influenced by people's countenances! Now I, for my part, have no notion of this; it is all ridiculous enthusiasm.

 つまり「弟は人の顔つきに影響されて、好き嫌いで人間を判断したが、そんなことはばかげたことで、私はそんなことはしない」というのである。では、シェロン夫人は何によって人を判断するのか? 財産によってである。
 だからシェロン夫人は、どこの馬の骨とも知れぬヴァランクールを軽蔑しているし、トゥールーズに来てからも"図々しく"手紙を寄こすヴァランクールを激しく拒絶する。シェロン夫人はエミリーにヴァランクールと再び会うようなことがあったら、修道院に送るとまで言うのである。
 シェロン夫人の価値観に最も合っているのは、最近夫を亡くしトゥールーズにやって来たクレールヴァル夫人である。夫人はいつも壮大なパーティを催すので、シェロン夫人は彼女に嫉妬を抱き、彼女と同列に扱われたいという野心を抱くのである。
 かくしてクレールヴァル夫人のパーティに多くの人物が集まることになる。その席にはヴァランクールの姿もあり、シェロン夫人は陰でヴァランクールを非難し続けるのであるが、ある夫人に「ヴァランクールはクレールヴァル夫人の甥である」ことを知らされる。
 シェロン夫人の態度は一変し、途端にヴァランクールのことを褒め称えるのである。この豹変の姿にエミリーもヴァランクールのびっくりするだろう。このように、シェロン夫人の人物像は徹底的に下品で、計算高く、自分より下の人間には厳しく当たるくせに、自分より上の人間には阿諛追従する俗物として描かれている。
 いささか紋切り型の人物像であり、ラドクリフがストーリーの展開には長けているが、平板な人間しか描けなかったと言われる所以である。確かに善人は型にはまった善人として、悪人は型にはまった悪人としてしか描かれないので、ラドクリフの小説に深い人間理解を求めても無駄であろう。
 しかし、ゴシック小説や恐怖小説のほとんどは、平板な人間しか描くことができなかった。そこに小説の目的があったわけではなく、それらは怪異や謎をこそ描こうとしたのであるから。マチューリンやホッグが書いたような作品は例外的なのである。
 なぜサントベールはこのような人物に大切なエミリーを託そうとしたのであろうか。彼の見識が疑われなければならないのだが、そうしなければストーリーが展開しないからである。そして波瀾に満ちたストーリーのために、サントベールのような人物像でさえ犠牲にされるのである。
 ところでヴァランクールはシェロン夫人の城への出入りを赦される。夫人がクレールヴァル夫人の財産目当てに、エミリーを利用できることを悟ったからである。しばらく二人の恋人同士は、夢のような日々を過ごすことになる。二人の結婚さえ喫緊の課題となっていく。しかし……、

They loved and were beloved, and saw not that the very attachment which formed the delight of their present days might possibly occasion the sufferings of years.

 彼らの不幸はこのように予告されるのである。

 

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Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(4)

2016年02月13日 | ゴシック論

 第1部第10章まで進んだ。エミリーはラヴァレの城に帰って、しばらく悲嘆にくれることになるが、その間父親との約束もすっかり忘れているのであった。
 数週間経ってからそれを思い出したエミリーは、その文書を父の部屋のクローゼットの床下に発見し、強い好奇心から父との約束を破ってしまおうとさえ思うのである。このあたりのエミリーの心理の葛藤は非常にうまく描かれていると思う。
 エミリーはその文書に書かれている一節を見てしまうのだが、その内容については明かされない。それを見てもっと読みたいと思うのはひとの心理の常であり、あるいはそれこそ読者の好奇心を最もそそる部分なのである。
 しかし、ラドクリフはここでも引き延ばしの戦術を採る。父の命令に最終的には従順なエミリーは、その文書を暖炉の火に投じてしまうのである。その場面は次のように書かれている。

Her eyes watched them as they slowly consumed: she shuddered at the recollection of the sentence she had just seen, and at the certainty that the only opportunity of explaining it was then passing away for ever.

 その文書がそれ自身を説明する機会は永遠に失われてしまったのである。しかし、本当にそうだろうか? この文書の解明なくして『ユドルフォの謎』の解明はあり得ないはずであり、いずれこの文書の写しが見つかるかなにかして、謎は必ず解明されなければならない。
 そうでなければ、この謎の文書の登場はまったく意味をなさないものになってしまうからである。ラドクリフがまったく無駄にこの文書を登場させるわけがない。そして、そのことを読者もまた理解しているのであり、読者はその引き延ばしに同意するのである。ある大きな期待感をもって……。
 まだ謎の一端でさえ解明されるには早すぎるのである。まだ『ユドルフォの謎』の5分の1に辿り着いたにすぎないので、まだこれからも謎の積み重ねは続いていくことだろう。
 ところで、悲嘆にくれるエミリーの前に、突然のようにヴァランクールが出現する。どうやらヴァランクールはエミリーに会いたい一心で、ラヴァレの周辺を彷徨い、城の敷地の中にまで忍び込んで、エミリーと出会うことに期待していたらしい。
 ヴァランクールはエミリーの父親から絶大な信頼を得ている。だからヴァランクールはそれも赦される行為として、あえてそんなことをするのだが、彼はエミリーと遭遇するまでサントベールの死を知らないのである。
 それを知らされたヴァランクールは深く悲しみ、エミリーを慰めようとするが、ヴァランクールはすでにエミリーに夢中になっているのである。そして、二人の間に愛にまつわる会話が続くことになる。
 しかし、この"愛にまつわる会話"があまりにも分かりづらい。ヴァランクールもエミリーも途方もなく回りくどい表現でお互いの気持ちを表そうとするので、読んでいる方はたまらない。理解できないのである。
 そこにはエミリーの宗教への帰依による慎みと、ヴァランクールの紳士としての矜持があるのであり、当時のイギリスの道徳律がそこに投影されていることはよく分かる。だから当時の読者にとっては、さほど分かりにくいといったことはなかったのかもしれない。
 しかし、エミリーが叔母のシェロン夫人の方針で、夫人の領地であるトゥールーズに送られることを知ったヴァランクールは、直截的にエミリーに求愛することになる。
『ユドルフォの謎』はこうして、エミリーとヴァランクールの恋の物語を主軸として展開されていくことになるという予感を抱かせて、第1部第10章を終わるのである。

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Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(3)

2016年02月10日 | ゴシック論

 第1部第8章まで進んだ。まだ100頁だから、全体の6分の1にもならない。しかし、読むスピードは確実に上がってきている。基本的にメロドラマであり、それほど深い内容を持った作品でないことは分かるが、筋は辿りやすくて面白い。それと、複雑な構文の英語を、頭をひねりながら何とか解読できた時の快感がたまらない。
 謎の城の領地にサントベール一家が入った後の展開をまとめておこう。一家は城に宿を求めようとするが、村人にそこには誰も住んでおらず、隣接する小屋に執事と家政婦の夫婦が住んでいるだけだと聞かされる。
 サントベールの容態が一層悪化していく中で、彼らはようやくラヴォアザンという老人の家に招かれる。ラヴォアザンは立派な男で、サントベールと意気投合する。ちなみに、ヴォアザンVoisinはフランス語で"隣人"の意味で、彼はサントベールとエミリーの隣人としての資格を備えた人物なのである。
 またしても謎が発生する。夜な夜な聞こえてくる不思議な音楽、どこから聞こえてくるのかも分からない、ギターのようなリュートのような音楽、それをラヴォアザンはしょっちゅう聴いていて、エミリーもまたそれを聴くのである。どうやらそれは謎の城と関係しているらしい。
 ラヴォアザンから城の所有者はヴィルロア侯爵であり、彼が5週間前に亡くなったと聞かされたサントベールは、ショックを隠せない。サントベールは侯爵のことを知っていたらしい。そして亡くなった侯爵夫人のことも……。エミリーはなぜ父がそんなに驚き、しかもその訳を話そうとしないのか不思議に思う。ここにも謎が提示されている。
 サントベールの病状はどんどん悪くなり、彼は死ぬ前にエミリーに言っておかなければならないことがあり、ある夜不可思議な話を娘にすることになる。ラヴァレの城(サントベールの屋敷)に戻ったなら、自分の部屋のクロ-ゼットの床に隠されているひと綴りの文書を見つけ、それを読むことなく焼き捨ててくれというのである。彼はその理由についても語らないが、そのことをエミリーに固く約束させる。もう一つの謎の入り口である。
 ついに父サントベールは亡くなり、エミリーは異郷の地に一人取り残される。エミリーはラヴォアザン一家や近くのサンクレール修道院の修道女達に優しく保護されながら次第に悲しみを克服していく。
 彼女は墓に詣でて父に別れを告げ、叔母のシェロン夫人(サントベールの姉)が寄こした召使いに付き添われて、ラヴァレに帰る。彼女が父を亡くし、たった一人で故郷に帰った後も愁嘆場は続く。
 まったくお涙頂戴式の物語なのである。父の愛犬マンションがむなしく主人の姿を求めて、馬車の周りを探し回る場面など、泣けるではないか。そんな場面が満載のこの小説は、そのようにして物語の進行をどんどん遅らせていく。ラドクリフはこの"引き延ばし"の技法によって長編小説を可能なものにするのである。
 何度でも繰り返される愁嘆場こそ、ゴシック小説を長編化させる一つの要素である。我々はすでにマチューリンの『放浪者メルモス』に、決して終わらない物語構造を見てきたが、世界中のどこにでも瞬時に行けるメルモスと、彼がどこに行っても自分の身代わりとなる犠牲者を発見できないことに対する嗟嘆もまた、ラドクリフの描く愁嘆場のヴァリエーションなのだと言えるだろう。
 かくしてゴシック小説は短編や中編に納まりきることなく、長編化の傾向を持たざるを得ないのである。ラドクリフは主人公達を何度でも不幸に陥れ、不幸に陥った主人公達は何度でも愁嘆場を繰り返すのである。
 そんな中で多くの謎が提示されてくる。これまでに四つの謎が示されてきたが、その凝集度に注目しなければならない。ラドクリフの畳みかけるような謎の集積こそこの小説の本領であり、それはやはり見事という他はない。
 ところで、「文書を読むことなく焼き捨てろ」というサントベールの命令は、しかし実行されるのだろうか。その文書が読まれなければ謎の解明はあり得ないからである。しかし、その解明も先へ先へと引き延ばされていくことだろう。

 

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Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(2)

2016年02月04日 | ゴシック論

The Mysteries of Udolphoの第1部第6章まで進んだところで、これまでの物語を振り返っておこう。
 サントベール一家、といってもサントベールと娘のエミリー、召使いのMichael(フランス人のはずだから、ミシェルと読むのだろう)の三人は旅を続ける。
 この旅はビスケイ湾を望む、ガスコーニュ地方のサントベールの地所ラ・ヴァレから、地中海に面したラングドック地方のペルピニャンまで続けられてきたので、約250キロの行程を進んできたことになる。
 ピレネー山脈の絶景を眺めながらの馬車の旅である。ラドクリフの自然描写は執拗で、次のような描写がそれこそ何度も何度も繰り返される。
From Beaujeu the road had constantly ascended, conducting the travellers into the higher regions of the air, where immense glaciers exhibited their frozen horrors, and eternal snow whitened the summits of the mountains.
 ここはピレネーの壮大な氷河を眺める場面であるが、ラドクリフはピレネーの山麓の植物層についても詳しく書いているし、ピレネーの険しい懸崖の神々しさを讃え、あるいは地中海を見下ろす場面ではそのこの世のものとも思えぬ美しさを称揚してやまない。
 野島秀勝によれば、アルプス(ここではピレネー)の巨大な自然に「崇高」を見出したのがロマン主義文学であり、ゴシック小説はそれを受け継いでいるということだが、ラドクリフの小説はその代表格と言えるだろう。確かにsublimeやそれに準ずる言葉が頻出している。それはゴシック小説がエドマンド・バークの「崇高の美学」に影響されたというようなことを意味しない。それとは独自の場所で進行した美学の変遷であったのである。
 また野島秀勝はゴシック小説について次のように書いている。
「「崇高」ないし〈ピクチャレスク〉な自然描写を背景とすると言えば、ゴシック小説の大方の主人公たちは、そういう風景の中を「恐怖」に追われながらさまよい遁走し続ける。おそらく、ゴシック小説の流行は、「閉ざされた庭」の安心に退屈した人々が不安と恐怖の戦慄を求める好奇心に応えたばかりではあるまい。それは「閉ざされた庭」の崩壊が呼んだエグゾティシズム、観光旅行熱にも呼応するものであっただろう」
確かに紀行文学と言うよりも"観光案内"と言った方がいいのかも知れない。
だいたい、いかに転地療法のためとはいえ、病気の人間にこんな長旅をさせること自体がおかしいので、そのような不自然なプロットは"観光案内"のためにこそ必要とされたのに違いない。だから案の定、サントベールは絶景によって時に元気づけられることはあっても、結局は疲労のために倒れてしまうのである。
 このような観光案内的描写のなかに、体調不良に苦しむ父と彼の病気を気遣うエミリーの愁嘆場が織り込まれていく。サントベールとエミリーの嘆きは、夫人であり母である存在を失ったことに起因しているのであるが、美しいばかりではない旅の危険に曝された不安ともない交ぜになって、この二人はやたらと泣くのである。
 こんなことで旅を続けることができるのだろうか、という読者の同情を誘う場面である。サントベール父娘のような善良な人間がこんな苦労に曝されて気の毒だ、というような読者の哀れみに訴えているのである。だからThe Mysteries of Udolfoは基本的にメロドラマなのに他ならない。
 メロドラマといえば、若い男性とのロマンスが不可欠である。ラドクリフはそのことも決して忘れることはない。旅の途中で父娘の窮地を救うのは、ヴァランクールという青年であり、その後彼はピストルで撃たれて怪我をした状態で二人の前に現れ、しばらく一緒に旅をするのである。
 ヴァランクールはサントベールにとって、これまでに出会ったこともないほどの好青年であり、エミリーもまたヴァランクールに好意を抱き、彼が彼女に好意を持っていたことを知る。これからエミリーとヴァランクールの二人が、この物語の中心人物となっていくであろうこと、ふたりが邪悪な勢力によって悲惨な目に遭うことになるだろうことを、これらの設定は完全に予想させるのである。
 こんな風に先の展開が読めてしまうところが、メロドラマの基本的特徴なのであって、The Mysteries of Udolphoが、いわゆる婦女子に特に歓迎されたのは理由のないことではない。
 第6章でサントベール一家は、それ以上前に進めなくなり、一夜の宿を求めてある不吉な相貌を持った城の領地に入っていく。この城がユドルフォ城なのであろうか?
 続きをお楽しみに。

 

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Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(1)

2016年02月03日 | ゴシック論

 クリス・ボルディック選『ゴシック短編小説集』を読んで、女性のゴシック作家の重要性に気づかされたので、どうしてもアン・ラドクリフの作品が読みたくなった。
 ラドクリフの『イタリアの惨劇』は国書刊行会の「ゴシック叢書」の一冊として翻訳されているが、絶版で古書価が異常に高い。それを購入することを諦めた私は彼女の代表作『ユドルフォの謎』(昔は「ユドルフォの怪」と言った)の英語版を持っていることを思い出したのである。
 学生時代だから、今から40年以上も前、神田の洋書専門店で見つけて買ったのがAnn Radcliffe The Mysteries of Udolpho. London,J.M.Dent & Sons LTD.1968エブリマンズ・ライブラリー版、上下2巻であった。
 その頃からゴシック小説に興味があり、ラドクリフの代表作『ユドルフォの謎』が翻訳されていないことを残念に思った私は、英語で読んでやろうと意気込んでいたのである。
 しかし、学生時代はフランス文学専攻で、英語にはまったく自信がなく、The Mysteries of Udolphoも読み始めて数頁で挫折していたのだった。上下巻合わせて650頁もあるのに、10頁くらいまでしか読んだ痕跡がない。さっぱり分からなかったのである。
 今回原文を読むことに再挑戦したのは、未だにラドクリフの代表作であるだけでなく、ゴシック小説の代表作であるThe Mysteries of Udolphoが翻訳されていないことへの抗議の意味もある。大阪教育図書から『ユードルフォの謎―アン・ラドクリフ』という本が出ているが、サブタイトルに「梗概と研究」とあるように、内容の要約と論文で構成されたもので、「誰が小説の要約なんか読むもんか」と言いたくなる。
 確かにラドクリフの作品は通俗的なゴシック小説であったかも知れないが、ボルディックが言うゴシックにおける女性の重要性を考えた時に、ラドクリフの作品は一度は読んでおかなければならないものと思われるのである。
 ということで、40年ぶりの再挑戦となった。今はゴシック小説というものがどのようなものか分かっているので、読めないことはないだろうという気持もあった。そして読み始めると、意外に"読めるじゃないか"と思ったのである。
 英語の本はルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』しか読んだことがなかった私でも"なんとかなる"という手応えを掴むことができた。逐一頭の中で日本語に変換するのではなく、英語の文脈の中で理解できればそれでいい、という方針を立てたのである。
 辞書というものは諸言語が単語レベルで厳密に対応しているかのような幻想を与えるのだが、決してそんなことはない。単語すらも諸言語間で対応などしていないし、文法やイディオムだって諸言語間に厳密な対応などあり得ない。
 英語の流れに身を任せればいい、そうすれば逐一日本語に変換することなく、理解していけるだろう、ということで何とか50頁まで読み進むことができたのである。
 舞台はフランス南西部のガスコーニュ。そこに暮らすサントベール一家のお話である。サントベールは高潔な貴族で、すでに引退した生活を妻と娘エミリー(なんで娘の名前だけ英語風なのだろう)とともに送っている。
 妻を病気で亡くし自身も健康を損ねたサントベールは娘とともに、転地療法のため旅に出る。ピレネー山脈周辺の景観について、ラドクリフは実に丁寧に情熱的に描いている。そうした景観描写は多分、ラドクリフ独特のものなのであろう。
 それは一種の紀行文学でもあって、絶景のピレネー山脈など一生かかっても見ることの出来ない、イギリスの一般大衆にとって、ラドクリフの描写がどれほど魅惑的であったか想像がつく。
 ところで謎がひとつ。妻亡き後、サントベールが妻ではない女性の肖像画に見入り、それにキスまでするのをエミリーは盗み見る。そこにどんな秘密が隠されているのだろうか。これから多くの謎が提出されていくのである。

 この項の連載は、原語で読むのに時間がかかるため、時々しかできないことをお断りしておく。

Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho. London,J.M.Dent & Sons LTD.1968

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番外2

2016年02月02日 | 日記

番外の続きも書きました。以下をご覧ください。

游文舎ブログ

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番外書きました

2016年02月01日 | 日記

読書ノートの番外を游文舎のブログに書きましたので、ご覧ください。

文学と美術のライブラリー「游文舎」

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